一月の伊勢参拝はなぜいいのか
それに対して、伊勢の神様は一月、五月、九月、正五九にお参りするのがいいと言われております。
本当にそうなのかどうなのか、私も正月に行き、五月に行き、九月に行き、それ以外の月にも行きましたが、やはり、それぞれ気が違います。
一月に行けば一月のような伊勢の気があるし、五月に行けば五月のような気があるし、九月に行けば九月の気があります。みなそれぞれ、気が違います。
もちろん、その年の年回りによりましても違います。私は神霊家で、非常に繊細な人間でございますので、気の違いはすぐにわかります。また、神様の出方もずいぶん違います。
それから、自分自身、どういうときにどういう気持ちでお参りしたのかによって、神様の反応もずいぶん違います。
見たところは同じような参拝でも、毎回毎回、違います。気を厳密に審神できる人なら、明確にわかります。
では、なぜ正五九だと思いますか、皆さん。
ちょっと横道にそれますけれども、毎年八月には盂蘭盆会があります。七月のところもありますけれど、八月十三日の迎え火と十五日の送り火。
多くの家庭でご先祖様をお迎えし、お送りしていると思いますが、この盂蘭盆会、実を言いますと、もともと神道の風習でございまして、正月と八月のお盆のころはご先祖様の霊をお祭りする、という風習が昔からありました。
正月はもともと、ご先祖様とお目にかかる先祖交流のときでありました。それがいま、お正月に厳粛な気持ちで新年を迎えるという風習として残っているわけですけれど、ご先祖様が消えて、代わりに神々様になっております。
そういう、日本にもともとあったご先祖様との交流という風習が、仏教が入ってきてから変化しまして、八月のものが盂蘭盆会というものになったわけです。
盂蘭盆会は仏教の説話から出ておりまして、これも根拠があることですが、もともと日本民族に合った風習でしたから、それなりに社会に定着したのです。正月もお盆も、先祖と厳粛な気持ちで会うという風習があったわけです。
ですから、正月も八月もそういうときなのですけれど、なぜ正五九なのか。昔から言われているだけでありまして、その理由についてはどの本を見ても書かれておりません。
五月は連休のころだから行きやすいし、九月は夏バテで仕事のほうも暇になるから行きやすい、ということもあるでしょう。しかし実は、一という数字には意味があるのです。これは天照大御神様から直接聞いたことですから、間違いありません。
一は太初なり、統率なり、最高なり、根源なり、治めなり・・・・・・だいたいこういう感じです。
正月、すなわち一月については、いつも講義で申し上げております。正月とは正す月、だから正月と言うんだ、と。ですから、正月の三ヶ日からだいたい鏡開きの十一日まで、その間に現実界の一年間の方向性が出されてきます。
普通に生きておられる方は、「正月は正月。一月は一月だ。二八の前の月で、お年始参りが大変で、新年会があるな」と。
これは一般の方の正月の迎え方です。神霊の道に生きる人、神様のことをよく知っている人は、厳粛な気持ちで正月を迎えまして、松の内の間はじっと神様をお待ちしております。
松の内というのは、神様をお待ちするから松の内というわけです。
ですから、神霊の道に生きる人は神様をお待ちしているのでございまして、松の内の十四日の間に、テレビとかラジオとか、あるいは親戚の口を通して、見たり聞いたりするものの中から今年一年、正さなければならないことは何なのか。神様が教えてくださるその方向性を的確にキャッチする。
そういう心で受け取るという修養ができている人なら、それができます。ここにお集まりの皆さん、全員できます。
そう思わない人はそのまま通り過ぎていきますが、神様を信じていようが信じていまいが、神様の道を知っていようが知っていまいが、神様はすべての人に平等に一年間の方向性を指し示していらっしゃいます。
しかし、その目と心がまえがないがゆえに、見逃してしまうのです。
