大除霊(Vol.3)

「格物致知」の本当の意味

いささか難しい話になるが、儒教の「格物致知」という言葉について説明してみよう。

「格物致知」については、いまだ正しく答えた人がなく、学者の中でも諸説紛々としているが、神霊世界から見て私なりの解釈を示すと、だいたい次のようになる。

格物というのは、格は「いたる」であったからものをいたらせるということで、これは具体的には、物質的な欲望、人間心をきわめてなくするという意味である。

また致知とは何かといえば、知は先天の知を意味し、王陽明のいう「良知」のことであり、自分の本霊が先天的にもっている無量無辺の智のことを表す。

そして、致とはそれらをよく働かせ、よくまっとうさせるということだ。

それゆえ、格物致知とは、人欲をなくして先天の知を引き出し、よくそれらを働かせ行じるということなのだ。

これを、「大天運」でもふれた「中庸』の「人心これ危うく、道心これ微かなり」という言葉を参考にすると、さらに理解しやすくなるだろう。

中国古代の聖人であり、帝であり、政治家でもあった堯が舜に伝えた、聖人と政治家と帝としての心がまえの秘伝の中で、最も大切な要諦を表した言葉であるが、ここでいう人心とは人間心、すなわち物質次元の欲望すべてを意味する。

それゆえ「人心これ危うく」とは「人間心で行うとすべて危険だ」「顕在智で考えて行う事柄は、いかなるときにも失敗の危険をはらんでいる」「物質的欲望にこそ、己の人格と修養と行いをだめにするすべての危険が潜んでいるのだ」という意味なのである。

これに対して「道心これ微かなり」とは、本来すばらしい神性や仏性や御魂の発露といわれる道は、非常に微かなものであり、日々に精進して、その灯が消えることなきようしっかりと不動のものにしなければならない、という意味だ。

人間は肉体をもって生きている。だから、どうしても物質的なもの、つまり人心の方を強く感じてしまう。

しかし、これに振り回されると結局、身の破滅を招くことになる。では、どうしたらいいのだろうか。

その微かなともし火を大事にあたためて、不動の道心を身に備えなければならないのである。ところで、読者もご存じだと思うが、比叡山を開かれた伝教大師最澄。

彼は、「山家学生式』という書の中で、比叡山の使命を明確に謳っている。

要約すると「道心は宝である。そして、道心をもってこれを人々によく語り、かつ、よくこれを実行できる人こそが国宝である。当比叡山は、この国宝を育成することを第一の目的としている」というもの。

これを見ればおわかりのことと思う。最澄の学問の奥の中心に、この「人心これ危うく、道心これ微かなり」がはっきりと意識され、咀嚼されていたということが。

以上が、「人心これ危うく、道心これ微かなり」のおおよその意味なのであるが、これと比較すれば「格物致知」の意味が鮮明になってくることと思う。

つまり「格物致知」は、「人心をなるべく収めて、先天的に宿っている道心の本体た御魂の欲する道を強く、確固たるものとして実行しなさい」ということなのである。

この観点に立てば、先ほどから私がいってきた学問とか教養というものが、単に知識を吸収したり分析力を鋭くするということではないことがおわかりになると思う。

これを別の角度から説明すると、「論語」に見える「古の学者は己の為にし、今様の者は人の為にする」という言葉に要約できる。

ここでいう「己の為」とはエゴイズムを意味するわけではない。また、「人の為」は世のため人のためにという意味ではない。

昔の学者は己自身の修養として学問をしていた。現在の学者は、他人に知識や分析力を誇示せんがためにやっている――これが、この言葉の真の意味であり、孔子の嘆きでもあったのである。

学問は、誰のためでもない、自分自身を豊かに立派にするためにするのである。人心を小さく小さくして、微かである道心を温め温めて大事にする。

これこそが、本当に正しい学問であり、正しい教養であり、究極の正しい信仰力なのである。

これができている人には神性、仏性、御魂、ご本霊といわれるものが常に光り輝いて、悪因縁が介在する余地がない。

だから、悪い霊などつくはずがない。絶えずすばらしい神性や仏性が顕現しているので、神様や仏様、あるいは善き霊たちと常に感応して、それらに強く導かれるようになるのである。

たとえば、家族、親戚がすべて不幸という因縁の深い家に生まれたとしても、こういう努力をした人には、ある程度の幸せは必ず約束されている。

そして、さらにそれらの逆境をバネにしてはね返し、大出世を遂げた人も多いのである。

中途半端に霊に興味をもつな

「鬼神を語らず」。孔子はなぜ、このような言葉を残したのだろうか。

孔子の時代には、中国土着の神仙思想が盛んであり、霊的世界に関する諸説が飛び交っていたので、あえて彼は現実界の目でものごとを見る態度を尊重し、人々が摩訶不思議な世界に関心をもたないように努力したのである。

この孔子の姿勢は、私たちも大いに見習うべきである。

特に、霊界に興味をもちがちな人、宗教家や霊能者は、孔子の現実的な見方を身につけ、真実の学問、真実の教養で正しい信仰力をもつ必要があるのではないか。

もし、それができないようなら、いっそ霊にまったく興味をもたないほうが、かえって立派でいい人生が送れる。実際、中途半端に霊の世界に興味をもったがために、精神病になって病院に入っている人も多いのである。

その人たちは、学問と教養と正しい信仰力で己を冷徹に見て、人心と道心との闘いができているという基礎がないために、最終的に心の主体性すらも失って悪霊の犠牲となってしまったのである。

もし、本当に霊きわめ、きわめ尽くしたいのなら、究極的には孔子の、現実の礼を敬って「鬼神を語らない」という態度に、いつでも自分がなれるように磨かねばならない。

ところで、先の孔子のことに話を戻すが、主の大神は、この時代の仕織りとして、孔子があまりにも現実界を説きすぎたのに鑑みて、老子を世に遣わし、天地の悠々なること、玄々妙々とした宇宙と神霊界の働きや実相を世にお伝えになったのである。

これも、学者の間では、色々と議論されていることであるが、孔子が先の人か老子が先の人かという問題である。

結論からいえば、今述べたごとく、老子は孔子より後に生まれた人である。孔子の死後約四十年ぐらいして生まれた人であり八十五歳で没している。

むろん、これは中国の歴史を神霊界から垣間見た、私の過去神通という神通力によって見た結果であるが。

また、『荘子」や「史記」などには孔子が老子に会って道を教えられたとあるが、あれは項先峰という人との出会いのことが、誤って後世に伝えられたのである。

彼こそが実質上の儒教の創始者であり、孔子とは、彼の後継者なのである。

ところで、項先峰という名の易の大家が孔子の先生であったことは、中国の道院紅卍字会の扶括(最も信頼のおける神霊直接の降臨による霊訓の壇)によって有史以来はじめて明かされたことである。

私は、この点に関してはさらにそれを肉付けしているだけである。

あるとき、『論語』を読んでいてわかったことなのだが、『論語』に「子曰わく、述べて作らず。信じて古えを好む。竊かに我が老彭に比す」とある。

この老彭とは何か。幾多の論語の解説書を見ても異説が多く、明解ではない。

「(ひとつの謎であるが)わが尊敬する老彭という方の態度と比べている、という意味であろう」と解説されている程度だ。

だが、この老彭の意味するものこそ、孔子の崇敬してやまない大先生である項先峰、あるいは項先師と呼ばれる方なのであった。

孔子は、五十歳を越えて「易経」との真実の出会いがあり、はじめて天地の法と理を悟ったのである。

「易経」の本の皮表紙が、三回破れるまで熟読したと「論語」に記されている。それを教えたのが、ほかならぬ項先師なのであった。

思えば、これはヨハネとイエス・キリストの関係に似ている。キリスト教の方は反発するかもしれないが、客観的にヨハネの黙示録を見れば、霊智、霊覚の奥深さでは圧倒的にヨハネの方が上である。

