第四章 ご神業の原点は日常生活の中にあり~梅星ご奉仕星ツアーにて 2003年10月16日~
果物を剥くコツ
※2003年、富士箱根神業の後、ご奉仕者のために特別な「星ツアー」が行われました。
神事のお供えのところに、マンゴーが置いてありましてね。花の妖精がふわーっとしているから気持ちがいいのですが、やはり、果物の妖精のほうがパワーは強いですね。
それで、神事が終わった後、テントの皆さんにマンゴーを一人ずつ、全部こうやって剥いてあげました。ナイフは使いません。すべてというわけにはいきませんが、果物はだいたい手で剥いて全部きれいに食べられます。
メロンはなかなか難しいけれど、マンゴーとかパパイヤなら、もう「あっ」と気合でねじって皮が取れます。あまり新しいのはだめですけれど、触ってみて、ある程度やわらかければ、最初にピッと出して剥き始めると切れないで最後まで全部一本につながって、どこにも剥き残しがありません。
そういうものだと思っていたんですよ。ところが、皆「すごい、すごい」と言います。「こんなのは、誰でも剥けるんじゃないの」と思いましたが、これはちょっとした技術かもしれません。
さすがにリンゴやナシは手では剥けませんが、私の場合、切った皮が等間隔で全部つながっているのです。皮と実の間のところに栄養があるから、皮はなるべく薄く剥いています。
それがうちの女の子とかお付きの人たちが切ると、もともと球形のはずのリンゴやナシが、六角形とか八角形になっているのです。
「これは切り過ぎじゃ。円空仏の仏様を彫っているのか」とか言っていますが(笑)。
リンゴでもナシでも柿でも、皮と実の間のところに栄養があるから皮はなるべく薄く剥いて、そうすると丸くつるつるになります。そんなのは当たり前じゃないかと思うのですが、なかなかできないことらしい。それで、「はい、はい。貸してごらん」と言って剥いてあげます。
「先生に柿を剥いていただくなんて」
「そんなのいつでも剥いてあげるよ」と言っています。
菱研では、皆でお好み焼きを食べに行くと、必ず私が鉄板の前で焼きます。
皆さん、素人ですから、どうも味がピンときません。「あー、ちょっとこれ塩が足りん」とか「醤油が足りん」ということになります。まずいものを食べるのは嫌だということもありますが、それよりも先に体が反応して、自分で焼きそばを作り始めているわけです。せっかくご馳走するのですから、皆で気持ちよく、楽しくおいしく食べたいじゃないですか。
自動的に反応する奉仕の心
名古屋に「尾道」というステーキハウスがあります。
前に月刊誌で紹介しましたが、ご主人が尾道出身だから「尾乃道」という名前にしたそうです。ちょっと変わったお店で、そこへ行くと「今、自民党はどうだ」とか、「民主党はこうなっている」とか、社会評論を聞かされます。
だいたい私たちはカウンターで食事をしますから、それを聞きながらでないと料理を食べさせてもらえない(笑)。
料理は、もちろんプロのシェフが作ります。ただ、隣で秘書が塩をかけていたりすると、つい私は、「違うよ、君。塩はこうやってかけるんだ。あっ、かけ過ぎだよ」なんて反応してしまいます。
ついでに「この塩は、能登の塩で、一年に一回出てくる何とかの塩で」と説明してあげる。「練りがらしはこうだよ」とか、「この醤油は、和歌山の湯浅醤油のなかでも何とかしょうゆというたまりで……………」とか。
お店で使っている食材や、店の歴史も全部知っていますから、皆にワインを注いであげながら順番に説明していきます。
ですから、お店のご主人に、「もうお宅が来ると楽です。何も言わなくても全部やってくれますから」と言われます(笑)。それで、「お宅の先生はまったく逆ですね」と言うわけです。
そのお店には、いろいろな宗教団体の関係者の方々がおいでになるそうです。
近くにどこかの教団の教会もあって、本部の人が来たりすると、よく利用されているとのことですが、だいたい二階の座敷にあがって、お付きの人たちが「はー」という感じで気を使っていて、先生は何もしない。
そういう姿をよく見ているので、「お宅は、まったく逆ですね」と、ご主人は言うわけです。「ああ、そうなのかな」と思いましてね。
私としてはごく自然にやっていることです。それは、もう十五歳のころからご奉仕をする人間、奉仕者としての自分というのが身に染み付いていますから、もう自動的に反応してしまうのです。
無意識にやっていることなのですけれど、「尾乃道」のシェフは見ていますから、客観的に見たらそうなのかなあと。
