一丸となるための史上最高のノウハウ ~神柱になれるシリーズ6~(Vol.4)

第二部 秩序を保ちながら発展するには~全国支部代表者会議にて 2000年12月24日 2000年12月24日~

熱田が開かれた意味とは

今日は、二つのお話をしようと思います。

まず、第一の論点ですが、年内にどうしても、関西のエリア議長、コミッティー、支部代表者を集めた合宿を、熊野でしなければいけないということになりました。

発端は六月だったのですが、関西では、なかなか物事が進んでいるようで進まない状況だったのです。ある人が浮いたら、ある人が沈み、ある人が右にカーブしたら、ある人が左にカーブしてという状態で、すごい発展力を秘めているのですが、常に発展的にグチャグチャしているというのが関西です。

先日、関西のコミッティーが来まして、「先生はなかなかお時間がとれないと思いますので、私たちだけで、丹波篠山で、関西のミーティング合宿をやらせていただきたいのですが……」と言ってきました。

そこで私は、「たぶん何も決まらないで、あーだこーだ、あーだこーだと言うだけだよ。普段から、お互いに、それぞれがねじれの位置で回転しているものが、合宿して三泊四日もいたら、本当にねじれているということがわかって、亀裂が起きてくるから、やめなさい。

私がいるときでなければいけない」と言い、年末も押し迫っていたのですが、どうしても年内にやらなければならないということで、熊野で合宿をすることにしました(注「関西エリア支部代表者合宿」2000年12月16日)。

その本質的なことは何かということは、このマンスリーレビュー(注 vol.35)を読んでいただけばわかります。今回のものは、過去最高の八十何ページの分量になりましたが、私も一時間半しか寝ないで、ずっと書き続けていました。

それは、このときに活字で残しておかないと、皆さんに見ていただけない。そのときに残さないと、また次にいろいろなものが出てきますから、そのときごとに、無理をしても活字に残しておかないと、ご神業というものは残っていかないということがあるものですから、寝ないで、フラフラになってでもやるわけです。

というわけで、詳しくはこれを見ていただけばわかりますが、要するに、今年、熱田が開きまして、土星の神が現れました。熱田が開いて、土星の神が現れたということは、すなわち新しいルール、新しい規律、新しい秩序というものが生み出されてくるということです。

鎌倉幕府江戸幕府という幕府をつくったのが、土星の神です。

伊勢の神は、皇室をつくり、それが連綿と二千六百数十年続いています。天皇が、直々に政を行う、天皇のための神様が、伊勢です。

熱田には、伊勢と並んで、三種の神器の一つが祀られていますが、武士が政を行う幕府というものをつくった神です。

ですから、我々の活動も、伊勢を中心に、平安時代や室町時代といった京都に都があったときのように、少しぐらいごちゃごちゃとしていてもよろしかったわけですが、熱田が開かれたということは、ワールドメイトの幕府ができるということなんですよ、ということを神事のときにもお話ししました。

そこで、我々は、熱田の神、土星の神の御働きによって、この二十一世紀を迎える前の、二十世紀のうちに、ワールドメイト幕府、ワールドメイト連邦政府をつくらなければならないわけです。

北海道、東北、関西、関東といったエリアが、いわばカリフォルニア州やコネチカット州といった州のようなもので、そこにシティー、すなわち、それぞれの支部があるわけです。

支部がシティで、そこがスティトになってユナイテッド・スティツ、連邦政府になっていく。連邦政府とも幕府とも言える、そういった枠組みを、どうしても今年中に作らなければならない。

そういう大きな方向性の中で、最も枠組みができていなかったのが関西だったものですから、その関西に対して、「こうするんだ!」と神様がお示しになったことが、実は、全国のワールドメイトの組織の根幹となるべきところだったのです。

これが、熊野で行った関西の合宿だったわけです。このときのことは、マンスリーレビューで私が詳しく書きましたので、見ていただければ、その経緯はわかりますから、何回でも読み返していただきたいと思います。

そこでも書きましたが、熊野での合宿までにも、カンボジアに四日間いまして、病院の四周年記念の行事に参加したり、孤児院に行ったりと、いろいろとあったわけですが、その四日のうち、二日は完全徹夜でした。

そこでも、今年の伊勢に何が起きるのかということを書き続けていましたし、熊野でもコミックの校正やら何やらと、二十世紀の今年のうちに、おさめなければならないことがたくさんありました。そうやって、たくさんのことを並行的にやっていたものですから、合宿一日目は、熊野で参拝をした後、起き上がれない状態でした。

それでも、熊野に参拝していますし、神様にずっとお祈りをしていました。そして、二日目に、ぱっと上から浮かんできたのが、「関西で、かねがねあった問題点をすべてピックアップしなさい」ということでした。それを、集まっているコミッティーたちに伝えまして、かねがね関西において問題点だったのは何かを考えさせました。

それらを全部列挙しますと、三十一項目あったわけです。これらを見て、皆さんならどう考えるのか、それを私がどう分析したのかということが、マンスリーレビューに書かれているわけです。

この三十一項目をパッと見て、どうしたらいいのかわからないと思いますが、私から見たら、こんなのは簡単なことです。なぜなら、私は、日々、たくさんの仕事をこなしながら、たくさんの組織で、たくさんの問題点に直面し、それらを分析し解決していっているからです。

この三十一項目の問題点を、どう分析し、どうしたのかという様子は、四時間十分のテープが届きますので、それを聞いてください。その間、一秒も休むことなく言い続けたのは、「問題点は、こういうふうに分析していくものなんですよ」ということです。

皆さんは、このようなことで、物事の分析の仕方や運営の仕方の基本を勉強しているわけです。幕府をつくり、連邦政府をつくっていくためには、結局、運営する人が、運営のやり方の原則・基本というものを、習得していかなければできないのです。そして、規約を作ります。

規約には、罰則規定とプラスの規定がありますが、一応、文章化し規律化したものがないと、問題が起こったときに、規範に基づいて、どのように決断していけばいいのかがわかりません。

日本にも、日本国憲法があり、商法、民法、会計法などの法律があり、行政官庁から出される通達があります。それらによって、社会が成り立ち、国家が成り立つのです。そして、最低の基準というのが裁判です。人間同士、もめてどうするかというときに、法によって、それを裁き、決断して解決していきます。これが、社会を運営していく最低基準を示すということなのです。

しかし、人間というのは、最低基準で生きてはいけないわけで、生きるときには最高基準で生きていくようにする。

最高基準とは、何かというと、宗教です。物事を進めていくときには、倫理観、道徳観、宗教観をもって進めていく。

その次に、文学性や芸術性というものがありますが、やはり、「宗教観、倫理観、道徳観をもって、高い目標に向かって頑張っていこう」というのが最高基準なのです。

このように、普段は、宗教観、倫理観、道徳観をもって、高い基準で進めていくのですが、物事がこじれたり、問題が起きたり、行き詰まったりしたときに、どう解決していくのか。そうなったときには、法律が出てきて、法に基づいて解決していく。

日本は法治国家です。倫理観、道徳観、宗教観をもって進めていくのですが、やはり人間ですし、民主主義の世の中ですから、それぞれの性格や価値観、ものの考え方に違いはあります。そういうときに、どうすればいいのかを示すのが法律なのです。

この国家でいう法律にあたるのが、それぞれの組織の規約であり、ルールであり、規範です。会社でいえば、就業規則がそれにあたります。

法に基づいて、どう解釈していくのか、この場合にはどうするのかということで、司法制度があります。また、法に基づいて、政をしていくのが、行政です。このように立法と行政と司法の三権分立していることによって、健全な社会が成り立つようになっています。

私たちは、ワールドメイト幕府やワールドメイト連邦政府として、世の中に良きひな形を作っていくように、動いていかなければならないわけですが、熊野の合宿は、その一つの大きな転機だったのです。

二十世紀の今年中に、ワールドメイトのご神業、ワールドメイトの組織、エンゼル会やそれぞれのエリア、それぞれの支部の方向性や枠組みをきちんと決めておいて、二十一世紀となる来年からは、新しい世の中、新しい社会、新しい神業の方向に基づいて、我々も新しく脱皮しなければならないのです。

我々が、そのように、新しい形に素晴らしく脱皮することで、日本や世界の国々に、その良いかたちがあらわれてきます。ですから、我々には、本当に素晴らしい良いかたちを進めていく責任があるのです。

