「ねばならない」環境に自分を追い込め!
ここまで読み進まれて、だいたいおわかりになったと思うが、性格を変えるポイントを一言で言うと、「ねばならない環境に自分を追い込めばよい」ということだ。
私がフアミリーレストランで自らを缶詰状態に追い込むように、「ねばならない」環境に自分を追い込めば、ムラ気、移り気、嫌気、眠気をある程度、克服できること間違いなしである。
これはまあ、半分冗談なので聞き流していただいて結構だが、もし持続的な集中力がなくて悩んでいる人がいたら、青梅マラソンに参加することをお勧めしたい。
青梅マラソンは別に四二一九五キロを何時間以内で走らなければならないという基準タイムが
あるわけではないし、予選もない。ただし読売新聞社が主催なので、抽選で当たらないと、正式には参加できないらしい。
でも、外れたとしても、正式参加者が出発したあとから勝手に走っていく分には、文句は出ないと思う。
ともかく、参加すると決めたらまず最初に、友人、知人、家族、誰かれかまわず「私は青梅マラソンに参加します」と宣言する。
行きつけの喫茶店の可愛いウェートレスとか、会社の受付の色っぽいOLさんとかには、必ず言わなきゃいけない。そうやって、自分を「走らねばならない環境」に追い込むのだ。
だいたい、持続力がない人に四二・一九五キロも走れるはずがない。しかし、持続力も根性も持ち合わせていないのに、何とか走り通した人を知っている。マラソンのオリンピック選手は四二一九五キロを二時間ちょっとで走る。
ところが、その人は何とか完走したものの、八時間以上かかった。参加者中、ダントツのビリだったそうだ。
しかし、四二・一九五キロメートルをともかく走り通したのだから立派だ。青梅マラソンに参加しなかったら、四二・一九五キロなんか逆立ちしたって走れなかっただろう。この話を聞いて、私も真似をしてみようと考えた。
○○メートル以上走ると、何のために走っているんだろうかと、すぐに走る意義を考え、別に走らなくてもいいんじゃないかと思って、歩くのである。私の走る距離は一〇〇メートルから、まあ調子のいいときで一五〇メートル。あとは歩いたりしているわけだ。
そういうふうな私だから、四二一九五キロも走るなんていうのは、すごいチャレンジだ。何しろ、私は一〇〇メートル以上走れないという性格と体力だ。
そんな私がどうやったら四二キロも走れるんだろうか。これはすぐにパチンと答えが出てきて、まず私の主宰しているグループ、「ワールドメイト」の定例講義で発表する。
「私は今度、青梅マラソンに参加いたします」とすると、「ああ、そうですか。先生が参加するなら私も参加しましょうか」という「ワールドメイト」の会員さんが必ず出てくる。
そしたら、その人たちと一緒に「青梅マラソンに成功する会」なんていうサークルをつくって、産土様(鎮守様)にもご祈願をする。そうやって、まずは目標を立てるわけだ。
そこまで宣言してしまえば、これはもう参加せざるを得ない。定例講義で発表してしまった以上は、神霊家である私としては引っ込みがつかなくなる。
「青梅マラソンの青梅を霊的に解義すると、青い梅である。青い梅は古来、体によくないとされてきた。そこで神様に祈ったところ、神様もやめておけとおっしゃった。それゆえ、今回の参加宣言は取り消します」
こんなこと、言えるわけがない。
だいたい、私が言い出すと、「私もマラソンが好きです」と言う人が次々に出てくるのだから、言い出しっぺの私はどんなことがあっても走らざるを得ない。
これが「ねば「ならない」環境のパワーだ。「あしたから、先生、練習しましょうね」とか、「とりあえず四二一九五キロを走ってみましょう」と周りに言われるし、せっつかれる。こうなると、ほとんど歩きながらでも、ハアハアヒイヒイ言いながらでも、ともかく走るしかない。
ああ、裸足の王者アベベ・ビキラは二時間何分で走ったんだっけ。メキシコ五輪銀メダリストの君原さんはどうだったっけ。
君原さんのように首を振ってみようかな。
何しろ変化がないと続かないので、一〇〇メートルぐらいを君原選手風に走ってみたり、佐々木精一郎でやってみたり、瀬古選手でやってみたり、宗兄弟みたいにやってみたり。
最初のほうは宗茂、次は宗猛でやってみたり。四二・一九五キロ、いろいろマラソンランナーの真似をしながら走るわけだ。考えるだけでも、涙ぐましくなってくる。
「ねばならない」環境になると、性格が弱いからできないなどと言っていられない。性格を乗り越えて、「やるぞ!」と立ち向かっていかざるを得ないのである。
そうやってマラソンに参加したら、周りにピチピチした若い人だらけ。もちろんおじさん、おばさんもいるが、たくさんの人と一緒に走っていれば自然と集団心理、依頼心が生まれる。
みんなが走っているから走れるんじゃないか、という気持ちは強力な強心剤になる。追い風と言ってもいい。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と言うが、みんなが走っているんだから自分もやれるんじゃないかと思いながら走っていたら、気がついたときにはゴールインということになる。一人では到底走れそうになくても、「ねばならない」環境に入ったら、案外やれてしまうものなのである。
深見式低血圧克服法
青梅マラソンはまだやっていない仮定の話。
今度は、私自身が体験した方法も紹介しておこう。
私はちょっと見たところ、エネルギッシュな人間に見えるらしい。絵もやれば書もやる、能もやれば京劇もやる。
その合間を縫って神様ごともやる。無論、本業は会社の経だが、その会社も日本に数社、海外にも数社ある。
そんな私を見れば、バイタリティーにあふれるエネルギッシュなタイプに見えるのも当然かもしれない。
ところが、さにあらず。昔も今も、相当の低血圧なのである。ご存じのように、低血圧の人はほとんど、夜は遅くまで起きていられても、朝は非常に辛くて起きられない。
私はその典型的なタイプで、朝風呂に入ったらパッと目が覚めるけれども、非常に朝が弱かった。
しかもAB型ときている。AB型は一般的に、睡眠時間をたっぷりとらないとダメなタイプだと言われている。同じAB型の人にはおわかりいただけると思うが、睡眠時間を十二分にとらないと、まるで頭が冴えない。
それは一つの観念であるかもしれないが、実際、私はそうだった。
二〇年ほど前からは、徹夜で仕事をしたり、モノを書いたりすることが多いので、低血圧だと言ってもなかなか信じてもらえないかもしれない。
たしかに寝ないでやっているときも多いが、それは意識して生来の自分を出さないようにしているからであって、生来の自分が出たら、徹夜なんてできる相談ではない。それくらいの低血圧なのである。
五段階目覚まし時計作戦の成否やいかに?
