上司・目上と仲よくなる法
父親と仲よくなる方法がわかったら、上司・目上とうまくやっていく方法なんかいたって簡単。そう、父親と仲よくなる方法を活用すればいいだけの話である。
以下、そのポイントを三つほど挙げながら説明したいと思うが、これは父親との葛藤を抱えている人はもちろん、そうでない人にも活用できる方法なので、大いに参考にしていただきたい。
さて、上司・目上とうまくやっていくポイントとは何かというと、
一、相手の性格を見抜く
二、相手の行動パターンを読み取る
三、相手の趣味、趣向、特技を知悉する
の三つである。とりわけ一番目の「相手の性格を見抜く」ことが重要で、これだけでも完全にマスターすれば、上司・目上との関係で苦しんでいる人も一気に問題解決。
どんなにやりにくい上司・目上とでもうまくやっていけること請け合いである。
どうも上司・目上とうまくいかない、いつもぶつかってばかりいて悩んでいるという人は、おそらくこの三つの点での努力を怠ってきたはずだ。上司の性格、行動のパターン、趣味や趣向を知ろうともせず、ただ表面づらだけを捉えては、「どうもあの部長はやりにくくて困る」「うちの課長、何を考えているのか、全くわからない」などとグチをこぼしているだけだったに違いない。それでは問題はいつまでたっても解決しない。今日からでも遅くはない。さっそく、「相手の性格を見抜く」「相手の行動パターンを読み取る」「相手の趣味、趣向、特技を知悉する」努力を開始しよう。
相手の性格を見抜く
まずは「相手の性格を見抜く」から――。
十人十色と言うように、人間の性格にはいろいろある。怒りっぽい人、飽きっぽい人、コロコロ気分が変わる人、頑固な人と、人それぞれである。が、より厳密に言えば、単に怒りっぽいだけという人はいない。
怒りっぽく頑固だけど気が弱いとか、むらっ気で集中力がなくいつもフラフラしているけれど、滅多やたらと明るく元気だとか、酒飲みで女狂いで博打好きなんだけど、なぜか神仏を崇敬しているとか、あるいは、ものごとを緻密に考えるタイプではないけれど、何か明るく運がいいとか、いくつかの要素が複合的に重なり合って形成されているのが人の性格というものである。
あなたの上司だって、きっとそうだろう。「上司の性格を一言で表現しなさい」と言われたら、「うーん、短気で起こりっぽいんだけど、けっこうやさしいところもあるし…。
真面目で陰気な感じなんだけど、意外とジョークが好きだったりするからねえとても一一言では表現できないなあ」などと、考え込んでしまうはずだ。
そういう複合的な要素で形成されている性格をいかに見抜くか。そこに上司・目上とのコミュニケーション能力を高める第一歩があるのだ。
そこでまず、自分の上司はどういう性格をしているのだろうと、つぶさに観察する。その結果、元気で明るくスポーツ好きなんだけど、浮き沈みが激しくむらっ気で、いったん落ち込むとなかなか浮かんでこないタイプであることがわかったとする。
まあ、上司・目上の性格分析ぐらいは誰でもやっていることかもしれないが、問題はここからである。
さて、上司・目上の性格を見抜いたらどうするか。結論から先に言えば、「性格なんだからしょうがない」と諦めてしまう。これが、上司・目上とうまくやっていく唯一にして絶対の方法なのである。
あなたの上司はサイ、それともキリン?
私はよく、人間関係を動物に置き換えて話をすることが多いが、例えば、アフリカに行くとサイという動物がいる。
頭にでかい角を二本突き立てている姿は見るからに恐ろしげだが、その実、バカの一つ覚えみたいに真っ直ぐに突進するだけで、小回りが利かないという弱点を持っているのがサイだ。そのサイに、
「おい、お前、一〇〇メートル全力で突進し、そこで九〇度曲がれ」と命じたところで、曲がることができるだろうか。
サイは真っ直ぐに突進する性格の動物なのだから、そんな芸当、できるはずがない。
アフリカの草原には、首が滅多やたらと長いキリンという動物もいる。背丈の高い木の葉っぱを食べるのに便利だし、襲ってくる敵を早く発見できるから、キリンの首はあんなに長いのだという。そのキリンに、
「おい、お前、地面に落ちているゴミを拾え。それに、お前、キリンなんだろう。だったら、たまにはビールを飲め」と命じたところで、ゴミを拾うことができるだろうか。
ビールを飲むことができるのだろうか。キリンの首が長いのは地面のゴミを拾うためではないのだから、そんな芸当、できるわけがないし、キリンは草を食べる動物だから、キリンという名前だからといって、ビールなんか飲めるわけがない。
真っ直ぐにしか突進できなくても、地面のゴミを拾えなくても、ビールを飲めなくても、自力で餌を確保しようとするだけ、サイもキリンも偉いし立派だ。決して非難するに当たらない。
それに比べて、他の人が捕えた獲物を横取りしようと狙ってばかりいるコヨーテなんか最低の“格”だ。
あのコヨーテ、自力で獲物を捕まえられないわけでは決してない。立派なキバがあるのだから、やる気になれば小動物の一匹や二匹、いつだって倒せるはずだ。
それでも、根が怠け者なのか、リスクを恐れるのか、敵と格闘して獲物を捕えるようなことはせず、ライオンや豹が獲物を斃すところをジッと窺いながら、隙あらば横取りしてしまおうというのだから、品性下劣、人間の世界でいえばコソ泥か詐欺師のようなものだ。
品性下劣という点でいえば、コンドルも負けてはいない。自力で獲物を捕らえようとはしないところはコヨーテと一緒だが、コンドルは他人さまの獲物を横取りすることもしない。
ただひたすら上空を旋回しながら、ライオンやコヨーテなどが食べ残したと見るや、サッと舞い降りては残骸を食べ尽くすだけ。このコンドル、人間の世界でいえば、差し詰め物乞いといったところだ。
そんなコヨーテやコンドルに向かって、
「おい、お前たち。他人さまの餌を盗んだり横取りするなんて、動物として最低だぞ。自分の餌ぐらい自分で捕って食え。
ちゃんと働け」と言ったところで、何の意味もない。
彼らはもともとそういう習性なのだから、人間の倫理や道徳で彼らの行動を批判するほうがおかしいというもの。それに、コヨーテやコンドルのような清掃請負人”がいなかったら自然界のバランスも乱れてしまうのだから、コヨーテはコヨーテなりに、コンドルはコンドルなりに、獲物を横取りしたり残骸を食べ尽くすことで、与えられた役割をきちんと果たしているのである。
今西錦司さんあたりによると、これを棲み分けの理論と呼ぶのだそうだが、いずれにしても、さまざまな習性の動物が存在することで彼らは共存共栄することができ、自然界のバランスも保たれているわけだ。
性格だからと諦める
まあ、そういうことで、上司・目上と上手にコミュニケーションを図ろうとするなら、何はともあれ相手の性格を見抜くこと。これが最初の一歩である。
「うちの課長は部下に命令するばかりで、自ら手を汚すタイプじゃない。まるでコンドルみたいだ」