まあ、お正月にはそういう意味があるのですが、これは現実界のお正月です。
それに対して、立春は天界のお正月、神々様のお正月でございます。ですから、非常に霊的な素晴らしいことが出てきまして、目に見えざる世界の一年間の方向性が出てきます。
一月は現実界の正す月、二月の節分以降は目に見えない霊的な世界を正す月、というふうに考えてよろしい。
この「正す」とは何なのか。いつも言いますように、「正」とは「一で止まる」と書きます。一とは何か。根源であり、中心であり、太極であり、物事の始めです。ですから、一番大事と言うわけです。
トップもそうですし、始まりもそうでしょう。最高というのも一番でしょう。一、二、三。数値の始めで、トップ、根源。「一は二を生じ、二は三を生じ、三はすべてを生ず」。その根源的なものに止まっているから正しい、と。
辞書で調べますと、「不動の」とか「止めの」という意味が書いてあります。そのように、一で止まっているから、一番大事なところでグーッと止まっているから「正」。最も正しい状態です。
「一とは太初なり。つまり始まりの心であり、統率の中心であり、最高であり、根「源なり」と天照大御神様がおっしゃっています。
そこにいつも止まっている状態が正しい状態。根源的な本質に根差している状態。これが正しいという意味です。ですから、伊勢の神様に一月にお参りするときは、そういう気持ちで参らなければいけません。
「一月に来るなら、太初であり、統率であり、最高であり、根源であり、治めの月であるから、そういう気持ちで来なさい」
天照大御神様も、こうおっしゃっていました。
太初であり、統率であり、最高であり、という力徳は、「大金運」に書いてある一という働きに合っております。十一というのもまさに一と一でございますから、ダブルですね。ダブルバーガーみたいにおいしいわけでございます。
五月の伊勢参拝を勧める理由
さて五月はどうなのか。
なぜ五月に参拝するといい、と言われているのかと申しますと、天照大御神様の首飾りから五柱の男神様が出てきました。
なぜ五柱なのか、なぜ五月なのか。これは、働きの極まりが五という数だからです。五は働きの極まりです。
皆さん、右手も五本、左手も五本、足の指も五でしょう。五という数は、動きの一番バランスのとれた数字なのです。
気学をやっている人はご存じだと思いますが、働きの中心は五黄土星です。それから、数霊学などでは、五画、十五画、二十五画、三十五画、四十五画、全部いい数字と言われております。吉数です。
とくに、五という数字には、中央に進出するという意味があります。中央に進出していく。だから、人によっては姓名判断の名前で一番いいのは五画、五の数字だと言う人もいます。中央、真ん中に進んでいくというのが五。働きの極まりが五という数字です。
天照大御神様は働きの極まり、八百万の働きの神の神ですから、働きの極まりが五なのです。だから、五人の男神様が出てきたわけで、五月とか五という数はそういう意味です。
気学で言いますと五が中心、真ん中です。これは数霊学からも、また易からも割り出されている意味でして、働きの極まりが五。
だから、五月に伊勢に参拝するといいと言われているのですが、働きの極まりなのに五月はお休みが一番多いですね。
不思議なものです。
それからもう一つ、「五とは天照大御神の五徳を意味するのだ」とおっしゃっていました。
天照大御神様の五徳とは何かと言うと、まず一つは皇徳。二番めが伸徳、伸びていくという徳。それから広徳、物ごとを広めていく徳。四番めが中徳、真ん中を押さえていく徳。最後が円徳、円満にしていくという徳です。
円満にしていく徳、真ん中を押さえていくという徳、広くしていくという徳、伸びていくという徳、そして統率するという意味の皇徳。ですから、皇室の中心が天照大御神様になっているわけです。
この五徳を持っているから、天照大御神の首飾りから五柱の男神様が生まれてきたのです。熊野久須毘の神様とか、天穂日命様とか五柱の男神様が生まれましたけれど、その五柱の男神様はそれぞれ、この五徳を象徴しております。
