第七章 自分で因縁を切る法
死の“因縁”を切った清水次郎長の功徳
これまで、人間を病気や不幸に導く因縁霊とその除霊について述べてきたが、この章では、自分で悪因縁を切る方法について少しご説明しよう。
悪因縁とは最近では、仏説の深い含意より運がよくない原因を総称していう場合が多い。
その悪因縁を切るには除霊を受けるのが一番手っ取り早いが、他人の手によらずとも、自分自身の努力と精進で切ることができるのである。
否、むしろ除霊はあくまでも一つの手段に過ぎないのであって、自分自身で切るほうが天の法則に適っているといえよう。
さて、その方法だが、仏教徒などはよく「因縁が深いから」といって、お経をあげたり何千日の行を行うことがある。
しかし、そのような方法で本当に因縁が切れるのであろうか。以前、私が鑑定した人にその行を完遂した人があった。だが、実際のところを審神した結果は、いうまでもなく、前世の因縁、家代々の因縁、子孫の因縁どれひとつとして取れているものはなかった。
因縁、すなわち前世、今世の悪業の総決算はお経をあげたり行を積んだり、あるいはまた呪文を唱えるだけで、精算されるわけがないのである。
では、まったく無意味だったかといえば、そうではない。御仏にすがり、願を発して精進をやり通した志は善であり、守護霊はちゃんとその誠を受け取っておられたのである。
満行の直後、守護神の許しを受けて、より高級な守護霊に交替されていたことを付言しておく。
では、自分自身で因縁を切るのにはどうすればいいのであろうか。過去、自分自身で見事に因縁を切った人物がいるので、ここで、その人にまつわる話をご紹介しよう。
その人物とは山本長五郎。別名清水次郎長という。仁義に厚い大親分として歌にまで歌われているこの人物を知らない人はないだろうが、この人こそ知る人ぞ知る、自分自身で見事に因縁を切った人物なのである。
一人の修業僧が清水を訪れたときのことである。町を歩いていると、向こうから次郎長が子分を連れてやって来た。近づいてくる次郎長の顔をしげしげと見つめていたかと思うと、修業僧は急に立ち止まって、次郎長に告げた。
曰く、「あなたの顔には死相があらわれている。おそらく、一年以内に死ぬであろう」
見も知らない坊さんから突然、縁起でもないことを言われた次郎長、
「何を言うかクソ坊主」と言ったかどうかは定かではない。が、不愉快に思ったことだけは確かであろう。
ところが次郎長親分、さすがは東海一の大親分と謳われただけはある。一瞬腹を立てたものの、素直にそのお告げを信じたのであった。
「そうか、寿命が近づいているのなら仕方ない。どうせ死ぬなら、世のため人のためになることをしてから死のう」と、ご先祖からいただいた田地田畑を売り払い、地域の人々のために役立てたのである。
こうして、いつ死んでも思い残すことはない、と死期を静かに待っていた。が、お告げの一年が過ぎても死なない、二年たっても死ぬ気配すらない。それどころか、かえっ前より元気になった。
「あの坊主、ウソをつきやがったな」
こう思っているとき、先の修業僧が再び清水にやって来た。
「やい坊主、ウソ言っちゃいけねえ。ワシは死ぬどころか、このとおりピンピンしているぜ」
「そうですか。しかし、私はこれまで人の死期を見誤ったことはないのだが…。あなたは私と会って半年くらいしてから、何か変わったことをしませんでしたか」
次郎長は、田畑を売り払ったことを、ありのままに伝えた。
「なるほど、それでわかった。あなたはそうやって、先祖代々の財産を全部捨てて人々に尽くし、徳を積まれたから、死相が消えたのです」
それを聞いた次郎長は、自分の行いによって天から寿命をもらったことを深く感謝し、これ以後、歴史に名を残すほどの大人物に成長していったのである。
児玉誉士夫の幸運父、祖父に徳あり
もう一人、自分で因縁を切った人物がいる。今は亡き右翼の大物、児玉誉士夫がその人である。とはいっても、彼の場合は自分で切ったというより、彼のお父さん、お祖父さんが切ったといったほうが正確だが・・・・・・。
児玉誉士夫。「わが国最後の国士だ」「いや、ロッキード事件の張本人で犯罪者だ」と、
いまだに毀誉褒貶相半ばして、その評価は定まるところを知らないが、彼ほど財運に恵まれた右翼はほかにない。むろん、本人の才能や努力もあるだろう。だが、才能に恵まれ黙々と努力を重ねても開花しない人が多いことを考えると、本当に運のいい人物といわざるを得ない。
彼はロッキード事件で法廷に立つはずであった。法廷に立てば非難ごうごう、検察の厳しい追及を受けるのは目に見えていた。
ところが折りよく発病し、何一つイヤな思いをすることなく、死への旅に立った。本人はさぞかし残念であったろうが……。
死亡したのは不幸のように思われるが、検察や国民から厳しい追及を受けずに済んだという点では、まことに幸運であったといわざるを得ない。
ロッキード事件のもう一人の主役、田中元首相が一審で有罪判決を受けて国民の批判の矢面に立たされ、あまつさえ半身不随の苦しみを味わっていたのと対比すれば、彼の運のよさが理解できよう。
彼の場合も、徳に守られたのである。
彼自身も徳を積んでいるが、彼のお父さんとお祖父さんの代に、郷里で災害があったとき、田地田畑を売り払い、地元の人々のために使っていたのである。
