とにもかくにも連絡を
こういうふうにして、このホウレンソウがいかに偉大なものなのか。報告書を通して社員教育ができて、この連絡が取れると、やはりチームワークとしてやれるわけです。
しかし連絡が取れない人間は、だんだん疎遠になっていきます。何回かそういうことがあったら、私も使いません。
いい子で一生懸命やる子は、留守電に入れたら、必ず留守電をよく確かめています。
しかし、三日に一回しか留守電を聞かないという人もいるんです。だから留守電がすぐに満杯になってしまいます。
留守電のなかには、「二十秒以内に願います」といってすぐ切れてしまうのもあります。「今の内容でいい場合は1を、内容を変更する場合は2を押してください。
ご利用ありがとうございました。プーッ」という前に、シャープを押して、1を押さなくても、問答無用で、「二十秒以内で「切れます」「何とか何とかで、ブチッ」と切れるから、私は絶対に負けるもんかと思って(笑)、その続き、プチッ。プチッ、プチッ、二十秒を十クールかけると、「メッセージはこれ以上お入れできません」って、「そんな安物の留守電にするな」と私は思うんですけれど(笑)、あの二十秒以内にという留守電サービスにしているスタッフがいたら、絶対にボーナスを出すものかと思いますものね(笑)。
「ボーナスを半分にされたくなければ、まともな留守電にしてくれ。思ったときに言わないと忘れるから、こちらはたくさんの仕事をしているわけだから、分かる?」「はい」と。
ところが、留守電を聞くのがイヤなんでしょう、その子は。しかし、それをぐっとこらえて、連絡というものを密にしてくれる人でないと、コミュニケーションが取れないから、一緒に仕事ができません。
途中で留守電サービスが「プーッ」と切れてしまう人間とは、絶対にもうつき合うものかと思って、食事に行っても、ほかのスタッフはご馳走してあげても、この子だけは割り勘だと言いたくなります(笑)。
それだけ、連絡が取れないということは許せないことなんです。
特に秘書室にいる人間は、私のブレーンとして一緒に仕事をしているわけですから、すべての社員に言うのは酷ですけれども、しかし、何時に電話をかけてもパッと出てくれるのは、これはもう神様のような方で、何時にかけても、何回やっても電話に出てくれる。留守電に入れても、つねに留守電を確認して、「お電話をいただきましてすみません。
今忙しいので、またかけ直しますか「ら」と言うことだけでも、すぐに連絡が取れる人というのは、やはり、どんどん仕事が来ますし、取引先も増えるわけです。
夜中の二時に連絡を返してあげるのも大変だけれど、その場合は、だれかお願いして、アルバイトでも便利屋でも、声色を使って言ってくれればいいんです。
だから留守電にも、「今はこういう状態ですから、何時ごろになります」と言って、マナーモードにする前に、もうメッセージが返ってくるような留守電のサービスがあったらいいのになと思うんです。
あるのかどうなのか知らないですけれど、もしそういうサービスがあったら、いつ電話をしたらいいということが分かります。
いつも出られるとは限らないわけですから、歌を歌っている最中、ピアノを演奏している最中、プールで泳いでいる最中は無理です。
だから、「いついつなら連絡ができますよ」と、そうやって、つねに連絡が取れる人は、仕事がどんどんそっちへ行きます。会社の上司もそっちへ行きます。これができていないとチャンスを逃しますから、重要な社員教育です。
タイム・イズ・マネー
それで、「タイム・イズ・マネーは本当だ」ということです。時は金なりなんです。それはどうしたらタイム・イズ・マネー、つまり、時は金なりが実行できるかというと、報告書なんです。報告書を書くのに時間がかかり過ぎているなと思ったら、社長は、「これをいついつまでに上げなきゃダメだよ」と言って、ケツカッチンするわけです。
そうしたら、締め切り効果があるから、そのときまでに何とかやってきます。文書を提出するとか、デザインを提出するとか、企画を提出するとか、「ああでもないわ、こうでもないわ」と、果てしなくかかっていくから、その場合は、もうケツを切らなければならない。
締め切りに絶対に間に合わせるんだということでいくためには、報告書を見て、あるいは連絡してケツを切る、いついつまでに。それがタイム・イズ・マネーです。本当にスピーディーにやるんです。
