第一章 行き詰まり打開術
■ 片付け物とすると、行き詰まりが解決する!
抜群のヒラメキは、身の周りの整理整頓からやってくる
私は掃除を日課にしている。毎日、「大勢のお客様に気持ちよく足を運んでいただけるように」という思いを込めて、掃いたり拭いたり、清めたり。
自ら率先して体を動かし、掃除をする。そうして掃除に没頭し、無心に体を動かしていると、フッといろいろなことが頭に浮かんでくる。
また判断に迷ったり、心の中の整理がつかなくなっている時には、私は机の引き出しの中を片付けはじめる事にしている。
一つずつ、いる物といらない物とをキチンと分け、いらない物は捨てる。この小さな作業を通して、不思議と頭の中が整理されていく。
そうしている中に「フッ」とアイディアが聞いたり、迷っていた事の答えが明快に浮かんできたりするのだ。
それは、身の回りや周囲を愛念をこめて掃き清め、整理したことにより、美しい環境と神霊的磁場が整ったからだ。そうして高い神なるものと通じやすくなった分、神霊が悩みの答えを教えてくれるのだ。
これは実は、神道動禅の重要な真髄の一つである。このことを本当の意味で実践することで、かなりの悩みに正しい解決策が見つかる。
そして、さらに詳しく言えば、一度あらゆる可能性を考え、あらゆる資料に目を通し、人に出来る最善の努力をして考えるだけ考えた後に、まったくそれを離れて、忘れて他のことに没頭している時に、神からの叡知が与えられるのである。
これが私が体得した正しい神霊の答えのキャッチ法だ。決して、祈って待っていればいいのではないのだ。
エジソンやアインシュタインのような天才も、こうして天来のヒラメキを得ていたのである。
この片付け物の大切さについては、以前、私の「強運」という本でトヨタの大発展の例をひいて説明しているが、神道動禅の第一歩としてより詳しく記してみたい。
雑用は判断の揺りかごなり
「雑用は判断の揺りかごなり」ということを私は痛感する。
これは非常に重要だから肝に銘じて欲しいのだが、雑用というと、バカにしていい加減にやる人が多い。
これは心得違いだ。雑用は神霊が与え賜うた修行。これこそが「生きた修行」なのだ。
実際、誠実に率先して雑用を務めてきた人というのは、何かがあったときに正しい判断ができる。
逆に、そうでない人、雑用を率先してできない人は、判断力が弱い。あるいは、判断力がどこか鈍っている。自分できちんと判断できないし、判断しても、どこかずれてしまうのである。
雑用ばかりで他に何もしない、というのもまた問題だが、「雑用は判断の揺りかごなり」といって、下積みを多く経験をした人や、一生懸命に蔭の役や、目立たぬご奉仕をしてきた人にとっては、雑用はちっとも苦ではない。
率先してやることが経験的に身についているからだ。
私もずっと雑用をやってきて、それが習いになっているから、掃除や片付けもの、料理でも皿洗いでも全然苦にならない。
表面に出ていること例えば「御神業の場」で私が先生などと呼ばれてやっていることというのは、氷山の一角にすぎない。それ以外は、ほとんどが雑用だ。
ある意味では、この世のことというのは、ほとんどが雑用である。
ただし、雑用だからといって軽々しく考えてはいけない。そうした雑用にきちんと対応し処理していくことで、人間の幅が広がる。
確固たる判断力がつく。つまり、境地が高められるわけだ。その点をしっかり理解しなければならない。
わたしは経営を修業の糧にしている
これは重要だから、もう少し説明しておこう。
私は国内、海外に会社を十数社経営する立場にある。というと、一般には「禅坊主のくせに金もうけなどしているのか・・・・・・」なんて思われそうだが、私の場合はまったく違う。
神様が、悟りを現実社会に生かせる本物に鍛え上げようという目的で、仕事を持つことを私に命じられたのである。それは実にいい修行であり経験であったと思う。
会社経営を通じ、あらゆる現実界の辛酸と荒波を乗り越えた上で、初めて、私の悟りも本物となったのは間違いないからだ。
「社会に役立たない悟りなど、絵に描いたモチのような無意味なもの」だからだ。これなども白隠禅師のいう「動中の静」であろう。
山中で静かに修行するより、混迷社会の中にあって、静なる境地を守り通すことの方が一〇〇倍も難しいからである。
そういう訳で、ここで一つ、会社経営を例にとって、雑用についてお話ししてみようと思う。