その徳分が残っていたので、財産に恵まれたうえ、何度も何度も死地をまぬがれ、臨終に至るときも、前述した如くだったのである。
自分の心を娑婆浄土に
おわかりいただけたであろうか。因縁を切るには徳を積むことが大切なのである。一人でお経をあげたり修業をしていれば切れるというものではないのだ。人のために具体的に尽くすこと、これが肝心である。
ここで、少し理屈っぽくなるが、徳についてご説明しておこう。この宇宙がすべて陰と陽からできているように、徳も陰徳と陽徳とに分けられる。陰徳とはすなわち、人が見ていないところで行う善行を意味し、陽徳とは見聞することができる善行を意味する。
また、徳を積むには三つの方法がある。体施、物施、法施の三つがそれである。体施とは体で奉仕すること、ボランティア活動などがこれに当たる。
物施は文字どおり物を施すこと。献金寄付などがこれである。法施とは、神仏の教えを宣べ伝えることや、立派な教育を施すことをいう。
以上が徳についての概略だが、これら体施、物施、法施のいずれかの方法で徳を積むことによって、悪因縁は少しずつ晴れてくるのである。だが、徳を積むにも注意しなければならないことがある。
かつて、まぶたが閉じてしまう奇病を患っている方が私のところに見えたことがあった。霊視してみると、「こんなはずじゃない。
こんなはずじゃない」と、まっ暗闇の中でさまよっているお婆さんの姿が見えた。このお婆さん、生前は天理教の熱心な信徒であった。
天理教といえば“ひのきしん”といって、体施、物施、法施を徹底する宗教である。このお婆さんもご多分にもれず、人一倍”ひのきしん”を実践していた。だから当然、死んだら極楽浄土に行けると思っていた。
ところが、行った先はまっ暗闇、そこで、「こんなはずじゃない。こんなはずじゃない」
と言っていたのだが、このお婆さんは、この世でもあの世でもよく暮らしたいという心、つまり過度の”自分が救われたい”という欲望の想念で体施、物施、法施を行っていたのである。
霊界とは本来神が裁くものではない、自分が自分を裁くのである。つまり、自分の想念に相応した霊界へ行くのである。〝われよし”の心はまっ暗である。
だから、お婆さんはまっ暗な霊界に行ってしまったのである。
外見上は世のため人のためになることをしていても、動機と発するところの想念のあり方が間違っていては、せっかくの体施、物施、法施も水の泡。
あくまでも、世のため人のためによかれ、という気持ちで行わなければ、徳を積んだことにはならない。
清水次郎長にせよ、児玉誉士夫にせよ、因縁を切ろうという動機ではなく、世のため人のたという純粋な心で人々に尽くしたのである。
だからこそ、徳として天に積まれたのだ。霊界は心の世界と同じである。心に愛のある人は明るくてあたたかい霊界にいるし、銭勘定ばかりしている自己中心的な人は、まっ暗で冷たい八寒地獄にいる。
では、因縁を切るために厳しい修業を積んでいる行者さんは、どんな霊界にいるのだろうか。行者さんは確かに行を積んでいる。
しかしそれは、「因縁を切らねばならぬ」という使命感から発するもので、行を積まんがために積んでいるのである。つまり、修業自体の行為に執心しているわけだ。
そこには愛がなく、悲愴感が漂う。悲愴感は暗い。そして、みずから発する想念と、行をやり遂げようとする妄執の黒雲が、暗黒霊界を形成する。因縁を切るために行を積んでいながら、ますます暗い世界へ行く。
考えてみれば、こんな皮肉なことはない。
では、どうしてこのようなことになるのだろうか。思うに彼らは、まず因縁、因果と徳概念の基礎理解がなく、それから、想念が自己霊界を形成し、その自己霊界がそれ相応の死後霊界や顕黙霊界と符合することを知らないからである。
極楽浄土に行く近道は、この現世世界とかけ離れたところにあると考えているのではないか。だからこそ、彼らは人里離れた山の中で行を積み、悟りを開こうとするのである。
話は少々横道にそれるが、この山中修業の行者さんの発想は、日本古来の山岳信仰からきている。
役小角が始めた修験道も、山岳の清浄な気とそこに凝結する神妙の霊気を身に受け、身魂を清浄化して神明の加護と霊妙をさずかることにある。しかし、修験道の本旨、いや、役小角の真意はそんなところにあるのではない。
私は実際に、天界で役小角の聖霊にお会いして確かめたのだ。
なぜ修業するのかと問えば、「第一義は神明の加護により、国家と人々の安寧をはかることである。
第二義は、霊明によりて、巷に苦しむ諸々霊を救済することである。第三義は、山岳に眠る神威と霊妙および宇宙エルネギーの凝結神域を呼び醒まし、長久平和のために、顕幽神三界にあま神徳を弘むことである。
第四義は衆生済度の聖願にかなう己たるべく、父祖伝来の因果律を離れ、自己本来の明徳を明らかにするべく、研務修養を為すことである。
第五義は、日々精進の誠を輝かし、天地神明の道を成就するための根気と信念を培うため、苦修練業に耐えることである」
以上が、役小角の答えだったと記憶している。私は滝に打たれたことも、瞑想や行力修業をしたこともない。現世における生活修業以外には、正神界に感応する方法はないからである。
役小角の五義の趣旨もわかるが、神明の加護や因縁の決済は、あくまで日常生活と人間社会の凡庸な暮らしの中で為すのが主神の御旨である。
