第一章 念とは何か
念とは何か
この世には、さまざまな霊が存在するといわれる。通常、霊は、人間の肉体のように目で見て確かめることができないために、さまざまな説が入り乱れている。
本書は、除霊についてわかりやすく解説しようというものであるが、霊そのものを正しく理解していなければ、除霊という行為も誤った方向に向かいかねない。そこで、まず、霊とは何かを考えてみたい。
霊とは、肉体の内、外に存在すると考えられる精神的実体と定義づけられている。
これでは何のことかわからないが、人間とは肉体と霊とが一体化して存在するものであり、仮に霊が肉体から離れると、たとえば肉体が生命活動を行っていたにしろ、人間とはいわない。
いわゆる生物ということはできてもそれ以上の存在ではないのだ。
とすれば、人間の人間たる所以は霊にあるということになる。
人間の存在する所以とは何か。想念を抱くことだ。フランスの哲学者デカルトは、
「コギト・エルゴ・スム」=「我思う故に我あり」といったが、想念の中身はともかく、思う、考えることを絶対的基準に置いた。つまり、思う=念を抱くことが人間の証明といってよい。
ところが、思うのは人間だけではない。植物は植物なりに、動物は動物なりにいろいろと意識があり、思うのである。
ペットを飼ったことのある人なら、このことはよくおわかりになるだろう。その思いの中に、芸術観があり、学問観があり、信仰観があってこそ、はじめて人間としての思いとなるのである。
一言でいうならば、思いの中に文化があるといってよいだろう。
この文化という高度な思いの部分こそが、実は神魂といわれるものであり、私たち人間の、霊体に住む神なるところなのである。
それだから、芸術観もなく、学問観もなく、信仰観もない人間とは、人間の皮をかぶった獣であるといえる。
それで、そういう類の人間は、死ねば必ず畜生道に落ちることとなる。万物の霊長たる資格がないからだ。
ここが、デカルトが説かなかったところであり、人間理解というものを、神霊界の存在を無視し、有形世界のみでとらえたるあやまちなのであった。
以上のことを整理すると、「人間の本質とは高級なる霊であり、人間であることを証明するのは、文化的な念を出すことができることである」ということになる。
ところで、霊と念とはある程度置き換えることができる。たとえば、強い霊とは強い念を出すことができる霊であり、大いなるで生きている人の霊体とは、大いなるものである。
ところで、この念という言葉を分解すれば、今の心となる。「今、現在」の思いこそが、念なのである。
一方、霊という漢字がつく言葉や存在には、たたり霊、地縛霊、生霊や幽霊など、まことに沢山あって区別がややこしい。
だが、念即霊、現在の思いがすなわち霊の状態であると考えれば、その区別も、おのずから明白になってくる。たとえばたたり霊。簡単にいえば、「たたりをしてやるぞ」という念をもっている霊のことである。
「魂魄この世に留まりて」といった台詞が怪談に出てくるが、これは、その無念なる気もち怨念をこの世に置いていくという意味である。
また、「残念だあー」と思って死ぬ霊は、文字どおり念を残して死ぬ。
そして、その念を残す場所が土地ならば、土地と因縁をもつので、「土地因縁の霊」あるいは「地縛霊」と呼ぶ。後者は自分の念で自分を縛りつけ、土地に留まって動けないでいる霊だからである。
そして、もし、その場所が家、屋敷であれば、「屋敷因縁の霊」という。
また、とりたてて恨みや無念の思いもなく、己の死の自覚をもつことができず、漠然とこの世にいる感覚で霊界をふらふらしている霊のことを浮遊霊と呼ぶ。
この浮遊霊は、「今、自分がいかなる状態にあるか」「人間は、いかなる人も、死ねば、霊界に行かねばならない」ということを認識できないために浮遊しているのであり、人にとりついて災いをもたらすことも多い。
一方、この世にいかなる未練も残さず、死者としてあるべき本来の道を歩もうとする霊も存在する。それが普通の姿であり、すべての人はそうあらねばならない。
人は死ねば霊界に行く。そこで霊界人として新たなる生活を営むのだということを認識した霊が、一般に成仏霊と呼ばれる霊なのである。
また、この言葉は、あらゆる妄念妄想が浄められ、仏性が顕現した霊という意味にも使われる。
また、さらにその認識のレベルを高め、徹底した慈悲の心や現世を達観して精進するという、深き悟りの念をもつに至った霊のことを、菩薩位に達した霊と呼ぶ。
菩薩とは、仏道に励む釈迦の姿と同じきあり様をさしていう。
さらに、菩薩位の霊が一層揺るぎない想念のもち主となり、おのずから不動の霊格と悟りの位をもつに至れば、それを如来位に達した霊というのである。
如来とは、ある程度の天地自然法界の真相をきわめ、霊界や現実界で衆生を救える仏のことである。
人を救えるようになるには、最低、自分の悟った状態(菩薩位)が変動することがあって=はならない。
だから、如来位にして、はじめて人々の救済が正しくできるようになるのである。そして、この如来位の霊が行きつくところは、神位にある霊となることである。
ここでいう神とは、日本神霊界における神であり、内的高貴さと外的実行力に加え、万能であって芸術性に富んでいなければならない。
つまり、この神位をもっとわかりやすくいうと、「人間としてのあらゆる俗情を乗り越え、神のごとき愛、神のごとき知恵、神のごとき崇高な感性を備えた霊格をもち、それをこの世で実行し、やり貫いた人のこと」なのである。
白隠禅師や諸葛孔明、菅原道真などがこれである。
このように、善なる霊たちや、悪しき霊たちがさまざまな形で人間世界に関与しているのが霊界の実情なのであるが、これら善とか悪とか定義している霊とは、そもそも、その霊たちの発す念が善なるものか悪しきものかによって決まり、高い位とか低い位とかも、その霊たちの抱く念の種類が文化的に高いものか低いものかによって決定することを忘れてはならない。
また実行するということも、薄っぺらな念ではなく、真底まで徹した念ならば、おのずから行いとなって表れるもの。
だから、行動も、真底深い念の表れとして定義できるのである。
私の主宰するワールドメイトでは、全国各地で講演を行っているが、この講演で、「改心とは、ちょっとした心構えや想念を変えることをいうのではない。