そういうことですから、今年中に、規範を作りたいと思います。

我々は宗教グループですので、宗教、倫理、道徳という最高の価値基準で生きていくのですが、運営をしていく上で、それぞれの価値観があり、それぞれの性格がありますから、民主的なやり方をしていくと、どうしてもぶつかり合いが出てきたり、問題が起きてきます。

それを「どう解決していくのか」「どう進めていくのか」「どう決断し実行していくのか」というときに、規範とルールが要るわけです。

土星が開かれて、熱田が開かれたということは、今年中に、この熱田の神の御働きを、我々の組織の中に採り入れて、きっちりと現実の形にしなければならないということです。

ですから、お互いに忙しい中なのですが、年内に、この枠組みをしっかりと取り決め、その方向性を打ち出していくということが、今回の支部代表者会議の大事な趣旨であり、意義です。皆さんも、そのようにご理解いただきたいと思います。

「議事運営」とはいかなるものか

「みろくの世の五カ条」における「秩序」とは

「みろくの世の五カ条」

一、信仰心

二、愛念

三、秩序

四、調和

五、平和の心

今までの私たちには、「みろくの世の五カ条」のうち、「信仰心」と「愛念」があり、それから、個性と面白さ、ユニークさとバラバラさがあって、一生懸命、人形・形代を書いていくということがありました。

それなりの秩序の中で、信仰心と愛念は、どこよりも盛んだったのですが、今年からは、ぼちぼち「秩「序」というものをしっかりと身につけていきたい。

秩序があって初めて、信仰が本物になり、愛念が本物になっていくからです。 0 そうして、信仰と愛念が、秩序によって本物になっていくと、次に、「調和」が生まれてくるはずです。五カ条のうちの四番目ですね。

「信仰心」があり「愛念」があり「秩序」があって、初めて「調和」が出てきます。その調和とは何なのか。「信仰心」と「愛念」と「秩序」との調和なのです。

そうすると、いろいろなところで、調和というものが出されていきます。そして、これが「平和の心」です。「信仰心」「愛念」「秩序」「調和」は、すべて「平和の心」に基づくものでなければなりません。

戦争中の日本は、確かに「信仰心」をもち、「愛念」をもち、五人組で「秩序」をもって、一丸となって戦をしていたわけですが、戦のために一丸となるのではいけませんし、民族のためだけでもいけません。やはり、グローバル「平和の心」に基づいて、進めていかなければならないのです。

「みろくの世」とは、社会が、この「五カ条」に基づいて進んでいく世の中のことですが、まず「隗より始めよ」ということで、我々がそうならなければなりません。

ワールドメイトの組織や、それぞれのエリアにおいて、「信仰心」「愛念」をもち、「秩序」をつくり、それらが「調和」しているという方向性の中で、皆が、にぎにぎしく「平和の心」でなければならないのです。

これが、熊野で出された「激情を抑えて忍耐をする」ということであり、そうすることで、「平和の心」が生まれてくるのです。信仰心があり、愛念があり、秩序があって、皆が調和しながら、互いによく喧嘩しているというのでは、全然だめです。

「平和の心」といいましても、抽象的ですが、その中には、「秩序」があり、「愛念」があり、「信仰心」があり、「調和」がなければいけないという「平和の心」なのです。「五カ条」は、そのように相互に関連し合っています。

この「五カ条」が実現されているのが、「みろくの世」です。

我々は、少なくとも、まず自分自身の心の中に、「みろくの世」をつくらなければなりません。次に支部の中で、この「五カ条」に基づく運営がなされ、それからエリアの中でも、そのような運営がなされ、ワールドメイト全体においても、そういう運営がなされなければなりません。

そのような形を、二十一世紀の来年から、私たちが目指していくために、幕府をつくった熱田の神が現れて、新しい秩序とルールと規範を作って、今年を終えるということだったのです。

今日が、今年最後の支部代表者会議ですから、今日に間に合うように、お互いに忙しい中でしたけれども、熊野でのミーティング合宿が、出されたのです。

もちろん、私の経験や知識、論理や悟ったものに基づいて出されるのですが、熊野の神にしっかりとお祈りした後に出てきたものですから、熊野の神様が出された一つの方向性だとお考えいただきたいと思います。熊野の神は、芸術、宗教、学問の神であり、地にならしていく神様、素盞嗚尊です。

関西がグチャグチャしていたのも、この「秩序」ということを打ち出すためだったのです。関西の最も秩序がない状態が、社会の役に立ち、仕組の役に立ったわけですから、本当によかったと思います。

以上のことが、マンスリーレビューに書かれていなかったことですし、この支部代表者会議で確認していただきたい、ご神業の方向性から見た、大きな枠組みですし、神業的意義です。

これをまず、しっかりとご理解いただきたいと思います。なんか頭がスカッとしたでしょう。ご神意の方向、仕組の方向というのは、そういうことだったのです。

ベストは一つ

関西の三十一項目の問題は、大きく分けて三つに分類できました。

一、組織・機構上の問題点。

二、何となく、活動が沈滞化していることからくる問題点。

三、明確な指針とポリシー、規範が出ていなかったことからくる問題点。

三十一項目は、これら三つに起因するものでした。その中で、何が一番の問題かといえば、組織・機構上の問題点です。そして、その問題点からすべてが発しているというように、私は分析しました。

その組織・機構上の問題点の中で、何が一番の問題なのかを考えたとき、務局が設定されていなかったということが原因だ、という結論になりました。

関東では、すでに事務局を設けて、情報発信、記録、経理というように役割を分担して、活動をしていました。関東で、そのようにうまく活動していたのであれば、名古屋や関西、東北でも、同じように運営していけばよかったのですが、それができていなかった。

このマンスリーレビューでも書きましたが、「ベストは一つ」なのです。

物事に絶対なものはないですし、日本の神道にも、絶対の神様はいらっしゃいませんが、ベストの神はいらっしゃいます。今のところ、この方がベストだという神様、至高神はいらっしゃるのです。

地域においては、そこの鎮守様が至高神ですし、各エリアにおいては、関東でしたら、箱根や諏訪の神様などが、そのエリアにおいての至高神です。

日本国においては、伊勢の大神様が至高神であり、神仕組においては、白山の神様が至高神です。大宇宙の次元界においては、御親元素大御神様が至高神となります。神様にも、それぞれの次元、次元に至高神があり、ベストがあるわけです。

ですから、何でも、絶対というものはないのですが、至高、ベストはありますから、運営の中身をベストにするためには、どうしたらいいのかを考える。向上心をもって、いいものに近づけていく工夫をしていくことです。

そのときの考え方の原則は、

一、「ベストなものは何か」を考える。

二、とりあえず、「今これがベストだからやってみよう」と決める。

三、しばらくは、その方法で、実際に運営してみる。

ということです。運営している上で、「このような形が出てきた」「問題が出てきた」ということもあるでしょうが、ベストとなる原則の部分は、基本的に変えないで守っていくようにします。そこの部分をあまりコロコロと変えないことです。

試行錯誤した結果、「ゆるぎないものはこうだ」と決まったら、もうそれを変えてはいけません。それで、ずっといくようにします。

試行錯誤の期間があってもいいのですが、その期間を経て、ベストのものが決まったら、それを貫いていきます。試行錯誤がなければ、それが決定しても、「果たしてこれでよかったのだろうか」と思うのですが、いろいろな試行錯誤をした上のものであれば、「これしかない」という、ゆるぎないものができるのです。

関西も、十五年間、いろいろと、あーでもない、こーでもないと、本当に試行錯誤の連続でしたが、ようやく決まって皆ほっとしたわけです。ただ、発足当初から、このように上から決められていたら、きっと縛り付けられたように感じていたとは思いますが。

ですから、試行錯誤があって初めて、一応の法則や秩序ができてくるのですが、ベストのものをつくった後は、それを貫いていきます。

たくさんの試行錯誤を経た後に決めたことですから、若干の修正はしても、基本的には変えないで、当分はこれを貫いていこうというようにします。そうでなければ、組織やルールを決めて、運営ができません。我々も、そういう時期になってきたのです。

関西は、関東で行っていた組織運営上の機構である事務局というものを知りませんでした。関西での問題点をよく分析してみると、それが原因だったのです。そこで、まず、それから始めようということになりました。