例えば、営業は本来「商品の販売」が目的だ。では、「商品を売るだけでいいか」というと、そうはいかない。
営業活動には、商品の販売以外に、仕入れ、在庫管理、返品への対応、電話の応対、広告などなど雑多な仕事が数多くあり、それらの雑用によって販売がサポートされているからだ。
いい換えれば、それらの雑用がきちんと処理されていなければ、営業活動は決してうまく機能しない。当然、営業成績も上がらず、会社は倒産の憂き目を見ることになる。
加えて、銀行や税務処理、資金繰りなどの財務関係もあれば、社員の採用や配置、勤務評定などの人事問題もある。会社を運営・維持していくには、多くの問題に対応・処理する必要があるわけだ。
ある程度の大きさの企業ならば、これらは部や課に分かれて機能分担している。だが、会社が小さいうちは、これら全てに経営者自らが先頭に立って問題をこなしていかなければならない。
また、そうしなければ、会社は維持できない。
創業経営者は、雑用をこなす王様
このように、経営者にとって会社の経営というのは、ほとんど九分九厘までが雑用だ。順調に推移して人に恵まれ、組織ができたら夫々に任せ、多少は楽にはなる。
といっても、従業員とその家族の生活がかかっているから、責任は重大。しかも、完全に雑用から解放されるわけではない。より大きな意味での雑用が、肩にずしりと乗っかってくることになる。
そういう意味では、経営者、とくに徒手空拳で会社を起こして発展させてきた創業経営者というのは「膨大な雑用をやりこなしてきた人」ということができる。
このタイプの経営者には、故・松下孝之助氏や故・本田宗一郎氏など、人間的にも素晴らしい人がいる。彼らは、事業を興す以前から雑用をこなすことで人間を磨き、境地を高めた。
だから、ビジネスでも成功したわけだ。
神様事の世界でも同じだ。何もないところから積み上げてきた人というのは、膨大なる雑用をやりこなしてきた人。
だから、御神業のことでも何でも、問題が持ち上がったり、何かあった時には的確に指示が出せるわけだ。
二代目経営者は、雑用が足りない分判断が甘い
ところが、大きな会社の経営者といっても、二代目以降の人でそれほど下積みを経験せず、多くの雑用をこなしていない人は、大所高所からの判断ができない。
確かに、専門分野については詳しいかもしれない。あるいは、幾つかの異なるセクションを担当して、広いノウハウを身につけているかもしれない。
そうした知識は、それはそれで必要だし、通常の判断なら十分に対応できるだろう。
しかし、会社の命運を決するような重大な局面ではどうか。的確な判断力を持ち得るかというと、非常に心も章とない。膨大な雑用をこなしていないせいだ。
その点、創業者社長は大した学歴がなくとも、会社経営のあらゆる分野を経験し、膨大な雑用をこなしてきているから、重大な局面で的確な判断を下せるのである。
彼らは経験的に「どうしたらいいか」が分かっているからだ。
あるいは、大企業の優秀な重役経験者が中小企業に来て、大事な判断を下さなければならない時に、創業者社長と意見が対立したとする。
この場合も、どちらかといえば、創業者社長の意見のほうが結果的に正しいケースが多い。
これも自分自身で雑用を手がけ、現場を踏んでいるからこそ分かることで、経験の違い、こなした雑用の差が判断に出ているのである。
体で覚えた雑用体験が、苦境を乗りきる知恵を生む
つまり、「雑用は判断の揺りかごなり」とは、繁雑さを厭わずに多くの雑用をこなすことで的確な判断力が身につく、ということだ。これは「御神業の道」にも、そのまま通じている。
繰り返すが、厭わず雑用をやってきた人は、何か問題が起きた場合でも、どういう措置を取ったらいいかが分かる。
だから迷いがない。彼らは的確な判断を下せるし、当面する問題が難問であっても、それを解決することができるわけだ。
これは個人的な問題だけではなく、組織にしても同じである。こういう人が組織のリーダーや長として組織運営や経営に当たれば、仮に苦境に立ったとしても、まず最悪のケースは免れる。盛り返すことも不可能ではない。
逆に、そういう雑用をやってない人、経験の少ない人には、どういう措置を取ったらいいかが分からない。せいぜい、頭では分かる。
しかし、頭で分かっただけではダメなのだ。やはり知識や経験が、きちんと身についていることが必要不可欠なのである。