「彼はサイだ。明るく元気なうちは猪突猛進するんだけど、いったん落ち込むとなかな回復しない。小回りの利かないサイとそっくりだ」
「ふんふん、うちの部長は一見温厚に見えるけど、その実、内に激しいものを秘めていて、けっこう執念深いところがありそうだな。下手に反対意見を言おうものなら、後々まで恨まれることになるぞ」
そうやって性格を見抜いたら、次にどうするか。前述したように、「あれは性格なんだからしょうがない」「性格だから変わらない」と思って早く諦めること、これが上司・目上とのコミュニケーションを図る上で一番大事なのだ。
なぜ、上司・目上に腹が立つのか。なぜ、上司の言動にガッカリするのか。
なぜ、虚しさや憤りを感じるのか。その腹が立ったりガッカリしたり、虚しさや憤りを感じる情感の奥に何があるんだろうかと考えたならば、上司・目上に対する期待感がある。これがクセものなのだ。
もっとやさしく言ってほしい、上司なら上司らしく振る舞ってほしい、いざという時には責任を取ってほしい…誰だって上司・目上に対する期待、願望というものがあるが、その期待感を持っている限り、上司・目上とはうまくいかないのである。
「係長、背丈の高い木の葉ばかり食べてないで、もっと地面に近いところの草を食べるべきではないですか。たまにはゴミでも拾ったらどうですか」
「課長、直進ばかりしていないで、たまには左右を見たらどうですか」
「部長、なぜ部下に命令するだけなんですか。たまには自分で動いたらどうですか」などと、キリンに言ってもしょうがない、サイに言ってもしょうがない、コヨーテに言ってもしょうがない、コンドルに言ってもしょうがないのと同じように、上司・目上に言ってもしょうがないのである。
ワニにしたって、なぜあんなに口がバカでかいのか。ご存じのようにワニは水陸両用で、魚はもちろん羊でも牛でも何でも食べる。
口がでかいのはそのためであって、もし、ワニの口が小さくて、何でも食べるという適応能力がなかったら、今日まで生き残っていなかっただろうといわれている。そのワニに、「おい、ワニ。地面を這ってばかりいないで、直立して歩け」と言ったところで、歩けるわけがない。
「わしは出口ワニ三郎じゃないんだから、人間のように歩けるわけないだろう」
なんて言うはずはないが、ワニはワニであって、直立して歩くことなど、逆立ちしたってできるわけがない。
人間も同じである。「上司なんだからこうあるべきだ」「目上なんだからこうすべきだ」と期待しても、叶うわけがない。
そこでついつい、腹が立ったり、がっかりしたり、悲しくなったり、虚しくなったりするわけだ。
上司・目上に対する期待感を捨てろ
サイにはサイの習性があるように、キリンはキリンの習性があるように、コヨーテにはコヨーテの習性があるように、上司には上司の習性があって、それは永遠に変わらない。部下が文句を言ったところで変わるわけがない。
四〇年、五〇年生きてきた人が、「あなたの性格、ここを直したほうがいいよ」と忠告されたところで、おいそれと直せるわけがない。
年を取れば取るほど、石膏で固めたみたいに頭も性格も固くなるのだから、変わることなど絶対にない。
だったら、自分が変わるしかない。「浮き沈みの激しいところを直してほしい」なんていう望みを捨てて、相手の性格に自分を合わせたほうが、問題がずっと早く解決するし、相手に合わせていく分、人間としての幅が広がるというものである。
それがじつは、大人になるということなのだ。その諦めと悟りの境地に立ってはじめて、人間は大人になれるのである。
ところが、大人になり切れず悟りの境地に立てない間、すなわち性格だからしょうがないと諦め切れず、何らかの期待感がある間は、腹が立つし、虚しく感じるし、悲しくもなる。
まあ、ピュアと言えばピュアではあるけれど、まだまだ子供、単純なだけ、と言ったら言い過ぎだろうか。
いずれにせよ、上司・目上に対する期待感がある限り、スムーズなコミュニケーションは難しい。
どんなに上手に表情を繕おうが、言葉を操ろうが、ハートの奥に眠っている感情は隠しようがなく、知らず知らずのうちに顔に出てくる。当然、相手もそれを察知する。その結果、相手に警戒心を抱かせることになり、その分、コミュニケーションもどこかぎこちなくなる。
だから、ハートの奥を変えない限り、絶対に上司なんてうまくいかない。外見上は調子よく振る舞っていても、おなかの中ではブツプツプツプツと文句を言っていたのではストレスが溜まるだけである。繁華街の居酒屋は、
「あいつは何だ、公私混同してるんじゃねえか」
「ふざけるなって言うんだよ」
「それに、俺達に対するあの言い方。あれはないぜ」
「本当に許せない奴だ。ところで、お前知ってるか?あいつ、部下の女の子と不倫してるんだぜ」
「そんなの誰でも知ってるよ。あれ、「失楽園」を見てからだという話だぜ。いったい何様だと思っているのかって言ってやりたいよ」
などと、愚にもつかない不満と愚痴を延々と語り合うサラリーマンでいっぱいらしいが、彼らのようになりたくなかったら、上司・目上に対する期待感など、さっさと捨ててしまうに限る。
上司はもう本当に気分屋で、公私混同はするし、どうしようもない奴であったとしても、ハートの奥の期待感をなくしてしまう。
すると、「ああ、そういう人なんだなあ」と、ごく自然におつき合いができるし、相手も、「おっ、こいつは何か、自分に好意を抱いてるんじゃないか」と思ったりする。
つまり、ハートの奥は以心伝心で相手に伝わるわけで、期待感をなくせばなくした分だけ、相手も可愛がってくれるものなのである。
いずれにしても上司・目上に対する期待感は早く捨てるべきだ。期待感を抱いているうちは腹は立つわ、イライラするわで、健康にもよくない。
反対に、期待感をなくすと相手を心から理解できるから、腹が立たないし、虚しくならないし、反抗的にもならない。
「ああ、上司はサイだったんだ。サイなんだから、真っ直ぐにしか進めなくて当然だ。小回りが利かなくて当然なんだ。それなのに、ライオンのようであってほしいと望んだ自分がバカだったのだ」
「ああ、上司はキリンだったんだ。だから、上ばかり見ていたんだ。それをワニのように地面を這ってほしいと思っていた自分が愚かだったんだ」
人間の成長とは、実はこうした行為の積み重ねによって、知らず知らずのうちになされるものなのだ。
仏教で言う諦観とは何か
上司・目上との関係といっても、ポイントはたったそれだけのこと。それを悟るのに、私も長い年月がかかった。
それはもちろん、私の父が桁外れに問題の多い人だったからだが、その父も既に逝ってしまった。父を亡くした今、つくづく思う。命あるうちに父に対する期待感を捨てることができて、本当によかった、と。
かつての私は、父に対していつも期待していた。
「お父さん、お願いだからお酒を飲むのをやめてよ。飲めばまた暴れるんだから」
「お父さん、お願いだから家に帰って来てよ。もっと家庭を大切にしてよ。もっとお母さんを大切にしてよ」
「お父さん、お母さんが可哀そうだから、博打をやめて真面目に働いてよ」