事務局をつくれば、選挙の管理もできますし、出欠の集計もできますし、書記を設ければ、記録化・文章化ができ、コンピューターでファイリングもできます。前に菅平でやりました支部代表者会議(注 神柱になれるシリーズ3「誰がやっても運営が成功する法則はこれだ!」を参照のこと)でも言いましたが、このように、いかに活字に残すかということを考えていくようにします。

「活字に残さなかったら、運営というものは行き当たりばったりになってしまう」

「活字に残して初めて、次に継承されていくんだ」というお話をしましたが、まさにそのとおりなのです。

そうしていくことで、組織や枠組み、骨組みができてきて、次に進歩発展し、継承されていくのです。事務局がなければ、それができません。

関東では、それをやっておりまして、関西でも、それによって問題が解決していくということがわかりました。ということは、これは間違いのない結論ですので、中部、九州、北海道、東北という、それぞれのエリアに事務局を置くことにしましょう。

一応、エリア本部に置けば、部屋もあります。そこで、地理的に便利で、職能力にふさわしく、なるべくいろいろなものが平等にくるようにしながら、とりあえず役割分担を決めてください。途中で都合が悪くなったら、改善していけばよくなります。

事務局を設定していくということは、まずゆるぎない、間違いのないことだということが、関東と関西の例でわかりましたので、来年の一月中に必ず決めてください。

関西は、年内に必ずやるというように、日時を決めたらできます。期限を決めて初めて、物事は決断でき、決まりますから。関西は十二月中に、それを全部やり、他のエリアは、一月中に、それを全部決めてやっていくようにしてください。

熊野で出てきた方向性は、一応、守っていただいて、しばらく一年間は、それで貫いてみたいと思います。個々の基本というものがありましても、例外というものは必ずあります。しかし、例外があるからといって決めなかったら、何も決まりません。

ですから、一応、一年間はそれを貫いてやってみます。そこで、問題が起きたときには見直していったり、特殊な事情があった場合には、 「こういう場合を特例とする」というように、活字化していく。

我々が神様とともに決めた、秩序やルール、または取り決めや枠組みなどを守っていくということが大切です。そうすると、決断と決定ができます。問題やトラブルが起きたときでも、話し合いをもとに決断や決定ができるようになります。

何でも先生に聞くという形で、一個人のご意向によって、右に左に揺れるというのでは、民主的な運営をしているとはいえません。民主主義に基づく国家の運営や、地方自治のやり方と同じです。それが一番民主的なやり方だと思います。

そういうことで、そのような方向性が出されましたので、関東と関西は年内に体制が整い、二十一世紀の来年には、一月早々から、そのような活動を、全エリア、統一してやっていただきたいと思います。

そして、それぞれのエリアに、私が行ったときには、それらがどのように進んでいっているのかを、支部代表者会議で報告するようにしてください。

今までは、自分たちが考えたアイデアや活動など、自分たちが何をやっているかということを、お互いに紹介しているだけで、「あー、なるほど。おもしろいな」で終わっていました。そのため、支部代表者会議をしても、何かが決まるということは、ほんのたまにあるくらいでした。

これからは、そうではなく、決めたことをどのように実行し、また運営上、どのような問題があったのかという一つのテーマを設けた話し合いをしていきたいと思います。そのためには、代表者会議の一週間ぐらい前には、各エリアで皆が集まり、話し合いをしていただきたい。

そんなに頻繁に、全体で会っていたら、皆さんも仕事がありますし難しいと思いますが、そのかわり、月に一回、数少ないけれども、その一回の会合を大切にして、実践していただきたいと思います。月一回なら、仕事のスケジュールなどもやりくりできますから、初めから、日付をいつにするというように決めておけば可能です。

議長の役割

次に、議長についてお話をしたいと思います。

議長というのは、話し合いや意見の交換会で、座持ちをしているわけではありません。やはり、支部代表者会議ですから、ポリシーがあり、方向性があるわけで、必ずその日の結論というものがあります。「結論とは何か」ということが大切なのです。

そのためには議長が、「皆さん、そろそろお時間ですが、今日の結論を」と、大きな声で言えばいいのです。

できれば、そのときに、「今日話し合われた内容はこのようなことで、それらが、このような項目に分かれまして、その中で一番大事なことは、これで間違いないと思うのですが、いかがでしょうか」というかたちで、まず満場一致を勧めなければいけません。

そのように勧めても、「やっぱり、これも大事だと思う」「こっちの方が大事だと思う」というように、意見が分かれましたら、時間を区切って、二、三の意見を聞きます。ここでは、いつまでも話をしないで、時間を区切ることが大切です。

そうして、「それでは・・・・・・」というかたちで、多数決で決めます。多数決の原理というものが、最大多数の最大幸福であり、民主主義の原則です。やはり、満場一致で決まるのが一番ですから、そうなるように話を持っていきますが、満場一致で決まらないときには、多数決で決めます。

多数決で決まったことでも、決定は決定ですから、それが自分の意見と異なっていても守っていくというのが、民主主義のルールです。

ですから、支部代表者会議で、皆さんが決めたことを、支部のみんなが「いや、そんなのおかしい、おかしい」というのは、変なことです。

なぜなら、自分たちが民主的な選挙で選んだ代表者、つまり国会でいう代議士さんに、その決定を委ねているわけですから、その人たちが決めたことに従えないというのでは、民主的な運営はできません。

それが嫌なら、自分が「これだ」と思う人間を選挙で投票するか、自分が名乗りでてやればいいのです。そういう人に対しては、支部長にしましても、コミッティーや議長にしましても、「そういうこともできないのに、文句だけ言うのは困ります」と、ひとことビシッと言わなければいけません。

そうすれば、「おっしゃるとおりです」ということになるのです。これは、民主主義のルールです。

そのように、はっきりと言わなければ、文句ばかりが出てきて、統制がとれません。いろいろな意見があるのですが、どこかで決定し、それを実行していかなければ進んでいきません。それぞれの意見ばかりが横行して、結局、何も決まらず何も進まずに、とにかく、祈り合わせをして、人形だけ書いていればいいわけではないのです。

それぞれの意見ばかりが出ていても、やはり結論を出して決定をし、組織としての統一行動をとらなければ、支部は成り立たないですし、エリアや全国のワールドメイトは成り立ちません。

民主主義の原則に基づいた運営を進めているのですから、そこで決定したことに文句を言う人がいたら、一人ずつに、「民主主義をどのように心得ているのですか。選挙で代表を選ぶということは、それだけ重みがあることなのですよ」「選挙で投票したのですか。あなたが投票した人が落ちたのなら、それは仕方ないですが、今の代表に思うところがあるのなら、次の選挙でしっかり投票したらどうですか」

と、言えばいいのです。

しかし、組織やそこでの行動というのは、何かを決めなければできません。それが、支部における、支部長の皆さんやコミッティーの皆さんの責任能力ですし、みんなのことを思う「愛念」です。

「信仰心」「愛念」「秩序」がなければなりませんが、それらが「調和」していくためには、それが理論となり、知識となり、常識となっていく必要がありますし、日本の国や地方自治体も、すべてそうなっています。日本の国だけではありません。世界を見ても、民主的な国家は、皆そうなっています。

社会主義の国家は、上からの弾圧による全体主義ですが、民主的な国家は皆そうです。したがって、選挙というものは、それだけ重みを持っているわけです。

そして、支部の中に、これはという人がいない場合には、一生懸命布教して、「このように素晴らしい人材が来ますように」というように向かっていけばいいのです。

いくつか試行錯誤してきたのですから、個々の問題に対して、どう応えていけばいいのかという統一見解が、もうそろそろ出なければいけないときです。そのように、決定したことに文句を言っている人間には、組織として、今申し上げたような理論を、丁寧に言っていく必要があります。

これは、至極当然な常識です。しかし、言うときには、丁寧に言わなければなりませんよ。

そうしていくことで、その人も「なるほどなあ」と納得し、統一行動がとれていくのです。

現在の我々の組織は、このようなことがうまくできているのだろうかということを、もう一度見直していく必要があると思います。実際の運営の場面で、「このようなことを言われたのだけれども、それに対して、どのように言えばいいのか」という運営のスキルや能力を磨いていくわけです。