その指示と牽制球を送らなかったら、だらだらだらだらだらだらだらだら、要するに、今はできないからと言って、これだからこうなって、結果いつごろになりました、と。
今の自分の仕事の出来高で、こうずっとしていたら、この日になりました、となってしまうんです。
そうではなく、ケツカッチン。いついつまでに上げろということを決めたら、その日に仕上げるにはどうしたらいいかを考えて、今の仕事を、人を増やすと徹夜でやるとか、三日に一回やるとか、何時間までやりましょうとか言うと、会議の集中、ミーティングの回数も決めて、やはり、このときまでに仕上げるわけです。
このときまでにこれだけのレベルのものを仕上げるためには、どうしたらいいかを考えて、今の仕事の効率を上げていくんです。
仕事の効率を上げるためには、ケツカッチンからなんです。仕事の効率を上げるためには、おしりを切って、そのためには、これだけのレベルのものをやらなければいけないけれども、それはどうしたらいいかと考えたら、これは効率的に話を進めていくから、こういうふうにしなければ、だらだらだらだらいつまでも、どこまで行っても上がってこないんです。
しり切れとんぼになってしまって、それだけ集中力もなくなります。
ですから、タイム・イズ・マネーです、本当に。それは、報告書、あるいはケツを切っていくような仕事の指示の仕方からいくと、うまくいくわけです。
経営者の心得とは? ~平成13年10月20日 関西ワールドメイト会館~
感想文とはいかなるものか
最近、どのスタッフを見ても、ちょっとだけ賢そうに見えます(笑)。
というのは、富士箱根神業が終わったあと、いま三百人くらいいる全スタッフ(当時)に、富士箱根神業のビデオを全巻見せて、四千字で感想文を書かせたからです。
しかし今回スタッフが書いた感想文の一つの傾向として、たとえば、「目からウロコが落ちたようだ」といった表現が目立ちます。
これから先、神業のたびに感想文を書いていくわけですが、普段、そんなにウロコが多いのかと(笑)。
コンタクトレンズを五十枚ぐらいつけているのかいな、と思ってしまいます。
あるいは、「御魂返しされた」といった表現も多々見られましたが、そんなに御魂返しされているのなら、もっと立派なはずなのに、あんまり変わらないじゃないかと、思ったりもします(笑)。
たちばな出版の営業マンなんかは、「自分はたちばな出版の営業マンとして、一生懸命にがんばっている。がんばっている自分と比べて、あの人は、ああだ「こうだ」といった具合に、今のわが身と他人の姿を比べて感想を書いたりもしています。
たしかに感想には違いありませんが、感想文は、客観性があって、どのようにポイントを押さえて書いていくか、ということが大事なんです。
神業ビデオを見た上での感想文ですが、果たしてみんなはどれだけ分かっているのだろうかと思います。
「目からウロコが落ちた」とか、「御魂返しされたようだ」とか、「日ごろ一生懸命に努力している自分が励まされた」といった感想文なんですが、それを他人が読んで、「いやあ、素晴らしい感想文だった」と思うかどうか、です。
他人が読んで、「よかった」と思うような感想文が書けないということは、ありきたりのものの考え方をし、ありきたりの人生を送って、ありきたりな一生を送って、ありきたりにあの世へ行くという、ありきたりの人ですよ。アリの世界に鬼太郎が行っているわけです(笑)。
では、感想文というのはどのようなものなのか。たとえば、四百字以内で感想を書きなさいと言われたときに、「すごくよかった。終わり」と書けば、たしかに四百字以内ですよ(笑)。
しかし、それでは少なすぎです。また、「非常に、非常に、すごくよかった」と(笑)。
たしかにこれも四百字以内です。しかし、四百字以内で書きなさいと言われたら、せめて三百六十字から三百八十字ぐらいは書かないといけないんです。
もちろん、四百字ピッタリでもいいんですが、せめて三百八十字ぐらいは書かなければ、四百字以内で書きなさいと指定している意味がありません。
一千字で書きなさいと言って、五文字でも十文字でも、もちろん一千字以内です。しかし、一千字で書きなさいと言われたら、やはり九百八十字ぐらいは書いてくれないと、出題者としても不満が残ります。
また、感想文を書く場合、何に感動したのかという具体性がないと、文章を書いたことにはなりません。文章に書けないということはどういうことかというと、あんまり頭で大したことを思っていない、つまり、頭があんまり大したことない、ということです(笑)。
