人類がうまれた秘密をあかす(Vol.4)

第2章 人類発達のプロセス

歴史に仕組まれた神のシナリオ

禁断の木の実は、なぜそこに置かれたか

前章で述べたように、第六神界が開かれていた太古の時代、人間は神様の側にいて幸せに暮らしていた。

聖書にも、神と人の関係について、「エデンの園で、人は神様と楽しく過ごしていた」と、少しではあるが描かれている。

ところが、そのくだりから後の記述について、何とも残念なことにクリスチャンの解釈というのは、以下のようになってしまう。

すなわち、アダムとイブが禁断の木の実を食べたために堕落し、その罪を贖うために男には労働という苦しみが課され、女には出産という苦しみが与えられたのだ・・・と。

しかし、こういった解釈は非常にネガティブな捉え方で、聖書の大きな流れを理解していない浅い読み方ではないかと思う。

だから私は、クリスチャンに聞いてみる。

「神は全知全能でしょうか?」

「全知全能です」

「はい」

「全知全能とは、すべての知恵とすべての能力があるということですよね」

「そんな全知全能の神が、なぜわざわざエデンの園に禁断の木の実など置いたのでしょう。あえて、これだけは食べてはいけないなどと言われれば、むしろ逆に食べたくなるんじゃないですか。食べてはいけないものであれば、初めから作らなければいい。すべての知恵と、すべての能力のあるお方が、どうしてわざわざエデンの園に禁断の木の実なんか置いて、食べてはいけないなどと思わせぶりなことを言ったのでしょうか?」

「いや、それはヘビがそそのかして堕落させた・・・・・・」

「だったら初めから、ヘビの嫌がる煙の出る樹木にすればいいじゃないですか。そもそも、なぜヘビなんか創造されたのでしょう?全知全能の神であるならば、人間を誘惑するようなヘビを置かなければいい。カナリアとかひばり、あるいはウサギ…………何でもいい、人間に害をなさない動物でも置けばよかったのに」

これでは神様は、全知全能ではなくなってしまう。

ここで私たちは、聖書の流れを正しく読み解く必要がある。

当然のことながら全知全能の神は、そんなことは先刻ご承知だった。

ここに知恵の木の実があり、それを「食べてはいけない」と言えば、たぶん人間は食べるだろうと、神様は先々のことまで見透かしておられるのだ。

もしも、禁断の木の実を食べることが人類にとって悪いことであり、ただ不幸と苦しみをもたらすものであれば、そこに置く必要はなかった。

人間が禁断の木の実に手を伸ばしたときに、「やはり罰があたるからやめておこう」と、ふっと思わせれば済むことだ。全能の神様にとってはたやすいことである。

それをせずに、人間が食べるに任せたのはなぜだろうか。そこには、深い神の意思と理由があるのである。

ただ人間が神様と仲良くして幸せな環境に甘んじているだけなら、それだけの存在で終わってしまう。

神様の持つ深い叡智と芸術性に近づくために、より次元の高いレベルに向かって生成化育・進歩発展することはない。

しかし神様には、人間により高度な生き物になってほしい、もっと自分に近づいてほしいという、大きな理想がある。だからあえて、そこに禁断の木の実を置き、人間に食べさせたのだ。

禁断の木の実とは、現世的な分別の知恵のことである。すなわち、人間に分別の知恵がついてきたことのたとえなのである。

そして、人間に現実の知恵というものが備わるにしたがって、次第に神様と対話ができなくなり、霊的なものもわからなくなってしまったわけだが、これは神様が人間にあえてなさったことなのだ。

神人一体の状態からは離れてしまったが、かわりに現実界での知恵を人間に持たせ、文明や文化をしだいに発展させていったわけである。いわば、これも神様の大きな御心なのである。

人類の成長プロセスは赤ちゃんの成長と同じ

禅宗やヨガの教えでは、分別の知恵を乗り越えて本来の自分に帰ろう、ということを説いている。同じくイエスも、神の道に帰ろうと教えている。

なぜ神様は、人間に分別の知恵をつけておいて、あとになって禅僧やイエスに「分別の知恵を捨てよう」「神の道に帰ろう」などと言わせたのだろうか。

それは、子供が大きくなるプロセスと同じだと考えれば納得がつく。

なぜ人類が生まれたのか。次元界の生成化育、進歩発展の結果であるということを前章で申し上げたが、そこには神様の大いなるご意思があった。

たとえば、高度な精神を持った夫婦というのは「もしも私たちに子供ができ、その子供たちが私たちの意思を継ぎ、私たちが努力して築き上げてきたものをさらに発展させ、それが世の中の役に立つならば、どんなに素晴らしいだろう」と考える。神様の大御心はこれとまったく同じなのだ。