そのことについて、そのときの支部代表者会議で決められた論点で、しっかと答えが出てきて、次に継承されていくということでなければ、毎月毎月、ワールドメイトの運営が進歩向上していきません。やはり意見の交換会ではだめなのです。

そうすると、毎月、みんなが支部代表者会議に参加することによって、運営上の問題点、エリアの問題点など、エリアで解決できないことをここで解決し、それでも解決できなかったことを私に言ってくだされば、「具体的にこう言ってください」というように、私が決断します。

そこまでしてもだめだったら、「エンゼル会やめてください」「支部やめてください」「エリアやめてください」と言えばいいのです。正しい神の御心に合わないものは、やめていただけばいいのですから。

優しい愛念ばかりで、秩序がなかったら示しがつきませんし、本当に「信仰心」「愛念」「秩序」をもって、「五カ条」が揃った人もいるわけですが、一部そうではない人のために、まともに一生懸命やっている人たちがばかをみることはないのです。

そこがやはり、頼朝や家康のように、幕府に将軍様がいらして、しっかりと決めたことを実務執行していく。

または、ジンギスカンが治めた蒙古帝国のように、信賞必罰をはっきりさせて、決めたことを実行していく。進めるときは進み、讃えるべきは讃え、裁くべきは裁くというように、はっきりとしていかなければ、組織として、統一行動がとれません。

「そのようにしていかなければいけませんよ」という方向性が、土星の神、熱田の神、幕府の神が現れたことで示され、今までの伊勢の要素に、その要素が加わって、ワールドメイトは、二十一世紀を迎えるわけです。

人にお伝えするときの心得

ただし、このことを他でお話しするときに、「ねばならない」とか、「今年から、このように取り決めて、こうなったんだ」というように、絶対に言わないでいただきたい。これは、本当におもしろいことなのですが、人から人へと伝わっているうちに、細かなニュアンスが変化してしまうことがよくあります。

たとえば、「目標を決めて、このようにしましょう」と決定したことが、次の人に伝わるときには、「今度の目標はこれで、一人何人以上しなければいけないし、支部ではこうしなければいけない」となります。

そして、次に伝わるころには、「支部で何千枚だから、一人いくらやって、何時間やらなければいけないノルマがある」ということになって、ねばらないことがたくさんあるから、ブーブー文句が出てきてしまいます。私たちはボランティアでやっているわけですから、ノルマなどないのです。最初に決定したときの数字も、目標設定しているだけのことなのです。

規律やルールというものは、ルールのためのルール、規律のための規律ではありません。今日のイエスの誕生日での講義でもお話ししましたが、イエスが言ったように、律法というものは、律法のための律法ではありません。やはり愛のために律法があるのです。

律法がなければ、統率がとれないし、ルールが決められませんから、みんなが仲良く、自由で平等にやっていくことができませんし、フェアにできないからなのです。

法律のための法律、規律のための規律、規則のための規則、取り決めのための取り決めではありませんし、ノルマを決めるために目標設定しているわけでもありません。

やはり、エリアの議長、コミッティー、支部長であるならば、知識と説得力をもって、しっかりと言うべきことは言っていただきたいと思います。

そうでなければ、特に最近の若い子たちのように、そのような知識も論理もなく、常識や良識もない、ルールも決められないような人に、言われ放題になってしまいます。そういう人たちが来たら、私なら明快に言い返してあげます。

リーダーとして主張していくためには、その主張の中身として、リーダーシップと論理と知識、そして情報をしっかりと勉強していく必要があります。

歪んだ人や文句を言っている人に対して、言い返しができない分だけ、自分が言われてしまっています。

「あなたの意見もわかるけれども、全体のことを考えて、そう言えるんですか」

「いえ、言えません。すみません」で終わるのですが、そのことがしっかりと言えないと、言われ放題になります。これが関西でした。

熊野の合宿での話は、実は第一部と第二部に分かれていました。

第一部が、ノンストップで四時間十分。そして、第二部は、二時間半にわたる、関西のより詳しい分析です。それは、全部で、三つの論点に分かれています。

一つ目は、「関西は縄文時代をやっている。来年の二十一世紀は、縄文時代から弥生時代に脱皮しよう」ということ。

二つ目は、「関西はイタリアである。イタリアから日本へ戻そう」というお話。

そして、三つ目が、今日お話ししたい一番大事な論点です。

縄文時代から弥生時代へ

まず、一つ目の「関西は縄文時代をやっている」ということですが、たとえを使って説明していきましょう。

ある日、奈良でウサギが森の中から出てきて、石につまずいて倒れました。

ウサギは美味しいですから、「皆さん、ここにいると、ウサギが出てきて石につまずいて転びますから」と言うと、「そう!」ということで、「ウサギが転びますように!」とお祈りしている。

そのうち、「ウサギが出ないじゃないか」ということで、月一回の会議で延々と話し合って、「もっと積極的に行くべきだー」ということになり、ウサギの探索に出かける。そして、ウサギの性質、ウサギの糞の特徴、ウサギの足音……………というように、ウサギがいる半年ぐらいは、ウサギのことばかりをやっている。

次に、和歌山の支部から「最近、和歌山にクジラが出ました。クジラはお肉も食べられますし、油も使えますから、本当に捨てるところがないんです。

一匹捕ると、何万人も食べられるんです」という報告があると、「ああ、クジラだ!」ということになって、それから関西はクジラのことばかり。しかし、しばらくしたら、クジラが来なくなって、「どうする?」ということになってしまう。

そうしたら、丹波篠山の方の支部で、「やはりウサギやクジラといった動物ではなく、私どもは植物を試してみたいと思います。私どもの山の上では、栗が取れまして……」というと、「あーそうか。これからは栗の時代だー」と言って、みんな栗ばっかり取りにいくようになってしまう。

しかし、真冬には取れなくなってしまいますから、「真冬に取れないじゃないか」となり、「すみません。真冬のことは考えていませんでした。でも、リスは実が多いときに、土に穴を掘って、栗を埋めていますから、私たちも、地下に埋めておきましょう」というように、さんざん議論します。

それもしばらくしたら、穴掘って埋めるのも面倒くさいということになります。

そうすると、和歌山の方で、「またクジラが出ました」となったり、奈良で「私たちも、またウサギが出ました」となります。

そこに、「皆さん、もうそんなウサギとか、クジラとか、栗の時代は終わった。これからは魚の養殖の時代だ!」と言う人が出てきたら、みんな「ほー」と言って、魚の養殖ばかりをやるようになります。

結局、関西は狩猟経済なのです。その時々で、話題に出たホットなものに、みんなが夢中になり、そればかりをやってしまう。

だから、二十一世紀は、狩猟経済である縄文時代から、計画性をもって生活をする弥生時代に変わりましょうね、というのが、一つ目の論点です。

弥生時代は、今と同じように、春にはきちんと田植えをして、夏になったら、雑草の手入れをし、秋には収穫をし、冬は土地を休ませるというサイクルが確立していました。それに合わせて、春には田植えのお祭りをし、夏はその暑さを楽しみながら、雑草をとり、秋には収穫のお祭りをしようというように行事も決まってきます。

こわいのは、台風や害虫ですが、それらも研究していけば、その被害を最小限におさえることができ、春・夏・秋・冬という季節に合わせて、生活することができます。人口が増えれば、増えた分に合わせて、田を耕していけば、一定量の収穫がきちんと予測できます。そして、お米はどこにでも持ち運びができますし、貯蔵も可能です。また栄養価も高い。

このように、必然性が出てきたために、やはり狩猟経済から、稲作農業の方に、社会が移り変わってきたわけです。

ですから、関西も、縄文時代の良さもわかるけれども、弥生時代に変わろうということが、まず一つ目です。

イタリア方式から日本方式へ

次は、「関西はイタリアである」ということです。

関西では、浮遊霊をたくさん憑けている、言葉数の多い、言葉に重みのある人間が、「おまえ、はよせんかい。何してんねん。はよやらんかい。ほらー、やれー、こらー」と言ったら、誰も何も言えなくなってしまい、そのまま進んでいきます。

会議で九分九厘決まったことでも、そういう人間が、一言、「おかしいやんけ。これがー。なんで?」と関西の言葉で言うと、くつがえってしまいます。そして、その後ろには二千人の浮遊霊がいる(笑)。

