第四章 決定版動物霊論
大量殺生は動物霊障を招く
動物霊とは、文字どおり動物の霊を意味する。一般の霊能者は動物霊の祟りの恐ろしささかんに喧伝しているが、果たして動物霊が本当に祟るのかどうか、これについてまず述べておきたい。
最近、一般の霊能者の見解に対して、一部の霊能者や心霊研究家が”畜霊は一切祟りしない”という見解を明らかにしているが、私も基本的には同じ考えである。だが、動物霊の全部が全部、祟りしないかというと、そうではない。例外も多いのである。
確かに、人間を惑わしたりわるさをする狐狸、蛇などは、ほとんど人霊の化けたものであって、文字どおり動物霊が祟りをすることはきわめて稀であるといえる。
しかし、私がこれまで見てきた限り、動物霊でも祟りすることがあるのだ。その代表的なものが、養豚、養鶏、あるいは動物実験用の動物の霊である。
つまり、大量に殺生した場合、動物霊が蓄積されて合体し、大きくて強力な霊障となって祟るわけだ。
かつてこんなことがあった。ある養鶏業を営んでいるご夫婦に除霊を依頼されて出向いたときのことである。
私がそのお宅に着くと、ご夫婦は妙齢の娘さんを紹介した。見ると、二人とも両腕がなかった。
正確には、上腕部が欠けていて、肩からいきなり肘が出ていたのである。美しいお嬢さんなのにかわいそうにと思ったが、聞けば、世間体をはばかって戸籍にも入れず、生まれてからこのかたずっと、座敷牢〟に入れっぱなしであったという。ますます不憫でならない。
さっそく、天眼通力で見ると、巨大な鶏の霊が目に飛び込んできた。何千何万という殺された鶏の霊が蓄積して合体し、一羽の巨大な鶏の霊となって憑いていたのである。
また、ある耳の聞こえない娘さんを除霊しようとしたとき、巨大な豚の霊が出てきたこともあった。そのお宅では代々、養豚業を営んでいたのである。
動物霊といえども決して祟りしないというわけではない。一頭や二頭、あるいは一匹や二匹殺した程度では何ら問題はないが、大量に殺生するとなると、祟ることがあるのである。
どんな動物であろうと、殺されて、
「どうもありがとう。ちょうど今、死にたいと思っていたところなんだ」と、お礼を言うことは絶対にない。殺気を感じたら、すばやく逃げ回るのが動物である。
したがって、動物は殺されることに何らかの悪感情を抱いていることは間違いない。
その最たるものが、殺されて、しかも食べられた蛇の怨念霊である。この場合の祟りは強烈で、悪質な皮膚病とか偏頭痛の原因となることが多い。
しかし、なんといっても動物の悪感情は、人霊が化身して狐や理や蛇になっている場合と比べるときわめて微弱であり、その祟りも、はるかに小さいものであることも事実。
また、人霊が怨んでいる念のように、直接肉体に及ぶことは少ないともいえる。
だがしかし、一体一体の影響は微弱であっても、それが大量に積み重なると、通常人霊の祟りよりはるかに恐ろしい霊障を引き起こすことがあるのである。先の奇形の話など、典型的な実例といえる。
このような場合は、誠意と至純の愛より発するところの、真の供養を行う必要があるのである。
強烈な”想い”にペットの霊が巨大化!
先日、このようなことがあった。二〇歳を少し過ぎた女性が、「先生、私はわけあって、絶対、世のため人のために尽くさなければならないのです」と、真剣な面もちで私に告げたのであった。
「ほう、それはどういうわけですか。よかったらお聞かせください」
私が問うと、彼女は、「私は……、私は悪いことをしてしまったのです」と、泣き崩れてしまった。いったい何をしたのか。
よほどの悪事でもしでかしたのではないか。私は心配になったのであるが、彼女の言によると、
「本当に私は悪い人間なのです。私は、大事なピーコを、私のピーコを、六年間も姉妹のように仲よくして、お外に出しても全然逃げようとせず、絶えず私のそばにいたピー
「ピーコって何ですか」
「私が命よりも大切にしていた手乗り文鳥です。エサも、私がやらなければ食べなかったくらいになついていたのです」
「ハァー、そうですか」
予想外の返事に、私は二の句が継げなかった。が、彼女にとっては、真剣なことなのである。
「先生、あんなに大切にしていたピーコなのに、彼のことでアメリカへ行ったとき、ピコにエサをやるのを忘れてしまったの……私が殺したんです。
私が殺してしまったの。かわいそうなピーコ。ひどい、私の… ウワーッ!」
泣き崩れる彼女を励まして、私は早速、その大事なピーコ様を除霊、救済することとなった。するとどうであろう。天眼に映ずるピーコ様の姿は、なんと、タテ一メートル、ヨコ一メートルぐらいの大きな手乗り文鳥になっているではないか。
このことについては水子霊のところでも述べたが、本人が「かわいい、かわいい」と命よりも大切にし、死んだあとも「かわいそう、かわいそう」と強烈に想っていたため、その念で、本来小さな鳥の霊も超巨大化してしまったのである。
聞けば、彼女がピーコの話をするときは、いつも自然に悲しくなり涙が流れて止まらない、ということであった。
除霊は数分間で終わった。
「あれ、先生。私、なんだか胃がスッキリして、急におなかがすいてきました。いつも胃がムカムカして食欲がなかったのに、なんだか不思議。それから、膝の関節がいつも痛かったのに楽になりました。本当に不思議だわ」
彼女は不思議そうな顔をしながら、爽快な笑みをもらした。
「もうピーコは完全に救われたのですから、今後は一切、ピーコのことは忘れるんですよ。わかりましたね」
このように諭してその日は別れた。
その数日後、彼女から電話がかかってきた。
「先生、また、お友だちにピーコのこと話しちゃった。けれど、今度は全然悲しくならず、涙も出ませんでした。胃の具合も、最高に調子いいです」とのこと。やれやれである。
このように、小さな手乗り文鳥一羽の霊でも、飼い主の心が真に宿ると、はっきりとした意志を持ち、霊も巨大化して、人間の言語や感情をよく理解するようになるのである。
ペットを飼ったことのある方なら、おわかりいただけると思う。
それから、死んだあと、いつまでも飼い主が想い続けると、その霊は本人や家族の体に憑いて、軽度の霊障を引き起こすこともあるのである。先ほどの女性の場合がいい例である。
昆虫も祟る!
