- 第三章 視点を変えて、たちまち開運する法
- 欲望には、いい欲望と悪い欲望がある
- 「無欲」と「金運が無い」こととは、まったく別もの
- 「相手もよく」、「こちらもよく」こそ、大金運の第一歩
- 身につくお金と、すぐになくなるお金はここが違う!
- 人間は「進歩・向上」の欲望をもつ
- 臓器の移植は善か悪か!?!
- 持ち主のいい念のこもったピアノは音がいい
- ペットや物にも持ち主の霊が宿る。あがめれば御神体にもなる
- 結論-霊主体従となれ
- 魂の成長する欲望なら、大いに結構!
- できる、できないではなく、そのプロセスが大事だ
- 自殺をしたらどうなるか?死後の世界を覗く
- 苦しくとも、生きている時の方が断然修業しやすい
- 自殺者は周囲が真っ暗な地獄界に行く
- 霊界の実体天国は地上の百倍幸せ、地獄は百倍悲惨!
- 自殺をしたくなるのは、悪霊の仕業だ
第三章 視点を変えて、たちまち開運する法
欲をコントロールして、金運・成功運を掴め!
欲望には、いい欲望と悪い欲望がある
例えば、高校野球の監督が、優勝したときに「無欲の勝利です」などと発言することがある。
だが、勝つために、そして優勝するためにこそ、欲を出して練習するのではないだろうか。ただし、高校野球などの目標はいいとして、これがお金の話になってくると、同じ欲でも、もっと現実的で人間臭いものが出てくる。
以前、こんな質問を受けた。
「先生の「大金運」という著書だったと思いますが、欲しいと思わなければお金はやってこないということが書かれていたと思います。
でも私にはお金を欲することが何か悪いことのような気もするのです。無と欲は裏腹で、やはり三休禅師のいつもおっしゃる中庸が大切ということでしょうか」
なるほど、中庸は中庸だが、欲望にも種類がある。弘法大師は、欲とは本質的に、いい悪いで論ずるものではないとおっしゃっている。
人間が肉体・生命を持っている限り、人間には肉体を維持していく願望がある。それが欲望である。
しかし、同時に魂も肉体に宿っている。魂の欲望というものは霊的な進歩、向上であり、これも欲である。
また、体の充足肉体を充足したいと願う欲望もある。そして誰でも「よくなりた「い」「幸せになりたい」という欲望がある。
さらに、それとは別に、世の中の人には「権力を得たい」「地位を得たい」「名誉を得たい」という欲望にとりつかれていて、魂の欲望を抹殺してしまっている人もいる。
この欲望は肉体に密着している分、形がはっきりと出るし、すごい念力パワーを出すのだ。
強い念力パワーで運を動かしたり、現実界や心を動かしたりと、この念力のパワーで善悪を乗り越えて「財運」を引っ張り込む。
例えば、過度の欲望であったとしても、必死に精進・努力して人の三倍働いたなら、やはりお金が入ってくる。
ただし、その欲望が「私のみ」の欲望であったとしたら、非常に暗い欲望、我よしの欲望である。しかしながら、現実界ではお金が得られ、成功し、充足することになる。
このような人は、例えば地位や名誉を得られ、いい家に住んで、奥さんも五、六人(日本では無理だが)というように、現世的には幸せだったとしよう。
ところが死んで霊界に入れば、暗い欲望そのままに暗い霊界にいくことになる。そこで初めて、
「しまった、もう少し神仏にも寄附して道を極めるべきだった」と後悔することになるわけだ。
そのことが分からない人は、暗い霊界に至る。したがって、現世はいいのだが、死後の生活はあまり幸せではないのである。
「無欲」と「金運が無い」こととは、まったく別もの
宗教的な人物や無欲といわれる人でも、肉体と密着した欲望を持っている。ただ比較的少ないから、無欲に見えるだけのことだ。全くの無欲などということはない。
ご飯も食べる、眠る、結婚して異性と愛の交渉もする。奥さんがいなくとも、ちゃんとどこかに女性がいたりする人もある。
ご飯は人の三倍食べて、よく寝て、それでお金だけがない人だから無欲?何かちょっとはき違えている。
肉体の充足を可能とし、物質に還元できるのがお金である。お金は物質と等価価値があり、物質と交換性があるからこそ、お金に価値があるわけだ。
なのに、肉体的な欲求の性欲、食欲、睡眠欲を満たすことをしっかりやっている人であるのにもかかわらず、無欲だと思われている場合がある。
どんな人かというと、肉体の欲は強いが金運のない人の場合である。
要するに、その人はお金がないだけ。稼ぎ方を知らないだけである。ハッキリ言えば、経済観念が発達していないだけなのだ。現実界・物質界を動かすツボどころがずれている。
だから、お金がない。ほとんどのケースが、三倍働かないからだ。人の三倍働けば、お金は誰でも持てる。肉体が元気で、三倍働いたらそうなる。
だから、一見無欲に見える宗教家などは、欲望は満たしているが、人の三倍働きもしないし、お金の動かし方を勉強してもいない。
知恵も働いていないのだ。それなのに、変な話だが、お金が「ない」ということだけで無欲だと人に思われ、自分でも誇りに思っているところがある。
これはおかしい。そういう人を「聖人様」といえるのだろうか。勿論、得たものを全て人に施している結果、お金がないというなら別であるが。
お金が入ってくるには、それなりの天地の法則がある。人の三倍働くか、人の三倍働くのと同等の値打ちがあるだけ知恵を使うか、体を動かすか。
そうすれば、お金は入ってくる。つまり、その分だけの人生の価値が、その人にはあるわけだ。
肉体を持って生まれている限り、欲望は絶対に切り離せない。しかも、この欲望は不浄なものではない。肉体が生きていく上で必要なものであり、生命を支えるのに不可欠なものである。
また、魂も現世に生きている。肉体を持って生まれた限り、どんな清い魂でも、この欲なしには生きられないようになっている。
すなわちこの欲は神から来ているのだから、本来不浄なものではないのである。
ただ、これが貪る・妄りである場合は別。それからそれへと妄りに欲しがれば、妄念妄想となる。つまり、妄りにその世界の中に入ってしまうと、暗めの地獄界に入って、争い、葛藤の種になるのだ。
ゆえに私たちは、これをいいほうにコントロールしていく必要がある。自分のためだけではないことへと。