いくら低血圧で朝寝坊だからと言って、昼日中まで寝ていられるわけがない。学生であろうと社会人であろうと、朝になったらきちんと起きる。そこから一日が、そしてすべてが始まる。
しかし、AB型で低血圧の私にとって、朝起きほど辛いものはなかった。わかっていてもなかなか起きられない。
それで何度学校の先生に叱られたことか。ああ、どうしたら朝寝坊を直せるのだろうか。思えば、小さいころからずいぶんと悩んできたものだが、最終的に朝寝坊を解消できたのは大学生のときだった。
大学時代は、部員が四〇〇人もいる英語クラブのキャプテンだった。当然、キャプテンが朝寝坊でしょっちゅう遅刻しているようでは、示しがつかない。
今はもう七時には起きていけるけれども、そのころは起きられなかったから、まるでしめしがつかなかったのだ。
だから、どうしたら朝早く起きられるのかという長年のテーマも、より深刻さの度合いを深めていくのは当然の成り行きだった。
そのころ、たまたまバイブルを読んでいた。と見ると、まるで「目覚まし五段階活「用」というのがあるではないか。
私は、受験勉強のなごりか、三段階活用だとか五段階活用というのが好きなので、何かにつけてついこういう表現を使いたくなってしまうのだが、ヨハネの黙示録に、「第一のラッパが鳴り、第二のラッパが鳴り、第三のラッパが鳴り……」というくだりがある。その一文を目にした瞬間、私は即座に、「あっ、これだ。これを活用すればいいんだ」とひらめいた。一体、何がひらめいたのか。
いまは徐々に音が大きくなる目覚まし時計があるが、そのころは、そんな便利なものはなかった。けたたましく鳴り響く目覚まし時計をバーンと手で叩けばそれっきり。
あとは安心立命の夢枕。九時になっても十時になっても目が覚めない。
「あっ、これがいけなかったんだ。目覚まし時計が一個だから目が覚めないんだ。バイブルにあるように、第一の目覚まし時計が鳴り、第二の目覚まし時計が鳴り、第三の目覚まし時計が鳴りというふうに、五個の目覚まし時計をセットすれば、絶対に起きられる。
いや、起きられるはずだ、起きられるかもしれない、起きられるかな」ということで、「目覚まし五段階活用」を始めることにしたのだ。
具体的に説明すると、第一の時計が鳴ったら、その後、一〇分間隔で次々と残りの時計が鳴るようにセットしたのだ。
これなら都合五〇分、必ず起きられるはず。そうは思ったものの、名うての朝寝坊の私のこと、それくらいではまだまだ安心はできない。そこで工夫したのが目覚まし時計の配置だ。
五個の時計を一カ所に置くのではなく、布団から徐々に距離が離れていくように配置したのだ。そうすると、最初の一個目はもう鳴るやいなやパッと止めてしまう。
そうして一〇分たって二個目が鳴ると、今度はもうちょっと距離が長いので、「ああ、ムニャムニャ」なんて言いながら這い出して、止めたらまた布団の中に入る。
また一〇分たつと、もっと離れた三個目の時計が鳴り、そこまで這って行って、すごすごまた布団に戻る。
四つ目が鳴るとかなり距離があるので、たどり着くのも大変だ。
そして五つ目ともなると、玄関のそばで風がピューピュー吹いている。すぐに止めなければ近所から「うるさいぞ」と言われるから、寒さと使命感で必ずキッと目が覚める、という作戦を立てたわけである。
しかし、実際は覚めなかった。最後の目覚まし時計を止めるには止めるのだが、再び安心立命の夢の中に入っていってしまったのである。
苦心して編み出した作戦も、無残に失敗したのである。
目覚まし時計プラス濡れタオル作戦に!