その浮遊霊の数でも、二千人の浮遊霊が憑いている人が、古戦場の三十人の浮遊霊が憑いている人に対して、「Aさん、私が勝ちましたなあ。おたく三十人、私二千人……」と言って、浮遊霊の数を自慢していました。(笑)

こういうときでも、私だったら、「Aさん、彼の浮遊霊は神社で憑いた霊だから、病死とか事故死だけです。あなたのは、みな由緒正しい武士で、戦の中で死んで、今でも血だらけになって戦っているわけですから、根性が違います。一体が千人分ぐらいの値打ちがあるから、実情は三万人だ」と言い返します。

結局、こんな状態ですから、論争が起きたときには、私が出ていって、たとえば、「A支部の浮遊霊は、一体が十人分くらいあるから、数は三十体でも、実質三百体くらいだ。それに比べて、 B支部の浮遊霊は、数としては二千人分だけど、それぞれが弱くて、通常の浮遊霊の十分の一ぐらいだから、実質二百体。

このように計算すると、百体くらい多いから、 A支部の勝ち」というように言わないと納得しません。

そんなことまで、いちいち言わなければ、ああでもない、こうでもないと言っているのが、関西です。それで「関西はイタリアである」となるのです。イタリアというのは、事実とか理論は関係ありません。言葉数が多い方が勝ちます。

戦後、世界で一番、首相が交代したのがイタリアです。イタリアで一番長かった内閣でも二年半でした。それ以上長い間、首相だった人はいません。六ヶ月とか三ヶ月で交代してしまいますから、国民は誰も信用していません。イタリア人というのは、事実は関係ありません。理論も関係ありません。最後は言葉数なのです。

関西でも、「言葉数の多い人間」「言葉に迫力のある人間」「その奥に、いっぱい浮遊霊を憑けている人間」が言うと、それが勝って、議論が進み、運営が進んでいきます。これを「日本人に戻そうね」というのが、二つ目の論点です。

日本人は、皆、謙虚ですし、全体のことを考えて、自分の意見を言います。

何かを決めるときでも、長老が出てきて、「いろいろと話を聞いてみて、まあ、村のことを考えたならば、こういうふうにするのがいいんじゃないかと、わしは思うんだけども、どうじゃろうか」「わしは、こう思うんじゃけども、どうじゃろか」と言って、反対する人がいても、

「あんたのそういう意見もわかるけれども、こっちの意見もよーく聞いてみたら、納得できるんじゃないかな。どうかな?」と言えば、「おっしゃるとおりです」という具合におさまっていきます。これが「家元体質」「ボス体質」ですね。

古事記でもありますように、八意思兼という神様が出てきて、みんなの意見を聞いて、「じゃ、こうしよう」ということで、岩戸が開きました。それで、日本では会議が多いということもありますが、言葉数が多い人間の言うことを聞いて、岩戸が開いたのではありません。

八意思兼の神様が、みんなの心を理解して、話し合い、議長として、しっか結論を定めて、それに基づいて、みんなが「よし!」と一丸となっていったのです。ある人は鏡を作り、ある人は岩戸を引っ張り、ある人は踊りをし、ある人は飾り付けをし、ある人は祝詞をあげる。

このように、みんながチームワークをもって、岩戸開きをするというのが、日本のやり方です。イタリア人のように言葉数が多くなくても、「周りと協調し、みんなで決断をしたことを守っていく」という、会議やミーティングをし決めたことで、一丸となっていくというのが、日本人です。

ですから、関西は、イタリア方式から日本方式に戻そうねというのが、二番目の論点です。

九州や北海道は、そこまでではないと思います。北海道や東北は寒いですから、もう口きくのも面倒くさいというぐらいだと思います。

東北で、「皆さーん!」などと言う人が一人いたら、面倒くさいので「うん、やって」ということになりますし、北海道でも、大きな声で「なんとか、なんとかー」という人がいれば、口をきくのが面倒なので「うん、やってちょうだい」ということになりがちです。

北海道や東北は、そういう意味で、関西とは反対に、イタリアになるべきかもしれません。

一人が突然出てきて言ったことによって、全部がそれで進んでいくというイタリア方式ではなく、それぞれの意見を持ち寄るという民主主義のやり方に基づいて、八意思兼のように、議長がみんなの意見を聞いて決めたことを、一丸となって進めていくという、日本方式の進め方でやっていかなければなりません。

議長の舵取りの仕方、それをチェアマンシップといいますが、これはやはり練習して、学んでいく必要があります。

行き当たりばったりの狩猟経済から、計画性のある稲作農業へと、やり方を変えていく努力をしていただきたいと思います。そういうことで、毎年ある海原びらき神事や伊勢の神事も、一カ月前からスタートするというように決めて、それに基づいて、先手先手で準備をしていくということが大切です。

第一部が、四時間十分にわたって、関西の三十一項目の問題点に対し、一秒も休むことなく私が分析したものであり、第二部が「縄文式から弥生式に」

「イタリア方式から日本式に」というお話だったのですが、最後に、三つ目の一番大切なお話をしたいと思います。

文化や芸術が生まれてきた背景とは

今からするお話は、ここに参加していない代表の皆さんにも聞いていただきたい、重要な内容ですから、今、録音しているテープを聞かせてあげてください。

今日、お話しする第二の論点。申し上げましたように、ご神業の背景から言って、熱田の神が動き、二十世紀中にしなければならないこと、「枠組みを決め」「幕府を作り、連邦政府を作り」「イタリア方式から日本方式へ」、「縄文時代から弥生時代へ」をして、我々が、健全な組織として、来年の二十一世紀をスタートするために基本となるものが出てきました。

そして、目前に伊勢があり、二月に節分が控えております。

関西の合宿で、この話をしたときに、神様にお祈りして出てきたことは、「いろいろと取り決めをしたことで、一見、これで発展するかのごとく思うけれども、発展しない」ということでした。

つまり、「信仰心」「愛念」「秩序」ができて、「調和」ができて、「平和の心」で、ルールを決め、枠組みを決め、規範ができることによって、我々の組織やご神業が発展するかのごとく思うのですが、発展しないのです。

これが重大なポイントです。

それはなぜなのか。皆さん考えていただきたい。

それぞれが、縄文時代やイタリア方式でやっていたときというのは、文化が生まれます。文化というものは、やはり、華やかで、自由で、伸びやかで、バラバラで、グチャグチャしているような、腐ったような、そういうアバウトな中から生まれてくるからです。

渡部昇一の名著「腐敗の時代」でも書かれていますが、江戸時代を見たらわかります。日本が世界に誇る美術というのは、浮世絵なのです。どんなに雪舟がいいと言っても、中国の南宗画を模範として、それをうまく描いているだけです。

それに比べて、世界の美術の歴史を変えたのは、浮世絵です。平賀源内が西洋画に影響を受けて、影を使う立体的な描き方をやり始めたのですが、それまでの日本の絵画には影がありません。全部、線で表現していました。

この浮世絵が、ゴーギャンやゴッホ、セザンヌに影響を与えていったのです。浮世絵に出合う前までのゴッホの絵は、とても暗かったのですが、浮世絵を見てから、スカーンと明るくなりました。このように印象派の画家たちに、強烈なインパクトを与えたのが浮世絵でした。

浮世絵や歌舞伎が出てきた、江戸文化の華やかなりし時代は、どんな時代かとみてみたら、文化文政時代だったわけです。その時代は、水野忠成や水野忠邦が老中の時代で、賂が横行した、江戸時代で最も腐敗した時代といわれています。その腐敗の時代に、文化が生まれてきたのです。

このように文化というものは、平安時代や室町時代もそうなのですが、江戸時代を見たらわかるように、ある程度、バラバラで、自由で、グチャグチャレていて、なんだかわからないけれどもやっている、というところから生まれてくるのです。

関西から、新しい生み出しがあったり、創作などがいろいろと出てくるのは、関西には、決められた社会の規範を一応理解した上で、それから外していくという傾向があるからです。だから、新しいものが生まれてくるのです。

関東は、政治の中心ですから、しっかりとルールを守っていきますので、組織はうまくいくのですが、関西の人のような、全くユニークな発想というものは少し乏しいですね。

反対に、関西は、ユニークな発想はたくさんありますが、いつもグチャグチャしていて、まとまらないんです。まとまるより、とにかく儲かったらいいと考えていますから(笑)。