感動したと言うんだけれど、「どう感動したの?」と聞かれて、「身が打ち震えるほど感動した」とか「いやあ、頬が緩みながら涙が滂沱とあふれて、震えるほど感動した」というふうにしか答えられなかったら、何に感動したかが分からないわけです。
感動したということの具体性を求められたなら、感動のレベルではなく、「何に感動したのか」について述べる。
こういうところに感動したということを具体的に書けば、読んだ人も、「ああ、なるほどね」と納得するわけです。音楽とか恋の悩みとか喜びというのは、本来、言葉を超えたものですから、その言葉を超えたものを感じているのは、誰でも同じです。
しかし、それが言葉にならない人間というのは、詩人にはなれないし、歌人にはなれないし、俳句の俳人にはなれない。それを具体的な音楽のメロディで表現できない人は音楽家にはなれないわけです。
キャンバスに色とか形で表現できない人は画家にはなれません。やはり、言葉にならないものを言葉にするところが、短歌であり歌であり、芸術なんです。
ですから、言葉にならないものをどういうふうに言葉でもっていったらいいだろうか、というふうに、第三者に客観的に分かるようなものでないと、それは芸術としての短歌にならないし、芸術としての俳句にならないし、芸術としての音楽にならないし、芸術としての絵にならないわけです。もちろん書道もそうです。
経営者に不可欠な表現力
当然、言葉で表現できない人間は経営者になれません。
「うーん、とにかく売上だけだ」と言われて、誰ががんばれるかって言うんです(笑)。経営は人・物・金が動くわけですから、「言うに言えないような思いなんで、五百万円いるんです」と銀行にお金を借りにいって、銀行がお金を貸してくれるのかと言うんです(笑)。
「表現できないようなことがあるんです。それで五百万円いるんです」
「えらく五百万円という金額だけは具体的じゃないか。なぜ五百万円がいるの?」
「いや、もうすごいんですよ、それは」
「いや、だから、どこがどのようにすごいの?」
「いや、あのう、目からウロコが落ちるほどすごい、御魂返しされたほどにすごい。だから五百万円貸してください」(笑)
「五百万円じゃなくて四百万円ではなぜいけないんだ?二百万円ならなぜいけないんだ?」と言われますよ。
やはり、銀行からお金を借りるときでも、事業計画書、返済計画、担保等、どういうようなことに使うのかということが、きちんと言葉で表現できないと銀行には分かりませんし、当然、お金は貸してはくれません。
そういう表現のできない人というのは、はじめから経営者としては難しいですね。
たとえば、「ムニャムニャ、とにかく、仕事ください」と言ったとします。「ど、ど、どんな仕事?」「いやー、ムニャムニャ、仕事、ください」(笑)。たしかに、仕事が欲しいんだなということは伝わるかもしれないけれど、どんな仕事がほしいのか、皆目見当がつかない。
「何をやっていらっしゃるんですか」
「いやあ、まあ、いろいろですわ」(笑)。
「いろいろ?」
「まあいろいろですが、一応工務店です」
「ああ、そうですか」
「だから仕事ください」と(笑)。
しかし、工務店は世間にいっぱいあるわけです。その中から、なぜ自分の会社を選んでいただかなければならないかが、きちんと言葉として表現できなければダメなんです。
理屈だけ言って頭では分かっても、人間は感情の生き物ですから、「ああ、いいなあ」と思って初めて、向こうも仕事をくれるし、かわいいなと思うからかわいがってくれるんです。
もちろん感情だけではありません。心が動くと同時に頭のほうも、「なるほどなあ」と、相手が納得するだけの表現が具体的にできるという両方がないとやはりダメなのです。
だから、言葉にならないものを言葉にする。感想文で、制限時間内でピタリとその字数で適切な言葉で、具体的に表現できているならば、「ああ、なるほどな。この人はこういうところに、これだけ感動したんだな」ということが分かって、その先の道も開けていくことになるのです。
ロスチャイルド家、繁栄の秘密
私の最新のメルマガ(当時)は、ロンドンから皆さんに送りました。読んだ感想を何人かのスタッフに聞いてみましたが、あるスタッフは、「箱根神事の証がすぐに出たのがよかった」と言うんですが、神事の証はいつでも出しているわけで、だったら、ロンドンからわざわざメルマガを出す必要はないのです。
