人類がうまれた秘密をあかす(Vol.2)

序章 宇宙意識と現代人

宇宙意識に対する観念を取れ!

宇宙意識とは何なのか

冷静に考えれば、あたりまえのことである。同じ「人智を超えた存在」を違う呼び名で呼んでいるにすぎない。

ところが実際には、神や仏、宗教というものに対しては、うさん臭いイメージを持たれている方が多い。「宇宙意識の仕組み」と言えば、何となく新鮮で、科学的な雰囲気が漂う。

しかしそれは、表向きの表現を変えただけにすぎない。違って聞こえるのは、あまりにも偏った神仏観、宗教観が世にはびこってしまったからである。

これについては後においおい述べていくので、とりあえずここでは「宇宙意識」を「神」と呼ぶ、ということで進めていくことにしよう。

なぜなら、「宇宙意識」という言葉はあまりにも漠然としていて、確たるイメージを描きにくいからだ。

「宇宙意識」より「神仏」としてとらえたほうが、イメージが湧いて活用しやすく、見えざるパワーを動かしやすくなるのである。

そもそも宇宙意識とは無限のものであり、人が知覚できるようなレベルではない。そのため、人にわかるように次元を下げ、何通りにも化身して、有限の仮姿をとって出てくるものである。

宇宙の意識の真相というのはそういうものだ。この根本の「宇宙意識」が最高神とすれば、有限の化身で出てくるのが個々の神仏といえる。

やや難しく感じるかもしれないが、そういうものかと思って読んでいただきたい。これについては、第一章に詳しく述べてある。

この化身のシステムや、個々の神仏がいかなる存在かということを知らないと、「宇宙意識」という漠然としたイメージでしかとらえられないことになる。

科学的な感じはするが、それだけでは何も始まらない。なぜなら、そんな知覚できないようなものを人は活用できないし、具体的なパワーやおかげをいただいて、人の世を良くしていくこともできないからだ。

神様、仏様と考えたほうがわかりやすいというのは、こうした理由である。そんなのはイヤだ、神だの仏だのには抵抗があるという人は、宇宙意識様と呼べばいいと思う。

しかし、同じものなのに、神様や仏様という言葉を使うとなぜ拒否反応となるのか。その拒否反応は、実は観念の偏りからきているということに目覚めなければいけない。

言葉のイメージにとらわれず、真実を見よ

宇宙意識という言葉は、過去の宗教にはないものだが、言っていることは本質的に今も昔もまったく同じである。

「神」「仏」という言葉には抵抗を感じ、宇宙意識という言葉ならすんなり受け入れるというのは、その人がまだ本当に神、仏の真相(宇宙意識の真相でもいい)を極めていないからである。

たとえば神や仏に、「あなたはどこからきたのだ?」と問えば、「宇宙意識の化身です」とお答えになるだろう。

逆に、「宇宙意識よ、あなたはどういうふうに人間に働きかけるのだ?」と問いかければ、「私は神となり仏となって、エンゼルとなって、人々に働きかけていくのだ」と答えるに違いない。

旧約聖書の一説に、ユダヤ教の神が「我はありてあるものなり」と述べるくだりがあるが、つまりは宇宙意識のことなのである。

宇宙意識といっても無限のもので、人間にはそれがわからない。だから必ず化身となって相姿を変え、人にわかりやすいように現れ出てくる。

そこで初めて人間にもわかるのだ。それが神仏の現れ出てきた系譜なのである。

ところが、それが宗教という形を取り、宗教団体の教理として語られると、何かすんなりと受け入れ難い感じがする。

何だか非科学的でうさん臭いようにも思えるが、それは別に神や仏がうさん臭いのではない。

最近ではオウム真理教事件などの影響もあり、 特に新々宗教の神仏はあやしげに思われるようだが、その奥には、マスコミ報道の偏りがある。

マスコミは、昔からある宗教を批判することはない。特にキリスト教だけは特別扱いで、良いものとして報道する風潮があるようだ。

しかし、キリスト教にも、魔女狩りや異端審問による処刑や拷問、十字軍による虐殺、侵略など、闇の歴史に覆われている部分は山ほどある。

それとも、発生から長い年月が経ったからいいとでも考えているのだろうか。

日本でも、江戸・明治期に天理、黒住、金光、大本など、神道系の教派がいくつも生まれた。

それぞれ百数十年の歴史があり、立派な宗教活動、福祉活動を行っている教団である。

ところが、こうした宗教に対してマスコミは、絶対にその名前にプラスになる報道は控えるのである。キリスト教ならよくて、こうした真面目な活動を行っている教派がだめというのは、どういう基準によるものなのか。

また、最近の新々宗教に対しては、カルト教団などと呼んでさらに露骨な攻撃をしておるようだ。しかし、それをいうならキリスト教にしても、元をたどればすごいカルト教団だったのである。