我々は、関東と関西、両方の要素が必要です。

このように、文化が生まれ出てくるところや芸術が出てくるところというのは、あんまり細かいところを気にしない、アバウトなところがあります。

ワールドメイトにしましても、神様が、「組織組織というようかたちで、早くつくってはいけない」「組織力というものをやってしまったら、もう取り返しがつかなくなるから、よく吟味し、試行錯誤して、それからやりなさい」とおっしゃっていました。

組織ができてきたら、文化が生まれないのです。ですから、ワールドメイトも、本当にどこかアバウトなところがあり、自由で、バラバラで、グチャグチャなところがあってよろしいわけです。

そのかわり、たくさんのものが生まれてきました。他の宗教団体さんのように、ルールや組織というものをやったところは、組織力はありますが、世間でやっていることを組織力をもって、きちんとやっているというだけで、あまりユニークな独自性などはありません。

独自性をもつ人間というのは、やはり、組織・運営・管理というよりも、自由で、束縛がなく、バラバラで、思いのままに、盛り上がったり盛り下がったりしていきながら、やっていくときに生まれてくるのです。

文化というものは、そのような腐敗の時代に生まれてきますから、平安時代にいたしましても、あれだけの日記文学をはじめとする芸術文化が出てきまし文化や芸術を考えていくとき、そのような背景をしっかりと理解しておく必要があるのです。

武士が台頭してきた意味

ところが、平安時代がずっと続いていたら、どうなったでしょうか。

もし、平安時代が、あのままずっと続いていたら、我々は、蒙古に占領されて、蒙古人になっていました。お尻も、もちろん蒙古斑… 「朝ですか。もうコハン(ご飯)かー」(笑)といった具合に、我々は蒙古人になっていました。少なくとも日本人ではなかったでしょう。

しかし、蒙古がそういう時代に攻めてくることがわかっていましたから、三九〇年間続いた平安時代が終わり、武士の時代になったのです。

平安時代は、密教文化ですから、怨霊信仰がありました。そのため、盗賊やかっぱらいが都で横行し、盗みや人殺しをしていても、捕まえて殺すと怨霊を受けてしまうからということで、誰も取り締まりません。

たとえば、十人も殺した盗賊がいても、「死んだ人は帰ってこないから仕方がない」「おまえはこれだけのお金を盗んだけど、これだと処刑しなければならないから、盗んだ金を半額以下にして……」と言って許してしまうのです。

犯罪が横行した腐敗の中から文化ができてきたのですが、それが極限まできたところで、武士が台頭してきたのです。

またあるときは、御所で「盗賊だー」と言っても、誰も出てこない。なぜなら取り締まる人が恋人とデートしていて、誰もいなかったからです。

このような時代だったからこそ、それを取り締まる武士が出てきたのです。

盗賊が出てきたならば、それを捕まえてお上に差し出しても、怨霊信仰で裁かないことはわかっていますから、とにかく捕まえたら、すぐに殺して、「こいつが、このようにしましたので、そのときに裁きました」と言って提出する。

都人もそれを見て、「あ、そうですか」と言って、処理して終わりです。

武士が台頭したことで、庶民は本当に喜びました。それまでは、殺人、強盗、火付け、かっぱらいなどは、野放図にそのままでしたから。人殺しをしても「仕方がない。死んだ人は帰ってこない」「盗んだ金は半分にして許す」というでは、また、どんどんやりますよ。

そこに武士が出てきて、「たとえ恨みを買おうとも、こんなのは許せん」ということで、きちんと決められたルールに則って、盗賊を取り締まり、殺人犯を逮捕し、かっぱらいを裁いていきました。このように武士が活躍したことによって、都の治安が良くなり、庶民は本当に喜びました。これが、武士が台頭してきた社会的背景です。

武士として、まず平家があらわれ、次に源氏が台頭してきて、源氏の世になりました。武士の人たちは、宗教は禅宗ですから、「仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し」(「臨済録』)というように、相対的なものの考え方よりも、絶対的なものに重きをおきますので、怨霊などという信仰はありません。 

それよりも、禅宗に基づくところの肝、武士という世界がありましたから、治安が維持できましたし、社会が維持できました。

そして、盗賊、強盗、かっぱらいもしっかりと処罰されて、世の中が平和になり、暮らしやすくなったのです。腐敗も、適度に腐敗しているのは、チーズでも、柿でもおいしいのですが、腐りすぎたら、もうあちらこちらに、ばい菌が蔓延してしまいます。

このように武士の時代であったからこそ、蒙古が来襲したときでも、雄々しく戦えたのです。

蒙古は、言うことを聞かなければ、全部、皆殺しです。女、子供、老人でも容赦しません。そのような外敵が攻めてきたとき、貴族でしたら、相手を殺すと「怨霊がこわいから、どうぞ」ということで、一応、「生命と財産さえ守ってもらえるなら」ということで、相手に言われるままに降伏していたと思います。

これが武士であったからこそ、武士の気概や禅的な肝っ玉をもって戦いに行き、守り通したことで、神風が吹いたのです。それが貴族の世の中でしたら、神風が吹くまでに、やられていたでしょう。もし、あのとき、鎌倉幕府ができていなければ、日本の国は滅んでいました。

同じように、明治維新に基づき、天皇によって、富国強兵策をしていなければ、日本は欧米列強によって植民地にされていたと思います。中国もアヘン戦争によって植民地にされましたが、アジアの中で、日本だけが植民地になりませんでした。アジアの国々は、日本以外、ほとんど植民地になったのです。

アジアだけではありません。世界の有色人種は、白人によって、ほとんど植民地にされました。植民地にされなかったのは、日本だけです。

このように、神のご守護があり、先見の明がありましたから、独立した国柄をずっと続けてこられたのです。

武士が台頭し、鎌倉時代から江戸時代までの武士の時代があったおかげで、近代的な国家に、日本も脱皮することができました。貴族文化が続いていたら、 日本は蒙古になっていましたし、蒙古になっていれば、統率がとれなくなって、欧米列強の植民地になっていたと思います。

第二次世界大戦で、日本がアジアの国々に進攻したとき、同時に白人を追い出しましたから、戦後になって、独立運動が盛んに行われました。もちろん、戦争自体はよくないことですが、もし、このことがなければ、黒人も、アジア人も、白人に支配されている歴史が、何百年も続いていた可能性は十分にあります。

発展力や創作力を漲らせるためには

文化というものは、ある程度腐敗した、自由で気ままで、伸びやかで、ゴチャゴチャしたところから、生み出されてくるものなのですが、それにも限度があるということです。

ワールドメイトも、その時期が来ましたよということで、幕府をつくり、連邦政府をつくるように、組織を整えていくのですが、今までは、平安時代や室町時代、あるいは文化文政時代のようなやり方を敢えてしてきました。そのお蔭で、他の宗教にはない、たくさんのものが生まれてきたのです。

「組織、組織としてはいけませんよ」

「天の時が来るまで、このままでいきなさい」

「多くのものを創作していきなさい」というのが、神様の思し召しでした。

今まで、「平安時代のように」「室町時代のように」「文化文政時代のように」、または、「イタリア人のように」「縄文人のように」やっていた人間が、いきなり「鎌倉時代」や「江戸時代」のようにすると、どうなるのか。

発展力がなくなるのです。発展力や生み出しがなくなるのです。このことは、江戸時代の三大改革(享保の改革、寛政の改革、天保の改革)の歴史からも学ぶことができます。

要するに、どの改革も、金儲けして自由気ままにやっていた町人たちの華美な生活が問題だということで、それを慎むようにさせるのですが、そうしたらどうなったか。日本中の物流がなくなり、経済が逼迫して、国が成り立たなくなりました。それで、また元に戻すわけです。

やはり、どこか自由なところがあり、腐敗したものがあったとしても、商人がいて、物資が国中を流れるのですが、贅沢をあまり慎み過ぎますと、何も生み出さなくなり、経済と社会が逼迫してしまいます。

我々も、規範を作り、秩序をつくり、ルールをつくり、一応、取り決めをしていかなければ、蒙古来襲のときの日本のような、しっかりとした枠組みができませんし、そろそろ、それをしなければならない時期に来ているのですが、それをするとどうなるのか。発展力がなくなるのです。