また、雑用をたくさんこなしていないから、頭で分かったような気になる。
だから、マニュアル通りの判断しか下せない。
しかし現実はもっと複雑だ。経営には、マニュアル通りにいかないことのほうがむしろ多い。だから具体的に問題が起きた場合、その処理に当たっての判断が微妙に狂う。
現実とずれてしまうわけだ。そこが問題なのだが、雑用をこなしていない人というのは、そのことに気づくことができない。
結果的に、問題を解決するどころか、さらに悪化させたり複雑にしてしまうことが多くなる。
体を使い、頭を使ってきた人物は必ずトップに立てる
結論からいえば、実用・実務とは何かというと、それは雑用なのである。
膨大な雑用=実用・実務を、厭わず体を使ってやりこなしてきた人は、どの分野、どんな組織、どんな人間の集まりの中でも、必ずトップに立つことができる。的確で総合的な判断が下せるからだ。
雑用という現実に肌で触れて、現実に即応した判断の基準を身につけているのだから、それはむしろ当然のことと言える。
そして、そういう人のところには、いろいろな人が救いを求めて集まって来る。大勢の人たちが、人生の道を求めてくるのだ。
会社の中でもいろいろな運営がある。支社の運営をはじめ、企画部の運営、広報部の運営、人事部の運営、商品管理部の運営・・・・・・。
時には問題も起こるだろうが、それをう章まく処理し上手に運営できるのは、雑用を積極的にやって、やりこなしてきた人。そういう人が中心になって運営されるのが一番いい。
とは言え、雑用をこなしただけで経営者になれるというわけではない。当然ながら、論理性や説得力などの能力も必要となる。
しかし、頭脳がよくて論理性や説得力などの能力があっても、雑用をこなしていない人は本当の意味での説得力がない。
何故なら、人情の機微が分からないから、説得に本当の温かみがこもらない。それも広い意味では、判断のずれにつながっている。
むしろ本当の非常時には、例えば学歴もない中年のおばさんのような、普段から掃除や人のお世話などの雑用を率先して行なっている人のほうが正確な判断が下せる。
何故ならば、雑用をこなすことで「あんなこともあった」「こんなこともあった」「あの時にはああした」「こんな時にはこうした」「すったもんだの末ああなった」――というよう諸々の現実的な事象を、たくさん体験できているからだ。
そんなおばさんのパワーのほうが、よっぽど説得力があるし、根性がある。何か問題が起きたときに、そういうおばさんが出てきて意見を述べたら必ず解決する。
解決できないようなことでも解決してしまう。よく見ると、何の論理もなく迫力だけで押しているようなこともあるが、それでも周囲の人たちは、おばさんの言葉に納得してしまう。
それは、経験の重みから出る迫力に裏打ちされているからである。そういう人が中心になって運営されるのが、人がついてくる運営、ということだ。
どんなトップが最高か?!?!?!トップの人格「上」・「中」・「下」
お分かりいただけたと思うが、トップの要件としては、論理性や表現力、要約力などの能力を持っていて、なおかつ雑用もこなしてきたという、両方を兼ね備えている人が最高である。
もしそのどちらかが欠けている場合には、雑用をやりこなしてきた人のほうがいい。
逆に、頭と論理だけでやってきた人がリーダーになっている組織は冷たい。
リーダー自身が人情の機微を解さないから、どうしても人間味に欠けた判断になる。
仮に問題点を合理的に整理していたとしても、そこに、人間としての気持ちがこもっていないから、温かみが感じられないわけだ。
そんな人や組織には、誰もついていかない。まとめると論理性・学術性・表現力・文章力・要約力などの能力を持ち、頭脳の優秀な人で、なおかつ雑用をやってきた歴史のある人。
そんな両方を兼ね備えた人が、リーダーや指導者の資質としては文句なく一番。
二番目は、学歴がなくても、自ら率先して一生懸命に雑用をこなしてきた誠実な人。
三番目は、論理や知識だけでやってきた人。ただしこういう人は頭脳は優秀だから、リーダーや指導者になる資質はある。願わくば「もっと雑用をこなせ」ということだ。
人格が高いから、下座の行が出来るのだ
ところで、神様事というのは「御魂の修行」である。
だから、雑用を厭わずに黙々と行なうそのことが、とりも直さず御魂の修行になる。雑用だからといって厭うことなく、積極的に体を動かすということは、実は非常に偉大なる実践である。このことの意味を、十二分に噛みしめて欲しい。