つまり、霊的進歩・向上がまずあって、それから暗い欲望ではなく、明るい欲望へと切り変えていく。すなわち、相手もよく、こっちもよかったらいいじゃないか、ということだ。
「相手もよく」、「こちらもよく」こそ、大金運の第一歩
繰り返すが、「自分だけ」というと暗く、逆に「相手だけ」となるとこっちが惨めである。いいのは、「相手もよく」「こっちもいい」という状態。
それだと、相手には「嬉「しい」という気持ちが生じ、こちらには「よかったね」という気持ちが湧くので、明るい霊界ができる。
こんな気持ちで生きた人は、死んだ後もいい霊界にいけるわけだ。要するに、明るい欲望で相手もこっちも生きていること。そうして使ったお金は、ぴかぴか光ったお金、すなわち浄財となる。
反対に、これが相手が「嫌がる」のに、むりやりお金をむしり取った場合はどうかというと、ドロドロとした、払わされた人の執着の念が、出したお金に黒雲となってくっついているのである。
例えば、質屋さんや金融関係のお仕事はそうだ。
質草も、喜んで「どうぞ、流して」という人は稀だろう。「もう一週間待ってくださればよかったのに」とか「お母さんの形見のダイヤモンドだったのに」という思いがピッタリ付いてくる。
実際には、保証書もついてなくて、それほど値打ちがなくても、
こちらに「残念だ」という思いが残るから、質屋さんのお金には往々にして暗い妄執が 9 立ちこめているのだ。
だから、質流れ品というのはほとんどが、妄執、怨讐、思いが入っている。アンティークなどもそうだ。私はそのものにくっついている「気」がみんな分かってしまうので、ほとんどのものは身につけられない。
どうしてもそのようなものを活用しなくてはならない場合は、「フーッ」と、新たに幸せになる、という神気を入れてから使用している。
また、同じく気持ち悪い執着の「気」が入ったものに、骨董品がある。京都の骨董品屋さんに置いてあるものなどがそれだ。長い間、持ち主が執着めいて大切にしていたものが多く、触った瞬間に胃がムカムカとくる。
身につくお金と、すぐになくなるお金はここが違う!
これは物だけでなく、先程述べたようにお金に関しても同じだ。
お金も、その人がどういう気持ちで持ってきたのかが問題だ。ぴかぴか光っていて、相手が真心込めて出したお金や、喜んで出したお金なら絶対にお金が残っていくところが、そうではない邪気の入ったお金は、「あら?」と思ったらもうない、ということになる。
戎様というのは商売繁盛の神様だが、私は一度、関西の西宮戎神社でご奉仕していた人から、こんな話を聞いたことがある。
夜、ご奉仕していた人が寝ていると、何か「わあわあ」声が聞こえてきて、我利我利亡者や魑魅魍魎の類がうろつくという。
銀行がお賽銭を回収すると、すっきりして神気充実するのだが、お賽銭がある間は、もう毎夜、何万という魑魅魍魎がうろうろしているという。
実は、それは、お賽銭に込めた人の思いなのだ。それぞれの人が「何とかまた今年も儲かりますように」と願ってお賽銭を投げるからである。
逆に、「神様の御心が弥栄えますように」とか「皆さんを幸せにし、私も幸せに」という気持ちが込められているのであれば、非常に明るいお賽銭になる。
ところが、どろどろとした執着や、妄りな思い、いろいろ巡る思いがこもっているものなら、そこが魑魅魍魎のたまり場となる。
これではダメだ。「大金運」にはあっさりとしか書かなかったが、やはり、相手もよし、我もよしで、もちろん自分の気持ちもすごく明るい、という状態で得たお金が非常に霊的に美しくて理想の収入だ。
そして、そのようにして収入を得る過程は、同時に、当人の霊的進歩にもなって素晴らしいのである。
人間は「進歩・向上」の欲望をもつ
人間の欲望自体は「進歩向上したい」と思っている。だから無意識に「より美味しいもの」「よりステキな異性」「より心地よい寝どこ」という具合に、体のほうもより良いものを求めている。
一方、霊体も「より進歩向上したい」と願う。やはり、「進歩向上「したい」という本能があるわけだ。「よりよくなりたくない」と願う人はいない。そういう人は自殺する。
とりあえず人間様をやっている人、例えば、銀座を歩く人は、それなりによくなりたいと思うからお化粧もしている。
より不美人に見て欲しい人は、お化粧なんてしない。少しでも美しく、本物以上に美しく見せている。
とにかく、何か人工的な方法でスタイルもよく見せたい。でも、身長は変えられないから、カカトの高い靴で歩く。それなりの努力がある。
これらは全てより美しく、より良く、より素晴らしく、という意識の発露に他ならない。
人間の基本的な気持ちは、肉体面でも精神面でも進歩向上したいという欲望があって、これは正しい欲望である。非常に正しい。つまり正欲だ。
それが欲望が過剰なぐらいに妄りになったり、「私のみ」という思いが強くて発展性がない場合は、正欲ではなく邪欲であり、妄念、妄想、貪欲となる。貪欲はまさにむさほる欲で、際限もなく次から次へと欲望をもたらす。これはよくない。
くり返すが正しい欲望は持って構わない。すなわちこれは神の意に叶った欲望なのだ。進歩向上、努力するなどはこれに当たる。
だから、女性が「少しでもきれいに見ていた「だきたい」と願い、努力してきれいになるのはいいことである。
「あの人きれいになって不愉快」とか「何かすがすがしくて嫌な感じ」「見目麗しく気持ち悪い」などと思う人はいないはずだ。
「あの人は知識欲があって、会うたびに知識が伸びて、賢くなってて不愉快ね」という人もいない。もしあったらそれは嫉妬心である。
実際、他人が進歩向上しているのを見るのは、それが精神面でも肉体面であっても「うらやましい」と思うかも知れない。
それは自分もそうなりたいという願望があって、相手と比べて、そうできていない自分が情けないというだけの話だ。やはり本音は、誰もが進歩向上したいのである。
ただし、それで我と慢心が出たら「進歩向上」したことにはならない。鼻にかけたり、我が出たり、慢心が出てしまっては、霊的レベルも下がってしまう。
だが、進歩向上自体は、皆が望んでいることであり、正しい欲と言えよう。進歩向上せんがために、私たちは肉体を持って生まれてきているのだから。
臓器の移植は善か悪か!?!