キリスト教に限らず、ユダヤ教も、イスラム教も、すべて創始期はカルト教団だった。浄土真宗、浄土宗、真言宗、日蓮宗など、カルト教団でなかったものはない。

そうした歴史認識の浅さ、宗教に対する勉強不足を棚に上げて、ただ上面の情報だけをすくいとって、面白おかしく報道するというのでは、なにをかいわんやである。

あまり批判めいたことをいうのは本旨ではない。だが、こうした偏った宗教観がマスコミから流されていくことで、人々の間に宗教的な精神や神仏に対する拒否反応が根づいてしまうのは大きな問題である。

歪曲された報道によって間違った知識を植えつけられているから、神様仏様と聞くと、何かあやしいような、おどろおどろしいもののように感じてしまうのだろう。

たしかに一部にはおかしな宗教団体もある。しかし、だからといって神仏を全部否定してしまうのでは、あまりに短絡的すぎる。

普遍的な神性、宗教性というものは、みな宇宙意識の崇高なる部分として、確かに存在しているのだ。

宗教と科学の融合とは

宗教を毛嫌いする人は、「科学的でない」ということをよく言う。科学と宗教は融合し得るところもあるが、今のところ融合し得ない部分もたくさんあることは確かだ。

その原因は双方にあるのだが、残念ながら多くは宗教の側にある。一番問題なのは、宗教団体となったときの宗門宗派のエゴと理論、すなわちドグマだろう。

たとえば、キリスト教でも、長い年月を経て洗練されてきたとはいえ、いまだに処女受胎とか水の上を歩いたとか、パンが何百個にもなったというような、科学的には説明のつかない奇跡を信奉している。いわゆる神学というものは、科学的な立場と相容れない。

カトリックとプロテスタント、双方ともにそうだ。

しかも、自らの教派を信じるあまり、一部のプロテスタントとカトリックの人たちは、それぞれが互いに殺しあう凄惨な戦いを繰り返している。

かれらは双方ともに、イエス・キリストと神を信じ、その教えどおり「汝の敵を愛せよ」「神は愛なり」「右の頬を打たれれば左の頬をだせ」と言うのだ。

大いなる矛盾である。科学的な常識と客観性を持つ人間なら、おかしいと思うのは当然だろう。

それでは宗教と科学はまったく相容れないかというと、そうではない。実は多くの科学者は宗教的情熱をもって自らのテーマに打ち込んでいるのだ。

科学とは、宇宙の真理を極める道といえる。宇宙の真理を謙虚に追い求め続けてきた科学者たちは、宇宙や大自然の不思議、神秘を肌で感じ取ることで神仏を自覚している。

人類最初の宇宙飛行士となった旧ソ連のガガーリン、またNASAの宇宙飛行士たちの多くが、宇宙から帰還したのちに篤いクリスチャンになったという事実は何を物語るのだろう。

まさに、宇宙の神秘を肌で感じたからこそ、神という存在を確信し、突き上げるような信仰心が湧きおこったのではないだろうか。

実際、彼らの中には、伝道師となって全米各地を布教してまわっている人も多いのである。

アインシュタインも、あれだけの科学の公式を発見した人だが、気高い宗教的精神の持ち主であった。

また、医学で多大な貢献をしたシュバイツァー博士は、その宗教的情熱でもって、アフリカの人々を救うことに人生を捧げた。

科学者という職業には、多かれ少なかれ、こうした宗教的情熱や愛念というものが必要なのである。それがない科学者が、核兵器や細菌兵器を造ったりするのである。

爆弾などの殺戮兵器に限らない。新薬による薬害、自然環境を汚染する化学物質等もそうだ。

人々の生活を豊かで便利なものにしようという発想でも、科学者に宗教的情熱と信仰心というものがなければ、科学はかえって人間を不幸にし、やがては人類をも滅ぼすものになってしまう。