もちろん、私のお付きの人たちも常に私に気を使ってくれています。けれど、それ以上に私は気を使っていて、お互いに気を使いっこしています。
日常のことでも自然にそういうふうにやっているし、何もないところから全部つくってきたし、会社もご神命によって興してきたから何でもやります。
駐車場係は一番ご神徳が高い
中小企業を興してきた人たちは、何でもやります。受付も事務も経理も自分でやる。書類も自分で届ける。販売も広告も何でもやります。何もないところから始めていくわけですから、全部、自分でやるしかありません。ブランドがないし、組織もないし、名前もない。
「株式会社東州○○です」と言ったって、そんな会社は、見たことも聞いたこともないのですから。
ですから、接触して「いいな」と思うかどうかだけです。人間的魅力、人間的温かさ、「いいな」と思うものがなければ誰もついてきません。
親鸞も日蓮も法然も一遍も、やはり、何もないところから興してきました。
最初は、誰も見たことも聞いたこともない。接触して感じがよかったから、「ああ、いいな」と思ってついてくるわけです。ですから、会社に来て仕事してくれるというだけでも宝物です。
優秀な人材と比べれば、「あれが足りない。これも足りない」ということになるかもしれません。かえって迷惑掛けているような人もいるんですけれど、少しぐらい能力が足りなくても、ゆがんでいても、神様のために一生懸命やるというのは宝物です。
私のように、何もないところからつくってきた人間、何もないところから神の道を広めてきた人間にしてみれば、もう本当に宝物です。
「神様のため、皆さんのために」と思って、一生懸命目立たないところでご奉仕をしている人は、「大変なのに頑張ってくれているな」と私は心から感謝しています。受付もいろいろ苦労があるでしょう。それから、特にご神事の場合、駐車場係がもう大変ですね。
真っ暗な夜道を走っていきながら、向こうのほうに何か赤く光っているものを見つけると、「あっ、あそこで神事やっているんだな」とホッとするでしょう。駐車場係の人が、誘導灯を振って案内してくれているのですね。
雨が降るなかでも、風が吹くなかでも、ずっと立ちっ放しで、ご奉仕をしている。神事会場から離れたところで、自分は会場の中の様子を垣間見ることもできないけれど、寒い思いをしながら皆さんのために車を誘導したり、道案内をしているわけです。
ご奉仕の皆さんはそれぞれ大変なのですが、特に駐車場係の場合は劣悪な環境といいますか、本当にご苦労様だと思います。
お祈りして、玉串もして、でも、結局は、何の神事しているのかわからないで、せいぜい明かりが見えたり、何か騒音が聞こえるだけです。自動車の種類ばかり覚えて、神事を垣間見ることもできないのですから。
ですから、私は、駐車場係の子というのは、いつも一番かわいいなと思う。私に愛されたかったら、駐車場係をしたらいいのです(笑)。
この間の白山か、岩木山だったかな。駐車場係の人だけ、カレーをご馳走しました。
ただ、私がそう思うぐらいだから、ご神徳は一番高いんです。人間が見て、楽でカッコよくて晴れがましいところでやっていることは、あまり徳は高くありません。目立たなければ目立たないほど、目立たなくてさらに大変であればあるほど徳が高いわけです。
しかし、そこは信仰を試されます。本当に揺るぎない信仰心がないと、普通の人間の価値観なら、ばからしくてやっていられないでしょう。
メルマガにも書きましたが、私は高校一年生のときから、毎朝、宗教団体の支部に行って、トイレ掃除をしてそれから学校に行っていました。
学校の帰りには、また支部に行って薪割りをして……というご奉仕の毎日です。「これは下座の行だ。神様が一番喜ぶんだ」と教えられ、素直に信じてずっと続けていたわけです。
そのころ、指にイボができました。先に妹にイボができて、「お兄ちゃん、イボできた。イボはうつるんだ。イボ、イボ、橋渡れ」と言っていたんです。「そんなのうつるもんか」と笑っていたのですが、本当にうつってしまった(笑)。
左手の薬指のところにイボができて、それがなかなか治りませんでした。ところが、トイレのお掃除を始めたら、あるときパッと見たら跡形もなく消えていたのです。観音様のお蔭で目が開いた「壺坂霊験記」という浄瑠璃がありますが、本当にそういう感じで、私の場合は神様のお蔭でイボが取れた。