役小角ほどの大誠と素質、および天界からの特別任命なき者にとっては、先ほど述べ理由で、ほとんど正道成就は不可能なのである。
ところが、役小角の真意に心参すれば、やはり愛と至誠に一貫している。人里離れた山の中で行を積むという形だけを継承してはならないことがわかる。真意を継承しなければ本当ではない。
極楽浄土は人里離れた山中にあるのではなく、この現実の人間世界に生きる人々の心中に内在するのである。生きている人間の心の世界が浄土にならなければ、死んでから浄土へは行くことができないのである。
これが、弘法大師などの説く即身成仏であり、娑婆即浄土の妙諦である。生きている世界が浄土のように観じて初めて、悟りが開けるのである。
では、どうしたら一般の人々が娑婆即浄土になるのかというと、それにはまず、何ごとも明るく考えるように想念を転換する必要がある。
天理教のいう「陽気ぐらし」である。物ごとを明るいほうへ明るいほうへ考え、くよくよしなければ霊界は明るくなる。反対に何でも暗く考えれば、霊界もそのとおり暗くなり、娑婆即地獄となる。
さらに、娑婆即浄土にするためには、いろいろな思いを捨てなければならない。地位、名誉、権力、家族、恋、男性、金、仕事、怨み、などなど。これらに執着する思いがあるから心が重いのである。
重いから下に落ちて、地獄に行くのである。
そして、これらの思いを捨てなさいという教えが、ほかならぬ「般若心経」なのである。お金の執着を捨てなさい。恋愛の思いを捨てなさい。
この世には何もない。見聞きすることも何もない。すべては空で、何もない。何もなくて何もない。般若心経は、これほどまでに「何もない」ということを徹底して、「ギャーティー、ギャーティー」すなわち、此岸から彼岸へ渡れ、渡れ、地位、名誉、人間関係、恋愛、生への執着をすべて捨てて、渡れ、渡れと結ぶのである。
ここで、以上述べたことをまとめよう。
娑婆即浄土にしようと思ったら、まず慈悲の心、あたたかい愛の心を持つこと。次に明るい心を持つこと。三つ目は、ものごとに対する執着心をなくし、さっぱり軽やかで重みのない心になること。
この三つの心が必要である。この三つの心を体得しなければ、決して極楽に行くことはできない。逆にいえば、これさえ体得していれば、誰でも必ず極楽へ行けるということである。
修業をするにしても何をするにしても、明るく前向きに取り組む心、世の中がよくなってほしいという慈悲の心、きっとよくなるだろうというプラスの想念を持ち、執着心を捨てれば、娑婆即浄土とすることができる。
このように、娑婆即浄土の人となって初めて因縁が切れ、因果が晴れるのである。つまり、悪因縁とは霊障も含めた本人の性格と性質に住んでいるからである。
そして、このような心の状態を保ち続けるならば、守護神、守護霊がどんどん後押ししてくださるようになる。
心だに誠の道にかないなば
祈らずとても神や護らむ
菅原道真
心が誠の道と、神明の加護に価する姿勢をもって、娑婆即浄土にかなっていれば、神様はお祈りしなくても助けてくれる、という歌である。これが神人合一の極意なのである。
口と心と行いで因縁を切る
以上は基本霊界法則である。体施、物施、法施といっても、霊界法則に照らして行わなければ意味がない。くり返しになるが、「因縁を切ろう、因縁を切ろう」とお経をあげても、切れるものではない。自分の心を娑婆即浄土にしたとき、初めて悪因縁が切れるものである。
なにごとも愛の心をもって、明るくプラスになるように受け止めていれば、悪因縁もいつしか切れてくる。反対に、何でも暗く、そしてマイナスにとらえ、ものごとにこだわっていれば、その想念と同じような霊が憑き、ますます霊障因縁が深くなる。
このような人はいくら除霊しても、本人がマイナスの想念の霊波を出しているので、すぐまた邪霊・悪霊が憑くようになってしまう。
要するに、自分の想念のチャンネルを霊界のどのあたりに合わせているのか、極楽に合わせているのか地獄に合わせているのか、それによって、運勢が変わるのである。
心が明るくあたたかければいい因縁がつくし、暗く冷たければ悪因縁がつくというわけ。
だから、悪因縁を断ち切り、運勢をよくしようと思うならば、想念をマイナスからプラスに変えなければならない。
ところが、この想念転換は一朝一夕にできるものではない。なぜなら、マイナスに引っ張る強い霊が憑依しているからであり、長年の考え方のクセになってしまっているからである。
もっとも、本人がマイナスの波調を出しているからマイナスの霊が憑依しているといえなくもないが、蓄積された家伝の霊障を余儀なく受けている場合があり、とりあえずこれは除去しなければならない。これが除霊である。
「一度除霊してもらえば、もう何もすることはない」と考えている人がいるようだが、これはとんでもない間違い。
除霊がオールマイティではないのだ。除霊を受けたあと、いかに想念を転換するか、これが最も重要なのである。
只今に生き貫きて
神仙の人とたわむる
古本の山
余りある因縁雲も晴れにけり
素直心に今日たちもどり
天地に示す日のみち人問わば
心に残る慈悲とほほえみ
深見東州
第八章 守護霊との交流秘伝
守護霊は誰にでもついている!
