自分を変えれば未来が変わる(Vol.2)

第一章 性格を変えるには?

気弱だったから私はこうアドバイス

気弱を克服し、強く雄々しくなるにはどうしたらいいのか。誰でも簡単にできる方法はあるのかないのか……。

この章ではこれを考えたい。しかし、本音を言うと、このテーマだけは避けたい。なぜかというと、子どものころの私は、体は小さいわ、根性はないわで、気弱そのものだったからだ。

けれど、そういう気の弱い子ども時代の経験を持つからこそ、気の弱い方々に居丈高にならずにアドバイスできるのではないかと思っている。
私の子ども・少年期の精神状態を紹介したら、今、私に相談しに来る人はみんな「何だ、ほくのほうが、深見東州よりよっぽど堂々としているじゃないか」と思うことだろう。

子供のころの私なんて、本当のところ、思い出したくもないくらいだ。性格的には明るく元気な一面もあったが、心の中ではオドオドして、自信がなかった。

外見はと言うと、十五歳にして一四八センチである。学校の朝礼のときは、いつも一番前だ。だから、「前へ習え」の号令がかかっても、何もすることがなかった。

周りを見れば、みんな背は高いし、賢そうだし、それに比べて自分はと思うと、あまりにも惨めで、私はいつもハラハラドキドキ怯えていた。

私は講演で、「老子」を語り、「易経」を語り、日本のものでは空海とか道元とか難解な古典のことをよく話す。じつは、こういう古典は、真理を伝えているものだから、言わんとするところはちっとも難しくない。

しかし、講演に参加される方の多くは、ムラ気でテレビを見始めたら止まらないようなタイプだ。昼のワイドショーに夢中になったって、老荘も孔孟も出てくるわけがない。

だから、せっかくの私の話も、割り引いて聞かれてしまうことがある。

「そりゃ、深見先生は特別だから、そういうややこしい古典を読めるでしょ。でも私はテレビや雑誌のほうがずっと興味があるわ。
深見先生は小さいころから優秀だったんでしょうから、難しい古典なんかに興味があるんでしょうけれど、私なんか小さいころから頭が悪いし、難しい話を聞かされてもチンプンカンプンだわ」

「いえ、私は小さいころからそんな優秀な人間じゃありません。子どものころは気が弱くて、何をやってもダメだったんですよ。勉強は得意ではなかったし、今のあなたと一緒で、いつもテレビばっかり見ていたんですよ」

と言っても、

「またご謙遜でしょう」と、信じてもくれない。

ところが、演芸コーナーで昔のテレビの主題歌を歌ったりすると、「本当にテレビっ子だったんですね」と、ようやく信じてもらえるのだ。

実際、勉強を一生懸命やっていたら、主題歌やコマーシャルソングなんか覚えられない。

こんなこと、自慢にはならないかもしれないが、私ほど昔のテレビの主題歌を知っている人はいないと思う。ということは、それだけテレビを見ていたということである。

だから、それを証するために、ときどき演芸コーナーでテレビの主題歌を一番から三番まで完璧に歌ってみせるわけだ。

とくに「七色仮面」なんかは得意中の得意で、「ラン探偵!貴様から真っ先に焼き殺してやる!」、「あっ、おまえはミスターブターンか」、「ラン探偵の運命やいかに~」という最後の台詞までバッチリ覚えている。そのほか、印象に残ったドラマのシーンを克明に再現したりするので、肝心要の講演がなかなか進まない。

でも、そういう証拠を見せて聞かせてさし上げると、さすがの自称テレビ人間のみなさんも納得して、「老子」や「易経」の講義を、身を入れて聞いてくださるのだ。

「テレビっ子だった深見先生でも古典を理解できたんだから、私だって」と思ってくださるのだが、テレビっ子だったということは要するに、勉強に集中できない子であったということであり、ムラ気の子どもだったということである。

別にオーバーに言うつもりはないが、とにかく私は子どものころ、一つのことを最後までやり遂げることができなくて自信がもてず、そういう自分にコンプレックスを感じていたものである。

その私の悲しいエピソードはおいおい語るとして、本題に入っていこう。

文科系タイプは意志が弱くムラ気が多いが…

さて、性格を変えたいという場合、もっと意志の強い人間になりたい、もっと根気と忍耐力のある人間になりたい、というのが普通で、もうちょっとひ弱な人間になりたい、軟弱な人間になりたいという人は滅多にいない。

私もそうだった。どんな苦難をも乗り越えていく雄々たくましい人間になりたいと、いつも願っていたものだ。

ところで、かなり乱暴な分類になるが、人間を文科系と理科系とに分けると、理科系タイプにはコツコツ努力する人が多く、目標を決めたらピシッと意志を貫き通すのはたいてい理科系タイプだ。

何かにつけてまじめに努力するから、もちろん勉強もよくできるし、仕事をやっても手を抜くことはしない。

そこへいくと文科系タイプは、強い意志がなかなか持てない。非常に気分にムラがあって、気分が乗ったときは一生懸命努力するものの、ちょっと何かがあるとすぐに投げ出したり、飽きてしまって最後までやり遂げることがない。