「この五つの徳があるので五という数字になっているのだ」と、伊勢の神様はおっしゃっておられました。
ですから、五は天照大御神様の数と考えてけっこうです。一という数値も五という数値も、九という数値も天照大御神様の数だと考えてよろしいです。
九月の意味
それから、九のことも聞きました。
なぜ九なのかと言いますと、九は要するに陽の極みで陰の始まりであるからです。「善きことならせて、悪しきことに備う」というのが、九という数字の意味でして、九は陽の極まりの数なのです。
それに対して、陰の極まりは六。六白金星というのは陰の極まりなのですが、陽の極まりである九紫火星も、陰の極まりである六白金星も、ともに宗教、学問、芸術を極めていくという星であります。
とにかく、九は陽の極まりなのですが、極まりというのはすなわち、陰の始まりでもあります。
ですから皆さん、ちょっと考えてください。九月というのはちょうど、春から夏への暖かい気候、暑い気候が極まって、涼しくなるころですね。
「風の音にぞ驚かれぬる」なんて言いますが、九月に入ると夏の日差しも落ちまして、冬の到来が始まっている。陰の始まりだ、と。
これを現実界にたとえますと、ワーッと発展した善きことは九月に直して、これからは悪いことに備えていこう、ということであります。
春、夏のころには目立たなかった悪いことも出てきます。「秋口から出てくる」と言いますでしょう。髪の毛が抜けるのも秋口でございます。
その言葉を恐怖に感じる人も何人かいらっしゃるでしょう。秋が来なかったら、どんなに幸せなのか、と。髪の毛だけではありません。春、夏、無理をすると、秋に入った途端、体にドッと来たりいたします。
そのように、春や夏のころには目立たなかった悪い因子が、九月になると出てくる可能性があります。
ですから、九月にお参りをするということは、悪いものを小さくしていただいて、守っていただく。そして、いいものは実らそう、ということで、九にもちゃんと意味がございます。
ですから、まず自分の心を修めて、反省すべきところは反省しなければいけません。いったいどこを反省して、どこを直せばいいのかと、心を整理して伊勢に行きなさいよ、と。
九月のお参りはそういうお参りである、ということです。
いずれにしましても、この九という数字は天照大御神の陽の極まりでございます。太陽の輝きは陽の極まりですから、この一という数、五という数、九という数が、先ほど説明した天照大御神の力徳にすべて叶っております。
どの本を読んでも書いてありませんでした。なぜ正五九なんだと、私もずっと思っておりましたが、天照大御神様から直接お聞きしたら、はっきりしたわけでございます。
こういうことができるのは、お祈りをいっぱいしているからでして、絶えずお祈りをしていると、浮かんでくるわけであります。
これは便利なものですね。どうですか、聞いただけでおなかがぽかぽかと熱くなってきたでしょう。ってきた人、手を挙げて。もう接霊状態ですね。
なるほどそうだったのかと思ったら、これからは正五九にお参りできます。
しかし、これも先ほどの産土様と同じように、神様がその気で待っている月でありまして、こだわる必要はありません。行きたいと切に思ったときに参拝されるのが一番よろしいでしょう。
霊参心読を欠かさずに
今度の団体参拝も、できたら一月、五月、九月にしたほうがいいのでしょうけれど、人口に膾炙された月でございまして、一月、五月、九月は有象無象の人たちがいっぱい集まっております。
それに対して、十二月の年末のぎりぎりは、静かです。年末の納め参りというのがありますから、神宮の人たちは忙しいでしょうけれど、静粛な中で参拝ができます。
私たちはあくまで、白山菊理姫様、御魂の世界を主にしております。もちろん、現実界という形ある世界での幸せも必要ですけれど、もう少し内面的、もう少し霊的なものをベースにして向かっていくことが大切です。