しかし、ペットの場合は人間を怨んでいるわけではないので、数が特別多かったり、よほどの特殊事情がない限り、身体への影響は少ないといえる。ただ、ちょっとした動作やしぐさに妙なクセが出る程度である。
死んだペットのことは、供養するなら供養して、できるだけ早く忘れるようにしたいものである。
本物の畜霊、動物霊でも、場合によっては立派に祟りすることの実例をご紹介したが、もうひとつ、ふたつご紹介しよう。
少年のころ、昆虫博士の異名をとっていたある著名な手相家が、軽度な手足のしびれ神経痛を訴えていたので、除霊をして差し上げたことがあった。
そのときのことである。見ると、数万匹の険しい顔をした昆虫の大群が合体化して、巨大な昆虫霊と化し、彼に仕返しをしていたのであった。除霊後、即座に完治したのはいうまでもない。
大量の昆虫霊の祟りは、体力的にも霊的にもまだ抵抗力が弱い子供たちに影響を与えることが多いが、具体的には、つき指、骨折、情緒不安定、微弱なイライラ、ヒステリーなどとなって現れるのである。
私も、霊的な感性が極度に敏感になっていた学生時代、飛んでいる赤トンボを、エイとばかりに手ではたき落としたことがある。
すると数秒後、自分で自分のカバンに指をぶつけ、つき指をしたのである。
守護霊の戒めかとも思ったが、やはり赤トンボの霊であった。お詫びして除霊をしたら、すぐに痛みは消えたが、そのとき、「こんな些細なことでも祟りがあるのか。僕が極度に敏感なのかもしれないが、お坊さんたちが殺生するなといって、虫を殺さないためにわざわざ一本歯のゲタを履くのも、なるほど、このようなわけだったのか。それにしても恐ろしい」と思ったものである。
必要な殺生〟ならば罪にあらず
このように書けば、読者のなかには、「それでは、子供たちの昆虫採集も許されないのか。じゃあ、自然と親しむ情緒の涵養もできないではないか」
あるいは、「肉や魚、焼き鳥を食べるのも悪であるならば、いったい何を食べたらいいのだ」と思われる方がいらっしゃるに違いない。実は私も昔はそう思った。
しかし、後になって神道の『中臣氏大祓祝詞』を見てわかった。そのなかには、次のようなことが詠われている。
「国津罪とは、生はだだち、しらひとこくみ、己がははをかせる罪、ははと子とかせる罪、子とははとをかせる罪、畜をかせる罪、昆虫の災、高津神の災、高津鳥の災、畜介し蠱物せる罪、ここだくの罪出でむ」
このように、動物、鳥、昆虫を殺すことは国津罪なのである。
しかし、ここでよくご承知おきいただきたいのは、主神が真に罪としておとがめになるのは、「無益な殺生」なのであって、人間のために「必要な殺生」までおとがめになっているのではない、ということである。
仏教的な「不殺生戒」を信奉する方は、得てして、小動物に対する極端な生命尊重主義や、頑固なまでの菜食主義に陥ってしまって、肝心の人間の心と行動と栄養源を狭ばめてしまうことがある。
出家者が、仏道を成就せんがために〝持戒”して求道の糧にするのなら、それも善であろう。
だが、釈尊は私たち一般の人間に対して、人の心の自由や栄養の確保による幸せより、動物の命を尊重するほうが大切であると、果たしてお教えになるであろうか。
釈尊は、まず人間が涅槃寂静して幸せになることを、なによりも願ったはずである。
それ以外は、法華経の”長者の譬”でもわかるように、衆生を真なるものへと導く方便であって、経文の枝葉末節にこだわってはならないと思う。大切なのは、まず、人の幸せである。
これが、万物の霊長として人間をお造りになった、主神の真の大御心ではないかと思う。
このように、主神の大御心に絶えず見直し、聞き直し、身の過ちは至心に宣り直して、必要あらば、自然の恵みを感謝しつつ、肉や魚や鳥もドンドン食べる。
昆虫採集も、大目に見るときは大目に見て、人の幸せを第一に考えるのが本当の神心にかなっているものである。
極度に敏感な霊媒体質や霊感、あるいは誤った霊知識のために偏った人生観や生活観を持つことのないよう、また、人々に違和感を感じさせる人間像をつくらないよう、切に願うものである。
それらは、決して主神の御旨ではないはずだからである。
見ただけでは区別できない狐霊
ひと口に狐の霊といっても、いくつかの種類に分けられる。
①文字どおり動物の狐の霊
②怨念霊狐
③生霊乗っかり人霊狐
④祖先霊狐
⑤稲荷狐
⑥天界の魔物の一種である金毛九尾または天邪狐(何万種類にも及ぶ天邪狐がいる)
⑦人の想念がつくり出した幽邪狐(雑狐霊)
以上の七つに分けられるが、⑥⑦については紙数の関係から、機会を改めてご説明したいと思う。
①の狐はすでに述べたように祟りすることはほとんどないが、ときとして祟りすることもある。
たとえば神社や民家で、「狐は神様のお使いだから」と、死んだ動物の狐を丁寧に葬り、敬った場合などがそれである。
こうすると、単なる動物霊が巨大化して、はっきりした意識を持つようになり、いわゆる”野狐の祟り”を強烈に惹起することもあるのである。
これは、狸の場合よりちょくちょく見受けられるが、それでも、きわめて稀なケースといえるだろう。
問題は②から⑤の狐であるが、これらについてご説明する前に、ひとつだけ明確にしておかなければならないことがある。それは、②③④の狐と⑤の狐は、まったく別ものであるということである。
②③④の狐は人霊が化身して狐となっているものだが、⑤の稲荷狐は、元々神様の眷属、すなわち使者の狐である。
しかし、これらの狐は霊界ではまったく同じ姿をしていて、見ただけでは区別できない。そこで、それぞれの狐について少し詳しくご説明しようと思う。
★自業自得、稲荷狐の祟り
本来稲荷とは飯成の神であり、稲荷狐とはすなわち五穀豊穣をつかさどる神様の眷属であって、穀物の種を全国に伝播する役目を持っている狐である。つまり、人間のために食べるもの着るもの、御食つものすべてを調えてくれるたいへんありがたい存在なのである。
そして、この稲荷取り締まりの任にあたっているのが、天照大御神の御食つものをつかさどる豊受大神系の神である。
『稲荷秘文』によれば、「国常立之尊が五狐をはじめ、すべての狐霊をつかさどっている」とあるが、私が実際に伊勢神宮へ行って、直接御神霊にお伺いしたところ、「伊勢の外宮、豊受大神は、その国常立之尊の和魂と幸魂の合体神霊である」と明言しておられた。
ゆえに、稲荷狐を取り締まっているのは豊受大神系の神と言い得るのであるが、実際の伏見稲荷などは、須佐之男之尊の和魂「佐太大神」が統括しておられる。
そして、主宰神に統率されて、眷属が正しい働きをまっとうしている状態を「保食の神」とか「宇賀之御神」といっているのである。
それはともかく、よく稲穂を口にくわえた狐の石像を見ることがあるが、あれが本来の正しい稲荷狐の姿である。
五穀豊穣をもたらす神の使者であることを象徴しているわけだ。全国至るところの神社に稲荷の社が置かれてあるのは、神社の繁栄と氏子たちの五穀豊穣たらんことを願ってのことである。
ところで、稲荷には神道系のほかに、仏教系の荼枳尼天が狐となっているものがある。豊川稲荷がそれであり、狐の顔も伏見稲荷と比べて荒い。
その点、伏見稲荷のほうが気位とプライドを持っているようだ。
ところで以前、その豊川稲荷一派の狐の正体をあばき、除霊をしたことがあったが、思わず吹き出してしまった。