たいしたことないような証なんですけれど、当時の私にとっては感動的な出来事です(笑)。本当に感激して、涙ながらに「イボが消えた、イボが消えた」と神様に感謝しました。
そんなこともありましたが、そういうふうにずっとご奉仕を続けてきたので、日常のことは何でも自分でするし、周りの人間に対しても自動的に反応します。これが大きくなってくると、社会、日本の国、人類へのご奉仕ということになっていくわけです。
日常生活の中の神業奉仕
神業奉仕というのは、日常生活のことができていることが大切です。
いくら「世のため、人のため」とか、「人類に奉仕して」と言っても、それは頭の観念だけです。言葉ではいくらでも偉そうなことが言えるし、文章に書くこともできます。しかし、果たしてその人の日常はどうなのか。
日々、仕え奉るのがご奉仕です。「神を行じていく」ということは、生活の中でそれが自然にできていなければ偽物なのです。
「愛念が大事」とか、「人類の愛」とか、「愛をもって帰一するは真心」といっても、日常生活の中で本当に愛を実践できて、そばにいる人も愛を感じるような人でなければ、本当の神様は動きません。
神事で真心を込めて祈るだけでなく、普段の生活の中でも、真心を込めて職場に行き、あるいは支部に行って、真心を込めて人と触れ合っていくというのが、真心の実践であり、神の実行です。それが、社会、国、人類というふうに広がっていくわけです。
本当の神様を動かそうと思ったら、日常生活の中で本物の神を行じていく。真心を行じていく、愛を行じていく、神業奉仕の精神を行じていく。生活の中でいつも自然にそれができている人がお祈りをすれば、たちまち神様に聞いていただけます。
心を愛で満たしてから叱る
愛とか真心とか言いますけれど、実際に生活の中で大きな角度で愛というもを実践していくためには、どうしたらいいのでしょう。
わからなければ、「神様、この場合どうするのが愛なのですか」と問いかけながらやっていくことです。
たとえば、誰に対しても平等にしなければいけないとわかっていても、やは人間の気持ちとしては、暗い顔でブスッとしている子より、いつもニコニコしていて明るく素直な子のほうがかわいいと思います。だから、つい「おいでよ」と言ってしまう。感情としては、素直で明るくてかわいくて一生懸命やっている子に気持ちが行ってしまうものです。
しかし、ブーッとしている人にも御魂があり背後霊もいるわけだから、そこは意志の力で、「いやいや。ちゃんと平等に扱ってあげなきゃいかん」と思って自分に言って聞かす。
そこは自分で調節します。ブスッとしていて、暗くてぶつくさ言って熱心じゃない子も、背後霊は嘆いているし、御魂も叫んでいるわけだから、ちゃんと言ってあげなければいけないなと思ってやっています。
ただ、愛と真心によって厳しくしなければならないときもあれば、優しくしたほうがいいときもあります。しばらく突き放さなければいけないときもあるし、よしよしと言って励ましてあげなければいけないときもあるわけです。
状況によって、いろいろ対応のパターンを変えていくことが必要ですが、心の中では、「この子がよりよくなってくれればいいのにな」「幸せになってくれればいいのにな」といつも思っています。
特に、厳しくするときは気をつけなければなりません。本当に腹が立っているときに怒ると、怒気が刺さって土偶になってしまいます(笑)。ですから、腹立てているときは怒ってはいけない。
「腹が立つ」と言いますけど、本当にお腹がピッと立つのです。それは、自分でわかります。ですから、本当に腹が立ったときは、グーッとこらえて、抑えて、抑えて、祝詞を奏上する。「高天原に神留座す」とか、「ひとふたみよ」と言うと、立った腹がグーッと治まって、溶けていきます。
腹が立った状態を治めて、「その人のためによかれ」という念を満たしていく。そして、もう本当に自分が愛念に満ち満ちてきたときに叱るんです。そうすると、厳しく言われたことの奥に温かいものが残ります。
もう一つのケースとして、背後霊が腹を立てている場合があります。そのときは、自分のお腹は、全然、立っていません。お腹は全く穏やかなのですけれど、背中と血管が立ってきます。背後霊が腹を立てると、ブブーン、クワーッと背中が腹立つ。
それでも、グッとこらえて、自分の心を愛念に満たしてから怒るんです。そうすると、叱られてはいるんだけど、どこかに温かさが残っている。そういうときでないと、叱ったり厳しくしないほうがいい。自分が腹立っているときに怒ったら、向こうに刺さりますから。