しかし、私の期待が叶うことは一度もなかった。それどころか、諫言するたびに殴られたり、蹴飛ばされるだけだった。
ところがある日、気が付いた。「ああ、お父さんは化け物だったんだ。化け物は化け物としての生涯があるんだから、あの性分は一生、直らないんだ。
直してほしいなんて期待しても無駄なんだ。倫理、道徳で裁いたところで、何の意味もないんだ」と。
そう悟った瞬間、全てのわだかまりが露のように消えていったから不思議だ。
「ああ、またグズグズ文句を言っている。けれど、あれがお父さんの性分なんだ。元気な証拠なんだ」
そんなふうに思えるようになると、これまた不思議なことに、父が、「おう、お前も最近、ずいぶんと大人になったな」と言うようになった。
「何を言っているんだ。大人になったんじゃない。諦めただけなんだ。本当は悲しいことなんだ」と言い返してやりたかったが、もちろん、そんなこと言えるわけがないし、言ったところで意味がない。
何しろ相手は化け物なのだ。
これが、諦めるということ、すなわち期待感をなくすことであり、それが相手への理解につながる。
その結果、心が穏やかになる。イライラしなくなる。常に平安な心でいられる。仏教で言う悟りの境地とは、こういうものであるはずだ。
ちなみに、仏教で言う諦観とは、諦めて観る、と書く。
諦めて周りを観てみると、物事の本質が明らかになる。だから、諦観とは明らかにすることであり、相手の性格を明 2 らかにするためにも、早く諦めること、これが大切だ。
「部長が短気なのは性格だからしょうがない。
公私混同するのも性分だからしょうがない。言ってほしくないことを、言ってほしくないときに、言ってほしくない場所で、言ってほしくない回数だけ、してほしくないような顔つきで言うのも、そういう性格なんだからしょうがない」と考えて、上司・目上の言動にいちいち腹を立てないことである。
倫理、道徳で裁くな
とにかく、上司・目上とうまくやっていくには期待感を捨てる他ないのだが、その期待感の奥を探ると、ヤクザな父親に対する感情と同じく、倫理観や道徳観がある。
不倫なんかしてはいけない、部下は平等に扱うべきで依怙贔屓はいけない、率先垂範して手本を示すのが上司たる者の務めである…といった倫理観、道徳観があるから、それに反する上司・目上がいると腹が立ったり、義憤に駆られたりするわけだ。
その傾向は一般に、ピュアで純粋な人に特に強いのが普通だが、上司・目上とうまくやっていきたいのなら、倫理道徳で人を裁く心を捨てなければいけない。
無論、倫理、道徳は大切だし、人間社会に必要なものではある。
だが、それは本来、自分自身を律するためのものであって、自分もちゃんと倫理道徳を守っているんだから、人もそうあるべきだと期待したところで何の意味もない。それで相手の言動が変わることなんて、絶対といっていいほどないのだから、ガッカリしたり虚しくなるだけである。
その樊城・では、どうしたらいいのかというと、天に任せるしかないというのが私の考えである。倫理、道徳に反していたら、天が裁く。だから、自分は裁かない。そういうふうに決めるわけだ。
たしかに倫理、道徳は必要である。しかし、よくよく考えたら、倫理、道徳の基準は時代と共に変化しつづけるものであって、例えば不倫一つとってみても、今は不倫はいけないと言っているけれど、平安時代なんか、あっちこっち不倫だらけだった。
和泉式部なんて、五回も六回もびっくりするようなことをやっていたが、それが日記文学という一つの文学形式を生み出したわけだ。
もしあの時代、不倫を不道徳なもの、倫理に反するものとして人々が排斥していたら、「和泉式部日記」も「源氏物語」もきっと成立していなかったに違いない。
74 そのように、倫理道徳といっても時代によって異なるのだから、必要以上にこだわらないほうがいい。
だからといって、出鱈目にやっていいというわけではないが、倫理、道徳はあくまでも自分自身を律するもの、他人に押しつけるものではないということを忘れないようにしたい。
上司・目上への理解が第一
倫理観、道徳観というのはだいたい、本人の思い込みであることが多い。一五歳の頃からピュアな信仰心を持つようになった私の場合もそうだった。
前述したように、私の父は飲む、打つ、買うの三拍子揃った人だった。
しかも、特攻隊の生き残りで、一再ならず死を覚悟した人だから、全身から醸し出される迫力といったら半端じゃなく、どんなヤクザ者も父の前では小さくなってしまうほどだった。
その分、子供にとってはやりにくい人であり、とりわけ信仰心を持っていた私にとって、飲む、打つ、買うの父はとても許せる人ではなかった。
その父との葛藤が若い頃の私の悩みだったのだが、父に対する期待感をなくし、父を許せるようになったのは、私が三〇代に入ってからのことであった。
父は、中一のときに母親を結核で亡くした。それからは男手一つで育てられることになったのだが、その父親は千人切りの人で、家には滅多に帰ってこない。
そこで父の妹が掃除、洗濯から食事の準備まで全てを切り盛りすることになったものの、何分にも両親不在の家庭である。それが父の性格形成に大きな影を落としたであろうことは想像に難くない。
やがて青年期を迎えると、父は特攻隊に志願する。毎日毎日、死と向き合いながらの猛訓練に明け暮れ、いよいよ明日出撃というときに終戦。
敗戦に打ちひしがれて、重い足取りで西宮の実家に帰ってくると、そこにはさらなる仕打ちが待っていた。
何と、見も知らぬ女性が父親の後妻として収まっていたのだ。しかも、既に子供までつくってい 15 たのだから、父のショックはいかばかりであったか。
その女性は、厳密に言えば父親の三号さんだった。母親が存命中、さんざん不倫しまくった二号さんとは手を切り、別の女性とまた不倫して、子供をつくった挙句、とうとう籍まで入れてしまったのである。
はじめて私が父のことを理解できたのは、そんな父の育った環境、そして戦前、戦中、戦後の社会背景を考えあわせた時である。
「ああ、こんな性格になるのも無理ないな。無茶苦茶な人だけど、育った環境を考えれば、よくやってきたほうだ。ピュアによくやってきたほうだ」
子供のころは、父がなぜ無茶苦茶なことをやるのか、よくわからなかった。と言うより、理解しようという気になれなかった。
だから、反抗的になったのだが、年齢を重ねると共に父の育った背景が少しずつ理解できるようになり、期待感を捨て、倫理、道徳で裁くこともなくなった。
性格を見抜くというのは、そういうことなのである。五〇年、六〇年生きてきた人の性格は今さら変わらない。
父親も変わらないし、上司・目上も変わらない。だから、父親や上司・目上とうまくやっていこうとするなら、自分が変わるしかない。
そうやって自分自身が変わったら、父親を、そして上司・目上を越せるわけだ。そういうふうに考えないと、いつまでもいがみ合っているだけで、上司・目上を越せない。父親を越せれば上司・目上を越せる。父親を越しているのに上司を越せないという場合は、父親より上司のほうが上手で、屈曲しているわけだ。