何をやっても中途半端で、一つの目標を定めたらわき目も振らずに一目散、ということはほとんどない。

それが文科系人間の特色であると言ってもいいだろう。だからと言って、これがすべてよくないことかと言うと、必ずしもそうとは断定できない。

というのも、フラフラしているということは、それだけ情緒があり、芸術性に富んでいる証明でもあるからだ。

無論、情緒も芸術性もなく、ただフラフラしているだけの、根なし草のようなダメ人間もいるにはいる。

しかし、芸術を指向する人はだいたいフラフラしているもので、フラフラしている中でパッとひらめきを得たりするわけで、実験室の中で毎日、決まったペースでコツコツと作品を仕上げていくなんて話は聞いたことがない。

そもそも、人間の情緒とか芸術というのは、計算づくで割りきれるものではない。その割りきれない人間の情感を、ああでもないこうでもないと分析したり表現したりするのが文科系の学問である。

文学や心理学はその典型だが、そういう学問を志す人に、人づき合いがよく、お話が好きで、人間が好きで、人類はみな兄弟というふうなタイプが多くなるのは当然である。

勉強しなければと思っても、友達から電話がかかってきたら、つい一時間も電話したりしてしまう。マンガを読み始めたら、勉強を忘れてつい没頭してしまう。

そんなタイプが多いのも文科系の特色である。それくらい情緒的なのが文科系人間の特色なのだが、情緒的というのはあまり良く見られないのが普通だ。

気分にムラがある、意志が弱い、忍耐力がない、集中力がない・・・・・・どうしても軟弱で女々しいイメージがつきまとうのは否めない。

ところが、文科系のいいところもある。その一つに、最終的に理科系の人たちを統率するのは文科系の人だ、ということがある。

日本でもアメリカでも、物理学者だの数学者だのという理科系の人が総理大臣や大統領になったためしがない。いつの時代も、国のトップに立つのは文科系人間である。

とは言っても、文科系の人なら誰でも理科系の人を使い回せる、というものでもない。理科系も文科系も乗り越えたところまで行った文科系の人だけが、やはり人の上に立っ世の中をリードしていくわけだ。

まあ、世の中をリードするしないは別として、ムラ気という弱点を転じて、多面的、かつまた多角的な能力と才能を発揮できる可能性を秘めている点では、理科系人間より文科系人間のほうが上である。

ものごとにはすべてプラスマイナス両面がある。意志薄弱でムラ気の文科系タイプにも必ずプラスの面があるし、まじめにコツコツ努力していく理科系タイプにも必ずマイナス面がある。

要は、それをいかにコントロールし、常にプラスの面を出せるようになるか、であって、最初から意志薄弱人間はダメ人間であると全面否定したら、これはもう立つ瀬がない。

もちろん、いい面をより引き出していくには、自分の弱点である意志の弱さを克服しなければならないのだが、その前にまず、軟弱な自分にもプラスの要素があるんだ、コツコツタイプの人には真似できない素晴らしい内面性があるんだと、自信を持つことである。

その自信を持たず、ただ単に自分はダメだ、ダメ人間だ、だから性格を変えたいんだというのでは、変えていくだけのエネルギーが湧いてこないはずだ。

ということで、自分のいいところと悪いところをしっかりわきまえた上で、どうやったら意志の強い人間、雄々しい人間になれるのか、ということを考えていきたいと思う。

好きなことを徹底することから集中力が身につく

すでに述べたように、私は典型的な文科系タイプで、一つのことを最後までやり遂げることのできない、気分にムラの多い人間だった。

今でこそ私は、絵も描けば作曲もし、演奏もする。そういう現在の私を知っている人は、多分、子どものころから集中力があり、一つのことをやり始めたらどこまでもやり通せる意志の強い人間だと思っているかもしれない。

しかし、昔の私はそれとはまるで逆。超が付くほどムラ気、移り気の激しいタイプだったのだ。と言ったところで、信じてもらえないかもしれないが、人工的努力によって、私はこれを克服したのである。

それにしても、このムラ気、移り気は何とかならないものだろうか・・・・・・。これが子どもの時分の私の悩みであった。

小学校のころ、勉強のできる子を見ては、どうしてああ勉強ができるんだろうと、不思議でならなかった。きっと、いい下敷きを使っているから勉強ができるんだと思って、できる子の下敷きと同じのを揃えたけれども、やっぱり全然ペケだった。