本当に心が改まったら、心が変わり、言葉が変わり、行いが変わるはずだ」と、再三いっている。
心とは、口と心と行いを含むところまで広がりをもっているものだ。それを心の上部、中部、深部といってもよい。深いところに行くほどに、霊があり、魂がある。
ところで、本書のテーマである「大除霊」も、実は、たとえば悪霊の大除霊をするとは、悪霊の抱く悪念を改め、霊界生活を真にすばらしく実行していただくために改心させることをさす。
つまり、霊を改心させ、その霊を救済することで、悪霊を除くのである。だから、本当をいえば、「大除霊」よりも「大救霊」の方が適切な表現なのかもしれない。
念の自己管理が霊を使いこなす基本
霊にたたられ、つまり悪しき霊によって災いをこうむったという例は枚挙にいとまがない。
「墓参りに行ったら気分が悪くなった」「見知らぬ人が夜ごとに枕元に立つため、おちおち眠れない」というような、心因性の現象と片づけられがちな軽度の災いから、自分の意志とは関係なく、踏切で突然ハンドルを取られて事故死したり、発作的にビルから飛降り自殺を図ったりする。
後で調べてみると、その踏切は過去死亡事故が多発しているところであり、ビルは自殺の名所であったということが少なくない。
また、飛行機事故が連続して起きることも、皆さんはよくご存じのことだと思う。
こういった現象を単に確率の問題で処理しようとする向きもあるが、それには無理があり、霊が関わっていると考えるのが最も合理的であるといえる。
これらの霊の関わり方には、一定の条件がある。
条件を満たさない場合は、いかなる霊も、人に対しては影響を与えないものなのだ。では条件とは何か。霊と人との間に念波が通い合うことである。
ある局のテレビを見るためには、その局が発する電波の周波数にチャンネルを合わせなければならない。
それと同様に、同じ周波数の念波が通い合ったときのみ、霊は人間にはっきりとした影響を与えるのである。
ただし、念波の周波数とはメガサイクルといった単位で測定できるものではない。念の中身と強弱によって同調したり、共鳴したり、交流が行われたりするものだ。
暗い念に同調すれば、その人は、霊にひきずられるように暗い世界に落ち込むだろう。
もし、強い慈悲の念や求道の念を抱き続ければ、菩薩位や如来位の霊と波長が合い、それらの霊たちと邂逅することも可能である。
つまり、悪霊、善霊、高級霊、低級霊、いずれの霊に関わるか、言葉を換えれば霊に憑依されるのは、人間その人の念の抱き方に、すべてがかかっているというわけである。
天台宗の開祖、天大大師智顗(五三八~五九七年)は、「一念三千」の教えを説いた。
これは「今、現在出す一念が、三千大世界を駆け巡り、その一念の種類により、己の魂が天国界にも地獄界にも感通し、ひいては、その人が菩薩となるか餓鬼畜生の輩となるかも決定する」という教えである。
つまり、まさに、「ただ今」の一念こそが、善悪正邪天国地獄の分水嶺であるといっているのである。
したがって、悪しき霊との関わりを断とうとするならば、まず、自分自身がいかなる念を抱いているのかを正確に知り、もしも、悪しき念にやられているようであれば、深く反省するとともに、その念を速やかに転換させる努力をする必要がある。
人は、心のどこかに悪魔を棲まわせているという。これはいかなる聖人君子であっても同様である。
ただ、凡人と聖人君子との違いは、その悪魔を活動させぬよう、つけ入らせぬよう、自を戒め律することができる知性と修養があるかどうかの違いである。
この自らを戒め律することによって己の心から悪しき念、邪念を追い払うことができ、その結果、悪霊との関わりを断つことができるようになるのだ。
しかし、この自らを戒め律することほど難しいことはない。それさえできれば、誰も苦労はしない、と思っておられる読者も多いことだろう。
だが、戒めなければならない自分や律さねばならない自分とは、皆、はじめはわずかな一念からその端を発しているはずなのだ。
だから、このわずかな一念の端のうちに、いち早くこれを戒め、律してしまえば、意外に楽にやれるものだ。
ガン治療の早期発見の必要性と同じだと思えばよい。
だから、健康管理、自己管理、あるいは管理野球などという言葉があるが、それに倣えば、一念の自己管理こそが、自分で悪霊を除霊するための第一歩であると考えてよい。
霊を支配するくらいの意志力をもて
とはいえ、「一念の自己管理」は口でいうほどやさしくはない。食べ物を見れば食べたくなるし、裸の女性を見ればムラムラと妄想が湧いてくる。
お金が目の前に落ちていれば誰しもハッと思って、思わず懐に入れたくなるものだ。とかく、人間の念とは環境五感に大きく左右されるのである。
したがって、己の念を良い方向へ導くためには、何よりもまず、自分自身をすばらしい環境に置く努力を惜しまないことである。
そして、すばらしい念を誘う人や物を選んで、できるだけ自分の五感を善なる方へと向かわせる努力が必要なのだ。この努力によって、「一念の管理」の基本は確立されるのである。
自分で自分自身の環境を変えるのが難しかった時代。特に、カースト制度という自分の身分や環境を変えることが極端に難しかったインドなどでは、この基本は確立できなかったに違いない。
そこで、釈尊は、出家して成道せんとするお弟子たちに対して、「八正道」を盛んにすすめたのである。
「正見、正思正業、正命、正精進、正念、正定」――これは出家者が厳しく己を正して、上乗の悟りを得る場合にこそ生きるのであって、これを、情報と
刺激に満ちた現代の人たちが真に実行することは不可能である。
この中で、一般人にもおすすめできるのは、正しく苦集滅道の四諦の道理を見る正見と、それを正しく思惟する正思。
これらは、人生というものを知る意味で、極めて重要である。それに邪念を離れ、正しい道を憶念する正念。それから、涅槃に至る努力を継続する正精進ぐらいだ。
それ以外は、山に生き、山で死する行者さんか、社会生活を一切諦めた聖職者がめざす道である。
これを仕事をもった普通の人が実行するとどうなるか。まず、営業マンは全部会社をクビにされるだろう。
銀行マンはすべて融資係をクビにされ、受付け窓口に行かざるを得ない。
税務署員は、すべての脱税を摘発できなくなり、税の徴収率は極端に落ちて、国家予算の歳入は大幅にダウン。国家財政の危機を迎えることはいうまでもない。