そこでまた考えた。私の低血圧は、軟弱な目覚ましぐらいでは手に負えない。より強力な方法はないものかと考えた末、思いついたのが「濡れタオル作戦」である。
誰でも顔を洗うと目が覚める。だったら、寝る前に氷水を洗面器に入れてタオルを浸しておいて、目覚ましが鳴ると同時に顔を拭いたらいいんじゃないか。
そう考えて、第三の目覚まし時計のところに洗面器を置いたのである。
翌朝、第一の目覚まし時計が鳴る。だが、リーンのリが鳴るか鳴らないうちに、私は止めてしまう。電光石火の早業だ。〇・〇〇〇〇〇一秒くらいだろうか。
一〇分後、第二の目覚まし時計が「リーン」。これも難なく止めてしまう。そして問題の第三の目覚まし時計が鳴る。このときの私はさすがに違っていた。
これ断行せざれば武士の名折れとばかり、「エイ!」という気合もろとも、濡れタオルで顔を拭いたのである。
すると、「冷たい!」という皮膚感覚が脳天まで伝わって、いっぺんに目が覚めたのは言うまでもない。作戦は大成功。
「ついにやった!私の辞書に不可能という文字はない。私の前には道はない。道は私のあとからつくられるのである」。
私は勝利の雄叫びを上げ、しばしの感動にひたっていた。そして思った、これはノーベル賞ものの発明発見ではないか、と。
目ざまし五個と洗面器と氷とタオル、たったこれだけで重度の低血圧性寝坊に苦しむ世界中の何十億人もの人が救われるのだ。ついに私は、大学生の若さにして人類救済の大目的において、大いなる一歩を踏み出したのである、と。
そこで、これを企画書にして実用新案特許を取ろうと考え、服を着ようとしたところまではよかった。ところが、情けないことに、ズボンをはきながら私はまたしても寝てしまったのだ。結局のところ、これでも低血圧は克服できなかったのである。
聞くも笑い、語るも笑いの物語だが、そのとき、私は本気で特許の取得を考えていた。アルバイトを雇えばどうか、とも考えた。
でも、やっぱりそれではダメだった。目覚まし時計に頼ったり、濡れタオルに頼っていてもダメだ。やっぱり自分が変わらなきゃダメなんだ。低血圧の分だけは、意志の力、強い意志を持たねばと、当時の私は必死だったものだ。
一念発起!新聞配達を始めた
かくして私のたどり着いた結論は、朝早く起きざるを得ない、「ねばならない」環境に自分を追い込むしかない、ということだった。
では、具体的には何をやればいいのか。いろいろ考えた結果、毎朝早く起きなければならない仕事に就こうと決意したのである。
牛乳配達、新聞配達、ヤクルトのおばさん……朝の早い仕事は、数は少ないものの、あるにはある。だが、ヤクルトはおばさんたちの専有事業みたいなものなので、これは無理。
選ぶとしたらさしずめ牛乳配達か新聞配達といったところ。けれど、牛乳配達は重そうで、自転車がコケたらえらいことになる。
たまたまそう考えたときに、ガチャンと音がした。何だろうと外を見ると、そこには牛乳配達のおじさんが転倒していた。道には割れたビンから牛乳がこぼれている。
「ああ、無理無理。ぼくなんかには到底できやしない。あんな頑強そうなおじさんでもコケるんだから、ひ弱なぼくなんかがやったら、両足骨折で入院するハメになる。
それより新聞配達のほうが安全だ。たとえコケでもビンが割れるようなことはないんだから。
まあ、軟弱なことこの上なしといったところだが、当時の私はそういう男だったのである。
ということで、消去法で残った新聞配達をすることに決め、芦屋のすぐそばの朝日新聞の配達所に行った。
その日はいまでも覚えている。大学四年の十二月二十六日、とても寒い日だった。それまでは、私は自慢じゃないが、下半身がいつも冷え性だった。
冬になると早々と両親が、「これを着なさい」と言って長袖シャツ、「はい、これもしなさい」と言ってズボン下をよこす。要するに、最後の砦のバッチを履いていたくらいの冷え性だったのだ。
低血圧にAB型に冷え性と、私は朝起きられない三冠王である。こんな人間が新聞配冬に始めようと言うのである。
しかし、私は本気だった。
こんなこともできない人間は、将来、神様の御用には役立たないではないか。低血圧のAB型で、朝起きられないような人間は、神様の御用には役に立たないんだからと、
発願したのだ。神様のためだったら私はやれる。神の御用に役に立つようになるためなら、もう凍傷になろうと冷え性ぎみでも何でもいい。
運動するのだと思って、ランニングウェアをまず買いにいった。それも安物だったらすぐやめるから、目いっぱい高いのを買うことにした。
そのときに買いに行った店が、阪神の故村山監督の経営するスポーツショップだったのである。
「トレーニングウェアをください」と言うと、村山さんがたまたま出てきた。開店早々だったからだろうが、「どの色がいいでしょうかねえ。あなたはハナがいいでしょう」と勧めてくれたので、そのとき初めて、紺にハナ紺という色があると知った。
がちょっと入っているがハナ。村山さんが選んでくれたトレーニングウェアを着て、「ああ、神様の証だ」と思ったものだ。「村山実…ああ、この発願は実るんだ」と確信したのである。
日の出より早く起きたら、私の勝ち
それからというものは、毎日朝日と勝負した。日の出よりも早く起きたら私の勝ち太陽のほうが早く出たら太陽の勝ちと、自分でルールを決めたのだ。「起きよう!」と自分に言い聞かせてもダメなのは経験済みだから、「勝負をかけろ!」と言い聞かせたのだ。
「ねばならない」環境に追い込まれたとき、一体どうすべきなのか。ただ追い込まれただけでは絶対にダメ。逆にこちらから追い込んでいくぐらいの気概が必要だ。
だから私は、朝日新聞に引っかけて、朝日との勝負に出たわけだ。
朝日より早く起きたか、遅かったかということで、日の出の時間を見ながら、毎朝、戦っていくことにしたのである。
最初に配達所へ行ったとき、「大丈夫ですか、続くんですか」と、新聞所の人に言われた。
そこで、「私、朝起きるのが趣味の人間です」「ああ、それならいいですね」「ここ一〇年間、ずっと四時です」と、ウソを言った。もう早起き霊界をつくろうと思ったのだ。
ところが、その会話をそばで聞いていた配達のおばさんが陰険な顔で、
「一〇年間ずっと四時起きなんて、本当かねえ」と、厭味を言う。こんちきしょうと思うが、それでもまた「ねばならない」環境ができたんだと受け止めて、それを逆に楽しみにした。
そして、いよいよ配達初日。始めから躓いていたのでは話にならないから、さすがに緊張した。失敗しないためには、前の晩、早く寝たらいいのだが、もしものことを考えて初日は徹夜することにした。一睡もしなかったのである。無論、朝日との勝負は勝ちである。「今日は勝った。○」と。
ところが、前の晩、徹夜したものだから、配達が終わったら急に睡魔が襲ってくる。ああ、眠い、少し眠ろうか。そうも考えたが、中途半端に昼寝をしたら、夜になったら眠られなくなる。
これは怖い。ということで、初日はフラフラになりながらも一日、何もせずに起きていた。自分の性格を変える、強い意志を持つ。
それだけが勝負だから何もしないで、ただただ歩いたのである。それでもうギリギリの限界に達したとき、バタッと寝た。時計は夜の九時を指していた。
当然、翌朝は四時に起きて配達所へ行く。早く寝るから早く目が覚めるわけで、そときは三時ぐらいにはもう目が覚めた。
かくして、二日目も勝利を収めたのである。
冷え性から脱却できた!
