ブラインドゴルファーの集中力
1996年の視覚障害者ゴルフ世界選手権大会には、日本のエース級と目され志賀功さんと黒羽根さん、壁谷さんたちが出場した。大会前に、志賀さんはガイドを務める晴美夫人と、練習ラウンドを行った。
志賀功選手とガイドの晴美夫人の、フェアーウェーでの会話だ。第3打目。
「右狙いよ」
「何ヤードぐらい、打ちゃあいいの?」
「130ヤードぐらい」
うなずいた志賀選手が打つ。
「はい、いいですよ」と夫人。
「思ったほうへ行った?」
「思ったほうへ行きました」
「ちょっとショートじゃないかな」と、志賀さんが、不安げに首をかしげる。
だが、ボールはグリーンの上に。 2人で、歩測しながらピンまでの距離と、グリーンの傾斜を確かめる。
晴美夫人が、パターのフェースをボールに合わせる。その日の志賀選手の調子によって、フェースの角度を微妙に調節するのだ。
打球が右に行きやすい日は、ピンよりやや左にねらいをつけるのだ。このあたりは、まさに阿吽の呼吸。
コツンと、乾いた音とともに、ボールがグリーンを走り出す。
「オー!強い」
だが、ボールは見事にカップイン。
「入った?」
「入りました」ナイスパーである。
晴美夫人がいう。
「ブラインドゴルフでなかったら、私、ゴルフ場に来れなかったと思うんです。ブラインドゴルフがあったからゴルフ場に出入りできるようになったんです」黒羽根唯さんは、ブラインドゴルフの草分け的存在。志賀さんにブラインドゴルフ大会への出場を勧めたのも黒羽根さんである。
当初は黒羽根さんが一日の長を見せつけていたが、やがて志賀さんが追いついてきた。黒羽根さんがいう。
「今は追い抜かされましたけれども、追い抜かされた以上、また追い抜かさなければと思って。それには自分のゴルフを変えなくちゃいけない。変えていくのはすごく楽しいし、燃えるものがありますからね」
彼らのようなトッププレーヤーたちは、自身のプレーのみならず、ブラインドゴルフ発展のため、ブラインドゴルファーを受け入れてくれるゴルフ場の開拓のために、走り回っている。
海外のゴルフ場では、ブラインドゴルファーも健常者も、一切差別しない。だが、まだまだ、日本の多くのゴルフ場は、ブラインドゴルファーの受け入れには消極的だ。確かに、健常者のように、駆け足で走り回ることはできない。しかし、駆け足をしなければならないゴルファーは、下手な人が多い。ボールがあちこちに散らばるから、走らなければならなくなるのだ。
ブラインドゴルファーは、確かに個々のプレーは遅い。ガイドが、ボールとフェースをあわせながら、周囲の状況を口で、伝えなくならないのだから、時間はかかる。しかし、ショットは、相当に正確であり、結果として、決してスロープレーにはならないのである。
青井プロにいわせれば、「ガイドが、正確にクラブとボールを合わせてくれ、プレーヤーが、集中力を保ち、スイングの基本を守りさえすれば、ボールはいやおうなく狙ったところに行くんです」
人間の集中力に関して面白いエピソードがある。ゴルフの帝王という称号を持つジャック・ニクラウスが、あるトーナメントで大事なパットをむかえ、アドレスに入ったとき、間の悪いことに、コースの脇を、列車が、轟々と音を立てながら差しかかった。
普通のゴルファーなら、いや、優れたプロでも、こんなときには、ひとまず、構えをはずして列車の行き過ぎるのを待つ。
ところが、ニクラウスは、構えをはずすことなく、いつものリズムでパットを入れ、何事もなかったように、ギャラリーの歓声に答えたという。
後日談として、そのとき、ニクラウスは、列車に気が付いていなかったという話が伝わったが、集中力の凄さを証明するエピソードではある。
シチュエーションは違うが、昨年のマスターズ・トーナメントでは、タイガー・ウッズがひとつのエピソードを作った。グリーンを狙って、バックスイングからダウンスイングに入った瞬間、静まり返ったコースに異様な音が響いた。
その瞬間、タイガーは、振り下ろしたクラブをとめてしまったのである。既にダウンスイングに入り、まさにボールをヒットしようとする瞬間、クラブを止めるというのは至難のことである。
我々、アマチュアだったら、万が一、スイングを止めることができたにしても、恐らく、手首を傷めてしまうだろう。これも、ニクラウスと違った意味での集中力の凄さといえるだろう。
だが、これらは健常者の話である。
ブラインドゴルファーの集中力というのは、健常者のそれをはるかに上回るのではないだろうか。
ともあれ、ブラインドゴルフの世界では、日本は選手も組織も、他国をリードするレベルにある。後は、一般の人とゴルフ場の理解を望みたいものだ。
いいスコアも悪いスコアも二人三脚で
志賀功さんは糖尿の持病を持っている。発病以来、志賀家には砂糖がない。また、晴美さんは、志賀さんとともに食事をしない。食事の世話に専念しようと決めたのである。
食卓に座った志賀さんに、晴美さんが、テーブルの上の、料理を説明する。
「3時、焼き魚、12時、おひたし、9時、お肉、こっちはサラダ。6時は、到来ものよ」
志賀さんはうなずき、箸を取る。
晴美さんが志賀さんの箸の運びをじっと見つめる。食事えた志賀さん、「うん、おいしかった、ごちそうさん」
「デザートは?」
「貰おうか」
食事が終わってしばらくすると、2人は、紐の付いたゴルフボールとクラブを持って、家に近い、会社のゲートに向かう。
ここは志賀さんにとって、絶好の練習場である。ゲートの鉄柵には、縦に何本もの隙間が入っているが、その隙間を狙って、志賀さんは、ショットを繰り返す。打った瞬間に彼は、「うん、今のは正面の隙間を抜けた」といい、満足げに、うなずく。
私は、横峯さくらプロの練習光景をテレビで見たことがある。ティーから2、30ヤード先に、一本の孟宗竹が立てられている。コーチ役のお父さんが、声をかける。
「よし、10回のうちに、あの竹を真っ二つに割ってみろ」
「はい!」
目標は直径10センチあるかどうかの竹である。それに当てなければならない。いや、当てるだけでは駄目なのだ。ボールが竹の中心に当たらなければ、竹は割れないのだ。
さくらプロの球が、竹に当たる。激しい音を立てるが、竹はしなるだけである。 3度、4度、竹にかすったり、当たったりするが竹は割れない。
