自分を変えれば未来が変わる(Vol.4)

いまある禅宗は全部慧能の流れを引いている

能が基礎をつくった、日々の実践に重きを置く中国禅。その系譜はその後、慧能の教えを受け継ぎながら、いくつかの流れを形成するのだが、いずれも中国南部の曹候渓中心地として栄えたので、総称して「南宗禅」と呼ばれる。

日本でおなじみの曹洞、臨済、黄檗の三宗は、すべてこの流れにあるのはすでに述べたとおりだ。

さて、慧能に六祖の位と達磨大師の衣鉢を持っていかれてしまった、五祖弘忍の一番弟子と言われた神秀も、印伝こそもらえなかったが、慧能が十七年も山の中に籠もっていた間に勢力を広げていった。

こちらは北方を中心として教圏を保ったので、「北宗禅」と言われ、学識ある神秀のタイプそのままに、当時の王族、貴族、政治家、知識人の間に浸透していった。

ところが、ときあたかも唐代末期にあり、中国全体が大規模な政治動乱の時代を迎えていた。北宗禅は、そのパトロンであるお抱えの貴族や政治家たちが動乱によって滅びるとともに絶えてしまった。

能の「南宗禅」のほうは、一般庶民の中に深く浸透し、脈々と命脈が保たれ、宋代に入ると浄土教とともに隆盛を極めるのであるが、その後、本家の中国では禅は次第に衰退し、その真髄は現在、日本でのみ引き継がれているのが実情である。

本来無一物、アルカリが何だ!酸性が何だ!

だいぶ話が横道にそれたが、そういう慧能禅師の教えのエッセンスに、地下鉄のホームで出会ったのである。

先輩に肉食を強制されては心の中で泣き泣き食べていた、情けない菜食主義者であったころの出来事である。

私は夢中になって読んでいた。そして、慧能禅師の「本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん」というところまで読み進んだそのとき、突如として感激の嵐に襲われ、人の行き交うプラットホームにいることも、流れ出る涙を拭くことも忘れ、ただただ感動に震えるばかりであった。

そうか、本来無一物なんだ!アルカリ性の食物も、酸性の食物も、本来無一物なんだ。アルカリ性だ酸性だ、ペーハー7だ、ベーハー6だと言ったところで、それが何になる。

自然食もPCBも関係ない。すべては本来無一物なんだ・・・…。

「時々に勤めて払拭せよ、塵埃をして惹からしむること莫れ」と言ったのは神秀だ。その神秀はまさに自分だったのだ。

「あっ、今日も松寿仙を飲まなかった。あっ、酸性の食べ物を食べてしまった」と思う自分こそ神そのものではないか。そう気づいたのである。

それまでの自分はたしかに、清らかで澄みきってはいたけれども、そんなレベルを乗り越えていれば、松寿仙なんか飲むことはなかったろうし、酸性食品だって平気で食べられたはずだ。

自分は何と弱々しい人間だったのか。自分は神秀のレベルだった。慧能にならなきゃいけないんだ。

これからは、「これアルカリ、酸性にあらずして自然食はご飯にあらず。本来無一物、いずれのところにか食べ物に塵埃を惹かん」と置き換えていかなきゃいけない。わかった、わかった、わかった……。

私は本当にうれしくなって、プラットホームで何時間も何時間も本を片手に涙を流していた。

たしか、日比谷線の茅場町かどこかの駅だったが、電車に乗り込んでも涙、電車から下りて地下道を歩いているときも涙。まさに、わが魂がバーンとはじけたのであった。

悟った私は牛丼もステーキも平気に

それから、ヨーシと思って、まず吉野家牛丼を食べに行った。牛丼をパクパク食べると、やっぱり血液が即、酸性になるのを感じる。長い間の習慣で、体質的にすぐ反応するようになっているのだろう。

食べた途端にドロッときた。だが、そんなことはもはや気にならない。即座に、

「本来無一物だ、いずれのところにかグリコーゲンを惹かんや。乳酸を惹かんや」と念ずる。

すると、不思議なことに、スーッと離れていくのである。とは言え、肉をいっぱい食べたら、やっぱり翌日、獣のような声になる。しかし、それももはや気にならない。

「獣のような声でも植物のような声でも、本来無一物の声だ、いずれのところにか獣声を惹かんや」と念ずると、声もすぐに元にもどった。自分が気にしすぎていただけだったのである。

それからは、連日のように牛丼を食べた。牛丼屋に行く前に「本来無一物、いずれのところに惹かんや」と、これを一〇〇回ぐらい唱える。そうやって牛丼屋に行けば、何の問題もなかった。

牛丼屋に一週間ほど通っていると、あのお肉の味に恍惚としてくる。

「ああ、牛丼。このお肉の味をぼくは知らなかったんだ・・・・・・」

ステーキハウスにも行った。ボーナスが出たときだけだが、店に行ったら必ずレアで頼む。血がポタポタ落ちるけれど、気持ちが悪いと思ったらまた神秀に戻る、無一物になるまでやるんだと思って、いつも必ずレアで頼むようにした。

私も極端と言えば極端だが、「本来無一物、無一物」と念じていれば、いくら食べ続けても大丈夫。気分が悪くなることなど一度もなかった。こうやってステーキのレアも克服したのだ。

PCBも着色料も何でも無一物

当時の私は、何でも「無一物」一辺倒だった。そのころ、たしかPCB騒ぎがあった。「PCBって何だろう……。何?正式にはポリ塩化ビフェニールと言って、これが魚介類を通して体内に入ると肝障害などを起こすんだって。