その狐たちは「家康左衛門」「義経太夫」「水戸光兵衛」など、歴史上の著名人をコピーしたような名前を名のっていたのである。「われこそは、われこそは」といばっているのであろう。
そのような狐霊こそが低級霊能者に対して、「われこそは徳川家康の霊なり」と、霊告を与えるのである。
それはともかく、稲荷は本来、正神界の神様の使者であって、悪いことはしないのであるが、稲荷を崇敬する人間の心に邪念が多いため、本来の使命を忘れて人間界に悪さをするハグレ狐と化してしまっているのが現実である。
つまり、稲荷を崇敬するとあまりにもはっきりと現世利益がもたらされるので、いつしか人間の側が本来の神様、すなわち天照大御神を中心とした豊受大神をたてまつるのではなく、稲荷だけを崇敬してお蔭をいただこうというようになってしまった。
お蔭信仰である。こうして人間に崇敬されるようになった稲荷狐は気分がよくなり、プライドが満たされることになる。そこで、本来の使命から逸脱して人間界に横行するようになった、というわけである。
このハグレ狐〟が現在、全国のほとんどの稲荷の社にいるのである。正神界の本来の稲荷がいる神社は、残念ながらごくわずかといわざるを得ない。
というのも、今述べたように、稲荷を崇敬する人々が日本の国のためにとか、御魂の向上のために祈るのではなく、自分の煩悩を充足させるためだけに祈り、神様を利用するような気持ちで信仰しているからである。
しかし、このようなハグレ狐でも、信仰している間は現世利益をもたらしてくれるのもまた事実。
商売繁盛、家内安全等々、稲荷をおだてればおだてるだけ、いろいろなかたちでお蔭を与えてくれるのである。
だが、問題は崇敬しなくなった場合である。お参りしなくなったりお供え物をしなくなると、たちまち仕返しをするのである。
「今日まで店や家が繁盛し、財産ができたのも、自分たちが働いたお蔭によるものだ。
それなのに、お参りしなくなるとは何ごとだ!」というわけだ。このあたりが、眷属といえども動物たる所以である。だいたい無一文まで追いやって、ひどい場合は七代祟るようである。
凄まじいばかりの反動パワーといえよう。
稲荷狐といっても所詮は動物であり、咀嚼力とか神霊世界に対する悟りがないのである。
だから、崇敬すればすぐお金で表わし、著しい霊能力なども与えるが、崇敬しなくなると無に帰してしまうのである。
これに対して、本当のご神霊は絶対に祟ったりしない。参拝に来たら来たで、加護と盛運をお与えになり、崇敬しなくなったらなったで、「今頃、どうしているものか」と、気遣って案じていらっしゃるのである。
なぜなら、本当のご神霊の意志と行動の原理は、すべて慈仁慈愛の大御心であるからである。
眷属には、一般に役割と働きはあっても、大愛と思いやりはない。ただ、忠実に主宰神の命令を奉ずるだけなのである。もちろん、ご神霊が眷属の役割を果している場合はこの限りではない。
このように考えると、稲荷狐に祟られるというのはある意味で自業自得である。欲心にかられて主を忘れ、従たる働きの神使に帰依した報いにほかならない。
読者諸氏が本来の信仰の道に目覚められんことを願うものである。
本能に身を任せば人も狐に
今度は、死んだあと、霊界へ行って狐の姿になっている人霊についてお話ししよう。最初に述べたように、狐の姿をしている人間の霊が霊界には多いのである。
では、どのような人が死後、狐になるのかというと、それは生前、稲荷信仰をしていた人が多い。すでに述べたように、正しい心で稲荷を信仰するなら問題はないが、お蔭だけがほしい、現世利益だけがほしい、というような気持ちで信仰していると、死後、狐の姿となってしまうのだ。
稲荷を信仰していると、無意識のうちにその霊流を受けるのである。性格的にウソつきになったり、気分がコロコロ変わったり、性的欲望が強くなったりと、狐の持ってい性格をそのまま受け継ぐようになったりする。
こうして、絶えず狐の霊流を受けることにより、いつしか本人の御魂まで畜生道に堕ちてしまうことになるわけだ。
また、このように考えることもできる。稲荷を崇敬して現世利益をいただこうという心は、人間本来の心の道から逸脱している。お蔭だけほしいというのは、本能そのままである。
本能だけで生きているということは、姿は人間でもその魂は畜生と化している。
ゆえに、死んで肉体を脱いだあとは、畜生すなわち狐の姿になってしまうわけである。これが先祖霊狐である。
そして、この先祖霊狐は子孫たちに憑いて霊流を送るので、その子孫たちも、狐のような性格を形成しやすくなるわけだ。
ご先祖のなかに生前稲荷信仰をしていた人があれば、人霊狐となっている可能性がある。
この人霊狐は、見たところ動物霊の狐や稲荷狐と何ら違うところはなく、見ただけでは見分けることができない。
それゆえ、霊視だけする霊能者は、とかくごまかされてしまうことになる。昔、「この人には狐が憑いている。叩き出さなくてはいけない」と、肉体を激しく殴打して当人を殺してしまった祈祷師がいたが、これなど、その典型といえよう。
先祖霊狐は本人の性格と合体化しているので、叩いたぐらいでは出ていかない。
狐の正体が何であるのかしっかり審神できなければ、完全な除霊はできないというわけである。
ところで、稲荷信仰をしていなくても、死後狐の姿になるケースがあるので、それをお話ししておこう。
それは、その人の性格がまるで狐のようになっている場合である。狐の性格とは、まず小賢しいほど知恵が回り、ウソをつく。色ごとにふけり、異常なくらいセックスを貪る。
ヒステリーで気位が高く、気分がコロコロ変わり落ち着きがないなどである。人間誰しも、多少なりともこれらの性格を持っているのだが、異常なくらいセックスに走ったり、異常なくらいウソつきであったりすると、その魂は畜生道に堕ちてしまう。
色街ばかりに出入りしている人。こういう人は、ほとんど間違いなく死後、狐か蛇になってしまう。性欲は、神様が人間に与えてくださった本能の一つであるが、こればかりに没入している人間は、畜生と同じである。
畜生は本能を充足させることしか知らない。だから、本能だけで生きている人は、人間の姿をしていても、心は畜生となっているわけだ。
畜生には、自分の御魂を向上させ、世のため人のために生きるという感覚がない。ここが人間と畜生との決定的な違いである。
自分の想念が畜生道に堕ちてはいないか、いつも反省しながら生きていきたいものである。
性格陰湿な蛇の霊
蛇は、アダムとエバを誘惑した聖書の話や白蛇信仰、また、須佐之男之命の八岐大蛇退治の話などで、比較的私たちの身近な存在となってはいるが、霊界における真相は、一般の人が考えるほど単純なものではなく、その種類も、狐や理にはるかに勝るほど多い。
すなわち、
NO.1… 文字どおり動物の蛇
NO.2… 人霊怨念蛇
NO.3… 人霊怨念合体蛇
NO.4… 生霊怨念蛇
NO.5… 生霊強烈慕情蛇
NO.6… 祖先霊蛇
NO.7… 神罰の蛇
NO.8… 仏罰の蛇
NO.9… 水蛇
NO.10… 海蛇
NO.11… ヨガ霊能
NO.12… 白魔術系の白金猛蛇
NO.13… 黒魔術系の黒猛蛇
NO.14… 本人の情欲過剰蛇
以上の十四である。NO.1は動物の蛇の霊なのでほとんど祟りしないが、殺して食べた場合は強い霊障をもたらすことは、すでに述べたとおりである。