「しょせん無理な話ではないのか、あんな竹の中心に当てるのは」と、誰もが思った10発目、ガシャンという破壊的な音を立てて、竹は真っ二つに割れたのである。志賀さんの練習は、それに近いのか、それを越えるのか…..。
志賀さんが失明した後、晴美さんは、ビデオの撮影を始めた。
志賀さんの目が治ったら、見せてあげたいという思いである。
現状の医学では網膜色素変性症は、不治とされているが、医薬の進歩は不可能を可能にするかもしれないと、晴美さんはひそかに期待をかけている。
「最初は、子供が小さいときの姿を取っておいて、お父さんが治ったら、見せてあげようと思ったのね。それからお父さんを撮り始めたのね。」
ゴルフに熱中するようになってからの志賀さんは顔が変わったという。
いい笑顔になったのだ。
2人の練習は大会まで、休むことなく続けられた。自宅練習にコースでの練習。時には、まったく調子がでないこともある。この日の練習は、絶不調の波にぶつかった。
「あれー、どこにいったのかなあ」
「ちゃんと見ててくれ」
「見てても、わからないんだもの」と、少し棘を含んだ言葉を投げあう。
「いうこと聞かないんだもの。まったく」
2人の息がまったく合わない。滅多に見られない現象である。
「全然、(パッティング)ラインに乗ってない。これじゃキャディーがやる気なくしちゃう」
志賀さんは、そんな言葉は聞こえないという顔。
「ちょっと待って。どっち向いているか全然わからなくなってきているぞ」
パットが、大きくはずれる。
「ハイ、(私を)全然信用してないから入りません」
晴美さん、いささか、お冠の様子。
フェアーウェーを歩きながら、晴美さんから、注文が付く。
「あくまでも歩調を合わせてしないと」
「キャディーさんが切れた、いうから、もうあかんわ」
「だって、一緒に歩いてこないで、先行っちゃったりしたら、駄目でしょう」
「いやいや、付いて来いとか、そういうから駄目なんだよ。「私になぜ付いてこない」なんていうんだもの。それじゃいかん。そういうことが起こると、ブラインドは、ゴルフになんなくなっちゃうの」
なにやら心が合わなくなっているようだが、かつて、志賀さんは「もっとゴルフを知っているガイドを付けたら」という誘いを断った。夫婦ふたりで、世界大会に出たいと、心に固く決めているのだ。
「二人三脚で、いいスコアも悪いスコアも、すべて含めて、その上で前に進んで生きたいと思うんですよ」
その夜、晴美さんは、日が沈んだコースを1人丹念に歩いていた。明日が、世界大会なのである。
ゴルフは、私たち家族の絆
第4回視覚障害者ゴルフ世界選手権大会当日。
志賀さんは、カナダのブラインドゴルファー、オットー・フーバーさんと同じ組で回る。2人は、国際大会で知り合い、手紙のやり取りを続けて、交流を深めてきた。
「ハワーユー。ナイス・ツー・シー・ユー・アゲイン」
「よくいらっしゃいました。(夫人の)メアリーさんがいらっしゃれなくて残念です」
フーバーさんは元警官で、ハンティングのとき、事故で失明した。一見、目は正常に見えるが、義眼である。ガイドを務めるのは、警官時代の同僚である。
志賀さんは快調なゴルフを展開した。下見の効果が出たのだろう。一方、フーバーさんはきつい斜面に打ち込み、悪戦苦闘。ブラインドゴルファーにとって、斜面でのショットは、極めて難しいもののひとつだ。
志賀さんのライバルの、黒羽根さんも、前半は絶好調だったが、後半になってゴルフが乱れだす。
いつもは、ぴったり息の合う米子夫人とのコンビだが、どこかおかしい。
「直接行くか、こっちへ出すか……」と、黒羽根さんを見る米子夫人に、黒羽根さんはイラついたようにいう。
「行くに決まってんじゃないか。何考えてんだ、いったい」
初日、志賀さんは109のスコアでB1部門4位に付けたが、オットーさんと黒羽根さんは大きくスコアを崩した。
翌日の最終日、志賀さんのゴルフが乱れ始めた。
ティーショットが、右に左に大きく曲がりだしたのだ。ついに、2球続けての OB。
「OBはこたえるんだよなぁ」と、ガックリ。結局スコアは118。
「本大会で練習したらあかんけど、練習させていただきました」
「でも、無事回れてよかった」と晴美夫人。
大会終了後の表彰式が行われた。B1、B2、B3の3部門あわせての総合成績の選手の名が呼ばれる。総合優勝、準優勝ともに、志賀さんと同じB1クラスの海外からの出場者だった。
この大会で視力レベルの最も低いB1から総合優勝と準優勝が出たのははじめてのことだ。ついで各組の表彰式。
「優勝は、アメリカのボブ・アンドリューズさん、準優勝は、日本の志賀功さん」
志賀さんが、唖然とした表情を浮かべた。B1から総合優勝の1、2位が出たため、志賀さんの順位が繰り上がったのである。
「嘘かと思いましたよ。18ホール回れてよかったと思っていたのに、トロフィまでもらえて。ゴルフは、私たち家族の絆です。これからも、ずっと続けていきたいと思います」
脇から晴美夫人が言葉を添えた。
「足の続く限り、私も一緒に、付いていきたいと思います」
第4章 春爛漫 世界の華が大集合
スーパー・スウェー打法
話を冒頭に戻そう。プロ・アマ・ブラインドゴルファー・チャリティトーナメントは、私の組を除いて、女子プロ1人、ブラインドゴルファー 1人、アマチュア2人のパーティーで行われた。ハーフ終了時点で、スコアボードを見ると、9 アンダー、8アンダーというビッグスコアが並んでいる。
伊豆大仁カントリークラブは、女子プロツアーがたびたび開催されたコースで、決してやさしいコースではない。
それなのに、このお化けみたいなスコアである。各ホールでの4人のうちのベストスコアを採用するのだから、オーバー・パーになることはまずないが、女子プロが大活躍したのだろうか。
確かに、彼女らは、距離をよく出すし、確実にグリーンを捉えるが、バーディラッシュというわけにはいかない。伊豆半島の真ん中にあるコースで、海から、
そして山からの風が吹き抜けるし、グリーンのアンジュレーションもややこしい。アマチュアとして参加した野球評論家の江本孟紀さんは、サリー・リトル選手と一緒のパーティーだったが、ラウンドの合間に、様子を聞いてみた。
「いやあ、すごいですねえ。ブラインドのボブ・アンドリューズが、頑張ってますよ。プロは、バーディパット、はずしてますね。