筆箱だろうかと、筆箱も揃えたし、カバンも同じのを揃えもした。全部同じのを揃えたけれども、当たり前のことながら、全然成績は上がらなかったのである。

しかし興味のあることにだけは夢中だった。バッタやコウモリの捕り方は実に上手だったのだ。

ピカ一の同時通訳者として有名な松本道弘先生も、子どものころは同じようなことをして遊んでいたらしい。

松本先生は大学では柔道をやってらして、大学卒業後は日商岩井に就職。証券部で七年間働いていらっしゃった。

それから、あるとき突如として目覚めて、独学で英語を勉 23強された。その後、アメリカの大使館の同時通訳になられて、今では著書も数十冊もある。

それだけの実績を残しているすごい先生でも、昔をたどればごくごく普通の人だった。だから、元普通同士で二人は意気投合するのだが、松本先生も、高校時代や大学時代は、スズメを巣箱から取ってきたりしていたという。

私はというと、小さいときにはゴム銃でスズメを撃ち落としたものだ。スズメというのはこちらを発見するとすぐに逃げる。

見つかったら最後、絶対と言っていいほど捕れないのだ。そこで、どうしたらスズメが捕れるか、私なりに研究した。

その結果、葉っばの陰にスズメがいるところを、葉っぱ越しに狙ったら捕れるということがわかり、葉っぱに映るスズメのシルエットを狙ったら、みごとに捕れた。月に何匹も捕った。

今でこそ私は、会社で月間の売上目標を立てているが、当時の私の月間目標はスズメだったのである。

そのあと、標的とする動物がいろいろと変わっていって、カエルとか、トンボとかも捕りまくった。

興味のあることには、スズメ捕りでも、コウモリ捕りでも夢中になるし、テレビの主題歌もいくらでも覚えられる。

けれども、本を読み始めると、なんかクラクラッと眠くなる。感性はついていくのだが、知性がついていかないのである。

これをどうやって克服するかと悩んだものだ。受験でも苦労した。今のごく普通の生徒諸君のレベルもよくわかるのは、私がそうやって苦労した結果である。

「君たち、なかなか勉強に集中できないんだろう。面白いテレビ番組があると、勉強しなければと思っても、ついつい見ちゃうんだろう」

「どうして先生、わかるんですか」と、びっくりするくらいだ。

「先生にはわかるんだ、自分がそうだったからね」と言って初めて、なるほどと納得してくれる。自分がそうだったから、普通の生徒の気持ちがよくわかるのである。

話題になった「超勉強法」という本で、野口悠紀雄さんも「興味のあることからやれ」と書いておられるが、まったくそのとおりである。興味のないことをやっても結局、途中で投げ出すのが関の山。苦しい思いをしても、ほとんど身につくことはない。

それどころか、最後までやれなかったことが心の傷として残り、「ああ、やっぱりおれは意志が弱い」とますます劣等感を深めることになりかねない。

そんなつまらないことにならないためにも、ムラ気、移り気を否定するのではなく、いったん肯定した上で、興味のあるもの、関心の向くものにチャレンジしていくのが、意志の弱い人にとって最上の策ではないかと私は思う。

しかし、ただ単にムラ気で移り気なだけでは、何をやるにつけても、最後までやり遂げることはできない。やはり、それ相応の集中力が必要である。

そのためには、とりあえず今、夢中になれることを徹底的にやることだ。スズメ撃ちでも、蛇捕りでも何でもいいが、やる限りは半端ではなく、日本一、いや世界一のスズメ撃ち、蛇捕りになるつもりでやるのだ。

そして、最後まで必ずやり遂げる。そうすると、自然と欠けていたはずの集中力が身について、他の分野でも集中できるようになるのである。

いくら言われても直らない移り気をどうするか?

ところが、文科系の人はだいたい、そこに至る前に行き詰まる。私もそうだったけれどこのタイプの人は、非常にムラ気で、移り気で、何でも嫌気がさす。持続的精神の集中がないのだ。私も学生時代、学校の先生から、

「君、持続的精神の集中が足りないんだよ」とよく言われたものだ。

そんなことはわかっているんだけれど、なかなか直せるもんじゃない。それに比べると、理科系の人はムラ気がないし、移り気ではない。

予備校の理科を担当している先生も、昔、学校の先生が私に言ったようなことを言っているので、面白いものだなと思った。

この場合、先生自身が理科系でムラ気なし、移り気なしなものだから、文科系の生徒がなぜムラ気なのか、なぜ集中力がないのか、わからないのである。

私はしかし、そういう生徒さんを見ていても、「そうだろう。そうだろう。君の気持ちはよくわかる。しかし、君はまだ偉い。私はもっと移り気で、ひどかったぞ。君は私よりよほど集中力があるんだから」と思ってしまう。

でも実際、そうやって中学生や高校生の時に、ひとつのことに集中できるからと言って、そういう人がみんな、日本や世界を動かすような人になるかというと、そうとは限らない。

さりとて、集中力がなければ、ただの移り気で浅い人間にしかなれない。だからこそ、多くの人が、「性格を変えたい。集中力を身につけたい。意志の強い人間になりたい」と考えるのである。

ムラ気・移り気の人は、多芸多才の人になりうる!