「臓器の移植はどうなんですか」とか、「体外授精はどうなんですか」という質問があったので、答えておこう。
結論からいうと、別にどうということもない。罪でも何でもない。どんどん移植して、それで助かる人がいるなら助けたらいい。
もし、臓器移植が問題なのだったら、入れ歯はどうなるのか?歯は使えなくなった人工のものを入れる。歯も臓器である。
また、心臓に何かを入れるとか、人工透析をしたりもする。そういう技術も、昔から比べると進歩している。人は、薬、コンタクトレンズ、補聴器など、肉体の機能がだめになったら、それを補うようなものを利用している。
なのに、コンタクトレンズや補聴器はいいけれども、臓器移植が悪いということはない。
問題は、臓器移植によって人が死んでしまうようでは困るということ。そして臓器提供者、臓器の提供を受ける患者側の双方が、共にそのことで「嬉しい」「よかった」という結果になるようにする。
これが基本である。したがって、医者も、よく実験を積み重ねてから実行して欲しいと思う。
肉体というのは磨耗する。機能も衰える。だから、それを補う必要があるのは当然のことであり、神仏がそれを戒める、ということはない。
コンタクトレンズには異物感があるけれど、それで見えたらいい。鼓膜が破れたりした時には人工の鼓膜を入れ、補聴器も使うが、それで聞こえたらいいわけだ。
神仏は、常に人の幸せ(御魂の幸せ)しか思っていらっしゃらないのである。
持ち主のいい念のこもったピアノは音がいい
ところで肉体と精神(心)、霊とは、密接に関連している。
精神、霊と関係しているのは、肉体だけではない。チョーク、マイクロフォン、ピアなどの無機物もそうだ。
いい念のこもったピアノは、いい音が出るし、強烈な邪気をこめたピアノは気持ち悪く、音も変になるのだ。反対に、すがすがしい人がいつも弾いているピアノは、弾きやすく、すがすがしい音色が出る。
また、ピアノはどれでも同じような音を出すと思いがちだが、鍵盤を同じように叩いても、弾く人によってまるで音色が違う。
これは私のような神霊家が言うだけではなく、一流のミュージシャンが口を揃えて語ることでもある。
バイオリンもそうだし、ハーモニカや笛もそうだ。これは、楽器に霊と念が宿っているからなのだ。
ペットや物にも持ち主の霊が宿る。あがめれば御神体にもなる
犬や猫や魚にも、持く主の霊は宿る。以前、私のお弟子のKさんがイモリを飼っていたが、Kさんのような顔をしていた。
Kさんは自分で似ているとはいわなかったが、ともあれペットは飼い主に似てくる。これも霊が宿るからである。
草木禽獣、機械類でも、人の波によって個性を持つ。サボテンでも笑ったり、歌を歌う。
犬などは十年も飼っていると、飼い主の御魂と犬の魂が強い霊線で結ばれ、犬が主人の心を読み、行動も主人の思いどおりになったりする。
だから主人の身に危険がある時などは強い反応を示し、吠えついたり、服をかんで行かせまいとしたりする。
もちろん、人間の肉体が一番敏感なのだが、どんなものにでも霊体はあるのだ。だから、思いが宿れば移植した臓器も生命を持つ。
チョークでもチョーク消しでも何でもそうだ。普通のチョーク消しは気が凝結していないから、魂が入っていないだけなのである。
だが、これに人間の思いが入れば、気が凝結して「愛と真心のチョーク消し」となる。さらに、強い念波を込めると、すごい念の凝結したものになっていく。もし、これを神様のごとく拝んでいたら神様が宿る。
そこまで行くと、何かで困った時に、「神様、神様、チョーク消し様どうかお助けを~!」といえば、素晴らしいアイディアがチョーク消しから飛んできて、「パッ!」とヒラメイたりする。要するに、ご神体になるわけだ。
よく「鰯の頭も信心から」という。鰯の頭自体には何もないが、それを信心することで念波が凝結し、さらに思いを入れるとそこに心が宿る。
チョーク消しでもイワシの頭でも同じ。それを扱う人間の思いによって、生命が宿るのである。
先にも書いたように、弘法大師は、「欲望そのもの自体は決して不浄なものではない」と語っている。
ただし、その欲望に思いがこもる。だから、大事なのは、その欲望にどういう思いがこもるか、である。
どういう欲望が善で、どういう欲望が悪なのかは、こう考えればいい。
善なる思い、明るい思い、相手もよく我もよしという慈悲や真心、愛や協調精神など、豊かなプラスの念波が欲望につくと正しい欲望となる。
そうして発した欲望は、霊的にも心地よく、肉体は魂を喜ばせるような行動をとることになる。魂が肉体をちゃんとコントロールしているからである。
ところが、エゴや我よしの心などのマイナスの念波が欲望につくと、貪欲になったり、我欲に固まったりして、妄りに欲望を求めることになってしまう。そうして結果的に地獄界をつくり出すことになるのである。
結論-霊主体従となれ
結論をいうと、本来の神様の道は、精神と肉体のバランスがキチンととれているところにある。これを「霊体一致」と呼ぶ。霊体一致霊と体が一致するということが大事なのだ。
魂が肉体を持って生まれてきた以上、どちらかだけが幸せ、というのは偏りである。
しかし、どちらが主になるかといえば「霊主体従」である。霊が主で、体が従の状態だ。
「霊主体従」とは、大本教の出口王仁三郎がいい始めたものである。神道学、古神道でいう霊と体の位置関係を、彼はわかりやすく明確に「霊主体従」と要約して呼んだわけだ。
また彼は「いずのめの働き」とも説いている。
「いず」とは縦で霊のこと。「のめ」とは横で体のこと。何をやるにしても、縦と横の両方のバランスを保ってやることが一番の理想である。
ただし、縦が先で横が後である。霊が主で、体が従。また同時に、霊と体が一致していなければ、本当の幸せは成就できないということだ。
つまり、精神だけ楽しくても体のほうは悲しいし、体だけ楽しくても魂のほうは悲しい。霊が主体が従ではあるのだが、幸せという状態は内面性と外の環境とが一致している状態。この状態が最高の幸せなのである。
したがって、「霊主体従」に則って「霊体一致」する。そこで初めて「いずのめ」の、神意に叶った状態となり、正しい人間の幸せが成就できることになる。
お金に関しても、お金に使われるのではなく、お金を使っている霊、思い、精神が大事である。つまり、お金をどのように具体的に活用、運用していくのかということだ。
お金のやりくりが主で、心が従になったら、それはお金に操られているということだ。それでは地獄界に一直線に落ちていく。
しかし、内面性とお金とがバランスよく保たれているなら、現実界で幸せをエンジョイでき、よきもの・素晴らしきものを現実界で活用できる。つまり、現実界を動かすことが可能となるのだ。
この法則性さえ頭に入れば、お金に対する欲望や、逆に無欲と言われる状態が、どういうことか分かるはずだ。
無というのは現実的にはあり得ない。いわゆる「無」といわれているのは、貪欲なものや、我欲など、自分を中心にした人為的な私心が、無になっているというだけなのだ。
私心を妄りに念じ、妄りにお金や欲望に走らないだけで、欲望はしっかりあるのである。人間は、寝ない食べないでは生きていけない。だからその意味では、全てが欲望に基づいているといえるわけだ。
魂の成長する欲望なら、大いに結構!