そういう、雑用の実践を「下座の行」というが、これができる人は「上位の心」を持っている。だから、ごく自然に「下座の行」ができるわけだ。
「御魂の修行」は、同時に「御魂の表現」でもあるのだ。
下位の心の持主には「下座の行」はできない。おまけに、人一倍上のほうにいきたい願望が強く、他人をこき使ってやらせる割には、自分はしない。
あるいは、大したこともしていないのに、ふんぞり返る。これは「下位の心」。心が低いレベルにあるわけだ。
だから、逆に「下座の行」ができない。ただ高いところに行きたがって、もがいているだけ念を押すが、高位の心を持っているから(人格が立派だからこそ、「下座の行」がごく普通に行なえるのである。
そういうところに、本当の宗教性、魂や人格、神なるものの輝きがある。
そういうことを、私は何時も掃除をしながら思っているわけだ。
「下座の行」ができる上位の心を磨く法
私自身は、十七年前にそれに思い至り、ずっと今まで、その思いを持ち続けてきた。
けれども、皆さんに「先生、先生」と呼ばれてしまうと、実は私自身、そうはいっても、チョット油断するとついつい忘れがちになってしまう。
そこで私は考えた。いかなる立場に立ったとしても下座の行のできる上位の心を忘れない法はないかと。その結果、これだという結論を得たので紹介しよう。
それは、頭で分かっているだけではダメなのだ。体を使わなければ本当の意味で理解できないし、その理解が身につかない。
だから、結論は、「体を動かす」ということであった。中でも。
一番いいのは掃除と後片付け。そして、持ち込まれた悩みや相談に親身になって応じることである。
人間関係の「ああでもない」「こうでもない」とすったもんだするトラブルを、一つずつ解決していく。
これも「下座の行」。したがって、「そんなぐちゃぐちゃなら、もう、ごめんこうむりたい」といって逃げてしまってはいけないのだ。
人の悩み相談にのるのも神業だ
女の子というのは、ある時は調子よく「頑張りま~す」とか何とか言っていても、次の瞬間には「しゅん」と沈んでしまうことがよくある。
どうしたのかと聞くと、「悩みがありまして・・・」という。
「そうなんです」
「ハイ……..」
彼女たちは、家の問題、結婚の問題などの他、「あの人のあの言葉が胸に刺さった」とか、「あの人のあのやり方についていけない」とか何だとか、多くの悩みを抱えている。そういう悩みや相談が、私のところにもたくさん持ち込まれる。気持ちはよく分か
「そうか。そういう気持ちでやったんじゃないだろうけれど、あなたのようなおとなしい人はいわれると牛耳られちゃうよね」
「そういう時には、その人よりもうちょっと強い人とチームを組めばいいんだよ」
「二人でやると、その迫力の強いほうに負けるから。どんな人間にも天敵があるからね。コブラでもマングースには負ける。だからマングースを探せばいい。マングースとお友だちになって、何時もその友だちと一緒にやれば、マングースが恐いからコブラは来ないじゃない」
そんなやり取りを、これまで何万回となく繰り返してきた。今でも連綿と続いている。あまりにもグチャグチャな悩みを聞く時には、今でも「面倒臭い」と思うことがどれほどあるか――。
しかし、その思いは一瞬の内に消してしまう。それを嫌がっていたら、絶対に「神様の道」やその考えは分からない。だから逃げるわけにはいかないのだ。
女の子の場合は、とくに心の浮き沈みが激しい。今日浮いているかと思うと、明日には沈んでいる。
一日の間にも浮き沈みする。それは、感情の豊かさの裏返しでもあり、女性の特徴でもあるわけだ。
その点、男性の場合は浮きっ放しか、沈みっ放しのどちらか。はっきりしている。もちろん、時々は浮いたり沈んだりするわけだが、その振幅が女性とは全然違う。
こうした男女の違いを考慮することなしに、人と人とが協同してやっていく組織や仕事、プロジェクトは成り立たない。
成り立たせるためには、上に立つ者は、当然のことだが、その悩み事の縺れた糸を解くという膨大な雑用をこなしていかなければならない。これは大変なことなのだ。
雑用の中にこそ最高の修行あり
しかし、それを「大変だ」と思ってはいけない。くり返すが、雑用こそが「下座の行」。その人間が「下座の行」を行なえるのは、「上位の心」を持っているからで、実は、そこにご神業の本質がある。