その屈曲している性格を、いち早く見抜くこと。くどいようだが、これが上司・目上との関係をよくする最大のボイントなのである。
上司・目上は変わらない、だったら自分が変わったほうが早い
とにかく倫理道徳で人を裁いてはいけない。
不倫をしている上司・目上に向かって、部下が「不倫だ、不倫だ」と騒いだところで、上司が不倫をやめるわけがないのだから、いつまでもああだこうだと騒ぎ立てるのはエネルギーを損失するだけ。
裁きは天に任せて、自分は裁かないほうがいい。空出張をしたり不倫をなさるという性格でしょ、と割り切ればいいのだ。別段、騒ぎ立てるほどのことではないだろう。
世の中、悪人と言えるほどの人はあまりいない。一日一人、人を殺さないと寝つけないという人がいるだろうか。そんな悪人がいたら、すでに監獄に収監されているはずだ。
同様に、善人といえるほどの人もあまりいない。ほとんどの人が、ちょい悪かな、ちょい善かなといった、まあまあのレベルで、大した悪人もいなければ、大した善人もいないというのが社会の実像である。
ところが、部下にしてみれば、そのわずかなところがとても気になる訳だ。だから、まず、そういうふうに気にしている自分を変えなければいけない。
変えられなければ、目に見えないハートの奥が相手に伝わる。ハートの奥が伝われば、上司・目上に可愛がられないだろうし、引き立ても受けられない。
くどいようだが、上司・目上は変わらない。だから、自分が変わる。自分が変われば、変わった分だけ上司・目上を越えることができる。
あるいは、上司・目上を上手に使いこなすことができる。そしてまた、上司・目上と仲よくできる。ここのメンタルな面を越えることが、まず一番大切なところなのだ。
人間、もっと大人にならなければいけない。世の中にはもっと大きな悪があるし、もっと大きな問題点がある。自分の器をもっと大きくし、地位と資金と組織力を持ったらいくらでも善ができるわけだが、そうするまでには、上司・目上を御して克服していかなければならない壁がある。
この壁を越えない限り、世の中で大きなことができるわけがない。地位もなく財産もなく権力もなく、組織力がない人間が世の中で何ができるというのだろうか。
上司・目上を上手に使いこなせず、たかだか二〇人や三〇人、あるいは五〇人や一〇〇人のコミュニティの中で出世できないような人間が、世の中にどれだけの影響力を持てるというのだろうか。
そのちっぽけな自分が越せない。自分という人間がしがみついている我や殻を打ち破れない。自分なりのつまらない見識や価値観、あるいは倫理観、道徳観を持っているがために、それが壁になって成長できないわけだ。
これが学生が社会に出てまずぶつかるところだし、中途半端な正義感のある人間が上司とぶつかるところである。
では、性格も行動も全てが立派という上司が揃っている会社があるのかと考えたら、そんな会社などあるわけがない。
どこのコミュニティに行っても変な人ばっかりいる。最初はいい人だなあと思ってもなくて七癖”で、しばらくしたら嫌な面ばかり目につくようになる。
会議のときには五、六発おならをしてからでなくては話ができない人とか、必ずいる。まあ、おならをするくらいならまだいいほうで、ノートやカバンをバーンと投げつけないと会議が始まらないとか、会議では黙っているけどあとで陰口を言うとか、いろいろな人がいる。
だから、ついつい上司・目上の癖や性格が気になってしまうのだろうが、気になってしょうがないというような人は、結婚しても奥さんの性格が気になって長く続かないし、友達とも長続きしない。
逆に、気にならない人は誰とでもうまくやっていける。
「まあ、欠点と言えば欠点だけど、まあいいところもあるからね」
「気になると言えば気になるけど、そんなもんじゃないの、人間って」
そういう人は、どんな人とでもうまくやっていけるし、どんな上司・目上ともうまくやっていける。うまくやっていけない人は、わずかな癖や性格が引っかかって、結局、誰とでもうまくいかない。
父親との関係も全く同じで、父親の性格が許せないという人間は、上司の性格も許せない。じゃあ、当人の評価はととうと、周囲の誰もが「あいつは許せん」と言っていたりする。
その自分の壁を、修養のつもりで越さなければいけない。これが克服できないと、上司や目上と付き合う方法をいろいろ頭で考えたり、本を読んで勉強しても、うまくやっていけるはずがない。
上司・目上とうまくやっていけないという人は、そこが越えられない人なのである。
それが克服できたら、すべての上司が自分の味方になってくれる。すべての上司が味方になってくれるということは、社会が味方だということである。
では、社会を動かしているのは誰かといえば、産業界にしても政界にしても、だいたい五〇代から六〇代の人たちが中心。
だから、五〇代、六〇代の人たちから見て、「こいつはいい男だな。なかなか見どころのある男だな」と映る自分にならないと、引き立ては受けられないのだが、年齢が高くなればなるほど頑固で屈曲しているし、高くなればなるほど性格は変わらない。ということは、自分が変わるしかない。そうする以外に方法はないのだ。
これは、私が父親との葛藤の中で会得したことだが、上司・目上との関係でも事情は全く一緒。上司は堅くて頑固で偏屈で、絶対に改まらなくて屈曲していると考えて間違いない。
ああ言えばこう言うし、こう言えばああ言う。例えて言えば、ウニとクラゲとウツボとワニと天狗と龍と稲荷とキリンとコヨーテとコンドルを足した、化け物のような性格。それが上司・目上というものだと心得ておけば、諦めもつくし期待感をなくすことができるはず。
「あっ、このあたりはコンドルだな。あっ、キリンが出たな。あっ、これはキツネだな、あっ、ワニだ」
と、瞬間にすべてを見破って、上手に扱っていったほうが勝ち。この第一の「性格を「見抜く」ことが一番大事なのである。
相手の行動パターンを読み取る
次に、上司・目上とうまくやっていく第二のポイント、「相手の行動パターンを読み取る」について語ってみたい。
これは、第一の「相手の性格を見抜く」に関連していることだが、上司・目上に限らず、人の行動には必ず一つの定まったパターンがある。
食事の前には必ずイライラするとか、食事の後は必ず愚痴が始まるとか、酒を飲んだら狂い始めるとか、その人特有の行動パターンがある。
それをいち早く察知することができれば、上手なお付き合いができるだろうし、スムーズで麗しい人間関係を築くことができるだろう、というのがこの第二のポイントの趣旨である。
例えば、お酒の席で仕事の相談をすると、「うん、いいんじゃないの、いいんじゃないの」と言う上司・目上がいたら、「ははーん、この人はお酒を飲んだあとなら何でも聞き入れてくれるんだな」と素早く読み取る。
逆に、お酒を飲むと荒れる上司・目上なら、「お酒が入った時には重要な話はしないほうがいいな」と、すぐさま察知する。