そういうことを、日常生活の修業の中でやっていくこと。自然にそれができるようになるまで、最初は努力です。意識してそうしていると、だんだんと自然にできるようになっていきます。それでも百パーセントではありませんが、百パーセントに近づける努力を続けていくことが大切です。
それを実行しているときというのは、やはり御魂がそういうふうな神霊域にいるのです。背後霊も見ているし、背後霊も一つになっている。ですから、そういう状況からお祈りすると、神様はたちまち聞いてくださいます。
神様が喜ばれる最上の心とは
たとえば支部の中でも、周囲の人間の一人ひとりに対する思いやりとか、愛とか真心、一人ずつに対する神業奉仕ということを意識してみてください。
「神業奉仕」という難しい言葉よりも、簡単に言えば、「お世話をしていくこと」。喜んでお世話をする。無意識のうちにお世話をしている。自然にお茶をくんで歩いている。そういう自分になっていくことです。
もちろん、お茶をくむとか、塩をかけるとか、焼きそばを作るのがすべてということではありません。何でもかんでもそういう細々としたことばかりやっていると、大きな仕事ができなくなりますから、皆で協力して何かを一緒にやる場合は、役割を分担して人に任せることも大切な要素です。
今、お話ししているのは、卑近な事柄ですが、自然にそういう気持ちになって行動に出てくるような人でないと、本当の神様は動かないんです。
神様は、すべて見ていらっしゃいます。いかに、日々、奉仕の心と真心を実践しているか。そして、今度は、それを何か月、何年貫き通しているのか。貫いている年月日によって、加算されていくわけです。
そういう自分になっていくことは、本当の信仰心がないとできません。
たとえば、駐車場係を喜んでやる。
「神事会場の中の様子はわからないけれど、ずっと夜に明かりが見えていた。かすみに紛れたあの明かりはなんて素敵なんだろう。今日のご神業は素晴らしかった」
それが、最上の神様が喜ばれる心、奉仕の心、神に近い心です。
メルマガにも書いたように、神事というものは、自分の心が神に向かうかどうかのセレモニーなんです。ご奉仕もそうです。
ご奉仕というのは、支部のみんなのためにやっているわけじゃないし、組織のためにやっているわけでもありません。もちろん、支部やみんなのためでもあるわけですが、最終的にはやはり神にささげる行為です。それをブツクサ言いながらやっていたら、せっかくの神にささげる行為が汚れてしまう。
それでも神様は受け取ってくださいます。神様は受け取ってくださるのだけれど、ブーブー言いながらやっていると、自分で上からほこりをまぶしたり、泥を掛けたりして、自分で自分の行為を汚しているということなのです。
言上申し上げることの大切さ
ですから、ご奉仕をする場合は、必ずそこに神様がいらっしゃると思って「今からご奉仕をさせていただきます」と言上申し上げることです。
「神様に喜んでいただくためにやらせていただきます。神にささげます」と、お断りをしてやる。時間とエネルギーと労力と体力と気持ちのすべてを、「神様に喜んでいただいて、みんなに喜んでいただいて、神事が成功して素晴らしくなりますように」と。
そういうふうに言上申し上げて、神にささげるということを最初にやると、その瞬間から神様はパチッと受け取ってくださいます。すると、自分の証としてどういうことがあるかというと、何か知らないけれどウキウキして楽しいのです。
駐車場係で、吹きっさらしの風の中に案山子みたいに立っていて、寒い雪のときなんかそのまま硬直して樹氷みたいになっているのだけれど、なにか知らないけれどウキウキしている。凍えて固まっているのだけど、ウキウキしながら固まっちゃっているわけです(笑)。
それは、御魂が発動して、御魂が喜んでいて、神様にお受け取りいただいているからなのです。神に近いところにいるからです。背後霊も応援してくれています。
同じご奉仕するのだったら、そういうふうにしていかないといけない。ご奉仕をする喜びというのは、本当に御魂が感じる喜びです。神様が下さる愛を感じるから、ウキウキする。御魂がそれを感じて発動しているから、ウキウキするわけです。
ご奉仕していてウキウキとして楽しくないときは、どこかヘンなのです。やっていてもなにか楽しくない、ウキウキしない、重くてやる気もしないというのは、最初に神様に言上申し上げないからです。