ところが、三日目からがもう大変。非常に寒くて、辛さばかりが感じられるようになったのである。
六甲おろしが吹く中で、最初は肌を刺すようなランニングを二時間した。五階建てのビルディングを上がったり下がったりもした。
一番寒いときに始めたので、一週間ぐらいで顔が擦り切れたけれど、体は強くはなった。
それ以来、私は今日まで、真冬でもランニングとパンツだけで、長袖も着たことがない。春夏秋冬いつも同じで、寒くても平気、暑くても平気だ。「平常心、これお肌なり」という感じで、私のお肌は常に平常心。春夏秋冬いつも同じ下着で通している。
こうやって私は冷え性からも脱却できた。これは早起き作戦の成果のおまけだった。もちろん、毎朝、楽々とできたわけではなかった。集配場の厭味なおばさんに、「遅いじゃないですか」と言われたこともある。そういう日は、私は自分の負けとカウントした。「今日は負けた。×」と。
トーナメント方式で勝負すると、一度負けたらおしまいなので、プロ野球のように勝敗で数えるようにして、一年間、打率でだいたい八割、四時から五時に起きてがんばった。
アルバイトをするんだから、もちろん配達店はお金をくれる。けれど私は、お金が欲しかったのではない。一年間は自分の修業だと思ってこれに挑戦したので、金銭なんか関係ない。
お金を出す人はシビアだから、そういうシビアな、「ねばならない」環境に自分を追い込むということでやったのだ。
目覚まし時計五つセットしても起きられない、濡れタオルでもダメだった人間が、新聞配達をやらざるを得ないようになってから、冷え性も克服し、ランニングのおかげで体が元気になったのである。
性格を変える?どうするか、というのがこの章のテーマだ。
こういうやり方で、性格はもとより、体質も変えることができるということで、私の体験を紹介させていただいた。
それをもう一度整理すると、
①自分の弱点を必要以上に否定しない。プラスに転化できれば素晴らしい才能、能力が開花する可能性があると思い込む。
②興味のあること、面白そうなことから始める。
③自分の性格に適した方法を工夫して、無味乾燥なルーチンワークを乗り越える。
④「ねばならない」環境に自分自身を追い込み、苦手意識を克服する。
これらの方法で私は自分の殻を何度も脱皮してきた。私でもできたのだ。みなさんができないわけがない。
次の章では別の角度から、性格を変える方法について語ってみたい。
第二章 観念を破って、新たなる自己に目覚める法
菜食主義で朝起きになったけれど…
低血圧とAB型の体質プラス性格を私が克服できたのは、ねばならない環境に自分を追い込んだからだった。しかし、それだけではない。
途中でめげそうになったことは、何度もある。そういうときに私は、別の方法も試し実際に効果を上げることができたと思っている。それは菜食主義だった。
朝に弱い私にとって、どうしたら短い睡眠時間でも健康を保ち、元気ハツラツとしていられるか、というのが一番重要テーマだった。
それにはどうしたらいいのか、いろいろ考えた末に思いついたのは、筋肉を強くするということと、血液のペーハーを七四ぐらいに維持する、ということだった。
ご存じのように、血液が酸性に傾くと疲労しやすくなるが、それは、細胞組織に乳酸が溜まるからである。
だが、血液のペーハーをアルカリに保っていれば、疲労の原因物質である乳酸が分解される。そのため、たとえ睡眠時間が短くても、細胞組織に乳酸が溜まることがないので、すぐに体力が回復する。
私が菜食主義になったのは、そういう話を耳にしたからだが、実際、それ以来、短い睡眠時間でもすぐに回復できるようになった。
だからもう、菜食主義こそ人類救済の道である、というくらいに信じ込み、すっかり菜食主義の虜になってしまったのは言うまでもなく、それは大学を卒業するまで少しも変わることがなかった。
しかし私は今、読者のみなさんに菜食主義をお勧めするわけにはいかない。その後、菜食主義は間違いで、単なる思い込みであることに気づいたからである。
営業マンはコーヒーしか飲んではいけない?
大学卒業後、私はある大手住宅メーカーに就職し、営業マンとして働くようになった。来る日も来る日も営業先を忙しく回り続けていたある日のこと、一人の先輩から、「ちょっと喫茶店に行ってコーヒーでも飲もうか」
と、私を含め新入社員数人が誘われた。正直言って、あまり気乗りしなかったのだが、先輩からの誘いとあっては断るわけにはいかない。
誘われるままについて行くと、「おれがご馳走するから何でも頼め。おれはコーヒー。
お前たち、何にする?」ほかの新入社員も口々に、「ぼくもコーヒー」と言う。
ところが、菜食主義の私はコーヒーなんか飲むわけにはいかなかった。コーヒーに含まれるカフェイン、あれは胃によくないし、砂糖はもっと悪い。即座に血液を酸性にしてしまうと思ったからだ。
さて、どうしよう。考えあぐねている私に先輩は
「おい、お前は何にするんだ。早くしろ」と催促する。
「はい、ミルクセーキをお願いします」
私としては素直な気持ちで言ったまで。別に奇をてらうつもりはなかったが、先輩は突然、怒ったような顔をしてこう言った。
「君は営業マンだろう。営業マンはみんなと同じものを注文するんだ。みんながコーヒーを頼んだら自分もコーヒーか、せいぜい紅茶にしておくものなんだ」
その先輩が言うには、お客様と喫茶店で商談するとき、お客様が「コーヒー」を頼んだのに、営業マンが「私はミルクセーキにします」、「チョコレートパフェがいいです」なんて言うと、変わり者だと思われてしまう、だから、日ごろからみんなと同じものを注文するクセをつけるんだ、ということだった。
それはわからないではないが、菜食主義者の私にとって、飲みたくもないコーヒーを飲まなければならないのは、耐えがたいほどの苦しみだった。