それを恐れて、町の寿司屋は閑古鳥が鳴いているんだって。それじゃあPCBっていうのは、言ってみりゃ地球の塵みたいなものじゃないか。

「ようし、これにも挑戦してやろうじゃないか」ということで、私はさっそく寿司屋に敢然と出かけて行った。

今でも覚えているが、日本橋の都寿司という寿司屋だった。噂どおり、お客さんはあまりいなかった。私はトロとマグロと光りものを頼んだ。

トロ、マグロは値段が張るからもちろん一個ずつで、ほとんどは光ものとイカ、玉子、アナゴといった安いものばかり。あとは、近海ものの一番PCBが多そうなのを頼んで、腹いっぱい食べた。

「いやあ、実にうまい」

「そんなにうまいかね、あんた」と、板前さんに言われるくらいの食べっぷりだった。

「うまい。最高です。おじさん。とくに、この歯にはさまるPCBの味が何とも言えないですね」

「はあ?」

「PCBの腹に染みわたるような味、もう最高ですよ」と言ったら、

「はあ、あんた変わった人だね」

「このPCBの味も知らずにお寿司屋さんに来なくなった日本人は、問題が多いですね。おじさん」

「うん、まったくだ。寿司も食わなくなった日本人は日本人じゃねえ。だけど、そのPCB、PCBって言うのだけはやめてくれねえかなあ。ますますお客が来なくなっちあ、メシの食い上げだぜ」

その次に、真っ赤に着色されたイクラを頼んだ。

「ああ、この合成着色料、おいしそうですね」

と思わず言いそうになったが、叱られそうなので、グッと言葉を飲み込んだ。

お酒はもちろんワンカップ〇〇。「合成保存料を使っている」とちゃんと書いてある。「この合成保存料がうまいんですよねえ」

これもグッと飲み込む。ともあれ私は、合成保存料入りの日本酒と、合成着色料を使ったイクラ、PCBの寿司で腹をいっぱいにふくらませ、大いに満足したのであった。

私の好みは今でも変わらない。合成着色飲料、合成保存料、それから最近では酸化物。

いろいろ言われているけど、もう最高。それから、赤だ黄色だ紫だと、見るからに怪しげな原色の菓子類。これもいい。

ともかく私としては、「本来無一物」なんだということがわかっただけでうれしくて、何を食べても平気になったのだ。コーヒーを飲んでも、まるで気にならない。もちろん健康だし、霊的にも別にどうっていうことはない。

だからと言って、自然食や健康食品を遠ざけているわけではない。自然食も素晴らしいし、健康食品もいい。

大事なのは、食べ物なんかには微動だにしないような境地、これなのだ。

食べ物でくよくよが体に最悪

そういうことを平然と言い放つあなたは、食べ物と健康との関係を否定するつもりなんですか……。

そんな声が聞こえてきそうだが、私は何も食べ物が及ぼす健康への影響を無視するつもりはない。朝から晩まで即席ラーメン。

それを一年三六五日続けていたら、そりゃ体を悪くするに決まっているし、自然食のほうが肉食より体にいいかもしれない。しかし、もっと大きな問題は、私に言わせれば、食物のことをくよくよ気にすることである。

私の知り合いの方にも、玄米食に凝っている人がいる。玄米を食べている限り病気にならない、ガンにもならないと公言してはばからないのだから、凝っていると言うより、玄米食主義と言ったほうがいいかもしれない。いや、玄米食教の信者と言うべきだろう。

天照大御神、守護神、守護霊、産土神を信仰する代わりに、玄米食を信仰しているようなものだ。

玄米食に関して言えば、私の観察したところ、玄米食に凝っている人のほとんどが非常に頑固だ。

無論、すべてがすべてというわけではないが、頑固で人の言葉に耳を貸そうとしない人が多いのは事実である。

その人はすでにして、昔の私と同様、「酸性嫌い!アルカリ大好き!」という霊界にいる。ものごとを極端に極端に気にするので、「食べ物を気にする」という霊界ができているのだ。

「気にする霊界」にいることがなぜまずいかと言うと、こういう人は気にするあまり、亡くなったご先祖様とか霊と感応するのである。

霊層の高いご先祖様ならいいが、現世の肉体を持った人間に働きかけるのは、だいたいが霊層の低い霊と相場が決まっている。そんな霊と感応していたら、決していいことはない。

そんなことにならないためにも、食べ物なんかで気分が左右されることのない、微動だにしない悟りの境地を開きたいものである。

人の悟りは生き物の脱皮と同じだ

私にしても、私の恩師・植松愛子先生にしても、断食したこともなければ滝に打たれたこともない。それは正しい修業のあり方ではないからだ。

では、本当の修業のあり方とは何か。言うまでもない。慧能禅師が悟りを開いた薪割りと米つき、これである。と言っても、今の時代、薪割りや米つきなどできる相談ではない。その代わり、仕事がある。炊事や洗濯がある。そういう日常生活を通じて一つひとつ悟っていく。

自分の行き詰まりをどう打開したらいいのか、性格のクセをどうやって直したらいいのか、そういう問題に直面したとき、本を読んだって解決しないし、人に相談したって解決しない。仕事や炊事をやっている中でフッと解決策が浮かんでくる、というのが悟りの本当のあり方なのである。そうやって一つひとつ乗り越えていくところに、人間の成長があるわけだ。

江戸時代の禅僧、白隠禅師はこう言っている。

「悟りというものはエビの脱皮と同じようなもので、脱皮してはバリっと殻を破る。しばらくすると、またまた殻ができてしまう。

そこでまた殻をバリッと破る。それが悟りというものなんだ」、と。

殻をバリっと破るときは、非常に苦しくて、誰でも悶々とする。ヘビでもチョウチョでもトンボでも同じだ。脱皮というのは、水の中の生き物が空を飛ぶようになるのだか大変である。

トンボもチョウチョもそうだし、セミは土の下に何年もいてから樹木に登るし、空も飛ぶ。そのようにガラッと変わることが脱皮なのだから、当然のことながら、脱皮するときは苦しみが伴うのである。