もし、これが次元の低い夫婦の場合だと、だいぶ様子が違ってくる。

「あれ、いつの間にか子供ができちゃった。まあ、できてしまったものはしかたがないから育てるか。

でも、変な子に育てれば、あとで苦労することになるからな。小さいうちからきちんと訓練しておこう」

これではあまりに次元が低い。高貴な心と内面性を持っている人というのは、神様と同じ心を持って「子供がいたらなぁ。子供を作ろう」と考えるものだ。

それとまったく同じ理由で、人類ができたのである。

さて、赤ん坊というのは分別も礼節もなく、ただひたすらに母親の乳を求め、排泄も欲求のなすがままである。

何も考えず、その小さな肉体を大きくするのに精一杯だ。親のほうも、「あらあら、おむつを取り換えましょうね」と言いはしても、「なんて汚いものを出すの、おむつ汚して!」などということは決して言わない。

「ちいちゃくて可愛いわねぇ。健気に、この子も生きてるんだわ」

「生命って素晴らしい」と、感動さえ覚えるのが親というものである。

確かにこの時期が、親にとっても赤ん坊にとっても一番幸せな時期といえるかも知れないが、それは長くは続かない。そこからどんどん成長のプロセスが始まるのだ。

モーゼの十戒の意味

這い回るようになった赤ん坊は、やがて立ち上がって歩くようになり、そして幼児へと成長していく。

だんだん知恵がついて、いろいろなことを自分でやりたがるようになる。そうすると、今度はしつけという教育の始まりだ。

「めっ。コンセントは危ないの。いじっちゃだめでしょ」

「はい、スプーンで食べようね」

「食べ物で遊ばないのよ」

さらに幼児から子供に成長すれば、子供なりの教育をする。

「けんかしないの。仲よく遊びなさいね」

「勉強してから遊びなさい」

「歯をみがきなさい」

「いつまでも起きていないで、早く寝なさい」

「お母さんの言うことをちゃんと聞きなさい」

「ご飯を残すんじゃありません」

あれをしてはいけない、これをしてはいけないと、時にお尻のひとつも叩きながらしつけ、教育する。

もしもこの時期、親がそれを怠れば、何でもわがまま放題の人間になって、社会への適応力をなくしてしまうだろう。少なくとも本人が、社会に出てから大変な苦労をすることになる。

これを人類の歴史で見れば、モーゼの十戒の時代にあたる。

その時代というのは、「汝、盗むなかれ」「姦淫するなかれ」「殺すなかれ」と、なかれ、なかれ、の戒律の世界だったわけだが、逆の見方をすれば、当時の人間が〈盗〉み、〈姦淫〉し、〈殺していたからこそ、神はモーゼをしてわざわざ十戒を作らせたといえるのである。

科学や文化が誕生してまもなくの頃であり、個人の成長段階にたとえれば、人類もまだ幼児の段階であった。

つまり、親が子供に対して「何々してはいけません」と言ってしつけるのと同じで、「○○するなかれ」と教えを授ける段階だったのである。こうした背景の中で戒律や律法が生み出されていったわけだ。