無とは何か――。絶対的に欲望がないということである。だから人間である以上、完全な無というのはあり得ない。
例えば、高校野球を例にすると、「優勝したい」と願うのは欲望。これはこれでいい。それに向けて努力するからだ。
しかし、それが高じてくると妄念妄想となる。すると、妄念妄想と私心が邪魔をして、かえって一生懸命練習してきた能力が本番で発揮できないということになる。
だから、「無欲の勝利」といったところで、全然欲望がないということではない。
その場合の「無欲」というのは、妄念妄想や私心がないということ。それが無になっ欲である。その辺のことが誤解・混同されているわけだ。
甲子園大会で「優勝するんだ」と願うのは、人様に迷惑をかけることではない。もちろん、負けたチームはかわいそうだ。
しかし、それを承知で参加しているわけで、優勝という一つの目標を目指して参加することに意義がある。
優勝を願うのは、それが目標だからである。そして、もし甲子園で優勝できないとするならば「野球はしないのか」といえば、そんなことはない。
優勝できなくとも、それに向かって努力していくプロセスが高校野球の楽しみであり、醍醐味と言える。
できる、できないではなく、そのプロセスが大事だ
人生全てのことがそうである。
目標を掲げ、その目標に到達できなかったら、それまでの全部のプロセスが無駄になるだろうか。そんなことはない。
夢があって、それが高ければ高いほどいい。精進努力をしようと考え、実行するからだ。高ければ高いほどそのプロセスに拍車がかかる。
結果として、進歩向上をしたいと願う自分にプラスの影響を与える。だから、目標は高く掲げ、志を高く持つことは大いに有益なことなのだ。
仮に一つの目標を達成できない場合でも、全くゼロからの再出発ではない。目標に向かって努力したことで、何らかの知恵・知識、経験などが蓄積されキャリアとなっているからだ。つまり、努力するプロセスが大事なのだ。
ただ、問題なのは「目標が、目標が」と目標至上主義に陥ること。
それは、プロセスを大事にせず、目標に振り回されていることになる。単なる目標が、自分の人生の究極的な生きる意味になっているわけで、価値観が大きく歪み、違ってしまっている。
そういう人は、要するに妄念妄想にとりつかれているという状態だ。そんな人は、一刻も早く、妄念妄想を取り払わなければならない。
そうしなければ、いくら努力をしても、目標を達しない限り全てが無駄に思えてしまう。
あくまでも目標は「目指して標にするもの」である。
その意義としては、確固とした目標を持って日一日と乗り越えている毎日に、人生の基本的意味があるのである。
一日一日をいかに生きたのか。そういうことがなにより大事なのだ。
自殺をしたらどうなるか?死後の世界を覗く
最近、小中学生の自殺が話題になっているが、自殺とは、神霊的に見た場合どういう事になるだろうか。
先日も私のところへ、時々自殺したくなるという女性の相談があった。こういう相談は結構ある。いい機会だから、自殺するとどうなるのか、私が実際、霊界でみた真実を交えて、説明しておきたいと思う。
人というのは、体力がなくなり、肝臓、腎臓を病むなど体が続かなくなり、精神的にも幸せなことは何もないという状態になったときに、ほぼ確実に自殺する。
もちろん、責任感からの自殺や、異性の問題での自殺など、いろいろなケースがある。しかし一番多いのは、体と気力、夢がなくなって自殺するケースだ。
体が悪くても夢があれば自殺はしないし、精神的にだめでも、体が元気だったら自殺はしないものなのだ。
だれにでも、幸運なときがあれば衰運のときがある。衰運期の人間というのは、何かしら何までマイナスに考える。
しかし本当は、「内面性をもっと磨け」と神様から促されている時というのが、衰運期なのだ。衰運の衰というのは、人の目から見たものにすぎない。
神様の目から見たら、内面性を充実させる時期に当たるのだ。これが陰。反対に外に活躍する時期が陽だ。つまり人生、もとよりこの世のありとあらゆるものには陰陽の両方がある。
陰(蔭)で功徳を貯えなかったら、外へ出ても大した活躍はできない。それに、いつまでも陰ではない。陰極まりて陽、陽極まりて陰で、陰・陽が交互に来て、人間に幅ができる。
陰というのは、内面の充実を図る天の時。そういうときに、いろんな因縁やら、自分が持っている内在的な問題点が出てくるわけだ。
神様は人に自由意志を与えていらっしゃる。自殺する自由すら与えて下さっている。私なども、修行がきつくて、初めの内は何回死にたいと思ったかわからない。
しかし自殺した人がどういう霊界へ行くか、ということをよく知ってからは、自殺なんかやめようと思うようになった。いい機会なので皆さんに自殺者の末路をお話してみようと思う。
苦しくとも、生きている時の方が断然修業しやすい
人には確かに、自殺する自由はあるのだが、死んだところで、地上でやるだけのことをやっていなかったら、もう一回生まれ変わって来なくてはならない。これを再生御魂という。
魂の修行というのは、肉体があるかないかで比べれば、肉体があるほうが修行がしやすい。肉体がなければいろいろな世界、いろいろなレベルの人たちと接触することができない。
しかし肉体があれば、いい霊層の人も地獄界にいる人も、同じ社会(現実界)にミックスされて住んでいるから、それらの様々な人たちを見て、磨かれたり気付いたりして、修行が進むわけだ。
そもそも、死ぬと、死んだところの霊層で何百年も生活をする。死後に霊層がどんどん上がっていく人というのはあまりいない。
その境地や意識の状態でストップしている。だから、意識のレベルを上げる、悟りを高くする、内面を向上させるというのは、肉体を持つ人の特権であるといってもいいだろう。
毎日、今日死んでもいい、死んだらせいせいする、こんな人生になったのは神様が悪いんだ、などと思っていると、だんだん自殺したいような気持ちになってくる。
これは祟りの霊とか、自分の前世の思い出の影響が多い。