NO.2からNO.6はすべて人霊が蛇の姿になっているもの。NO.7、NO.8は人霊ではなく、神様の眷属としての蛇である。NO.9からNO.14は、実際に霊界にいる特殊な蛇で、NO.10、NO.12、NO.13については、機会を改めて詳しくご説明したい。
以上の十四の蛇は、霊界では皆、同じ姿をしている。外見上は、動物の蛇も人霊の蛇も、あるいは眷属の蛇も何ら異なるところはない。
したがって、外見だけで判断すると失敗することになりかねない。霊視だけをする霊能者は、特に危険である。
かつて、私のところに中年の男性が見えたことがあった。彼は大変な頭痛に悩まされており、東北地方のある霊能者に相談したところ、「あなたには蛇が憑いている。
だから蛇供養をしなければいけない」と言われ、その霊能者の指示どおり、蛇塚をつくってタマゴをあげ蛇供養したという。
ところが、頭痛はいっこうに治らない。そこで、再び蛇供養をしたがやはり治らない。
そうこうしている折、彼の友人に紹介されてわざわざ東京まで出てきたのであった。私が見ると、なるほど蛇が憑いていた。
だが、それは動物の蛇霊ではなく、激しい怨念を抱いた人霊が蛇となっていたのである。しかも、複数の人霊が合体して一匹の蛇となっていたのである。
これでは、いくら蛇塚をつくって蛇供養しても霊障はなくなるはずがない。霊視だけをする霊能者は、見た目で判断するので間違いやすいのである。
狐や狸がそうであるように、蛇もたくさんの種類があるのである。
そのひとつひとつについてご説明する前に、蛇の一般的な特徴について述べておこう。
蛇はまず進歩向上しない。絶えず低いところ低いところへ逃れようとする。なにか苦難に遭遇すると、精進、努力してそれを乗り越えようとするのではなくて、横にヌルリと逃れようとする。
蛇は暗い。カラッと明るいところがなく、悪いほうへ悪いほうへと考える。性格が陰湿で、いつもグチを言う。「どうせ俺なんか」と口で言いながら、腹の中では反対のことを思っている。
以上が蛇の主な特徴である。自分の性格が該当するように思われる方は、蛇が憑いている可能性があるといえよう。
その蛇がどんな蛇であるかは、以下に個々の蛇について詳しくご説明するので、参考にされたい。
★人霊怨念蛇
これについては第二章でふれておいたので、だいたいのところはおわかりのことと思う。強烈な怨念を抱いたまま霊界に行くと、長い年月の間に、姿が蛇になってしまうのである。
能楽の「道成寺』は、旅僧安珍に恋し裏切られた清姫が大蛇となって、安珍の隠れた釣鐘に巻きついて殺すという話だが、この大蛇も清姫の怨念が化身したものである。
★子孫を苦しめぬく人霊怨念合体蛇
これは、複数の怨念人霊が一つの目標のもとで合体して、一つの霊となることである。
たとえば、先祖が複数の人を苦しめ、その人たちが霊界へ行って、「こいつの子孫を苦し「めぬく」という目的で一致した場合、合体して一匹の蛇となることがあるのだ。
もちろん、この蛇は外見上、ほかの蛇と異なるところはない。
霊界というところは実に不思議なところで、志を同じくする者が集まると合霊、合体して一つの霊となることがあるのだ。ちょうど複数のロウソクを合わせると、合体して一本の大きな炎となるのと同じ原理である。
霊怨念合体蛇の場合は、マイナスの合体の霊だが、プラスの合体としては、守護霊が合体して守護霊団をつくることがあげられる。
★生霊強烈慕情蛇
これは第五章で詳説するが、慕情蛇は強烈な恋心の化身であり、相手の異性の腰や腹、胸に巻きついている。そして情緒不安定やけだるさをもたらし、性の妄想などをかきたてる。
芸能タレントの性の乱れは、これらが原因となることもしばしば。人気が出すぎるのも考えものである。
★強烈な怨みが生み出す生霊怨念蛇
これも生霊だが、強烈に慕情しているのではなく、強烈に怨んでいるところが違う。ひとつ例をあげてご説明しよう。
ある女性が激しい頭痛とめまいを訴えてきたことがあった。
私はひと目で、生霊怨念蛇が憑いているのを見抜いたが、聞けばこの女性、妻子ある男性と恋に落ち、ついにその男性を自分のものにしてしまったという。
正妻と離婚させ、自分が妻の座についてしまったわけだ。当然のことながら、元の奥さんは激怒した。
「あの女さえいなかったら、親子三人の平和な生活が続いたのに。絶対許せない!」
この激しいばかりの怨念が生霊の蛇となって彼女をとり巻き、霊障をもたらしていたわけである。しかもこの場合、よほど怨みが深かったのであろう。蛇には大きな二本のツノが生えていた。
これが生霊怨念蛇である。
先祖霊蛇には、女遊び、金銭欲の過ぎる人が…
これは先祖が畜生道に堕ちて蛇になっているものである。先にも述べたが、霊界は意想念の世界である。
意志と想念が尊いものであれば、それに相応した素晴らしい霊界へ行くことができる。
反対に、人間の心を失い、動物と同じように本能を満たすことだけしか知らない心になっていると、その如く畜生道に堕ちてしまう。
堕ちた当初は人間の姿をしていても、時間の経過とともに、その想念に相応した動物の姿になってしまうのである。
ウソつきであったりすると狐になり、怠惰であると理になるのはご説明したとおりである。
では、蛇の姿になるのはどういう人であろうか。それはほとんど、生前、女遊びに明け暮れていた人である。
こういう人のなかには、〝血の池地獄”に落とされている人もいるが、蛇になっていることが多い。情欲の想念がヌメヌメした蛇の姿になってしまうわけだ。
さらには、金銭に対して執着心の強い人も蛇になっている。これは、私がこれまで見てきた限りでは、まっ黒の蛇になっていることが多い。一般に執着心と物質が重なると、黒色霊化するのである。
こうした人が先祖のなかにいると、その霊流を受けるので本人の性格も蛇に似たものとなってくる。もちろん、運勢も下がり気味になる。
男女関係に不幸をもたらす神罰の蛇
蛇のなかには、動物の蛇や人霊が蛇の姿になっているものばかりでなく、神様の眷属、すなわち、神様の使者としての蛇もいる。
たとえば、大山祇命をご神体とする神奈川県の大山阿夫利神社の眷属は天月鉾命であるが、これが蛇である。
この白蛇は化身して、ある宗教のご祭神となっている。もちろん信者は誰も知らない。
また、霊眼の開けた人が東京・西荻窪の井草八幡へ行けば、八幡様の眷属の白蛇がお社をとり巻いているのが見えるはずである。
眷属の蛇の特徴は、病気治療ができることである。病気治療心霊治療をする霊能者は珍しくないが、こういう人たちには、この蛇が憑いていることが多い。
また、当てもの、すなわち近い将来の予言をすることも、この蛇の特徴といえる。予言者と称される人のなかには、この蛇が憑いていて、未来を見せられていることが多い。
この二つが大きな特徴だが、要するに、眷属の蛇は物質次元に近いのである。高級なご神霊は次元が高すぎて、物質次元にまで降りることができない。
そこで、眷属の蛇を使者として遣わし、人間にいろいろな利益をもたらすのである。弁天様は、実は白蛇の化身なのだが、これもそのためである。
ところが、たとえ神様の使者ではあっても、蛇は所詮動物に過ぎない。現世利益に密着したかたちでいろいろな働きをして見せても、人間の御魂の向上とか人生の本義というものとは関係がない。
ここが大切なところである。特に、病気治療や予言をされる霊能者の方々には、よくご承知おきいただきたいと思う。