しかし、教化力、救済力、普化力に関しては、イエスの方が圧倒的に上だったのである。

ヨハネとイエス、項先峰と孔子、観阿弥と世阿弥との関係。先人と後継者が胎蔵界と金剛界、陰極の出発・定位と陽極の完成・敷衍とに役割りを分担して、見事に主神の道と慈の顕現の大任を果たしておられたのだ。

ところで、中国の歴史についても、神仕組の一端を解説すれば、主神の人民教化と救済の教えは陰陽に別れ、陰は老荘思想系となり、陽は儒教系となっている。

この陰と陽が対立しながらも縄目を編むような形で融合し、補足し合いながら政治と文化を形成してきたのである。

ここに、外来の仏教が混入して、三つ編みのきれいな縄目が編めていたのが唐と宋と明の時代だ。

この時代に、きれいな三つ編みのまま日本に輸入されて、平安、鎌倉、室町という日本文化爛熟期における、最も有力な文化的原材料となったのである。

高級霊と低級霊を見分けるポイント

話はずいぶん横道にそれてしまったが、以上の内容をしっかりと把握していれば、基本的に悪霊にやられることはないといえるが、もうひとつ悪霊に負けない方法がある。

それは、霊を正しく審神することである。

審神とは神や霊の正邪を区別し判断することだが、これは多少霊能力があるくらいでは、行うことは不可能である。

だからこそ私は、中途半端な気持ちで霊界に興味をもつのは危険であると、常日ごろから口がすっぱくなるほどいっているのであるが、ここでは参考までに、高級霊と低級霊を見分ける基本的なポイントについて述べてみたい。六大神通力の正邪の審神については、拙著『神界からの神通力」に詳しいのでこれを参考にされたい。ここでは、高級霊と低級霊について述べてみよう。

高級霊の特徴をひとつあげると、あまり現実界の人間に干渉しないことである。ああしろ、こうしろとか、いついつどこそこへ行けなどということを、高級霊は決して指示しないものだ。

知らないうちに、そうなるようにし向けられるのが普通である。

なぜなら、高級霊は元来、人間の教育係であり、あまり干渉すると、人間を甘えさせたり、紆余曲折を経て遂げられる御魂の経験や成長が妨げられるからである。

また、そうなるとそれによって成し遂げられるその人の使命も果たせなくなることも考えられる。

それだから、学問と教養と人格、それに社会経験と社会実績をつくっていけるように、背後から人間を高度な判断力によって導くのが高級霊の使命であり、それ以外のこととなると一歩離れた立場から見ておられるだけなのだ。

したがって、本人の御魂の成長を妨げるような祈願であれば、どんなにお願いしても高級霊は黙って見ているだけ。決して動こうとはしないのである。

逆に、前に述べた四つの要素にかなって、本人の御魂の成長と向上につながるものであれば「よしっ」とばかりに、たとえお祈りしなくても積極的に動いてくれるものである。

お祈りをすれば、いうまでもなく一層強く守護してくださる。

それだけ、高級霊とは、学問と教養と高次元での先見性、かつ霊的な覚醒と高度な智恵を備えておられるということになる。

これに対して悪霊や低級霊とはどうなのかというと、本人の御魂の成長など一切眼中にない。自分が肉体をもっていないから、ただただ肉体を占領して、思うようにその肉体をあやつりたいだけである。

いってみれば、欲望とエゴの固まりである。というのも、低級霊は高級霊とは違って高い咀嚼力、つまり、学問、そして正しい信仰力に基づく解釈力や抱擁力がなく、目先わが思いのみで生きている存在なのである。

むろん高い、文化的で繊細微妙なる感性や人情の機微を解する心などはない。一言で表せば低級霊とは、低級なる人間性をもつ霊のことだと考えてよいだろう。

そういう霊は、肉体をもたないことを悔み、何とか他者の肉体を占領しようと、絶えず関与して悪霊する隙を狙っているのである。

たとえば、「私は日蓮の生まれ変わりだ」とか、「私は釈迦の生まれ変わりだ」など。

また「おまえには、これこれこういう使命がある」などとささやいては、人間の心と霊体と肉体を占領しようとするのだ。

このあたりに注意していれば、悪霊や低級行者人霊などにやられることもないのだが、霊に強い興味をもっている人や、霊を扱っている霊能者や宗教家は、ミイラ取りがミイラになるような形で悪霊の犠牲になることも多い。

霊界ばかりに目を向けているから、姿を見たり、声を聞いたりすると、どうしてもそれが尊い神仏の導きかと思って信じてしまうのである。

「おまえはこうしなければならない」「お墓へ来い」とささやいたり、夢でお告げをしたりして、人間を自由にあやつるようになるのである。

こうした霊言やお告げにごまかされてはいけない。本当の高級霊や神様とは、そのようなことは絶対にしないのである。

本人の自由意志を尊重し、時間をかけて、じっくり本人に考えさせながら悟りの段階を経させ、徐々にその使命を深く、しかも徹底して自覚させていくものである。

お釈迦様が悟りを開かれて救世の使命を自覚されるまでのプロセスを見ても、おわかりになることだろう。

決して突然の神がかりではなかったはずだ。むろん、突然の神がかりでも正神界のものもある。如来教、天理教、金光教、黒住教、大本教などは正神界の神様が教祖に突如として神がかっている。

しかし、それもよく調べてみると、長い下積みと正しい神がかりがあるまでの伏線として営々とした悟りの修業が用意されていることに気がつく。

そして、これとてもその神がかったご神霊をつぶさに調べてみれば、正神界の神様とはいいながら、金龍神であったり、青龍神であったりする。

やはり、ご龍体をとおしての高級神霊のお働きなのである。

だから、それなりに立派ではあるが、お釈迦様の場合と比べてみると、ご眷属が介入して、病気治しや外的奇跡と簡単なご神示やお告げだけで布教している分だけ、レベルが低いものといわざるを得ない。

力とお蔭を超えた、永遠普遍妥当の真理の法を、奔流のごとく述べ、伝え、弘めた釈尊とは、やはり格段の差があるのだ。

突然の神がかりで使命にめざめるのは、やはり、温和でじっくりと時間をかけ、徐々に覚醒していくよりは、神霊ランクが落ちざるを得ない。

だが、前者の場合、江戸期、明治期、大正、昭和の前期までは、拙著『神霊界」(たちばな出版刊)でも述べたように、日本の神霊界はいわゆる「龍神時代」であったのだ。

封建主義と帝国主義の時代、力と権力が人々を統率していた時代だ。だから、その時代に現れた神霊家や天啓の宗教家たちが、皆一様に神霊的な時代背景を反映していたのは無理からぬことである。

しかし、そんな中にあっても、天狗や龍神のお告げどおりに生きるのではなく、真正の神霊界にふれて妙を得、逆にそれらを自在に使いこなした神人もあった。

大石凝真素美翁や出口王仁三郎をはじめ、明治期には三十数名がある程度の真を得て、自在境に入っていた。

大正は五人、昭和は七人である。くどいようだが、聖徳太子も役小角も行基も弘法大師も伝教大師も菅原道真も日蓮も親鸞も、皆、天啓を受けておられた宗教家たちであるが、突然の神がかりによってすべてを開いたという人はいない。

釈尊と同じようなプロセスで使命の自覚と天啓の受託の道を調えておられる。

今述べた明治、大正、昭和の神人たちも、詳しく名前は申しあげられないが、これと同様の道をたどられた方たちである。

さて、高級霊と低級霊の話から、だいぶ横道にそれてしまった。お話を元へ戻して、ここに、具体的な実例を示して詳細を解説してみることにしよう。

ある所に、「私は聖人の生まれ変わりだ」ということを断言していた宗教家があった。彼の足跡をたどってみると、やはり、前述したごとく突然の神がかりによって天啓と霊能が一気に開いたのである。