時どき散髪屋でひげを剃っていると、ぞーっとするという人がいる。かみそりが来たら、ぷるぷると震えるという人がいる。
これは前世で首を切られた人などに多い。そういう思い出がある人は、知らず識らずに意識の底の記憶が甦って怖いのだ。
自殺者は周囲が真っ暗な地獄界に行く
ところで自殺だが、私のように死んだら不幸極まりないことを知っていると、もう自殺はできない。甘いおい
死んでも絶対に解決にならないし、今生すべきことができていなかったら、もう一回生まれ変わってこなければならない。
もう一回、足りない修行分を終了する為だけの人生を送るのだから、結構、辛い人生が待っているわけだ。
だから死んでも同じことなのだ。死ねばまず、霊界で修行しなくてはならないのだが、人生はバラ色だと思って自殺する人はいない。
人生の先が見えない、ああ、世の中真っ暗だ、人生は真っ暗だ、不安だと思って自殺するわけだから、死んだ人の霊界というのは、周囲が真っ暗。気持ちが真っ暗だから、その心(霊界)にふさわしい世界に行くのである。
自殺者の霊界というのは、その本人の周囲だけがぼーっと明るくて、五センチ向こうは暗闇という、濃霧の中にいるような状態である。
そして景色が全然見えない。それが何百年も続く。
そのことを知っていたら、ばからしくて自殺などできない。中には、自殺して、どこかの救霊師(私どもの所で霊の救済を行なっている。
その霊を救済する資格を持った者)のところへ行けばいいと思う人がいるかもしれないが、それでも、霊界に行っている間は修行しなくてはならない。
自殺の罪(=為すべき修行をしなかった怠りの罪など)を霊界で問われ、何年かは重労働をさせられる。もっこ担ぎとか、雑巾がけとかを十年、二十年して、やっと普通の霊界へ帰れる。
しかも霊界の修行は、この世の肉体労働よりももっと苦しい。
霊界の実体天国は地上の百倍幸せ、地獄は百倍悲惨!
霊界に行くと、冷たいものはどこまでも冷たい。暖かいものは、ほんとうに暖かく感じる。簡単にいうと、神経が露出していると思えばいい。
肉体がある間は、肉の衣でカムフラージュされているから、痛みというのはそれほど感じない。辛抱できる。
これに対して、霊界へ行くと、痛いというのは要するに、歯医者さんで神経を取られたときの、あの痛さ。あれが毎日続くと思えばいいのだ。
逆に、霊界の幸せなときは、モルヒネ注射でも打たれたようになる。肉体がないから、喜びも苦しみも、何百倍にも感じるわけだ。
だから霊界では肉体があるときの何百倍も苦しいから、どんなにこの世で大変でも、肉体で修行しているほうがはるかに楽なのである。
先祖が「助けてくれ$301C」といって子孫によく憑くが、あれなども、この世の苦しみと地獄の苦しみが、けた違いのせいなのだ。
つまり、この世を儚んで、その苦しみから逃れようと自殺をしても、もっともっと苦しくなるだけのことである。
この女性も、背後の守護霊の存在を強く認識しておれば、霊界に入るとこうだよ、と書物や人の口を通して教えただろうが、しっかり認識していなかったようだ。
だから守護霊との霊線(霊的交流つながり)が弱く、守護しにくくて邪霊が入り込み「死にたい」というマイナスの想念が湧いてくるのである。以下は、私がその女性に話したアドバイスである。
「精神的にも何の夢もなく、希望もなく、結婚もせずに独身で今の四十二歳まできて、女の幸せもなかっただろうし、仕事をしたって大して特技もあるわけじゃないと言うし、何のための人生だったろうかと思うでしょう。
だから、ここ一、二年の間に勝負して、結婚して家庭を築く。子供もいる、夫もいるという喜びの中で、自分自身を幸福にする。
人生の幸せの基礎基盤をつくることだ。そうしたら、危険な時を乗り越えて、八十二歳まで幸せな人生を送れる。そうするもしないも、あなた次第だ」
人は、何がなんでも、自分で自分を幸せにしなくてはならないのだ。
人が幸せにしてくれそうに思うのだが、やはり自分を幸せにするのは、最終的には自分自身なのである。
自殺をしたくなるのは、悪霊の仕業だ
その時私は、この女性に憑依している霊を色紙に書いて見せた。六人の処刑囚だ。処刑されて死んだ霊が、凄い姿をあらわしている。私は彼女にいった。
「ぞくぞくとしたでしょう。全身に悪寒が走りましたか。この霊が最初にお父さんに乗り移って、お父さんを自殺に追い込んだうえに、次は、あなたを自殺に追い込もうとしていたのです。
六人の処刑囚がお母さんの家を代々呪っている。それで、自分たちがされたのと同じように首を吊らせようと、七、八代ぐらい前から狙っている」と。
そして、「見やぶったら体が暖かくなってきたでしょう、足の裏が。感じない?」
「感じます」
「ぞくぞくは感じた?」
「はい……」
「あなたの心の奥に、こんな顔が見えている。ぞくぞくっと来たでしょう」
「来てます」
「危なかったね」
「はい……」
この後、六人のたたり霊は私がすぐ救霊して、地獄界から救い出した。それ以降、自殺したいとはまったく思わなくなったそうである。
このように人は、自分の心に夢や希望がなくなったり、体力、気力が衰えて来ると、 その心のボルテージが下がったスキに、家代々の祟り霊などの悪霊が忍び込むのである。
何か知らないが自殺願望が出てきたり、ノイローゼ気味の人などは、ほとんどその祟り霊などの悪霊に憑かれていると思ってまず間違いないだろう。
人には、家代々の祟り霊、救われていない(成仏していない)先祖霊、生霊、動物霊などはじめ、様々な悪霊が、人の心にスキあらば、とりつこうとしているのである。
そういう霊は、誰にでも、どんな家系にもたくさんいる。夢、希望、体力の旺盛な人も、今は大丈夫でも衰運期を狙って待っているものなのだ。
自殺をしたいと思ったことのある人は勿論だが、どんな人も、できれば健康なうちに、早目に一度は救霊をお受けになることをお勧めしたい。
第四章 運命飛躍の大法則
やり遂げることを習慣にしよう
「新しいことに挑むより、古きことを完成いたすべし」
あなたは完成力をどれぐらい持っているだろうか?