繰り返しになるが、このなかなかやっかいな悩みを克服するには、自分のムラ気、移り気を、「ああダメだ、ダメだ。何とか理科系タイプにならなくちゃ」と悩むだけではだめなのだ。

私もよく学校の先生から、「君ねえ、その飽きっぽい性格、もうちょっと直したらどうなの」と注意されるほど集中力がなかったが、今は立派にと言ったらおかしいが、誰よりも集中力があると断言できるくらい、かつての性格を克服した。

どうやって克服したかと言えば、「この性格はよくない」という気持ちをまず克服したのだ。いわゆる観念外しというやつで、「これはこれでいいんだ」と思うようになった。ただしこれは、あとで勉強するようになってからわかったことで、その当時はよくわからなかった。ただただ、ひたすら悩み続けるだけだったのである。

はっきり言って、ムラ気で、移り気で、嫌気がすぐさすというのは、マイナス的な表現でしかない。ムラ気で、移り気で、嫌気な人というのは、これが逆に働いてプラスの方向に変わると、多面的な人格、多芸多才、多角経営の要素になるのだ。

一概には言えないが、多角経営の人、多面的な人物は、一つのことに熱中する人よりも大成功する可能性を秘めている。

一つのことではすぐ飽きてしまうという面を、長所に転ずることができれば、大成功を収めることだって夢ではないのだ。

逆に言えば、多才、多芸、万能な人は、基本的にその心の奥に、ムラ気と移り気と、一つのことをやったら嫌気がさすという傾向がある、ということでもあるわけだ。

ここに気がつくのに、私もずいぶん時間を要した。しかし、気がついてみると、自分の短所と思っていたところが、かえって長所でもあるのだと、大いに自信を得ることができたのである。

移り気の普通の人は中庸の徳を備えている?

文系には文系の長所が、理系には理系の長所がある。ただし、長所は逆に短所、弱点にもなる。

たとえば、多芸多才ということでは文科系のほうがすぐれているが、受験勉強という限られた分野では、一つのことに集中して努力できる、コツコツタイプの理科系人間のほうが有利で、ムラ気の文科系人間は不利になる。

しかし、全世界文科系人間の代表者として言わせてもらうと、持続的精神の集中ができる人、たとえて言うなら大学の先生とか、どこかの研究所の研究者は、一ワーカーにすぎない。

一つのことをずっとしていて、ほかに何もしたいと思わないというのだから、言わば職人さんなのだ。大学の先生は、みんなその職人だ。

一つのことをずっとやれる人というのは、これ、持続的精神の集中がある。一つのことを最後までやり遂げ、成就させるのだから、そうでない人から見たら、まるで神様のような人である。

しかし、持続的精神の集中も、マイナスに作用すると頑固、偏屈、ワンパターンになる。

これは「単純」と言ってもいい。一つのこと、一つの考え方に集中できはするが「これは絶対だ」、「私はやり通した」という思いがあるから、やり遂げられない人の気持ちにはなれない。なぜできないのか、それがわからない。ムラ気、移り気、嫌気の気持ちが理解できないのである。

ところが、成績が真ん中以下の子どもは、ムラ気、移り気の激しいタイプだ。成績が中ぐらいというのは、優秀すぎず、悪すぎず、ほどほどということだが、悪く言えばいい加減、中途半端。

だが、これを善意に解釈すれば、中庸の徳を存しているということになる。

もちろん本人の努力が必要だが、中途半端を克服できた元移り気の人は中庸の徳を得ることができる。そうすると、ムラ気、移り気の人たちに対しては、とてもいい教師になることはできる。

文科系の人は、努力すればそうなれるのである。ただし、その手前で、「集中力をつけたい、でもつかない」と悩んでいるだけでは、時間がカラ回りするだけだ。

まず、自分のムラ気な性格を肯定して考えよ!

「性格を変えたいんですけれど」と、私のところに相談に来る人は、だいたい今言ってきたようなムラ気、移り気の文科系のタイプだ。

しかし、そういう人でも、まったく精神の集中がないかと言うと、案外そうではない。

たとえば、御飯を食べたり、恋人とデートするにはどこが最適かと、一生懸命、公園の本で調べたりとか、こういうときには持続的精神の集中がある。

人間なんてだいたいそういうようなもので、何か得意なところ、大好きな分野、楽しいことは誰でも集中できる。集中するなと言っても集中するものである。

しかし、意義あることをするときは、すぐに飽きて、あちこちに気を散らす。別にデートに意義がないとは言わないが、勉強や仕事などやらなければならないことになると、ムラ気がむくむくと頭をもたげてくるのが、文科系タイプの特色である。

これはやり方を変えたらいい。ムラ気はいいんだ、移り気はいいんだ、嫌気がさすのはいいことなんだと、思い込んでしまうことだ。

私は文科系特有の妙なる美徳を持っているから、やりようによっては多芸多才で万能になれる、多面的人格を持っているんだ、

経営者になったら多角経営ができるんだ。そういうふうに思って、否定的に考えないことだ。

試験で失敗するのは集中力の差じゃない!

