解決策(Vol.6)

第六章 失敗をバネにする生き方

失敗を克服する方法

身の周りに起きた現象から、神意を読み取れ

人は、神意の受け取り方が上手になってくると、人からのちょっとした言葉や何かのヒントで、パッと天の教えや警告を理解できるようになる。

あるいは、病気やケガ、何かのトラブルに会うことで、「ハッ」と自分の間違いに気付いたり、「これは神様からのブレーキではないか」と気付いたりできるようになる。

そんな日常生活の中や、社会の事件・ニュースなどを通して、神様が何かの教えや警告をしていることは実に多い。現象を見て、天の教えを受け取ることは、上級レベルの未来予知の法でもある。

しかし一方で、何事かが起こった時に、「アッ、これは自分のどういうところが間違っていたのだろうか」とか、「これは何の因縁が出ているんだろうか」とか、「どういう戒めなのだろうか」、「原因は何だろうか」、とあまり考え過ぎないことも大切なことである。

何故ならば、それをあまり掘り下げて考え過ぎていると、その渦中に入ってしまうからである。禍とか、あやまちとか、問題点というものは、考えることも必要だが、最小限度にとどめてあまり気にしないことだ。

つまり、天意を受け取ることと、物事にとらわれることとは、まったく別ものだからである。

気にしすぎると不運を招く

例えば、今日はお見合いの日だとする。

出かける準備もできて、さあ、出かけようとした時に、自分の家の玄関の前で通りがかった子供の自転車が転んだとしよう。

「あっ!これは不吉な暗示」

とも、とれる。特に神霊的なことに敏感な方はそう取りやすい。

たしかに不吉な知らせだったのかも知れない。しかし、今さらあなたはお見合いをキャンセルするわけにもいかないだろう。

そんな時、つまり、どうせやらなければ行かなければならないことであるなら、

そんなの偶然あったことだ、と受け流すことである。ただし、そんな妙な事が、三回続けて起これば、これはほぼ間違いなく神仏の警告と思って、警戒した方がよろしい。

しかし、一回ぐらいのことでは動揺せぬことである。

何故ならば、動揺し気にしすぎると、気持ちが収縮してしまい、自分の魅力もまった出すことが出来ずに、本当に悪い結果を招いてしまうからである。

これは今述べた、天の教えとはちょっと違うが、弓や射撃、ゴルフのプレー中に、ちょっとでも余計なことを考えるとミスにつながる。しかもミスした時に、
「しまった、なぜああなったんだろう。あんなことをしてしまってはだめだな」

とか考えてしまったら、その後はミスの連続。それは、心理的に動揺してしまうからだ。スポーツでは、これが一流選手と二流選手以下とを分けることになる。

一流選手はミスをしても気にしない

一流選手は、ミスした場合でも心の切り替えが早い。「そんなこともあるさ」と軽く流すことができるのに対して、二流以下の選手はミスを心理的に引きずってしまう。これが名人と凡人の差である。

私はよく呉清源先生の話をするが、囲碁の名人でさえ、よく打ちミスをするという。

普通なら「しまった!」と思って動揺し、ミスを連続してしまうが、名人の場合は「しょうがない」と、失敗した思いを切捨てて、何事もないように次の一手を指す。

これで「しめた!」と思っていた対局者が、逆に疑惑・不安に駆られてミスを犯す。囲碁や将棋などの勝負の世界には、こういうことが多いという。

だから、悩みや災い、ミス、思い違いなどが起きた時には、一応はそれに対しての反省はしなければならないが、それ以上深く掘り下げて「ああだこうだ」と考え過ぎたり、思い悩んだりしないことが大切である。

「時にはそんなこともあるさ」とか「折悪く、たまたまそうなっただけだ」と思いを切り捨てる。

それで、また明日から明るく元気に積極的に生きていけばいい。それによって、災いや過ち、失敗からのダメージを最小限に抑えることができるわけだ。

災い・過ち・失敗・思い違いなどが全くない人はいない。大事なのは、起こった時にどう対処するかだ。

これが、あるところまで現象をみて天意をくみ取れはじめてきた人の、陥りやすいポイントなのである。

反省と切り捨て、この二つが基本スタンスである。それによって、神様のお知らせを、いい具合にぱっとキャッチ出来るコツが掴めるのである。

そのように、天の意と現象を意識して、しかし意識し過ぎないでいくのが一番正しい方法。また、そうでなければ、人間が消極的になり、器が小さくなってしまうのだ。

つまり、少しでも危ないと思うことはしないから失敗はないが、そのかわり大きな事もたいした事もできない小さな人間に、なり下がってしまうからである。

やはり、どんどんチャレンジして経験を積むことの方が、百倍も大切なことである。失敗しても何があっても、なお前向きに立ち向かって行く人間の方が神意に叶う。それが、やがて人生の達人になれる生き方なのである。