ご奉仕をしている行為の一つひとつが神にささげるもの、神を行じていく実行です。その原点となるものは、日常生活の中での実行であり、それが社会のために、国のために、人類のために奉仕をしていくというふうに広がっていく。
仏様も如来様も菩薩様も守護霊団の皆さんも、神社の神様もエンゼルも皆さんそうです。ご奉仕の人と同じ気持ちです。
ですから、日常生活でもずっとそういう精神で生きていれば、肉体がなくなって死んだら、そういう方々のところへスッと行きます。
それで背後霊になって、またその方たちと一緒に応援に行くんです。それが、本当に成熟した信仰心。常に喜びをもってずっと実行できるのが、本物の信仰心です。
そのご褒美として、ご奉仕をしているときはウキウキ楽しい。なんだか知らないけどうれしい。そういう仲間同士で話をして、一緒に食べに行って、祈りに行くのがまた楽しい。
さらにこのように、奉仕者のための星ツアーをこれからも行いますので、またもっと楽しい。寝ている間に行っちゃっている場合も多いですけど、それでも御魂は行っているということで、草木も眠る丑三つ時に行く(笑)。
星に行ってこんな話を神様から聞いても、なかなかスッと受け取れないでしょうから、星に成り代わりまして私がまず申し上げました。そういうことで、そろそろ星に行きましょうか。
九十五歳で満願の人生設計
≪星ツアー後のインタビュー≫
さっきのお話が始まる前ぐらいから、皆さん、どんどん席を立ってだいぶ少なくなってきました。でも、残ってらっしゃる方もこれだけいるわけで、今日は平日なのにどうなさるのですか。もうあらかじめ覚悟して、「お昼から行きます」と会社に言ってあるのかな。
もう一人か二人聞いて終わりましょうか。最後の締め括りにすごいことが出てくるかもしれません。聞いてみましょう。
Bさん:北極星に行ったとき、最初に見えたのが猪苗代湖の風景でした。
「あれ、なんで猪苗代湖に来たんだろう。なんで磐梯山なんだろう」と思っていましたら、豊雲野大神様が出ていらっしゃいました。なんでだろうと思いながら、この間、今年はずいぶんお世話になったので、「お世話になりました」とお礼を申し上げました。
それで大神様に「妙山に行きたいんですけど、どうしたらいいでしょう」とお尋ねしますと、磐梯山のほうに向かってスッと連れて行ってくださいました。
その磐梯山の中のそこから下のほうに下がっていったような気がしたんですけれども、ゴツゴツした岩のようなところが見えまして、そこに誰か一人立っていらっしゃいます。
誰だろうと思ってそばに行こうとしたのですが、なぜか近づけません。よくわからないんですけど、間違っていたら申し訳ないんですけれども、なん仏様のような感じの方が岩の上に立って、一生懸命お祈りされているようでした。そういうお姿しか拝見することができなかったんです。
深見先生:磐梯山の下のようなところにいた仏様というのは、済佛さんというお坊さんです。老祖様の命を受けていろいろメッセージを送ってくださっている。
済佛さんは、中国の霊隠寺というお寺にいたと言われていますが、本当は済佛さんがいたのは霊隠寺の近くの違うお寺です。あなたが逢ったのは済佛さんで、伝えたいことがあるから出ていらっしゃった。
これがその仏様の言っていたことです。
済佛さんは中国人で日本語はよくわからないので、白隠が通訳しながら書いたものです。これをワープロに打って、ツアーに参加された皆さんに送ってあげてください。写真を撮って送ってあげましょう。
梅星ご奉仕星ツアーご神示 二〇〇三年十月十六日
人生はたちまちの内に過ぎ行き、死を迎えることとなる。
還暦までに一生の功の枠が決まり、七十七才でその枠が最上の枠まで広がり、
九十五才で道の実り満願となる。
おのもおのも、その発願する所小なるにより、
老祖の命を受けて来たる済佛なり。
志を高くすべし。
長寿と健康と知徳と功は、
志す所と努力と継続力によるなり。
中途半端な自己満足的な奉仕には、真の徳と功候は備わらず。
長寿全うして、知徳高く、
年季を経ても変わらぬ、誠と献身の実行のある者こそが、
菩薩、如来を越えた神の位を得るのである。
各々、それを目指して励むべし。
なまぬるく、なまぬるし。
知徳の研鑽特になまぬるく、
技も技量の研究も甘い。
もっと人の傾向し、求むる所をとらえて物を図り、
人を導き育てよ。
法施の徳至らざり。
白隠と済佛の合作
