明治の創業者・その気概 ~平成12年7月15日 東京ワールドメイト会館~
日本人の長所と短所
今日は、日本的経営の長所と短所、および、それを踏まえたうえでの日本的経営の生かし方について、少しお話ししたいと思います。
まず、日本的経営の長所については、もちろんこれはたくさんありますが、ここ数年来、日本的経営の欠点がさまざまな方面から指摘されて、「もう日本的経営ではダメなんだ」とか、「アメリカ的経営でなければやっていけないんだ」というような声が非常に大きくなってきております。
しかしはっきり言って、アメリカ人は基本的に頭が悪い(笑)、というこの一点を、しっかりと理解しておかないと、日本的経営の長所はなかなか見えてきません。
そこを理解していないから、日本的経営に自信をなくしてしまうのです。
しかし実を言うと、つねに謙虚に自分を省みて、自分はダメだ、自分の国はダメなんだ、と思って、一生懸命に勉強するところが日本人の長所でもあるわけです。
昔は、日本にとって中国が先進国でしたから、遣隋使や遣唐使を送って中国の文物を輸入していました。いまはニューヨークですね。
アメリカに比べて日本は遅れているからということで、一生懸命に勉強しております。
アメリカに「追いつけ追い越せ」を合言葉に、今日まで励んできました。
それが日本人のいいところで、「ジャパンアズナンバーワン」と言ったエズラ・ヴォーゲルという人は、日本が世界のナンバーワンであることの理由として、日本人の勤勉性を挙げています。
日本人は絶えず勉強している、勉強が好きだ、と。定年を迎えて会社勤めが終わっても、死ぬまで学ぶことを喜びとしている、と。
それが日本人のいいところだ。だから、日本はこんなにも発展したんだ、と。
それが長所なんです。しかし、それが同時に欠点でもあるわけです。
八九四年、「白紙に戻した遣唐使廃止」で、菅原道真公が「もうこれ以上唐の国から吸収するものがありませんから遣唐使を廃止しましょう」と言って遺唐使を廃止しました。
実は本人が遣唐使として任命されたんです。藤原時平ら藤原氏が菅原道真公を追い落として政権を独占するために、遣唐使に任命したんです。
何とかそれから免れるために「白紙に戻した遣唐使廃止」。菅原道真公が「もう学ぶものがございませんから」ということで建議して、自分が遣唐使として派遣されずに済んだ、と。
そういう政治的背景があったんですが、唐の国からはもう、学ぶものがありませんからということで遣唐使を廃止して、それから藤原文化、いわゆる国風文化が起きてきたわけです。
で、経済が進歩発展していく歴史を見てみると、日本の短所を克服しているときがあります。それはどういうときかと言うと、気概を持って挑んだときです。
そのときは、日本の短所が消えて長所が生きる、と。気概を持って挑戦していくと、長所が出て短所が消えるんです。
しかし、気概が過剰になりますと傲慢になります。気概を持って挑戦することはとても大事ですし、そのときに長所が出てくるのですが、気概が行きすぎて傲慢になってしまいますと、天から戒めがありましてダメになる。バブルのときなどはまさにそうです。
日本の株式会社の礎をつくった渋沢栄一と五代友厚
関西メカンセミナーでは、「日本の株式会社の始まり」というテーマで講義をいたしました。
「東の渋沢、西の五代」と言われていたように、東には渋沢栄一、西には五代友厚という傑出した人物がいて、この二人によって、日本に株式会社の制度が導入されて、日本経済の基礎ができたのです。
渋沢栄一と五代友厚、いずれも明治維新の二年前にヨーロッパを視察しております。そして、圧倒的な文明の差を目の当たりにして考えたわけです。
ヨーロッパがかくも発展し、豊かになっている原因は何なのか。それにはいろいろな要因があるだろうが、一番の原因は株式会社があることだ。
不特定多数の人から資本を集めて、産業を守り立てているから国が繁栄しているんだ、と。そう気づいたわけです。
渋沢栄一は、十五代将軍徳川慶喜の弟、昭武に随行して、フランス・パリの国際博覧会に行き、議会や工場、会社、証券取引所を見学して非常に驚きました。
そして、日本もヨーロッパのように株式会社制度を入れなければダメだ、世界から取り残されてしまう、と心を固めて帰ってきたのですが、そのときにはもう、江戸幕府はありませんでした。
一方の五代友厚は薩摩藩士で、薩英戦争のときに戦艦の艦長を務めていた人です。生麦事件を契機に薩摩はイギリスと戦争をするわけですが、進んだヨーロッパ文明の前には抗しがたく、薩摩は敗れてしまいます。
そのヨーロッパ文明の威力を肌で感じ取った五代友厚は、藩主に訴えました。
「ヨーロッパの進んだ文明を取り入れて近代化しないことには、薩摩も日本の国も遠からず欧米列強の植民地にされてしまうでしょう。
日本の独立を守るためには人材の育成が必要です。そのためには、一刻も早くイギリスに優秀な若い人を派遣して、進んだ文明を吸収させるしかありません。
ついては、自分を含めて若い人間をイギリスに行かせてください」
その当時、日本はイギリスと国交はおろか、貿易もしていなかったんです。だから、イギリスに行くのは国禁を犯すことになる。つまり、密航です。
こういう場合、藩主としても「うん」とはなかなか言いづらいものです。ところが、薩摩藩主は五代の提案を受け入れて、「お前の言うとおりだ。行ってきなさい」と命を下したのです。密航を提案した五代も立派ですが、それを許した藩主も立派なものです。
そういう経緯があって、薩摩の藩校の優秀な人間を十数名連れてイギリスに行くことになったのですが、これは明治維新前のことです。
そして、苦難の航海の末にイギリスにたどり着いた五代友厚は、その進んだ文明を目の当たりにして、渋沢栄一と同様、これからは株式会社の時代だ、株式会社なくして近代化はあり得ない、との思いを深めたのです。
ところが、五代友厚が帰国したときには、これまた渋沢栄一の場合と同様、明治維新後で幕府も薩摩藩もなかった。
藩主の命を受けてヨーロッパに渡ったものの、帰ってきたら自分の居場所がなかったのです。