そこにこそ、より素晴らしい御魂を目指す、大きな夢と理想と希望があるわけだ。
ただし、誤解して欲しくないのだが、よく、
「大きな夢と希望を叶えるためだから、これぐらいのことは辛抱しなければいけない」と言う人がいる。
これは間違いである。というのは、「大きなもの」というのは抽象的な事柄、抽象的なビジョンにすぎないからだ。
具体的な御神業とは、他でもない「これぐらいのこと」である。「下座の行」である雑用こそが、御神業そのものなのだ。
膨大な数の雑用を一つずつこなしていく、そのプロセスが全て御神業なのである。相談にのる。そしてまた相談にのる。
そして、また同じようなことをぐずぐずと……。その一回目の「ぐず」、二度目の「ぐず」、そして三度目・・・・・・とちゃんと聞いて受け止めてあげて、解決に骨を折ることがご神業(修行)なのだ。
よく「私は毎日修行をしております」といって、お経を毎日唱えている方がいる。
確かに、お経というのは、ポリシーと明確な方向性を持っていて、それを唱えることで功徳を積むといわれる。したがって、数多く唱えるほどいい。つまり、数や数値に換算できる。しかし、お経を唱えることがご神業かというと、そうではない。
ご神業の実体、いわば「本当に生きたご神業」とは、雑用をこなす際に直面する「ぐちゃぐちゃのプロセス」なのだ。
葛藤とジレンマ。人間が生きていく限り、揉め事や対人関係の些細なことが連綿と続く。それは逃れることができない「人間の宿命」といってもいい。
そこにご神業の実体がある。だから、雑用をこなすことを時間の無駄と思ってはいけない。
それで時間を取られてしまうというなら、それこそ有効な時間の使い方とは何なのかを考えるべきだ。
雑用の間隙を縫って本を読んだり、仕事をしたり、御神業をしたりする。実際、最初のうちは私もそのようにしていた。
ところが、あまりにも悩みや相談事が多く寄せられるので、発想の転換をした。御神業の実体が、そうした雑用をこなすことにある、と気づいたのだ。
人の口を通して、神の教えを受けとる
だから今では「ぐちゃぐちゃのプロセス」を慎重に見ている。自分の会社のスタッフの、試行錯誤する「ああでもない」「こうでもない」というプロセスを見守っていると、ぱっと聞くものがある。
神様が教えているわけだ。その神様が教えてくれるものを読ん でいけば、自から解決策は見つかる。
神様のお導きだから、これほど確かなものはない。したがって、皆さんに対しても的確なアドバイスができることになる。
このことが分かってからは、ごちゃごちゃ・ぐたぐたの雑用のプロセスは、ご神示が下る瞬間だと思っている。
そうしたごちゃごちゃ話をお弟子や会社のスタッフから聞いている時には「ああ、神様がこの子の言葉を通して教えているんだ」と思う。
そのように信じた途端、皆がぐちゃぐちゃしているのは、神様に使われているからだ、という価値あるものに変わる。
そのぐちゃぐちゃの中に、神様はちゃんと教えを提示してくださっている。ぱっと開く瞬間を与えてくださっている。そういうことが、すっと私の中に入ってきたわけだ。
それからは、本当に雑用・雑務が楽しくなった。今も、掃除や片づけものをしていると、ぱっと閃きがやってきて、物事が整理されていく。頭の中が整理されて、自分が今まで気づかなかったところが分かる。
そのように神様のお導きがあるのである。
だから、雑用・雑務、人間関係のごたごたぐちゃぐちゃした問題などを「こんなこと」とは思わず、一生懸命に取り組む。それが、実は一番日常生活で大事なポイントなのだ。
その一刻一刻の中に、神様は、人間同性・異性を問わず、現代の人たちの気持ちや魂や心を理解するための、格好の教材を与えてくださっている。そこに教えがある。この点を自覚することが、究極の神業なのである。
決断がつかない時どうするか
「いろいろと迷う道にも、神仏の守りと導きがありて好転す。迷うことと悩むことを厭うことなく進む時、神明の加護ありと知るべし」
これは、いつまでもああしよう、こうしよう、どうしようといろいろと迷ったり、悩んだりしているある女性に対して、彼女の守護霊が伝えたがっていたメッセージを、私が取り次いで書いてあげたものである。
これは迷った時のいい解決法なので、本章最後に紹介しておこう。