それが「相手の行動パターンを読み取る」ことなのだ。
一口に上司・目上といっても、朝方は気難しいけれど、お昼ご飯を食べると急に機嫌がよくなるとか、朝方は機嫌がいいけど、夕方に仕事の相談をすると、「いや、あとにしてくれ」「ごちゃごちゃ言うな」と嫌な顔をするとか、いろいろな行動パターンがある。
中には、部長に会うと半日ぐらいショボーンとしているという変な課長なんかがいる。
そういう時にはもう”触らぬ神に祟りなし”で、近寄らないに限る。あるいはまた、奥さんとよく夫婦喧嘩をする部長がいて、
「部長、お元気ですか」
「いや、ちょっと女房とやり合ってね」
「またですか」と計算してみたら、だいたい一ヵ月に二回だった。
そこで、「ははーん、満月の日が「危ないなあ」というふうに分析して、満月が近くなると、「部長、またやり合うぞ」と注意する。
女性の上司の場合にはまた別な計算方法があって、「ああ、このあたりはまイライラするな」とか「このあたりは落ちつくな」とか、必ず何らかの行動のパターンがあるわけだ。
それについて板坂元という学者が、たしか講談社の学術文庫だったと思うが、その中で、頭の善し悪しというのは、ものごとの法則性を捉える能力があるかどうかで決まるんだ、というようなことを言っている。
仮に、しょっちゅう夫婦喧嘩をする両親のことで頭を悩ませている娘さんがいるとする。
この場合、その娘さんがもし頭脳明晰であったなら、すなわち喧嘩の法則性を見抜能力があったら、きっと両親の喧嘩を注意深く観察して、喧嘩の原因を探り当てることができるだろうし、何らかの対策を講じることも可能になる。
例えば、お父さんは帰宅すると、いつも決まったように「お風呂!」と一言発し、お風呂が沸いていればニコニコしながら湯船に浸かるんだけれど、お風呂が沸いていないと怒る。
夫婦喧嘩はいつもそこから始まるという法則性を発見したら、お父さんが帰ってきそうな時刻になった予めお風呂を沸かしておけばいいんだ、という対策が講じられる、というわけだ。「お風呂!」
「沸いていますよ。ちょっと冷めてしまったけど、沸かしますか」
「うん」というふうに、お風呂が沸いているときには機嫌がいいけど、沸いていないときには機嫌が悪く、夫婦喧嘩の九九パーセントはそこに起因しているという法則性。
それを見出すことが人間の叡智、賢さなんだということを板坂元という人が書いているのだが、彼が指摘するまでもなく、人間の行動パターンはだいたい決まっている。
夫婦喧嘩にしても、お風呂が原因で喧嘩を始める夫婦とか、満月の日になると喧嘩をする夫婦とか、一定のパターンがある。
その行動パターンを素早く読み取って、相手の喜ぶようなことをする。
最低、機嫌を損ねるようなことをしない。これも上司・目上と仲よくやっていく上で非常に重要なポイントであるのは、改めて強調するまでもないだろう。
相手が怒り出すパターンを読み取れ
人間誰しも性格に癖があるように、行動にも癖がある。特に怒る時には、その人の内面に隠された癖が出やすい。例えば、名前を呼んだ時に憮然とした表情で「はい」なんて返事すると、必ず怒り出す人がいる。
私の知り合いの声楽家の先生もその一人だ。いつもぷりぷり怒っているので、ある時尋ねてみた。
「先生、なぜいつも怒っているんですか」
「いえね、最近の若い人には挨拶一つできないのが多くてね・・・・・・」
それを聞いて、「ははーん、この先生は挨拶をしないと怒るんだな」と、すぐさま行動パターンを読み取ったのだが、挨拶をしないと怒り出す人は彼だけではない。
とりわけ芸能界にそういう行動パターンの人が多いようだ。
例えば、私が親しくさせていただいている歌手の三田明さん。彼は非常に穏やかな人で、滅多に怒ったりしない人だが、それでもたまに怒ることがある。
なぜ怒ったのかと観察していると、やはり、「ロクな挨拶もできないで」と憤然としている。
同じく親しくおつき合いさせていただいている俳優の長谷川初範さんも時々、「挨拶もしないで」と怒っている。
どうやら、ああいう音楽とか芸術、お芝居の世界では、挨拶がきちんとできないと上司から睨まれるらしい。
その理由は、部外者の私にもだいたい想像がつく。お芝居にしてもオペラにしてもオーケストラにしても、自己表現の世界だからだ。誰もが「われこそ最高のミュージシャンである!」「われこそ最高を極めた芸術家である!」と思っている。
それが芸術の世界だ。その中にあっては、「おはようございます。本日もよろしくお願いいたします」「ありがとうございました」という挨拶ができないというだけで、
「あいつはダメだ」と叱られるのも当然かもしれない。
「こういう業界では、挨拶ができないとダメなんだよねえ。東州さん」と、声楽家の先生がおっしゃっていたが、そうであるならば、挨拶を欠かさぬよう努力したらいいわけだ。
どんな時でも「おはようございます」「ありがとうございました」「失礼いたします」と、きちんと挨拶していれば、「ああ、あいつはなかなかいいんじゃないか」という形で、特別な引き立てを受けられるかもしれない。
挨拶しないと叱られるのは、芸術の世界に限ったことではない。会社だって挨拶ができなければ、ダメ人間の烙印を押されてしまうのが普通だ。
挨拶の他では、態度が横柄であるとか、仏頂面でモノを言うというのも、上司のウケがよくない。
いや、上司だけではない。同僚、部下からも嫌われる。仏頂面、横柄な態度は自分自身を孤立させるだけである。
私自身の体験を言えば、サラリーマン時代、上司に報告する時には、私はいつも意識的に目を輝かせ、ニコニコ笑顔を絶やさないように心掛けていた。
「今日の訪問先ではこういうことがありました!」
と、キラッと目を輝かす。そして、報告が終わる時には必ず、「ありがとうございました。おかげさまで、行動指針がまた一つ明確になりました」という感謝の言葉で締めくくる。
その際、相手の目は見ない。目を見ると猿でも怒ると言われているから、鼻のてっぺんあたりを見ながら、ニコッとお礼の言葉を述べる。
「あっ、いいね。彼は非常に感じのいい子だね。好青年だね」と、実力以上の評価をいただくことができたのは、そうした心掛けのおかげである。
いずれにせよ、組織で生きる人間にとって仏頂面は厳禁。ふてぶてしい態度、ふてくされた態度も禁物である。それから目線を逸らすのもよくない。とりわけ三白眼や上目づかいは嫌がられる。
仏頂面、ふてぶてしい態度、ふてくされた態度、三白眼、上目づかい… 加えて挨拶ができないとなったら、上司・目上から睨まれること間違いなし、である。
そんなことにならないためにも、鏡を見て、人に嫌な感情を抱かせるよう暗い表情をしていないか、目つきが悪くないか、つねに確認するようにしたいもの。
組織人であるなら、最低限、その程度の努力は惜しむべきではない。
それともう一つ、先輩たちの行動パターンを研究すること、これも忘れてはならない大事なポイントである。上司とうまくやっている先輩、上司から睨まれている先輩。