日本に帰ったらさっそく株式会社をつくって産業を興すんだ、薩摩藩を富ませるんだと心に決めて帰国したのに、肝心要の薩摩藩が消えてしまっていたのですから、五代友厚もさぞや落胆したに違いありません。
ところが、もともと優秀な人ですから、帰国後すぐに新政府の招請を受けて、外国事務掛という職に就任。
これを振り出しに次々と要職を歴任し、将来の大蔵大臣、あるいは通産大臣にと嘱望されるようになります。が、出世の階段を駆け足で昇りはじめた彼に嫉妬の目が集まるようになると、それを嫌って五代友厚は名誉も地位も捨てて官職を辞し、野に下り、それまで心の中で温めてきた計画、すなわち株式会社の設立に取りかかるのです。
ヨーロッパを視察したときに知った株式会社という存在。これこそがヨーロッパの国々を富ましている原動力なんだ。
日本もすぐに株式会社をつくって国の産業を発展させないと欧米列強に追いつけないんだ。そう確信した彼は、政府の要職にあるときから練ってきた計画を即、実行に移したわけです。
最初は大阪で紡績会社、次に印刷会社。その次は住友と協力して住友銅山という会社をつくり、鉱山の発掘に努めました。
さらには製藍工場や生糸を輸出する貿易会社をつくるなど、ありとあらゆる事業を興しています。
そうやって、次々と事業を興しては大阪商人たちに手本を示すかたわら、彼は大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)を立ち上げました。
株の売買はこうやるんだ、事業を興すための資金はこうやって集めるんだ、ということを身をもって教えたのです。
五代友厚は大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)もつくっていますが、これもやはり、大阪の商人たちを励ますためでした。
彼は、大阪商業講習所という学校もつくっています。いまの大阪市立大学の前身です。当時、藩校というものはありましたが、しかしそれは、武士を教育する機関であって、商人を教育する場では全然ありませんでした。
商工業で国を興そうというときに、商人を教育する機関がないというのは由々しき問題である、株や債権の売買など商取引に精通した人材を育てなかったら明日はないんだ、ということで、たしか明治十三年だったと思いますが、大阪商人の勉強会のようなものをつくっております。
それがのちに市立大阪商業高校となって、現在の大阪市立大学へと発展してきたわけです。
渋沢栄一も同じような道をたどっております。彼も日本に帰国したあと大蔵省に出仕し、税制、貨幣、銀行などの国家財政の確立に取り組み、その非凡な才能から将来の大臣と嘱望されたのですが、やはり野に下って会社を興しています。
第一国立銀行の創設をはじめ、設立に関与した企業は五百社とも六百社とも言われています。
さらに渋沢は、五代と同じように実業教育を重視しました。
森有礼の私塾という形で、福沢諭吉や大久保一翁たちと力を合わせて学校をつくっています。それが東京商法講習所、のちの一橋大学です。
東の渋沢、西の五代。ともに大臣になれるような二人が、名誉と地位と権力を捨てて、野に下り、商工業を興したからこそ、その後の発展があったのです。
もしこの二人がいなかったら、明治の日本はどうなっていたか分かりません。
日本で最初に株式会社をつくったのは渋沢栄一です。しかし、株式会社の発想をしたのは五代友厚のほうが早いんです。
五代友厚は薩英戦争の前、つまり、イギリスに渡る前に上海に渡航していますので、そのときすでに株式会社についてあらかた把握していたのでしょう。
勤皇・佐幕で揺れ動いていたそのさなか、五代は薩摩・長州共同出資の株式会社をつくろうとしたのですが、薩長関係がゴタゴタしていましたので、延び延びになったんです。
それで、坂本龍馬がいろいろと画策することになったのですが、発想したのは五代のほうが早い。実際に会社をつくったのは渋沢のほうが早いんですけれど。
余談になりますが、日本で最初の株式会社は坂本龍馬の発案でつくられたと言われています。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」なんかを読むと、そう書かれていますが、実のところはそうではありません。
いま言ったように、五代友厚が薩摩長州による共同出資の株式会社をつくろうと提案したのを耳にした龍馬が「それはいいことだ。いっちょう私にやらせてください」と名乗り出て、事務局長というか周旋役を買って出たのです。これが真相で、坂本龍馬の発案したものではないと言われています。
それはともかく、渋沢栄一と五代友厚こそ、日本における株式会社の父と言うにふさわしい人物です。
この二人がいなかったら、維新後、日本の経済はあれほどまでの発展を遂げることはできなかったでしょう。
日露戦争で世界の一等国ロシアに勝ったのが一九〇五年です。明治維新から数えてわずか三十七年です。
たった三十七年間で世界の一等国に追いつき、追い越したのですから、これは奇跡です。
それが可能だったのも、渋沢栄一と五代友厚によって、資本を集めて産業を興していくという運動、要するに、富国強兵策が急ピッチで進められたからにほかなりません。
日本を豊かな国にしたのは二人の株式会社の父のお蔭、と言っても決して過言ではありません。
儒教の精神で会社を興していったことも、二人の共通点なのですが、渋沢栄一と五代友厚のことを語るのが今日のテーマではありませんので、それは割愛して話を先に進めたいと思います。
不況がより深刻になってしまった真の原因
今日は、日本的経営は気概を持ってやっていくときにその長所が出てくる、という話をしたいわけですけれど、日本の現状はどうかと言うと、気概性があまりにも足りません。
バブル崩壊以降、日本経済は「平成不況」という名の長い長いトンネルに入ったきりで、なかなか出口が見えてきません。
では、いったいなぜこんなことになっているのか。その理由はいろいろとあるでしょうが、気概性のなさに第一の理由があるのではないか、と私は思います。