というのは、病気治療や予言は結構なことだが、そればかりに専念して、胎蔵界(信と智を磨く)、金剛界(善と徳を磨く)の要素をもって、自分の御魂を向上させることを忘れると、いつしか、正神界の霊層から逸脱してしまうからである。
病気治療や予言は、あくまでも人間の御魂を向上させ幸福をもたらすための一要素に過ぎないことを、くれぐれもお忘れにならないでほしいと切に願う次第である。
さて、本題の神罰の蛇であるが、これは次のようなものである。
神罰とはいっても、本当の神様は人間を罰するようなことは決してなさらない。罰を与えるのは神様の眷属であるということは狐の項で述べたとおりである。神罰の蛇もこれと同じである。
神社や祠をつぶすと俗にバチがあたる”というが、これは決して迷信ではなく、現実に起きることである。
だが、このバチをあてるのはご神霊ではない。ご神霊は神社がつぶされれば、パッと神界へ帰ってしまわれるものだが、残った眷属の蛇が罰を下すのである。
蛇は動物だから、許しとか哀れみとかいう神性を持ち合わせておらず、感情のままに仕返しをするわけだ。
ここで、蛇によって神罰を下された例を一つご紹介しよう。
少し前、雑誌記者をしている女性が訪ねてこられた。彼女は三〇半ばを越えていたが、いまだに独身であった。
「いい縁談がなくて、ここまで来てしまいました。でも、チャンスはまったくなかったわけではないんです。何度かいい人に巡り会ったことがあるんですが、どういうわけか、いつもちょっとしたバカみたいな理由で行き違いになり、ダメになってしまうんです」
雑誌記者という職業柄、チャンスは何度かあったが、ことごとく破談になってしまったという。たとえば、次のような具合であったらしい。
アメリカのホテルで取材中、ある男性記者と意気投合した。そして帰国後、彼から電話があった。ところが、折り悪く彼女は不在で、お母さんが電話を受けた。
「ボクです、ボクですよ。アメリカのホテルで知り合った・・・・・・」
「アメリカのホテルですって。あなたはいったい誰ですか。もう二度と電話をかけないでください」、ガチャーン。
お母さんは、特別な意味のホテルとはき違えたのであった。さらに悪いことには、お母さんの声と本人の声がたいへんよく似ているため、男性のほうも誤解してしまったのである。
その後、二度と電話はかかってこなかった。お母さんの一言で、せっかく芽生えかけた恋もパーになってしまったのである。
このほかにも、破談になった例をいくつか聞かせていただいたが、まったく信じられないようなバカげた理由によるものばかり。とにかく、彼女は縁談から見放されていたのである。
「いったい、どうしてそんなことになるのか」と、天眼通力で見ると、怒り狂った一匹の黒蛇が現れた。それは三輪大社の眷属であった。
「あなたは三輪大社へ行ったことがありますね」
「はい。もう、ずっと昔のことですが」
彼女の話によれば、早稲田の学生時代、女の子四人で奈良へハイキングに行ったのだという。そして、山中を散策中、いつしか三輪大社の神聖なご神体である山中に入ってしまった。
それに気がつかない四人は、「なんだ、この石は?」とばかり、さわったりころがしたりしていた。
そこへ神主が血相を変えて飛んできた。「あなた方はここで何をしているんです。ここはご神領ですよ。私たち神主でさえ、斎沐浴しなければ入れない神聖な場所です。この山全体がご神体なのです。すぐに出なさい」
「ご神体だなんて・・・・・」
四人はしぶしぶ山をおりた。
ところがそれから間もなく、四人のうち二人が精神に異常をきたし、精神病院に入ってしまった。
彼女ともう一人は精神に異常をきたすこととはなかったが、縁談に恵まれず、三〇半ばを過ぎても結婚できないでいるのだという。
これは典型的な神罰の例である。彼女にとり憑いていた眷属の蛇は、私にこう語った。「いくら学生とはいえ、禁足地に無断で入るとは、三輪の神に対してあまりにも無礼すぎる。こればかりは許し難い」
そして、彼女のご本霊を頭上で両手縛りにして、「八四歳まではこのままにしておいて、決して結婚させない」というのである。
三輪大社の眷属は、通常の神社の眷属と比べるとご神徳もひときわあらたかであるが、それだけに立て別けが厳しく、礼とすじ道を違えると戒めも強烈なのである。
だが、ご祭神である大物主之大神は、私も親しくしているが、立派な神徳と寛容を具備せられる神様であり、神罰を直接お与えになるような神様ではない。
神罰は皆、そばに仕える眷属たちがすることなのである。
彼女たちは卒業後、自分たちの境遇があまりにも不幸なので、いぶかしく思い、「これはひょっとして、学生時代に行った三輪大社の祟りかもしれない」と「お詫び参拝」に行ったとのこと。
しかし、それでも眷属は許していなかったのである。いかに三輪明神の眷属が執拗であるかが、おわかりいただけたと思う。
神罰の蛇の除霊は、仏式では到底できるものではない。神道の奥義に精通していなければ、どのような霊能力をもってしても解決できないことである。
除霊後、彼女は、「先生、何だか頭のてっぺんから蛇のようなものがスーッと抜けていった感じがしまし
た。気分も軽やかで爽快です」という感想をもらしていた。
その後、彼女から連絡をいただいた。急に人間関係がよくなり、昔の友だちから電話がかかってきたり、男友だちからも誘いがかかってくるようになった由。
私も安心した。このように、神罰の蛇は一般に、男女関係の極端な不遇の元となったり、縁談が調わない最大の要因となったりすることが多い。
このほか、神罰の稲荷や龍神などと複合的に働いて、異常なほどの不幸な家庭や、発狂者や精神病者が続出する家系をつくり出したりする。
神罰の蛇は”人霊怨念霊説”信奉者や、仏教系・キリスト教系の神霊能力者では、解消し難いジャンルといえよう。
また、別の機会に詳しく述べたいと思うが、霊視だけシャープにできる霊能者たちが、必ずといっていいほどごまかされてしまうのが井戸の祟りの水蛇や水龍神、木霊の祟りの木蛇や木龍神、神社の霊泉や湖、海に棲息する各種の人霊以外の神罰系統に属する蛇や龍神などである。
これらは一般に、仏教系・キリスト教系の霊能者では、完全に救霊できず歯が立たない。
また神道系でも、霊視だけで審神をする霊能者では処理できない。神道の奥義に達し、同時に至心の誠に徹しつつ、霊妙華麗にして神力を備える天津言霊法を自由自在に駆使できねば、完全に救霊することは難しいのである。
また、これも別の機会に詳しく述べたいが、龍神について少しだけふれておこう。
一般の霊能者は、龍神は人霊の化身であるとか自然霊であるとか、あるいはまた、龍神を守護霊に持てば強くなるという程度の認識しかないようだが、龍神は実に多種多様であって、決して一辺倒に考えてはならない。
色で分けても、白龍、金龍、銀龍、青龍、紅龍、緑龍、赤龍、黒龍、紫雲龍、天祥龍、地祥龍、黄龍、七色龍、九頭龍をはじめ、実に千差万別、役割も千差万別、出所も千差 10 万別なのである。
出所については、水龍、火龍、木龍、国体龍、天水龍、海龍、天気象龍人霊龍人霊怨念合体龍、人霊怨念単独龍、土公神をはじめ、数限りないほどである。
また、天体、宇宙より来たる真の意味での天龍となると、惑星別、働き別に何万、何十万、何百万もの種類があり、出所も、色も、働きも、それこそ無数であって、八百万の神々となるのである。
しかし、これらすべての龍神は真の神や神霊ではなく、神霊の化身であったり、乗り物であったり、眷属であったり、神使であったりする。