何かで成功し、満足のいく人生にしたければ、中途半端で終わるクセを失くさなければならない。
それには手はじめに、以前からやっていて中途半端になっていることや、いろいろやってきて、未だ中途半端なものを、まず一つ、ずば抜けたものに完成させることが最初である。
それをせずに、次から次と目新しいものに手を出していくと、その全部が中途半端になってしまう。それではダメだ。
もちろん新しいものというのは、完成したものを一層素晴らしくするための色・輝きになる。だから、新しいものに挑戦していくことは、非常にいいことだ。
だがその前に、手を染めていたものが、あるレベル以上になっていなければならない。中途半端のままでは、単なるあがきになってしまう。
それよりも、一つひとつ確実にものにしていくことが大切だ。それによって歩みは遅いかも知れないが、より堅実で堅固なものを身につけることが可能になるのだ。
世の中で大きく成功した人たちを見てみるとよい。必ずといっていい程、一つずつやりはじめた事はものにしていく人生観を、しっかり持っていることに気がつくだろう。「一時が万事」だ。
私は一芸や一道、一業を成した人を高く評価している。
やるのが大変なもの程、成し遂げたら見返りは大きい
ある日、22歳の女性の相談にのった。
内容は、英語が嫌いなのだが、どうすればマスターできるでしょうかということだった。
そこで私はこう答えた。
英語をやれば寿命が延びて、英語をやれば結婚ができて、英語をやればきれいになる。そう思えば、あなたにとって英語は神様である。
確かにその通り、英語をやるのが好きで好きでという人は、あまりいない。あんなもの、辞書を引いても引いても知らない単語が出てくる。どんなに頑張っても外人のほうがうまい。
その代わり、外人はろくに日本語を話せない。だから、日本語もわかる日本人が、ある程度のレベルを超えた英語をマスターしたら、稀少価値があるわけだ。
あるいは、経理でも、経理が楽しくて楽しくてという人は、まずいない。だけど、皆が嫌なわけだから、熟達したらその人には稀少価値がつく。
不思議なことに、それだけ有用でも、やっている人にとっては面白くない。そこが人間の努力対象、向上する対象としていいところなのだ。
格好いいものより、大変だなと思えるもののほうがいいわけだ。英語は格好いいかもしれないが、実際やってみたら大変だ。レベルが上にいけばいくほど大変である。だから、やる価値があるわけだ。
英語は需要が多いから、たくさんの人が勉強している。だから半端な実力では相手にしてもらえない。実際に役立たせようとすれば、相当な実力をつけなければならないから、ある意味では大変である。
しかし、一般レベルをグーンと超えるだけのものを持ったら、引っ張りだこになる。
それは金運の飛躍であるし、運勢の飛躍であるし、その人の才能であるし、本当の意味での稀少価値である。
世の中に役立たないものなら、あまりやる意味がない
逆に、需要がなければ、幾ら稀少価値があってもあまり意味がない。
例えば、特技だといっても、それが「割りバシで飛んでいるハエをエイッ!とはさめる」とか、「つまようじを投げてハエをババッと五匹刺し殺せる」とか、そういう類の特技に需要があるだろうか。
それをやるために二十年間錬磨し、ようやく割りバシや、つまようじで、瞬間にハエをバラバラと殺せるようになった。
そのために命をかけたとする。だが、やはり需要はないのである。単に「不思議な技ですね」といわれ、テレビに一回ぐらいは出られるかも知れない。
しかしその程度で、何万円も出してその芸を見る人などいない。いいとこ宴会芸に出て、ウケるという程度である。それなら、もっと別なこと、例えば、テニスとかゴルフを錬磨したほうがまだ値打ちがある。
以前、精神統一をして、名刺で割りバシを真っ二つに切るという人がテレビに出て話題となった事があった。
それを見て一生懸命その技をマスターした人がいたらしいが、その人たちはどうなったかというと、結局、会社の飲み会の宴会芸として、割りバシ切りをやっているという。やはり珍しい技というだけではダメなのである。
ある程度の需要のあるものに狙いを定めて、「これから道を開くんだ。これが未来の私を幸せにする幸福のキーなんだ」と思って、味気ないことでもやるべきである。
イヤになってからが修行である。やめずに続けたら人生が開く!