人に裏切られたときにどうすればいいか

「うまい話に落とし穴があるように、最良の人には大きな欠陥もある。それを承知で人とつき合え」

ある独身の中年の男性が相談にこられた時に、その方の守護霊メッセージは、このように伝えている。

世の中には、完璧な話なんていうものはない。「ない」と考えて行動することが大切である。あまり出来過ぎた話だったら、どこかに必ず、何かの落とし穴がある。

そう思って、うまい話が持ち込まれてもすぐに飛びつかず、用心し見極める必要がある。恋愛にしても、最良の人だと思っていても、客観的によく見てみると何かしら欠陥や問題がある。

外見をさっと見た印象だけで惚れ込んでしまい、後でがっかりすることは実に多い。信じ込んで傷ついたこの人は人が良すぎたといえる。

世の中の現実はそういうものだから、何時でもそのつもりで人を見ていく必要があるのである。これなら何かあっても、

「そうでしょうね。そういう欠陥がなければ・・・・・・普通、何かありますよね」と済ますことができる。

過度に期待し、大きな夢を描いてしまったら、裏切られた時は本当にがっかりしてしまう。

そういうことのないように気をつけることだ。

疑えというのではなく、都合の良いように過度な期待をかけたり、盲目的に信じこんだりしないようにということである。世の中のガッカリしたという話の多くは、ほとんどが期待がハズれたということである。

だから、期待できるかどうかもあいまいなものに、期待しすぎるのはやめるべきだ。

そうすると、人間関係異性でも、同性でも、友だちでも仕事や神様事であっても、何でもそうだが、いちいち一喜一憂したり、傷ついたり、がっくりすることがない。

それはものの見方が大人になるということだ。

少年のようなロマンは、別なところで持てばいい。人間に対する期待感が強いというのは、人間というものをよく理解していないだけなのだ。理解力の差といえよう。

ここは大人にならなければいけないところで、少年のままでいいのは、創作とか、未来への夢とか、自分への可能性などの限られた分野でのことだ。

ただし、これらの分野においても、ある程度今述べたことを踏まえた上で〝期待”を持つべきである。

これが守護霊のメッセージから学ぶ「大人になれよ」ということだ。そうすると、つまらないことで傷つかなくなるのである。


芸術は神に通ずる

作品には人生の全てが入っている

水墨画には、心性=心と内面がそのまま出てくる。それこそ、点が一つあるなしでガラリと変ってしまう。点一つで感動することがある。

私の好きな人物に、頭山満さんの息子さんで頭山立助さんという人がいる。

この人は本当に「無為にして化す」人物で、会っただけで他の人が変わってしまうという。大森曹玄氏が一番尊敬していた人物といわれている。

ところが、頭山立助さんは無学文盲。学校での成績はびりだったらしい。

書いた字が額縁に入れられて残っているが、ちょろちょろと、ミミズが這ったような字である。

ところが、Yさんという、書いた人の気持ちや、本物か偽物か、どんな性質かといったことが、文字の形ではなく墨気=墨の気で全部分かったという人物が、頭山立助さんの書を見た瞬間に、もう身じろぎすることもできなかったという。

「日本でこれだけの書を書く人がいたんだなあ」

ということを一言漏らしたらしい。

頭山満さんも、何か大事な時には、息子の立助さんに全部相談をしていたらしいが、ある時、大森曹玄さんが剣道の会を始めようとした時に、頭山満翁に会長をお願いしに行った。