このように、神罰ということを深く掘り下げると、さまざまな神霊世界の実相を窺い知ることができて、興味が尽きないのである。
古井戸の祟りをもたらす水蛇
昔から「古井戸をつぶすと祟りがある」といわれているが、科学が驚異的な進歩を遂げた今日、これを単なる迷信として排斥する人が多い。
かくいう私も昔は、古井戸の祟りなど実際にあるのだろうかと思っていた。
ところが、その後いろいろと霊界の実相を探るべく研鑽を積んだ結果、古井戸の祟りは決していわれるような迷信ではないことがわかった。
古井戸からは、だいたい五〇年くらい経つと白蛇が出るようになる。大地から湧き出水の水気が凝結して白蛇の姿となり、井戸の周りを取り巻くようになるからだ。
水気が凝結してできたこの蛇、すなわち水蛇のことを神道では罔象女神といっているが、この水蛇が祟りするのである。
何のことわりもなしに井戸をつぶしたり、あるいは水気を抜かずに井戸をつぶすと、病気になるなど肉体を打たれることが多い。
また、家運が急激に下落することも珍しくない。これらはすべて水蛇の怒りによるもので、一種の神罰である。
井戸を大切にしている家であればあるほど、水蛇ははっきりとした意志を持ち、怒りも激しい。その理由は、水子霊の項でもお話ししたように、人の想念による霊体の巨大化理論によるものなのである。
また、この古井戸の祟りに関連したことで、やはり水蛇、つまり罔象女神による神罰があるので、それをお話ししよう。
気学に凝っている人はよく祐気ということをする。祐気とは、プラスの気、すなわち自分の吉となる気を吸収して運勢をよくしようというもので、通常、お水取りという形式で行う。
つまり、吉方にある神社や寺院の湧き水にはプラスの気がこもっているので、これを飲めば、祐気効果が表れて、運勢がよくなるというわけ。
お水取りの代わりにお砂取りをやることもあるが、とにかく、運勢をよくしたいという動機で行うのである。
ところがこのお水取り、気をつけなければ場合によっては、運勢がよくなるどころか、かえってマイナスをもたらすことがある。
お水取りをする場所が問題なのである。過去、私が鑑定した人の中に、お水取りをしたために、水を守っている水蛇が憑いてしまったという例が少なからずあった。
異常に敏感な霊媒体質になったり、霊が見えたり憑霊神経質症になることが多いが、それならまだましなほう。ときとして精神に障害を生じることもある。
「誰かが私を殺そうとしている」
「誰かが私を監視し、電波を送っている」などと、第三者にはまったく理解できないようなことを口走ったりする人をときどき見かけるが、これも水蛇の怒りによる場合があるのだ。
お水取りをするときはまず、しっかりと場所を見定めなくてはならない。そして、神域でお水をいただく場合には、ご祭神と眷属によくおことわりをし、礼節をお賽銭等で表すなど、心の行儀と威儀を正して行わなければならないのである。
ヨガ霊界の主宰神・ヨガ霊能蛇
最後に、ヨガ行者に憑いている蛇についてご説明しよう。
ご存じのように、ヨガはそもそもインドで発生したもので、歴史的に多方面にわたっ大きな影響を与えてきた。
たとえば、三蔵法師がインドへ渡った目的の一つも、この「瑜伽論」の学習であったし、今日、日本の高野山等でも「瑜伽論」が講究されている、といった具合である。
しかし、今日世界中で行われているヨガは、学問的、宗教的に追求するというよりも、超能力開発と健康法のひとつとして取り入れられているのが実情のようである。
さまざまなポーズをとりながら心身をリラックスさせ、瞑想世界に入る。これが、なにかとストレスの多い現代人の健康にたいへん効果的である、ということで、多くの人々がヨガをやっているわけだ。
まあ、健康法のひとつとしてヨガを取り入れる程度なら、何ら問題はない。ところが、超能力開発のためにヨガの修業をするという段階になると、きわめて危険であるといわざるを得ない。
というのは、ヨガの霊界と霊能をつかさどっているのが、ほとんど蛇だからである。インド系の金蛇、銀蛇をはじめ、各種の蛇。
これがヨガ霊界の主宰神であって、ヨガ行者にいろいろな霊能を与えているのである。
ヨガは、精神面と肉体面のどちらに比重を置くかによって、レフトタントラヨガ、ミドルタントラヨガ、ライトタントラヨガに明別される。
いずれのヨガにしても、修業にあたってはチャクラを開くということをするわけだが、一番下のチャクラは性的欲望、あるいは性的エネルギーを出すところであり、ここに瞑想の集中ポイントをおくのである。
現実世界を見るわけでもなく、また霊界を見るわけでもなく、ただ自分の精神世界の一部だけをひたすら凝視し続ける。
こうして一種独特の精神世界に入って悟りを開いたり、霊能力を会得したりするようになるわけであるが、ほとんどの行者が、インド系の蛇にとり憑かれてしまう。
慈善と世を想う熱烈な愛念と、人格神としての神仏に対する心的交流が欠如しているからである。つまり、霊妙な感性である「御魂」の部分が欠如するのである。
この蛇は、必ずしも邪神界の蛇とはいえないが、人間の御魂の成長と死んだ後のことを考えると、ヨガ霊界に入るのはあまり感心できない。
否、危険であるといわざるを得ない。人格神との心の交流なくしては、死後、人格のある高い霊的存在たりうることは難しいからである。
なぜなら、ひとたびヨガ霊界に入ってしまうと、その次元で御魂の成長がストップしてしまうからである。
ヨガは修業を積むと、霊能が開けるかもしれない。集中力がつき強靭な肉体ができるかもしれない。あるいはまた、悟りの境地を感じることができるかもしれない。
しかし、その霊能は本当の正神界から直接来るものではないし、その悟りは人間としての正しい精進、努力を重ねた結果得られた心即理、あるいは小我を捨てて大我を得た真如の我でもなく、道心と無欲によって悟りを得た御魂の覚醒でもない。
あくまでも、行力行法の特殊世界を追求して得た、一時的恍惚状態であり、人間としての誠の道に則って得た悟りの世界ではない。釈尊が出現する前のバラモン行者たちの悟りの世界であるといえよう。
「釈尊も、もとはといえば、われわれと同じようなヨガ行者の一人であった。彼もヨガ 556 の修業を積み重ねて、あのような偉大な人物になったのだ。
われわれもこれにならって、その原点を行じているだけのことだ」と、反論されるかもしれない。
しかしそれならばなぜ釈尊は、「極端な難行苦行をいくら積んでも、本当の悟りは開けない」と、自分自身がヨガ行者に偏していたことを後悔し、反省したのであろうか。
さらに言うならば、ヨガ修業をしている人々は、「生き死にを超えた永遠の真理を知りたい」
釈尊が願ったのと同じくらい切実に願って、真理探究の行をしているのであろうか。「行力を得たい、霊能を得たい。
霊智、霊力、霊感を得て、神秘をわがものとしたい」と願っているのがほとんどではなかろうか。これらはすべて、我欲と功名心の一種であるといえよう。
釈尊は、地位、名誉、財産、家族までも捨てて真理を体得しようとしたが、巷のヨガ行者たちは、釈尊ほど純一無雑な精神に基づいているわけではない。
地位、名誉、財産を捨てようにも、はじめからない人がほとんどなのである。
逆に、その見せ物的な曲技や霊能で、地位、財産、名誉、金銭を得ようとしているのが実情である。
このように、すべてが釈尊のように、高貴な内面からの発露によって行じているわけではないのである。