若者は、世の中のすべてが汚濁に染まり、世界中の人は全員悪人であると実感するに違いない。
だから、学生は社会に出ることを極端に恐れ、社会に出て悪に染まることを忌避するあまり、留年を続けることとなる。
また、「八正道」ができていて、世の中で出世をしたり、人から尊敬される立派な活動をしている人はただのひとりもいない。
資産家の子供以外は、財運を手にすることはむろん皆無である。
若者は、やがてそのことに気がついて、現代で「八正道」を貫くためには、社会で出世をしたり、複雑に揺れ動く人々の心をとらえて大活躍することなどは、不可能なことであることを痛感するのである。
むろん、自由主義陣営における積極的な経済活動などは、すべて諦めざるを得ない。
商社マンは当然出世できないから会社やめて、比較的「八正道」が妨げられない喫茶店の経営か、税務署以外の地方公務員の道しか選べなくなる。
これが、「八正道」をまじめにめざし、心掛けてきた若者たちとの数多くの出会いによって、私が知り得た事実なのである。
「八正道」は、一部を除き、日本の若者をだめにする。これが私の結論である。
「大和魂」をふるい立たせ、少々の悪など意に介せず、大善をめざして己を磨き、社会に立ち向かっていくという勇気が失せてしまうからだ。
もし自分が小悪に染まってしまったとしたら、「みそぎ祓い」をして、ますます大善を行うべく勇気と根性を輝かせよ、というのが「惟神の道」の教えである。
「八正道」とは大きく異なっていることがおわかりになるだろう。
二千年以上も続く、日本という文化の土壌には、明るく積極的で、常に発展を旨とする「惟神の道」が中心に脈々と息づいているのである。
だからこそ、仏教でも、大乗仏教系の積極的な法華思想や阿弥陀仏信仰などが、今なお盛んなのである。
そして、自由闊達・融通無碍の禅宗が、日本文化に根強く受け入れられている理由もそこにある。
釈尊が成道するまでのプロセスを大切にする、小乗仏教系の教えが、日本文化としてあまり根ざさないのも、神道が根幹にあるためだ。
小乗仏教の最たる「八正道」は、そのまま工夫なく受け入れてしまうと、日本人の心と霊と魂とをせせこましく、
歪にしてしまう。特に、出家者でない人が、若いころにこれをまじめに実践したら、必ず現実の社会では何の役にも立たない。悪に真正面から立ち向かえないふ抜け青年となることだけは断言できる。
だが、私も、良き念を維持するために儒教でいう「四勿主義」をすすめている。「非礼見る勿れ、聴く勿れ、言う勿れ、動く切れ」というものだ。
「八正道」の半分の律である「四勿」であるが、顔回はこれで亜聖といわれるまでになった。それほど、言うは易く行うは難しのことなのである。
これとても、過度にとらわれて実践すると、社会常識を大幅に逸脱するほどの消極的な「潔癖性」に襲われる。著書で必ずただし書きをしている所以である。
だから、もっと明るく、積極的で、発展的であるように、という願いを込めて、「自分自身をすばらしい環境に置く努力を惜しまないこと。
すばらしい念を誘う人や物を選んで、できるだけ自分の五感を善なる方へ向かわせる努力をしよう」というふうに、明るさ、積極さ、発展性を尊重した態度をすすめたのだ。
次に、この基本の上に立つ「一念の管理」の中心は、念の種類によって、それが悪霊を呼ぶものか善霊を呼ぶものかの区別があることを知って、絶えず自分の念の中身を分類するくせをつけることだ。
簡単にその区別の基準を示そう。
まず善なるものは、「明るく、前向きで、積極的で、発展的で、協調的」である。
ところが、悪しきものは、「暗く、退廃的で、消極的で、批判的で、猜疑的」なものである。
この分類が瞬時にできて、悪いものはパッと切り捨て、善いものにパッと乗ることができれば、「一念の完全管理」ができていることになる。
では、どうすればそれらがやりこなせるようになるのか。
本書では、この後に具体的努力の方法を呈示している。たとえば念と自分を切り離す工夫や、善念をつくり出す学問の必要性、また、経と祈りの活用法など、でき得るかぎりの方法を紹介している。
霊という、目に見えず実体を確認することも難しい存在を、念と置き換え、さらに進んで、主体的に「一念の管理」を行うことで、霊に支配される側から支配する側に立場を換えることが可能なのである。
そのことを知っていただくことが本書の第一のねらいであり、大除霊をしてもらう側から、大除霊をする側へと、ひとりでも多くの方が脱皮していただくよう願っている。
守護霊と低級霊
多くの人は気づいていないが、いかなる人間にも霊がついていることは、霊界、人間界を通じての公理である。たとえば守護霊がそれである。
この霊は、ついている人間が聖人、義人であろうと、どんな悪人であろうと、その人を守り続ける存在なのである。
本来、守護霊とは人間を幸福にするべく守護し、本人の天命に添って生きるように、霊界からバックアップして善導し、その人の善の魂の成長を第一として教育指導する霊のことである。
また、守護霊は一人にひとつの霊がつくだけとは限らない。普通の人で十人から十五人、多い人で四、五十人、あるいはそれ以上の守護霊が守護している。
正式には、これらの霊のことを背後霊たちと呼び、集団で守護している状態のことを背後霊団と呼ぶ。
そして、そのリーダー格の霊であり、その人間の成長と働きに最もふさわしい個性と霊力を備えている霊が、その時期の守護霊という役に任ぜられるのである。
だから、一般に幼年期、青年期、壮年期というふうに、守護霊とは一生涯に四~五回交替することが多い。もちろん、人によっては一生涯にただ一人の守護霊ということもある。
ところで、守護霊とは言葉を換えていうならば、背後霊集団の窓口となり、それらの霊の代表として強い力をもつ霊のことだと思ってよい。
私たち人間は、いかなる者であろうと善なる霊の集団である守護霊団に、一日二十四時間絶えず守護されているはずなのである。
というと、疑問を抱く人がいるかもしれない。
「ならば、どうして世の中に悪人がいるんだ」「なぜ不幸があるんだ」
「そんなにありがたい守護霊とやらに、誰もが守護されているなら、みんなが幸せになるのではないか?」
「いや、世の中なんてどうでもいい。この俺が不幸なのはいったいどういうことなのだ」