「人生はたちまちの内に過ぎ行き、死を迎えることとなる。」ということは、すぐに年を取って死にますよと。
若いうちはゆっくり時間が過ぎていくけど、年を重ねるごとに速くなっていきます。小学校のときは時間ってゆっくりだったけれど、中学になって少し速くなって、高校になるとさらに速くなって、大学に行ったらもう駆け抜けるようです。
それ以降は全力疾走で、その後は車に乗って、飛行機に乗って、ジェット機に乗って、コンコルドでしょう。一年というのが加速度的にだんだん速くなっていくのですから、本当に、あっという間です。
「人生はたちまちの内に過ぎ行き、死を迎えることとなる。還暦までに一生の功の枠が決まり、七十七才でその枠が最上の枠まで広がり、九十五才で道の実り満願となる。」
それ以降はオマケで生きていると。
「おのもおのも、その発願する所小なるにより、老祖の命を受けて来たる済佛なり。」
「志を高くすべし。この箇所になってきたらふわーっと温かいでしょう。長寿と健康と知徳と功は、志す所と努力と継続力によるなり。」
長生きして健康で頑張って、知徳勉強して賢くなって皆の役に立つ、神の役に立つ功を立てるということは、みんな、志すところと、その志すところをどれだけ努力して継続していくかということによって決まってくるんです。
だから、皆さん、この中で、少なくとも、「還暦までに目いっぱい自分を磨いて、七十七歳でまた枠を最高に広げて、九十五歳まで一生懸命徳を満願にするんだ」という発願を持って生きている人はあんまりいない。
「とにかく甘い「っぱい頑張ろう」とか、「伊勢を頑張ろう」とか、「来年頑張ろう」とか、三月先とか半年先ぐらいのことでしょう。
ご神業はそうなんだけれど、しかし、もっとその奥の発願がこれぐらいの単位で志さなければいけない。
皆さん、還暦まであと何年あるでしょうか。私なんか、あとちょっとしかありません。あと九年で還暦です(二〇〇三年当時)。
それで、もうその枠が決まってしまう。さらに、もう十七年頑張って、七十七歳で、その枠の最上まで伸ばすことができる。さらに頑張って、この世の功は九十五歳まで生きたら満願になる。
そこに行くまでは、満願ではない。それに近いぐらいは行くでしょうけど。だから、皆全員、九十五歳まで生きる発願をして、七十七歳まで目いっぱい枠を広げて、還暦までに、とりあえず自分はどれだけ立派なものになるのか。そういう一生のスパンで考えて発願をし、志を立てて生きなければいけない。
研鑽と努力と器を磨かなければいけない。
それが、目先のことばっかりじゃないか、あまりにも志すところが小さいじゃないかということです。
「中途半端な自己満足的な奉仕には、真の徳と功候は備わらず。」
功候というのは、「功と徳分」ということ。功と同じ意味です。
「中途半端な自己満足的な奉仕には、真の徳と功候は備わらず。
長寿全うして、知徳高く、年季を経ても変わらぬ、誠と献身の実行のある者こそが、菩薩、如来を越えた神の位を得るのである。」
諸葛孔明は、亡くなってから「昌佐神」という神の位が付いています。菅原道真は天満大自在天神、つまり天神様になっていらっしゃいます。皆、神の位です。
どうすれば死んですぐに神の位に上れるぐらいになれるのか。長寿全うして、知徳高く、年季を経ても変わらぬ誠と献身の実行のある者こそが、菩薩、如来を超えた、神の位を得るんだよと。
神の位を得るのが神人合一です。人間でありながらどうしたら神の位に達するのかということで神人合一の道が降りているわけですから、これを目指さなきゃいけない。
「各々、それを目指して励むべし。なまぬるく、なまぬるし。知徳の研鑽特になまぬるく、技も技量の研究も甘い。もっと人の傾向し、求むる所をとらえて物を図り、人を導き育てよ。」
みんなが、どういう傾向にあるんだろうか、何を求めているんだろうか、ということを考えて物事を図って、人を導きなさい、そして育てなさい。
「法施の徳至らざり。」と。
人を導いたり、人を育てたりするところを、もっともっと、人々は何を求めてどういう傾向があるのかを調べて、もっと研鑽し勉強しなさい。その知徳が足りないです、勉強が足りないですよ。ということを、妙山のふもとに仏さんが言いにきたんです。北極の妙山の使者はこれを言っている。
ああ、胸がすがすがしいね。気持ちいいね。
皆さん、発願といってもやっぱり人生設計、これにしましょうね。一応、全員九十五歳まで生きることになっていますので(笑)。