たとえば橋本政権が誕生したとき、あのころ景気はそんなに悪くはなかったんです。
アジア経済が落ち込んだためにアジアへの輸出が落ちたというマイナス要因はありましたけれども、日本の景気自体はさほど悪くはなかったんです。
積極的な景気対策を取っていれば、不況脱出の千載一遇のチャンスだったのです。
ところが橋本政権は何をしたか。言わずと知れた緊縮財政です。国債があまりに多すぎるので、まずは赤字国債を抑制して借金を減らそう、景気を刺激するよりこちらのほうが先だ、ということで、緊縮財政を第一に掲げたのです。平たく言えば消極策に出たわけです。
これは言わば、経理部長が社長になったようなものです。それはこのセミナでも、また過去の私の著作でも何度も述べてきたように、会社は常に売り上げを先に立てなければなりません。
ところが、経理出身の人がトップに立つと、とかく財務中心の経営を始めます。売り上げを上げることよりも、いかに収入と支出のバランスを維持するかということにエネルギーの大半を費やそうとするわけです。
それで会社を伸ばすことができれば結構なのですが、そんなことをすればじり貧になるだけです。
それと同じことをやったんです、橋本政権は。だから、不況がより一層、深刻になってしまったのです。
もちろん、日本の経済が不況に陥った一番の原因はバブルの崩壊にあるわけですが、それまでは多少なりとも余裕があったし、景気も言われるほど悪くはありませんでした。
ところが、橋本政権が経済の舵取りを誤ったがために、これだけの深刻な不況、戦後最悪にして最長の不況時代を招いてしまったのです。
ですから、政治不況と言われています。それが原因です。
証券会社、銀行、新聞社の言うことにだまされるな
それから新聞もよくありません。
日本経済新聞のような、私から言わせれば、あんな愚かなことを書く新聞を愚かな人間が読むからおかしくなるんです。
日経新聞不況と言われているくらいで、「景気がよくない、景気がよくない」という記事をずっと読んでいたら、お金を使う気持ちに誰もなれません。
お金はあるんだけれども、先々のことを考えると不安になって、とても使う気になれないのです。
その結果、お金が回らなくなって、ますます不況が深刻化するという悪循環に陥っているわけです。
しかも、そごうが倒産して、それから雪印乳業も怪しくなってきたら、「何かおかしいのではないか、日本経済は沈没してしまうのではないか」と書く。
そごうが倒産すると約一万人の従業員が職を失うから大変だ、大型デパートが二兆円近い負債を抱えて倒産するのは初めてだ云々。
さらには、山一証券の倒産で消費心理が冷え込んだ云々、と。
そんな記事を読んだら、「ああ、やっぱり景気はよくないんだ。これからますます悪くなるんだ」と誰だって思ってしまいます。
世界一の個人金融資産を日本は誇っているのに、みんなが使わないから、いつまでたっても景気が回復しないんです。
とにかく新聞が悪い。新聞が消費者心理を冷やして、景気回復の足を大きく引っ張っています。
中小企業の経営者が日経新聞なんかを読んだら、会社がおかしくなります。
大企業の人は、みんな舵取りに失敗しているではないですか。優秀な中小企業の経営者は、あんな日経新聞なんか読んでいません。
歴史小説を読んだり、中国の古典を読んだり、あるいはマンスリーレビューなんかを読んだりしています(笑)。
新聞記者に何が分かるんだ、と言いたいわけです。それから銀行の分析、証券会社の分析。これほどバカげていて、アテにならないものはありません。
以前、画期的なゴミ焼却の新商品を持っている人が、その商品を扱ってくれないか、と話を持ち込んできたことがあったんです。日経新聞で少し取り上げられたら、問い合わせがいっぱい来たらしい。
それで、ぜひ扱ってくれと言ってきたんですが、私は直感で、「こんなのはダメだ、売れない」と感じたので、まるでやる気がありませんでした。
ところが父は、「これはいけるかもしれない」と言うんです。「やめたほうがいいよ」と反対する私を振り切って、「じゃあ、データを取ろう」と言い出して、S総研で調査することになったんです。
父は銀行や証券会社の調査を信用していたみたいですが、私に言わせれば、調査する人間が会社を経営したことがあるのか、と。
あれやこれやと調査して、もっともらしいデータを提出するだけで、会社の経営なんかまるで分かっていないんです。そんな人が出すデータなんか、絶対アテになりません。
調査会社は、「これはいい」「これは大いに可能性がある」というようなことは滅多に言いません。
「これはいい」と報告して、結果ダメだったら、「何だ、お宅がいいと言うからGOサインを出したのに、ダメだったじゃないか」と言われるから、マーケットリサーチであろうとどんな調査であろうと、希望的な報告をすることはまずありません。
それでも実行したら、それは経営者の責任ですから。だから、もっともらしく大量のデータを集めることは集めるんですが、どれもこれも意味のないものばかりなんです。
S総研にかけたときもやはり、上がってきたデータは、どうでもいいようなことばかりでした。
しかも、私が直感でダメだと分かっているようなことに、調査費として五百万円も取るんですから。
そんな意味もないデータを集めるのに、よく五百万円も取るな、と。五百万円があったら、タコ焼きが何人前食べられるのか(笑)。焼きそばが何万食、食べられるのか。
トコロテンが何杯食べられるか、ということなんです。バカバカしいかぎりです。
銀行のリサーチや証券会社のリサーチは本当に意味がありません。それから、新聞の観測記事も実にバカげています。
銀行にしても証券会社にしても新聞社にしても、みんな調査結果を分析して言うだけなんです。
データとして出てくる前に何が流行るか、何が成功するのか。誰もが知りたいのはそこなんですけれど、そんなことが銀行の人間や新聞記者に分かるはずがありません。
それが分かるのは経営者なんです。長年経営に携わってきた人は、経験に基づく直感でそれが分かるわけです。