しかし、自分を肯定するだけで、ただムラ気、移り気に安住していていいかと言えばそうじゃない。いつも世間の真ん中あたり、学校の真ん中あたりにいて、「ああ私は中庸の美徳がある」なんて喜んでいたって、ちっともありがたくはないに決まっている。

とくに受験生はそれではダメだ。受験生にとっては、どこまで成績が上がるかが課題である。

そのためには集中力が必要不可欠、というのが世間一般の考え方である。

集中力さえあれば受験は突破できるんだ、ということで、集中力は言ってみれば万能薬のように考えられている。

だから、「性格を変えたい。集中力をつけたい。そうすれば、いい大学に受かるはず」ということになる。

ところがどっこい、そうは問屋が卸さない。集中力信仰には大きな落とし穴があるのだ。持続的精神の集中があったら受験に合格できる、というものではないのである。

これは、私が発見した真理だが、どうしたら合格するかと言うと、勉強の絶対量が多かったら合格するのだ。英単語を覚えるとか、やりこなした絶対量。それによって合否が決まるのであって、精神が集中していたかどうかではない。

英単語をどれだけ覚えたかという量、問題集を何冊こなしたのかという量、数学を何題解いたのかという量、英文もどれだけ読みこなしたのかという量。

その量が多かったら合格するし、少なかったら失敗する、というだけのことだ。

そもそも、いくらムラ気で、移り気で、嫌気がさす人でも、「始め!」と号令で試験問題に取り組んだら、途中で、「あしたのおかずは……」なんて考える人はいない。

ムラ気とか、移り気と言ったって、試験場へ入って「始め」となったら集中するわけだから、勝ち負けは集中力にはないことがわかる。

問題は、試験に臨むまでにやりこなさなければならない勉強の絶対量を、いかに一年、あるいは二年でこなすのか、ということだけだ。だから移り気の人、ムラ気の人、嫌気さす人は、その自分の性格に合ったように勉強の絶対量を増やせばいいわけである。簡単なことなのだが、なかなか気づかないことである。

集中力のない人はこうして勉強しよう

その点、前にも書いているように、私のムラ気は半端ではなかった。その半端ではなかったことが私にとって幸いだったのだろう、私は自分の性格を変えようと思わずに、自分の性格に合った勉強法を見つけることを考えたのである。

それで、私は何をしたかというと、ムラ気で、移り気で、嫌気がすぐさすので、勉強の絶対量を増やすために、勉強の場所を変えたのだ。

つまり環境を変えたわけである。次に、意識を変えた。集中力がないことを嘆かないことにしたのである。

集中力がある人とは理科系だ、私は文科系だからこれでいいんだと、意識的に意識を変えたのだ。環境を変える、というやり方から、まず説明しよう。みなさんもこのやり方なら、性格を変えなくとも勉強量を増やせるはずだ。

私もそうだが、ムラ気で移り気な人はだいたい、勉強を始めるとすぐにトイレに行きたくなる。帰って来ると、一度は机に向かっても、すぐ横になりたくなる。みなさん、心当たりがあるだろう。

そこで私は、トイレには英単語帳を置いておき、トイレに行ったらそのたびごとに、

単語を一〇個覚えることにしていた。

それから、勉強部屋には、どうせ横になるのだから枕のところに教科書を置いてお寝る前に一〇分だけ読む。一〇分読んだら、それ以上読まないで寝てしまう。

そんなバカな、と言うなかれ。受験生というのは何年間も勉強ばかりしているのだ。一日一〇分しか読まなくたって、三日で三〇分、一月で三〇〇分、つまり五時間になる。トイレの単語だって、一日五回トイレに行けば、五〇個暗記することになる。一〇日で五〇〇だ。

これを習慣づけることが大切だ。私はお風呂に入るときも耐水性のカードを置いたりもした。古語、助動詞の活用も声を出して覚えたものだ。あるいは歴史年表にしても、「八一〇年、菓子の変」とか「鳴くよ(七九四)ウグイス平安京」といった具合に次から次へと覚えていった。

まあ、「鳴くよウグイス平安京」なんか誰でも知っているが、そのほか「白紙(八九四)に戻した遣唐使廃止」。八九四年に菅原道真公が、遣唐使はもうこれ以上しても意味がありませんというので、検討し直そうと言って戻したのが西暦八九四年。

そうやって覚えたおかげで今でもスラスラ言えるが、もう何十年も前にお風呂の中で何度も何度も復唱したことが、たまらなく懐かしく思い出される。

今でも鮮明に覚えている。耐水性のカードを作って、湯船にプカプカ浮かべながら覚えたものだ。

三〇年たっても記憶しているということは、よほど印象が強かったということの証明である。そのまま真似をしろとは言わないが、ムラ気、移り気の人には参考になるはずだ。

その反対に、机に座ると勉強できず、いつもボケーッとしていた。

そして、ボケーッとしながら英気を養っていた。そのクセが身にしみて、いまでも机に座るとボケーッとしたくなるが、反面、キッチンに入ったり、プラットホームで立つと、いろんなことを覚えたくなって、どうにも落ち着かなくて困っている。