そのスタッフは、富士箱根神業のビデオを見て感想文を書いたばかりだから、つい最近あったことに対して、自分が思ったことを述べたのでしょう。
ほかのスタッフからは、「とにかく、メルマガの文章量が多いのに感動した」とか(笑)、「読みきれないほどに大変だった」といった感想もありました。
「ロンドンからメルマガが来たということがすごい。世界はつながっているん「だ」と言う者もいました(笑)。
今回私は、バッキンガム宮殿に行って、アン女王と会うなどしました。ロスチャイルドさんとも会いました。
ロスチャイルド・アンド・チャイルド・バンクという銀行があります。ロスチャイルド家の本家の銀行で、ライバルに当たるのはジェイコブ・ロスチャイルドという銀行です。
同じロスチャイルドでも、友好的な関係とそうでない関係と、いろいろなロスチャイルドが存在します。
その数六十ほどと言われています。日本でも、本家争いとか、骨肉の争いが起きたりしますが、組織が大きくなれば、それもやむを得ないことかもしれません。
ロスチャイルドは十八世紀、ヨーロッパで誕生したユダヤ系資本です。創業者のマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドに五人の子どもがいて、この五人がフランクフルト、パリ、ロンドン、ナポリ、ウィーンをビジネス拠点としましたが、中でもロンドンのネイサンとパリのジェームスが大成功を収めました。
マイヤーは五人の子どもに対して、「お前たちは力を合わせてがんばるんだぞ」と命じたそうですが、これは戦国時代の毛利家と一緒です。
毛利元就は、「一本の矢は折れるけど、三本の矢は折れないから、協力してやるように」と言ったそうですが、ロスチャイルドの五人の子どもたちはネットワークを組んで、さまざまな分野に進出していきました。
ロスチャイルドのマークというのは五本の矢なんですが、最初は矢が下向きにデザインされていました。
現在の、矢が上向きになったのは、私がお会いしたジェイコブ・ロスチャイルドの意向だと言われています。
私は何人かのロスチャイルドの人々と会っていますが、このロスチャイルド家と日本は浅からぬ因縁があります。
日露戦争のときに、当時日銀にいた高橋是清がロスチャイルドからお金を借りて日露戦争の戦費をまかなったんです。
そのお陰で日本は勝利することができました。もちろんそれだけではない。
海軍も陸軍もがんばったから勝ったんですけれど、イギリスの戦艦を買うなどした費用はロスチャイルドが出したんです。
当時、ロシア国内のユダヤ人が虐待されていて、そのロシアを日本が打ち破り、ユダヤの同胞が助かりました。
ロスチャイルドは、本当はフリーメーソンと関係が深いという説があり、ロスチャイルドと私は仲がいいと言うと、私がフリーメーソンに加盟しているのではないかと言われます。
どう言われようと、私は「フリーで目が損するだけだから(笑)」とはぐらかしていますが、迂闊に言えませんね。
そういうふうに言ったほうが恐れられて、悪いことを言われなくなるかもしれませんけれども、まあ、ユダヤですから、なかなかの雰囲気というか、ある種の徳分を感じます。
上からファーっと来るような、オーラみたいなものがあって、ひょっとしたら、悪の魔王じゃないかなんていう気もしますが、ロスチャイルドの人たちは、みな気がいいんです。気のいい魔王というところでしょうか。
十九世紀に入って、ロスチャイルドの五人の息子がお互いに連絡を取り合っ大活躍を始めます。フランスとかオーストリアとかで鉄道に投資していくんです。
お互いが連絡を取り合って、兄弟が本当に力を合わせてロスチャイルド家を繁栄させたんです。
当時、産業革命が進行し、各国とも富国強兵策をとり、膨張主義が世界を支配していました。つまり、ことあらば領土拡大を狙い、随所で、きな臭いにおいが漂っていました。
戦争をするためには、戦費を得なければなりません。国家は国債を発行し、資金を得ようとします。
ところが実際、戦争が起きれば国債の価値が下がります。その国債、あるいは公債を大量に引き受けていたのがロスチャイルドでしたから、ロスチャイルドとしては、戦争が起きると、国債、公債が値崩れを起こす。
そこで、何とか戦争が起きないようにしないといけないからと、ロスチャイルドは各国に自重を求めました。