そういう美味しい経営のヒントは、そうそう他人に漏らさない。誰もがみんな、ライバルに負けない独自のノウハウや経営のコツということで、人に漏らさず黙々とやっているのです。
私たちの予備校でも、教室を拡張したとき、銀行さんが「ちょっと広げすぎ「じゃないか」と言ってきました。
ところが生徒を募集したら、申込者が毎日長蛇の列だったんです。それを見て銀行さんは、「生徒が集まった要因はこれだ、「あれだ」と結果を分析するんです。要するに結果論なんです、銀行さんの言うことは。
そんな結果論なんか誰にだって言えるし、何とでも言えます。肝心なのは、どうやったら生徒がいっぱい集まるのか、ということであって、それについてのアドバイスを銀行ができるのか、証券会社ができるのか、新聞社ができるのか、と言いたいわけです。
銀行から紹介された取引先で、よかったためしは一度もありません。父が家を建てるとき、S住宅というあまり評判の芳しくない建築会社を使ったんです。
知り合いにK建設というきちんとした建築会社があるんですけれど、わざわざ怪しげな建築会社に頼んだんです。
それで、「なぜ、ヘンテコリンな建築会社で家を建てるのか」と尋ねたら、父が言うには、「銀行が紹介してくれたから」と。
銀行が紹介したということは、よくないところを紹介されたんだ(笑)と思わなければいけません。これまでの経験から言って、銀行が紹介してくれた取引先でよかったところはゼロでした。
自分独自なものに自信を持って取り組め
銀行の分析、証券会社の分析だと言っても、要するに、調査結果をああだこうだと言うだけのことなんです。
では、誰もやらなかったことに最初にチャレンジして成功した人や成功した会社はデータを見てやったのか、と。決してそうではありません。
やはり、実践の中で磨いてきた直感で、「あっ、これは「いいんじゃないか」とひらめいて、試行錯誤をしながらでも、前向きに取り組んでいくから成功するんです。
そうやって成功する人や会社があったら、「あれはこういう原因で成功したんだ」と。失敗すると、「あれはこういう原因で失敗したんだ」と言うわけです。
それが証券会社のアナリシス、銀行の分析、新聞社の分析です。つまり、あとから付けた理屈でしかありません。
ですから、これからどうしたらいいんだろうかと考えるとき、新聞を見たら分からなくなります。
証券会社の言うことを聞いたら分からなくなります。いま儲かっている会社のやり方はどうのこうの、株価はどうのこうのと言うだけですから。
証券会社のアナリシスがそんなに正しいと言うなら、その証券会社が自分でやったらどうなんだ。アナリシスした人間が会社を経営したらどうなんだ。
そんなに儲かると言うなら、自分で儲けたらどうなんだ。経済学者の言うことが正しいなら、学者をやめて会社を経営したらどうなんだ、と。皆さんもそう思いませんか。
銀行の言うことや証券会社の言うこと、また、新聞社の言うことは、過去の結果でしかないのですから、それを信用していたら、絶対に判断を誤ります。
彼らの言っていることは結果そうなんだなと勉強しているだけで、これからどうしたらいいのかということは、分からないんです。
もし、これから先のことが分かると言うなら、銀行は今後どうしたらいいのか、自分で分析すればいいではありませんか。
そんなこと分かるはずがありません。分からないから、とりあえずは合併しかないということで、次々と合併しているわけです。
証券会社も似たようなものです。今後どうしたらいいのか、自分の会社を分析したらどうなんだ。その結果、自分のアナリシスが正しかったら、どんどんよくなっているはずではありませんか。
いまは少し、証券会社もよくなってきていますけれど、山一証券がなぜああなったのか。山一証券は証券会社で、会社のアナリシスをするところのはずです。
だったらなぜ、自分の会社をアナリシスして、正しい方向性を打ち出さなかったんですか、と。アナリストの頭にはアナが開いていて、リスが住んでいるんでしょうか(笑)。
今日はいっぱい言わせてください(笑)。
そんなものを見たり聞いたり信じたり勉強したりして、これから先どうしたらいいんだろうかと判断したら、みんな失敗します。データはデータで、過去の結果でありません。
成功したら、「あれが原因だ、これが原因だ」と。それを信じてやったところで、所詮、二番煎じでしかないわけです。
四番煎じか五番煎じだったら、独自のものを打ち出す余地があるので成功する可能性もありますが、二番煎じなんかは、同業者がいっぱいやっていますから、真似してやってもなかなかうまくいきません。
IT革命だIT革命だと言っていますけれど、これまでずっとやってきたアメリカの後ろを追いかけているだけではありませんか。
三番煎じぐらいで追いかけていったら、その中から独自なものを見出すこともできるんでしょうけれども、アメリカのあとを追って、「これからはIT革命だ、IT革命だ」とIT革命をやり始めても、そのときにはすでにIT革命が終わっていたら、誰もアイティーにしてくれません(笑)。
それよりもアニメがよかったり、ゲームが勝ったりしています。
独自なもの、自信を持ってやれるものに取り組むべきです。
やはり、みんなの心の中にある共通項をベースにしながらいいものをつくっていったら、多くの人に受け入れられるはずです。
そのためには、消費者は何を喜ぶだろうか、と絶えず現場にいてやっていくしかない。
それで当たったら、あとで証券会社や銀行が分析して、「あそこの会社の成功要因としてはこういうことが考えられる」とか何とか言うわけです。
「ドン・キホーテ」はいま、急成長で注目されています。「ドン・キホーテ」は、本当にドン・キホーテみたいに奇妙キテレツというか、人様の逆をやっています。
「熱帯雨林」とか「圧縮陳列」と称して、商品をぐちゃぐちゃ・バラバラに陳列して、あえて見にくく、通路を邪魔するようにしています。
それから、他店が閉店しているような深夜の時間帯でも営業しています。確かに、世の中には夜中に活動するような人もいますから、彼らが「ドン・キホーテ」に行くことで結構、賑わっているようです。