たしかにそのとおり、もっともな疑問である。
その疑問にお答えしよう。
私たちには守護霊がついているということは間違いない。しかし同時にまた、私たちには悪霊もついているのだ。
地獄界で苦しんでいる悪霊がつき、人を同じ境遇に引きずり込もうとするために不運、不幸が生じるわけである。
正確にいえば、不幸の根本的原因は自分自身と自分の家のカルマ、つまり悪因縁という無形の霊的運勢にあるのであって、悪霊は表面的な原因にすぎないのだが、直接的には、悪霊の存在が諸悪の根源であると考えてよい。
さて、ひと口に悪霊といっても、その種類はかなり多い。地縛霊、浮遊霊、生霊、地獄に堕ちている先祖霊、たたり霊、水子霊と、その主なものをざっとあげただけでも五指に余ってしまうほどだ。
これらが人間にとりついて、不幸、災厄をもたらすのである。
もちろん、自らの発する悪念波も、悪霊の一種として数に入れておかねばならない。人間がこの世で出くわす不幸の話は、死、病気、貧乏、家庭不和など、これまた数えあげたらきりがないが、そのほとんどの直接的原因が悪霊の仕業なのである。
つまり、人には、良い霊としての守護霊がついてはいるが、その力を打ち消したり、弱めたりする悪霊もついているのである。
守護霊と悪霊という相反する性質と目的をもった霊の影響を、絶えず受けているのが、霊界から見た人間の真実の姿なのである。
そして、どちらの影響をより強く受けるかによって、幸福か不幸かが定められるわけだ。
守護霊のもつ力と働き
ここで、もう少し詳しく説明してみたい。
人は一日二十四時間、一年三六五日、片時も離れることなく守護霊に守られているのであるが、その守護の形には間接守護と直接守護とがある。
間接守護とは、守護霊が霊界から遠望し、様子をじっと見守っておられる状態のことをいう。一方、直接守護とは、直接神がかって霊力を発揮されることをいうのである。
後者の状態を霊視能力のある者が霊視すると、ちょうど二人羽織の芸をしているのと同じように見える。
また、背後霊団がこぞって直接守護しているときには、背後霊が合体ロボのように合体して大きくなり、「アラジンと魔法のランプ」に登場する巨人が、アラジンを腕にかかえて踊っているような感じとなる。
鍛練した芸人が舞台に立つと大きく見えるのは、こういう霊的な背景があるからなのだ。
ところで、守護霊が間接守護を行うか、直接守護を行うかは、その人の置かれた状況による。
結論からいえば、その人が悪霊に支配されてひたすら邪悪な思いにひたり、精進、努力、進歩、向上に励もうとしないときには間接守護を行い、悪霊なんかに負けるものかと、自発的に魂が勇猛の気に輝いたときや、困難を承知で立ち向かっていくときには、直接守護をなさるものなのである。
とはいえ、ふがいない状態に置かれているときや、偶発的な行動のために生命の危機に陥った場合にも、直接守護が為されることがないわけではない。
なぜなのか。いったい、いかなる理由で、守護霊たちはそういう動き方をするのであろうか。
それは、守護霊とはあくまでも人を守護する霊であり、人生の主体は、その人自身のご本霊、すなわち自己の御魂の働きにあるからだ。
したがって、たとえ一時的にせよ悪しき心を抱いたり、軽挙妄動に走ったにしても、それが本人の御魂の成長の過程として必要な経験であるならば、そんなときでも直接守護を惜しまないことがある。
しかし、いくら当人が苦しんでいても、直接守護することが本人を甘やかすことになったり、増長させることになると判断した場合は、じっと腕組みをして間接守護で見守っておられることとなる。
子供を立派に育てようとする賢明な父親の、深くて冷徹な智恵と、未来を見通す目に裏づけられた、大いなる愛を守護霊はおもちなのだ。
ある人堽が、これに対して、悪霊は逆だ。
その魂の進歩向上や成長などはどうでもいい。霊は肉体がないので、その人間にとりついて、思考や言動、情感までもあやつって支配することで、その霊の欲望を満たし、自由自在にあやつるという満足感を覚えようとするだけなのだ。
悪霊にとりつかれてどうすることもできないとき、「こんな自分は生きるに値しない」と意を決し、悪霊にとりつかれたまま自己の脱皮を図ろうとして立ちあがった刹那、守護霊が現れて、「よくぞ立ち直った、守護いたすぞ」と、そのときはじめて直接守護されるのだ。
もちろん、そのときに、守護霊団が悪霊たちを追い払ってくださるのである。
つまるところ、自分の一瞬一瞬の生き様や思いきりが、すべてを決するのであるから、他人ごとのように、何ごとも霊のせいにする態度はよろしくない。
霊に敏感な人は、特にこのことを肝に銘じておくべきだろう。
性格改善が運勢を変える
霊の与える影響とはさまざまであるが、最も直接的に影響を受けるのは性格である。
暗い性格、明るい性格、退廃的な性格、前向きな性格と、人は千差万別だが、性格が形成される過程では、霊の存在が大きく働いているのである。
たとえば何を見ても自分本位にしか考えられず、他人の幸せを願う心など露ほどもない、非常にエゴイスティックな人は、悪霊の影響を全面的に受けているといっていい。
こういった人は、その性格ゆえに自らの運勢を閉ざしてしまい、社会的に活躍する場を失ってしまうことになるのである。
何を見ても聞いても、マイナスの方向にしか受け取れず、夢や希望などまったくない、やたらと暗い人もまた、悪霊の影響を強く受けている人であり、その性格と想念ゆえに、不幸の種を自ら蒔いてしまう。
これとは反対に、明るく発展的で、世のため人のためにという心をもっている人は、守護霊の影響を強く受けているといえる。そして、その愛念に満ちた明るい性格のゆえに、幸福な人生を歩むことになるのである。
もちろん、実際には複雑にして不可思議なる存在である人間が、こんなに単純に割りきれるものではない。
エゴイスティックだが明るい人、世のため人のためという心はもっているものの退廃的な人、といった具合に、複雑に絡み合っているのが現実だ。
だが、どんなに複雑に錯綜していようと、それぞれの性格の背後には、目に見えざる霊が絶えず存在しているのである。
そしてまた、性格がそれに合った想念界を次々とつくり出し、その想念界の色や波長に合った霊を呼び込むのである。