その違いを徹底的に研究して、成功するパターンを真似ればいいわけだ。上司・目上とうまくやっていけないというのは、そのパターンを読み取る努力を怠っているからである。
相手の趣味趣向、特技を知悉する
第三のポイントは、「相手の趣味、趣向、特技を詳しく知悉する」。これももちろん、第一の「性格を見抜く」、第二の「行動パターンを読み取る」の延長線であるが、人にはそれぞれ趣味、趣向、特技というものがある。
例えば、ゴルフが異常なくらいに好きな人がいる。毎週、土日にはゴルフ場へ行ってプレーしなければ気がすまず、ゴルフの話になるともう止まらないという人の一人や二人、どこの職場にもいるものである。
「部長、最近、こんなゴルフクラブが出たらしいですね。セイコーのつくっているSヤードっていうのが」
「おっ、Sヤード知っているのか。わし、買ったんだよあれ。いやあ、飛ぶねえ、あれ
は。ダンロップから変えたら、四〇ヤード以上、飛距離が延びたよ」
釣りが大好きな人も、話し始めると止まらない。
「この間、私、釣りに行ってきたんですよ。カンパチを狙ったんですけど、どういうわけかヒラマサばかりかかったんですよ」
「えっ、ヒラマサを釣った!わしもこの前の休日に大島へ行ったんだけど、ヒラマサなんか釣れなかった。その代わりスズキを釣ったよ、スズキを」
私自身、非常に多趣味で、ゴルフもやれば釣りもやる。スキーもやればヨットも乗馬もやる。マージャンはやったことがなかったけれど、最近、少し覚えた。
なぜ私がそんなに多趣味な人間なのかといえば、他でもない。趣味が多ければ、それだけ多くの人とお付き合いができるからである。
もちろん、自分も楽しんではいるが、目上の方と仲よくなるには趣味を持ったほうがいいと考えているから、これまで馴染めなかったマージャンも覚えるよう努力したわけだ。
上司・目上とうまくやっていこうと思うなら、やはり趣味は多いほうが得策というものである。
マージャンができないと、やっぱり仲間外れにされるし、ゴルフはどうも好きになれないとなると、ゴルフ好きな上司とは自然と疎遠になる。どうせゴルフに行くのなら、気心の合う部下と行きたいと思うのが自然な感情というものである。
逆もまた真なりで、日頃少しばかり仏頂面で鬱陶しいやつだと思われていても、ゴルフの話になると、
「君、ニューイングという球を知っているか。何でも、ニューイングというのはすごく飛ぶらしいぞ」
「えっ、ニューイングですか。ほく、持っていますよ」
「何?お前持っているのか。わしに一つよこせ」
といった具合に、趣味を通してお近づきになったり、可愛がってもらえることもあるのだから、上司・目上の趣味、趣向、特技を詳しく知って、下手でもいいから趣味を持つことだ。
上司・目上の趣味に付き合え
人間、どんな人にも得意な分野がある。その得意な分野に水を向けると、それまで閉ざしていた心をパッと開いてくれることがある。
今からおよそ一〇年前、オーストラリアへ事業進出した時のこと。現地の代理人を相手にいろいろと事前調査を始めたのだが、どうもしっくりこない。
これから協力して事業を展開していこうというのに、どこかよそよそしく、話もはずまないし、仕事も進まない。
一体なぜなのだろう。不思議に思って、オーストラリアの事情に詳しい知人に相談したところ、その知人が言うには、オーストラリア人に限らず、外国人は一緒に遊びをしない限り、友達として心を開かないんだとか。それがわかってからである、ゴルフや釣り、ヨットといった遊びを覚えるようになったのは。
それまでの私はといえば、真面目一方の人間で、そういう遊びや趣味に興ずることにある種の罪悪感を感じていた。
だから、周囲の人がゴルフを始めても、マージャンに誘われてもあえて避けて、なるべく触れないようにしてきた。
ところが外国では、私のように趣味のない人間は友達もできないし、仕事のパートナーにも恵まれないというのである。
それを聞いた時の驚きようといったらなく、まるで目から鱗が落ちるようだった。
かくして私もゴルフをはじめとするさまざまな趣味に手を染めるようになったのだが、まさに知人の忠告通りだった。
欧米人と組んで共同事業をやったことのある人なら先刻承知のことと思うが、彼らに向かっていきなり仕事の話を切り出したら、まずうまくいかない。相手が日本人の場合は、金利はいくらにするとか、契約はどうするとか、すぐに仕事の話になる。ところが、欧米人はそうではない。
「この間、ホリデーでフィジーに行ったんだ。フィジーの海、最高に美しかったよ。次のホリデーはバリ島へ行くんだ」
といった話をいつ尽きるともなく語り合い、その結果、こいつは楽しい奴だな、一緒に仕事をしていて面白い奴だな、という印象を与えられたときにはじめて、パートナーとして認められ、仕事がスタートするのである。
そうした外国人のメンタリティーと共通した一面を持っているのが、上司であり、目上という存在である。一度でも上司の立場に立った人ならわかるはずだが、趣味と趣向の合う部下と一緒に仕事をすることほど楽しいものはない。
それとは反対に、趣味の合わない部下、無趣味な部下は本当にやりにくい。
互いに通じるのは仕事の話だけで、一緒にゴルフをやる訳でもなければ酒を飲むわけでもない。
仕事を離れればまるで他人同士というのでは、たとえ礼儀正しく、きちんと挨拶のできる部下であったとしても、胸襟を開いて付き合うというところまでは行かない。
やはり、上司・目上とうまくやっていくには、何らかの趣味は持つべきだろう。それも、上司・目上と同じ趣味なら最高にいい。
上司目上の趣味はだいたい決まっている。まず一般的なのが酒。稀に下戸の上司もいるが、上司・目上とのお付き合いには酒はつきものである。
酒の次となると、ゴルフ、マージャンといったところだろうか。その次あたりが釣りか囲碁、将棋。最近では盆栽の手入れが趣味だという人が増えているらしいが、一番ポピュラーなものといえば、まあ酒かゴルフだろう。
だから、下手でもいいから絶対にゴルフはやるべきだし、下手でもいいからマージャンにつき合わなければいけない。
また、酒席に誘われたら喜んでついていくべきである。中には、「お酒は飲めませんから」と断る人もいるが、それではいけない。
体質的にお酒が飲めないのであれば、酔ったふりをしながら話だけでも合わせるようにしたい。
そして、ときには「二次会、三次会にもお供しますよ」と言えば、どんな上司にも可愛がられるはずだ。
上司・目上に対しては、まず性格を見抜く。次に行動のパターンを読み取り、趣味、趣向、特技を知悉して、可能な限り同じ趣味を持つ。
趣味趣向も性格の一部と理解して、上司・目上の嫌いなこと、興味のないことには触れない。
そういう方向で努力を重ねていくと、可愛い部下だ、見どころのある部下だということで、さらに引き立てられること請け合いである。
もちろん、全く能力がない、仕事ができないというのでは、どんなに気に入られる努力をしてもほとんど無意味である。