そういう人たちを集めるだけでも、十分にあの会社は成り立っていると言えるわけです。
そんな発想が新聞社とか証券会社とか銀行にできるのか、と言うんです。なのに、「ドン・キホーテが成功している理由はこれだ!」などと、臆面もなく書くんですから、逆に大したものだと言えるかもしれません。
「洋服の青山」の社長さんにもお会いしたことがありますけれど、ああいう会社が出てきて成功すると、ああでもないこうでもないと分析するんです。
それも、三番煎じか四番煎じぐらいのレポートですから、絶対アテになりません。
しかし、常に勉強をしつづけるのが日本人のいいところでもありますし、新聞にはたくさんの情報が詰まっているんですけれども、今まで私が申し上げてきたような視点で見ていかないと、新聞記事にだまされますし、新聞の記事のためにさらに苦境に陥ることになります。
そうなったとき、銀行に紹介してもらうとロクなことがありません。銀行が紹介するといったら、まずそこはダメ、証券会社が勧める会社があったら、そこは避ける、と。それくらいの気持ちでいたほうが絶対にいいということです。
そもそも、証券会社の言うとおりにやって成功するなら、みんなが大金持ちになっているはずです。証券会社のレポートとか新聞記事といった文字や形に出たときにはもう、みんなのものになってしまうわけですから、証券会社の言うとおりにやっても、そううまくいくはずがありません。
それが鉄則です。成功する中小企業のオーナーや経営者は、証券会社の言うことをヒントにして逆をやるか、あるいは無視しているそうです。
だから、成功しようと思うのでしたら、どこか変わっている人でなければいけません。
しかし、ただ変わっているだけではなく、いつも現場をしっかりと見ている人でなければなりません。また、消費者の生の声に耳を傾ける人でなければならないわけです。
データに基づいて判断したり、頭で考えてやっていたりしたら失敗します。データに基づいてやっているはずだったのに、気がついたらがらりと環境が変化していて、うまくいかなくなる、と。
そういうことはよくありますから、データとかアナリシスといったものに頼っていると、どこかで墓穴を掘ることになります。景気のいいときならある程度の予測もできるでしょうが、景気が悪くなったり予測不可能のことが起きたりしたら、どうしたらいいのか分からなくなります。
いまがまさにそういう時代です。そういう時代にあっては、アメリカはああいうふうにやっているし、IT革命が進んでいるし、あそこの会社はああいうふうにやって成功しているなどと、とかく模範を求めたくなるものですが、そうではなく、いま自分がやっているのがいいんだと、気概を持って生きていく。
証券会社や銀行がまとめたレポートなんかを見て、未来を考えたらおかしくなります。
レポートを見るのではなく、現場を歩くか、人に会って話を聞くか、山を見るか、海を見るか、木に触るか、神社の鳥居を触るか、お墓に行って墓石に触るか(笑) …..そうやって見たり聞いたり触ったりしてパッとひらめいて、「これはこうだ!こうやったらいいんだ!」というものがやはり正しいわけです。
成功している会社、あるいは、不況の中にあっても生き延びている会社は、みんなそうです。
三菱財閥の創設者、岩崎弥太郎
そこで皆さんに、「明治の創業者の気概性」に関する実例をお話ししましょう。
いろいろな実例がありますけれども、先ほど上げた五代友厚、それから渋沢栄一は、明治維新のとき、確か三十歳前後です。
生まれたのは天保年間。その天保のころが大事なんです。マージャンでも、テンポー(点棒)がいくつあるかが勝負ですからね(笑)。
たとえば三菱財閥の基礎をつくった、あの岩崎弥太郎という人も天保五年か六年ごろの生まれです。
この岩崎弥太郎という人は本当に面白い人でありまして、写真を見たら目が大きくて、達磨さんのような目というか、西郷隆盛みたいな目をしています。
あの目を見ていると、岩崎弥太郎がいかに根性のある人であったか、あるいは、ビジョンを持っている人であったかがよく分かります。
岩崎弥太郎は土佐藩の下級武士の家に生まれております。身分制度の厳しい時代ですから、下級武士出身ではまず出世は見込めません。
それでも、小さいころから学問への志が高かった弥太郎は、土佐藩の家老職にあった吉田東洋が引退後につくった、確か、少林塾という名前だったと思いますが、その私塾に通って勉強していたんです。
当時、吉田松陰がつくった松下村塾のような塾が土佐にもあったわけです。
少林塾をつくった吉田東洋という人は、いわゆる開国派の人で、薩摩だ長州だ、勤皇だ佐幕だと言っているときではない、いまはとにかく産業を興して国を豊かにして、ヨーロッパに追いつかなければいけないんだ、ということをずっと言っていた人です。そういう考え方を私塾に通ってくる若い人に教えていたわけですけれど、吉田東洋はもう一度、家老に返り咲きます。
このとき、抜群に勉強ができるという理由で、弥太郎を取り立てて、長崎に留学生として派遣したんです。
ところがその後、開国派の吉田東洋は尊皇攘夷派の人間に暗殺されてしまいます。この暗殺事件によって土佐の政治の風向きががらりと変わり、弥太郎を引き立ててくれる人は誰もいなくなってしまいます。
失意のどん底に突き落とされた弥太郎は、わずかな元手資金で材木商の真似ごとをするのですが、うまくいきませんでした。
そんな折、弥太郎にも運が巡ってきます。吉田東洋の甥に当たる後藤象二郎が開国派をまとめて役職に就いたのです。
この後藤象二郎は少林塾で弥太郎と一緒に勉強した、言うなれば学友、あるいは盟友です。そういう関係にあったことから、後藤象二郎は弥太郎を抜擢すると同時に、開成館という会社を立ち上げます。
この開成館というのは要するに、土佐藩が運営する貿易会社というか、商社です。土佐で取れる産品を京都・大阪・長崎等で販売し、そこから上がる利益で軍艦や兵器を購入し、富国強兵を図ろうという考えに基づいて設立された商社です。