当初、観音様が現れて、霊示やお言葉がどんどんやってきた。

そのうち、心で思う邪なことやちょっと間違った行いなどを次々に指摘されて、純粋で汚れなき心をもつことのみに専念した。

もちろん、このころから前世の記憶とやらが現れて、並はずれた霊能が開いたという。

信者たちは、彼の超能力開眼のプロセスを知り、「まったく普通の人だった彼が、突然の天啓で超能力者となれたのだ。

自分でもできそうだ。彼のようになれたらな……」という憧れをもつようになった。そういう思いを抱いていたためか、その後、年間何十人という自称霊能者が、そのグループから次々誕生したのである。

実のことをいえば、彼の前に現れた観音様とは、青龍王の化身である。

観音様の導きとはいかなる場合にも温和で、艱難辛苦の道を子供のころからお与えになって、家庭や社会の経験をとおして、真正の宗教心や宗教的使命感を育成される場合がほとんどだ。

このように、細かいことをいちいち指摘して、容赦なく強引に人を導くというのは龍神か天狗の為すわざなのである。

決して高級神霊の為すことではない。龍王や稲荷のついている霊能者や宗教者の特色は、まず、大らかさや善を広く雄々しく広めようというよりも、悪をつくらないようにする傾向があることだ。

霊的消極主義だといえる。すなわち、潔癖さと純一さをまず人々に求めて、自由や人間の幅や遊び心の楽しさというところを尊重しない。

老荘思想や禅的な霊覚の自由さや広がりがないのである。

特に、この食べ物はだめだとか、こういう心や姿勢はだめだとか、この宗教はだめだとか、とかく、規制、批判が多く、悪や不正を許さないという傾向が顕著である。

龍神時代であった封建社会、帝国主義時代の社会のあり方とそっくりだ。

聖人の生まれ変わりと称する彼は、まったくこのとおりのあり方なのであった。

だが、本当の高級霊だったら、食べ物の規制は厳しくはしない。

肉食も菜食も美味しくいただけばそれでよし、素材を生かせばそれでよしなのである。宗教批判も強くはせず、悪い心や姿勢も一切はじめからは規制しない。

大らかな慈悲の心で悪を包み込み、相手の改心と反省をじっくりと待たれるのだ。

たとえば、小さい子供の教育は別ではあるが、悪い心や姿勢をもつ人がいると、悪い心と姿勢ゆえにとことん自分で行き詰まって悩むまで救いの手を待たれる。

ましてや、細々とお告げを出して、「それはよくないぞ」という忠告などはなさらない。ただ、周囲の人間の口や文章をとおして、徐々に本人に改心を促すのみである。

「ああ、こんなに行き詰まってしまって、人々から顰蹙を買ってしまった。

やはり、心がけを入れ替えて、もう一度やり直すしかないのだ。そうだ、そうしよう!」とその人が改心して、反省して、新たなる出発を決心したとたん、おもむろに高級霊は現れてお告げをする。

「それでよろしい。しっかり頑張りなさい。あなたが変われば、すべてが変わりますからね」と力強く励まされる。

このように、必ず前向きで、いいすぎず、忠告がましくなく、その人の悟りと脱皮を心から喜ばれて、その悟りを補足される形でお告げや霊言を下されるのである。

釈尊のときも、さきほど列挙した天啓の宗教家たちのときも、基本はすべてこれなのであった。

そもそも、聖人の弘法自体もそのようなやり方であった。これをもってしても、さきほどの彼が、聖人の生まれ変わりであるというのはおかしいことがおわかりだろう。

ほとんどの聖人は再び生まれ変わることはない。使命あり、道と境地がきわまった人に臨まれて、ときどき合体して主神の天使の役を果される。

だから釈尊などは降臨されても、降誕はなさらないことになっているのだ。

ところで少なくとも、前世が聖人であるならば、今世に前世を越えるだけの偉業を為し遂げているはずだ。

また、受けた霊言の内容や彼の説法の内容を見ても、高級霊らしい品格と高貴さがあるとは思えない。

歴史に名を残した聖なる人とは、正しい潔癖な生き様を人々に強要するのが願いだったのではなく、善悪悲喜こもごもの衆生の、目前の悩みを解消して、一つひとつその悟りのレベルを上げてあげようという、深くて、やさしくて、自在な心と智恵をもたれていたのであった。

私は、イエス・キリストや釈尊、弘法大師などの対処のあり方こそが、あの時代に現れた救い主的なあり方だと思っている。

さきほどの彼は、高級霊だったら絶対にしない「私は聖人の生まれ変わりだ」というような大言壮語をせず、大らかで、すべてを肯定と積極と調和とに基づいて人々を導き、もっと、よく先人たちの足跡を学んで、時間をかけてさえいれば、本来、決して悪い人ではなかったのだから、道を遂げていたと思う。

そうすれば、三年で青龍王が去ってしまうこともなく、それ以後の蛇霊や狐霊や兇党霊団にやられてしまうという悲劇もなかったであろうと悔まれるのだ。

人のいい方だっただけに、本当に惜しいという気持ちで一杯だ。

私は、決して彼を批判して攻撃しようなどという気持ちでこの文を書いているのではない。

それどころか、一生懸命に人々と神仏のために生きようとしていた彼だったのに、高級霊と低級霊との審神の知識が足りなかったために、また、時間をかけて自分の神がかりを整理し、広く神仏と神霊界を学ぶゆとりがないまま、使命感に駆られて邁進してしまったこと、そして、そのために本来の道を失い、善良の気質を生かしきれず、かえって人々を迷妄霊界に引きずり込むことになったことに対して、万感あまりあるほどに哀れみと悲しみの情を覚えるのである。

なぜならば、私自身あらゆる霊と何万回もやりとりをする中で、あるときは見破ったり、あるときは実に巧妙にだまされたり、霊にもてあそばれたり、死ぬほどの激痛でやられたりというふうに、汗と涙の体験を子供のころから幾万度となく経つつ、すがるような気持ちで先人たちの足跡や著書をたずね、学んだからである。

彼も、さぞかし辛くて大変だったろうな、という切なる同情の念で一杯である。

基礎的な審神のやり方

それにしても、もし、恩師、植松愛子女史に巡り会って、審神の法を完全に学ばなかったら、私こそ、善と確信して悪霊や兇党霊に使われていたに違いない。

道と霊の正邪の判別とは、それほど難解で高度なものであり、一般人には解しきれないものなのである。さて、ここでもうひとり実例を示して、読者の参考にしていただこう。

以前、女性の霊能者でこういう人があった。どこかで少し瞑想を覚えて、トランス状態になることを覚えた彼女は、本来、たいへん読書好きであったので、その後も読書を続けた。

ところがである。あるとき、昔読んだ本の内容と著者のことが頭に浮かんできたかと思うと、次々と自動書記がはじまったのだ。

それからというもの、少しお祈りをして瞑想をすると、霊言がポンポン飛び出すようになった。

しかも、その霊言の主が三大聖人をはじめとする日本と世界の歴史に名前を残した錚々たる方たちのものなのであった。

彼女は有頂天になった。自分は、まるで「シルバーバーチの霊訓集」を出した人になったような気分だったのだ。

その後の詳細は省くが、最近結構こういう人が増えてきて、私のところにも、長い霊言の冊子やテープなどが送られてくることがある。

多いときは月に二~三人からやってくることがあるくらいだ。むろん、郵便物をパッとさわるだけで邪気とわかるものばかりである。

中には、暖気があって少しましかなと思って開いたとたん、金毛九尾の白狐がひそんでいることもある。神気に近いものを出す魔界の大物である。

ここで、霊的に敏感な読者が、そういうことにならないように基礎的な審神の法を伝授しておきたい。

まず、高級霊たちの約束ごととして、決して自分自身の昔の名前を前に出して、人々を信服させてはいけないという、暗黙の了解があることを知らねばならない。

その理由は、人々に知ってもらったり、感謝してもらうということより、主神の命を奉じ、主神の御心を代行することを第一の喜びとされているからであり、人に知られることは、神徳、霊徳という陰の徳を失してしまうからである。