伊勢神宮にお参りするときも、天照大御神様の神霊的な意義をよく解してお参りするわけでございますので、霊参心読、霊で参じ、心で読まなければなりません。
こういうふうな咀嚼力に基づきまして、伊勢に行き、研修会をするのです。
正五九は、いま申し上げましたようなお気持ちで伊勢の神様は待っておられますので、皆様が個人的に参拝されるときには、それに則した気持ちで参拝されればよろしいでしょう。
しかし、私たちが団体参拝・研修会で行き、これまで明かされなかった伊勢の神様の秘密…… 今日お話ししたことは基礎の基礎でして、もっともっと明かされない伊勢の神秘、秘密を私はいっぱい教わっておりますが、そういう伊勢の神様に関す講義をビシッと受けていただくためには、霊参心読していただかなければなりません。
それには、多くの参詣者で賑わっているときよりも、静かなときのほうがよりふさわしい。ということで、年末に行くわけです。
どうですか、おなかがスカーッとして温かくなりますでしょう。天照大御神様のお話をするだけで、これです。
「今日はその話をせよ、せよ」、ということが出ておりましたので、少しばかり講義をしてみましたが、霊参心読するというのはどういうことなのか。
以前の講義でも申し上げましたように、いろいろと勉強して吸収するのが神学びではなく、おなかの奥にある御魂で吸収するのが「本当の神学び」です。
ところが、御魂が曇ってしまっていると、見えるものも見えなくなってしまう。
それを、このような講義を聞くことで自分の魂をピカピカに光らせるのが神学びであり、本来の自分にとって最もふさわしい幸せであるし、発展でもあります。
そういう状態のときに仕事をしたら、全部ツボにはまっております。そういう状態でお祈りしたことは神様は全部聞いてくれます。
ですから、そういう魂の恩頼をいただくベストコンディションをいかに日常生活で持ち続けるのか、ということが大事でありまして、それができれば魂の実力者になります。
頭でいくらわかっていましても、自分自身の御魂の奥の感性をベストな
状態で保つということがなければ、これは、ただ単に観念で勉強したにすぎません。今日お話しいたしました天照大御神様の功徳、伊勢の活用の仕方ということを理解して、おのれの魂をいつも輝かせていただきたいと思います。
これは何ごとにも当てはまることでございますので、大いに活用できるはずです。
そうやって、少なくとも人様から相談を受けるような人間、最低でも自分の悩みごとは自分で解決できる人間にならなければいけません。
現実界で行き詰まりましたら、神様から何らかの形で直接、間接に教えていただいて、どんどん自分の人生と運命を切り開いていける人間、それぐらいの人間性をつくらないと、神様を信仰している意味がないのではないか。そういうふうに思います。
あと一カ月余りで今年も終わりでございますが、そういうビジョンと目標をお持ちになって、今年の足りなかったところを一カ月で挽回いたしまして、このよき年を締めくくっていきたいと思っている次第でございます。
ということで、本日の講義を終了したいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)
第三章 伊勢の神様が喜ばれる、惟神の道に合った生き方とは ~伊勢神宮団体参拝 外宮参拝前の講話 平成4年12月29日~
アピールの神、天照大御神
天照大御神様は、言わずと知れた太陽の神様ですけれど、実は「アピールの神様」でもあらせられます。
「日本書紀」を読めばわかるとおり、天照大御神様のご神体、つまり三種の神器はつねに皇命と共にありました。
同床共殿の神勅と言いまして、「皇命はつねに三種の神器と共にいなさい」という、天照大御神様のご神勅があり、それにしたがって、皇命が移動するごとに三種の神器を一緒に持っていっていたのです。