その結果、ヨーロッパ諸国では、ひとまず戦火を避けることができたんです。
もちろん、日露戦争の例もあるように、ロスチャイルドが徹底的な平和主義だったわけではありません。
そこには、冷徹なビジネス感覚があったわけですが、とにもかくにも戦争を回避することができたわけで、それをロスチャイルドの徳分と評価すれば、その後のロスチャイルドの繁栄は、その徳分のお陰ということができるでしょう。
おそらく当時のヨーロッパからすれば、三つか四つぐらい戦争が起きてもおかしくなかったところですが、結果的には戦争するお金がロスチャイルドから出ないから、各国とも戦争を断念しました。
何人かのロスチャイルド家の人々に会いましたが、いずれの人も上からエネルギーが来ています。すごい徳分があります。戦争を途中でやめさせるよりも、未然に防ぐほうが徳分が高いんです。
感想文を書くための基礎とは
話を元に戻しますが、そういうようなロスチャイルドに関する私のメルマガの感想をスタッフに聞いても、ロスチャイルドのことについての感想は何も言いません。
感想というのは何を考えても自由です。しかし同じスタッフでも、仕事をしっかりがんばっている何人かのスタッフは、「バッキンガムから帰ってアン女王のこととかを即、先生がメルマガで知らせてくださったのがやっぱりよかったです」とか言ってくれるわけです。
「よく分かってくれているじゃないか」と(笑)。
「それから、箱根に関する内容もよかったですし」というように続けば、言葉がちゃんと足りています。
やはり、仕事ができる人間は言葉が足りているんです。何でもかんでもそのときの印象や感想をただ口に出して言えばいいわけではない。
だから、メルマガをもらっても、迂闊に感想を言えませんよ、スタッフの場合は(笑)。
「どうなんだ?」と私から聞かれますから。皆さんも、営者の心構えはどうなんだ?」と。ともあれ、感想文は点数をつけてお返しいたしましょう(笑)。
今、スタッフも全員がそうやって感想文を書くようになって、だんだんと感想文がうまく書けるようになってきています。やはり感想文を書くには、書く上での基礎があるわけです。
何字以内で書きなさいという指定があったら、句読点も入れた上で字数を合わせて書くようにする。
ちなみに、パソコンで文章を作成する場合は、字数をきちんと手で数えないといけません。
それから、序論、本論、結論を踏まえて書くことが大変重要です。
ただ単に、「日ごろがんばっているのに励まされた」と書くのは感想文ではありません。
また、「目からウロコが落ちた」とか、「御魂返しされました」「感謝します」なんて、誰でも書きそうな慣用表現ばかりを使うのは避けてほしいものです。
やはり、客観性に基づいたところの個人の感情となってくると、ものの見方が社会人として大人の目となっていなければなりません。
誰を尊敬しているかでその人の社会性が分かる
社会性ということで言えば、たとえば、就職の面接などではよく、「尊敬している人は誰ですか」と聞かれます。
そのとき、「お父さんです」とか「お母さんです」と答えると、それでもう不採用になってしまうんです。
「お父さんを尊敬しているというのなら、あなたのお父さんは、お釈迦さん、孔子さん、ソクラテスやイエス・キリスト、モーゼといった偉人よりも偉いのか」「松下幸之助さんや土光敏夫さん、本田宗一郎さんとか盛田昭夫さん、そういう人よりも偉いのか」と言われてしまいます。
ですから、尊敬するのが父なんて言ったらまず、就職試験の面接では一発で落ちます。その理由は、「社会性がない」ということに尽きます。
尊敬する感情は本人の自由ですが、「あなたはお父さんしか知らないのか」と言われてしまうんです。
「彼しか知らない彼女」というのは、ピュアな女性だと思うんですけれどね。
その知るという意味は多々あるし、探ると奥は深いんですけれどもね(笑)。
とにかく、「尊敬するのはお父さんです」なんて答えると、就職試験は一発でダメです。「社会性がない」ということになります。
「尊敬するのはお母さ「ん」という答えもダメです。「お母さんのことを尊敬している」とか「お父さんのことを尊敬している」と思うのはいいんです。もちろん、親として尊敬すべきところはあるでしょう。