そのために、大阪や長崎に支店を出すなど、いろいろと動き回るのですが、何分にも武家の商法ですからうまくいきません。
いま、神戸市が同じようなことをやっていますけれど、お役人である武士がやる商売だから開成館は赤字続きでどうしようもない。
ニッチもサッチもいかなくなってしまったのですが、その後始末を引き受けたのが弥太郎で、彼は長崎の支店の経営に専念し、このとき、商売のイロハを覚えたのです。
海運業とか貿易業とか、いろいろな売買の基礎知識を身につけたのです。
で、明治維新が成ったとき、土佐藩が経営してきた開成館はこのまま続けても赤字に決まっているからもう閉鎖しよう、大阪の支店も長崎の支店もみんな閉鎖しようという話になった。
それを聞いた岩崎弥太郎が、「それだったら私が買い取りたい、私が事業を引き継ぎたい」と申し出たのです。
「開成館を閉鎖するなら、全財産を叩いて買い取るから、ぜひ私に譲ってください」
「土佐藩がやってダメなのに、あんたがやってできるわけがない」
「違う。土佐藩がやるからうまくいかないんだ。お役人がやるからうまくいかないんだ。民間でやったら、もっとシビアで、もっと現実に即してやるから大丈夫だ」
そういうことで、開成館を買い取って商売を始めます。これが岩崎弥太郎のビジネスの始まりで、開成館を買い取ると同時に、開成館が所有していたボロボロの汽船か何かを払い下げしてもらって、土佐藩の海運業を一手に握り、回漕業務の運営を始めます。
そのときに役に立ったのが、やはり学問です。岩崎弥太郎は、若いころに吉東洋の少林塾で勉強していましたから、五代友厚や渋沢栄一のように抜群に学問ができました。
出来のあまりよくなかった後藤象二郎に頼まれて答案を代筆するほど優秀だったそうです。みんな漢学です。
儒教です。あの岩崎弥太郎も、そういう勉強を若いころにしていたわけです。
そうやって事業を始めて明治六年、それまで九十九商会と名乗っていたのを、岩崎家の家紋を取って三菱商会に改称したのです。これが三菱財閥の始まりです。
それにしても、全財産を叩いて赤字会社を引き受けたその度胸がすごいですね。「赤字会社を全部引き取るから、譲って欲しい」と。
それを聞いた誰もが、「あんたみたいな男がやったところで、うまくいきっこない」と揶揄するのを制止して、「いや、武士がやったからダメなんだ。私がやれば大丈夫だ」と言い張って買い取った。
もちろん、岩崎弥太郎自身も武士で、しかも下級武士なのですが、彼は長崎で商売のイロハを学んでいたから、堂々とそう言えたわけです。
「吾れ志を得ずんば、再び此の山に登らず」
岩崎弥太郎には面白い話がありまして、弥太郎の生家の裏に、妙見さんを祀っている妙見山があるんですが、そこの神社の扉に、「吾れ志を得ずんば、再此の山に登らず」という誓いの言葉を書いているんです。
野口英世の場合は、「志を得ざれば、再び此地を踏まず」と生家の柱に刻んでいますが、どこか野口英世に似ていますね。
いずれにしても、岩崎弥太郎は妙見山の神社の扉に「吾れ志を得ずんば、再び此の山に登らず」と書いています。
それが三菱のルーツです。祀ってあるのがお稲荷さんだったら困りますけれど、まあ、妙見ですから北極星でしょう。
妙見山、岩崎弥太郎の生家の裏山です。二十一歳のときに、神社で誓いを立てて江戸に出て、勉強をしているわけです。
田舎にいてはお国のことが分からないし、時代に取り残されてしまうから、何としてでも江戸に出たい、と。でも、チャンスはなかなかやってこない。
焦るような気持ちで日々を送っていたところ、吉田東洋に引き立てを受けて、二十一歳のときに初めて江戸へ行ったのです。
それだけの信念と気質がやはりあったんです。こういうところも決断と度胸です。それから気概を持っています。
それは武士だったからで、当時の武士たちは、たとえ下級武士であっても、武士道の精神を脈々と受け継いでいたのです。
日本および日本人がダメになったのは、武士道の精神がなくなったからです。戦後、GHQ(連合国軍総司令部)の教育改革によって、戦前の価値観を含むものはすべて否定されました。
国を愛する精神、忠孝の精神など、天地開闢以来、日本人の血の中に、DNAの中に刻み込まれてきたこうした精神が戦争に駆り立てたのだということで、徹底的に否定されました。
それによって、武士道精神が完全に消え失せてしまいました。
私たちも戦後生まれですから、学校では武士道精神を学んでいません。いつ学んだのかと言えば、学校を出てからです。社会人になって儒学を勉強し、儒教を通して武士道精神の何たるかを学んだわけです。
日本の儒学というのは、だいたいが宋学、朱子学です。その朱子学は日本に入ってきて、武士道と結びついています。いわゆる大義名分論などがそれで、武士は義のために生き、義のために死す、と。
もちろん義だけではありません。仁・義・礼・智・信に生きていく、と。たとえば、孟子の言葉に「浩然の気を養う」というのがありますが、そういう儒学の精神と武士道における禅的気働き。
この二つはともに相通じるものがあります。
武士道精神の奥には神道があるわけですけれど、戦前までの日本人は多かれ少なかれ武士道の精神を持っていました。
その武士道精神をなくしたから、日本人も日本の国もこんなにもダメになってしまったと言えるのです。
弥太郎の度胸と根性を見習え
弥太郎の話に戻りますが、彼は土佐藩の開成館を譲ってほしいと言ったのですが、そのときに、何らかのデータに基づいて買い取りの行動に出たわけではありません。
もちろん当時は、そんなデータがあるわけもなく、帝国データバンクのレポートとか三和総研、三菱総研なんてありませんし、銀行や証券会社、新聞社もありません。
ですから、「これからは土佐藩の払い下げを受けて商売をやったら儲かる」などといったアナリシスを見て、開成館の買い取りに動いたわけではないのです。
すべては、岩崎弥太郎自身の判断で、何もないゼロのところから事業を立ち上げたのです。私たちが見習うべきは、弥太郎のこの度胸と根性です。
しかし、岩崎弥太郎の会社は順風満帆の船出ではありませんでした。