ところが、移動すると扱いが粗くなるし、壊れやすいから、きちんとしたところに安置しなければいけない、ということで大和の大神神社(三輪神社)のすぐそばにお祭りするようになったのが、垂仁天皇様のとき。いまから二千年以上も前のことですが、そうしたところ、天照大御神様がアピールなさいまして、「ここよりもっといいところに行きたい」とおっしゃった。
要するに住宅改善のアピールをしたわけです。
それで、倭姫様がご神体を背中に背負って、あちこち探しに行くことになったのですが、そのとき、伊勢にいらっしゃった猿田彦神様が、「ここはいいところですよ。海産物も取れるし魚は美味しいし、野菜はいいし、風光明媚で気候もいいですよ」と、お誘いした。
それを受けて天照大御神様が、「ああ、ここならばよろしい」とおっしゃったので、伊勢・志摩にお鎮まりになったわけです。
それだけではありません。いまからお参りする外宮の来歴を見たらわかりますように、私一人でいると食べ物があれだからと言って、御饌御食津物をちゃんと調えてくれる豊受大神様、丹波の国にいる豊受大神様に来て欲しいとアピールなさいまして、それならば、ということで外宮の神様がここにいらっしゃった。
外宮の神様、毎日ご飯をつくってお供えして… どうも植松先生に対する私の立場と似ているように思えてなりませんが…… 外宮の神様、黙々と天照大御神様の衣食住を調えて、巷の悩みごとを聞いていらっしゃる。
一方の天照大御神様は圧倒的な輝きで、ピカーッと照ったらそれで終わり(笑)。でも、それで平けく安らけくゆくわけです。
私も外宮の神様と一緒で、黙々とご飯をつくって、それを捧げて、庶民と共に生きていますけれどね……。
まあ、地球をおつくりになった国常立之尊様の恵みと太陽の恵みを比べてみたら、それは太陽の恵みのほうが圧倒的にすごい。だから、それでいいわけですけれど、運が開かない原因の一つは、アピール力の弱さにあります。
天照大御神様、住宅事情や食べ物に関して、強烈にアピールなさいました。で、外宮の豊受大神様も、天輝ける神様のおっしゃることだからしょうがない、ということで一五〇〇年、ずっとご飯をつくり続けていらっしゃるのです。
要するに、天照大御神様のアピール力に折れたわけです。
それと同様、人間もアピール力が足りないと、世の中で勝ち抜くことはできません。
脱皮の力を養え/span>
では、アピール力はどこから生れてくるのか。思うに、気迫と根性、そして脱皮力から生れてくるのではないでしょうか。
もう積極的で積極的で、どこまでも積極的で、前向きで前向きで、どこまでも前向きに生きていく。そして、そのプロセスで少々、罪穢れがあっても、すぐに禊祓いをして、さらに脱皮する。この気迫と根性と脱皮力を与えてくれることこそが、惟神の道の素晴らしいところであります。
日本の神道、惟神の道とはそういうものなのであって、楠木正成公も神上がり、上杉謙信も神上がりと言いますけれども、いったい戦で何人殺したか。上杉謙信、戦で何人人を殺したかです。
殺す、殺さないの業はもちろん、それなりにあるんでしょう。
けれど、その時代を見事に生きた、徹底して貫いたところがやはり惟神の道の精神、荒魂の顕現なのであって、その力がある人は絶対に運を呼び込むことができるし、向上の運気をつかむことができる。来年やってくる大きな大不況の中でも、見事に生きていけます。
その息吹を持つ魂の力こそが惟神の道の霊力であり、神力であり、御魂の稜威であります。仏教、儒教と比べまして、ここが惟神の道の素晴らしいところです。
ところが、中途半端に宗教理念とか宗教観念、倫理道徳をかじったがために、ここ一番やらなければならないときに、グーンとやり通すことができなければ、不況になったら倒れていくし、ボーイフレンドをほかの人に取られてしまうし、ガールフレンドも取られてしまいます。
「あなたに対する私の愛は、宇宙の重みよりも重いんだあ!」
プロポーズして結婚して、それからどうしようかと考えたらいいんですよ(笑)。
それくらいの迫力がなければ、男としての魅力がありません。一生涯をこの人に託そうかと思っている女性がいても、しり込みしますよ。それで失恋してもいいじゃありませんか。