このときほど、「すまじきものは宮仕え」という言葉が胸に染みたことはなかった。
ステーキ攻撃の苦しみに耐えて
だがこれは、私にとってまだまだ軽い試練でしかなかった。菜食主義の私が、パニックに陥るような事態がめぐってきたのである。
菜食主義者になってからというもの、私は肉を完璧に遠ざけてきた。ところが、ある日のこと、直属の事業部長が、
「お前はよく仕事をするから、わしがご馳走してやろう」と、今でも忘れはしないが、渋谷の道玄坂のステーキハウスに連れて行ってくれたのだ。私が菜食主義であることを知らない部長は、「さあ、遠慮は無用だ。食べろ、食べろ。どうだ、うまそうだろう」と、さかんに勧める。
私のことを気づかってくれる部長の温かい気持ちは痛いほどわかる。
だが私は、目の前に置かれた血のしたたるステーキを暗澹たる気分で眺めるほかなかった。とても食べられない。
さりとて、せっかくの部長の好意を無にするわけにはいかない。どうしたらいいんだろう。私はサッとトイレに立って守護霊さま(背後霊団のリーダー。本人が天命に添って生きるように霊界から導く尊い存在)に祈った。
「きょう、肉食をすることをお許しください。哀れな動物たちは屠殺場でどんな悲劇に遭ったのでしょうか。
あのステーキを食べると、また血液が酸性になってしまいます。しかし、部長の温かい気持ちを考えると食べないわけにはいきません。どうぞ天地の大神の御心に、見直し、聞き直し、私の咎をお許しください」
そう祈りながら私は、大空にため息を・・・・・・室内だから大空はなかったけれど天井を仰ぎながら深々とため息をして席に戻った。
「いやあ、実にうまい。お前も遠慮せずに食え、食え」と、部長が言う。ところが私は、サラダや野菜を食べるだけで、肉をなかなか食べようとしない。
「うん?お前、肉は食べないのか。なぜ食べないんだ?」
そこまで言われたら食べないわけにはいかない。私は清水の舞台から飛び下りる気持ちで一切れ口に入れたが、やはりまずかった。
「どうだ、うまいだろう?」
「ええ」
頬を引きつらせながらも、そう答えるほかなかった。お釈迦様ではないが、世の中は苦しみに満ちている。思いどおりにはいかないと、つくづく思ったものである。
牛丼の肉が私の体を変えた!
あるとき、「吉野家へ行こう」と、先輩と同僚と連れ立って牛丼を食べに行ったことがあった。
当然、誰もが牛丼を食べる。吉野家には牛丼しかないのだから、それが当たり前である。その中にあって、私一人、ショウガばかりを食べる。
「おい、食べないのか、牛丼を」と言われても、「いいんです、ぼくは」と、お肉をはずしてご飯とショウガ、みそ汁、そういうものばかり食べる。
「お前は変わっているな。牛丼でお肉をはずしてご飯を食べているのか。おれがおごると言っているのに、お前はおれに反抗する気なのか」
それでまたトイレに入って、「精製されているとはいえ肉は肉でございます。牛丼を食べることをお許しください」とお祈りをして、「お待たせしました」と肉を食べる。
すると二切れ、三切れで顔色が真っ青になる。肉を食べたら、(あっ、血液が酸性になった。このドロッとした血液が肩に回ってきた。あっ、次第に十二指腸のほうに巡ってきているな)というのが手に取るようにわかった。信じられないかもしれないが、菜食主義で神経が研ぎ澄まされていたあの当時、肉を食べたら酸性血液が体に回っているのが全部わかったのだ。
それだけに気分の悪いことといったらなく、翌日になると肩がドッと重くなる。おまけに、それまでは植物的なラララーという非常に軽快だった声まで、ラ、ラ、ラ〜というひどい声になっている。
ああ、獣のような声になってしまったと、悲しみに打ちひしがれながら電車に乗って、会社に向かったのを今でもよく覚えている。
野菜サラダもダメ
肉食の後遺症は、最低でも一週間は続いた。その間、会社には黙って私はカバンの中に松葉を裏ごししたやつを持って行って、休憩時間になるとそれを食べていた。
ただでさえ変わっているやつと思われていたところなのに、松葉なんか食べていることが知られたら何を言われるかわからない。
私は誰にも内緒で松葉を食べていたのだが、あるとき、カバンから松葉を取り出したところを部長に見られてしまった。
「お前、何をしているんだ」
「いや、何もしていません」
「いま、何か出したな、カバンから」
「いえ、何も出していません」
「いや、出した。何を出したか見せてみろ」
とカバンを開けられ、松葉を発見されてしまったのだ。
その松葉はわざわざ桐生から取り寄せたものだった。食用の松葉はカラマツの葉で、雌と雄松があるのだが、雌松のほうが体に効くとされていた。実際、松葉を食べていると本当に心地いい。充実感があるのだ。
そのときの私の好みの松葉は、商品名を「松寿仙」といった。その名からも連想されるように、その昔、仙人たちは松葉だけで命を保っていたという伝説があり、それほ松葉は健康にいいと言われていたのだが、その言い伝えに偽りはなかった。食べ続ければ食べ続けるほど体調がよくなり、霊的にもますます敏感になっていったのである。
当時、松葉のほかに何を食べていたかというと、月曜日は玉子丼、火曜日は木の葉丼といった具合に丼ものの連続で、他人丼以外の丼は何でも食べた。
肉はダメだったからだが、鶏なら大丈夫だろうということで親子丼も入れて、まるで丼シリーズだった。それ以外は、八百屋で買ってきたキャベツなどの野菜をバリバリ食したものである。
ただし、喫茶店の野菜サラダは食べなかった。郡司某という人の本を読んだからである。
それによると、喫茶店では萎れた野菜をパリッとさせるために、中性洗剤を入れた水の中に漬けるのだという。
一流のレストラン、ホテルなら氷水の中に入れるのだが、普通の喫茶店では中性洗剤の中に入れて、パリッとさせているということである。そう教えられてからである、喫茶店に行っても野菜サラダは食べないことにしたのは。