これからの医学は、心と体の関係重視に

肉食は絶対にいけない、と言う人にときどき出会うことがある。健康によくないからいけないと言っているかと思ったら、さにあらず。

肉は屠殺したものだから霊的に悪影響を受けるからだとおっしゃる。おそらく、同じことを言う人が、あなたの近くにもいるのではないだろうか。だが、そんなことを聞かされたからといって、何ら迷うことはない。

六祖慧能禅師を見るといい。山の中で猟師をしていたんだから、動物たちを殺していたはずだ。にもかかわらず、その悟りの境地は微動だにしなかった。

それを知ってから、私の境地も大きく変わって、学生時代についたクセを脱皮したのだ。

その後、植松先生の弟子として門をくぐったのだが、先生もやはり同じことをおっしゃった。

「出されたものをおいしいと思って食べたら、何でも養分になるのよ」と。まったくそのとおりだと思う。

だから、体を大切にしたいんだったら、食べ物に気を使うのもいいが、それとせめて同じくらい、自分の心のバランスを大切にするべきなのだ。

病気の原因は、自分の想念とか思いが一番強い。みんながそうとは言わないが、病気になっている人は総じて霊障(悪霊の仕業)が強い。

そして、霊障の強い人は頑固であったり偏屈であったりと、どこか心のバランスを崩していることが多い。そういう場合、私は救霊(除霊)をお勧めしているが、なぜ、救霊をすると病気が治るケースが多いのか。

それは、とりもなおさず、食べ物よりも霊的な悪影響のほうが健康に大きく作用している、ということの証左であるからだ。

だったら、これを逆にして、守護霊や守護神や神様など、善なる霊的影響を与えてくださる存在から神気をいただけばますます健康になる、という理屈が成り立つ(興味のある方は、拙著「大除霊」(たちばな出版刊)を参照されたい)。

同様に、ストレスや運動不足が胃潰瘍などの病気の原因であるならば、ストレスがないような状態で、いつも明るく元気に、感謝して生き生きとしている人は、胃の働きがすごく活発になるし、全身の機能も高まるということになる。

肝臓を悪くすると、気分がイライラして集中力がなくなるのだから、逆に、精神的にイライラしないで、集中する練習をすると肝臓がよくなるはずだ。逆もまた真なり、である。

そのように、精神と肉体、霊と肉体という強いパイプがあるのだ。にもかかわらず、現代医学は肉体だけしか見ようとしない。

一部には心身医学と言って、精神面からのアプローチを試みる医学もあるようだが、まだまだというのが実感だ。

しかし、今から七〇~八〇年のうちに医学界も大きく変化して、環境と人間、精神と肉体、脳波と体の各部所との関連性などの研究が進んでいくだろう。

東洋医学は、陰と陽のバランスを重視する。陽の体質の人は陰の食べ物、陰の体質の人は陽の食べ物と、体質とのバランスを考えるのだが、西洋医学の場合は病に冒されたその部分しか見ない。

東洋医学と西洋医学の融合が最近は話題にされるが、精神と肉体の関係の関連性というレベルに止まっているようでは心もとない。

さらに一歩も二歩も進めて、霊性と肉体という関係にまで立ち入らないことには、人間の健康や病気の根本的な解決を見ることは決してないだろう。

未来の医学では無論、食べ物の善し悪しの研究も進むだろうが、それ以上に、霊障およびストレスと病気との関連性についての研究が進むはずだ。

念力パワーアップも食事で強化する

私は、救霊(除霊をしている。そのため、食事も私独自のものを考えて、食べるようにしている。

別に健康のためにやっているわけではないが、私はときどき、朝七時ないし八時にステーキを食べ、寝る前におそばのドカ食いをして寝床に就き、また翌朝ステーキを食べる、というようなことをやることがある。

なぜか。私は慢性的な寝不足だから、食べ物で元気をつけるのである。

とくにたたり霊を救霊する前は、食事にはこだわる。玄米やほうれん草を食べて、「ああ、体がアルカリになってよかった」と言って満足している人には、まず救霊することはできない。

たたり霊のほうがはるかにパワーが強いからだ。植物的な声で、「君、たたりするのはやめなさい」なんて論したところで、相手の念力パワーのほうが強いから、一〇〇パーセントやられてしまうだろう。

救霊するには、相手のパワーより強くなければできないことなのだ。

だから、「明日は強烈なたたり霊だな」というときに私はステーキを食べて、ニンニクでパワーアップし、さらにユンケルを飲んで、「がんばるぞ!たたり霊は必ず改心する!」と思うと明るく元気になる。

実際、ステーキを食べた瞬発力で、たたり霊も「負けました。もうたたるのはやめます。このパワーに勝てない」と霊界に帰ってしまう。怨念霊を救霊するときとか、ここ一番のときには、やはり元気が出る食べ物を食べるが、そのとき以外は菜食、肉食関係なく、バランスよく食べることにしている。

読者のみなさんの中にも、私のように非常に霊を受けやすい体質の人がいるかもしれない。

そういう人はお肉を食べて、ギラギラのパワーを保つようにしたらいいと思う。寝不足のときでも元気でいられるから、朝食にステーキを食べたっていい。

ただし、誰にも合っているかどうかはわからない。私の場合、極端に霊的に敏感な人間だからそこまでやっても全然平気、と言うより、やるしかないのだが、それよりも、会社の資金繰りのことやお弟子のことで、いろいろと考えたり悩んだりするときのほうが体の具合が悪くなる。

明るく元気で、気に病まないで、心の精神状態をいつもいい状態にしていると、何を食べてもおいしいし、消化もいいし、元気だ。病気なんか一度もしない。全然寝込んだり倒れたりしない。