自由気ままにやってきた人間でも、「…しなければいけない」「五○パーセント出席しなければいけない」「エリアに行かなければいけない」「このような取り組みをしたときに、ピシッと決めていかなければならない」というようにしていけば、物事はすいすいと進むでしょう。しかし、発展力と生み出しの力は弱くなってしまうのです。

それでは、その発展力と生み出しの力を保つためには、どうしたらいいのでしょうか。

これが、熊野の合宿でお話しした、第二部のテープの三つ目の論点です。

一つ目が、縄文時代から弥生時代へ。

二つ目が、イタリア方式から日本方式へ。

三つ目が、組織のルールや枠組みを決めても、発展的になっていくためにはどうしたらいいのか、ということです。

これを頭に入れることで、熱田の神、土星の神が現れて、そこから出されてきた「秩序」というものが生きるのです。

そのためにはどうしたらいいのか。「五カ条」の原点に返ればいいのです。つまり、「信仰心」と「愛念」です。これが、今日の第二の論点で、一番大切なところです。

上に立つ人間の役割とは

そこで、「支部長とは何か」「議長とは何か」「コミッティーとは何か」という定義になるわけです。

先ほどお渡ししたものには、「支部長というのは」、

一、運営の担い手であり、管理の責任者である。

二、エリアで、積極的に主体的に推進していく委員である。

三、全国のワールドメイトの組織を運営していく委員である。

という三つの役割があるのですが、最初の「運営と管理の責任者」とは一体どういうものなのか。ルール、枠組みを決めても、発展力が落ちないためにはどうしたらいいのか。

それは、「信仰心」と「愛念」という、ご神業の原点に返ることです。支部長の場合、その「信仰心」と「愛念」とは何か。つまり、支部長のお仕事とは何か。

支部長は、もう朝な夕なに、抽象的・文学的・宗教的な表現で、信仰心と愛念をもって、支部のメンバーの今日一日の幸せと、繁栄と、盛り上がりと、成功することを祈り続ける、神主であり、牧師さんであり、密教のお坊さんでなければいけません。

目に見えない神霊界を、信仰心と愛念をもって常に動かし支部の一人ずつのことをお祈りしていきます。

そして、「みんなが一丸となって、和気藹々とやれますように」

伊勢の神事が近づいたら、「人形・形代が前よりも数値があらわれて、伊勢に向かって皆が盛り上がり、お天気に恵まれ、運営に恵まれ、参加人数に恵まれ、一丸となっていきますように」というように、いつも一日一時間、とにかく毎日、朝な夕なにお祈りします。

このことを忘れてしまうと、管理のための管理、運営のための運営となって、 ルールと秩序を守っていくということになりますから、本当に、「温度が下がる」「やる気がなくなる」「発展力、創作力がなくなる」ということになってしまいます。

ですから、その枠組みを決めたのであれば、一層、信仰心と愛念をもって、やっていかなければなりません。

支部長であれば、朝な夕なに、支部のメンバー一人ずつの顔を思い浮かべて、「今日も一日、みんなが心から喜び、心から感激し、心から納得して、一丸となって、どんどん盛り上がって、弥栄えていきますように」とお祈りします。

エリアの議長であれば、朝な夕なに、「コミッティーが何人」「エリアに属する支部がいくつ」「そこの支部長が何人」ということを覚えて、できれば、「コミッティーでありまする、○○さん、○○さん……以上何名」「支部長でありまする、○○さん、○○さん、○○さん…、以上何名」というように、もう全員の名前を暗唱して、

「どうぞ今日も一日、ご神業が弥栄えて、みんなが喜び感激して、今、目前に迫っている事柄が素晴らしくなりますように、神様どうぞ、ご守護いただけますように」

「ルールや秩序が決まりながらでも、新しいものが生み出され、弥栄えていきますように」

「目前の伊勢の神事が、素晴らしいものになりますように」

このように、上に立つ人間が、そのような熱きハートと、ハートの奥にある祈りをいつも捧げていると、何だかしらないけれども、支部やエリアに、いつも活気が満ちているようになります。

コミッティー全員が、毎日祈っていると、コミッティーが五人ならば、五倍の祈りですから、何だか知らないけれども、支部がいつも盛り上がり、エンゼル会が盛り上がり、エリアが盛り上がるのです。

幕府や連邦政府にたとえて言いましたけれども、私たちは、目に見えざる神霊界というものをもっているわけですから、信仰心と愛念で、「祈りを捧げる」「具体的に、進歩発展を祈り続ける」ということをしていき、その温度が常に熱く、常に真剣で、常に純粋でなかったならば、ルールと秩序を決めたことで、発展力と創作力が落ちてくるのです。

これは、もう支部長の責任であり、エリアの議長の責任なのです。

関西の運営が沈滞しているのは、関西の議長の祈りとハートが沈滞しているからですし、支部が沈滞しているのは、支部長ほか、選ばれて上に立つ人間の祈りと情熱が沈滞しているから、そうなるのです。地域のエンゼル会が、あまり盛り上がらないのは、その責任者の、日々の祈りと情熱の温度が冷めているから、盛り上がらないのです。

北海道、東北、四国、九州、全部そうです。

その上に立つ人間、いわば至高神ともいえる、そこでベストの立場にいる人間が、「祈りと情熱」、朝な夕なに神仏の大いなるお力をいただくべく、そのような祈りに徹しないから、だんだんと、ルールや取り決め、規律などをきちんとしていこうということばかりになってしまい、生み出しがなくなり、発展力がなくなり、気運が下がっていくのです。

これが一番大事なのです。だから、この話を一番最後にお話ししたわけです。皆、最後に話したことを一番覚えていますからね。

この「祈りと情熱」がなくなると、組織のための組織、秩序のための秩序、ルールのためのルールになってしまいます。出席率何パーセント、何割などということばかりになったら、あちらこちらで、ロボットのように、主体性なく、がんじがらめになったような気がして、伸びやかさがなくなります。

たとえば、出席率五〇パーセントといっても、月一回のことですから、うんと楽ですね。半分出たらいいのですから。しかし、そこでも、半分出たらいいというわけではなく、一〇〇パーセント行く努力をしていくということが大切です。

やはり、我々は、宗教観、倫理観、道徳観をもって、高い目標に向かって頑張っていこうというように、最高基準に基づく行動をしていこうとする精神性が必要なのです。ましてや、もっと目に見えざる神霊界を動かすのですから、それは尚更かもしれません。

もっと極論しますと、「支部長の役割」「エリア議長の役割」は、朝な夕なに祈りを捧げる、ローマ法王であり、密教のお坊さんであり、神主であり、天皇でなければなりません。それが、取り決めをしたルールや掟、決まり以上に、勝っていなければ、衰退していきます。

他の宗教団体でも、大きな組織をつくったところは、もう次の世代になり、教祖さんや熱心な人がいなくなってしまうと、みんな沈滞しています。形骸化した組織だけが残るのです。形骸化した掟やルール、規律は残っていても、組織が生きていません。取り決めのための取り決めになってしまっています。

儒教も、キリスト教も、仏教も、みな同じです。教えのための教え、道徳のための道徳、倫理のための倫理になっているのです。

「礼儀三百、威儀三千。その人を待って行わる」「中庸」)、つまり、これはこうすべきだという礼の大綱である「礼儀」というものは三百あり、それを細かく決めた礼の細目である「威儀」は三千もあるけれども、それらは、それを使いこなす人がいて初めて生きるのだということです。

法の精神

ですから、「祈りと情熱」がなくなってしまうと、組織が独り歩きし、取り決めや秩序、ルールが独り歩きしていくのです。

そこで、「みろくの世の五カ条」として、「秩序」が、「信仰心」「愛念」の次の三番目に来ているということが、いかに素晴らしいことかがわかります。素晴らしい神の叡智ですね。「秩序」が、「信仰心」や「愛念」より先に来ていたら、だめなのです。

組織が古くなってきたり、キリスト教や仏教や儒教、道徳や法律でも、古くなってきますと、それを使いこなす、初めのころの精神が忘れられて、形だけが残ってしまいます。

明治憲法の不備もそうでした。明治憲法を制定した元老たちが生きていれば、その精神もよくわかるのですが、「天皇は、陸海軍を統帥す」という条文がだけが残っていたものですから、関東軍は議会に属さず、天皇に属するから、議会のコントロールを受けないという事態に陥りました。