これまで除霊に関する話を中心にご説明してきたが、最後に守護霊のことについて説明しよう。
とはいっても、守護霊の内容は実に膨大で、これをまとめるだけで一冊の本となってしまうほど。そこで、ここではその概略を述べるにとどめたい。
守護霊は、およそ人間である限り誰にでもついている。ついているといっても、邪霊や悪霊のように霊障をもたらすためにではなく、私たち人間を幸せに導くためについているのである。文字どおり、守護するためについているのである。このように書くと、「そんなの信じられない。
守護霊っていうのが俺を守ってくれているなら、どうして俺の人生はこんなにも悲惨になるのだ。病気、失業、貧困・・・・・・。
これはいったい、どうい「うことなんだ」
とおっしゃる方があるかもしれない。そういう気持ちもわからないではない。たしかに、運勢が悪ければ守護霊の存在を信じられなくなってしまうかもしれない。
だがしかし、守護霊は厳然として存在するのである。
ではなぜ、守護霊が守っているにもかかわらず、悲惨な人生を辿る人があるのであろうか。それは、霊障と前世のカルマ(業)、そして家代々のカルマがあるからである。
これまで述べてきたように、いくら守護霊といえども、邪霊、悪霊が憑依していては、その持てる力を余すところなく発揮することはできない。
それはちょうど、暗雲に遮られた太陽のようなものである。暗雲がたちこめているときは、太陽の存在そのものさえ信じられなくなる。それと同じである。
だからこそ私は、守護霊のお話をする前に、まず除霊について説明したのである。除霊をして背後の霊界を浄めれば、守護霊は一層働きやすくなる。
しかも、人間の側が、自分を守っている守護霊の名前を知れば、その働きは飛躍的に大きくなる。
また私たち人間にとっても、自分の守護霊がどのような方であり、何代前の何という人なのかがわかれば、大きな励みになる。
さらには人生の指針を得られるかもしれない。そこで、守護霊について説明しようというわけである。
自分の守護霊を知って人生を大きく飛躍させるコツ、守護霊に大きく働いてもらうコツ、守護霊と交信、交流するコツなどについて説明しよう。
守護霊がこの人たちを有名にした
守護霊のお話をする前に、守護霊とはどのような方であるのかを知っていただくために、私がこれまで鑑定した人のなかから、特別に公開することを許可していただいた方の例を二、三ご紹介しよう。
まずは、松本道弘先生。先生は同時通訳の第一人者であり、またわが国の英語界の重鎮でもある。松本先生の守護霊は奥渡禅師。松本先生の母方、井村家十五代前の祖霊である。
奥渡禅師は白隠慧鶴禅師(一六八五~一七六八年)の弟子。江戸時代、臨済宗中興の祖と謳われた白隠禅師のもとで修業を積んだ人である。
★松本道弘先生・略歴
一九四〇年大阪生まれ。関西学院大学商学部卒業。
日商岩井、アメリカ大使館、日興証券勤務を経て、NHK英会話講師。
現在、国際ディベート学会会長。主著に「「タイム」を読む」「「FEN」を聴く」「集団思考術」「GIVEとGET」「英語を掴む」他、約九〇冊。
◇守護霊からのメッセージ◇
羽衣に恵みをのせて
神仏導く真を人に述べなむ
新しき神仏識らしむ道ぞあり
一より学びて栄極めなん
道は遠いようじゃが、すぐそこにある。
教外別伝は、真に我が心願なり。
衆生に、奥渡は神人悟入の法を会得させんとして
汝に智を与うなり。
よくぞ今日まで、道を求め修し道を弘めたり。
私の心なく、俗状を離れて
しばし天の汝に知らす次の道、進路を求め悟らん。
必ずや悟る所大であり、弘がる道深く大ならん。
奥渡禅師
今度は、手相家の西谷泰人氏。西谷氏は若手の手相家として将来を嘱望されており、その円満な性格のため、広い交遊関係を持っていらっしゃる。特に芸能界での活躍は際立っており、これまでにも多くの芸能人が彼のところを訪れている。
西谷氏の守護霊は、西谷家の祖霊、大伴家持であった。いうまでもなく、六歌仙の一人、奈良時代の歌人である。
★西谷泰人氏・略歴
一九五四年、鳥取県生まれ。ヤギ座 A型。愛知工大中退。大学時代、十九歳でプロの易者となる。現在は作曲家としても活躍中。主な著書に、『トップになれる極意』『燃えつづけ運』『愛され運』『あっという間に幸運が来る』『的中手相術入門』などがある。
◇守護霊からのメッセージ◇
人間は生まれて死ぬまで天命は定まり
それを、陰界から易占いにてさぐる。
ここに汝の思い違いがある。
人は善徳、信徳、智徳によって、命運はあらためられる。
これに上まわるものこそ、信仰力であり、神徳なのである。