何度も言うように、人間は現実社会のなかで真理を学び、多くの人々のなかで善徳を積み重ねてゆくことで、少しずつ人間としての御魂の向上を遂げていくのである。
現実から離れ、自分の精神世界の一部だけを見つめ続けるのは、本来の人間としてあるべき正常な姿から少し逸脱しているといわざるを得ない。
人間本来の姿を見失っているのだから、人間本来の霊界へ行くことができず、インド系の蛇の霊界へ行くことになってしまうのだ。すなわち、ヨガ行者は死後、蛇の姿になってしまうことが多いのである。
高次元の霊眼が開けた人がヨガ行者を見れば、すぐにわかるはずである。金蛇、銀蛇が見えるはずである。この蛇は怨念霊の蛇でもなく、眷属の蛇でもない。
ヨガ霊界をつかさどっているインド系の蛇なのである。宇宙の光エネルギーというのも、この蛇によるものである。この蛇はウロコやツメのなくなった龍神とお考えいただきたい。だいたい、そういう役割なのである。
この蛇の霊流を絶えず受けるから、ヨガ行者はまるで蛇のように体をクネクネとさせ 68 ることができ、近い未来の霊感予測もできるのである。
最近では、日本人のなかにもヨガの行にあこがれて、チャクラを開こうとする人が増えてきているようだが、気をつけていただきたい。
霊能力はある程度会得できるかもしれないが、死んだあとのことや、来世のことを思うと、私は警告せずにはいられない。ヨガに関していえば、極端な瞑想主義に陥ることのないようにしていただきたい。
普段使わない肉体の部位をよく動かし、血行をよくすることでストレスを解消したり健康体を維持して健全で幸福な人生となるべく、これらを役立てるくらいにしたいものだ。
しかし、どうしても霊能力を得たいのなら、天照大御神を中心とする日本の正神界か流れ出る霊流をバックにすべきであろう。
日本の正神界では、あまり不自然を好まない。あくまでもありのままの自然を尊ぶ。
霊心肉がバランスよく発達し、心身共に澄みきって、至誠と愛念によって神人合一することを望まれるのである。
不自然なかたちで悟りを開こうとしたり、霊能力だけを会得しようとすると、必ず、不自然な霊界に引き込まれてしまう。
日本人として日本の国に生まれてきた以上、日本正神界にその霊籍を置いているのであるから、なによりもまず、日本の神霊界に目を向けるべきである。
日本正神界に属する守護神、守護霊、産土神、祖先霊などから直感、霊感、神感を授かるべきなのである。
生きている間は至極便利そうなヨガの霊能も、一歩方向を誤ればさまざまな危険をはらんでいるのである。
死後の霊界における真の幸福を考えたとき、私はこう提言せざるを得ないのである。
狸の特徴は下品で怠惰、よく眠る!
狐と並んで多い動物霊は狸である。狸にもいくつかの種類がある。
①文字どおり動物の狸の霊
②怨念霊狸
③祖先霊理
④浮遊霊狸
⑤霊昧天狸(身長二〇~一〇〇メートルくらいの巨大なものもある)
⑥人の想念がつくり出した幽邪理(身長二、三メートルから数十メートルのものまである)
⑥と⑥については、次回の出版時に詳細をご説明したいと思う。ご期待願いたい。さて、残りの①から④のうち、①の動物の狸の霊はすでに述べたように、人に祟りすることはほとんどないが、祟りする特殊ケースがあるのでそれをご説明しよう。
その一つは、山で死んだ理たちの霊が、年月を経て大量に蓄積されて合体し、巨大な化け物のようになったもの。
これは妖怪の一種となる。もう一つのケースは、人が「お狸様」と、死んだ理に狸信仰の対象物として崇敬し続けた結果、狸霊が人の崇敬の想念によって、神通力を持った化け物となる場合である。
しかし、これらはきわめて稀なケースといえよう。実際に祟りするのはほとんど、 ②③④の人霊が霊界で狸の姿となっている場合であるが、これら一つひとつについて具体的にご説明する前に、狸の一般的な特徴を述べておこう。
まずいえることは、下司で下品で低級趣味であるということだ。神道の言霊学でいうと、「タ」は「尊い」の「タ」であり、「貴い」「高い」の「タ」であり、「高天原」の「夕」であって、高貴なることを意味する。
したがって「夕」を抜く「タヌキ」は高貴なものを欠き、下司、下品となるわけだ。
狸は下品な人、つまり高尚な趣味や高貴な人生のビジョンが欠如した人に憑くことが多い。また、下品な場所に出入りしていると、浮遊霊狸にとり憑かれることもある。
さらに特徴をあげれば、怠惰であること。精進、努力することを嫌い、ずぼらで、みずからを磨くことをしない。また無気力。
異常なほどよく眠る。そして、よく食べる。こうした人には狸が憑いていることが多い。
“われよし”で、高い知性がないことも狸の特徴といえる。狐は小賢しいほど知恵が回るが、狸は知恵が乏しい。いつもポーッとしていて忘れっぽい。
考えが堂々巡りして、何が言いたいのかよくわからない。
腹黒くて権威を振り回すのも狸の特徴。強者にはペコペコするくせに、弱者には居丈高に振る舞う。頭の回転は悪いが、腹芸を使うことは達者。
こんな人にも、狸が憑いていることが多いようだ。読者諸氏の周囲に、心当たりの方がきっといるはずだが……。
私は、これまでに正神界の使者としての理を見たことがない。稲荷や蛇のなかには、正神界の使者として役割を果たすものもあるので、その点、狸よりは位が上といえよう。とにかく狸の最大の特徴は下品で怠け者、そして腹黒いことであり、高貴な「タ」の要素がないことなのである。
自らの境遇を呪う祖先霊狸
人間界に干渉して、さまざまな霊障をもたらす理は、人霊が理の姿になっているものがほとんどである。除霊をしているとき、狸が出てくることがよくあるが、その大部分はご先祖が理の姿になっているものである。
ではなぜ、人間が霊界で狸の姿になってしまうのか、それをご説明しよう。
人間は本来、胎蔵界と金剛界の二つの要素で御魂を向上させるために、肉の宮を持って生まれてきている。
胎蔵界の要素とは、ひらたくいえば真理を探求して上乗に至り、信を全うすることであり、金剛界の要素とは、慈悲心をもって人々に体施、物施、物施、法施をすることであり、この善徳によって神仏に対して功を立てることである。
真理を探求し、同時に善徳を積んで御魂を向上させる。言いかえれば、真善美を探求しながら、実践して御魂を向上させる、ともいえるだろう。
これが人生の本義である。だから、人間として生まれてきた限り、刻一刻精進、努力して、御魂を向上させなければならないのである。
ところが、これを怠って、安逸を貪っていると、外見上は人間の姿をしていても、その想念は畜生道に堕ちてしまう。畜生は御魂を向上させるだけの霊的自覚はない。
もちろん、知性もなければ教養もあるはずがない。ただ、本能に従うのみである。だから、動物的本能だけで生きている人は死後、畜生道に堕ちてしまうのである。
そして、我利我欲、狡智略に走れば狐の姿となり、腹芸的”われよし”の心で怠惰に流れれば、狸の姿となってしまうわけだ。
こうして、畜生道に堕ちてしまった人霊はみずからの境遇を呪い、また苦しいがため、なんとか救われたいという一心で子孫に憑き、いろいろと霊障をもたらすのである。
それから、そうした思考能力もなく、どうしていいのかわからなくて、ただただ漠然と憑いていることもある。これを知性欠如ダヌキともいう。
不浄の場所を好む浮遊霊狸