いや、「生きるようにしてください」と言えば、そうしてくれますから。
寿命が足りなくても、十年ゆとりがあれば何とかできます。もう一~二年し寿命が残っていないという場合は、ほとんど決まってしまっているからなかなか難しいけれど、十年余裕があれば、方向がどんどん変わっていきますから、何とかなります。
ですから、目標は全員九十五歳。
「先生、百十歳はダメでしょうか」って。それでもいいですよ。九十五歳以上ご随意です。後はお釣りの人生ですから、ヨボヨボしながらでもそれなりにいい人生を送ればいい。
一応、九十五歳まで行けば、この世の功が満願になるので、そこまで長寿を全うし、そこまで勉強して功を立てたら最高の人生です。今世生まれてきた意味を最大限に発揮できるわけです。
そういうことが言いたかったようでございます。そこまでの志を立ててやらないといけない。今のままでは志が小さいですよ、志が低いですよと。そういうことを言いたいために仏様は降りてこられたのです。
常に上を目指して研鑽を続けること
では、もう一人インタビューを聞いてみましょう。
Cさん本当に一瞬だけしか見えなかったんですが、最後にすごくきれいなロングヘアの女の人が一人と、もう一人も女の人だったんですけど、ちょっと顔はあまり覚えていません。
手でお水をくむような形で私の前に差し出して、その中に何か入っていたんですけど、そのときに「永遠に平和を、永遠に平「和を」という言葉を言われました。それだけしか見えなかったんですけど、何か無条件に感動してしまって……そんな感じで見えました。
深見先生水をすくうように、手を差し出した女性というのは、自分の姿です。本当に「永遠に平和を」と願うのだったら、それを取り次ぐ自分自身が、先ほどのご神示にあったように、高い志、大きな志を持って励まなければいけない。そうでなければ、「永遠に平和を」という願いは十分にかないませんよということです。
志を持った分のように神様がかなえてくださる。高い志、大きな志を持って励んでいけば、自分が磨かれ、どんどんレベルアップしていきます。ただ、もともとすごく賢い人が神の道に生きて高い志を持っても、道を志したことによってどの程度賢くなったのかよくわからないものです。
もともとすごく賢い人は、微妙に少しは賢くなっているのだけれど、なかなかわかりづらい。
これに対して、最初はちょっと足りなかった人が、大きな志を持って普通になっていったら、すごく賢くなったと思うじゃないですか。
普通の人はちょっと賢くなったら、ものすごく賢くなったと、周囲も自分も思う。それぞれのレベルの中で上がっていけばいいわけだけど、落差が大きいと感動します。皆さん、落差で勝負ですね(笑)。
もともと賢い人もいます。賢い人はどこにでもいるんだけど、絶対に上には上がたくさんありますからね。私なんかもいつもそう思っています。
たとえば、南方熊楠さんという人は、一切経典を二度読んで、何ページの上のほうにこんなことが書いてあってということを全部暗唱していた。
一切経典というのは版木で六千何巻あります。本だったら百数十冊でしょう。それを二度読んで、何ページの上の段にこういうことが書いてあってと全部言えるのですから、メチャクチャすごい記憶力です。それに比べれば、私なんか記憶力の端くれにもなりません。
鳩山一郎さんも衆議院で演説する原稿を忘れたとき、白紙の紙を見ながら、元の原稿に書いてあったことを一言一句間違えずにすべて言ったそうです。紙は見ているのだけれど、何も書いてないんです。一回見たものは全部覚えていて、一言も間違えないで全部言ったという話です。
もちろん、記憶力がすべてではありません。お釈迦様とかイエス様とかマホメットは、そんなものすごい記憶力ではなかったわけですから。
少なくとも、天文学的な数のものを暗唱したというような記録は残っていません。しかし、世の中には、ものすごい記憶力の人がいるわけです。ものすごい何けたの計算を全部暗算する人とかね。
だいたいそういうのは、一万人に一人ぐらいいるらしいです。ただ、ほとんどがキノコとか、細菌とか、なにかヘンテコリンなものに興味持って学者になってしまいます。すごい博士になっている人というのは、ものすごい記憶力なんだけど、ちょっと変わった人が多いかもしれません。
北原白秋は、「広辞苑」を全部暗唱したと言います。最初から最後まで「広辞苑」に書いてあることを全部正確に記憶していて、何を聞いても、「広辞苑にはこう書いてある」と即座に答えられたそうです。