よく、これまでの方向の奥をさぐり
真を求め、布施のための手相鑑定、提言、示唆でありたまえ。
われは言辞の才、文章の才
神前の真摯なる心得をもたらすべく
知らせ、導くものである。
家持
次はミュージシャンの野呂一生氏。野呂氏は、フュージョン・バンドとして人気の高い「カシオペア」のギタリストで、バンド・リーダーである。
野呂氏の守護霊は、母方の笹森家の祖霊・大納言町丘之少将であった。平安末期に、宮廷音楽を担当され、万能に奏していた方である。野呂氏が一流ミュージシャンとして活躍されている理由が、おわかりいただけると思う。
★野呂一生氏・略歴
一九五九年生まれ。ヤギ座 A型。一九七六年、七七年と二年連続してヤマハ「イーストウエスト」コンテストでギタリスト賞を受賞。一九七六年「カシオペア」結成、七九年レコードデビュー。主な作品に「テイクミー」「朝焼け」「スペースロード」など。
◇守護霊からのメッセージ◇
しなやかに
うるわしききよくかなでつつ
かみをもとめし がくのまれびと
たまさかる はるのみやこにあれたまう
よきさまざまの かみのさかもり
町丘之少将
ちなみに、野呂氏の前世を鑑定したところ、なんと一遍上人であった。一遍上人といえば、鎌倉時代に全国を念仏遊行して仏教を民衆の間に広めた人物で、時宗の開祖である。
一方、野呂氏は、七六年に「カシオペア」を結成、特異なインストゥルメンタル・バンドとして個性を発揮し、日本国内はもとより、広く海外に活躍の場を求め、ヨーロッパ公演等を敢行し、大成功を収めている。いうなれば、踊り念仏をギターフュージョンにかえた現代の一遍上人とみることができる。
説く内容こそ、片や御仏の道、片や芸術の道と違ってはいても、その行っていることは符合することが多い。
聞くところによれば、「カシオペア」は結成後数年で、西ドイツ公演を皮切りに、デンマーク、オランダなどヨーロッパ各地のフェスティバルに出演、さらにはその後、シンガポール、バンコク、香港と、東南アジアで連続的に公演し、世界的評価を一層高められたという。
野呂氏は実に謙虚である。これほどまでに内外の評価を受けていらっしゃるにもかかわらず、「いや、時代に恵まれただけです」と、決して騙ることを知らない。そして、抜群の宗教理解と霊的感受性を秘めておられる。一遍上人もかくやありなんと思った次第である。
最後に、アメリカのミュージシャン、カルロス・アロマー氏の守護霊をご紹介しよう。氏は、知る人ぞ知る大音楽家であり、デビッド・ボウイ、ポール・マッカートニーらと作曲をするなど、世界を股にかけた音楽活動を行っている。一五〇〇万枚売れた「フェイム」も、彼の手によるものである。
氏が来日した折、縁あって守護霊を鑑定することになった。もちろん、この場合は日本語ではなく、英語で守護霊鑑定を行うわけである。
私は神道、仏教、キリスト教等、それぞれの宗教別に除霊を行い、外国人の霊が憑依している場合は、英語で除霊しているのだが、それは、守護霊鑑定のときも同じ。相手の霊界に合わせて、言葉を使い分けるのである。
ところで氏の守護霊だが、ジュリアス・メイスンという音楽家であった。この守護霊が背後で作曲のヒントを与えているのである。
さらには、このジュリアス・メイスンという守護霊のほかに、 Angel from the moon、すなわち月天使も守護していることがわかった。
そして、その月天使からのメッセージが届けられたのだが、氏はこれを見てたいへん驚かれた。これから作詞・作曲しようと思っていた内容がそのまま書かれてあったからである。
それで氏と意気投合し、惑星霊界の探訪にもお連れした。その様子は、当時私がラジオ日本でレギュラー出演していた神霊コーナー(『今夜もウェルカム』)で詳しく述べた。出演を快諾してくれた氏の好意に、感謝する次第である。
★月天使からのメッセージ
Music is god’s blessing.
Music is holly love experience.
Music is Jesus teaching.
Music is yourself.
Music is the voice of stars.
Music is energy of myself.
Music hates selfishness.
Music is Holy spirits’ concern.
Music is the fight of time.
Music is healing of people.
That’s my will.