ウイルス殺し秘法で風邪退治

毎年冬になると、風邪をひく人が多い。何日も熱がひかないとか、筋肉痛がひどいとか、相当ひどい風邪をひく人もあるそうだ。

もちろん、私もときには風邪をひく。しか私は、風邪をひいても一日で治す。念力ウイルス殺しの秘法があるのだ。風邪をひいたとしても、原因であるウイルスというものは小さなものだ。その小さなウイルスを念力でスパッと切ってしまえばいいのである。

そんなにうまく行くものかと疑う人には、こういう例を紹介しよう。

名刺で割り箸を真っ二つにする会というのがある。そこで何泊か合宿して練習すると、みんな名刺で割り箸を割れるようになるのだ。

そのやり方というのは、まずやる前に割り箸が割れているイメージを強く念ずる。だいぶ前に「北斗の拳」という劇画があったが、あんなような感じだ。

「割り箸よ、お前はすでに割れている!」と念じた上で、もう割れているんだ!と信じ込んで「エイッ!」とやると、スパッと割れる。想いの力で割れるのである。

ウソだと思うかもしれないが、生霊で病気になったり、怨念によって倒れたりするくらい、人間の念というものは強いものなのだ。

ただし、その訓練を受けた人がその後どうなるかと言うと、せいぜい宴会の隠し芸に使うぐらいで、人類救済に役立つとか、人を幸せにするといった次元とはほぼ遠いらしいが、「おれの念はこれほどまでに強いのだ!」と、確信を深めることはできるようだ。

私はこの話を聞いて、この技は真理に裏づけられているから、隠し芸に止めておくのはもったいないと思った。

そこで、ウイルス切りに応用したのだ。やり方は同じである。ただし、日本では医者でない者が医療行為を行なうことを禁じられているから、「私の風邪を治してくださいと頼まれてもお断りする。ウイルスをやっつけたかったら、念力で割り箸を割る方法を応用するか、風邪薬を飲んで治していただきたい。

固定観念を捨て去らないと知識も有害になる

六祖慧能禅師の「本来無一物」という境地に立脚すると、食べ物の偏りも、男はこうでなきゃならない、女はこうでなきゃならないという固定観念も、じつに虚しく意味のないことに気づく。

ところが、現実はどうかと言えば、私たちは知らず知らずのうちに、一つの固定観念に縛られてしまっているのではないだろうか。

食べ物にしても何にしても、こうあるべきだという観念。それに縛られて真実の自分を見失っているのではないか。と言うより、縛られていることにさえ気づかずにいるのではないだろうか。

慧能禅師も言っていた。

「善とか悪とかを離れたとき、一体、どれだけ本来の面目、すなわち、あなたの真実の姿なのだろうか」と。

だから、自分自身の姿を取り戻すには、何よりもまず、固定観念を捨てるということだ。

これは善だ、これは悪だ、これは美しい、これは醜いといった固定観念。その思いが、心身に大きく影響を与えて、さまざまな不運の原因となっているのだから、そこを見つめ直すことなく、やれアルカリだ、やれ酸性だ、自然食だ、有害食品だと騒いでいるのは本末転倒。あまりにも虚しい努力と言わざるを得ない。

国家のレベルではたしかに、食べ物や環境に関する研究は必要だ。有吉佐和子の「複合汚染」などを読めば、公害問題などは国家レベルで解決する以外にない、ということは理解できる。

しかし、「複合汚染」を読み深く共鳴した人は、何を見ても危ない、危険だ、食べてはいけないというふうにしか見えない、「複合汚染霊界」にはまってしまって、食べることが怖くなる。その結果は、やたらと神経過敏になって、ついには気を病み健康を害したりしたら、これほど皮肉なことはない。

自然食もけっこう。無農薬野菜もけっこう。健康のことを考えれば、そういうものを食べていたほうがいいのだろう。

しかし、必要以上に気にするのはかえって毒。健康を害するだけである。やはり、何をするにしてもバランスが大事なのだ。

善玉から悪玉、悪玉から善玉へ

栄養学が全部間違っている、とは言わない。しかし、健康のためだからと言って、栄養学の知識を鵜呑みにすると、とんでもないことになる。栄養学だ医学だと言ったところで、つまるところは人の行なう研究だから、よく言えば日進月歩、悪く言えば不節操。医学や栄養学の学説ほど、コロコロ変わるものはない、というのが私の実感である。

その典型がタマゴの黄身に関する学説である。以前はコレステロールがたまるから、タマゴの黄身はあまり食べないようにと言われていた。

ところが最近はどうだ。黄身は健康にいいからなるべくタマゴを食べましょうと言っているではないか。理由は何かと思ったら、レシチンがあるからだという。脳細胞の四〇パーセントはアセチルコリンという物質からできている。

そのアセチルコリンはコリンから、コリンはレシチンからできている。タマゴにはそのレシチンがたくさん含まれているから、タマゴをたくさん食べましょう、というわけだ。

その前までは、タマゴの黄身はコレステロールがたまるからよくないと言われていたのに、これではどっちを信じていいのかわからなくなってしまう。

この栄養学というもののいい加減さ。そのうちまた、やっぱりタマゴは体によくないという話になるかもしれない。そんなものにいちいち振り回される庶民こそ、いい迷惑だ。

おいしく食べられるものが一番体にいい

結局、おいしく食べられるものが、体にいいのだ。おいしく食べられるということは、それだけ体が要求しているわけだから、おいしく食べられるか否かで判断するのが一番正しいのではないだろうか。

それともう一つ、バランスよく何でも食べること。これも大切だ。野菜、肉、魚、米と、バランスよく食べていれば、たとえ有害物質が少々含まれていても、たいした問題ではない。

そういう食生活が一番健康にいいし、一番霊的にもいい。これが、食べ物に関する私の結論だ。

植松先生も前述したように、「おいしく食べられるのが一番いいのよ。あまり考えても意味ないでしょ」とおっしゃっている。

栄養士は、カロリーがどうのこうの、脂肪がどうのこうのと、もっともらしいことを言っている。それが職業なのだから当然と言えば当然だが、そんなこと関係ないと思って食べればいいのだ。