土佐藩から払い下げを受けたと言っても、二隻か三隻のボロボロで小さい汽船みたいなのがあっただけですし、廃藩置県の際に、土佐藩のように所有する船舶などを民間に払い下げする藩が続出し、その分、競争が激化していたからです。はっきり言って、いつ潰れてもおかしくない状況に置かれていたわけです。
では、三菱商会はいつごろから飛躍し、巨大財閥の基をつくったのか。それは、台湾出兵のときからです。
明治四年に、台湾に漂着した沖縄島民五十四人が殺されるという事件があって、それ以来、日本と清国とは揉めていたのですが、明治七年、明治政府は台湾の政情不安と邦人保護を大義名分に台湾に軍隊を派遣したのです。
明治政府にとって初の海外出兵です。
もちろん、そのあと日清戦争があって、清との条約で台湾の割譲を認めさせたんですが、その前に台湾に出兵したわけです。
そのとき必要になったのが、台湾に兵隊を送り込む大きな汽船だったんです。ところが、その大型の汽船が日本にはありません。
ご存じのように、江戸時代の日本は鎖国政策を敷いておりました。
いまは、鎖国はなかったという説が有力視されていますけれど、外国に渡航するのは禁止されていましたから、日本の沿岸を回る小さい船の製造は認められていたものの、大型船の製造は禁止されていましたから、大きい船はなかったんです。
だから、大型船をつくる技術がありません。もちろん、その気になれば大型船もつくれたと思いますが、明治の初期、日本には大型船がなかったので、アジア航路などで使う船は、アメリカやイギリス、フランスなどの欧米先進国に頼っていたんです。つまり、百パーセント外国に頼っていたのです。
この台湾出兵のときも、アメリカの半官半民の汽船会社、太平洋郵船に頼もう、太平洋郵船の汽船を使って兵と食料を運んでいくしかない、という話になったのですが、「アメリカ政府は中立の立場を取っている関係上、明治政府に船は貸せません」と断ってきたんです。
「どうしたらいいんだ」ということになったのですが、このとき明治政府は郵便汽船会社という日本の会社に打診します。
郵便汽船会社というのは、明治政府が出資した半官半民の会社ですが、実質的には三井が支配していた会社です。その郵便汽船会社に明治政府は船を提供するよう求めたのですが、これにも断られてしまいます。
理由の一つは、三井が当時、台湾出兵に消極的だった長州と密接な関係にあったことと、もう一つの理由は、海外に行くノウハウがなリスクが高すぎる、というものでした。
要するに、船を提供すると長州系の政治家に顔が立たないし、台湾に行くなんて危ないから嫌だ、というわけです。
アメリカの海運会社からも断られ、頼みの日本の郵便汽船会社からも断られ、窮地に立たされた明治政府は、やむなく岩崎弥太郎に相談に行ったんです。
「かくなるうえは、全面協力をお願いしたい」と。
これは三菱商会にとって千載一遇のチャンスです。岩崎弥太郎は間髪入れずに、「承知いたしました。ぜひ、私にやらせてください。お国のためなら、採算を度外視してでも、どんな危険があろうともやりましょう!」
もちろん、三菱商会もやったことがありません。海外に船を出すのは初めてです。
しかも、持っているのは土佐藩から払い下げてもらったボロボロの船が三隻程度です。それなのに「やらせてください」と申し出るのですから、すごい度胸です。
明治政府は、弥太郎の三菱商会に頼むことになるのですが、三隻だけでは無理だということで、政府が無料で汽船を十三隻貸与するんです。
「貸してあげるから、これでやってくれ」と。ですから、合わせて十五、六隻でしょうか。一度も海外に行ったことがないのに、度胸と根性で、「やります!」と言っ引き受けて、それから、台湾へ無事に行く方法を研究したんです。
やれるかどうかは分からないけれど、とにかく仕事を受けよう、やり方はあとで研究すればいいじゃないか、と。そういう岩崎弥太郎のチャレンジ精神がビジネスチャンスを開いていったのです。
結果、三菱商会は見事に台湾に兵隊を送り、そして物資を届けました。
そのときに物資を供給したのが大倉喜八郎という人です。帝国ホテルをつくり、大倉商事を立ち上げた大倉喜八郎。大倉商事は最近、倒産しましたけれど、総合商社の草分けです。
総合商社としては三菱商事や三井物産よりも歴史が古い。その大倉商事をつくった大倉喜八郎が、台湾への物資を提供したのです。
大倉喜八郎は十八歳のとき、新潟県の新発田から江戸に出てきました。彼も確か、明治維新のときに三十歳くらいです。
岩崎弥太郎も明治維新のときは三十二歳くらいです。明治期に活躍した人は、天保八年、九年、十年あたりに生まれた人が多いんです。
ですから、明治維新のときには三十歳前後。これくらいの人が財閥をつくっているんです。
明治維新のときに三十歳前後ということは、人格形成期は江戸時代です。つまり、武士の気概を持っていた人が明治になって財閥をつくったわけです。もちろん五代友厚も、それから渋沢栄一もそうです。
少し話が横道にそれましたが、三菱商会はどうなったかと言いますと、征台で大成功して巨万の富を得ただけでなく、政界と密接なパイプをつくることに成功しています。
そのパイプがその後の三菱商会を大きく成長させる要因になったのはご存じのとおりですが、だからこそ岩崎弥太郎は政商と呼ばれたわけです。
前人未到のことでも快く引き受けた弥太郎
征台の次に西南戦争が起きました。このとき明治政府は、有栖川宮熾仁親王を総督に押し立てて、軍を九州に向かわせるのですが、新聞は「西郷軍、有利」と書き立て、政府軍は負けるだろうと予測したのです。
こういう新聞記事を見たらどうでしょうか。皆さんが運送会社の社長だったら、政府のために物資の輸送を引き受けようとしますか。ご遠慮いたしますと言うのではないですか。
このときもやはり、引き受け手がなかったんです。「西郷軍、有利」と出ているものですから、どこもかしこも腰が引けるばかりで、「私のところでやりましょう」という会社はどこにもありませんでした。