ここでも、憲法を定め元老がいれば、議会は天皇を補佐するものであるから、軍隊が天皇に属するということは、当然、議会の決定に従わなければならないというかたちで、そのような軍部の詭弁は通らないはずです。

ところが、条文だけが残ったものですから、その精神が忘れられて、そのような事態を招いてしまったのです。統帥権干犯問題という、昭和初期の大きな事件もありました。

中国で、関東軍が戦闘をしていったときも、軍部の詭弁ともいえる解釈で、議会は軍をコントロールできませんでした。本当は、そうなる前に、正しく解釈できるように、条文を改訂するべきだったのです。

ルールというものは、それがつくられたときの「ハート」「精神」「熱き思「い」というものがあって初めて生きるのですが、それがなくなってしまうと、ルールのためのルールとなり、皆が縛り付けられてしまいます。だから、何でもきちんと管理できていることが良いとは限りません。管理のための管理である場合もありますから。

我々の場合も、三番目の「秩序」の段階に来ましたから、取り決めをしていくのですが、それに縛り付けられないようにする必要があります。普段はそういうものを感じないようにしながら、最高を目指して努力していく。そして、どうしようもない最低のときだけ、このような取り決めをするというやり方で進めていくのです。

ルールや取り決めが決まりましても、「縛り付けられた」「こうしなければならない」「~ねばならない」「この取り決めがこうだから」「こういうふうに決まったから」「決定事項だから」「ノルマだから」などと思わないでいただきたい。

それは、支部長やコミッティーが、理由があって決めたことですし、守っていかなければならないのですが、それを決めたときの「精神」が重要なのです。つまり、法よりも、法の精神を大切にする。イギリスがそうですね。

ドイツでは、「決めたことですから」ということで、法に則って、キチッとしていきます。これは、ドイツ人の性質です。

法律は法律であるのですが、その法の精神が大事なわけですから、それに基づいて、どうなのかということが裁判などでも争われます。

法の精神とは、概して言えば、「過度なものは罰し、過度でない場合は大目に見る」ということです。たとえば、憲法違反かどうかということを裁判するときは、難しい問題をたくさん含んでいることが多いですから、それに問題があって、過度なものであれば裁きますし、過度でなければ軽くしていく、というのが法の精神です。

反対に、一言一句間違えずに、そのとおりにするのが、ファンダメンタリズム(fundamentalism:原理主義)です。バイブルに書いてある、そのとおりにやっていくのですが、他を認めませんから、少し排他的になる傾向があります。

我々は、良識ある人間ですから、法の精神ということを大事にしていかなければなりません。

私が、このようにお話をしたものを、帰ってから直接テープで、皆で聞いていただかないと、コミッティーや支部のみんなに伝わるころには、違ったかたちで伝わっていると思います。

規則やルールが決まり、それに則って実行したことであっても、そうされた人は「やらされた」「~させられた」「首にされた」「辞めさせられた」「支部潰された」などと思い、被害者みたいになってしまいます。

しかし、法の精神が、きちんと理解できていれば、なぜ、そのように決められたのかを、その人に説明してあげられます。

「みんなが、より発展していくために、このようなことがあるから、こう決めたわけで、これは最低限の決め事なのですよ。問題が起きたときに、解決していく規範が要るから、このように決めただけのことです。

それよりも、私たちは、宗教観、倫理観、道徳観をもって、高い目標に向かって頑張っていこうという最高基準に基づいて行動することを考え、生み出しと発展力がなくならないためにも、祈りと情熱が必要なのですよ」というように、言葉を足してあげてください。

そうしないと、「決定事項だから」といって、文章だけが流れていくと、それが末端まで伝わったころには、話はだいぶ変わっていると思います。そうなってしまうと、だんだんと衰退します。やる気が縛り付けられたようになり、がんじがらめになってしまうのです。

イベント用のマニュアルを作るときも同じです。マニュアルを活字化して、決めていけば決めていくほど、伸びやかさがなくなって、縮こまってしまいますので、現場の生き生きとしたものがなくなって、衰退していくのです。

二十一世紀に向けて、土星の神が現れて、新しい秩序、ルール、規律というものを定めていくという方向性は間違いないわけですが、それが進んでいくと、どうなるのかということも考えなければなりません。それらをきちんと守っていったら、組織は衰退し、発展力がなくなり、生み出しがなくなるのです。

決まりや規律は、何かあったときに解決するための最低限のルールだとお考えください。法律というものは、そういうものですから。

やはり、我々が目指すものは、倫理、道徳、宗教、そして愛です。

「信仰心」と「愛念」が先にこなければいけません。「秩序」は三番目なのです。そして、そうするためには、支部長や議長、コミッティーが、いつもそのことをよくわかっていて、熱き祈りと思いを一日も絶やさず、みんなにも、それを説いていく、ということが大切なのです。

それでも、何かあったときには、一応「ルールは守ろうね」ということで、規範に則って決めていきます。しかし、それを感じさせないくらいに、発展していく方向にもっていかなければならないのです。

たくさんの組織や団体が、衰退したり、形骸化してしまったのはなぜなのかということを考えたとき、次に起こりうることをしっかりと予測し、クリアしていかなければ、こんなものは決めない方がいい。

「前は、いつもバラバラで、とにかく盛り上がって議論をしても、何も決まらなかったんだけど、それでも議論をしたことで、やる気が燃えてきたし、そのせいか、人形・形代だけは多かったし、証も出ていたんだよなあ。

最近は、組織はピシッとしたけど、あんまり神事の証は出なくなったなあ。

祈りよりも、とにかく出席することばかり考えて・・・・」というようなことでは、元のバラバラな方がよかったのです。しばらくは要注意ですね。

言霊の大切さ

文章でも、注意が必要です。先日もスタッフが書いている文章を見ていたら、「剥奪する」と書いてある。そこで、「こんな文章を書くな。活字というのは恐ろしいんだ。ここは、「剥奪する」ではなく、「自動的に消滅する」「失う」と書きなさい」と言って、すべて書き換えました。

いかに、言霊が大事かということですよ。「剥奪する」というと、権力によって、バーッと取られたという感じがしませんか。それに比べて、「失う」というと、シューッと消えていくというイメージで、「あー、失うのかー。真夏のあの思い出と同じだー」という感じです。

このように、言葉というものは気をつけなければいけません。皆さんは、リーダーですから、メンバーに伝える文章や、お話しするときでも、細やかで繊細な心配りをしながら、一つ一つ言葉を選んでいく必要があります。

皆さん、伊勢の神事も近いわけですから、今日の代表者会議でいろいろな話し合いがあり、取り決めや方向性がありましたが、「そうか……」と重たい心で帰ってはいけません。

熱き心で、コミッティーに話し、熱き心で、エンゼル会の皆さんにお話をして、ルールは決めましたけれども、それも忘れるくらい、熱き祈りに徹して、伊勢に行っていただきたいと思います。これは、リーダーである、支部長やコミッティー、議長の心得です。

一月になりましたら、改まりまして、二十一世紀になりますので、ワールドメイトも変わっていく。

幕府というと、頼朝や家康の顔が浮かんできますから、連邦政府と言いましょう。連邦政府というとかっこいいと思いませんか。リンカーン…、ワシントン…という感じで、ワールドメイト連邦政府というと、世界連邦政府につながっていく感じがします。

ですから、二十一世紀からは、ワールドメイト連邦政府作りの練習であり、ひな形づくりなんだ、というように私も考えますし、言うように努力しますので、皆さんもそのように言っていただきたい。

コミッティーにも、一般のエンゼル会員さんにも、そのようにきちんと説明してあげないと、そのような世界を作ることができませんし、衰退していってしまいます。やはり、今までどおり、自由で、伸びやかで、発展力と熱きエネルギーが漲っているというものでなければならないのです。

そして、何かありましたら、このルールに照らして、きっちりと最低限度のところを処理していく、というように考えてください。

そういうことで、「縄文時代が弥生時代」になり、「イタリア方式が日本方「式」になるのですが、最後に、熱き思いの祈りを常に絶やさず、みんなの幸せを願い、発展力と創作力というエネルギーを漲らせるのは、長人である、支部長であり議長でありコミッティーですから、皆さん、その責任をしっかりと全うしていただきたいと思います。

皆さん、伊勢に向かって、しっかり頑張って、祈りを捧げていってください。