科学にとって宗教の役割はそういうところにある。宗教的情熱というものは科学にとってなくてはならないものなのだ。

こういったことは、あえて私が書かなくとも、懸命な読者諸氏なら、少し考えただけでもお分かりいただけるだろう。

ところが、こうした声は世の中でほとんど聞かれない。テレビなどマスコミの興味本位な報道で、宗教そのもの自体を毛嫌いする風潮が何となく作られていく。

うさん臭いのは一部の宗教団体の問題であり、宗教そのものが問題ではないのである。

こういうのを、「偏見は無知より生ず」という。

偏見というのは無知から生ずるのである。きちんと理解すれば、人間には宗教性がなくてはならないものだということがわかる。それは人間の幸せの原点なのだ。

それを宇宙意識というもので表現すれば、宗教臭さが抜ける分だけとっつきやすくはなる。しかし「宇宙意識」という漠然としたイメージのままでは、そこから一歩も進まない。

先に書いたように、活用ができないのだ。

話を宗教と科学の融合ということに戻せば、科学では宇宙というものは永遠に解けないし、科学で神を知ることはできない。

だからデカルトは、「我思う、ゆえに我あり」という有名な言葉の後に、「我あり、ゆえに神あり」と続けたのである。

キリスト教暗黒時代の反省

デカルトの時代、人々にはキリスト教暗黒時代の反省があった。ヨーロッパ中がキリスト教一色だった頃、文明も文化もまったく停滞していた。

たとえば、海の向こうは断崖絶壁の滝になっているから行けない、地球は平らで太陽のほうが回っているそうしたレベルの文化のまま、長い間一歩も先に進まなかったのである。

このように、世界が一つの宗教に染められるということは、文化文明の自然な発展が滞り、人間性が疎外されるということなのだ。

そうした宗教の弊害を打ち破るべく、やがてヨーロッパ全土にルネッサンスの嵐が吹き荒れる。

ルネッサンスとは”復興”という意味だが、何を復興するかというと、紀元前5世紀に繁栄したアテネのような、自由なるものへの復興を目指したのだ。

この時期の芸術は、まさに神の祝福を受けたような感がある。イタリアではオペラが生まれ、自由に操れる声の素晴らしさを人々は謳歌した。

美術でも、ミケランジェロやダ・ビンチをはじめ、数々の偉大な芸術家を輩出したことはご存知のとおりである。

キリスト教の暗黒時代の抑圧への反動から、人間本来の素晴らしさに目覚めようというのルネッサンスの運動だった。

ルネッサンス期からやや遅れて、科学もデカルトから始まっている。一時、科学は何もかも神学と聖書によって抑えつけられたうえ、宗教のドグマが邪魔をして発展から遠ざかっていた。

そこで、ドグマに関係なく確実なものから信じていき、その哲学を取り入れることにより、科学的な手法へと発展していく。近代哲学の始まりである。

科学的な考え方はデカルトから始まったといっても過言ではない。

デカルトは、この「私」という今思いをめぐらせている自分、それだけは確実なものなのだ、と説いた。

それが、「我思う、ゆえに我あり」である。デカルトをはじめとする多くの人々は、そうしてみな懐疑主義に陥るわけだが、それはキリスト教による暗黒時代へのアンチテーゼだったのである。

しかしデカルトは、「我思う、ゆえに我あり」というと同時に「我あり、ゆえに神あり」ともいう。

この、今思いをめぐらせている自分、これだけは確実なものだ。それ以外は確認しなければ信じられない。

しかし、私というものがあるのはなぜかといえば、それは神様があるからなのだと。

神様というものは曖昧模糊として捉え難いものであるから、一歩ずつ分かったものだけを確実にしていこうというのが、近代の考え方の出発点だったのだ。ところが今は、出発の原点を忘れてしまっているわけである。

マスコミが宗教をとりあげるときには、せめてこうした視点や知識を持ってほしい。「神」や「仏」と名がついたらすべてを叩くというのでは、神仏がお気の毒というものだ。

私たちは誰もが神界から生まれ出ている

本書のテーマと深く関わることだが、実は、私たち人類の御魂は、元は神界から生まれ出ている。

神界というのは、高度な文化性、芸術性、宗教性、科学性、合理性と、愛のかたまりの世界である。まさに、宇宙意識の一番高貴な部分といえる。

それを本当の意味で理解しようと思えば、神様はこうおっしゃるはずである。なぜ、宗教を毛嫌いし神仏を遠ざけるのか。

なぜ、芸術にいそしまないのか。なぜ、人類的規模の福祉に貢献しないのか、と。

人は、宗教、科学、芸術が相極まった宇宙意識の最高部分というものに、完全には到達することはできない。しかし、限りなく近づくべく努力を続けていくことはできる。

宗教についても、神仏という言葉に拒否感をもって頭から否定するのではなく、真摯な姿勢をもって深く学んでいただきたい。

崇高なる宗教性、それが宇宙意識に直結している部分だからである。だが残念なことに、マスコミのいい加減な宗教報道に惑わされ、一番大切なことが分からなくなってしまっている人があまりにも多い。

まさに、「偏見は無知より生ず」ということを痛感する次第である。

宇宙意識や神仏の本質を理解すれば、自分が何をすべきかが、おのずと分かってくる。

次の第一章から、いよいよ「人類の生まれた理由」について解き明かしていく。それは神様が演出された、人間創造の壮大なドラマである。

人類の生まれた理由を知れば、さらに深く神様の御心がわかるはずだ。

みなさんがこの本を通して、ますます深く大宇宙の真実を知っていただき、さらに素晴らしい人生を送られるよう願ってやまない。