それでまた、岩崎弥太郎の三菱商会に話が回ってきたのですが、「政府のやることでしたら、私がやりましょう。どんなことがあっても政府のやることならお手伝いしましょう」と二つ返事でオーケーして、兵隊を運び、物資を運び、 そして官軍が圧倒的な勝利を収めたのです。
ほかの人たちは、「西郷軍、有利」という新聞記事を信じて、応援しようとしない。不利なほうを応援して負けたら殺されるでしょう。
運よく命を長らえることができたとしても、運賃等を回収できなくなりますから、誰も応援しないわけです。
ところが弥太郎は、お国のために、政府のためにという気持ちがあるから、真っ向から受けて立ったんです。結果は政府軍の圧倒的勝利です。
誰も手を挙げないなか、さっと手を挙げた三菱商会は、政府にとっては覚えめでたいですね。
当然、政府からの仕事が増えていきます。こうやって三菱商会は、またたく間に大きく成長していったのです。
海外に汽船が行くノウハウは、台湾出兵のときに試行錯誤しながら覚えたのです。それは、どこもやったことのない初めてのことです。
西南戦争のときも、「西郷軍、有利」という新聞記事を信じて誰もやろうとしないなか、政府からの依頼を二つ返事で受けて、物資を運んだ。しかしそれで大儲けをしたから、三菱商会は政商と言われたんです。
西南戦争が三菱商会にとっての二つ目の大きなビジネスです。新聞の記事とは逆をやっているんです。
台湾出兵のときも、まったく経験のないことだけれども、「やりましょう」と言って、前人未到のことをやるわけです。誰が何と言おうとやる。
この度胸と根性がなかったら、三菱商会のビジネスもきっとうまくいかなかったでしょうし、政界とのパイプもつくれなかったに違いありません。
自分の給料をカットしてでも断行した上海定期便の就航
運輸、海運のノウハウを得た岩崎弥太郎が、次にチャレンジしたのは、上海への定期便を就航させようということだったんです。
先ほども申し上げたように、当時の日本沿岸やアジアの航路は、すべてアメリカやイギリス、フランス、スペインの大型船が仕切っていました。
定期便から何から何まで全部、外国の海運会社に押さえられていて、日本の定期航路は一つもなかったのです。
そこで岩崎弥太郎が、これではいけない、このままでは日本の海運業は衰退してしまうではないかということで、割って入ろうとしたわけです。
そのとき三菱商会にはすでに、台湾出兵で得たノウハウがありましたし、それに汽船もある。
政府から十三隻も譲り受けているわけですから、これを使って上海への定期便を就航させよう、何が何でもやるんだ、と決意を固めるのです。その気概に日本政府も応援したわけです。
そのときの強力なライバルが、さっき言ったアメリカの太平洋郵船という会社です。この会社が岩崎弥太郎の前に立ちはだかったわけです。
まさに三菱商会と太平洋郵船との一騎討ち、生きるか死ぬかの戦いです。
それでどうしたかと言うと、岩崎弥太郎は自分の給料を半分にし、それから職員の給料を三分の一カットして、運賃の値下げ競争に立ち向かっていったのです。
日本を取り巻くアジアの航路はすべて外国の海運会社に占領されているではないか。国産の海運会社による外国定期航路を確立し、外国勢に一矢むくいてやろうではないか。
それには、ヨーロッパ並みの海運会社にして、日本の海運業を盛り上げていかなければいけない。
これは、お国のためなんだから、給料を減らしてでも徹底的に戦うぞ。岩崎弥太郎の徹底的な気概に社員も奮い立ったのです。
そして、とにかくお国のためにやることだからということで、給料をカットして一年、二年と戦ったんです。
要するに運賃のダンピング合戦をしたわけです。もちろん、サービスの競争でもあります。まさに生きるか死ぬかの競争です。
その結果、もうこれ以上は値下げできないと、アメリカの太平洋郵船が白旗を上げて撤退し、それによって、日本と上海の定期航路は三菱商会が独占するに至ったわけです。
その次に今度は、七つの海を制覇しているイギリスのP&Oという汽船会社がやってきました。世界一の汽船会社です。
そのP&Oという会社が、日本と上海を結ぶ定期航路に割り込んできたわけです。
このときも岩崎弥太郎は、「受けて立とうじゃないか!」と言って、真っ向勝負に出たのです。
また給料をカットして、値下げ競争、サービス競争に突入したわけです。値下げ競争、サービス競争というのは、我慢比べのようなものです。そして半年ぐらい戦って、結果どうなったかというと、三菱商会の上海定期航路にはお客さんが満席で、P&Oの汽船は乗客が数名。三菱商会の圧倒的勝利だったのです。
給料をカットして、経費を落とせるだけ落として、どこまでやれるか分からないけど徹底的に戦うんだ、勝つまでやるんだ、と。
その結果、アメリカの汽船会社は撤退し、イギリスの汽船会社も撤退して、上海定期航路は三菱が独占しました。世界的な大会社に勝ったわけです。
岩崎弥太郎は、お国のためにやるんだから、絶対に負けてなるものか、ということで、ここまでやったんです。
それだけではありません。次に、日本とアメリカを結ぶ定期航路も開こうではないかということで、日本とサンフランシスコ間の定期航路も就航させています。
アメリカの太平洋郵船に負けるか、ということで自分の給料を半分カットし、職員の給料も三分の一カットして徹底的に戦った。そこまで貫いたからやはり勝てたのです。
世界一の海運国イギリスに負けるか、絶対に勝つんだ、と徹底的に戦って、やはり勝った。その結果どうなったかというと、日本の周辺の海運の約八十パーセントのシェアを三菱商会が握ることになったんです。
誰もしたことがないんですから、弥太郎の一人勝ちです。もちろん、「こうやれば勝てる。新規航路を開拓できる」と新聞記事に書いてあったわけではありません。銀行のアナリシスでも証券会社のアナリシスでもない。
岩崎弥太郎の気概で勝ったのです。アメリカに負けるか、イギリスに負けるか、お国のためだ、日本をヨーロッパ列強と互角に渡り合える一等国にするんだ、と。
日本の会社による定期航路がないから、何が何でもつくり上げるんだ、世界レベルの海運会社にするんだ、という気概で次々と欧米の会社を駆逐していったのです。