守護霊のマツ毛、ホクロまで見える
守護霊。ひと言で表現すれば、私たちの身近にいつもいて、正しい現世修業ができるよう、こと細かに指導、守護してくださる霊、ということができるだろう。
普通、私たちの背後には何人かの背後霊がついていて、守護してくれているのだが、その代表格が守護霊である。いわば、背後霊団の窓口であり、チーフ背後霊であるわけだ。
一般に一〇代以上前の霊格の高い先祖霊が守護霊となる。霊格が高いとは、生前、修業を積んで学問を修め、道を極めて徳を養い、死後、霊界の高いところにいるという意味である。
だいたい第二、第三天国あたりにいる方が多いようだ。
したがって、僧侶、神官、行者、学者などが守護霊となっていることが多い。
「わが家の先祖に、そんな立派な人がいるのだろうか」と、ご心配する向きもあろうかと思うが、心配ご無用。必ずいるのだ。
十数代もさかのぼれば、父方母方両家系で、先祖の数はそれこそ数えきれないほどになる。そのなかには、必ずや立派な人が一人や二人はいるものである。
このように、先祖霊のなかでも特に格の高い霊が、私たち一人ひとりに密着して守護しているわけで、守護霊はいわば、私たちの個人教授といえよう。ことあるごとに、進むべき道を教え、アドバイスを与える。
しかし、守護霊は何でもかんでも教えるわけではない。人として努力する方向を、必要最小限だけ教えるのである。よく、
「私には、立派な守護霊がついていて、毎日のように耳もとで囁き、いろいろなことを教えてくれる」などという人がいるが、こういうのは守護霊ではない。狐か狸のしわざである。
正神界にいる守護霊は、当然のことながら霊界の法則をしっかりわきまえているので、決して人間界に必要以上に干渉することはない。
ただ、御魂を向上させるための努力の方向性を教えるだけである。あたかも、立派な父母が子どもを教育するように。
あまり教えすぎると、人間は努力しなくなってしまう。教育者としての守護霊の最大の眼目は、人間として正しい道を歩ませること、努力させることにある。それゆえ、あまり口をはさまないのである。
いろいろなことを囁き、さまざまなことを見せてくれる霊が憑いているようだったら、疑ってかかるべきである。
とまれ、このように、私たち一人ひとりに守護霊がついて守り導いてくれているわけだが、守護霊といえども、元は人間。
私たちと同じような感情をもっている。いくら守護し導いても、当の本人がそれを感謝するどころか、その存在さえ知らなかったらどうであろうか。
逆に、朝な夕なに守護霊を拝し、その守護の導きを感謝したらどうであろう。結果は明々白々であろう。
しかし、私たち人間の側にすれば、感謝しようにも守護霊が何という名前のどんな方であるのかがわからなければ、なかなか心が向かないのもまた事実。
そこで、自分の守護霊を知る必要が生じてくるわけだ。もちろん、名前がわからなくても守護霊の存在を認識して、気持ちを誠にして向かえば必ずや応えてくださるものであるが、名前がわかればそれに越したことはない。
それゆえ私は、より明確に守護霊を認識して、基礎レベルの神人合一の妙境を体得していただくため、神気、霊気までも厳密に映し出す守護霊描写を行っているのである。
その方法を簡単にご説明しよう。それは、霊感を持った昔の仏師や絵師がご本尊を描き出したのに似ている。
俗に、「観世音菩薩作、観世音菩薩像」というのがある。
「観世音菩薩がみずからの仏像をつくるのか」といぶかしく思うかもしれないが、もちろん、仏像を彫るのは仏師である。
ところがその仏師は謙虚であって、「自分が彫るのではない。彫らせていただくのだ」という気持ちでノミをとる。
すると、観世音菩薩ご自身が仏師の手を通して、かの神々しいお姿を徐々に現されるのである。ゆえに、そのようにしてできあがった観世音菩薩像は、仏師が自分でつくったとはいえないので、謙虚に「観世音菩薩作、観世音菩薩像」と表記するわけである。私の守護霊描写は、これとまったく同じである。
さらにご説明すれば、次のようなものである。
中国では昔から、千山というところで乱というのが行われてきた。これは、日本でいえば巫女への神がかりに匹敵するが、中国では、神霊に身を委ねた二人の男性が、手にもった算木で砂の上に神旨である文字を書き表すのである。すなわち、高級自動書記の秘法である。
現代では、台湾の道院紅卍字会というところで、この自動書記の秘法を行っている。
そこには、神霊が降臨する神聖な書画壇という場があって、やや現実世界に近い聖霊などが降りて来て、自動書記で書画を描いている。
この書画壇や扶乱の方法を、日常いつどこででもできるようにしたのが私の守護霊描写であるとお考えいただければ、わかりやすいと思う。
一般の人の守護霊は、扶乱の神霊ほど高級ではないので、これも可能なのである。
ただし、日常いつどこででも守護霊描写をするということは、それだけ多くの魔が入りやすく、また雑霊にごまかされやすいので、この点には十分気をつけなければならない。
また、当人に霊障や邪気などが多く憑いている場合があるので、除霊してから行うのを基本としている。
このようなわけで、守護霊描写を行うときは、八〇パーセントを書画壇のように自然無意識トランス状態とし、二〇パーセントは顕在意識を残して、法と理と文面と自己の霊感によって完全な審神をしてから、ひとつひとつを完成させていくのである。
この点が、書画壇や扶乱の自動書記秘法と根本的に異なるところである。
ところで、世に守護霊が見えるという霊能者は多い。だが、何代前の何という名前であるかまでわかる人は、ほとんどいないといえよう。
「あなたには立派な守護霊がついていますよ。光り輝いていて、お顔がよく見えないくらいです」
という霊能者もままある。しかし、はっきり言って、このような霊能者はあまり霊格が高いとはいえない。