それ故、こちらがその霊の働きに対してお礼を申しあげると、「いや、私は主神の取次ぎをさせていただいただけだ。

それは、わが喜びとするところであり、神様からそのことに対して、十分に愛と歓喜と功の陰徳をさずかっている。

お礼をいうのなら、主神に対して申しあげてください。

私が、もしそのお礼を自分のものとして受けることがあるのなら、それは天の賊といって、神様がなさったものを、自分のものとして横取りすることになる。

そうなれば、主神からさずかっている無形の陰徳と栄光を、すべてなくしてしまうことになるのです。

私たち、天人や天使の列に参ずる霊たちは、そのことを誰よりもよく知っています」と、いつもお答えになるのである。

霊言の主の名を借りて、自分の勉強した内容を、さも神様や高級霊たちの言葉であるかの如く示すのは、決して誠あり、真をきわめた人のすることではない。

名前を出された霊たちが、高級霊であるならば、決して喜ばれることはないはずなのである。高級霊たちが考えていることはひとつである。

主神の命を奉じて、使命ある人を守護し、導き、育成することだ。霊言はその人物の育成と導きのために与えて、その人物の言葉として世の中に発表する。

お手柄は、守り導く霊に対してではなく、その育成した人物に帰結するものであり、その人物の魅力で人が集い、人が救われ、世の中が改善されていくのである。

これが、正神界にいる高級霊たちの一貫した約束ごとだ。

どんなに霊界に興味をもつ時代ではあっても、お釈迦様の霊がこういった、イエス様の霊がこういった、私の守護霊がこういったなどといって、それを前面に打ち出して、世の中の政治や経済や文化や教育が改善されることはない。

ガブリエル天使のお告げだといって、その教えを広めようとしたマホメット。

だが、すべてのそれらの活動が失敗して、命からがらメディナへ夜逃げしていった後、あることがあった際、そこの民衆とともに立ちあがり、自ら剣を取って戦い、そして勝利した。

「神と天使たちの導きがあったから、われわれは勝利することができたのだ」。

その後、何度も戦いを挑まれたが、マホメットの智略、戦略、霊智がことごとく功を奏して勝利したのだ。

このことがあって、はじめてイスラム教団の基が固まり、民衆は全面的に彼を慕い、信じ、団結することになる。

霊言を出してお告げを知らせていた時代から、不屈の精神で民衆のために立ちあがり、勇猛果敢に実行するときになってはじめて、民衆が支持し、社会と国に影響力をもつようになった。

日本と世界の宗教史、文化史を見ても、人々を真に幸せに導き、社会を改善するものは、その時代に使命のあった人の能力であり、魅力であり、魂の叫びであったはずだ。決して、霊言やお告げではなかったはずである。

正神界の高級霊たちは、そのことをよくご存じなるが故に、決して自分の名前でお告げや、霊言を世に広めようとはなさらない。あくまで、使命ある人を育てようとなさるのだ。

この神霊界の基本法則を知れば、聖人の霊言を語る霊とは、にせものであり、霊媒となる人が読んだ本の下知識の上に、数人の同じ霊がついて語らせていることがわかる。

もちろん、高級霊ではないが内容のつじつまを合わせるのが得意な、博識で頭のよい僧侶や学者くずれの霊たちだ。

さきほどの若い女性の霊能者はこうして、これらの頭のよい低級霊たちにおだてられ、あやつられていたのである。神霊界の深い知識と審神の基礎さえわかっていたら、意志の力でこれらをはね返すことができたはずだ。

誠に残念なことだといわざるを得ない。

審神の二大ポイント

ここで、読者の方々が悪霊にやられないよう、一般的な霊言、神示の審神の基礎を、もう少し詳しく紹介することにする。

まず第一に、気韻生動を見る。第二に、長文ではなく短文であり、一言が万意を含むかどうかを見る。第三に、霊言、神示の出かたが、口をついて出てくる霊言やそれを本にしたもの、またどんどん出てくる自動書記などは、すべてまやかしものであるということ。その他いろいろと項目があげられるが、紙面の都合上、ここでは割愛させていただく。

まず第一の気韻生動とはいかなるものか。これは、中国で昔からいわれている絵の良し悪しを見分けるポイントを表す言葉である。

一言でこれを説明すれば、書や絵に表されたものの気や余韻が、生き生きとして命あるもののごとく動いているのが良い、という意味である。

これを霊言や神示にあてはめてみると、霊言や神示として出された文字や言葉が、神韻標として高貴であり、生き生きとした調べや響きがあること。

また、すがすがしくてほの温かく、凜然とした威厳があって、芸術をよく解する人の胸にも、津々と響き渡ってくるものであること。

こういうのが良いということになる。これがわかれば、その霊言やご神示が、頭から捻出されたものか、高級霊の魂の底からにじみ湧き出でたものか、はっきりするのである。

本物そっくりな絵や書でも、色彩や構図や線がどんなに立派にできあがっていても、そこからにじみ出てくる無形の気韻こそが、それをつくった人の内面性、すなわちその作者の魂の証明であり、その魂の住む神霊界の表れであるので、そこが高貴なものであり、華麗に気韻生動していなかったなら、その絵や書はにせものなのである。

本物のすばらしい絵や書を絶えず見慣れている人なら、パッと見ただけでそれが見抜けるものである。

神示、霊言の審神の基本もこれと同じだと思っていい。また、こういうたとえもできる。

理屈をこね回して、何とか三十一文字にしたという歌は腰折れ歌であり、高貴ですばらしい魂の歌人が詠んだ歌は、やさしくて、あっさりしていて、素直に表現されてはいるが、歌のしらべに品格というものがあり、何度口ずさんでも御魂に響き来たるものがあるのである。

たとえ、内容のいい神示、霊言ではあっても、言霊のしらべと品格というものがなければ、それは正神界の高級霊が語った霊言やご神示ではないのだ。

第二に、高級霊や高級神になればなるほど、短いフレーズで出てくる点について。

これは、人間のレベルの高い低いと同じことである。低いレベルの人であればあるほど、言葉丁寧に、解説と背景を細やかに知らせなければ、意思は通じない。

しかし、高いレベルの人は、深くて高度な咀嚼力があるので、寸言にてすべてを解することができるのだ。

「一を聞いて十を知る」「皆まで言わずとも、心底をお察し申しあげる」というわけである。

また、本来、神示や霊言は、やむを得ない神霊界からの伝達手段であるから、なるべ必要最小限度のものにしておきたいのが、神々や高級霊たちのご希望なのだ。

だから、最後のギリギリの霊覚の位を上げる一言であったり、時代を告げる要約文であったりする。短い言葉や文であればあるほど、そこから広がる深遠なニュアンスは、奥深く、そして、幅広く受け取ることができる。

よく、講演などでお話をするのであるが、神無月に出雲に集まって神々が会議をなさるというが、あれは、決して侃々諤々の議論をしたり、チャートや統計を示して説明するなどということはない。

歌のやりとりであったり、禅の公案のやりとりのようであったりする。お互い過去、現在、未来を知悉する神様同士なのであるから、一言で済むわけだ。

おみくじ修業

それで、私たちがこれら神々の深い内面性や深遠なす言を受け取れるようになるためには、鑑賞力という、情緒や知覚の奥深さを示す力を養うしか道はないのである。

これが、私が何度もくり返して述べている、真の学問と教養の真価でもある。だが、それらは一朝一夕にできあがるものではないので、普段からなるべく心掛けるようにするしかない。

それで、ひとつの簡単な神霊鑑賞力の訓練として、私は「おみくじ修業」というものをすすめている。おみくじ修業?聞いたことのない人がほとんどであろう。私のつくった言葉だから無理もない。説明しよう。