このことは、性格という文字を見ても、わかることである。性を分解すればと生になる。←とは心ということであるから、すなわち「生まれながらの心」が「性」なのである。
また「格」は「いたる」と読む。つまり、「生まれながらの心がったもの」が「性格」なのである。
したがって、生まれながらの心がどのような変遷をたどったかによって、その人の性格が決まるわけだ。
そしてまた、その性格が、常時念波を送信する想念の発信源にもなるのだ。
ところで、性格を決定づけるものは環境だけではない。親の躾と本人の資質、そして、与えられた環境の中で何を考え、何を思い、何を心に焼きつけたのかによって性格は決まる。
そして、この焼きつけるという行為の間に、先祖霊や土地の霊や守護霊などの抱く念と霊気も同時に焼きつけられるのである。
そういった意味からすれば、よき性格を形成するためには、よき社会的環境とよき霊的環境とが必要であるといえよう。
では、いったん悪しき性格を身につけてしまった人は、いったいどうすればよいのであろうか。
「生まれながらの心が今日まで拾った結果」が今の性格であるから、新しくよき心を抱き善行を積み重ねていけば、やがては善なる性格が新たに形成されるのである。
この過程を修業と呼ぶのである。つまり、性格の中にある悪業を修めて、善なる業を創造していくことなのである。
まずは、心がけからはじまって、日々の心得となり、刻々の念まで管理できるようになれば、性格は一変する。
守護霊の力も絶大となるだろう。なぜなら、そういう努力を守護霊は最も喜ばれるからだ。
ところで、守護霊のバックアップを強く受けている人とは、物事にこだわりが少なくて明るく元気、そして積極的な人だ。
彼らは一層多くの善霊を呼び込んで、ますます幸せになっていく。反対に、悪霊の影響を強く受けている人とは、物事に固執する暗くて消極的な人である。
そのような人は、どんどんと悪霊を引き込み、ついに不幸の坂をころがり落ちることとなる。
もしあなたが後者なら、一刻も早く、自らの性格改造を真剣にはじめるべきだろう。
しかし、そうはいっても「性格を変えられるものならば変えてみたい。何度そう思ったかしれないが、その都度だめであった。
そういう、性格の一箇所すらも変えられない性格に、われながら情けない思いをしている」という人も多いだろう。
それには、やはり、ひとつのきっかけというものが必要となる。
性格を変えざるを得ない環境や、変えねばならない責任感というものが、そのきっかけとなるのが普通であるが、これから紹介する除霊、あるいは悪霊からの救済が、性格にまとわりついている黒雲を払いのけ、性格改造をやりやすくする大きなきっかけとなり得るものなのである。
実はこれが運勢全般をよくする最短の道ともなるものなのだ。
霊界や除霊の基本となることがらに関しては、私の九十余冊の著書のうち、最初に刊行した『神界からの神通力』(たちばな出版刊)に詳しいが、本書では、もう少し角度を変えて掘り下げてみたい。
素直さが特に大切
私たちの性格に覆いをかけたり、守護霊や幸福との間を妨げる雲となっている悪霊たちは、具体的にはどのようなものか。
NO.1… 生霊
NO.2… 水子霊
NO.3… 家代々にその子孫を呪っている怨念霊
NO.4… 変死、事故死の先祖霊
NO.5… 地獄界から救いを求めてついている先祖霊
NO.6… 淋しかったり、苦しかったりするので、救いを求めてついている浮遊霊
NO.7… 断末魔の苦しみを何とか救ってほしいのでついている地獄霊
NO.8… 仲間がほしくて、一緒に死ぬことを促す屋敷霊
NO.9… 粗末にしたり、とり壊したり、しばしば近くに通りかかったりするという理由でとりついたり、強烈な仕返しをする稲荷狐
NO.10… 井戸を壊したり、粗末にすることによって水霊が凝結変化し、たたっている水蛇龍
NO.11… 樹齢が百年以上経っているのにもかかわらず、無造作に伐採したことによりたたっている木霊
NO.12… ご神木を伐ったり社をとり壊すなど、神仏罰のたたりとして怒っている蛇神、龍神、天狗
NO.13… 無益な殺生を大量にすることにより、呪ってついている鳥、動物、昆虫の霊
NO.14… 霊能者や過激な宗教団体などにうごめく、教団霊、霊団霊、兇邪鬼、冥邪鬼、凶衰鬼、狂魔鬼
これらの悪霊の影響から逃れるためには、どうすればいいのだろうか。何よりもまず、よき人格だけが本当の自分の人格だと信じることである。
マイナスの方向へ引っ張る人格は全部偽りの性格である、と確信することだ。マイナスの低級霊集団によってつくり出された人格だから、こんなのは自分ではないと、自分から決め込むことだ。
こうして、暗くて重くて退廃的なマイナス人格を、徹底して否定し続けると、自然にプラスの人格が自分の方に引き寄せられてくる。
守護神や守護霊、産土の神様などによって背後から押し出されてくる「前向き」で、「発展的」で、「明るく」て、「芸術的」で、「調和」をもち、「人を許す」というプラスの人格こそが、自分のご本霊が本来願っている人格なのである。
この人格のみが自分だと思って確信すればよい。この確信する力が意志の力となり、悪霊を自分で払いのける、自力不動明王の利剣となるのである。これが、念と自分を切り離す工夫なのだ。
しかし、マイナスの人格を否定するのは、そうたやすいことではない。そのためにはひとつ、重要な条件を満たさなければならない。
その条件とは、善の人格を確信する意志の力を持続させることである。確固たる意志の持続力がなければ、マイナスの人格を否定し続けることなど、とても不可能なことだといわざるを得ない。
反対に、意志の持続力さえ身に備えれば、自己に内在するマイナスの人格を払拭することができるということになる。
この観点から除霊を考えてみる。意志の持続力で内在するマイナスの人格をたたき出し、プラスの人格が自分のすべてを占有したら、それはすなわち、悪霊をすべて除霊したことになるのだ。
では、どのようにすればその意志の持続力が身に備わるか。それにはまず、「意志の持続力は誰でももてるものなんだ」と信じて念ずる信念の力、そして強烈な念力をもつ努力が必要である。
念力の強弱に関しては、体力、筋力、神経の力が大きく作用するので、身体を鍛えるということも大切なポイントとなる。
ところが、体力と信念だけの人とは、一度大きな挫折を味わうと、絶望の淵から立ちあがって、強い意志を回復させることが困難であることが多い。