生前、霊界があるということを知らずに死んだり、あるいは、死んだのち現世に強い未練を持っていると、成仏せずに浮遊霊となってさまようことになる。
さらに、知性も教養もなく、自分を磨くことをしなかった場合には、時間の経過とともに狸の姿になることがある。これが浮遊霊狸である。
浮遊霊狸もやはり、下品で不浄な場所を好む。いかがわしい場所に出入りしていると狸に憑かれることがあるが、この理などは典型的な浮遊霊理である。
また、不浄なところではないが、小中学校などには「学校いたずら浮遊霊小狸」がウヨウヨしていることがある。水子霊と合わせて、学校での乱暴いたずらの霊的要因になっていることが多い。
それから、総じて言えることだが、狸の憑いている人は整理整頓を嫌い、ルーズである。これに対して、狐の憑いている人は異常にプライドが高く、またきれい好きで、半ば病的でさえある。
何ごとも中庸が肝心であり、行き過ぎや異常な生活態度は慎みたいものである。
行者狸は最もタチが悪い
狸のなかで最もタチが悪いのは、行者理である。この行者理はあまり多くはないが、一部の霊能者や、強い霊障者に深い関係があるので、少し詳しくご説明しよう。
行者狸とは、すなわち行者や僧侶が畜生道に堕ちて、狸の姿になっているものをいう。もちろん、行者や僧侶のすべてが畜生道に堕ちているわけではないが、行者や僧侶たちが利欲と、”われよし”の心で御魂を曇らせると、死んで霊界に行ったあと、大方、狸の姿になってしまうのである。
まずは僧侶から――。
では、もう少し詳しく、行者や僧侶が畜生道に堕ちて行者理になる理由をご説明しよう。
御仏に仕えるとは、本来、御仏の御心にかなう人となるべく、精進、努力することである。それにはまず、御仏の御心とはいかなるものか、真剣に習い、かつ研鑽することであり、さらに、体施、物施、法施の布施行をしなければならないはずである。人々に対する慈悲が、御仏の大御心の中心だからである。
これらを、生涯かけて無欲で実践することが、僧侶たる本旨にかなうことなのである。出家とは、これらを専一にすることであり、そうした生き方をしたお坊さんは皆、死後素晴らしい霊界へ行っている。
伝教大師、すなわち最澄がそうであり、道元禅師もまたしかりである。
ところが、今日の仏教界を見るに、必ずしも御仏の御心にかなっているとは言い難いのが現実である。檀家組織と非課税というシステムに支えられ、いわゆる葬式仏教に堕ちているところが多いと言わざるを得ない。
仏門に帰依していながら、その行いは御仏の教えとあまりにもかけ離れている。こうした僧侶が死ぬと、やはり畜生道に堕ち、狸となってしまうのである。
そして、生前、霊能力のあった僧侶となると、次の行者狸となるわけである。
密教系のお坊さんのなかには霊能力、超能力を会得したいと願っている人が多い。その願望は決して悪いことではないが、その発するところ、すなわち動機が狂っていると、死後、行者狸になってしまうのである。
つまり、なんのために霊能力、超能力を得たいのか。これが問題となってくるわけだ。弘法大師のように、国を想い、世を想い、人を想い、御仏の御心にかなった心を持ち続結果として、霊能力や超能力を会得したのならば何ら問題はない。
しかし、世の中のために生きたいのだが、それにはとりあえず霊能力だ。そうしてそとりあえず”が長続きして、最後まで霊能力を得たいという気持ちが心を占め、この欲心のとりこになってしまうことが問題なのだ。
このような場合が死後、霊界で引っかかってしまうのだ。
当初の世のためにという動機は、一見、善に思える。だが、僧侶として、その気持ちをどれだけ持ち続けることができるであろうか。
終生持ち続け、貫き通すのでなければ、何ら意味を持たないのではないだろうか。そうでなれば、自分がたくさんの人を集めたいという”われよし”の心と、自分でも気づかない功名心へと変わってしまっているのが現実なのだ。
ほとんどの場合、動機の根底は自己顕示欲、所有欲、執着心といわざるを得ないのだ。
すでに何度も述べてきたように、霊界は意志と想念の世界である。人間は死んで肉体を脱ぐと、自分の意志と想念に相応した霊界へ行くことになる。
執着心がなくて心の軽い人は高い霊界に行くことができる。愛と慈悲で心があたたかければあたたかい霊界へ行き、”われよし”で冷たい心ならば八寒地獄へ行く。
所有欲の強い人もやはり、地獄に近い霊界へ行くことになる。
それで、行執念と霊能力会得の欲望に駆られた人は、行者霊界に行くのである。
そして、この行者霊界で行者狸となった人霊は、人間界になにかとちょっかいを出すことになる。
よく、お地蔵さんを拝んでいたら頭が痛くなったという話を聞くが、これも行狸のしわざであることが多い。つまり、行者狸がお地蔵さんや仏像にチョンと鎮座し、御仏になりすまして人々を惑わしているのである。
また、お地蔵さんを拝んでいたら、急に霊能が開けたとか、夢でお告げがあったなどというのも、ほとんどが行者理や僧侶の霊によるものである。
高貴で清らかな場所で、純粋に仁慈愛の心と姿勢をもって手を合わせれば、正神界の仏様が感応するが、「どうか、私の商いが栄えますように」
「お金が儲かりますように」と、自分のことだけをお願いすると、それに相応した行者理が憑くことになる。
突然霊眼が開けた、未来の予知が当たった、突如として神がかりになったというのも、稲荷狐や行者狐、あるいはこの行者狸のしわざであることが多い。
だから、急に霊眼が開けたり予知能力が備わったからといって、必ずしも喜ぶべきこととはいえないのである。
なぜなら、行者狸によって霊能が備わった場合には、行者狸の霊流を強烈に受けるので、死後、その人の霊体も畜生道に堕ち、行者狸の子分となってしまうからだ。
そして、これは除霊などを行う霊能者の方々には特に注意しておきたいことだが、行者狸は生前、ある程度の超能力を身につけているので、霊界でもたくみに化けることができるのである。
狸や凶悪な霊を除霊したつもりが、いっこうに取れていないなどというのは行者理であることが多い。ありとあらゆる姿にコロコロ化けて、霊能者の目をごまかしているのだ。
また、除霊する除霊者の霊能力より行者狸の霊能力のほうがまさっている場合は、霊能者を翻弄して、せせら笑っていることもある。
それ故、除霊するときには、これをよく見抜く必要があるわけである。
要するに、行者狸の霊界は間違った動機で霊能力を会得した人が行く霊界なのである。
自分がなにかをしたいという欲心のために、霊能力、超能力を身につけようという人は、間違いなく死後、行者狸か行者天狗、あるいは行者狐、行者蛇になってしまう。その姿は普通のや狐、蛇などと何ら変わるところはない。それどころか、もっと凄まじい形相をしていて、力も大きさも並はずれている。
霊能力に興味を抱いている人に、あえてこの書をもって訴えたい。心の教養と人の道、それから正しい神霊学問を会得せずして霊能力を身につけることは、きわめて危険なことなのである。
くり返すが、その動機が自己顕示欲、所有欲、功名心から発していれば、必ず死後、行者動物霊となってしまうのである。
霊能力を会得しようとする前に考えていただきたい。どれだけ人や世に対する愛念があるのか。
どれだけ人としての誠の道をふまえて生きようとしているのか。なんのために霊能を会得しようとしているのか。
自らの心に、真剣に厳しく問い正していただきたい。生きているときも死んだ後も、幸せな人生を送るために。