カップをなめる感じで、結局、パーで、下支えをするっていう感じですね」
ブラインドゴルファーには最大36、各ホールで、2つずつのハンディキャップが与えられるが、アンドリューズのハンディは30。ハンディ2つのところでパーを取ればイーグル、ハンディひとつのところでパーをとれば、バーディというわけだが、健常者でも、なかなかパーチャンスには恵まれないものだ。
「江本さんは、何してたの?」
「そりゃ、リトルと飛ばしっこですよ」
彼の身長は190センチ。その体から繰り出されるドライバーショットは、2段、いや3段ロケットのように、ぐんぐん伸びていく男子プロ並みのショットである。
一方のサリー・リトルは、美貌のロングヒッターとして人気を博したプロで、LPGAで12勝(ダイナ・ショア、デュ・モーリエ・クラシック、日本女子プロを含む)をマークしている。
こちらも、長身から、高い弾道のボールを放つ。ドライバーの落下点に行くと、だいたい2人のボールが並んでいるという。
「僕が、彼女をオーバー・ドライブすると、手を叩いてくれるけど、笑いが引きつってるように見えましたね、ハハハ」
元プロ野球選手と、女子プロの一騎打ちはさぞかし見ごたえがあっただろう。私は、キャシー・ウィットワース、樋口久子プロ、そして志賀選手と、ラウンドしたが、フェアーウェーは、レッスン場と化してしまっていた。
あるときから私は、スウェー打法を取り入れていた。
ビジネスやら雑務で、なかなかゴルフに打ち込むことができない私は、「ドライバーで勝負」と、スコアよりも飛ばすことに執念を燃やすようになったのである。
新しいモデルのクラブが出れば、直ちに手に入れ、試打をする。おそらく、現在、世に出ている「飛ぶドライバー」は、すべて試したのではなかろうか。
確かに、革命的に飛ぶドライバーがあるし、その一方、打球音は素晴らしいが、飛距離はいまひとつというクラブもあって、道具の世界もなかなか面白いものだが、道具をセレクトする以上に、フォームを改造するのが飛距離向上のコツではないかと私は考えるようになった。
私は、当初、ゴルフの技術書や、雑誌を片っ端から読んで、ある程度の基本を覚え、その後、名人上手といわれる人や、多くのプロにも習ったが、これは必ずしも「飛びのレッスン」にはならなかった。
技術書を書くのは、体を鍛え上げたプロだし、名人上手もそれなりの肉体的なパワーを持っている上で、プロの書い技術書で理論武装しているわけだから、日ごろ体を鍛えていない上に練習もままならない者が真似ようとしても、無理なのである。そこで私は、飛ばすための、独自の理論を作り上げようと思い立った。
「プロの飛距離」に驚く人は多いが「本当の彼らの飛距離はあんなもんではない」という。彼らは、狙った場所にボールをコントロールすることを前提にした上での、飛距離であって「どこにいくかボールに聞いてくれ」でいいのならもっと飛ばせるのである。
実際、彼らのフォームは、コンパクトで、無茶振りはしない。
数年前の、ハワイで行われたPGAの開幕戦で、タイガー・ウッズが486ヤードを飛ばしたことがあるが、それとても、慎重にフェアーウェーを狙った上でのことだ。
もし、飛ばすだけを考えるなら、技術書で教える以外のことをする必要がある。私は、体の回転力と、体重移動が、ボールを飛ばす要因であると分析した。体の回転力を最大にするにはどうすればよいのか。肩を回せるだけ回すことだ。
といって、人間の体の構造上、1回転、360度も肩を回せるわけもない。だが、150、160度ぐらいは回せるだろう。
そのとき、目はどうなるのか。当然ボールを見ていられないはずだ。
ボールから目を離せば、クラブは当たらないではないかという人もいるだろう。
だが、これは、常識でしかものを考えない人が下す結論である。ブラインドゴルファーを見ていただきたい。彼らは、ボールを見ることができなくても、打つことができるではないか。
それを知れば、球を見ていなければ、当たらないという理由なき呪縛から逃れることができるだろう。
次に体重移動(ウエートシフト)である。通常のゴルフ理論では、「バックスイングのとき、体重を右にシフトし、ダウンスイングのときに、左にシフトすれば、飛ぶ」ことになっている。ただし「シフトの範囲は右ひざと左ひざの間」が限度で、バックスイングで、右ひざの外まで、体重をシフトしてしまっては「いけない」ことになっている。
なぜ、いけないのか。体が、アドレスの位置に戻すことが難しく、したがってクラブがボールに当たらないからだという。だが、ここにも常識の落とし穴があるのではないか。
陸上の投てき競技を、思い浮かべていただきたい。槍投げには、長い助走路がある。そのとき、膝と膝との間しか、体重移動はしていないのか。
そんなわけはない。
前へ前へと、ウエートを動かすことによって、助走のスピードが上がっていく。
そして、踏み切りの直前、上半身は、大きく後方に反る。次の瞬間、踏み出した足をブレーキにして、反らせた体の反動で、槍を空中に投げ出す。この一連の動きの中で体重は大きく前後に移動しているのだ。
ハンマー投げは、そして円盤投げはどうか。これらの競技は、体を数回ターン(回転させ)その回転力を最大限に利用することが必要だ。
もし、ゴルフで飛距離を伸ばしたければ、槍投げは、ボールをとばすわけではないからひとまず除外するとして、ハンマー投げ、円盤投げの理論を応用しない手はないではないか。
仮に、オリンピックハンマー投げ金メダリストの室伏選手を真似るなら、ドライバーを頭上に掲げ、体を6回転させて、ボールを打てばよいわけだ。もっとも、これはかなり難しいであろうというのが、私のイメージ上の結論である。
ゴルフが、クラブを飛ばす競技であるなら、室伏方式がベストかもしれないが、ゴルフはボールを打つ競技だからである。では、最大限の回転と、体重移動を可能にするには、どうすればいいのか。私の脳裏に浮かんだのは、樋口久子プロの、スウェー打法であった。いや、その上をいく打法であった。
大仁カントリーのイン、11番ホールのティー。私が、ティーショットを放つと、ギリシャの哲学者を彷彿させるキャシーの表情が崩れた。
「ミスター・半田は、チャコにレッスンを受けたのか」
「少し。今日、本格的に受けようと思っている」
「いや、もう十分だ。貴方のスイングは、チャコを越えるスーパー・スウェー打「法だ」