イエスの登場

こうした戒律や律法の世界に、イエス・キリストは生まれてくる。

ユダヤ教はもともと非常に厳しい戒律や律法がたくさんあったが、当時、モーゼの十戒をベースにして、数百もの戒律があったといわれる。

「君、そんなことをしてはいかんじゃないか。律法の第五三五条を見てないのかね。ちゃんと書いてあるぞ」

「おっ、そういう君はどうなんだ。このあいだの君の行為は、律法第三八〇条に違反しているではないか」

「ならば君の母上の昨日の行いはなんだね。律法第二五〇条に違反している」

「そういう君の弟はなんだ・・・・・・」

このような喧嘩が日常茶飯事となっていた。

ユダヤ教の世界では、ラビは今なお戒律を厳格に守っている。また一般の信徒も現代

においてさえ、安息日には仕事をしてはならないのである。靴屋に行っても靴を修理してくれないし、医者に行ってもまったく診てもらえないのだ。

先ごろイタリアでは、総選挙の日程がこの安息日と重なり、投票日を延長することで対処したそうだ。安息日には仕事をしてはいけないと決まっているのである。

イエスは、そうした律法や戒律の厳しい世界に生まれた。

宗教の歴史から見ると、イエスはユダヤ教の改革者として出現している。革命的ともいわれた、その教えの要点は次のようなものであった。

「神はなぜ律法を作ったのであろうか。それは人を幸せにするためである。人類に幸せになってほしいという御心で律法を作ったのであって、律法を作らんがために律法を作ったわけではないはずだ」

「もともと律法の精神はそこにあるのだから、人が幸せになることであればいいのだ。安息日に神の教えを説いてもいいのだ」

イエスはこれを、あえて安息日に説いた。「あなた方のうち自分の息子や牛が井戸に落ち込んだ場合、安息日だからといってこれをすぐに引き上げない人がいるでしょうか」(ルカの福音書)というのは強烈な皮肉である。

イエスが試みた改革が衝撃的だったのは、律法に対して「愛」で立ち向かったという一点に集約されよう。そこがイエスの素晴らしいところである。

すでに、イエスが生まれた当時のユダヤ人は、かなりの文化を持っていた。

「出エジプト記」にある、逃げまどう民であったころや、あるいは原始時代に比べれば、文化は大きく進歩し、生活レベルも向上していた。

つまり、エデンの園で木の実を食べたときから、現実界の知恵を獲得して生産活動を行った結果、人類は物質的(あるいは肉体的)な意味において成長していったわけである。

神様は、人類の成長段階がまだ赤ん坊のような時代には、「○○するなかれ」といっモーゼの十戒を通して人間を教え導いていたが、人間が成長するにしたがって自主性を尊ぶようになる。

「まあ、あなたも大きくなってきたのだから、いいことと悪いことの区別ぐらいつくでしょう。もうそろそろ、ものごとを自分で判断しなくてはね」と、人間の判断にゆだねるようになるのである。

「人への思いやりと愛が大切だ。それさえわかっていれば、まあある程度のことは許してあげましょう」と神様が感じるレベルにまで、人類は育ってきたわけだ。

人類の思春期

しかし、さらに人間は大きくなって、非常に悲しいことだが、今度は戦争が繰り返される。それも歴史上の長い期間にわたって、現代に至るまで、人間のエゴと欲望が激しくぶつかりあい、戦いが続いている。

だいたい個人の成長過程をみても、子どもの頃はやんちゃ盛りだ。体はどんどん成長していくが、なかなか感情のコントロールは利かない。

親に見守られられながら少しずつ中味のほうも成長していき、やがては反抗期を迎えたところで、少しばかりの自由を認められる。

そうして思春期を迎えるのだが、これが人間にとってのルネッサンスとなる。

亀井勝一郎氏は「人生とは何か、いかに生きるべきかを考え始めたときから、人間がスタートする」という旨を言っているが、まさにこれが思春期である。

思春期を迎えた人間は、「人間の本質は何だろう。人生とはいかなるものか、社会とはいかにあらねば「ならないか」といったことを考え始める。

これが個人にとってのルネッサンスだが、人類のルネッサンス、歴史上のルネッサンスというのが、日本にもヨーロッパにもあった。

文明が啓蒙され、絢爛たる文化を生み出した時代だ。これは、いわば人類の思春期の時代なのだ。

思春期・青春期を迎えると、人は肉体的な成長と同時に、悩んだり葛藤したりして、内面的な不安定さを抱えながら成長していく。

しかも体だけは一人前に大きくなっているから、あり余るエネルギーを喧嘩によって発散したりする。

そして、いく度か喧嘩を重ねることによって、「感情が激昂したときには殴らないほうがいい。殴り返されてこちらもアザができるし。それにお互いが傷つくだけだから、やっぱり喧嘩はよくない。それぞれもう少し礼節をわきまえて、お互いの主張を理解しあったほうがいい」ということを気づくようになる。