ところで、あるレベル以上になったら、どんなものでも面白くない状態になる。初めは英語が話せた、理解できた、と楽しいのだが、実力がついてきて腕を競うようになったら、本当に微妙なところで、壁が幾つも出てくる。
やってもやっても「本当にうまくなっているんだろうか」という不安が湧いてくるのだ。
なら例えば英検一級という一つの壁がある。で、英検一級を超えるとしばらく間があって、次の目標は通訳ガイドとか、あるいは同時通訳をやるとか、ビジネスの中で生かしていく道もある。
ビジネスの世界で自分の英語力を生かすにしても、レターを書ける、タイプを打てる、読める、話せる、書ける、討論できる、交渉できる、交渉できて説得して勝てるetc ……………、いろいろなレベルがある。
その壁を超えられた人は、超えた実力を備えた人なのだが、超えない人のほうが圧倒的に多いのだ。
語学の勉強というのは、若ければ若いほどいいという。ただ、あまり若過ぎてもいけない。日本語が力不足だからである。
とにかく、五年間は死に物狂いでやることが、語学のプロになる一つの目安である。
そうしたら結婚だって、今の自分に相応な結婚相手より、三倍ぐらい素晴らしい人と一緒になれるだろう。
それは語学力、今やっている英語が可能性を開くからである。
苦しみが多ければ多い分だけ、自分の運や未来は開くのである。これは誰にでも当てはまるものだし、真実だから、まず一つ、ニガ手なものを克服してみることをお勧めす
工夫して、はじめて魂は進歩する
何でも人から教わったことを「はい、分かりました」というのではなく、教えられたことをさらに発展させ、さらに創意工夫してやっていく人になるべきである。
もちろん、人間の資質として「素直」というのは、非常に大事なことだ。しかし、だからといって人間は、何でも「ハイ」「ハイ」と素直なだけでいいわけではない。
例えば、アドバイスや教えを受ける時には、素直に受ける。しかし、この段階に留まっているだけではダメで、次に、そのアドバイスや教えをさらに発展させなければならない。
つまり、より素晴らしいものにしていくことが必要なのだ。そのためには創意工夫が必要となる。それがオリジナリティであり、自分の中にある「御魂」を発動させる、ということである。
要するに、まず「素直である」ということが大前提。ただし、素直と単細胞だということとは違う。
また、素直だが創意工夫がない、というのでもダメなのだ。素直に教えを受け、さらに、それを創意工夫して発展させ、誰もできなかったような素晴らしいものにしていく。
そういう人でなければ、本当の意味での御魂の進歩、御魂の発動、御魂の向上はない。
あなたを通過したら、全てが十倍美しくなる
例えば今、あなたが普通のOLならば、これからは特別なOLになることである。だから、
「教えられたことを守るより、発展させて、創意工夫する人であれ」
目前にやってきたものが、あなたの頭脳のフィルターを通ったら、より美しく、より高貴に、より素敵で、より良く変わってこそ、あなたの人生が価値あるものとなるのである。
あなたの手に触れたら、また、あなたの筆にかかったら、全てが二倍、三倍、イヤナ倍美しく変貌する。
そうなったなら、あなたは世界中の人から尽きることのない愛と賞賛を受けることだろう。
あなたの値打ちは、あなたの中を通って出てきたもので、全て判断が出来るのである。
それが、「その人の足跡をみれば、その人が全てわかる」といわれる所以である。
読解力のない人間は、人生頭打ちだ!
ある大学生が将来のことを相談に来た。
少しばかり話をしてわかったが、この青年には読書力、読解力、表現力、忍耐力、推進力などの能力が全部足りない。
これでは成功どころか、ある程度の立場までが限度である。重役や、まして経営者なんかにはなれっこない。先が見えている。
真剣に己を見つめ、今の内に根性を入れ直さなければ後悔することは明らかである。
そこで私は、厳しいようだが彼に以下のように言った。
君の場合は、能力的に問題がある。出世したいどころではない。
読書力、読解力、表現力、忍耐力、推進力―主に足りないのがこの五つ。これまで、勉強をさぼっていたか、やったとしても、やり方が悪くて身につかなかったのか。
いずれにしても、今からでも遅くはない。かっちりと身につけることだ。
今、大学に通っているのだから、時間がある今のうちに、難解な専門書をきっちり読んでいけるだけの読解力をつけなさい。このままでは、これから先の人生は頭打ちになってしまう。
高卒の人でも、世の中でのしていっている人には、難解な専門書でも読みこなすだけの読解力が備わっている。だからのしていけるわけだ。
読解力や理解力をつけるためには、まず読書である
若いうちに、読書力と読解力、読解したものを表現する表現力、思考を整理して文章を組み立てる論理性や組立力、それらを身につけるために必要な忍耐力と推進力を養うことだ。
読解力、あるいは理解力が乏しいと、一流の人のいっている事が何も分からない。色々なことを理解し、表現していかなければ、仮に自分が素晴らしいものを持っていたとしても、相手や社会に伝わらない。
自己表現できなければ、きちんとしたコミュニケーションもできないわけだ。
いろいろなことを理解し吸収し、それを表現できるだけの力を養う。今は、そういう時期なのだ。大事なのは、若い内にそういう能力を身につけることだから、極論すれば霊層が少しぐらい低くてもいい。
仮に地獄の霊層になったとしても、三十代、四十代に挽回していったらいいのだ。それぐらいのつもりで、今は毎日、次々に読書をしていくことである。
学生の間は、社会的にもある程度ゆとりがあるのだから、時間があったら毎日図書館に通って勉強すること。何でもいいから、まず本を読む。
専門分野に限らず、広範囲な分野の本を数多く読む。そこからやり直すことだ。これが学生時代にやっておかなければならない第一の勉強なのである。
チャーチル首相も大の勉強嫌いだった
「君は学生か。どこの大学?