「広辞苑」を全部暗唱している人の書いた歌には、かないませんね。本当に世の中には、とてつもないような人がどの道にもたくさんいます。
歴史を見てみれば、さらにすごい人はもっとたくさんいます。レオナルド・ダ・ヴィンチが、ある絵描きの先生のところに初めて弟子入りしたとき、「ここに、ちょっと描いてみなさい」ということで描いた絵があまりに上手だったので、その先生は絵描きをやめたというんですからね。
実際、その作品も残っています。全体を先生が描いて、レオナルド・ダ・ヴィンチがはしっこにちょっとだけ描いた絵があるのですが、先生が描いたのはまあまあなんです。レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた部分だけ圧倒的に際立っている。初めから、めちゃくちゃうまいんです。
そんな人が、また生まれ変わって出てくるわけだから、少しでもそういう方たちに追いつこうと思ったならば、本当に覚悟を決めて、それぐらいの志を持って頑張っていかないといけない。
自分の周囲にいる人だけを見て、みんなと同じような並のレベルだけ考えていれば、「まあ、こんなものでいいのかな」と思うんだけども、世の中には本当にスゴイ人がたくさんいます。そういう人と会うと、「こんなんでいいんだろうかなあ」と思ってしまいますよね。
私もいつもそう思っているんですけれども、いつの間にか自分自身が人からそう思われる存在になっていた(笑)。
いろいろなことをしておりますが、どこへ行っても驚かれることが多くなりました。それで年齢を聞かれて、「昭和二十六年生まれで、今年五十二歳です」と言うと、だいたいの方が「へえー」と思うらしいです。中国では、会う前は八十六、七歳と思われていたようです。
会員さんのなかにも、最初に私を見て「若いのでビックリした」という方が結構いらっしゃいます。「神界からの神通力」(たちばな出版刊)は、三十四歳で書いたのですが、皆さん、六十~七十歳ぐらいだと思ったのではないでしょうか。
「実際にお目にかかって、若いので驚きました」ということはよく言われました。「強運」は三十五歳です。「神霊界」も三十五歳で書きましたから。
それからもう一万年ぐらいたったかな?そこまでたってないか(笑)。
いつのまにか、時には驚かれたり、逆に目標にされたりする存在になってはきましたが、それでも世の中には、ものすごい人がたくさんいます。どんな分野においても、上には上がありますから、少しでも近づいていくように勉強しなければといつも思っています。
そう思いながらこの年になってきて、さらに「高い志が足りない」「勉強が足りない」「まだまだ足りない」「全然だめだな」と、ずーっとそう思い続けながら、一歩でも二歩でも近づこうという気持ちで、努力をしているのです。自分よりも、もっと上のことばかり考えて、そうじゃない人のことはあまり思いません。
あの世に行ったり、こっちに戻って来たりする感覚は敏感ですけど、それでもスウェーデンボルグとか出口王仁三郎さんとか、たくさん神霊界の方がおられますからね。
ただ、仕組の神様がそこにお懸かりになって教えてくれるかどうかということは、神様のほうから白羽の矢を立てるわけです。
自分で行をすれば、ある程度の霊能力を身につけることはできるけれど、それだけの人間には仕組の神は、お懸かりにならない。霊能力があると言っても、傲慢にならずに、純粋な真心をもって一生懸命神様のために生きていく人にお懸かりになるわけです。
その神様が教えてくださるから、普通の霊能者にわからないことがわかるだけのことなんです。
ですから、それは神様が教えてくださることであって、自分の能力ではありません。客観的に考えれば、それも能力の一環ではあるかもしれませんが、自分自身としては自分の能力と思っていません。神様から授かったものをお取り次ぎさせていただいているだけのことです。
それでは、自分自身はどれだけのものができるだろうかと考えたら、常に足りないなあと思って、ずーっと勉強し研鑽してるわけです。世の中にはものすごい人がたくさんいます。
それと比べてみれば、まだまだです。全然、研究が足りない。技と技量の研鑽が足りない。さらに、高い志、大きな志を持って励んでいく必要があります。皆さんもそうですし、私自身もそうです。
今日の星ツアーは、皆さんの日ごろのご奉仕に対するご褒美なんだけれども、こういう方向が示されることが、やはりご褒美なんですね。