それでもまあ、野菜に対する抵抗感はなかった。喫茶店の野菜サラダさえ食べなければいいのだから、ほとんど問題はなかった。だが、肉類に限っては絶対にダメだった。
それほどまでに菜食主義にこだわったのはなぜか。そのころ私が信じていた論理にこういうのがある。
健康を保つ上で必要な必須アミノ酸は一〇種類。そのうち二種類の必須アミノ酸は、子どもが大人になる成長期に必要なアミノ酸であり、それ以外の八種類のアミノ酸は生命や新陳代謝の維持をするために必要なアミノ酸である。
したがって、成長期が過ぎて成人した人間は、動物性蛋白に含まれる二種類のアミノ酸がなくても、八種類のアミノ酸だけで十分。ゆえに菜食だけでもやっていけるんだというのが、菜食主義者の論理だった。
そういうもっともらしいところで、私も菜食主義を信じていたのである。
完全に行き詰まった私に光明が訪れた
新聞配達をやっていたころには、玄米にも凝っていた。朝六時に玄米を食べる。もちろん、玄米だけでは葉緑素が足りないので、ワカメの入ったおみそ汁なんかを食べた。
しかも、一日二食だけである。今から考えると、ずいぶん偏った食生活をしていたものだとわれながら感心してしまうが、そのときはすこぶる体調がよかった。
だが、営業マンになったら玄米食を続けるわけにはいかない。会社の寮で生活しているのだから、玄米なんか食べられるわけがないし、ワカメ入りのみそ汁もなかなか飲めない。
自分なりにできることと言ったら、玉子丼を食べることぐらい。
しかも、お客様の接待ともなると、ときには肉も食べなければならない。レアなんて出てきたらもう最悪だし、ミディアムでもまだ赤い血が残っている。とは言え、お客様の前では野菜やパンだけを食べるわけにはいかず、血液が酸性化することを承知の上で、嫌々ながらも肉片を口に運ぶしかなかった。
かくして、営業マンになってわずか数ヶ月にして、私の社会人生活は行き詰まってしまったのである。事業部長にカバンの中の松葉を発見されて、「営業マンはこんなものをカバンに入れるべきじゃない」と叱られたのは、そんな折りであった。
営業マンとして仕事をしていく限り、これ以上菜食主義は続けられない。
ついに私は、営業マンをやめなければならない環境に追い込まれてしまったのである。
ああ、どうしよう。どうしたらいいんだろう。私は悩みに悩んだ。半年、八ヶ月、いやもっと悩んでいたと思うが、ある日のこと、私は決定的な光明を見出したのである。
地下鉄のプラットホームで慧能に出会う
私は営業マンになって以来、駅のプラットホームで勉強することを日課としていた。
勉強するなら机の上が常識だが、私の場合、机に向かうと守護霊や神様にお祈りするというクセがあり、なかなか勉強できなかった。
ところが、どういうわけかプラットホームのベンチに座ると、驚くほど集中力が湧いてきて、「易経」や「大学」「論語」など、どんなに難しい本でも次々と読破できた。
だから、勉強は地下鉄のプラットホームでと決めていたのだが、営業マンとしての限界を感じていたそのころは、ちょうど六祖慧能禅師に関する書物を読んでいた。その出会いが結果的に、菜食主義の間違いから目を覚まさせてくれたのである。
さて、六祖慧能禅師とは、一体誰なのか。
一言で言えば、中国禅の始祖と言われる人物である。その慧能禅師との出会いが無論、本を介してのことだが)、なぜ菜食主義との決別に結びつくのか、まるで見当もつかないと言う向きが多いだろうから、少し長くなるが解説しておこう。
新州(いまの広東州)のど田舎に生まれた慧能は、小さいころに父親を失い、貧しい生活の中、薪を売りながら母を養っていた。
それくらいだから、学問をする機会に恵まれるはずもなく、慧能は無学文盲、もちろん字を書くこともできなかった。
ある日、慧能が道端で薪を売っているときのこと、あるお坊さんが金剛般若経の話をしていた。それを聞いた慧能は、ああ、ありがたいお話だなと思い、そのお坊さんに尋ねた。
「そういうお話はどこへ行って勉強なさったんですか。そういうものをもっと勉強しようと思ったら、どこへ行けばいいんですか」
「ここよりはるか北に、五祖弘忍禅師という立派なお坊さんがいる。この方は達磨大師さんから印伝を受けられた方だ。そこには多くの優秀なお弟子さんがいて、勉強しているよ。そこへ行けば勉強できる」
「ああ、そうですか。じゃあ、ぜひぼくもそこへ行って勉強したい」と、母親に許しを乞い、斬州黄梅山の弘忍禅師を尋ねることとなった。
そのころ弘忍禅師の下には七〇〇人以上の優秀な弟子が修行に励んでおり、慧能のような無学文盲の田舎者が入門を許される可能性はほとんどなかったが、それでも慧能は、田舎から何日も何日も歩き続けて、ついに弘忍禅師にまみえる。
「入門をさせていただきたいんですが」と、お願いする慧能に弘忍が尋ねる。
「ほう、お前はどこから来て、私に何を求めようとするのかね」
「新州から来ました。私が遠くから来たのはほかでもありません。ただ仏法を求めるためでございます」
「新州と言えば南の果て、猿がいるところだな。猿にも仏法がわかるのかな」
弘忍はこう言って入門を拒んだのだが、それに対して慧能は何と言ったか。
「人に南北ありとも、仏性に南北なし。わが身が猿であろうと、いかで猿に悟れないことがありましょうか」
これを聞いた弘忍、
「うっ、なかなかこいつはやるな。法器であることよのう」と感じ入ること甚だしく、即、入門を許可した。
だが、慧能は無学文盲、本も読めなければ、仏法についてもまるで知らない。ほかの弟子たちが仏法を勉強している中で、慧能は黙々と薪割りと玄米の精製に精を出すだけであった。
そうして八ヶ月が過ぎたころ、五祖弘忍禅師もそろそろお年なので、七〇〇人の弟子の中から自分の跡を継ぐ者を選ぼうと思っていた。