樋口久子プロが、腹を抱えて笑い出した。
「半田さんのスイングは、まるで私のコピーを見ているようで、本当におかしかったわ」
樋口プロが、そのスウェー打法を引っさげて、アメリカに上陸し全米女子プロのタイトルを獲得したとき、選手たちは、唖然とし、現地のゴルフジャーナリズムは、騒然としたという。彼らの頭の中には、「スウェー打法」などは存在しなかったのだ。
思い切り体重を移動させるために、体の軸までも移動させてしまう樋口流スウェー打法は、外人選手に比べてはるかに劣る腕力や、ウエート不足を補うために編み出されたものだからである。
それでも、吉川なよ子プロにいわせると、「樋口プロは両足がしっかり大地をつかまえていて、足の筋肉が強いから、それでも軸がぶれず、しっかりとしたいい球が打てる。だから、理にかなったいいフォームなのよ」ということであった。
そのスウェー打法がいかなるものかは、昔の複写機メーカーのテレビCMを思い出していただければよい。
樋口プロが、スイングを開始すると、彼女の上半身がテレビ画面から消えてしまうのである。
アララと思っているとダウンスイングとともに、上半身が画面に戻ってきて、また反対側の画面に消えてゆくのである。では、私のスーパー・スウェー打法はどういうものか。
テレビCMふうに表現するならば、バックスイングで画面から消えた上半身が、ダウンスイングとともに、画面に戻り、次の瞬間、ボールの飛行線方向に再び消えて行ってしまうのである。
私の体は、女子プロ選手よりも柔らかく、ジョン・デーリーのようにどこまでもねじれ、能や京劇やクラシックバレエで踊ってきた、「踊り子ふう中年戎様体型」のゴルファーなのだ。
この太めのクニャクニャの体と柔らかすぎる筋肉で、どれほど悩んだかしれない。踊りにはいいが、スポーツには向かないと思っていた。
しかし、ある時、何の準備もなく800人でやった砲丸投げで、3位になり、円盤投げで2位になり、われながら驚いたのである。
それで、私の特殊な体は、瞬発力と回転力とタイミング取りのスポーツに合うことがわかった。すなわち、そういう体質を生かした「ゴルフをやればいい」ことがわかったのである。
18年間、どんなコーチについても、そのことがわかってもらえず、今まで本当に苦しんだ。おおげさなようだが、しかし、その時いつも心の支えになったのブラインドゴルファーのことだった。
「ブラインドゴルファーほど、不自由な体ではない。練習が足りないだけだ。自分に合ったスタイルが確立されていないだけだ」と、謙虚にあきらめずに努力できたのも、みんなブラインドゴルファーたちのおかげである。
生まれてこのかた、子どもの頃からの忍者走りの訓練や、割り箸でハエを打ち落とす訓練、田んぼでのコウモリを取る訓練以外にスポーツをしたことがない私にとって、ゴルフは不得意科目中の不得意科目だと、思い込んでいその自分の目の鱗を、ブラインドゴルファーがヤスリで削ってくれたようなものだ。
話は横道にそれたが、それで、その飛距離はいかなるものか、読者の皆さんの気になるところであろう。
伊豆大仁カントリークラブの16番、第3打地点まではだらだらの打ち下ろしのロングホール。私のドライバーショットは、左のバンカー方向からフェアーウェー中央へ。樋口プロがあきれた表情でいった。
「飛んでますよ。残り200ヤードほどかしら」
いかに打ち下ろしに加え、フォローの風とはいえ、330ヤードは、アマチュアの尋常のショットとはいえないだろう。スーパー・スウェー打法恐るべし。
しかし、現在ではスーパー・スウェー打法は控えめにしている。一緒に回るプロやコーチにボロクソに言われ、ガタガタのボロボロにされてしまうからである。
今は270ヤード以上は飛ばさず、コンスタントにスコアをまとめ、平均70台のスコアで回るように研究している。
ブラインドゴルファーの活躍
ところで、18ホールを終了した私は、スコアボードを見やった。
大接戦である。アウトの1組を出て行ったジェーン・ブラロック、デビッド・ブライス選手、ハワード・ランギ、パテイ・ドイチさん組が通算14アンダーで、上がってきている。
アウト2組のパット・ブラドリー、デニス・マコーロック選手、村山正和、杉尾雅利さん組は、17番で痛恨のボギーを叩き、13アンダーに終わった。
イン2組のサリー・リトル、ボブ・アンドリューズ選手、江本孟紀さん組は、アウト6番ホールでイーグル、7番、8番、9番と怒濤のバーディラッシュでフィニッシュ。14アンダーで、ジェーン・ブラロック組と並んだが、ハンディ差で、トップには立てない。
ジェーン・ブラロック組の優勝が濃厚かと思われたとき、スコアボードの数字が刻々と変化していった。
アウト最終組のアリシア・ディボス、川村光男選手、中里健一、加藤知子さん組が、16番バーディ、17番バーディでついにトップにならんだ。
ホールアウトした選手たち、ギャラリーが固唾を飲んで見守る中をディボス組が、最終ホールのグリーンに上がってきた。
最後のパットが、コロンと音を立ててカップイン。
スコアボードの数字が15アンダーに変わった。沸きあがる歓声の中、グリーン上ではハイタッチとガッツポーズが繰り返された。
最終結果は、1位・アリシア・ディボス組、2位・ジェーン・ブラロック組、 3位・サリー・リトル組。
しかして、キャシー・ウィットワース、樋口久子プロ、志賀功選手、私の組の戦績はというと、1アンダーの堂々たるブービー。あえて理由を記せば、プロが 2人、入っていたためにチームとすればロー・ハンディになってしまったことと、ティーでは寄席の雰囲気、フェアーウェーやラフがレッスン場と化してしまったのが原因である。
私は、グリップを思い切り、樋口プロに直された。私の左手の親指は、クラブのシャフトの真上でなく、やや右側に添えられている。
いわゆるストロング・グリップである。物の本によると、アマチュアは「フック・グリップのほうが打ちやすい」と書いてあって、私はその教えを忠実に守っていたのだ。
樋口プロのグリップを見せてもらうと、親指は、グリップの真上、いわゆるスクエア・グリップである。
そのグリップをまねてスイングしてみるが、いまひとつ、しっくりといかない。
「それは、スタンスが、右を向いているからですよ」