だから、本当に強い無敵の意志の力を養うためには、絶えざる学問への精進と教養の錬磨、そして正しい信仰力の三つの要素を養い、自分の人格をもうひとりの自分が正しく見つめるということが必要なのである。
さらに、学問と教養と正しい信仰力を得るにはどうするか。それはまず教育である。
「悪いものの考え方をしてはいけない」「暗い心をもってはいけない」「絶えず挑戦して、明るく前向きで、常に積極的に生きなさい」「人にやさしくしなさい」などと、子供のころから、このような躾と教育を受けた者は、悪い霊の影響を受けることも少なく、たとえ受けたとしても自力で除霊することができるのである。
小さいときから素直に育てられ、明るく積極的で、発展的な性格のもち主は、すでにして悪い霊を受けないような存在となっている。
いわば、自然除霊がなされているので、改めて努力せずとも、善い霊を呼び込むことができるのである。
しかし、すでにそういう教育が十分でなかった人たちは、どうすればいいのだろうか。人の何倍も克服する努力をして、頑張りとおせばいいのである。
その努力した分だけ、乗り越えた分だけ、もともとある人に比べて、人を導き教育できる立場の人となれる実力が備わるのであるから。
さて、前者のような状態に子供を育てられるかどうかは、ひとえに親の教育にかかっているといってよい。
明るく素直で発展的な人格になるべく教育することが、幸福の人となるには最も重要なのである。
親の責任でもあるのだが、その中でも「素直さ」という要素が特に大切なので、ここに詳しく述べておきたい。
素直の「素」という字は、分解すると「主と糸」になる。素直とは主から糸が垂れて直ということを表している言葉なのだ。
では、その主とは何か。一般的には宇宙の主神を意味するが、自分自身のご本霊のことでもある。禅宗では、これを「御主人公」と呼ぶこともあるくらいだ。
したがって素直とは、宇宙の主神に対して素直であるという意味と同時に、神様からいただいている、自分の中の最もすばらしい部分であるご本霊に対しても、素直であるという意味もあるのだ。
素直な人間の存在を、誰よりもまず喜ばれるのは神様である。
そして、さらに自分自身の御魂もこれを喜ぶ。それは、素直な人はご本霊となる魂を、そのまま表に表現できるし、実行もできるからなのである。
もし、我が強い人間である場合は、その分だけ悪霊に御魂を占領されてしまうが、素直であれば、守護神、守護霊などの善神善霊との距離が近いので、強く間近に守られることになり、その結果、悪霊がもたらす霊障も少なくなる。
教育の大切さを、あらためて認識せざるを得ない。
前世のカルマと生まれ変わり
ところが、教育という言葉は誤解を招きやすいところがある。上級学校に行けば、それだけ教育を受けることができる、
学歴がない者は教育が不足しているという一般的な認識があるからである。
だが、ここでいう教育とは、学校教育という狭い意味のものではない。躾であり、人格教育であり、全人的な教育のことをいっているのである。そうすると、
「ああ、俺はロクでもない教育しか受けなかった。俺の人生が暗くなったのも、すべてはオヤジとオフクロの責任だ」などという人がいるに違いない。しかし、それは大きな間違いである。
自分がどういう親のもとに生まれてきたかは、それなりの理由があるのだ。その理由を考えることなく、己の親を責めたり、ぐちったりするのは、あまりにも単純かつ無反省な人物であるといわざるを得ない。
では、その理由とは何か。一言でいえば、自分の前世のカルマである。カルマとはのことであるが、人間は誰しも、自分の前世のカルマにしたがう形で、それぞれの家に生まれてくるものである。
もちろんカルマがすべてなのではない。カルマとは善きにつけ、悪しきにつけ強い傾向となって人生の中に表れ出てくるものだ。
そして、それを結実させ、現実化させるものは、人間のただ今ただ今の努力であり精進であるのだ。
だから、努力してその悪い人生の傾向を克服した人は、悪いカルマを努力で乗り越えたことになる。
たとえば、前世において親に対して悪行をふるった御魂があるとしよう。
するとこの御魂は、子供を虐待する親のもとに生まれ変わって、前世の報いをさせられることになる。
その際、具体的にどこの家の子として生まれるかは、産土の神の命ずるところであって、本人には選択の余地はない。「あの家はいやだ」といっても、強制的に生まれ変わらされてしまうのである。
これに対して、前世で身を律し、修養を積み、人倫の道を守った霊は、どこに生まれ変わってくるか、ある程度、あらかじめ自分の意志で選択することができる。
たとえば、ピアニストの中村紘子さんの場合だ。彼女は三歳のときから一流ピアニストについてピアノを習ったということだが、彼女は、英才教育を施してもらえる家をあらかじめ知っていて、生まれ変わったものと考えられる。
そのあたりの事情を、会社の人事異動にたとえていうならばこんな具合になる。
一般的に、優秀な社員が栄転する場合には、「ここ数年はニューヨークで苦労したから、今度はオーストラリアの方でしばらくリラックスしてみないか」などと、前もって本人に打診することが多い。
反対に、左遷させられるような社員には、打診もなしにいきなり辞令が発せられる。
このように、御魂の前世のあり方が霊界の位置を定め、そのときに積んだ善し悪しのカルマと、生まれ変わり死に変わりして累積した善し悪しのカルマとが合算され、人がこの世に生まれてくるときの環境が決定される。
ただし、いったん現世に生まれ出た人間の御魂からは、前世の記憶は消されてしまっているので、本人にはそれらの自覚はない。
もしその記憶があると、多くの場合、現世の修業の妨げになるからである。
現世的努力が霊をコントロールする最大の鍵
前項で述べたことでもわかるように、親からどんな教育を受けようと、すべてを親の責任に帰することはできない。
もし、やむを得ない両親の事情で、どうしても十分な教育の機会が与えられなかったとしたら、それはすべて自分が悪いのである。
だが、そうだからといって、あきらめる必要はない。教育の場とは、自分が教育を受ける気があればどこにでもある。
何も学校に行くだけが教育ではないのだ。あらゆる場を自らの修業の場として努力すればよい。