光り輝いていてまぶしいというのは、その守護霊より低い霊層にいるからであって、高い霊層にいれば決してまぶしいということはなく、まつげの一本一本、ホクロのひとつひとつまではっきり見ることができるのである。
また守護霊だけでなく、もっと高次元のご神霊に関しても同じことがいえる。神人合一すれば、そのお顔のすみずみまでもはっきり見えるのである。
世界中には、このような神霊能力者が隠れたところに幾人もいらっしゃるのである。
守護霊と交信する… 守護霊にお願いする場合
守護霊が存在することがわかった。自分の守護霊の名前までわかった。さあ、いろいろと教えてもらい、大きく働いていただこう、と思ったものの、どうしたらいいのかさっぱりわからない。
「守護霊がわかったけれど、生活の中でどのように活かしたらいいのかわかりません」
という話をよく耳にする。そこで、守護霊との交信、交流の方法についてご説明しようと思う。が、その前にひとつだけ明確にしておきたいことがある。
それは、霊界における存在とは、強く認識して肯定すればするほど強く出て、あやふやに思っているとあやふやにしか出てこないということである。
つまり、守護霊の働きの強さは信じる度合によって異なってくるというわけ。常にこのことを自覚していただきたいと思う。
さて、守護霊との交信、交流であるが、まずは、自分から守護霊に発信するときの方法について述べよう。
発信といっても、別に機械を使って行うわけではない。自分の口と心で発信するのだが、最も大切なのは、具体的に声を出して言うことである。
いつどこででも発信できるが、できるなら正座をして軽く目を閉じ、
「守護霊様、今、車の買い替えで悩んでおります。どの車を選んだらいいのでしょう」などと、声に出して具体的に語るのが望ましい。
心のなかで思っているだけでも通じないわけではないが、言霊として口に出していえばより明確になる。
そして、ここ一番というような重大な相談ごとをお願いするときは、朝晩きちんと威儀を正して、心身共に新たにして行うことが大切である。
これは現実界と同じこと。上司や先輩に重要なことをお願いするとき、ジーパンやサンダルがけで出かける人はいないいわんや、守護霊はもっと位の高い方なのである。
威儀を正して正座をし、言葉を正して行うことが望ましい。
これを神道では、「こと分けて申さく」という。「こと」は「言」であり「事」であって、「具体的に、しかも威儀と言葉を正して申し上げる」という意味である。
このように、筋道を正してお願いすれば、「そうか、わかった。望みをかなえてやろう」ということになるはずである。
ところがなかには、「先生、このごろ、私の守護霊はなにも答えてくれないんです。ちゃんと正座して威儀を正してお願いしているんですけれど、どうしてなんでしょう」と訴えてくる人がいる。
威儀を正してお願いしても答えてくれない場合には、大きく分けて二つの理由が考えられる。
ひとつは、お願いそのものが天の法則、地の法則と照らし合わせて、どうしても受け入れられないようなものの場合である。たとえば、
「どうか、三〇〇〇万円の宝くじが当たりますように」
「当たり馬券を教えてください」
「どうか、あの憎らしい奴をこらしめてください」というような願いごとがそれ。守護霊といえども、何でもかんでも聞いてくれるわけではない。
人の道にはずれる願いごと、我利我欲から発した願いごとは聞いてくれるはずがない。人としての御魂を向上させ、社会のために役立つべく大きな志を持ったときこそ、大きく働いてくださるのである。
守る人を幸福に導き、天命をまっとうさせるべく、天から守護霊役をおおせつかっているからである。
ここらあたりが、稲荷狐などの動物霊と異なるところである。
稲荷狐は「動物霊論」(第四章参照)のところで詳しく述べたように、願いごとなら何でも聞いてくれる。
その意味では、稲荷狐は実にありがたい存在ではある。だが、稲荷信仰はまことにもって危険きわまりないことであることは、すでに述べたとおりである。
ともかく、正神界にいる守護霊は、現世利益というよりもっと人間の本質と人生の本義にかかわった部分に働いてくださるのである。
「将来立派な医者になって、病気で悩む多くの人々を救いたいと思っています。どうか東大医学部に合格できるよう導いてください」
このような願いのときは大きく働いてくれる。もちろん、本人の努力が何よりも大切であるのはいうまでもない。
が、この場合、合格できるだけの学力をつけるにはどうすればいいか、また、合格するにはどれだけの努力が必要であるかということを知らしめ努力を支える原動力となってくれるのである。また、
「ウーム、東大医学部か。ワシは生前、御仏に仕えていたので仏教のことなら何でも知っているが、医学のことはとんとわからん、数学も不得意だったし……」というようであれば、他の守護霊の応援を呼んでくるか、守護霊が交替する。
守護霊は何でも俺が、俺が”というような狭量の方ではないので、自分の力が足りないと判断した場合には、守護神の許可を得て応援を呼ぶか、必要とあらば密かに交替するのである。
応援を呼ぶということはつまり、背後霊を増やすことである。だから、志が大きければ大きいほど背後霊は多くなるのである。
普通の人は四、五人の背後霊がついているが、志の大きい人となると、五〇人、一〇〇人ついている人もいる。よく、大きな仕事をしている人で、見るからに迫力があって威勢のいい人がいるが、このような人にはたくさんの背後霊がついて守っているのである。
また、守護霊が交替すると書いたが、だいたい一生の間に守護霊は三回くらい交替するのである。
大きな志を立てたとき、大学に入学したとき、就職したとき、結婚したときなど、人生の大きな節目のときに交替するのである。