ちっぽけな宗教理念、宗教観念に縛られて、ここ一番やらなければならないときに徹底できない人は結局、それだけの御魂。惟神の道から見たら大したことありません。誤解を恐れずに言えば、悪の一つです。
この世の中で悪いことをした、迷惑をかけた罪を「国津罪」と言いますが、「天津罪」というのもあるのです。
天津罪というのは、その人の持っている本来の才能、力、運気を十二分に発揮できなかったという罪。これが天津罪で、これも罪なのです。
悪いことをしろとは言いません。
しかし、ここ一番、自分の仕事とか恋とかロマンとか、自分の信じた道を突き進まなければならないときに、必要以上に周囲に気をつかい、人の気持ちを傷つけたくないからという優しさが出すぎて、おのれの魂がバーンとジャンプすることができないと、蓋が開かないから向上の運気、魂の力が出てこない。
それで結局、神界から見たら、あまり大したことない人生だったね、ということになるのです。
あ、風が吹いてきましたね。
来年度は、その息吹を持っていかないと、ここにいらっしゃる三分の二の方は運を開ききれません。天津罪のうちの一つになります。
おのれの魂と今生の天命を懸けて、神様に成り代わってこの地上でやっていくんだ、と。それだけの気迫と根性がなかったら、善根功徳、正しき道は貫けません。
これが、中途半端に宗教をかじった人の欠点です。中途半端に宗教をかじったために、宗教理念、宗教感覚、道徳理念でガチガチの人は、世の中で何もできません。大したこと、できませんよ。
伊勢の神は気迫に満ちた祈りを喜ばれる
私も四十五歳になったら、日本の国はどうあらねばならないか、積極的にアピールしていこうと考えておりますが、皆さんもアピールしていかなければいけません。
経営者や営業マンなら、「私どもの商品は日本一です!」と、堂々とアピールする。真っ正面からお客さんに向かっていって、「世界最高の商品です!」とアピールする。
あまり言いすぎると、おかしい奴だと思われるかもしれませんけれど、他社と比べていかに優れているかということを、堂々と言わなければいけません。
営業マンなんだから、どうせオーバーに言っているんだろうと思っても、打ち込んでいる姿にそこに感動しますよ。「うーん、よくやるね。頑張れよ。一つぐらいは買うよ」と言ってくれますよ。
そういうアピールの力がないと、この現世では倒れていく。とくに不況の時期になったら倒れていきます。そこを生きて生きて、生き貫いて、グーンと乗り越えないといけません。
行き遅れの人も、もう最後の土壇場。三十過ぎたらもう、不況続きかもしれないけれども、息吹と気迫で、生きて生き貫いて、乗り越えていく。
少々のことがあったら、そのつど、「神様ごめんなさいね。よかれと思ってしたことですけれど、申しわけありませんでした」と、神様に宣り直せばいいのです。
「知らず知らずに犯せる禍事、罪穢れ。知って犯せる諸々の禍事、罪穢れ」。
知って犯せる禍事、罪穢れは、なるべく避けなければいけませんけれど、知らず知らずに犯せる禍事、罪穢れはもう、しょうがないです。
もし犯すようなことがあったら、どこかで自ら苦しんで、禊祓いをさせられるわけですから、そんなものを恐れていてはいけません。
「神様、今年の知らず知らず犯せる諸々の禍事、罪穢れ、知って犯せる諸々の禍事、罪穢れをどうぞお許しいただいて、この五十鈴川の清き流れのごとく禊祓いをして、お許しいただいて、来年は今年の失敗や経験をバネにして百倍、千倍もいや勝れる働きができますように」
こういうふうな気迫に満ちた祈りを、伊勢の神様は最も喜ばれるのです。
伊勢は「一斉に開花する」の「いっせい」でもあります。外宮の神様も内宮の神様も惟神の道の中心、神社の中心ですから、そういう人を伊勢の神はお好みになる。外宮の神もお好みになります。
伊勢はそういう神域ですから、そういうお気持ちで、皆さんぜひ今年一年を見事に締めくくって、素晴らしい明年を迎えたいと思います。