努力することを忘れて、前世のカルマが重いの軽いの、親が悪いのいいのと、いつまでも嘆いているのは愚の骨頂というものだ。
一日でも早くそのことに気がついて、今日こそは、今日こそはと思って学問を積み、教養を修め、大いなる天地の目というものから自己を見つめる努力をすることである。
そうすれば、自分を取り巻く低級霊が去り、守護神、守護霊などの善神、善霊が自然と前面に現れて、自分のご本霊も発動するようになることを約束しよう。
ところで昔は、現代に比べて情報や教育環境などを含め、多くの分野でより劣悪な状況に置かれていた。
しかし、人々は、教育、修養に熱心につとめたのである。そのことは拙著「大天運」(たちばな出版刊)でも書いた儒教の言葉、「修身斉家、治国平天下」に象徴的に現れている。
天下を平らかに治めようとするならば、よく国を治めなければならない。国を治めようとするならば、自分の家をビシッと斉えなければならない。
そして、その家を斉えようとするなら、よく自己を修めなくてはならないのである。
だから、すべては自己を修めるということからはじまるのだ。―――これが、「修身斉家、治国平天下」の意味なのである。
が、昔の人は霊、霊界などととりたてて意識もせずに、学問、教養、道徳面での努力を惜しまなかった。そのため、悪霊の災いを受けることを、別な形で逃れていたようである。
つまり、体力や意志や心のもち方を養う正しい努力さえ積み重ねれば、先祖の悪しき霊や地縛霊、浮遊霊といった悪霊の大部分との接触は見事に払拭できるのである。
例外として、家代々のたたり霊などは強烈なものであるから、どこかに除霊を頼むしかないが、それ以外のものは、自分の努力でいくらでも除霊できるのである。
ところが、学問と教養と正しい信仰力がなくて、霊の世界にばかり気持ちを向けているとこうはいかない。
ますます、霊のとりこになってしまうのである。そういう人は、どんなに除霊をしても、本人の想念が常にマイナスの霊を呼ぶからたいへんだ。
たとえば愚痴とか不平不満、妬み、エゴイズムに満ちている人は、除霊しようとしても悪霊が取れるどころか、マイナス波長の霊界に心を強く向けるので、さらに新たなる悪霊にとりつかれることとなる。
お墓に行けば霊をもらい、人と話せば、人の語る後から、その人についている悪霊をもうこれが、学問と教養と信念や信仰力という魂の輝きがない人の常である。
ちなみに申しあげておくが、こういう霊たちに絶対にやられない三原則があるので、それを伝授しておこう。
「恐れない。気にしない。同情しない」の三つである。たいてい、こういう類の霊にやられるときは、この三原則のうちのどれかを忘れている状態のはずである。
だから、そういう点に気をつけて、たえず努力して学問を積み、教養を厚くし、それに基づいて正しい信仰力を養わなければならないのである。
それは、そうすることが 46 われわれの御魂が喜び発動する道であって、霊明と霊光を輝かせることになるからなのである。
そして、それが自動的に悪霊を寄せつけぬ己をつくり、守護霊団の大いなる味方を勝ち得ることができる秘訣ともなっているからなのだ。
先祖供養は適度にすべし
除霊と関係のある先祖供養について述べてみよう。
世の中には先祖供養に熱心な人が多く、私もしばしば、「先生、正しい先祖供養をするには、どうしたらいいのでしょうか」という質問を受ける。
こんなとき、私は次のように答えることにしている。
「自分の直系のお父さんやおじいさん、それからお母さんに対してだけ、だいたい三十年間供養すれば、もうそれで十分です。
三十年間の供養といっても、毎日毎日やるのではなく、一周忌、三周忌、七周忌、十三周忌、十七周忌、二十三周忌、二十七周忌、三十三周忌の周忌供養を、ひとりについて計八回為し、さらにお盆の供養をすれば、もうそれで十分です。
お彼岸も、祖霊の総合供養のみで結構」
そういうと、「ええっ!そんな程度でいいんですか?」という声が飛んできそうだが、それで十分なのである。
そもそも、一口に先祖といっても、その数は三人や四人ではすまない。それこそ星の数ほどもいらっしゃるのだ。
十代さかのぼれば約千人、二十代で約十万人、三十代では百万人にもなるといわれているのである。その中には、地獄に堕ちている先祖霊も相当数いることだろう。
これらの先祖をいちいち供養していたら、いったい、どうなるか。それこそ、一生涯先祖供養だけで終わってしまうだろう。
それだけではない。ひたすら供養ばかりしていた人は死後、供養を仕事とする霊たちの集まる霊界へ行ってしまう。
生にあっても、死した後にあっても、供養、供養、供養の世界にいるということになる。
「神界からの神通力」でも書いたが、人間は死ぬと三十年の間、天之八衢とか、幽界(中有霊界や精霊界ともいう)という世界にいて、この世の汚れと想いを払拭し、その期間が過ぎると本当の霊界へと旅立つこととなる。
そしてひとたび霊界へ行くと、それぞれの御魂のランクにしたがって、天国界、中有界(まんなかにある霊界という意味)、地獄界などで修業をすることになるのである。
だから、天之八衢や幽界にいる三十年間さえ供養すれば、もうそれで十分なのだ。供養が真に生きる期間でもあるからだ。
本当の霊界に行ってしまった先祖まで、追いかけていって供養をする必要はない。
よほど、神権を受託された者でない限り、一般の人たちが行う先祖供養では、地獄界に長くいる先祖霊を救済することはできない。
それどころか、地獄の釜のふたを不用意に開けると、次から次へと何万の霊たちが押し寄せてきて、ノイローゼ、重病人、奇病の続出などによる家庭内の問題がもちあがり、最悪の場合は一家離散の憂目にも遭いかねない。
まさに、さわらぬ神にたたりなし、なのである。そのような供養をするよりも、自分自身がプラスの人格面と前向きの人生観を絶えずもつように努力する方が、はるかに価値がある。
そうすれば、あまたある先祖の霊の中で、高級霊として存在する方々とひとつになれるのである。この方がより大切なのだ。
高級な先祖霊たちとひとつとなるべく自分自身の御魂を磨く方が、地獄界にある先祖霊を供養することよりも、はるかに重要であるし、運勢をよくするうえでも、大きな効果のあることなのである。