しかし、「尊敬する人は誰ですか」と聞かれたら、その対象が世界では六十何億人いるわけで、さらには、古今東西、しかもエジプトのクフ王の時代も入れると、その時代は紀元前二六〇〇年ですから、有史と合わせれば四千六百年という世界の歴史の中で、お父さんが一番偉かったのか、と。四千六百年の歴史の中でお母さんが一番尊敬すべき人だったのか、ということになります。
それはつまり、「この人は社会性がない」と判断されるわけです。
もちろん就職試験での禁句はいくつもあるわけで、面接官に、「お前はバカか」なんて言ったら、不採用になるのは当たり前ですけれど、それと同じです。
「尊敬する人は誰ですか」「それはお父さんです」と答えると、「他にいないのか」と、その時点でバシッとはねられます。
「学校を卒業してこれから社会人になろうとするときに、この人はお父さん以外に偉い人を知らないのか」
「きっと、本もロクに読んでいないんだろうな、社会経験も十分にしてないんだろうな」と判断されてしまうことになります。
自分の狭い世界の中で価値判断を表明するということは、「この人は本を読んでいない」「歴史を知らない」「社会経験がない」「社会性がない」「人間とはどうあるべきかという一つの判断力がない」というふうに見なされます。
社会人として男として、もちろん女性でもそうですが、社会で仕事をしていくときに、一般常識、歴史においても、人間とはどうあるべきかという面においても、尊敬すべき人間とはどうなのか、あるいは、社会人として大人として、どういうふうに生きればいいのか、という考え方の背骨がなければなりません。
それができないということは、本当の意味で乳離れができていないことになります。
もちろん乳離れには、お母さんの乳離れとお父さんの父離れと両方あるわけなんですけれど(笑)、社会的乳離れができていないということです。
やはり客観性に基づくところ、社会のスタンダードに基づくところのものの見方というものがあって、それに基づくところのいいとか悪いとかで感動したとかよかったというのなら、その感想は優れた感想ですから、傾聴するに値する感想でしょう。
もちろん、自分の印象を言うのなら、どう思おうとそれは自由です。しかし、それが優れた印象かどうかが問題なのです。耳を傾けるだけの値打ちのある感想かどうかなんです。
それを皆さん、よく考えていただきたいわけです。
空理空論を語る経営者は信用されない
今回皆さんには「経営者の心得」というタイトルで書いていただきましたけれども、書いている文章には社会性があるんだろうか、客観性があるんだろうか、常識があるんだろうか、それに基づくところの心得になっているんだろうか、ということを考えましたときに、どうなのかなあ、と(笑)。
ところで、私の父親が言った名文句があります。
「お前、わしの言うことを一つだけ聞け」
「何ですか」
「売上が上がること、次に粗利益を取ること、そして、経費を削減して利益を出すこと、それだけだ。それだけできたら最高だ。それをやれ!!」と。
何てひどいことを言うんだと思って、神様に祈りました。「お前に一つだけ言っておく」と言っておきながら、それが一つだけかと(笑)。
しかし、「よし分かった、絶対に一つだけをやってやる」と。「売上を上げ、粗利益を取って、経費を抑えて利益を出す。やったらいいんだろう」と。
それから、「在庫を少なくしろ」と。それはたしかに在庫は利益を圧迫します。要するに在庫はお金が物に化けていて、帳簿上は利益です。しかし、それは見事にやりました。
「よし、やってやろうじゃないか!」と。そういうことはできるわけです。売上は上がったけれど粗利が取れなかった。
売上が上がって粗利が取れたけど経費が多くなって利益が出なかった、ということもあります。とにかく、何ごとも神の思し召しと思って生きている私ですから、そういうふうに受け取って乗り越えたわけです。
それは置いておいて、たとえば従業員に、「経営者の心構えとして、わしはこういうふうに心構えておる。
それは何かというと、とにかく笑顔だ」という経営者がいたとしたら、「関係ないじゃないか、笑顔で売上が上がるのか。笑顔で粗利が取れるのか。笑顔で経費が削減できるのか」と、従業員にバカにされます。
「経営者の心構えは、わしはこれを心構えておるんじゃ。何と言っても利益だ。なぜかと言うと、わしのご先祖様代々の言いつけなんだ」と言ったら(笑)、「ああ、そうかいな」で終わりです。何の説得力もないですよ(笑)。
「ある朝、わしがそう思った」という場合も、それはたしかに思うのは自由です経営者の心構えを今言ったように感想を思うのは自由です。