通勤・通学時間は天才になるチャンスだ

東京へ通勤しているサラリーマンの中には、「通勤時間が二時間もかかって大変ですよ」と嘆く人がいる。

私も大学時代、一時間半から二時間かけて通学していたから、その気持ちはわからなくはない。しかし私は、ことあるごとにこうアドバイスすることにしている。

「通勤時間が二時間かかるって?あっ、あなたは天才になれる。少なくとも、天才になる要素を天からいただいている」

「は?通勤時間二時間が、ですか?」と聞き返されたりするが、私だったら、通勤時間二時間、大歓迎である。なぜか。往夜四時間の間は絶対に外へ逃げられないからだ。

通勤電車はだいたい満員電車と相場は決まっている。だから、電車の中で行ったり来たりもできない。

当然のことながら、二時間、吊り革にぶらさがりながら、ウォークマンで英会話など、いろいろ聴くこともできる。席に座れば座ったで、することがないから新聞や雑誌、単行本を読むしかない。

つまり通勤時間の車内は、安定した勉強時間の確保の場として使えるのである。だから、通勤・通学時間が長い人は、神のおかげで偉大なる文科系人間になる要素がある、というわけだ。

ところで、私のカバンの中にはいつも八種類の本が入っている。おトイレに入ったらこの本、レストランへ行ったらこの本、電車に乗ったらこの本、待っている時間はこの本と、そのときそのときに応じて読み分けているのだ。

それというのも、一冊の本だけ読んでいると私は飽きるからである。

小説を読んでいたら評論文が読みたくなる。評論文を読んでいたら、今度は学術文を読みたくなるし、学術文を読んだら英文が読みたくなる。

英文を読んでたら、古文・漢文が読みたくなるのだから、自分の移り気とムラ気と嫌気がさすのを慰めて、満たしてあげなくちゃならない。

だから、漢文、古文、学術文、英文、小説、評論文、いろいろな本を私は持って歩いて、ときと場所に応じながら、それぞれ並行して読んでいるのだ。

おかげで私は、いつも新鮮な気分でいられる。気分が次から次へと移っていくから楽しいのである。

嫌気がさしたころにはほかの本を読んでいる。ムラ気のあるときにはほかのことをやっているから、非常に多芸多才で多面的な人物になっていられる。

集中力のある人なら、一冊の本を熟読玩味するのがいいだろう。しかし、私のような移り気の人間にはそれはできない。

本を読む、その絶対量が多かったらいいのだと割りきって、気分のおもむくままに、好きな本を読んでいればそれでいいのだと思う。

電車の中で発声練習もできる!

通勤・通学電車を、読書だけに活用しているのではあまりにももったいない。工夫次第で、いくらでも活用法があるのだ。

あるとき私は、道を歩きながら、ふと思った。待てよ、歩いているときだって、別に黙って歩くことはない。日本の道路だからといって、英語をしゃべりながら歩いてはいけないという法はない。

そう思って、道を歩きながら英語をしゃべることにしたのだ。そうすると、当然、すれ違う人が変な顔をする。

何だこの人、頭がおかしいんじゃないかしら。そんな怪訝そうな顔をして、通り過ぎてから何度も振り返る人もいる。

けれど、何も悪いことをしているわけじゃないから、気にすることはない。

そのうち私は、この方法を電車の中でもやってみようと思うようになった。

学生時代、私はあの甲子園球場のある西宮市の苦楽園口という駅の近くに住んでいて、大学のある京都まで二時間ほどかけて通っていた。

もちろん二つのクラブをかけ持ちしていた私のこと。二時間の間ずっと一つの勉強をしていたのでは、両立できない。

そこで、苦楽園口駅と京都の四条河原町駅との間を二等分し、苦楽園口駅から高槻駅までは謡曲を大学時代、能楽をやっていたからだが)、そしてその駅から四条河原町駅までは英語を勉強することにした。英語といっても、読解ではない。

発音である。大学のESSの部長をやっていた私は、立場上、発音が上手にならなければいけなかったのだ。

そうは決めても、問題は場所である。どうやって電車の中で発声練習したらいいのだろうか。座席に座って発音練習をすれば、周囲の人に迷惑がかかるだろうし、まかり間違えば、つまみ出されることだってある。

さて、車内で発音練習をするにはどうしたらいいのだろう。いろいろ考えた末、たった一つ、ほかの乗客に迷惑をかけずに練習できる場所を発見した。

それは、電車と電車を連結するジョイント部分だ。この空間は誰にも邪魔されないし、いくらでっかい声で英語の発音をしても、電車の音のほうが大きくて人に迷惑をかけない。

さっそく実行に移すと、これが実にいい。電車のガタンゴトンという音でリズムを取りながら発音すると、ノリがいいのだ。ときどき、人が乗り込んでくることもあったが、その瞬間、口を開いたままで黙る。