樋口プロのアドレスを後ろから見ると、恐ろしく左を向いているように見えるが、その位置が、スクエアなスタンスだという。
アマチュアは、フック・グリップで、右を向いて打つから、球筋が安定しないのだ。
私は、テレビの実況中継を思い浮かべた。選手の後ろから撮った映像では、ボールはものすごい勢いで、右方向に飛び出していくように見える。だが、それが目標にまっすぐ飛んで行く球筋なのだ。目から鱗とはこのことである。
樋口久子プロは、志賀選手のレッスンに付きっ切りであった。志賀選手は、フィニッシュのときに、頭が上がるのが、早い。その分、ウエートが、前に乗り切らない。
顔が上がるのは、健常な頃の癖が抜けないためなのかもしれない。視力があれば、どうしても、打球を追っていってしまう。視力を失っても、意識のどこかにボールを見るという意識が、あるのかもしれない。
ミスショットで、球が崖下へ。すかさず、樋口プロが崖を降りて、志賀選手の後ろへ立ち、アドバイスをする。厳しい中にも、懇切丁寧なレッスンが、毎ホール続いたのである。
ホールアウトした志賀選手は、「これで、ゴルフを続けていく張り合いが出てきましたよ」と、満面に喜色をたたえた。
その夜の表彰式は大いに盛り上がった。
会場に設けられた壇上には、表彰選手が次々に呼び上げられた。ひときわ激しい拍手の中で、ブラインドゴルファーが挨拶をする。
その姿を見やる女子プロたちの目が一様に赤くなっている。ビールやワインだけのせいではない。
彼女たちは、一緒にラウンドしたブラインドゴルファーのプレーぶりを思い浮かべているのである。
「こんなに感動的で、楽しいゴルフをしたのは初めてです。ゴルフをやっててよかったぁ」
「見てて涙が出ちゃった」
「バンカーで、ソールを(地面に着けてもよいというところだけが、私たちと違うルールだけど、あとは全部同じなのには、驚いたわ」
「ガイドさんも、すごいわよね。今度、トーナメントに出るとき、付いてもらおうかしら。優勝できるかも」
パティ・シーハンはいった。
「今日は2人の天使に会いました。だから、明日死んでも悔いはない」
2人とは、最年長出場者のヘレン・ウィーバー選手と孫娘でガイドを務めたアニヤさんのことである。
「このトーナメント、毎年あるんでしょう。プロ・アマ戦の前の日、ブラインドの人に集中レッスンしたいわね」
「稲葉ちゃん(JBGA契約プロ)に頼んで、私も契約プロにしてもらいたいなあ」
翌日の本戦を控えながらも、女子プロたちは、遅くまで話し込んでいた。
?阿玉プロが優勝!
一夜明けて、4月9日。2005年ワールドシニアゴルフレディースオープン選手権が開始された。 2日間36ホールで争われるこの大会は、既述の通り、 W SGTの公式戦である。賞金総額は、30万ドル。
初日、4アンダー68で飛び出したのは$6D82阿玉プロ、ついで小田美岐プロ、蔡麗香プロが2アンダーで続いた。
最終日、気温21・3度、花曇り、南西の風風速5・7メートルと、まずは絶好のコンディションの中、24人の選手が次々とスタートを切っていく。
追い上げを見せたのは、森口祐子プロで、2アンダー70をマーク、通算1 アンダーでフィニッシュ。シンディ・ラリックが、4アンダー・68をマークして、森口プロを抜いた。
だが、?阿玉プロの勢いが止まらない。次々とバーディパットを決めて、スコアを伸ばしホールアウト。
なんと6アンダー・66をマークし通算10アンダー、 2位に8ストロークの差をつけてのぶっちぎりの優勝を果たし、優勝賞金2万5 000ドルと数々の副賞を獲得した。
2位(賞金1万8500ドル)には、シンディ・ラリック、3位タイ(賞金1 万4000ドル)に森口祐子、パティ・シーハン、アリシア・ディボスが入った。最長老64歳のキャシー・ウィットワースは初日87を叩き、いささか落胆の体であった。私は、その夜、食事をしながら、励ました。2日目、彼女は79と、前日より8ストロークもスコアを縮めて見せた。
この大会で、いささか変則的な点にお気付きになられたであろうか。通常、プロのトーナメントでの、賞金の配分は、1位に総額の18%ほどが支払われる。
したがって、本来なら$6D82阿玉選手の賞金は、5万4000ドルほどとなる。しかし、主催者側としては「下にも厚く」が、シニアゴルフ・トーナメントの趣旨に合うものと考えたのである。
WSGAの選手たちは、海を越えてきてくれた。台湾女子プロゴルフ協会会長を務める蔡麗香も同様である。彼女は、こういった。
「日本に来たのは、十数年ぶりかしら。こんな機会がなければ、私たちは日本に来れないもの。その上、賞金もいただけるなんて、もう最高」
彼女を始め、優れた選手を輩出している台湾だが、シニアの選手になると、収人の道が途絶えてしまうのが、現状だという。
表彰式が終わり、選手たちは、三々五々、解散していった。
ある選手は、本国への帰路を急ぐ。ある選手は、「まだ見たい、もっと食べたい」と、観光旅行に出かけるという。
しかし、全員、飛行場への帰路で、私が川の土手に用意した花見の宴に集い、ブラロックふうカツラをブラインドゴルファも女子シニア選手もつけ、大笑いの連続でビールと枝豆で乾杯につぐ乾杯となった。外国人選手は、意外に「エダマメ、エダマメ」といって、枝豆のファンが多いのにも驚いた。
ところで、この大会の後片付けを見届けた私は、グラスを片手にクラブハウスの外に出た。この1週間のことが、次々と頭の中に浮かび上がってくる。 4月5日。今大会に関しての記者会見が行われた。
梶原しげるアナウンサーによって、主催者団体のひとつである世界盲人ゴルフ協会・デビット・ブライス会長が、紹介された。
ブライス会長は、同じく主催者であるNPO法人日本ブラインドゴルフ振興協会、米国女子シニアゴルフ協会、特別協賛の日本女子プロゴルフ協会に謝意を表し、世界盲人ゴルフ協会の会員の大多数が、シニアあるいはベテランであることから、女子シニアプロとの出会いが、素晴らしいマッチングであることを述べられた。
ついで、日本ブラインドゴルフ振興協会の名誉会長として、私が挨拶に立った。私は、ホームコースである神戸ゴルフ倶楽部についてのエピソードを語った。
神戸ゴルフ倶楽部は、今から103年前に、子どもが言語障害を持っていたアーサヘルケスグルームというイギリス人が、「社会に貢献できることはないだろうか」と作った、日本最古のゴルフクラブである。