そこで、弟子たちに、各々今の境地、どういうふうな境地で修行が進んでいるか、その境地を偈にせよと命じた。自分の到達した境地を詩にして表現してみなさい、と弘忍は問うたのだ。
そのとき、弟子の中で最もすぐれた人と言われていたのは、神秀という人だった。修行も長いし非常に素晴らしい境地にある。
しかも学問も抜群だ。だから、五祖弘忍の跡を継ぐのは神秀しかいない、この神秀こそ弘忍の後継者であると、自他ともに許す人だった。
その神秀が「私が詠みます」と、即興で詩を詠んだ。
身は是れ菩提樹
心は明鏡台の如し
時々に勤めて払拭せよ
塵埃をして惹かしむること莫れ
「私の身は釈尊が悟りをお開きになった菩提樹のように堅固であり、心は明鏡のごとく澄みきって、また台のごとく揺るぎない。時々に修行して拭き清めないと、塵埃を招いて曇らせてしまう」
と、神秀は自分の境地を示したのだ。実に自信に満ちており、己の境地を誇るかのごとくであった。そこで集まった七〇〇人の弟子たちは、どよめいた。
「やっぱり神秀だ。神秀こそ五祖の後継者に違いない」と。ところが、ただ一人、慧能だけが異を唱えた。
無学文盲の米つき雑用小僧の慧能はその場にいることを許されなかったが、米つき部屋で一人の坊さんが神秀の詠んだ偈を口ずさんでいるのを聞いて、神秀がいまだ見性していないことを知った。
ならばということで、自らの境地を詠んだのだが、いかんせん、慧能は字が書けない。そこで、親切な隣の坊さんに書いてもらって、
「お師匠さん、これでどうでしょうか」
弘忍に提出した。
菩提樹無く
明鏡亦台に非ず
本来無一物
何れの処にか塵埃を惹かん
この詩はのちのちまで伝わる、禅の最も高い境地とされる。
その意味は、「私の身は菩提樹なんてものじゃない。心は明鏡のごとく澄みきり台のごとく揺るぎないというのは、おかしい。身と言ったって心と言ったって、すべてのものは無から来ているんだから、どこに塵埃など集まることがあるものか」というもので、神秀の境地に対するあからさまな反歌である。
神秀は、あからさまに軽蔑した顔をし、七〇〇人のその他大勢は非難轟々、ブーイングの嵐である。ところが、その中にあって、内心ひそかに「これだ!」と膝を打った男がいた。誰あろう、五祖弘忍禅師その人である。
どこか見どころがあるやつと思っていたけれど、読み書きもできない作男が、一門きっての才能に真っ向からタンカをきったではないか。
しかも、その境地たるやずば抜けている。神秀の境地はきれいに表現されてはいるけれど、これはまだきれいごと。刻々に修行しなければゴミがたまるとか言っているが、清濁、美醜、善悪という相対の中にいる。
しかし、慧能はそういうものを乗り越えた境地にいる。悟りとしては慧能のほうが圧倒的に深い…。
禅の修行は分別の知恵を乗り越えて、もっと奥にある本質的な見性を覚醒することにある。その観点に立てば、慧能の境地のほうが圧倒的に上であることを、さすがに弘忍は見抜いたのだ。
弘忍は、わしのあとを継ぐのはこいつしかいないと思った。けれども、まだ入って八カ月しかたたない新参者でもあり、無学文盲でもある。
もしこいつに六祖を譲るとすると、ほかの者たちの反発を食らうだろう。
そこで、弘忍は「双方ともまだまだじゃ」と評して、お開きにしてしまった。しかし、慧能に耳打ちして、「夜になったらわしのところに来い」と言ったのである。
六祖慧能禅師誕生の秘話
弘忍が弟子たちを集めたこの会は、現代に当てはめたら、次期社長を決める株主総会のようなものである。その総会が中断してしまったのだ。
今ならそれぞれ派閥ごとに別れて、反省会とか称して酒でも飲んでいることだろう。しかし、この時代の禅僧たちはもちろん、酒を飲んだりしない。全員シラフで、評定をしていたはずだ。
「だいたいお師匠はどうしたんだ。どっちもまだまだなんて」
「跡目を譲るのが惜しくなったかな」
「やっぱり神秀さんだよ、神秀さん。それしかないだろう」
「親父、モーロクしたんじゃねえか」
「でも、慧能もなかなかエーノーなんちゃって」
「バカヤロー」
冗談はともかく、弘忍のほかには慧能の境地を見抜いた者は一人もおらず、神秀擁立派の総決起集会といった塩梅であった。
一方、その夜、密やかにやってきた慧能に弘忍はこう言った。
「わしの跡を継ぐのはお前をおいてほかにいない。七〇〇人も弟子はいるけれども、達磨大師以来、五代続いてきた真の悟り、それを得ているのはお前しかいない。
お前がわしの跡を継いで法灯を守ってくれ。だが、お前はわずか一年にも満たない新参者であるし、無学文盲だ。
そのお前に、達磨大師から引き継がれてきた衣鉢(師が弟子に伝える袈裟と鉢。転じて仏教の奥義)を渡すとなると、弟子たちはお前を殺そうとするだろう。
これを渡すから、いますぐ夜陰に紛れて逃げなさい。そして、しばらく南の山の中に隠れていなさい。その間は、法を説いてもいけない」
「わかりました」ということで慧能はその後、常に山の中に隠れ、法を説くこともなかったという。そして十七年たったころ、もうそろそろよかろうと思って山から出てきた。
この六祖慧能禅師の逸話を、私は地下鉄のプラットホームのベンチで読んで、深く悟ったのである。すなわち、先輩が肉食を強いることはいかなることか、食べたくなくて涙を流す自分とは何か、菜食とは、肉食とは、アルカリ食とは、玄米食とは……。なぜ、私が当時苦闘していたのかが、いっぺんに氷解したのだ。
そのキーワードが、「本来無一物」であった。
「自己本来の面目を見よ」
開祖達磨大師から五代にわたって引き継がれてきた衣鉢を、五祖弘忍からいただいたとは言え、慧能の行く道は険しかった。師の予言とおり、弟子たちは慧能を追いかけたのである。