「あんた、何やっているの?」と言われたこともあるが、まあ、人間、気にさえしなければ、どんなところでも勉強できる。人がいなくなると、また大きな声で発声練習をして、もうそろそろ駅が近い

思ったら、何ごともなかったかのような顔をして、座席に座ったものだ(興味のある方は、拙著「下手な英語の話し方」(たちばな出版刊)をご参照ください)。

この方法なら誰にも迷惑をかけない。あのジョイント部分は音が大きいので、自分の声を遮断できて、思う存分発声できる。

だから、今でも地下鉄に乗ってジョイント部分に乗ると、ついつい大声を出してしまうことがある。

習慣とは恐ろしいもので、似たような環境に置かれると、三〇年近くたった今でも、条件反射のようにすぐ声が出てしまうのだ。

考えたら私は、通学の往復のときしか勉強しなかった。机についたらいつも、ボケーッとしているか、ほかのことを考えていた。

空想少年だったから、別世界のことばかり考えていたのである。空想少年は、机に座ると勉強なんかできない。

だから、電車の中で、あるいは道を歩いているとき、英語を発音したり、謡曲を謡ったり、年表を暗記したりしていた。事故には気をつけなきゃいけないが、「机に向かうと、すぐほかのことに気が向いてしまう」というような人には、お勧めの勉強法だ。

眠気を追い払う絶好の方法もある

しばらく前、関西方面の電車の運転士が、仕事中に眠くならないようにというので、覚醒剤を使って電車を運転していたというニュースが報道されていた。

この人は逮捕されたというが、電車の運転士に限らず、仕事中に眠くなって困るのは誰でも同じだ。

私も睡眠不足で困ることはある。しかし私は、これなら覚醒剤を使わなくても大丈夫という方法を開発した。それを紹介しておこう。

歩きながら、グーッグーッと寝ている人はいない。それから、全力疾走しながら熟睡している人もいない。

どんなに眠くても、走りながら眠っている人は絶対にいない。私の講演会でも、講義の最中に寝ている人がいる。そういう人にはときに、「歩きなさい」と言って歩かせることがある。これで寝る人はまずいない。

電車の中では、ときどき私も「忍法立ち寝」を研究したことはある。これなら少しは眠れる。しかし、走りながら眠るのは絶対に無理だ。筋肉が活動すると、人の目は覚めるのである。至極当然のことだが、眠いときには歩けばいい。

私はこうして連続四十五時間書き続けた

もともと私はこういうムラ気、移り気の文科系人間だったし、今でもそうだ。だから、今もって、本を書くという作業は、私にとって難行苦行以外の何ものでもない。

何しろ、机に向かうと空想と言うか、別世界に心が向いてしまうから、原稿なんぞ進むわけがない。そういうとき私は、数人のお弟子を連れて、ファミリーレストランへ原稿を書きに行くことにしている。

なぜファミリーレストランなのか。電車内ほどではないにしても、いったん店に入ったらあちこち歩き回ることができず、いやおうなく椅子に座っていなければならない。

椅子に座っていても、ほかにやることがなければ、嫌だ嫌だと言いながらも原稿をやるしかない。言わば、ファミリーレストランは私にとって、何ものにも替えがたいほど大切な書斎でもあるのだ。

そうやって私は、ファミリーレストランで二十四時間ぶっ通しで本を書いたことがあるし、今でもときどき四十五時間、一分たりとも休まず書き続けることがある。

ただし、そのファミリーレストランにしても、一つだけ困ったことがある。ご飯を定期的に食べないとファミリーレストランから追い出されてしまうのだ。

そりゃそうだ。たったカレーライス一杯で四十五時間も粘られたら、お店は上がったりだ。だから、食べたくなくても朝、昼、晩と三食きちんと食べるわけだが、トーストやファミリーセッといった値段もボリュームも軽い料理をオーダーすると、ウェートレスに冷ややかな視線を浴びせられる。

ステーキやハンバーグなど、値段、ボリュームともに高い料理をオーダーすると、どこか温かみのある接客をしてくれるので、必然的に量の多い料理を三食、食べることになる。

すると、当然、おなかがふくれて眠くなる。そういうときには、パッと立っておトイレへ行って眠気を醒まし、帰って来てまた書く。

しばらくするとまた眠くなるから、パッとおトイレに立って眠気を醒ます。立ったと思ったら座り、座ったと思ったらまた立って、という具合に忙しいことこの上ないのだが、そうやっておトイレを自在に活用することで眠気を追い払うのである。

一緒に行くお弟子はお弟子で、自分の作業があるから、私の隣の席でそれをやっている。ところが、お弟子は七時間もすると、テーブルに突っ伏して眠ってしまう。私は二十四時間ずっと書き続けられる。