カロリーが高かろうと低かろうと、たんぱく質が多かろうと少なかろうと、そんなことどうでもいい。肝心なのはバランスがいいか、おいしく食べられるか、である。

いっときは、酸性がどうのこうのという時代だったけれども、最近は言わない。

それからはレシチンがどうのこうのと、何でもビタミンの時代だった。そのうちまた変わる。栄養学は食べ物のファッションのようなものだ。面白がるのはいいが、気にかけたら自分が損をするだけである。

本来無一物。

いただけるものをおいしいといただくことが、健康の秘訣だ。

あれはいいがこれはダメだなというのはいっときの気の迷いで、所詮、偏食みたいなものだ。そんなことにこだわっている限り、人間として大きく脱皮し、より強い人間になるなんて、とても不可能なことだろう。

第三章 弱気克服法

弱気を克服するための三項目

一章では、「ねばならない」環境に自分を追い込んで弱気を克服する法、二章では、心の持ち方を転換すること、換言すれば悟りを得ることで弱気を克服する法を解説した。

それを踏まえてこの章では、弱気を克服し、雄々しくたくましくなる究極の方法を紹介しようと思う。

この方法を体得すれば、世界最強の強者になれること請け合い。どんなに弱気の人でも必ずや厳をも穿つ強固な意志の持ち主に絶対なれる。

そこまで断言できるのはなぜか。理由は簡単、気弱な子どもだった私が、その方法で自分の弱気を完全に克服できたからだ。

本書の冒頭で述べたように、私は子どもの時分、身長が低くて病弱で、何をやっても長続きしない、ひ弱な子どもだった。

だから、いつも自信がなかったので、勝気な女の子を見ると、頼りがいがあるなあと思ってあこがれたり、強そうな男の子を見れば、やたらとうらやましく思ったりもした。

あとから振り返れば、ただの晩熟性で、発育が遅かったというだけのことだが、弱々しい自分に深く悩んでいたのである。

なぜそれほどまでに意志が弱く、軟弱だったのか。それはおそらく、身長が低かったことに加え、小さいことが気になってならない、神経過敏な体質と深い関係があったからではないかと思う。

たとえば、家の近くにタバコ屋さんがあったのだが、そのタバコ屋さんから家まで何歩で歩けるのか、それが一時期、気になって気になってどうにもならなかったことがある。

五〇歩か六〇歩か。五〇歩で歩くとしたら、歩幅はどれくらいにしなきゃいけないのか。

それを確かめるために、何度も家とタバコ屋さんの間を往復するのだが、それを見ていた友達は「お前、何やっているんだ」と、怪訝そうな顔をして言う。

「別に。何でもないよ」

私は無視して、計測に夢中になる。しまった、四十九歩になってしまった。もう一回やり直さなければ……。

今度は、学校まで何歩で行けるのか、これがやたらと気になり始める。学校までだいたい一キロぐらいあるのだが、果たして何歩で歩けるのだろうか。一〇〇〇歩なんだろうか、一万歩なんだろうか。計ってみると一五〇〇歩ぐらいだった。正確なところは覚えていないが、多分そんなものだったと思う。

すると今度は、きっかり一五〇〇歩で歩けないと気が済まなくなる。なぜ、今日は一五〇三歩だったんだろう。なぜ今日は一四九七歩だったんだろう。わずか二、三歩の違いが気になって、授業が始まってからもそのことが頭を離れなかった。

何歩で歩こうが歩くまいが、そんなことどうでもいいことである。それが気になるなんて、やはりどこか変わっていた。いや、目茶苦茶変わった子どもだったと言っていい。

相手が上なら弱気になる…………これ当然

中学時代も学校で一番小さかった。それでもまだよかった。勉強の成績が学校で一二番だったからだ。

でも、まるで女の子にモテなかったのは、やはり寂しかった。なぜ、ぼくはモテないのだろう。

私は、モテる男の子を徹底的に研究した。その結果わかったのは、体が大きくて運動がよくでき、その上、学業も抜群、そういう子が女の子によくモテるということだった。

その点、私は全然かなわなかった。何しろ、身長はクラスで一番低いし、とても臆病だし、おなかが痛くていつも青い顔をしているのだから、女の子にモテるわけがない。

勉強はできても、あまりに子どもっぽくて、女の子の恋愛感情の対象にはならなかったのだ。

それでも、模擬テストをやればいつもトップクラスだったから、あまり気にはならなかった。ところが、高校に進学すると事情が一変。心の支えだった学業も急降下、私は自信を喪失し、いよいよもって弱気の極みに追い込まれていくのである。

私が進学した高校は有数の進学校だった。当然、周りは頭のいい生徒ばかりで、世の中にはこんなに優秀なやつがいっぱいいるのかと、心底びっくりさせられると同時に、次第に私は劣等感にさいなまれるようになったのである。

おれなんか、どんなにがんばってもダメなんじゃないか、あんな優秀な連中に勝てる見込みなんかないんじゃないか。そんな弱気の虫に、私の心は蝕まれていくばかりであった。

まず志を立てよ

そのころから周りを観察してきてわかったのだが、強気だの弱気だのと言ったところで、絶対的なものではなく、あくまでも相対的なものにすぎないということだ。

たとえば、高学歴で賢くて、体力があってハンサムで、仕事ができて性格も最高、おまけに父親が大企業の社長で母親がミスユニバース。こういう人を前にしたら、誰だって弱気になるし、わざと大物ぶったって空威張りでしかない。逆に、すべてにおいて自分より劣っている人が相手なら、謙虚でなければと思っても、自然と強気になる。