さて、お願いしても守護霊が聞いてくれない第二の理由であるが、それは、我と慢心が出て感謝が足りないことにある。
せっかく願いごとを成就してあげたのに、ありがとうのひと言もない。何でも自分の力でできたと思っている。これでは、積極的に働いてやろうという気にはならない。
守護霊とても元は人間、その感情は、私たちと同じである。
だが、同時に、反対に、毎日毎日感謝していたらどうであろう。
「ああ、感謝してくれてうれしいな。もっともっと働いてやろう」という気持ちになるに違いない。だから、できるだけ毎日、床に入る前などに正座して、
「守護霊様、今日も一日守ってくださり、ありがとうございました。明日もまた、よろしくお願いします」と挨拶してから眠るようにしたいもの。
さらには、“感謝の先取り〟という方法もある。これは、何でもかんでも守護霊のお蔭だと先に感謝してしまう方法である。
たとえば、体がクタクタに疲れて満員電車に乗っていたとき、目の前に座っていた人が、「お疲れのようですね。どうぞお座りください」と、席を譲ってくれたとする。
このとき、席を譲ってくれた人にお礼をいうのは当然だが、同時に「ああ、守護霊様の導きだな。ありがとうございます」と感謝するのである。
これがもし、守護霊の導きでなかったら守護霊はどう思うであろう。
「私がやってもいないことを何でも私のお蔭だと感謝されては、もっと守護しないわけにはいかない」と思うはずである。
それで、帰りの電車では守護霊がすすんで席をとって座らせてくれたりする。これが、秘伝の〝守護霊追い込み秘法”というものである。とにかく、守護霊に大きく働いてもらうコツは、何よりも感謝することにあるのである。
しかし、守護霊も甘くない。さすがに高級神霊である。”感謝すればいいのだ〟とばかり怠慢を決め込んで感謝に専念する人には、適当な人の口を通して、
「お前は依頼心が強い。もっと自分の足でしっかり歩む努力をせよ。そういう人間でなければ、誰も応援してくれやしないぞ」と、戒めるのである。教育係としての守護霊の面目躍如たるところである。
守護霊と交信する… 守護霊からの交信をキャッチする場合
次に、守護霊からの交信をキャッチする方法についてご説明しよう。
これにはふたつの方法がある。ひとつは直接内流というもので、もうひとつは間接内流と呼ばれるものである。
まずは直接内流。これはひと口でいえば、霊感や直感、あるいは夢などを通じて、パと教えられることである。
夢に守護霊が現れて直接教えてくれるとか、突如として胸にひらめく、というのがこれ。
「夢にご先祖様が現れて…」という話をよく耳にするが、これなど、直接内流の代表的なものといえる。
一般にこの直接内流は、直感や霊感などの感性がすぐれた人に多く、まったく感じない人も珍しくない。
次に間接内流。これは、ある媒介を通して守護霊が間接的に交信を送ってくるもの。先ほどの例のように、適当な人の口を通して戒めを伝えるのも、間接内流である。
また、たまたまテレビのチャンネルをひねったら、守護霊にお伺いを立てていたことの答えが返ってきたとか、本のページをめくっていたら、そのなかに答えがみつかった、
などというのも間接内流である。もっと具体的な例を申し上げよう。
ある人が家具を買うとき、一〇万円のにしようか、それとも五〇万円のにしようかと迷っていた。高いのを買うのはもったいないような気がするし、安いのを買っては安物買いの銭失い〟になりはしないか。
高いのにしようか安いのにしようか、どうしよう、どうしよう。そんな折、友人から電話があった。
「あのね、先日私、車を買い替えたんだけど、失敗しちゃったわ。ダメね、安物って。知り合いが安く売ってくれるっていうんで、ついその話にのっちゃったんだけど、ガソリンはくうわ、エンジンの音はうるさいわで、ホント、参っちゃった。修理に出したら、結局高くついちゃった。〝安物買いの銭失い”って本当ね」
これで決心がついた。五〇万円のを買おっと。
こういうのが間接内流である。こんな体験、誰でも一度や二度はあると思う。だがこのとき、
「あっ!守護霊が教えてくれているんだな」と、いったい何人の人が思うであろう。一生懸命守り導いても感謝されるどころか、自分の存在に気づいてさえくれない。
さぞかし、守護霊も寂しい思いをしていることであろう。もちろん、守護霊を務めるくらいだから徳が高く、感謝してくれないからといって守護するのをやめたりはしない。
しかし、感謝すればするほど大きく働いてくれるのである。感謝は、存在を強く認めることになるからである。
また、この間接内流では普通三回くらいダメを押して教えてくれる。人の口を通して教えてくれたり、本で教えてくれたり、テレビやラジオで教えてくれたりと、ひとつの相談ごとについて最低三回くらい教えてくれるのである。
これを神道では「クシロをとる」ともいう。神意の証をとるのである。歴代の天皇のなかに聖武天皇という方がおられるが、この天皇は、神亀という不思議な形をした亀が発見されたのをご覧になって、自分の代の治世を天が認め、祝ぎまつるものとしてこの瑞祥を慶び、年号を「神亀」と定められた。
これも、守護霊からの通信を謙虚に受けとるのと同じ発想であり、日本における古代からの神意受信の基本パターンなのである。
ところで、本人がよほど意識していないと、とかく見過ごしてしまうのがこの間接内流でもある。ボーッとしていては、せっかくの守護霊からのメッセージもキャッチできなくなってしまうのだ。
絶えず、守護霊に守られていることを強く信じ、人と話すとき、本を読むとき、守護霊からの声を聞くような心構えでいる必要があるのである。
このように、守護霊との送信、受信の方法を知って、少しでも守護霊を活用してほしいというのが、ほかならぬ守護霊たちの願いなのである。
子孫の幸福をただただ願い、また、守護神にその勲功を奉ずることがお役目だからである。