弟子の一人の慧明という者は、お師匠のところに大事な衣鉢がないことに気づいた。また調べてみると、きのう生意気にも詩を発表した慧能がいない。
「やっぱり……。あの野郎、絶対に許さん」
慧明は、すぐさま数百人の僧侶に呼びかけ、慧能を追いかけた…と、伝えられているが、果たしてそんなにうまくいくものだろうか。
あるいは、衣鉢について弟子たちから尋ねられた五祖弘忍が、「あれは慧能にやったよ。あいつはいまごろ南のほうの山の中さ」と教えたのかもしれない。
ともかく明たちは、山中で慧能に追いついた。
「こら慧能、お前、あとから来て、無学文盲のくせに諸先輩をおいて衣鉢を持っていくとは不届き千万。お前が衣鉢を継ぐなんぞ百年早い。いや千年早い。いますぐ返せ」と、慧明が叫ぶ。これを聞いた慧能禅師、まったく動ずることなく、
「そうかわかった。持っていってくれ」と、衣を石の上に投げ捨てた。
それを見た慧明、しめたとばかり、石の上の衣を奪おうとしたのだが、その衣の重きこと山の如くであって、微動だにしない。そこで、おもむろに慧能がこう諭した。「慧明よ、衣は信を表すものであって、たとえ衣は力で奪うことができても、信は力では奪えないんだよ」
この言葉によって、討伐隊長の慧明はようやく、慧能こそが達磨大師の衣鉢を継ぐべ人であることに気づき、自らの非を悟ったのである。
「申しわけありませんでした。あなたこそ法灯を継ぐ方です。どうか私に正しい法を教えてください」とお願いした。殺してしまわんばかりの迫力で追いかけてきた慧明が、コロッと変わってしまったのだ。そこですかさず、
「自己本来の面目を見よ」と、慧能は問いかけた。
慧明は言った。
善だとか悪だとかを離れたとき、一体どれがあなたの本来の姿なのか、もっと自分自身の本来の姿を見つめたほうがいいんじゃないのか、と言ったわけだ。
その刹那、慧明は大悟し、滂沱の涙を流しながら、さらに尋ねた。
「いまお示しいただいた秘密の言葉のほかに、もっと深い教えがあるのではないでしょうか」
「私が示したものは秘密でも何でもない。あなたが自己本来の面目、すなわち自分自身の姿を振り返ってみれば、秘密はその中にこそあるだろう」
「私は黄梅山の五祖弘忍禅師のもとで修行してきましたが、いままで自己の真実の姿を知ることはできませんでした。しかし今、深い教えをいただきやっと悟れました。まるで、自分で飲んだ水の冷たさを初めて実感できたような気持ちです。あなたこそ、私の師と仰ぐべき方です」
このとき慧能が語った「自己本来の面目」と先に上げた「本来無一物」は、どちらも禅門における最高の悟りの境地とされていて、禅宗修行をする人たちは、今なおそれを
「公案」として大事にしている。
「非風非幅」
ところで、慧能禅師の遺した有名な言葉に、もう一つ、「非風非幡」というものがある。ついでに紹介しておこう。
山中に籠もること十七年、ようやく人里に出てきた慧能は、ある寺に寓していた。
たまたまその寺に二人の坊さんがいて、旗がヒラヒラとひらめいているのをめぐって論争を始めた。一人の坊さんは、あれは旗がひらめいているのだと言う。
もう一人の坊さんは、いや、風がひらめいているのだ、風がひらめいているから旗がひらめくのだと言う。風がひらめくのだ。いや旗がひらめくのだと、どっちも引こうとしない。風か、旗(幡)か。
論争が際限なく続いているところに、六祖慧能が通りかかったのである。そして一言、こう言った。
「風でもなければ、幡でもない。ひらめき動いているのは、お前たちの心だ!」
「ええ!」
争っていた二人は、自分たちのレベルの低さを恥じ、許しを乞うて弟子にしてもらった。二僧の師匠も続いてその門下に加わり、かくして六祖慧能はたちまちにしてその弟子たちを集めていったのである。
達磨によってインドから伝えられた中国禅は、六祖慧能の時代に花が開いた。その功績の大きさゆえに、慧能のあと七祖、八祖と数えられることはない。慧能の達した境地が、中国禅の極致とされるゆえんである。
それはどのような境地か。
前にも書いたが、この人は無学文盲だった。だから、五祖弘忍に入門を許されてからも毎日毎日、薪割りと米つきばかりをやっていた。
そうした生活の中で慧能は悟りを開いたわけで、慧能の悟りは書物を通して得たものでは決してなかった。
ここから、中国禅は学問よりも生活に即した禅としての色彩を濃くしていくのだが、慧能から南嶽懐譲、懐譲から馬祖道へと教えが伝えられていくごとに、その傾向は、ますます深くなり、ついに慧能から数えて三代目、百丈懐海のときに四十八則から成る禅門の規矩が定められるに至り、生活に根ざす現在の禅のフォームが出来上がるのである。
百丈禅師のころになると、禅の修行をしようとする者が数多くなってきた。それまでは、禅僧が独立した禅院に住みながら説法をするということはなかったのだが、ここまで数が増えてきたらもはや禅院を建て、集団生活の中での修行を行なっていくほかない。
それにはどうしても規則が必要だ、ということで百丈禅師が四十八則を定めたわけだ。
百丈禅師は、自力で集団生活ができるようにと考え、その四十八則の一つに、作務(労働)を修行の一環として定め、自ら率先垂範して作務に従事した。
ところがある日のこと、弟子たちが老齢の師をいたわって作務の道具を隠してしまった。道具がなければ作務はできない。
そこで懐海は作務を休んだのだが、その日は丸一日食事を摂らなかった。
そのときに百丈禅師が残した言葉が、「一日作さざれば、一日食わず」という有名な言葉である。
いずれにしても、生活に根ざした禅は慧能禅師から始まり、百丈禅師でその基礎が固められたわけだが、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗という三つの流派を持つ日本の禅宗は、全部、慧能禅師から出ている。
日本の禅宗が生活に根ざしているゆえんである。