いってみれば、日本のセントアンドリュースであり、長い歴史と格式のあるクラブだが、いわゆる名門コースにありがちな排他的なところは一切ない。
神戸市民は、ゴルフをするためではなく、名物のカレーライスを食べにクラブハウスを訪れるし、地元の人と、会員のコンペもやる。コミュニティーとの接点を大事にしているのである。
そして、日本ブラインドゴルフ振興協会にも、さまざまな便宜を図ってくれるのである。神戸ゴルフ倶楽部は、創立100周年を迎えたとき、今後100年間の大計を立てたが、それは、ゴルフ、ゴルフ場、そしてクラブ組織が社会貢献の一翼を担っていくという計画である……。
また、私はアメリカと日本の社会への貢献の仕方についても言及した。アメリカでは、たとえば、ブラインドゴルフのトーナメントを開催するにしても、公益法人が主催し、各企業がスポンサードして、賛助金を提供する。
これには、スポンサーに対する税制上の優遇措置があってのことでもあるが、日本の場合、企業が絡む場合はすべて冠大会となってしまう。
企業にしてみれば、自社のイメージアップこそが、スポンサーをする主とし目的なのである。
この大会は、公益法人が主催者であり、多くのスポンサーが、大会の意義を理解してくれた上で、賛助金を提供してくれた。そういう意味でも画期的な大会であること。
さらに女子シニアプロゴルフ界の現状にも、触れた。45歳にしてシニアとなるが、プレーヤーとしても女性としても、まだピカピカの世代である。
日米、さらに世界各国のシニア女子プロが団結して、実りある未来を作り上げる、その第一歩としても、極めて意義のあることであると述べた。
米国女子シニアゴルフ協会のジェーン・ブラロック会長も、挨拶に立った。今回、台湾、イギリス、南アフリカ、ペルー、オーストラリア、そして日本とアメリカの7カ国の選手が出場する素晴らしい大会であること、樋口久子日本女子プロゴルフ協会会長を始めとする日本の友人と会えたこと、日本ブラインドゴルフ振興協会、世界盲人ゴルフ協会とのパートナーシップの上で、ワールドシニアゴルフレディースオープン選手権を行えること、とりわけ女子シニアゴルファーの才能を開花させるアイデアを現実化してくれた1人の方の献身的な努力に感謝すると述べ、ウォーターフォードクリスタルのイーグル像を、私に贈呈してくれた。鷲は、アメリカの象徴であり、英知と高い精神性を表すものだという。樋口久子日本女子プロゴルフ協会会長からも、挨拶をいただいた。
WSGA公式シニア競技のワールドシニアレディースオープン選手権が、主催者の方々の努力で開かれることは、日本女子プロゴルフ協会にとっても大変な名誉であると謝意を述べ、ついで、樋口プロが、1970年代に米国に遠征した折、今大会に出場する選手たちに大変世話になったことを感謝した。
また、会場の伊豆大仁カントリーでは、1977年から1990年まで、いすゞレディース・オープンが開催されており、そのとき、ジェーン・プラロックが優勝した思い出深いコースであることを紹介した。
司会者が、ここで世界殿堂入りしているLPGAの3人の選手を紹介した。キャシー・ウィットワースは、まさかシニアで日本に戻ってくるとは思わなかったと、報道陣を笑わせ、彼女自身も、何回かブラインドゴルファーと、プレーをしたことがあり、今回の大会が、シニアプロのみならず、ブラインドゴルファーにとって非常に意義があると述べた。
そして最後に、樋口プロとは、世界中を連戦したことがあり、再会がとてもうれしいと締めくくった。
パット・ブラドリーは、久しぶりの来日を大いに喜んだ。レギュラー・ツアーの頃、たびたび来日し、すっかり日本ファンになってしまったという。
女子シニアツアーに関しては、ブラロックと私がタッグを組めば、間違いなくウィナーになれると、最大限の評価をしてくれた。
そしてここから、ブラドリーのユニークで楽しいところである。司会が、3番目のプロを紹介しようとしたところ、「あと一言だけいわせてください」と遮り、声色を変えて「アイルランド人に一度マイクを渡したら離さないよ」と、すごんで見せ、取材陣の爆笑を誘い、樋口プロのエピソードを語ってくれた。私が、スウェー打法のところで述べたテレビCMについてである。
ツアーで来日したときにこのコマーシャルを見て、びっくり、「画面から消えた樋口プロに思わず「チャコどこへ行ったの、戻ってきて!」と、画面に向かって叫ぶと、ちゃんと戻ってきた。彼女は今も伝説であり続ける方で、世界殿堂入もされました。そのチャコとまたプレーできることをうれしく思います」と、結んだ。
最後に登場したのは、パティ・シーハン。彼女もいきなり笑いを誘ってくれた。「私も、アイルランド人ですけど……。前のお方には及びもつかないですね」
来日は8年ぶりとのことだが、それまで、20回以上、ひょっとして25回くらい、来日しているという。
「私はアメリカで、樋口プロとプレーできたことを非常に誇りに思っています。
また、1981年、日本で行われたLPGAツアーで勝ちましたが、これは私の記念すべきプロ初勝利でした。このときの喜びをいまだにはっきりと記憶しております。
もっとも、あの時と今では、髪の色もだいぶ違ってしまいましたが」パティ・シーハンは記者会見に臨む前に、東京を観光してきたという。
「今回初めて、普通の人間として、皇居やさまざまな庭園を見て歩きました。 8 年前までは、試合に来ていたわけで、いわゆる観光とは無縁だったのです。
美しい桜も見ました。このことを帰ったら、子どもに話してあげたいと思います。最後に、こういった機会を作っていただいた半田日本ブラインドゴルフ振興協会名誉会長、プラロック女子シニアゴルフ協会会長、そして樋口日本女子プロゴルフ協会会長に感謝申し上げます。それから、US女子オープンのときよりもたくさんきてくださった、マスコミ関係の方々にもお礼を申し上げます」
ひときわ、高い拍手が報道陣から湧き上がった。
その後、試合に出場する海外選手の紹介が行われた。アリシア・ディボス、アリス・リッツマン、エレイン・クロスビー、キャシー・パントン・ルイス、コリーン・ウォーカー、蔡麗香、サリー・リトル、シンディ・ラリック、デビー・マッシー、ビッキー・ファーゴン、ロリー・ウェスト、そして、到着の遅れたジャン・スティーブンソンの名も読み上げられた。