だが、ある程度仕事ができて、能力的にも水準に達している人が、これまで述べてきた三つのポイントを押さえる努力を続けていけば、真先に仕事を回してくれるだろうし、失敗したときも、「すみませんでした」と素直に謝ったら、いろいろとフォローしてもらえるに違いない。
叱られ上手になれ
上司・目上から引き立てを受けるためのポイントは、基本的に「相手の性格を見抜く」「相手の行動パターンを読み取る」「相手の趣味、趣向、特技を知悉する」の三つである。が、厳密に言えば、もう一つある。
そこで、次にそのもう一つのポイントについて、触れておくことにしよう。
さて、上司・目上とはどのような存在かというと、一般的には自分より年上で、自分より仕事ができる。
また、悪辣なことを考える点でも自分よりも上手だし、悪趣味、陰険さ、厭味さにおいても自分より勝っている。
要するに、年齢、仕事の能力、頭脳、経験、厭味、全ての点において太刀打ちできないのが上司・目上という存在である。
そういう上司の目から見て、部下の姿はどういうふうに映るかというと、これはもう欠点だらけ。一見優秀そうで、欠点がないような人でも、上司の目から見れば必ず足りないところがある。
だから当然、その足りないところを指摘されることもある。つまり、叱られるわけだ。
そのとき、部下としていかなる態度を取るのか。これが、言わば四番目のポイントなのだ。
結論から先に言おう。上司・目上から引き立てを受けるための第四のポイントは、叱られ上手になることである。叱られ上手になると、「あっ、こいつは素直だな、いい子だな、将来性があるな」と上司に認められ、可愛がられ、メキメキ引き立てを受けられるようになるのだ。
ところが、その叱られた時に多くの人は上目づかいをするわけだ。そんな態度だったら、
「何だ、こいつ。生意気なやつだ。こういう素直じゃない奴は伸びない。かわいそうだが、こいつには将来性はないな」と思われてしまうに決まっている。逆に、ヘラヘラしていたら、
「お前、叱られていることがわかっているのか」と、さらなる怒りを買ってしまう。
上司・目上からのお叱りを引き立てを受けるチャンスにするか、ダメ社員との烙印を押される危機とするか。
それはひとえに自分自身の態度にかかっている。その意味で、叱られているその瞬間は、人生を左右する重大局面であると言っても過言ではない。
これが正しい叱られ方
では、叱られ上手とはどういうのを言うのであろうか。
まず言えるのは、黙って叱られっぱなしはダメ、ということ。ときどき、上司の小言を黙ってうつむきながら聞いている社員を見かけるが、それでは、
「お前、わしが叱っていることがわかっているのか。黙っていたのではわからないじゃないか」
という気持ちにさせるだけ。だから、黙って聞いているのではなく、ポイントごとにうなずく必要があるのだが、その時も、「ああ、なるほど、ああ、そうですね」
では、黙っているのと一緒で、
「お前、何もわかっていない」
と思わせてしまうからダメ。
だいたい傾斜角度二五度から四五度ぐらいの間で、頭をペコペコ下げながら、
「はい、わかりました」
「たしかにその通りです」
「誠に申しわけございません」と、自分の非を認めながら、上司の話を素直に聞き入れる。重大なミスを犯した時には、傾斜角度を九〇度にして、
「本当に申しわけありませんでした」と深々と頭を下げる。これが叱られ上手の態度である。
上司の口から出てくる叱責の言葉は、言わば機関銃弾のようなもの。だから、一五度ぐらいに頭を下げて、黙ったままボーと突っ立っていたら、バリバリバリとやられて、体中蜂の巣にされてしまう。
あるいはまた、上司の叱責に、「いえ、そうではありません」「でも、こうじゃないでしょうか」などといちいち反論すれば、「こいつは、自分の非を素直に認めようとしない、我の強い奴だ」と上司はますます激昂して、これまた蜂の巣にされてしまう。
そんな大きなダメージを受けないためにも、ここは一つ、叱られている間は機関銃掃射を受けているようなものだと考えて、ボクサーがスウェーで相手のパンチをよけるように、一五度から四五度ぐらいの間で頭をペコペコ下げるようにしたい。そうすれば、全部とは言わないまでも、かなりの弾をよけられるはずだ。
無論、頭の上を弾がビュッピュっと飛び交う間隙を縫って、
「すみません、すみません。まったくおっしゃる通りでございます。誠に申しわけございません」と、お詫びの言葉をタイミングよく入れることも忘れてはならない。
一五度から四五度、時に九〇度ペコペコと頭を下げ下げしながら、詫びつづけていれば、やがて機関銃も弾が尽きる。
一時的に頭にカーッと血がのぼっても、弾を撃たせる 00 だけ撃たせてしまえば、しまいに相手も疲れ果てて、最後にこう言う。
「まあ、そういうことなんだよ、君。わかったかね」
そのとき、頭をスーッと上げて、「はい、おっしゃる通りでございます。ですが、実はこういう事情もございまして」と、ここで初めてこちらの言い分なり弁解なりを主張する。
反論や弁解は、あくまでも機関銃の弾が尽きた時にするものであって、そうすれば、「あっ、そうだったのか。だったら早く言え」などと、意外なほどあっさり認めてくれることもある。
弾がピュッピュッと飛び交っている時に、「あのー」「でも」「しかし」などと反論してはいけない。それでは火に油を注ぐようなもの。
反論するならやはり、弾が尽きた頃におもむろに頭を上げて、自分の言い分を丁寧に主張するに限る。
それまではひたすら頭を下げつづけて、機関銃の弾が尽きるまで待つしかない。それがベストとは言わないが、よりベターな対処法ではないかと私は考えている。
それがうまいのが、実はお父さんと仲よくやっていける人なのだ。
お父さんと仲のいい人は、お父さんに叱られても中途半端に反論したりしない。言うだけ言わせておいて、向こうの言い分が尽きる頃合いを見計らって、
「お父さん、ごめんね。でも、こういうこともあるんだよ」と、自分の主張をする。
だから、一時的に感情がこじれることがあっても、すぐまた関係が回復するわけだ。
上司が相手でも事情は同じで、上司が怒っているそのさなかに、「でも、私は」なんて反論すると、
「お前は黙っておれ。上司に逆らう気か」と、ますます険悪な関係になる。そこがわかっていないのかどうなのか、お父さんとうまくやっていけない人は、とかく反論したり、言い争ってしまう傾向がある。
要するに、上司から叱責を受けるシーンには、父親との喧嘩のパターンが出てくるのだ。
説教の途中で反論するな
私の父は、一度怒り出したら、「やめられない、止まらない」のカッパえびせんみたいな人だった。四時間、五時間は当たり前、七時間でも八時間でも延々と弾を撃ちつづけるのだから、いま振り返っても、ものすごくエネルギッシュな人だったと思うが、その分、こちらが受ける心の痛みといったら半端ではなく、化け物のような人を父親に持った自分は世界で一番不幸な人間だと、小さい頃は思っていた。