迷い悩みは実は有難いことで、その中にも必ず神仏の守りと導きがある。そして迷い・悩みながらもいい方へ、いい方へと変わっていくのである。そういう状態の中に、あなた(この女性)はいるという意味である。
だから、迷いや悩みを厭わずに進んでいけばいい。進んでいく時に、初めて神明の加護が与えられるものなのだ。
それを、進むのを嫌だといって尻込みしていては、神明(神仏からの)の加護はない。進んでいくことで道が開けてくる、といっているのであ
る。
今の迷い悩みから逃げず、それを恐れずにやっていけば、光明(悩み解決の神の叡知)を得るわけだ。
だから、迷ったり悩んだりするのを厭わず、突き進むことが現状打開の一番の策なのである。
人は何か行動を起こせば、必ず迷いや葛藤は起きるものだ。だが、何もしないで悩みがないよりも、突き進んで悩み葛藤のいろいろある人生の方が百倍いい。
そんな神の意志(進歩・向上・発展的)に叶う前向きの人には、神の守護がないハズがないのである。
大いに前向きに、悩み葛藤していこうではないか。解決策はその中にあるのだから。
第二章 結婚運・恋愛運はこうして掴む
相性に囚われると結婚できない
相性よりも相縁を大切にするのが結婚だ
結婚前の男・女で、相性を気にしている人は多い。結婚して仲良くやって、幸せになりたいと夢みる気持ちはわかる。しかし、それにとらわれすぎると婚期も逃すことになる。
それでも多くの人は、どうしても相性が気になるようだ。だが本当は、相性よりも相縁の方が大切なのである。
つまり人間関係で最も重要なことは、相性が合うか合わないかよりも、縁に合うかどうかなのだ。相性が悪いと占いに出ていても、縁がある人はうまくいっている。そういうケースはたくさんあるのである。
ところで、相性判断ほど難しいものはない。気学、ホロスコープ、姓名判断にタロット、何で観るにしても相性判断は難しい。
例えば、ホロスコープでは仲が悪いはずの人々が、けっこう仲よくやっているケースは山ほどある。
ホロスコープで仲が悪いと出て、本当にウマが合わない場合もある。しかしそれが父母兄弟や、夫であれば、その人とやっていかざるを得ない。そこで、知恵を使う。
相手の性格や相手との距離がある。これを利用するわけだ。相手の性格をよく踏まえ、辛抱するところは辛抱する。あるいは、敬して距離をとる。
心理的・空間的・時間的な距離を置くことで摩擦も少なくなる。実際、相性が悪くても、自分にない素晴らしいものを持っている人は多いわけだから、つき合い方を工夫することでやっていけるはずだ。
相性が悪い人の方が、いざという時頼りになる
私は、相性が悪い人とでも忍耐だと思ってつき合う。ところが何かあった時には、相性が悪いと思っていた人が、一番力になってくれることが多い。
逆に、すごく相性のいい人というのは、本当に波長は合うけれど、いざという時には全然役に立たなかったりする。
概して、素直で明るく、いい人は役立たない。誰でも、ついそういう人を大事にしがちだけれども、実は偏屈で頑固で、やりにくい人物と言われる人の方が、大抵、現実界を乗り切る迫力と実力を持っているものだ。
ともあれ、相性より相縁のほうが大事である。縁がある人とは、多少相性が悪くとも相縁を大事にする。それが結婚である。
あなたも、相性を気にせずにつき合い、そして結婚を決めるべきである。人間には長所もあれば短所もある。誰しも短所はあるわけだから、その点だけ見てはダメだ。
大事なのは、基本的にいい人かどうなのか、霊層が高いのかどうなのか、人生観がどうなのかなのである。
多少の短所は自分が辛抱すればいい。全く辛抱のない結婚はあり得ない。だから、耐えられる辛抱なのか、耐えられない辛抱なのか、その見極めが大切なのである。
いい結婚の三大条件
私は以前、神様から理想の結婚の三大条件というのをこう伺った。それは、
一、兄弟のような関係である。
一、自分に足りない所を相手が持っていて、補ってくれる。
一、互いに、同じ目標の部分がある。
なるほどと思う。神様は決して星の相性がどうのこうのとは一切おっしゃらなかったのである。
世間では気学がどうとか星がどう、あるいは姓名判断がどうなどというけれど、相性という点においては、これらはあまり当てにならない。
先ほど相性判断ほど難しいものはない、といったが、これを裏返せば、相性判断ほど当たらないものはない、ということになる。
要するに、相性よりも相縁。つまり相性を気にせず付き合い、人間をみて結婚を決めることである。