このように、強気弱気というのは相手あってのことであり、本来、そんなことに気を奪われることなどないのだが、若気の至りと言うべきか、高校時代の私は、弱気あるいは劣等感という名のモンスターを相手に、悪戦苦闘していたのである。

では、どうしたら弱気や劣等感を克服して、雄々しくたくましくなれるのだろうか。それには一章で述べた、「ねばならない」環境に自分を追い込むことも大事だが、それとは別に志を立てること。これもまたきわめて重要なことと言わねばならない。

志は何でもいい。学校で一番になるんだとか、模擬テストで全国で一番になるんだとか、あるいは出世頭になるんだとか、何らかの志を立てるところから始めなければ、弱気や劣等感を克服することは難しい。

さて、志という字は無論、「こころざし」と読む。つまり、心がどこかを指している状態を志が立っていると言うのであって、あっちに行こうかこっちに行こうか、あれをやろうかこれをやろうかと、心に迷いのある状態は志が立っているとは言えない。

「これをやるんだ!最後までやり通すんだ!」と、心で決意したとき、その指す方向にあるのが志なのだ。

だから、志を立てるには、心をシャキっとさせ、何をやるのか、その方向を見定めなければならないわけだ。

そうやって志を立て、何かに向かってチャレンジしている人は、目の輝きが違うし、顔つきも全然違う。歩くときだって胸を張って堂々と歩く。

エリートコースに乗っている人や、青雲の志に燃えて勉学に励んでいる人の目が曇っていたり、うつむいていたりなんていうのは見たこともない。

だいたいが、生き生きとしていて、堂々と胸を張っているものである。

ところが、これも度が過ぎると問題で、立てた志がそっくり返って、後ろのほうに折れ曲がってしまう。その折れ曲がらせる原因が「我と慢心」だ。

反対に、何かにチャレンジしたものの、どこかで挫折したり絶望したりすると、がっかりして、立てた志が萎えてしまう。そういう人はだいたいうつむきがちだし、歩くときも前かがみで猫背になる。志が真っ直ぐ立っていないからだ。

反り返るのでもなく、萎えるのでもなく、ピタッと真っ直ぐに志が立てる。これが理想であって、神道ではそういう状態を称して、自分自身の中に御柱が立っていると言う。

「惟神、魂の真柱立てかためて」とか「惟神、神の詔のまにまに」、あるいは「魂の真柱打ち立てて」などと祝詞にあるが、これは要するに、魂の真柱である志をビシッと立てる、ということである。

これとは別に、「大直毘を立てる」「神直毘を立てる」という言い方をすることもある。

大いなる毘、直なる毘をパッと立てて、さあ、がんばるぞというのが大直毘。神様のためにがんばってやりますぞ、というのが神直である。「直毘の御魂」というのも同じ
意味で、魂の中に真の柱をバシッと立てる、神様に発願して志を立てる、ということである。儒教で言う「立志」がこれである。

いずれにしても、何らかの志を立てて、魂を発動させることが、弱気を克服して雄々しくたくましくなるための最低条件なのだ。

志も変に立つとトウが立って天狗に

ところで、人はよく、さかりが過ぎた人を指して、「あの人はもうトウが立っていますからね」と言ったりする。その「トゥ」とは「薹」と書いて、もともとは蕗などの茎の意味なのだそうだ。

その「薹」が、旬が過ぎると固くなって食べられなくなる。そこから転じて、年ごろやさかりの過ぎた人を「トゥが立つ」と言うようになったらしいが、さて、そのトウとは一体どこに立つのだろうか。実は、魂の中に立つのだ。

トゥが立った人というのは、やたらと頑固で、自分の好みを主張して譲ることがない。「私の好みの男性は、スタイルがよくてハンサムで、大学もしくは大学院卒。年収はウ百万以上で、年齢は三十歳以下。それ以外の方とはおつき合いいたしません。

えっ、好きな食べ物ですか?食べ物はもうフランス料理って決まっています。

ラーメン?そんなもの、滅多にいただきません。たまに食べてもチャーシューメン。

それ以外は絶「対に食べません」といった具合に、好みがはっきりしていて、食べ物一つでも譲らない。チャーシューメンに志を立てているのかもしれないが、こういうのは、志を立てているとは言わない。「私はこうだ、私はこうだ」という我と慢心が立っているのだ。

積もり積もった我と慢心が魂の中で塔になっている。だから、「薹」とは「塔」でもあるわけで、バベルの塔と一緒だ。

トウがあまり立ちすぎたら、鼻まで伸びてきて天狗になる。天狗の鼻が伸びるのはなぜか。トゥが伸びるからだ。直毘を立てすぎて、真柱の「真」が魔物の「魔」になったのが天狗なのだ。

傲慢な天狗は人の意見を聞かない。自分は一応こう考えているんだけれども、周りの人はどう考えているのだろう、もっといい意見があるかもしれない、という姿勢がないわけで、それはつまり、魂の真柱を立てすぎているのである。

それくらいだから、天狗は弱気ではない。心配性で、いつもくよくよめそめそしている天狗なんて見たことない。おれに任せれば大丈夫だ!わしこそは天下随一の霊能者だ!というのが天狗であって、自分より強い人が来たらどうしようと、ハラハラしている天狗というのはいない。

自分が最高だと思っている、強気の固まりのようなものだが、実は世間を知らないだけである。

山にたとえれば、頂上に坐すのが神様だとすると、天狗はせいぜい七合目ぐらい。それでも、おれは最高だと威張っているから、誰も忠告してくれない。

つまり、知恵がないのだ。魂の真柱は立っていても、知恵がなく愚かなのだ。だから、天狗は「天」なのである。

ぐずぐずより天狗のほうがましだ

では天狗は絶対的にダメなのか、絶対的に悪なのかと言うと、必ずしもそうとは限らない。

私はこれまでの著作の中で、折々にふれて、「天狗になると霊的にも社会的にも頭打ちになるから、天狗になってはいけない」というようなことを書いてきた。おそらくそのためだろう、聞くところによれば、私の読者の中には天狗になることを極端に恐れている人が少なくないという。