しかし、いまは違う。世界中どこへ行ってもあれほどの人はいないというくらい性格が屈曲していて、なおかつ迫力とエネルギーに満ちた父親にこっぴどくやられたことで叱られ上手になったから、どんな人とでもうまくやっていける今の自分があるんだと、亡き父に感謝したい気持ちでいっぱいである。
父は私にとって、神様が与えてくれた反面教師。ベートーベンのお父さんのような、最高の教師でもあった。
父が七時間も八時間も怒りつづけるのには、理由があった。私の態度が悪いと、本当にうんざりするほど延々と説教されるのである。
「何だ、その反抗的な目つきは」
「何だ、そのふてくされた態度は」
「おい、わかっているのか。わかったらちゃんと答えろ。答え方が悪い」
私としては、決して反抗的な目つきをしているつもりはないし、ふてくされた態度をとっているつもりはない。
おなかの中では「こんちくしょう」と思ってはいても、表面的にはいたって恭順を示しているつもりだった。
ところが、霊能力と言うべきか、読心術と言うべきか、父には不思議なところがあって、こちらが表面を繕っても見破られてしまう。目線から出てくる暗黙の言語を解読するわけだ。
「その目つきがわかっていない」
「はいはいと言っているが、そういうのを空返事というんだ。お前、腹の中では反発しているんだろう」ということで、お説教もそろそろ終わりかなと思った瞬間、いつ果てるとも知れぬ延長戦に入っていく。それどころか、ときには日没再試合ということもあるのだから、こっちとしてはたまったものではない。
やはり年齢も上で、経験も悪辣さも毒気もはるかに上を行っているから、こちらがどんなに隠しても、心の中を見透かされてしまうのだ。
そんな体験を何度も繰り返した末に身に付けたのが、先に述べた一五度から四五度、ときには九〇度という、機関銃の弾をよける方法なのである。
とにかく、父に叱られたときには、何を言われても絶対に反論しない。四時間、五時間、あるいは七時間、八時間であろうと頭をペコペコ下げつづけ、向こうの弾が尽き、機嫌がよくなる頃合いを見計らって、
「誠に有難うございます。これから気を付けます。しかし、こういう事情もあったことはご理解ください」と、明るく丁寧な言葉で言う。
すると、怒るだけ怒った父は、どこか後ろめたさを感じただろうし、こんなふうにも思ったはずだ。
「あっ、そうだったのか。ちょっと言いすぎたかな。傷つけてしまったかな。息子は大丈夫だろうか」
もちろん口に出して言うことはなかったが、父の態度から類推すると、そういう感情を抱いたに相違ない。というのも、そんなことがあった後には、必ずと言っていいほど、「今度、メシを食いに行かないか」とか「いい飲み屋を知っているんだ。飲みに行かないか」「お前、結婚相手いるんか」などと、気持ちが悪くなるくらいにやさしい言葉を投げかけてきたからである。
叱られ上手というのは、そういうようなことなのだ。上手に受けていたら、叱った相手は罪悪感を感じるから、「ちょっと言いすぎたかな」と思って、こちらが望んでもいない配慮をしてくれるのである。
そうしたらこれはもう、部下の勝ちである。
ところが、そのへんの呼吸がわからないと、「でも」「しかし」を連発することになる。それで、上司が理解してくれるなら、それはそれで結構なことだが、そんなこと、100%あるわけがない。「反抗的なやつだ」「偏屈なやつだ」「素直じゃない」という印象を与えるだけでなく、ますます逆上させるだけである。
それともう一つ、黙ってボーッと聞いているのもダメ。前述したように、何も言わずに聞いているだけだったら、「こいつ、本当にわかっているのか」と、不安な気持ちにさせてしまうばかりか、一〇分で済むものを一時間も二時間も叱られることになってしまうからだ。
ここが、叱られ上手か叱られ下手かの違いなのである。
とにかく、途中で反論せずに、タイミングよく、リズミカルに「すみません、すみません」と頭を下げていく。
その当たりの呼吸を身につければ、誰だって叱られ上手になれるはず。私自身、そうやって受け身を体得してきたのである。
叱られ下手を克服するには
最後に、叱られ下手の典型的なパターンについて語っておこう。
おそらく、感受性が人並み外れて強いからなのだろうが、上司から叱られると、体をブルブルと震わせながら、
「あっ、すみません、すみません。申しわけありません。おっしゃる通り私がバカだったんです。すみません。本当に申しわけございません」
と、傍らで見ていても気の毒になるほど傷ついたり、落ち込んだりする人がいる。叱っ上司も周囲の人も、
「おい、大丈夫かあいつ。自殺するかもしれないから、しばらく見張っていたほうがいいんじゃないか」と言いたくなるほどで、ときには三、四日、会社に出て来なくなることもある。
そうなるともう、二度と叱れなくなる。ちょっとした注意も怖くてできなくなる。まるで腫れ物に触れるように、
「ちょっと、この仕事やってもらえないかな。いや、無理しなくていいんだよ。決して
無理なお願いじゃないんだけど、これ、やってくれたら助かるんだけどなあ……」
「い、いいんだいいんだ。あなたは自分のペースで仕事をやってくれればいいんだ」と、恐る恐る接する他なくなる。するとどうなるかというと、上司・目上から敬遠されるばかりか、仕事を覚えられなくなる。難しい仕事、新しい仕事は自分を素通りするばかりなのだから、
職能力は停止したまま。出世など夢のまた夢である。
そういう意味で、敏感に反応しすぎるのも叱られ下手だし、鉄面皮なのも叱られ下手。
叱られ上手は、可愛らしく叱られて、なおかつ打たれ強い。弾が尽きるまで撃たれるままにしておいて、最後に明るく、
「はい、わかりました。これからは一層努力いたします。有難うございました」と、素直に潔く反省する。そういう人は、注意された内容を吸収するから、仕事をどんどん覚えていくし、上司にも可愛がってもらえるわけだ。
この章の冒頭でも述べたように、人が人として社会で生きていく限り、常に上司という人間が存在する。
係長になったら課長がいる。課長には部長がいる、部長には本部長がいる、本部長には重役がいる、重役には社長がいる、社長の上には会長がいる。会長の奥には銀行さんがいる、親会社がある。上には上があるわけだ。
その上から下を見たら、必ず足りないところがある。当然注意もされるし、叱られもする。
そこを上手に対処していったら、相手の上司から可愛がられるし支持されるし、上司の築いた地位とか職能力とか知識とか、経験全部を、引き継ぐことができる。これが一番賢いやり方、最上の対処法と言ってもいいだろう。
最後に、上司・目上とうまくやっていくためのポイントをもう一度整理すると、まず「相手の性格を見抜く」。
次に「相手の行動パターンを読みとる」。三番目に「相手の趣味、趣向、特技を知悉する」。
これができる人が上司にとって一番いい部下、一番可愛い部下であり、上司の知識、経験すべてを引き継ぐ継承者になっていくのである。