そもそもおみくじというものは、普通、最上段には和歌が書いてあり、その下に口語訳があり、その下に項目別の占いが書かれているものである。

それで、霊覚が高く、鑑力のある人ならば、たとえば和歌の最初に「朝日の……」とあるだけで、涙がにじむ ほど感動するものだ。

「朝日」の二字で、「神の栄光、生命の喜び、御魂の躍動、やる気と情熱の燃えあがり、すがすがしさ、さわやかさ、新鮮さ、ものごとのはじまり、暗闇からの脱却、希望の輝き、明るく世を照す、明るく人生を見渡す、苦労が終わって成功成就へと切り換わる」等々、はてしない連想と深意が瞬間に伝わってくるものなのである。

そして、その和歌一首でおみくじに託されたご神意がすべてくみ取れるはずなのだ。しかし、これができる人はそんなにいるわけではない。

普通は次の霊覚、鑑賞レベルである、口語訳をじっくりと読むわけだ。この段階からすでに、霊的鑑賞力から、知的鑑賞力へと移り変わっている。

その次のレベルが項目別占いだ。「ええ……と。なになに……。失せ物返らず、待ちしばらくして来たる。縁談急げば調うか」のレベルである。

もう、分別智と欲望がギラギラしてきて、霊的鑑賞力とやらはほとんど消えてない状態となる。

その次のレベルが、「あっ大吉だ、やった!」「私小吉よ、クシュン!」「ウッソー、私、大凶よ!もう死ぬう!」というもの。

すなわち、これが最低レベルといえよう。それで、おみくじ修業というのは、毎回なるべく上のレベルにおいてご神意を受け取る努力をすることなのだ。

霊言はまやかし

単なる吉凶より、必ずもっと深い意味があるので、最低十回はおみくじの和歌をしみじみと口ずさんでみて、花鳥風月にたとえてあるものなら、イメージの中で花鳥風月にもどしてみる。

そうして、それらをわかった気分になってみて鑑賞してみることだ。

決して、わからないとか難しいとか思わないで、わかったような気分になってみて情感にひたりきることが大切なのだ。

こうすることによって、奥深い神霊界に自分の魂が接近できて、少しずつご神霊の波動や大御心にもふれることができるようになる。これが、私の提案する「おみくじ修業」というものである。

またもや横道にそれてしまった。話を元に戻そう。

第三の、口をついて出てくる霊言やそれらを本にしたもの、またどんどん出てくる自動書記は、すべてまやかしものであるという点だ。

この、霊媒に霊を宿して口を切らせるというやり方、恐山のイタコの「口よせ」が有名だ。

しかし、「口よせ」で出てくる霊は両親かおじいさんか、近い親戚などの粗く低い次元の霊であり、決して、高級霊や正神界の神々たちが来たることはない。

第二のところでも話したが、そもそも高級霊や本当の高貴なご神霊が、ベラベラ人について霊言を発したりはしない。

内的に深い部分へ、短く、ポイントを示されるだけだ。あとは、その人と一体となり、その人の一部として黙って活動をしておられるのだ。

ところで、たとえばもし仮に、少しましな霊がついて短い霊言を口から発したとしよう。

そういう場合でも、次の瞬間、まったく別な霊が出てきて妖言、過言、暴言をベラベラ発するようになるのである。

お稲荷さんが化かしていわせることも多い。ちょっとましな内容かなと思っていたら、冷静に全体を何度も調べていたら、頭がゴチャゴチャして何だかよくわからなくなる。

「愛だ、光明だ、新しい時代がやってくる・・・・・・」などという言葉に、決して翻弄されてはならない。皆、ちょっと賢い低級霊のいたずらであるからだ。

ここに、先人たちの実例を示しておこう。

恐山のイタコの「口よせ」は親戚の霊が多いといったが、日本の歴史上、高級霊や日本神界の高級神霊を、直接お呼びして、神言、霊言を語らせていた人がいた。

それが神功皇后の神がかりを審神した武内宿禰であり、それ以来絶えて久しかった日本霊学を、見事におこした中興の祖と仰がれる本田親徳翁、その弟子長沢雄楯氏などである。

ここで開かれた道が、「鎮魂法帰神術」といわれるものであり、有名な出口王仁三郎や友清歓真、副島種臣などが門下生としていたのである。

このあたりから審神という言葉が一般的になったのである。

審神という言葉は、もともと、沙庭で神を審らかにしたという武内宿禰の古事からきている。

本田、長沢翁の審神は、厳修につぐ厳修を重ねた結果、強力なご神霊に守られた中で、霊覚と広汎な知識と瞬間の立ち合いの妙によって審神をされていたのだ。

その内容の歴史を見ても、いかに、魔神と巧妙な邪霊が多く、正神、高級霊が来がたいかがわかる。

そして、ここで一層霊覚を磨いた出口王仁三郎は、大本教でも、盛んに鎮魂法帰神術を行った。

この、出口王仁三郎の鎮魂法帰神術によって霊的に心眼を開き、出口王仁三郎の薫育によって後に一教団を開宗できるまでに至った弟子たちが、生長の家の谷口雅春氏であり、世界救世教の岡田茂吉氏であり、日本神霊協会の浅野和三郎氏であり、三五教の中野与野助氏であり、その他、数十人にも及ぶ戦後の新興教派神道系の教祖たちなのであった。それに、合気道を創設した植芝盛平氏も、出口王仁三郎の愛弟子であったことも見逃せない。

いかに、出口王仁三郎が偉大なる影響力をもった宗教家であり、大霊能者であったのかが、おわかりになることと思う。

しかし、その出口王仁三郎ほどの大霊能者にあっても、鎮魂法帰神術を断念せざるを得なくなったのである。

「人々は霊能を開きたいばかりにやってきては、鎮魂法帰神の神法を請い願う。

どんなに厳修しても、その人の腹の奥とその人の人格と日常の生き様に合った霊しか呼べないし、来ないのだ。少しよさそうな人物だと思ってやっても、やっぱりだめだ。

神霊の後には必ずすぐに邪神が来て、当人はたぶらかされていても気づかず、自分で取り払うこともできない。

信仰の基礎が定着していないからだ。百人やって一人が少しましな霊が定着する程度だ。

しかし、その人も、しばらくすると間違った方向に行って、結局は魔にやられてしまうことになる。

ああ、真に誠がきわまって、信仰力が透徹した人物はいないものなのかなあ」という歎きが常日ごろの王仁三郎であった。それだけならまだよかった。

遂に、信頼していた弟子たちが、開祖出口直の「おふでさき」の予言や内容に関してまで、自分勝手に鎮魂法帰神術をやっては、ご神霊を降ろし、神示の独自な解説をやりはじめたのだ。

それが、大本内部のみならず、世間の人々をも混乱に陥れたのはいうまでもない。そんな折りも折、神様から正式に王仁三郎に対して、鎮魂法帰神術を再び行わないようにとの申し渡しがあったのである。

出口王仁三郎ほどの人物が側にいても、ご神霊や高級霊を身体によせて、口を切って神言、霊言を語らせる方法の、魔の入りやすさを回避させることはできなかったのである。

ましてや、厳格な審神学と天界の様子を知悉している内覚力が乏しい霊能者たちの、低い霊的なレベルで、ずば抜けた審神師も側にいないままで、天照大御神をはじめとする神典に登場される神々が、正確に霊言やら神示をドンドンお出しになるわけはない。