しかし、それを社員に聞かせて、社員が社長を尊敬するか、ということなんです。
銀行とか税務署と話をするときのことについて言いますと、税務署は払うか払わないか、認めるか認めないか、見破るか見破らないかなんでしょうけれども、銀行がある会社の経営者と話をします。
その中で、何か難しい話をすると、空理空論ばかりで、実際の経営はどうなんだろうかと考えます。
実際の経営をやっているんだけれども、何か話をしてもピンと来ない、と。
だから、信用調査があったときには、経営者の知識や常識、積極的であるとかないとか、学者タイプであるとかないとか、いろいろ分類されているんです。
それで、銀行がお金を貸す場合には必ず経営者に会います。銀行の支店長の仕事はそのほとんどが経営者に会うことなんです。
支店長はすぐ転勤しますから、挨拶に来て、それでまた次の支店長が来て挨拶して、また転任しますからと言って、支店長代理も支店長も挨拶ばかりなんです。
銀行ってほかに仕事がないのかいな、と思うくらいです。もちろんあるんでしょうけれども、われわれ経営者にとっては、銀行の支店長は挨拶にしか来ないのかと。
あとは、「ダメです」と言いに来るときですね(笑)。担保があって、信用保証協会の枠であれば、誰でもすぐに貸すでしょうけれど、そうでないところに貸すのがいいところなんです、普通は。
だから、そのときにいったい会いに来るだけなのか、ということなんです。それは愛がある人にはいいでしょうけれど、いったい何をしに来るかというと、実は経営者の能力を見に来るんです。
人物を見ると言うんですけど、「どうぞ」と黙っていて、見たじゃないか、と(笑)。
二メートル離れていて、三メートルでもいいんですが、「はい、見てくれ」と言っても、イースター島のモアイ像ではないわけだから(笑)、やはり黙って顔を見ただけではダメで、実際にはお話しします。
そのお話の中に難しいことばかり言うと、「この経営者は学者タイプだ」と判断されますし、「ムニャムニャ。利益だ」とはっきりものを言わない経営者だったら、「これじゃあ、社員はついてこないだろうなあ」と銀行は判断するわけです。だから私がこういうふうに言っているのは、本当に大事なことなんです。
人を納得させる話し方とは
話を戻しますと、自分の感想を言うのは自由です。しかしそれが、「あなたの尊敬する人は誰ですか」と聞かれて、「お父さんです」「お母さんです」「おじさんです」「先輩の何とかです」「監督です」とか、自分の周囲にいる親戚縁者とか知り合いの名前を挙げてしまうと、もうダメなんです。
理由は、「社会性がない」「本を読んでない、勉強してない」「社会というものに対する目が開かれていない」ということで、就職試験ではペケになってしまうんです。意地の悪い試験官だったら、「何で尊敬するの?」と聞いてきます。
しかし、もうこの時点で試験官はダメだと思っているんですけれど、そこで、「お父さんは「優しいから」と答えようものなら、そんなのはもっとペケです(笑)。
ペケペケペケペケペケーッ!生まれ変わって、もう一度出直してこい、と(笑)。
最低ですよ。いったい会社で何をする気なんだ、と。優しい人を求めているのか。しかし考えたら、こんなことを言うのは幼稚だからなんです。
要するに乳離れができてないんです、精神的、社会的に。もしも、「尊敬する人は?」と聞かれて、「シュバイツァーです」と答えたら、「何でなのか」と聞かれますから、普通は、「あんなアフリカの中でがんばって一生を貫いてノーベル賞をもらったのはすごいと思います」
「うん、それで」「それだけです」としか答えられないことが多いのではないでしょうか。
シュバイツァー博士は、小学校か中学校のときに出る人物伝、伝記でしょう。しかし、お父さんやお母さんよりは身内ではない。相当離れています。名前も横文字です。
ところが、「はい、私の尊敬する人物はシュバイツァー博士です。なぜかといいますと、シュバイツァー博士はああいう未開のアフリカで、熱病と闘いながら、現地の人たちに対して医療を施したことで有名なんですけれども、実は、パイプオルガニストとしても非常に有名な方で、もうそれだけでプロになれる人だったんです。
その音楽と芸術というものを愛するのが、医学と同じぐらいのものを持っているんです。