まだ、私がゴルフにさほど関心のなかった若い頃、これらの選手の何人かの名に聞き覚えがある。考えてみれば、数人を除けば彼女らとほぼ同じ世代なのである。言葉は不適切かもしれないが、彼女たちが「昔の名前」で、フェアーウェーで華麗なスイングをみせてくれるのだ。そう思うと、胸に熱いものがよぎった。
寄せられた心あたたまるメッセージ
4月7日の夜、大仁の伊豆洋らんパークのバンケットルームには、翌日のプロ・アマ・ブラインドゴルファー・チャリティートーナメントに出場する全選手、全関係者が集い、盛大な前夜祭が行われた。
梶原しげるアナウンサーの軽妙な司会のもと、私たち主催者、協賛の樋口日本女子プロゴルフ協会らの挨拶に続き、ブラインドゴルファーも挨拶に立ったが、中でも、最年少出場のスージー・ウェストウッドさん(15歳)の、日本語交じりの挨拶に注目が集まった。
彼女は、視覚障害のみならず腎臓の移植手術を受けるなどしているが、健気にも、来日し、トーナメントの晴れ舞台に立つのである。ゴルフをすることで、新たなるエネルギーを得て、できうる限りの明るい未来を築いていくことを、参会者全員が願わずにいられなかった。
なお、今回のトーナメント開催に当たって、海外の私の友人たちから、祝賀のメッセージをいただいた。
オーストラリアのプロゴルフ界の重鎮、テリー・ゲールからのメッセージは、次のようなものであった。
「半田晴久氏は、多年にわたり、ブラインドゴルフトーナメントのスポンサーとして、世界中でトーナメント参加者同士の親睦を図ってこられました。
今回の伊豆大仁カントリークラブにおけるトーナメントは、視覚障害をもったゴルファーが世界のベスト女子シニアプロに挑み、自分たちの技能を試すといった点で異例のことといえるでしょう。このユニークな大会において、参加者がお互いの力をたたえあい、敬意を表すことは明らかです。
ブラインドゴルフトーナメントの参加者全員が、どれほど喜びを感じながら大会に参加されているか、私は過去の経験から知っております。今大会がより一層特別なものになることを確信しております。
私の良き友人である半田氏、そして今大会の実現にご尽力くださった関係者の皆様、このたびはおめでとうございます。
また、大会参加者の皆様には心から幸運をお祈り申し上げます。それでは、素晴らしいもてなしで知られる日本での1 週間を、どうぞ満喫ください」
私は、もうかれこれ20年にもなるテリーとの深い係わりを思い起こす。当時彼は、現役バリバリ、オーストラリアのトッププレーヤーであった。
オーストラリアは、近代ゴルフが確立されてから名選手を輩出している。ゴル発祥の地イギリスを宗主国とする、英連邦の自治国であるから、ゴルフが盛んなのは当然ではあるが、日本でお馴染みのグラハム・マーシュ、世界最強のゴルフと謳われたグレッグ・ノーマン、LPGAで女王の名をほしいままにしたカリー・ウェブなど、アメリカに対抗するゴルフ大国としてのゆるぎない地位を占めている。
人口は日本の10分の1でしかなく、1人当たりGNPも、日本の3分の2に満たないこの国で、何ゆえに強豪選手が次々と生まれるのか。
私はその理由を優れた育成システムにあると考えている。
日本の場合は、当初は、ある種の徒弟制度の下での育成方法であった。プロになりたい者は、ゴルフ場のキャディーとして就職する。
ゴルフ場には、専属のヘッド・プロやプロがいて、彼らにキャディーが教えを請うという形である。
杉原輝雄プロのような古い世代のプロは、教えを請うというより、プロのプレーぶりを見てその技術を盗むという形が多かったそうだ。
尾崎将司プロは、林由郎プロに教わったといわれるから、師匠とその弟子といった関係だろう。
その後、学生出身のプロが多くなったが、彼らは監督、コーチに教わるというより、子どもの頃から父親とか、練習場のレッスンプロなどに習って、ある程度のレベルに達してから、ゴルフ部に入ったという場合が多いようだ。丸山茂樹プロは、日大ゴルフ部出身だが、実質のコーチは、父親だといわれている。
最近の女子プロのケースでいえば、宮里藍プロも横峯さくらプロも父親の指導を受けてきたことは既に述べたが、宮里プロのお父さんは、レッスンプロであるのに対して、横峯選手の父親は、アマチュア、それもごくどこにでもいるアマチュアだといわれる。
こうなると、ゴルフは父子相伝の世界みたいに思えるが、こういった形では日本のゴルフ界の底辺の拡大には、つながらない。
オーストラリア、それから最近女性プロの世界で活躍する選手を数多く送りだしているスウェーデンなどでは、優れたレッスンプロのもとで、数多くの子どもやジュニアが、指導を受けている。そういった底辺の拡大という面で極めて進んでいるのが、オーストラリアなのである。
テリー・ゲールは、そのオーストラリアゴルフ界で牽引車的な役割を果たしてきたのだ。
私はパースにあるプロフェッショナル・トラベル(PTS)という旅行代理店のチェアマン(理事長)もしているが、この会社がスポンサーとなって、プロフェッショナル・トラベル・ネッドランド・マスターズ・ゴルフトーナメントを1 9年間にわたって開催している。
この大会は、オーストラリアでは新人プロの登竜門といわれ、これまでグラハム・マーシュ、テリー・ゲール、ロジャー・マッカイ、ラニィ・スミスや、2006年のPGAトーナメントの初戦メルセデス選手権を制したスチュワート・アップルビーなどの有名選手を輩出している。
松井新二郎氏から学んだこと
ジェーコブ・ロスチャイルド氏からもメッセージが届いた。
「親愛なる半田様。このたびは、貴方の素晴らしいイニシアティブに対し、心からのお祝いを申し上げます。
長年にわたり、私も盲人協会のプレジデントを務めてまいりました。と、申しますのも、家族の中に、何人かの視覚障害者がおり、そのことでの、大きな苦悩を経験してきたからです。
したがって、視覚障害者への支援の重要性は十分に認識しております。貴方はまさに賞賛に値すべきことをなさっておられます。
このイベントを通して、貴方と参加者の皆々様に、あらゆる形での幸運がありますよう、心よりお祈り申し上げます」