お出しになるとするならば、清浄域に詣でた後、おごそかに、神韻馥郁たるす言をもっ要点をお示しになる程度なのである。

また、この口をついて霊言を発することが百パーセント魔を呼ぶ危険性をもつことを知って、自分から霊言によって人々を導くことをおやめになった良心的なシャーマンもいる。

それが、立正佼成会の脇祖とあがめられる、長沼妙佼女史である。女史は、日蓮上人が生まれ、得度されたことで有名な千葉県小湊誕生寺において、沼のほとりに庵を結び、死ぬ気、死ぬ気の精進と赤誠をもって行をなされた方である。その結果、大霊能者となった女史は、たとえば、頭にひどいおできができた子供を見て、「かわいそうになあ。よしよし」と言って頭をなぜたら、ポロリとカサブタがその場で取れて、その場で病が完治したというエピソードのもち主だ。それほどの彼女でさえ、「ご発声(霊言)は魔が入りやすいからやめることにする」といって、口をついて出てくる霊言によるご指導をやめられたのだ。出口王仁三郎や彼女ほどの大霊能者でも、おやめになるぐらいであるから、一般の方々や、巷の霊能者、宗教家は、良心があるのならおやめになるのが本当ではなかろうかと思う。

私は、もう、二十五歳から同じことを悟って、どんなにピッタリと当たっていても霊言は出さないと決心して久しい。また、どんどん出てくる自動書記も、すべてまやかしものであるといったが、口が手になっただけで、基本的には同じことである。

戦後の信頼のおけるご神示として有名なものに、これも出口王仁三郎の愛弟子のひとりである岡本天明氏による「日月の神示」があるが、これも、「五十鈴黙示録」の大部分と、初期のころのものは、さすがに正確に取り次ぎをされておられるが、人々が「ご神示だ、ご神示だ」と騒ぐようになってからのものは、巧妙に兇党霊団という魔物が入った内容となっている。

故天明氏もお気づきのことだったと思われる。氏のご人格が立派であっただけに、正邪の混入したものが後世に残ってしまったことが、惜しまれてならない。

このように、立派な神様と称する霊が突如現れて、どんどん自動書記でちょっといい内容のものを出されても、それは決して正神界の高貴な神様ではないのである。

読者諸氏は決してこのようなものに興味をもたれたり、だまされることがないようにしていただきたい。

混乱したら、常識で割りきるのが一番

高級霊と低級霊を見分けることは、霊に関心がなく霊的体質でない人にも、実は決して無関係ではないのだ。

というのも低級霊とは相手の人間が霊に関心があろうがなかろうが、心と体と霊を占領して、自由自在にこれをあやつろうとしているからだ。

たとえば、次のような人がいたとする。

昔は純粋でいい人間だったけれど、最近はどうも乱暴排他的で、自分のことしか考えていない。

かつては進歩向上を求めていたのだが、近ごろは、人生どうでもいいやとばかり、ヤケッパチになって女遊びや酒びたりの日々を送っている。

また人を妬んでは権謀術数を弄し、努力せずに楽して儲けることばかりを考えている――このような人は、いつの間にか低級霊に御魂を占領されてしまっているのである。

それがいつだとは一概にはいえないが、最も多いのは、何かに失敗して挫折したときだ。

「俺はもうダメだ。もう、お先まっ暗。生きていく気力も出ない。いっそのこと、思いきって死んでしまおうか」。

こんな挫折感を味わったとき、地獄に堕ちている先祖霊や怨念霊地縛霊、浮遊霊などがガッと現れて、肉体を占領してしまうのである。というのは、絶望感や挫折感を味わっているときは、まさに、まっ暗な霊界を自分の中に形成しているからなのだ。

絶望感や挫折感のとき、心はすごく明るいという人はいないだろう。この、自分自身の中に形成するまっ暗な霊界にこそ、悪霊たちが感応し、その人物の性格を占領してしまうのである。

しかし、これらの悪い霊から自分を守る方法がひとつある。それは、どんなに挫折感や絶望感を味わっても、すぐに前向きの意欲と明るい希望に変えて、人生を切り開こうとすることである。

これが、本当の意味での信仰力というものなのである。そして、これこそが自分のご本霊を常に発動させておくことになるのである。

どんなに悪い霊でも、どんなに強い霊でも、ご本霊を常に発動させている人にはとりつくことができないのだ。

では、ご本霊を常に発動させておくにはどうするか。

それには何よりも、前述したことに加えて、人生と日々の目的意識をはっきりとさせ、とにかく、毎日をある程度忙しくしておくことだ。

むろん、先に述べた人生の本義に基づく四つの方向性によって、絶えず自己向上を図ることが大切である。

ここでも結局、学問と教養と正しい信仰力を養うことに帰結するのである。

また、霊のことで頭の中が混乱し、何が善で何が悪だかわからなくなったときには、常識の世界で割りきることである。

常識と現実界の礼節を第一と考えれば、霊の世界でごまかされることはなくなるのである。

危険で中途半端な霊能

ここで参考までに、中途半端な霊能が開いた人はどうなるか、具体的に事例をあげてお話ししておこう。

あるとき、私たちのところに、いろいろな宗教団体を遍歴してきた人が訪ねてきた。

仮にAさんとしておこう。

Aさんはむろん、さまざまな霊能者のところも巡り修業した。その結果、ある程度霊視もでき、また、霊界の事象を聞いたり、感じるようなレベルまで到達していたのだが、そんな折、私の著書を読んで感じるところがあったらしく、除霊を申し込んできたのである。

そこで私は、いつものようにごく普通の除霊をしてさしあげたのだが、霊能者巡りをしてきただけあって、自分でもそのことがわかったらしい。「あっ抜けていった。霊が出ていった」と、たいそう感激したわけである。

それ以来このAさん、「先生、先生」と非常に熱心に私のところに通うようになった。だが、Aさんのそれまでの足跡を見ると、私は安心しておられなかった。

というのも、夫がいながら平気で浮気をしたり、礼節を無視するなど、およそこの世の常識外のことを、Aさんは平気でしてきたからだ。

それでいて、一方では熱心に神様を求める。それも、以前に一度すばらしいお蔭を体験したことがあるからなのだ。よく見られる、熱心に信仰する中年層の信仰者パターンである。

このような人は、それまでの生き様と人格の基礎になっている性質が、どうしても低次元霊界の波長と合うため、どんなに高級な神様を求めても、霊的感性が鋭くなれば逆に悪霊を呼びやすくなるのである。

出口王仁三郎が、鎮魂法帰神術を一般にはやらなくなった経緯と、事は同じである。

いろいろなことから私も常々心配していたのだが、この不安はみごとに的中してしまった。

ある日突然、Aさんは「深見東州には悪霊がついている。魔ものがついている」といいはじめたのである。

そればかりか、ほかの会員たちに次々と電話をしては、「深見東州は悪霊にやられているから、行ってはいけない」と、ふれ回ったのである。

そこである会員の方が、「なぜそのようなことをいうのか」と問いただしてみたらしい。彼女はいった。

「私の独自な方法でわかったんだ。お告げがあったんだ。それに、先生のところへ来てからというもの、はじめはよかったのだが、途中から自分はおかしくなった。

だから、先生は悪霊にやられているのに違いないのだ」

客観的に見て、先生がおかしくなったのなら、それは「先生が悪霊につかれておかしくなったのだ」といっても、ごく常識的な論理であるといえるだろう。

だが、「先生は誰から見てもごく正常で、自分だけがおかしくなった」場合、なぜ、先生に魔ものがついていることになるのか。良心的な常識からいえば、まず、「自分がおかしくなった原因は、自分のどこかに思い違い心得違いがあったに違いない。

それは何か、どこか」そう心得て神様の前で自分を謙虚に省みるのが普通だろう。

おかしくなった原因は簡単である。少しばかりの霊能を鼻にかけて、人に忠告をしたり、めんどうをみたりする。そうしているうちに、すっかり先生気分になってしまって自惚れ、傲慢と増長魔、自我、慢心の魔境に自らが陥ってしまったからなのだ。これに、悪霊が完全感応したわけである。