乱暴で気の荒かった人も、思春期・青年期が過ぎて体がだいたい完成する三十歳くらいになれば、肉体的にも精神的にも充実し、より社会性を持つようになる。

自分の中にあるエゴを抑え、喧嘩も極力避けるようになり、社会人としてのルールをわきまえる。

つまり、ひとりの人間としてある程度完成するわけだ。

こうした成長のプロセスを、神様は意図されているのである。

戦争のない世界は実現できるか

人類の生成化育、進歩発展の歴史の中では、二十世紀中頃が、一番血気盛んな思春期・青春期だったといえよう。この頃になると科学文明も発達してきた。

戦いの中から科学技術が生まれ発展していったのだ。その技術がまた戦争に使われ、第一次世界大戦では、実に多くの人が亡くなった。

その反省に基いて生まれたのが国際連盟である。

「こんなにたくさんの人間が殺しあうのはよくない。やはりお互いルールを設けてやりましょう」ということで、多くの国々の代表が話し合って、国際平和を誓いあったわけだ。

ところが、やがてまた、それぞれの国が国益を追求しだす中から、ぶつかり合いが始まり、もう一度大きな戦争が起きてしまう。

第二次世界大戦では、その戦いの規模は第 16 一次世界大戦よりもさらに大きく広がり、より悲惨きわまるものとなってしまった。

そこで今度は、戦争そのものをなるべく避けようという目的で、国際連合(国連)ができたわけだ。

これは人類史上においても画期的な出来事だ。実際に話し合いで戦争を回避できる機関が世界規模で実現したのは初めてのことであり、それ以後、現在まで世界中を巻き込むような大きな戦争は起きていない。

今のところ国連は、一応の役割を果たしているといえるだろう。

ただし、問題もある。拒否権の発動がそれだ。安全保障理事会の常任理事国、つまりアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国には拒否権があり、これら五カ国のうち一ヵ国でも拒否権を行使すれば、何も決まらないのだ。

また、世界中のすべての国が参加しているわけではないので、必ずしもその決議が有効に作用しない場合もある。

人類は、思春期・青春期を通り抜けさらなる成長段階にあることは確かだが、まだ成熟した大人の段階には達していないようだ。

神様のシナリオでは、残念ながら、これから先さらに世界中で揉めごとが続き、人類は互いを争いの渦に巻き込むことになっている。現在の国連の限界が明らかになっていくだろう。

しかしそのあと、「もういくら何でも、これ以上やったら人類は滅亡する。絶対に戦争が起こらないようにしなければならない」といった声と自覚が高まり、結果的には世界連邦政府ができることになっている。

これが神様の仕組である。

ただ、そうした揉めごとというのが、第二次世界大戦よりも規模の大きな第三次世界大戦になってしまっては、人類は計り知れない惨禍を招いてしまうことになる。

この百年の間、科学技術は急速に進歩した。中でも第二次大戦以降、科学は次々に新しい技術を生み出したのである。とりわけ輸送技術、情報通信技術の進歩は目覚ましく、交通網や通信網が急速に整備されていった。

わずか百数十年前、地上で最も早い移動手段は馬であった。いまや、世界中に航空路線が伸び、その気になればどの国でも一日で行くことができる。

情報通信に至っては、インターネットの発達で瞬時に地球の裏側と交信することができるのである。

しかし、科学技術の発達は両面を持っている。局地的なもめごとが発端でも、核兵器や生物化学兵器が飛び交うことにでもなれば、それこそ人類は滅亡の危機に瀕してしまうだろう。

それでは、神様本来の意図とは、かけ離れた結果となってしまう。何よりも神様の御心は愛である。最小限の被害、最小限の苦しみで世界連邦政府を作ってほしい、というのが神様の願いなのだ。