そういう感性があるがゆえに、ただ儲かるとか儲からないとか社会的な名誉で医者になるよりも、ロマンがあってああいう所に行くという、医学と同時にパイプオルガニストとしても有名な方だったという、そういうところがやっぱり人間として共感を呼ぶと申しますか、あのシュバイツァー博士の偉業の中に隠れた人間性に、音楽を愛する人に悪い人はいないと言いますけれども、私は本当だなと思いまして」と言うと、聞いた人はみんな、「おお!」と思うでしょう(笑)。
「だから私も、仕事をするのに、音楽を忘れたくないと思っています。そういうものがないとやっぱり、仕事は誰よりも一生懸命にやらなければいけないですけれども、夢とロマンを持つ仕事をしたいと思っています。私の場合は、パイプオルガンではなくてバイオリンですけれども、御社に入って、ドバイでもアラスカでも、とくにそういう所に飛ばしていただく必要はございませんけれども、ドイツあたりに行ったときには、バイオリンを弾いて音楽の好きなクライアントと感動を分かち合いたい、そういう仕事にロマンを持っているんです」と言うと、「おおっ、なかなかこの子はいいじゃないか」と。「そのためには、どんなことをしてでも私はドイツに行かせていただくまでがんばりたいと思います。
だからシュバイツァー博士が私は素晴らしいと思うんです」と言えば、「おお!」と誰もが思うでしょう。こういうふうに言うと、「この子は見ど「ころがあるな」と思うではないですか。そんなの、いくらでも言えますよ、私は(笑)。それはシュバイツァー博士を知っているからです。そんな単純な、誰でも言えるようなことを言ったら誰でも同じなんだけれど、やっぱり「おお!」とみんなに思われるところがないといけないわけです。そういう知識と論理と言葉の展開方向で感想をひと言言えば、それだけで、その人の中身が分かるんです。
これは江夏豊投手の投球と同じです。ピッチャーには、バッターのクセを覚えていて、相手が弱いところばかり突いていくというタイプがいます。なかなかいいピッチャーです。
ところが江夏は、それももちろんできるんだけれども、相手の嫌いなところも好きなところも全部を知っていて、ここ一番というときには、バッターの一番好きなコースの半個分ボールをずらしたところにピタッと投げるんです。
バッターは、「あっ、来た!」と思うわけです。しかし、ボール半個分ずれているから打ち取るわけです。相手が好きなコースを知っていて、それよりボール半個分ずらして投げる。「来た!」と思わせておいて、実は打ち取っているんです。
だから、シュバイツァー博士のどこが尊敬するところかというときでも、「ああいうアフリカの未開地で一生を捧げて、医療に尽くしたのはすごいと思う、ときっと言うんだろうな、このバカなやつが。大学を出て、何がシュバイツァーだ」と試験官が思っているだろうときに、意外な話の展開に持って行く。
江夏のように、半個分ボールをずらせて「おおー!」と試験官を思わせる(笑)。これは効果的です。
ところが、誰も知らないような人のことを話したがる人もいます。
「私は何とか何とかという人を尊敬しています」
「誰だ、それは?」
「ご存じありませんか。原子物理学で有名な」
「知らん、知らん、そんな人物は。それが何で尊敬に値するんだ?」
「原子物理学の難しい何とか何とかという課題に対して、彼はこんな発明をしたからです」
「それで?」
「いや、ぼくもそんな発明をしたいと思いまして」
「うちの会社と関係ないんじゃないの。たしかにキミはその人物を尊敬しているのかもしれないけれども、うちの会社は女性の化粧品を売る会社なんだ。原子物理学の研究をどういうふうに化粧品会社に入って生かすわけ?」
「あのう、化粧品の中身を考えたいと思います」
「キミ、他の研究室へ行ったらどうなの?」
と言われてしまうでしょう。
採用する側も、「こいつはどういうふうに言うだろうか」と半分は楽しみにしているわけです。意地悪く遊んでいるんでしょうけれども、それでも、試験「官が「おお!」と思うように、言う内容を準備してきたら切り返せるわけです。
しかし、準備できないような事柄はやはり本音が出てきます。そういうときに、その人の普段のものの考え方が出てしまうのです。
普段からそういうようにものを考えている人、社会的な知識と論理、文章の展開のパターンを持って感想が言えるような人間というのはやはり、それを経営者に話しても、目上の人に話をするだけでも、あるいは取引先と話をする場合でもそれは分かるんです。