そうした努力、つまり学問、教養、正しい信仰力を身につける努力を怠っていて、供養、供養といっているから、永遠に解決する糸口のない暗夜行路へと迷い込んでしまうのだ。
くどいようだが、供養ばかり考えていると、次から次へと救済を求める霊が寄ってきて、自分自身が霊障(霊の障りを身につけている人)の固まりのような人となってしまうのである。
「あっ、この人は供養に熱心だから、この人につけば自分も救ってもらえるだろう」と、地獄界に堕ちている先祖霊にとりつかれることになるのだ。
人生の本義は先祖供養をすることではなく、自己のご本霊、自分自身の御魂をいかにすばらしく磨き、いかに世の中をよくしていくかにある。
もちろん、供養もそれなりに必要なのであるが、何ごとによらず過ぎたるは及ばざるがごとし。これが、霊界の実相をつぶさに見てきた私の結論なのである。
御魂を向上させる四つの要素
今述べたように、人生の本義は自己の御魂磨きにある。人間は、肉体を強化するために生まれてきたわけでも、労働をするために生まれてきたわけでもない。
もちろん、それらは重要な要素ではあるが、あくまでも手段にすぎず、究極の目的は、自分の御魂を磨き、向上させることにある。
では、どうすれば御魂を磨き、向上させることができるのであろうか。
それにはまず二つの方向性が考えられる。ひとつは陰、もうひとつは陽。陰とは密教でいえば胎蔵界であり、陽は金剛界である。前者は信と智と内的向上の世界であって、後者は善と慈悲と外的発展の世界となる。
これをさらに四つの方向性でとらえると、
「霊格を向上させて内的覚醒を進歩向上させること」「森羅万象、神、幽、現の理をきわめて、真諦を悟得させること」「ひろく社会に善徳を施して、神と人々に対する功を立てること」
そして、「慈悲きわまりて衆生済度ならしめること」の四つである。
第一の霊的に向上するとは、神に対する信と智と行を磨くことによって、内的、霊的に御魂を磨くことである。
もちろん、自分の方からあがって行くあり方と、神霊界の方からの引きあげによって為されるあり方とがある。
前者を後天の行、後者を先天の行という。後天と先天が合一して、先後一致したものが理想であり、これを、先後一致の妙諦と呼ぶ。
第二の真諦をきわめるとは、真実の学問(釈尊の説く無形の法、孔子の説く聖人に至る道、老子の説く無為自然の大道など、顕在智を固める情報学問ではなく、潜在智を豊かにする天則、天理を学ぶ古学、霊学、神霊学のこと)を積んでものごとの真理、真諦を体得することである。
ものごとの真諦を知れば知るほど、御魂は向上するのである。
第三の社会に貢献して善徳を施すとは、文字どおり素直な心で世のために尽くすことであり、社会に役立つことを実践することである。
そうすれば、貢献した分だけ「功」として神様に認められ、天の宝となるのである。
これは、会社に功を立てれば出世して役職名を与えられるように、神霊界でも、御魂が功を立てて向上すれば、出世して天の爵位をさずかるのである。
第四の衆生済度(救済)ならしめるということは、愛や慈悲をきわめて、他者を助ける働きをしたかということである。
これは、地の徳、福徳となって、神霊界では徳光、霊光、霊明が何度、というふうに計算される。
これは御魂の輝きと正比例して、御魂が住む光明世界の光明度となって表れる。また、霊界や次に生まれ変わってきたときの、主に健康や物質面の豊かさとなって還元される。むろん、第三の徳もこれに準ずる形となる。
御魂を向上させるためには、以上の四つの要素で自分を磨いていくことが必要なのだが、よく考えればこの四つの要素は、前述したごとく、二つに大別することができた。
つまり、第一と第二は、自分自身を向上させようというものであり、第三と第四は、慈悲の行いを強調したものなのだ。
これを仏教的にいえば、前者は小乗仏教的要素、後者は大乗仏教的要素ということができる。
密教でいえば、前述したように前者は胎蔵界の要素、後者は金剛界の要素だ。これをもっと端的にいうなれば、前者は内修、後者は外慈ということもできる。
しかし、この二つの要素は両方必要なのであって、小乗をきわめれば大乗の要素、大乗をきわめれば小乗の要素がおのずから必要となり、両方がそろってはじめて真となる。
前者は真の静であり、体であり、後者は真の動であり、用であって、釈尊の真の全用を形成しているといえる。
すなわち、ものごとの真理、真諦をきわめて己を向上させようと思い、仏様や神様のことをいろいろ勉強していったら、「ああ、仏様や神様は、いかにすれば社会がよくなり、いかにすれば人々が幸せになるのか、そういうことばかりを考えておられる存在なのだ」ということが、しみじみと実感として深く体得できるようになる。
そこから出発して、人々を救済しよう、社会をよくしていこうという気持ちにおのずからなるわけである。
また、そのような気持ちを抱き、実際に行動を起こして実践するとなると、今度は逆に、いかに自分というものが人を救えるほどの器でないかということがわかる。
己の至らなさを痛感せざるを得なくなるのである。知識も財力も社会的実力もなく、人に尊敬されるほどの人間でもない。
どんなに立派なことをいっても、ひとりの人間を指導することさえできない。
やはり、人から尊敬されるような人間になり、知識もものごとの真実もわきまえておかなければ、人をどのように救い導けばよいのかの見当もつかない。
その人にとっての幸せとは何か、社会のどこをどのように改善すればよいのか、それすらはっきりと知覚できない。
やはり、もっと、もっと、己を磨くしかない。そうでなければ、人から相談されても正しく救いの手をさしのべることすらできない。
このようにして、大乗仏教の菩薩道に徹した人は、小乗仏教の真と法に精通して己を高めて磨くことの大切さを知る 5.4 わけである。
だから、小乗仏教だけをよしとしたり、大乗仏教のみを信じるという考え方は間違いなのだ。
くどいようだが、基本的にはこの二つの要素は不即不離であり、表裏であり、陰陽であって、道覚すれば一体となるものなのである。
また、御魂をこのようなあり方で十分に磨いていったら、守護神、守護霊もそれに合わせて替わったり、守護するレベルをグレードアップされたりする。
もちろん、喜んで背後からの応援をするようになるのである。このような人物になってはじめて、すばらしい人間ということができよう。