天狗になると、霊的にも社会的にも頭打ち状態になって、それ以上、進歩向上が望めないのは間違いない。

しかし、志も立てられないような弱々しくて卑屈な人間が、「天狗になったらどうしよう」なんて心配しているとしたら、まるで笑い話だ。天狗になるのを心配するのは、とりあえず弱気を克服してからのこと。

それまでは、たとえ天狗になってもいい、というくらいの気持ちで、魂の中に真柱を打ち立てることである。少々天狗になったところで、たいした問題ではないのだから。

というのも、天狗になってあるレベルまで上がっていっても、必ず頭打ちになるからだ。どんなにがんばっても、もはやそれ以上は伸びない。

そのときに、「ああ、おれは天狗になっていたんだな」と反省し、謙虚な姿勢に立ち返って、

さらに努力していけばいいだけのことである。だから、弱気で卑屈で志も立てられないよりか、少しばかり天狗になっても、強くたくましく雄々しくしているほうがいいのだ。

そもそも、ゆえなくして天狗になる人はいない。何の根拠もないのに自信満々、鼻高々という人もいるにはいるが、それは例外として、たいてい何らかの理由がある。セールスでトップの成績を残したとか、テストで一番になったとか、その人の人生の足跡をたどれば、必ず天狗になるだけの理由があるのだが、セールスにしろ勉学にしろ、トップに立つのにはトップに立つだけの努力と精進があったはずだ。その努力と精進は、その人だけの宝であり、今後、何かを修得するときの大きな武器になる。

それに対して、弱気で謙虚で、思いきってやれない人というのは、何の体験も残らない。

反省ばかりしていても、社会での経験、実績、知識、実力がついてないから、いく謙虚であっても世の中の役に立たない。

だから神様も、少々天狗になろうとも大目に見てくれて、その代わり、あるところまで来たら、にっちもさっちも行かなくさせ、自らを反省するように仕組んでくださるのである。

たとえば、小・中学校時代に劣等生だった人が、一念発起して人もうらやむような優秀な高校に入り、「おれはこんなに勉強ができるんだ」と天狗になったとする。

こういうとき神様は、大学受験に失敗させて大恥をかかせることで、天狗の鼻をへし折ったりする。

あるいは、おれは優秀な大学を出たんだと自信満々で社会に出たら、あっちからもこっちからも叩かれて失敗する。

なぜ、そんなふうに鼻をへし折るのかと言うと、その人間が憎いからではない。一度、へし折っておかないと、それ以上登れないからだ。

そういうわけで、とりあえず天狗になってもいいから志を立てること。これが弱気を克服するための第一歩である。

日々発願主義は朝の発願から

そのためにはどうしたらいいかと言うと、日々発願主義をとればいい。

日々発願主義というのは、自分自身の中の霊界を大きくして強くしていくことであり、ここに掲げる五聖願を上げれば、自分の中の霊界を強くすることができる。

一、願わくば真論を得せしめたまえ(真理を体得させてください)

二、願わくば上乗に至らしめたまえ(向上させてください)

三、願わくば功候を積ましめたまえ(功を積ませてください)

四、願わくば衆生済度ならしめたまえ(人々を救済させてください)

五、願わくば神様の御用に使わしめたまえ(神様の御用にお使いください)

この五聖願を毎日発願をして、自分の魂に真の柱をバシッと打ち立てるのだ。そうすれば、大直毘が立つ。

この原則に則って、弱気を克服する方法を解説すると、第一番の方法は、毎朝発願すること。

言わば、朝の朝礼で自分の目標を宣言するようなつもりで、神様に向かって発願するのである。セールスの会社では毎朝、

「今日のノルマを言ってみろ!」

「はい、私はきょう英会話のカセットを二〇セット売ってきます」

「私は三〇セット売ります!」

「何、三〇セットもやれるのかね」

「はい、必ず達成します!」

「ようし、今日もみんなでがんばるぞー。エイエイオー!」

なんていう光景が繰り広げられている。

その直前までは全然やる気がなくても、自分でノルマを設定し、それをみんなの前で宣言すると、弱気の虫はともかく引っ込む。

だから、十年一日のごとく「エイエイオー!」が繰り返されているのだが、あのやり方でいいのだ。

約束する相手が目の前にいなくてもいい。そのときは、神様に約束するのだ。「きょうは英語を三時間、数学を三時間、苦手のところだけを集中して勉強します」とか、あるいはもっと具体的に、「問題集を英数二〇頁ずつ、解けるまでがんばります」とか約束する。その場合は、口に出して言うことが大事で、紙に書いて張り出せばもっといい。

日々の発願で不可能が可能に

そうやって日々発願して、魂の真柱を立てていくと、神様がパッとかかってる英知とご守護をいただく。

その結果、目標が達成できると、「こんな自分でも、やればできる「んだ」という気持ちになる。それが積み重なると、ものすごい自信になる。

そのままで終わっていたら天狗になるが、絶えず己を振り返って祈り直していると、いつも神様がかかっている状態になり、ますます英知とご守護をいただけるようになる。

立志伝中の人物とは、こういう大切なポイントを教えられなくてもやっていたのではないだろうか。

立志伝中の人物というのは大方、無から有を生んだ人だ。逆境を跳ね返して、一つの会社を立ち上げ、大きく発展させたような人じゃなければ、社会的な影響力を持ち、人さまから尊敬されるような人間になれない。