ところで、この増長魔の特色とは、自分が増長魔に陥っていることに気がつかなくなるというものだ。だから、忠告すれば「そんなことはない。

あんたの方こそおかしい、自分は正常だ」といい張って、すこぶるご機嫌斜めにおなりになる。

こういう場合、その人の何倍もすごい人に、徹底的にとっちめられて天狗の鼻をヘシ折られるか、行き詰まって二進も三進もいかなくなって、はじめて猛反省するしかない。

逆に増長魔にまだなっていない人は、「自分は増長魔に襲われているような気がする。

この増長魔をどうして解決しようか」というもの。これは、少し道がズレているだけで、決して増長魔にやられているわけではない。

自省の念、謙譲の徳の輝きがまだ失われていないからだ。

さらに、「卑下慢」というものがある。表面上は、「私のように我が強い者はどうしようもありません。

因縁は深いし、強情だし、皆様方の末席を汚させていただくのも申しわけないような未熟者です」といいながら、腹の奥には囂々たる慢心があり、「何をいっているのだ。こんな連中と一緒にされてたまるか。私には霊力もあり、財力もあり、修業もたっぷり積んできているのだ。軽々しく扱わないでくれ。ばーか」というふうに、表面上は卑下していても、お腹の中は慢心の固まりのような人物だ。

意外にこういう人が多いものである。

また、さきほどのAさんの場合、「深見先生にはどんな霊がついているのかさぐってやろう」ということで、鎖をグルグル回して占う高級コックリさんのようなもので、夜に審神ごっこをしていた。悪霊を集める最も危険なやり方だ。

このように、自分が悪い霊を呼ぶような人格であり、増長魔であり、奇妙な行為を行うからこそ、その人間も、周囲の人たちもだめにするような悪しきお告げを受けたりするのだ。

中途半端に霊能が開いた人間は、だいたいこういう目に遭うことが多いのである。

ところで、では、このAさんの場合、霊界からお告げがあったときに、どのように対処すればよかったのだろうか。

先に私は、霊的に混乱したら常識の世界で割りきれといったが、Aさんのケースでは、他人にふれ回る前に私のところに手紙を出すなり、直談判に来ればよかったのだ。

どうしてもおかしいと思うのなら、何よりもまず、その本人に疑問をぶつけるべきである。

「私のみたところ、どうも先生はおかしい。悪霊につかれている、正しい、善き先生に戻ってください」と、真正面からぶつかってくるべきであったのだ。

それが至誠というものではないか。そうすれば、どんな悪霊にやられているか、瞬時のうちに見破って、天狗の鼻を私がへシ折ってあげていたのだ。それが、師弟の間柄というものではないか。

霊界から声が聞こえてきたり、お告げを受けたりしたら、その指示どおりに動くのではなく、むしろ疑ってかかり、現実界の礼節などに照らし合わせて、問い返し、考えを正すべきなのだ。

そうすれば、そのお告げが正しいものであるか否かが、はっきりと見えてきたはずである。

心の柔軟性を養う仏教

どちらかというと人間は、いいものよりも悪いものに影響されやすくできている。つまり「人心これ危うく道心これ微かなり」というわけで、なかなか悪いものが来ても、パシッと払いのけるだけの意志力と覚醒力はもてないものなのだ。

それを払うには、心の世界のバネが要る。悪い感覚、悪い霊覚、悪い思いになったときには、パシッといいほうへ戻すことのできる心のバネが必要なのだ。

だが、現実にはこれがなかなか難しい。人生に挫折して、ひとたび「もうダメだ」「人生おしまいだ」といった悪い感覚の中に入ってしまうと、なかなか立ちあがれないのが人間の常である。

実は、この心のバネを身につける方法を教えているのが、ほかならぬ仏教なのだ。もちろん、仏教だけではない。

儒教も、道教も、イスラム教も、キリスト教もそれを教えているのであるが、仏教が一番奥深く、しかも幅が広くて緻密だ。

細やかに最大漏らさず心の諸相を語り、かつ立て直しのあり方を具体的に示しているといえるのだ。

だから、正しく、幅広く仏教を学んでいると、悪い感覚を受けてペチャンとつぶされたときでも、すぐに蘇っていい感覚の自分に還ることができるようになれるのである。

これに対して、神界だけに心を向けている人は、悪い感覚を受けたときに、それをはね返す心のバネを身につけるのが難しい。

その意味で、神界だけはこの現実界を雄々しく生きていくことが難しいのである。

ところで、仏様は蓮の花の上に乗っておられるが、あれは一体何を意味しているのだろうか。

周知のとおり蓮は、その根は水泥中に張ってはいるものの、水の上では美しい花を咲かせている。

そして、泥水は現実界、花は心のヒダを表して仏界を象徴する。そして、その上に立つ御仏は、悟りの奥に開ける御魂の本体である神界などを象徴している。

つまり、世俗の中にしっかりと根ざして、上のほうでは美しい花を咲かせて、御魂は神に入っていることを蓮は象徴しているのだ。

きれいな花畑で咲いている花も美しい。しかし、この汚泥と汚辱で満ち満ちている世の中では、それではあまりにも弱すぎて、現実的に立派に生きることができない。

だから、蓮のように生きることが大事なのだ。蓮のようにたくましく、現実界に根を降ろさなければならないのである。

そこから蓮華の教え、つまり、南無妙法蓮華経が出てくるわけだ。

したがって、特に大乗仏教を研鑽していると心のバネ、柔軟性が身につくようになり、汚い思い、悪い思いが襲ってきても、パッといい感覚の方へ心を切り換えられるようになるのである。

もちろん、研鑽といっても、それを頭だけでするのではなく、実践的になさねば意味のないことなのであるが。

霊界は最初に述べたように心と念=霊の世界である。

だからこそ、「畜生!」「残念だっ!」という念を残して死ぬと、地縛霊や浮遊霊、怨念霊となったりするわけである。

このマイナスの念や想いを諭して、すがすがしい思いにさせたら霊は低級霊界から上の方へあがっていく。これが、ほかならぬ除霊というわけだ。

しかし、生きながらに明るくすがすがしい思いをもっている人間は、死後、除霊を受ける必要などまったくない。

「残念だっ、おのれ!」という想いを、自分自身でコントロールさえできれば、悪い霊界へ行くことなどない。

常に、いかなるときにも、「あ、待てよ。こんなことを思ったらダメだ」と、すぐに反省して切り換わる心のバネが身につけば、霊界へ行っても迷わないですむことだろう。

現実界の環境も大切

涅槃寂静だけではなく、このような心のバネ、心の柔軟性の必要性を説いたのが、仏教である。しかし、その仏教にも問題がないわけではない。なぜなら、仏教はあまりにも心の世界にだけとらわれすぎているからだ。

周知のとおり人間は、心だけではなく肉体をももっている。しかも心は肉体の影響を強く受けるのである。

その肉体的な面、言葉を換えていうならば現実界を、仏教は往々無視しているといわざるを得ない。

具体的に述べてみよう。

たとえば、浩宮皇太子殿下である。いうまでもなく、浩宮様は日本国の象徴としてのお立場におつきになるよう教育を受けられている。

ご幼少のころからすばらしい環境で育った殿下には、悪い想いや悪い念などはあまり湧きあがってくるはずもないのである。

反対に、劣悪な環境に育った人の場合はどうだろうか。どれほど努力しても、いい想念がなかなか湧いてこないに違いない。実は、こういう人にこそ真に仏教が必要なのである。

したがって、「心だ、心だ、心の修養だ」という前に、いい心が湧く環境をつくることの方が、より大切なことであることがわかる。

特に、小さいころからの環境づくりは一層大切なことである。「衣食足って礼節を知る」という言葉どおり、現実界がある程度豊かできちんとしていれば、悪い念は出てこないものである。