また、そうでなければ、恒久の平和は実現せず、理想の社会もやってこないだろう。

準備されていた雛型

神様は、人類とこの社会をそのような方向に行くように仕組みをしておられる。それ大御心なのだ。

そして驚くべきことに、神様はその雛形を準備されていた。それが明治維新である。明治維新が起きたのは今からおよそ一二〇年前のことだ。

黒船来襲からわずか一六年明治政府のもとに近代的統一国家が樹立され、日本は新しい夜明けを迎えた。

戊辰戦争や西南の役という悲劇はあったが、それまでの歴史から見れば、無血革命に近い出来事である。

明治維新では、薩摩藩と長州藩が連合して江戸幕府を攻め、政権を転覆した。そして版籍奉還、廃藩置県といった、それこそ天地がひっくり返るような改革を断行したのだ。

仮に今、鹿児島県と山口県が結託して東京都に取って代わるなどということは、とても考えられない。

たかだか百数十年前、そういうことが実際に起こったということを考えると信じ難いような気もするが、このような劇的な大転換を神様は行っているのだ。

明治維新以降、日本という国の中で戦争はなくなった。そして治安は良くなり、経済も安定を保ち、教育にしても隅々まで行き届くようになった。

世界が、明治維新の版籍奉還、廃藩置県方式で行えば、血を流すことなく世界連邦政府ができる。

神様のシナリオでは、明治維新という雛型で試されたことが近い将来、世界規模で現れ出てくることになっている。

現在は、長い人類の歴史の中で、大きな転換期にきている。この奥には「天意の転換」ということがあるのだが、それはまた別の機会に詳述する。

ともあれ、今は時代が大変化の仕組のときであり、真の世界平和の実現に向けて大きな足取りで進んでいる時代なのである。そして神様は、明治維新を雛型として、この変革を成されようとしているのだ。

そのプロセスについては次章で詳しく述べるが、神様の大きな御意思があってこそ、このようなシナリオも存在する。

それをよく理解していただきたいのだ。時代は今、そうした世界の実現に向けて進行している。そして、その進歩発展の真っ只中に私たちがいるということなのだ。

社会システムに張り巡らされた秘密のプログラム

人類は成長しながら知性を獲得し、分別の知恵も大いについてきた。しかし最終的には、やはり知恵だけではだめだということが分かってくる。

聖書にはこう記されている。

「神の国が近づいている。汝、愛をもって、神の御国を見習って、パンを分かち合いなさい」

ところが二千年経っても、世の中は天国にはほど遠い。

そこで何とか人間の知恵を絞って理想社会を実現しようという試みも歴史の中にあったことは、踏まえておくべきだろう。

マルクスは『資本論』の中で次のような主旨のことを書いている。

「食べたいときに、食べたいものを食べたいだけ、食べられるのが理想の社会である。

そのためには、資本の分配をする必要があるにもかかわらず、資本の分配ができないのは、階級制度があるからだ。暴力でもいいから、その階級をぶち破ればパンを分かち合うことができる」

聖書も『資本論』も、そのアプローチの仕方に違いはあるが、究極的には人間の理想社会を実現するという意味においては同じことをいっている。

そして誰もが、心の中でそういう理想社会のイメージを思い浮かべ、また強く希求しているのだ。

なぜかというと、それは私たちの御魂が神様の大御心をどこかでとらえているからなのである。

では、理想が同じならばマルクス主義の理念による共産主義社会の実現が望ましいかといえば、そうともいえないのである。

実際、マルキストたちはそう考えて実践したわけだが、中国にしても旧ソ連にしても、悪しき教条主義に陥り、官僚主義がはびこったあげくに経済はパンクした。

中国などは開放政策への転換を余儀なくされ、かたや旧ソ連は崩壊し、マルキシズムを放棄しただけでなく市場経済のメカニズムを導入せざるをえなくなった。

旧東欧にいたっては、一気に雪崩打つように資本主義社会への転換を果たしたわけである。

これらをみても分かるように、なにごとも理論どおりにはいかないものである。物や資本だけを分配しても、それだけでうまくいくはずはないのだ。

人間にとって、物だけでなく内面的な充足というのが非常に大事なことなのである。

文化や芸術にしても、人間の心を潤してくれる必要不可欠なものだ。社会主義はこうしたことさえ制限を設けていたのである。

では、資本主義や自由主義がいいかというと、そうもいかないのだ。

資本主義は一応、建前としては自由競争をベースに置いているが、それを無制限に認めてしまうと、国家間で市場の争奪戦や貿易摩擦がおきてしまう。

そのためにはやはり、国家の関与というのがどうしても必要となり、各国はそれぞれ、GATTという国際的な枠組みの中で、自由貿易と管理貿易の調整役を果たしているのである。

こうした状況のなかで、明らかに資本主義は行き詰まりにきている。

実際、現実の経済や社会のシステムは、資本主義と社会主義が融合するような方向で動いているのだ。

しかも、最近の環境問題等の深刻化で、合理主義そのものが見直しを求められており、新たなる価値観の創出に向けて、哲学や宗教が大事な役割を果たす時期にきているのである。