この違いのゆえんはどこにありや・。そこはやはり師匠とお弟子、自ずから修業の深さが違う、根性の入り方が違う、集中力が違う、忍耐力が違う、人生に取り組む姿勢が違う。

私は七時間や八時間で眠り込んでしまうようなヤワな男ではない、と胸を張って言いたいところだが、実はそんな格好のいいことではない。

眠くなったらパッとおトイレに立つかどうかの違い、たったそれだけのことなのだ。

「何だ、そんなことなの?」と笑うなかれ。ここには天地自然の深遠なる真理が隠されているのだ、と言ったらこれまたウソになるが、歩きながら寝ている人はいないという単純かつ明白な法則に気づくか気づかないか、そしてそれを応用しようという意欲があるかないか。

その差が、七時間と四十五時間の違いとなって表れるのだ。

別に、私が性格が強くて、集中力があるから四十五時間ぶっ通しで原稿が書けるわけではない。

短い期間に楽器の演奏ができるようになったり、絵を上手に描けるようになったりするのも、私の性格のゆえではない。

ムラ気、移り気という自分の性格を知悉した上で、それに適した最良の方法を工夫するからできることなのだ。

だから、性格を変えたい、集中力をつけたいという方には、まず手始めに、やり方を工夫することをお勧めしたい。自分に適した方法で努力していれば、第三者からはその姿があなた本来の性格に見える。

ああ、何と集中力のある人だろう。ああ、何と忍耐力のある人だろう。けれど、一皮むけば、単におトイレに立って眠気を防いでいるだけ。

われわれの目からは持続的集中力があるように見える、コツコツタイプの理科系人間も、その実像を探れば、案外その程度なのかもしれない。しかし、「その程度」が実は、非常に重要なのだ。

そうやって工夫に工夫を重ねていけば、やがて多才、多芸、万能、多面的人格、多角経営という素晴らしいほうに変わっていくはずだ。

無味乾燥な基礎学習は、環境変化で克服できる

受験勉強をするにしても、語学を習得しようと思っても、文科系の人は一つのことをコツコツはできない。だからいいのだ。まずいのは、文科系のそのマイナスイメージばかりに目を向けて、「どうせおれはダメな男さ。集中力なんかこれっぽっちもないんだから」と、ことごとくネガティブに受け止めてしまう考え方であり、観念である。

偉大なるムラ気と移り気と嫌気。そこにこそ文科系人間の能力の淵源があるのであって、これを人工的に乗り越えたら、文科系人間にしか持ち得ない最高に素晴らしい能力、才能を発揮できるようになる。

それには結局、やりこなす量で勝負するしかない。受験勉強なら、学習の絶対量が多い人が学校に合格するし、英語を習得しようと思ったら、読んだ英文の絶対量、暗唱した単語量、熟語量、それからスピーキングした量、ヒアリングした量が決め手になるわけだ。

しかし、そういう基礎的訓練というのは非常に無味乾燥なものだ。単語や熟語、あるいは年表の暗記といったものほどつまらないことはない。

文科系人間の最も苦手とするところでもある。だが、これは避けられない。嫌でもやるしかない。自分の性格に適し方法を工夫すれば、必ずやできるはずだ。

そうやって、知識も、ヒアリングも、スピーキングも、ある程度の絶対量をこなすと、俄然面白くなる。ヒアリングもスピーキングも上達して、カタコトながら外人とも話ができるようになると、反応が違ってくるから、非常に興味が出てくる。

つまり、文科系人間の特色は、ムラ気、移り気、嫌気なのではあるが、絶対量をこなしてある程度レベルが上がってくると、興味に引き込まれるかたちで、恐ろしいばかりの集中力が出てくるのだ。

これは、文科系人間に隠された、もう一つの特色と言っていいだろう。文科系人間にはだいたい、そういうタイプの人が多いはずだ。

面白いな、楽しいなと思ったり、情感が満ちてその気になれば、するなと言われたってずっと集中していられるのである。意志が弱いから集中できないのではないのだ。

文科系タイプの人は、「ねばならないこと」ができないのである。「ねばならない」という種類の努力は基礎的なことで、無味乾燥なルーチンワークである。

だから辛いし、やりたくない。やってもすぐに飽きる。そういう自分を見て、またまた「ああ、持続力がない、集中力がない」と嘆くことになるのだが、そうではない。

持続力がないのでもなければ集中力がないのでもない。工夫が足りないのだ。私がファミリーレストランを活用するように、眠くなったらおトイレに立つように、環境に変化をつけて飽きる心をなだめる工夫。

それを自分なりに研究していったら、無味乾燥なルーチンワークも克服できる。

そうやって、勉強の絶対量、努力の絶対量がある程度のレベルになると、非常に面白くなる。

すると、勉強そのものが面白くなり、興味が持てるようになる。そこまで行ったら、ちょうど子どものころ、テレビを見るなと言われてもテレビに夢中になったように、集中するなと言われても集中する。

そして、成果が出てきて、「君、すごいね」なんて言われるとうれしくなって、ますます集中し、ますます実力が上がっていく。

かくして多芸多才にして、万能の人が一人、また誕生するのである。