また、オックスフォード大学エクセターカレッジのフランシス・ケーリング学長からも、メッセージをいただいた。私は、カンボジア大学総長や、英国国立ウルバーハンプトン大学客員教授なども務めていることから、アカデミストたちとの交友関係もあるのである。
「日本ブラインドゴルフ振興協会は、広く認知されるべき支援活動を行っており、尊敬に値します。「2005年ワールドシニアゴルフレディースオープン選手権」開催されるJBGA、IBGAおよびプロフェッサー半田に心よりのお祝いを申し上げます。この新たなイベントに幸運がありますよう、祈念申し上げております」
このメッセージには、夫であるイギリスの新聞(インデペンデンス)の副編集長であり、経済のコメンテイターとしても知られているヘーミッシュ氏からも「イベントの成功をお祈りいたします」との、添え書きがされていた。
そのほか、世界各国の知友や関係者から、数多くのメッセージや祝電をいただいたが、紙幅の関係上、割愛させていただく。
思えば、若い頃から、無謀とも思える形で、世界各地に飛び出し、ゼロのスタート地点から、自然な形で人脈を形成してきたことが、その後の私の活動を大いにバックアップしてくれたことになる。
私は、やればできるといったある種の楽天主義や、やらねばならぬといった使命至上主義を全面的に好むわけではないが、自分の信ずる道を歩み続ければ、いつかはそれなりの成果を得ることができると思ってきた。
福祉や、障害者問題に関心を抱いていた頃に、指針を与えてくれたのは、既に述べたように、一番ケ瀬康子日本女子大学名誉教授だが、視覚障害者について啓蒙を受けたのは、故松井新二郎氏である。松井氏は、大正3年生まれ、26歳のときに戦地で両眼を失明し、その後苦難の道を歩まれた。
彼は、入院中、盲目の詩人ジョン・ミルトンが書いた「失楽園」に教えられたという。この本は友人が差し入れしてくれ、看護婦さんに読んでもらったのだが、その1節に「失明は本当に苦しいことである。
それでも次の三つのことを考えて御覧なさい」とある。
「その第一は感謝すること。泣きながら、苦しみながらも、生きていることに感謝しなさい」
「第二は、何でも話せる友達を持つこと」
「第三は楽しんでできる仕事を持つこと」
松井氏はその日から、杖を突き、病院や庭を歩き回った。
その後、山梨県立盲学校長事務取扱い、国立東京視力障害センター相談室長、同研究室長、東北大学視覚欠陥学教室講師などを経て、昭和51年、社会福祉法人・日本盲人職能開発センター所長、社会福祉法人・日本盲人社会福祉施設協議会理事長、世界盲人福祉協議会日本代表委員など数多くの盲人団体の組織に関与し、盲人福祉に障害をささげられた。
その間、ヘレン・ケラー賞、点字毎日文化賞、文部大臣特殊教育功労賞、吉川英治文化賞、毎日新聞社福祉賞などを受賞、昭和55年には黄綬褒章、63年には叙勲された。
私は、松井氏と親しく接し、視覚障害者が置かれた環境改善には何をしたらよいかを考えさせられた。そして、視覚障害者が仕事を持てるための沖電気のワープロや、キャノンが開発したオプタコン(指先に新聞などの活字を映して、点字ではなく、普通の文字を指先で読める機械)などを、何台も寄付させていただいた。
松井氏の言葉でいちばん印象に残っている言葉が、「目が見えないことは不自由ではあるが、決して不幸ではない」というものだ。
つまり、「あらゆる障害は、不自由ではあるが、不幸ではない」のである。これを逆に言えば、「障害をもって不自由なのに、その上不幸にまでなると、自分があまりにもかわいそう過ぎる。
だから、何が何でも幸せになる努力をすべきなのだ」ということであろう。こういう松井氏との出会いのあった後に、オーストラリアで、ロン・アンダーソンにめぐり合い、さらには、テリー・ゲールにも、出会うことができたのである。
人にはそれぞれ「神に指示された道がある」というのは、洋の東西にかかわらず、人間の共通認識だが、私が、現在ブラインドゴルフに打ち込んでいることもその道なのだと思っている。
実りある将来に向けて、乾杯!
日本でブラインドゴルフを啓蒙、啓発、発展させてきて早くも18年になり、その間、数々のブラインドゴルファーに出会ったが、その方々に共通するのは、かのジョン・ミルトンの「三つのこと」を、それぞれの工夫で実行しているということである。
この日の伊豆大仁カントリーの空は晴れ上がっていた。まさにゴルフ日和といえるのだが、あるアマチュア参加者は、「それにしても暑いですね」と、流れ落ちた汗をぬぐいながら、プレーをしていた。確かに春とはいいながら、初夏を思わせる気温ではあった。
私は、ブラインドゴルファーたちの姿を窺った。野越え、山越え、ボールを追っているその姿。熱くないはずがあろうか。
だが、その表情は、伊豆の空よりも晴れ晴れとしている。彼らは、まさに「晴顔」の人たちなのだ。
大仁の夜が更けていった。私は、夜空を見上げた。雲がかかり、その間を縫って、星がかぼそく瞬いている。私は、遠く南の空をみあげた。
はるか南に十字星があるはずだ。その星の下で、ロン・アンダーソンや、テリー・ゲール、今は亡き、パース出身の好プレーヤー・ロジャー・マッカイと語り合ったことを思い出す。
目を西に転じてみる。イギリスの古色蒼然たるゴルフコースのクラブハウスで、ブラインドゴルファーとジョークを飛ばしあい転げまわって笑ったこともある。
その縁で、イギリスの名門ウェントワースのゴルフクラブメンバーにもなった。
ウエント・ワース・ゴルフクラブでの、ギネスビールのうまかったこと……。
東の海の向こうには、アメリカがある。ブラロック女子シニアゴルフ協会会長以下の選手団を派遣してくれた地だ。
ブラインドゴルフを生んだ地でもある。「今回のこの楽しい日々のことをアメリカの人々に教えてあげたい」
ブラロック会長が、閉会式で、述べた言葉だ。ゴルフ先進国であり、ブラインドゴルフ発祥の地にして、まだまだブラインドゴルフも女子シニアプロゴルフも社会に十分認知されていないことがその言葉から窺える。
個人主義と、資本主義のマッチングが必ずしも人々の幸福に貢献していないという点が、これからアメリカが考えなくてはならないことかもしれない。
私は四方を見回してから、ひとりグラスをささげた。
「世界の視覚障害者、そしてすべての障害者の方たち、女子シニアプロの皆さん、実りある将来に向けて、乾杯!!」