心と想念がすべてではない。現実界がよかったら、人間はおのずからよい心をもつ。よい心をもてば、優れた感覚やすばらしい神気にもふれることができるのである。

だから、現実界というものを改善することを棚にあげておきながら、心だ、想念だというのが、仏教信奉者の犯しやすい間違いであるといえるだろう。

現実界の調和の道を示す儒教

では、現実界の改善の道を示した教えは何か。孔子が説いた儒教である。

孔子の教えのすばらしいところは、現実界の仁・義・礼・智・信の道を示していることである。中でも特に、礼に関する教えは右に出るものがないといえよう。

己に克ちて礼に復する「己に克ちて」とは、苦しさにとことん耐えて頑張る、というような通常使われている単純な意味なのではない。

「己の中の人心、欲心に打ち克って、天地自然と君子としての本来の道である礼に復すること」、これが正しい「克己」というものの意味である。

では礼とは何か。天地自然と社会との美しき調和のことである。

たとえば、結婚式という儀式がある。今日では、結婚式をあげずに家庭をもつ人も多いと聞くが、それはそれで事情もあり、本人たちの主張でもあるからいいだろう。

しかし、同じ祝うのなら、やはり式をあげて、喜びを美しく豊かに分かち合いたいというのが、多くの人たちの共通の願いだといえよう。たとえていうならば、それが礼の心である。

また、葬式という儀式がある。これについても、「人間はいつかは必ず死ぬ、だから葬式なんかする必要はない。

アメリカで誰かがやってたように、飛行機から骨をバラまけば十分だ」などと考えている人もいるようだ。

だが、正式に葬式をしてお坊さんにそれなりにお経をあげてもらう方が、死者を送り出すのにふさわしいといえる。

人々が故人を偲び、それを見る死者にとっても、自分の死というものを自覚することができる大きな契機となるからである。

さらに、家族や友人にとっても、追悼の情を深く美しく為して、長年の恩や慕わしさに節度をつけて報いることもできる。これがまた、礼の心なのである。

ところが、これが儀式のための儀式になってしまう場合があり、礼がかえって弊害をもたらすことになる場合も多い。あくまでも礼の本質を見て、心が入って為さねばならないのである。

その礼の本質とは、先にも述べたように社会との調和と秩序の美であり、心情の豊かさをもたらす節度であり、大きくとらえれば、天地自然との調和のルールと法則なのである。

この観点から見て、バランスを保つように礼節を尽くしていくのが、現実界にかなった道ということができるだろう。

最も大切な学問、教養、信仰

第一章で述べたことをまとめてみよう。

幾度も述べてきたように、悪い霊に負けないためには、本当の学問と芸術を含む教養と信仰力の三つで自分を磨いていくほかはない。

では、正しい信仰力とは何か。神様を信じ、拝むことだけが信仰なのではない。それは信心であって、信仰とは別のものである。

本当の意味での正しい信仰力とは、真の学問と心の教養に基づいていなければならない。

人間は何のために生まれてきたのか。善とは何か、悪とは何かなどを正しく把握し正しく人生と神に向かい、それを実行していかなければ本物とはいえないのである。

真の学問と教養に基づいた信仰力を身につけておけば、危うく悪霊に占領されそうになっても、魂が真実の光を放つために、危機から脱却できる。

むろん、守護する善霊からも大いに導かれる。だから、失敗しそうな状況でも、いい方へ、いい方へと向かっていくことができるのである。

反対に、正しい信仰力を身につけていないと、どうしても悪霊が霊界への興味やお蔭に対する欲望に感応したり、自我、慢心、増長魔に感応する悪霊などにも占領される危険性が高い。

また、特に挫折した瞬間、失敗した瞬間など、人格が崩壊していくような時点が最も危ない。

そんなときに、悪霊がたちどころに肉体を占領するのである。

だが、守護霊が交替する時期も、実は、これと同じような時期なのである。「強運」(たちばな出版刊)をはじめ、いくつかの著書の中でも述べたことだが、環境が激変したり、それに伴って何か志を立てて御魂を発動させたときなどに、よりグレードの高い守護霊と交替するのが常である。

高校受験や大学受験などで、しっかりやらなければと頑張ったとき。あるいは事業に失敗して、何とかしなければと起死回生を図ってファイトを燃やしたとき。

こんな場合、パワーのある守護霊に霊界で自然交替が為されて、大いに加勢応援してくれるのである。

要するに、大きくその人の環境が変わったときには、背後の霊界も変わりやすくなっていて、そのときに善い霊が自分を占領するか、悪い霊が占領するかは、すべてそのときの自分次第、自分自身の想念と根性のもち方次第にかかっているのだ。

「もうダメだ」「いっそ死んでしまいたい」「あの野郎ッ!」こういう思いを抱いたときには、すでに悪霊に負けている。

「よし、頑張ろう」「つらいけど敗けないぞ!」「頭にくるけど、まあ、許してやろう。要は、自分がもっと大きくなることだ」――こう思ったら、守護神、守護霊がしっかりと守ってくれるのである。

善に向かうにしろ、悪に向かうにしろ、自分の人格が崩壊するような気持ちになる瞬間、己を見失ってしまうような瞬間は、神だめしのときなのだ。

それで崩壊していく人もいれば、脱皮してより大きくなっていく人もいる。いわば、そのときこそが人生の吉と凶を決める分水嶺でもあるのだ。

その分水嶺の越え方の下手な人が、悪霊にやられやすい人ということになる。そのような人は、いつも悪霊に占領され、悪い先祖霊の影響も受けている。

いうならば、悪霊駐屯基地のような人間であり、浮遊霊の吸い取り紙のような人間になっていることも多い。

こういう人は、除霊以前の人である。どんなに除霊をしても、自分が吸い取り紙になっているのだから、キリがない。

どうしても、悪霊との交渉を断ち切りたいなら、人格すべてを変えるしか方法はないのである。

それぐらいの一大決心をもってすれば、除霊後、まるでうそのように人間が変わって幸運になるはずである。しかし、言うは易く行うは難し。なかなかそうとはわかっていても実行できるものではない。

それで、「ワールドメイト」という会をつくり、数々の活動や研修をとおして、良き人は一層良く、問題多き人は、時間をかけて絶対に良くなる方向へと導こうとしているのである。

むろん、除霊を受けていなくても入会は自由である。

ところで、霊は人に対し、さまざまな関与をしてくるのだが、われわれ肉体のある人間は、霊に使われているようではいけない。常に自分が主体の立場に立って、霊を追い払ったり導いたりするくらいでなければならない。

そのためには、心の世界を基軸として、現実界と「いい感覚の世界」である神界というものを、自分自身で主体的に自在活用し、自分の毎日というものをよりよいコンディションに保っておく必要がある。

そうでなければ、霊にあやつられる人生にならざるを得ない。気持ちが絶えず霊というものに打ち勝って、善霊を生かして誠であやつるようでなければいけないのだ。

今日まで、霊能者は霊界ばかり、神に生きる人間は神ばかり、常識人は常識ばかりという具合に、それぞれの道に偏してそれらを探求してきた。

しかし、それひとつだけではすべてが間違いとなるのである。なぜなら、各々たった一つの世界のことしか見ていないからだ。

三つを全部見て、今の自分を最高にして、周囲をも幸せにするという姿勢が正しいのである。

霊ばかりを見ていると、悪霊にだまされ占領される。常識の世界ばかり見ていたら、「妙」(霊妙な神仏の動きのこと)が乏しくなり天運が引き込めない。神様の世界ばかり見ていたら、社会に根ざさないで世間から相手にされない。

そもそも、天地を創造された主の神様は、神界と霊界と現実界の三界をつくられたのである。

だから、正しく神様を掌握して、正しい自分の人生をまっとうするには、神界、霊界、現実界の三極を同時に尊重して、偏りなくバランスをもって見ていくことが必要なのだ。

そうして、常に自分自身の魂を向上させ、ご本霊を輝かせて周囲に善なる感化力を与えるように努力をしなければ、正しい人生ということはできない。

たとえ神様を信じているといっても、決してそれだけでは正しく信仰しているとはいえない。

いや、それどころか、知らず知らずのうちに、悪霊にご本霊を占領されてしまうことだって十分に考えられるのである。