政治、経済、宗教哲学など、すべてが融合・共生・調和の方向へと向かっている。これが神様の仕組である。

神様は、あらゆる面から世の中を生成化育、進歩発展させていく。そして、二十一世紀を迎えいよいよ時代の価値観が根底から変わろうとしているわけだ。

霊主体従の価値観への転換

エデンの園以来、人類は、現実的な知恵を得ることで大きな成長を遂げてきた。

幼児から小児、思春期へと、人との関わりを通して精神的にも成長していき、さらにルールを設けることで大人としての自覚を持たせ、最終的には人間としての確立を目指してきた。

しかし、真の意味で人間が成人したかたちというのは、内面的なものを主に、物質的なものを従とし、かつまたその両方を大事にするという人間像である。

精神だけでも物質だけでもだめなのである。その両方が備わってこそ、神様が考えるところの、真の意味で成人した姿なのだ。

序章で書いた「キリスト教暗黒時代」のように、精神性のみ偏重した宗教というのは、いずれ行き詰まってしまう。

反対に、物質に傾きすぎても同様の事態となる。マルキシズムや唯物主義がそのいい例だろう。

すなわち、精神つまり目に見えない内面の充実と、形ある物質世界の充足と、そのどちらが欠けてもだめで、両方がバランスよく備わっていなければ、本当の幸せとは言えないのだ。

ただ、その関係は、目に見えない世界が主で、形あるものが従というものになる。

心が素晴らしければ、外的環境も素晴らしくなるだろう。しかし外的環境がよくなければ、心だってぐらついてしまう。

そもそも、精神と物質を切り離すような考え方じたい偏っているのだ。主と従だが、両者は不即不離の関係にあると見るべきである。

大本教や世界救世教は、これを「霊主体従の法則」、または「霊体一致の法則」といっている。

また、真光文明教団では「霊「主心従体属」という。そのルーツともいえるのは、大本教の出口王仁三郎氏である。

これは古今東西、さまざまな宗教家や哲学者が言葉を変えて主張してきたことの要約であり、あらためて王仁三郎氏の深い学問性とその言葉の咀嚼力には驚かされる。

神の道と弥勒の世の五力条は、まさにそのとおり。内面的なものと外面的なものとのバランスは、内面が主、形が従しかして両方が必要なのだ。

神様はそのシナリオに基づき、太古の「神人合一時代」に戻そうとしておられる。

こうして再び、神様と人間が仲よく暮らしていく時代になっていくわけだが、単に元に戻るのではない。

最初のエデンの園は内面的なものばかりで、物質的には調っていなかった。それが、これから出現する新しいエデンの園と大きく違うところである。

弥勒の世の五か条

私たちの御魂の奥には、はるか太古の神人合一時代の記憶が残っている。だからこそ私たちは理想社会をめざすのであり、いい社会をつくりたいという衝動にかられるのだ。

もし、神人合一時代の記憶がなかったとしたら、理想社会をめざす強い衝動など起こらないに違いない。進歩、向上、発展して、愛に満ちた世界をつくろうなどという発想は浮かびもしないだろう。

やがてこういう時代がくるということを、それぞれの宗教の聖者、時の予言者たちは言い続けてきた。

それを、仏教では「弥勒の世」、密教では「密巌浄土」、法華経では「甘露台の世」、生長の家では「理想世界」、キリスト教では「神の国」「地上天国」などと呼んでいる。

これらは、表現こそ違うものの、どれもみな同じことを指しているのである。

みろくの世。

それは「三六九の世」だという。つまり、四次元も五次元もなくなって、三次元の奥が六次元、その奥が九次元に直接つながる世だということだ。

それをイメージするのは、なかなか難しいかも知れない。私の師匠である植松先生に降ろされたご神示によれば、弥勒の世とは次の五か条が揃った世の中だとのことである。

一、信仰心

二、愛念

三、秩序

四、調和

五、平和の心

このすべてが実現したとき、はじめてこの地上に理想社会が現れる。それこそが神様なるスケールで人類の歴史に仕組まれたシナリオこそが、神仕組みなのである。

の本当の願いであり、これを実現すべく人類の誕生から成長のプロセスを踏まえ、壮大なるスケールで人類の歴史に仕組まれたシナリオこそが、神仕組みなのである。