最初から大会社に就職し、売りやすい商品を会社の看板をバックにしながら売っているなんていうのは、当たり前のこと。日々の発願をするまでもないことだ。

男性にしても女性にしても、日々に発願しながら「やった、できた」という体験、経験、実績を積んでいくと、弱気が消えていき、雄々しくて強い人間になれるはずだ。

そのためにも、日々の発願、毎朝の発願を絶対に忘れないようにしたい。

人間はみな、弱いもの。一見、強そうにしていても、内心をさぐっていけば、誰だって不安でいっぱいで、一日、御柱を立てなかったらフニャとなってしまう。

世の中の現実を見たら、やっぱりダメだなと思うことが多い。周りを見れば、立派な学歴を誇ってバリバリ仕事をこなしている人は多いし、身長が高くて、恰好いい人も多い。

そういう人たちを見ていると、「やっぱりぼくなんか、モテるわけないな。逆立ちしたって勝てるわけないな」と思ってしまう。

しかし、できてもできなくても、「きょうもまた、最高に素晴らしい女性とめぐり会うんだ」と思うと、顔が生き生きしてくる。

生き生きしていれは、どこか魅力がある。現状を変えるほどの人間は、日々発願して、絶えずこうするんだと自らを鼓舞しているもの。

そうやって、魂の柱を毎日立てている人にだけ神様のご守護がかかり、不可能が可能になるのだ。

これを一日最低でも一回やらなかったらダメだ。だから日々発願主義と言うのであっ週々発願主義では無理だ。発願は毎日立てるもの。

理想を言えば、一時間ごと発願主義だったらさらにいい。「よし、ぼくはがんばるぞ」と一時間に一回立てていけば、さらに意志強固巌のような強い人になれること間違いない。

霊媒体質で顔が真っ黒になった

そんなことをするだけで性格が変わるものかと思う人に、実例を示そう。と言っても、私自身のことであるが、私はそうやって臆病な人間から明るく元気で爽やかな人間へと変わっていったのである。

子どもの時分、私がいかに弱気で軟弱で、劣等感にさいなまれていたかについてはすでに述べたとおりだが、私にはもう一つの悩みがあった。実は私は、超が付くほどの霊媒体質だったのだ。

霊の姿が見えるとか、声が聞こえるという人はたくさんいる。だが私の場合、そんな次元ではなかった。顔が真っ黒になるのだ。別にお風呂に入らないか

らじゃない。そのころは毎日お風呂に入っていたけれども、一日でもお祈りしなかったら、洗面所の鏡に映る自分の顔が真っ黒になっているのだ。信じてもらえないだろうが実際そうだったのだ。

では、なぜそんなことになるのか、そのころはさっぱりわからなかったが、今になって思えば、要するに、地獄界に落ちている欲の深いご先祖が憑くからなのだ。

一般論的には、真っ黒な顔をしているのは欲の深い霊、赤茶けたのは怨念霊、赤黒いのは色情因縁の霊であることが多いが、私の場合は真っ黒。それは欲深い霊が憑いていることを意味する。

私の家は代々、酒樽づくりを家業としてきて、いっときは日本一の酒樽屋だったらしい。

私はその七代目に当たるのだが、それだけの事業をやっていたのだから、中にはすごい欲深い人がいてもおかしくない。

しかも私は長男だから、因縁を背負うハメになる。今はもう因縁は切ったけれども、そのころは因縁をひどく受けていて、日々お祈りをしなかったら、顔が真っ黒になった。ところが、

「きょうも神様のために、みんなのために、世のためにがんばります」などと、二〇分ほど真剣にお祈りしてやると、黒かった顔がピカピカと明るく光ってくる。

そして、明るく元気でさわやかな、何かやれそうだという気持ちになる。逆にお祈りを一日でもしなかったら、顔は真っ黒だし、やっぱりダメだと落ち込んでしまう。

何ゆえにこんなにも落差が激しいのか、自分でもわからなかったが、そのために私は、生理的に神様に祈らざるを得ないような人間になったのである。

もちろん、もの心ついたころから神様が好きだったということもあるが、私が祈りの生活をするようになったもう一つの理由は、極度の霊媒体質ゆえに一日でも祈りを欠かせば顔が真っ黒になるからであった。

人によかれという祈りが通じて、我によかれは通じない

かくして、十五歳のときから日々発願主義の生活が始まったわけだが、次第に「ぼくにもやれるんだ、できるんだ」と自信がついてきた。

神様にお願いしたことは、ピッタリとうまくいくからである。逆に、お願いしなかったことは、うまくいかない。やっぱりお祈りの力はすごいんだ、とますます確信を深めていった。

それとは別に、もう一つ、大きな発見があった。それは、自分のことでお願いしたことはことごとく失敗して、人さまのためにと思ってお願いしたことは成功する、ということである。

つまり、成功させようと思ったら、人さまのためのお願いの中に、どこか自分の願いも入れておけばいいんだ、ということがわかったのである。

われがよしになるためには、人もよしから祈りに入らなければならない。そうせずに、われよし心で祈ったら、顔が真っ黒になるから実にわかりやすい。

まず人もよし、人もよしと祈る。そのうち、祈ったその人に何かいいことがあったら、自分に返ってくる。地球は丸いんだ。そう考えるようになって、すべてがうまくいくようになったのである。

十五歳のころから、いろいろなことをお願いしてきた結果として、「みんながよかれ。そして、自分もそうありますように」と、毎日真剣に祈っていたら、すべてがうまくいくという法則を発見した。

今の私はそういう体験を、たっぷりと何十年もやっているから、大勢の前でお話ししても微動だにしない。それはこのような体験がモノをいっているからで、それまでは、弱気中の弱気だったのである。

私にできたのだから、みなさんもできる。日々発願主義で、弱気は克服できる。毎日、毎日、最初の三〇日、三ヶ月、一年、三年続けていくと、その分だ運勢は変わっていく。

これが一番大切なところであり、性格は必ず変わる。