そうか、浪人生なのか。だから、気が沈んでいるんだな。大学進学の気持ちはあるわけだ。
二十二歳というのは、ずいぶんゆっくりしているな」
ある日やって来た大学四浪生に私はそう言った。
どこでもいいから、入れるところに入学しなさい。十八歳~二十歳ぐらいまでは、かなり上の大学を狙ってもいい。
だが、二十一歳以降は入れる大学に入ることだ。大学のレベルなんて、大して変わりない。どこの大学でも似たり寄ったりだ。
見たことも聞いたこともない大学や、何回聞いても覚えられないような大学など、全国に数え切れない程ある。そこでいいのである。
大事なのは、入学してからの問題だ。しっかり勉強して吸収し、それを社会に出た時に十分に生かすことができるかどうか。そういう意味での実力を養うことだ。
私も、受験勉強や学生生活は性に合わなかった人間だ。ナチスと戦った英国の首相チャーチルもそうだった。彼は「本当に学生生活ほど苦しいものはなかった」と語っている。
ことにラテン語の勉強が苦手で、国語が好き。そしていつも兵隊ごっこをしていたという。卒業後に、エジプト戦線に赴任するが、名門出身ということで何もすることがない。
それで、朝から晩まで本ばかり読んでいた。それが元となって人生観が変わり、あれだけの人間になった。国語力がそうさせたわけだ。
チャーチルが学校嫌いだったということで、同類に出会ったようで私も非常に嬉しくなった。かく言う私は、流通・経済と、生き馬の目を抜く現場で生きてきた人間で、学者などには本来向かない。
高校時代に、先生から「君は大学に入ってから伸びる」といわれたが、本当に大学入学後に伸びた。
社会に出てからもそうで、ずいぶんと難しい本をたくさん読んでいる。これぐらい勉強を、高校時代や浪人時代にやっていれば、もっと優秀な大学にいけただろうが、あんまり学校とか学生生活は私の性に合わない。
しかし、そういう私が難しい専門書を読んだり、本を書いたりしている。これは興味がある分野だからである。
興味があれば、それこそ寝食を忘れて異常なぐらい勉強できるのに、興味がないと頭が全然働かない。私はそういうタイプの人間である。
その点、受験勉強は、興味があろうとなかろうとしなければならない。私などには、はっきりいって、全然面白くない。
おそらく彼にとってもそうだろう。こんな受験勉強を嫌々ながらいつまでもやっていたら、やがて脳ミソも根性も腐ってしまう。
まあ、それは大袈裟だが、確実に気持は塞ぐし、自信もなくす。長く続けるべきではない。
だから、「見たことも聞いたこともない大学でもいい」ぐらいに気楽に考えることだ。
リラックスして勉強すれば、逆に能率もよくなる。それで、少しでもレベルの高いところに入学する努力をすることだ。
しかし、大したことがない大学でもいい。問題はそれからで、入学したらまず第一に万巻の書を読む。それで実力を養い、社会に出てからが本当の勝負だ。
いい大学=いい人生、それは幻想だ
この青年も含めて、高校生や受験生だけでなく親も世間も、あまりにも大学のランクにこだわり過ぎている。それは、真実の姿を見ていないからなのだ。
例えば、いい大学を卒業したとする。それで全ての卒業生がいい人生を送っているかといえば、そんなことはない。そう思いたい気持ちは分かるが、いい学校=いい人生というのは幻想である。
大事なのは、大学入学後になにをするか。そして、本当の勝負は社会に出てからだということだ。
この青年の場合はもう二十二歳であり、非常に危ない。進学するなら、どこでもいいから大学に入るべきだ。二部だっていい。あるいは、きっぱりと進学を諦めてきちんと職に就く。
そういう決断をすべき時期だ。大学はどこでもいい。大学なんて誰でも入れるのだから。
それより、やはり社会に出てからが本当の勝負だ、ということを知らねばならない。社会に出て活躍している人には、学歴は無くとも、気配りなど社会でとても役立つ能力をもつタイプの人がいる。
私のところでは、特にそのような人を買っているのだが、社会でも同じだ。
これを会社に例えてみよう。
例えば、会社なんて一部上場、二部上場というのはわずかしかない。そうではない中堅企業とか、小企業のほうが多い。
しかも、日本は中小企業が優秀だから、経済の底がしっかりしている。
韓国は大きい会社が経済基盤をつくっているけれども、中小企業が育っていないから、経済力に厚みがない。だから、日本に勝てないわけだ。日本の優秀さは、実は中小企業に秘密があるのだ。
世界でも、これだけの中小企業群が生産管理が 10 できていて、技術を持っているところはない。
大企業(エリート)より、中小企業学歴のさほどない者)が優秀であることの方が、大切なのである。
ところで、受験生の大学観とかものの考え方は、ごく狭い。上っ面や一部だけしか見ていない。ユニークで素晴らしい活動をしている人は、社会にはいくらでもいる。
なのに高校の友だちとか親戚だとか、そういう周囲の一部だけしか見ていないと、世の中の真実が見えなくなる。だから、広い視野を持つ人物になることが、実に大切なことなのだ。
勉強はできる時に大いにやっておけ
そういうことで、親が大学に行かせてくれるというのだったら、何も一流大学にこだわることはない。無名な学校でも、レベルが低いところでもいいから入学する。
勿論、名門大学を目指しているのだったら、その人はそれを全うするのもいいが……。
しかし、名門大学に首尾よく入った人も、遊びにうつつを抜かしていれば、アッと言う間に抜かれることを肝に命じておくことだ。
大学の名門である、なしなどという表面的な事に関わらず、何よりも学生の間に万巻の書を読むことである。余力があれば、体を使ってアルバイトでも何でもして雄々しく、たくましい人間になる。
そういう人間でなければ、世の中で役に立たないのだ。この相談に来た二十二歳の浪人生は、今後順調に行けば、卒業が二十六、七歳だから、未だ遅くはない。
ところで、アルバイトで社会性を養い、将来社会に出る時の糧にすることは大変に結構だが、勉強そっちのけでそればかりというのはいただけない。
勉強をすることと、体を使うこと(つまりアルバイト、との両立)をしなくてはいけない。勉強しなければならない時には、アルバイトよりも勉強が大事。
神様に戒められて牢獄に入れられていると思って、図書館に通いつめて本を読むとか、とにかく勉強をする。できる時に勉強しなければならない。人生にはそういうタイミングが必ずあるのである。
いつかその内に勉強しよう、というのではチャンスを逃す。勉強する環境が与えられているのに、勉強をそっちのけでアルバイトばかりする、というのは本末転倒。ツボを外しているのである。