「頭山先生、ぜひ私たちの会の会長になってください。頭山先生がいらっしゃるだけで会は全部うまくいくんです。何にもなさらなくて結構ですから」

ところが、頭山満翁は即座に、

「あ、それだったらわしよりも、息子の立助がよかろう」

「しかし、立助さんは結核で、もう二年ほど病気で寝ておられます」

「体は病んでおるけれども、心は病んでおらんゾ」

頭山先生のその一言で、大森曹玄さんは了解し、立助さんが入院している病院に、挨拶とお願いにいった。

立助さんは病弱で小中学校を全部欠席して、病院で寝たっきりだった。結核で回復する見込みもない。

それでも、大森曹玄さんは、頭山先生がおっしゃることだからと素直に従った。頭山立助という人は、布団に寝たきりで、ほーっとしている人だったらしい。

「頭山先生の仰せで、ぜひ私の会の会長になっていただきたいと思いまして、今日は慎んでお願いに参りました」

「はあ、引き受けました」と、たったこれだけ。

「こういう会を運営しようと思いますので、一つよろしくお願いいたします」

「ああ、分かりました。頑張ってください」

たったこれだけのやり取り。で、大森曹玄さんは、「どうもありがとうございました」という言葉を残して帰った。

ところが、その後から体中にやる気がうわーっと満ちてきて、二週間というもの、頭山立助さんの側にいるだけで、喜びと躍動感と自信と英気がみなぎってきたという。

何と素晴らしい感化力であろうか。まさに「無為にして化す」ではないか。

人への感化力でみる、人物レベル「上」・「中」・「下」の見抜き方

人を知るのには次に紹介する三つのレベルがある。

下はティーチ、教え――これはこうだと事細かく教えることで相手を指導する方法。これは最低レベルである。

次の中は不言実行―これは、黙々と生きている生きざま・人生、息吹というのを背中で感じさせること。「私もああでなければいけない。あの人に見習おう」と感化する。

人が目標にするような生き方の見本を見せ、相手を自然の内に良くしている、というもの。それが本当の教えだ。

さらに上である第一等の教えは、「無為にして化す」何にもしない。だが会ってニコニコとお話しするだけで、ヤル気や、勇気、いろいろな答えを自分で出せるようになる、という最上の感化法である。

頭山立助さんは、そういう人だった。最高の教えとは、無為にして化すことなのだ。

何にもしないで相手を変えることができるのである。後にこういうことがあったという。何か困った問題が起こり、大森曹玄さんは病院の頭山立助さんを訪ねた。

「今こういう状態でございます。どのようにすればいいでしょうか」と、教えを乞う。

「頑張ってください。大変ですね」

返ってきたのはそれだけ。答えはない。ところが、大森曹玄さんが、「分かりました。ありがとうございました」とお礼を述べた瞬間、わっと湧き上がるような感じで自ずから答えが分かった。

自分で答えを見つけることができた。そして、また二週間やる気に満ちたという。こういう素晴らしい人が、実際にいたわけだ。

その頭山立助さんが書いた字というのが、まさにミミズの違うような字であるが、大森曹玄さんは常々、

「私の生涯を通じての師匠は、花園大学で教えていただいた先代のお師匠さんと、頭山立助さんである。

このお二人だけが「無為にして化す」本当の師匠であった」

と述べている。花園大学というのは、臨済宗妙心寺派の学校のことである。頭山立助さんはまさに「無為にして化す」人であった。その人が書いた本当にミミズが這ったような字を、大森曹玄さんは家宝として大事にし、拝んでおられるという。

うわべの技術ではなく、「気」を見て真価を測れ

書道では「気韻生動」を重視する。書いている人の気と余韻の部分が生きて動いている。そういう書を第一とする。書の真髄は「気韻生動」である。

私は書道ができる人を偉いと思っている。書芸術など魂を錬磨していく道というのは、本当に素晴らしい。

中国の宋の時代に周渓、程明道、程伊川、張横渠などの爽々たる学者たちがいて学問が盛んに行なわれた。これを宋学といい、朱熹の唱えた朱子学などもこの宋学に含まれる。

程明道、程伊川の兄弟が易学、大学、中庸の解説で大変大きな功績を残しているわけだが、この伊川先生、明道先生は毎日書を書いていた。

ある人に、「明道先生、書を毎日書いておられますけれども、どういうお気持ちで書いているんですか」と尋ねられて、「私は道のために書いているんだ」と答えておられる。

毎日書を書くのは、己の修養のためにやっているのだ。うまく書こうなんて思ったことはない。自分自身の為である、と。

儒教は聖人に至る道、道教は無為自然の道

ところで儒教の道というのは、聖人に至る道であり、そのための修養を説いている。これは朱子学や宋学なども同じだ。孔子のいう聖人を人間の究極の理想像としてとらえ、それに至る方法を述べた学問である。

中国の思想には、もう一つ、儒教の他に道教の流れがある。これは老子・荘子に代表されることから「老荘思想」と呼ばれているが、無為自然に価値を置き、それを会得することが聖人への道だと説く。

茶道・華道・剣道・柔道など、日本では芸事に「道」をつけるのは、この道教の影響を受けているからで、この場合の道とは「心」ということである。これは仏教でいう「心の道」と同じものだ。

儒教のいう道は聖人への道。道教の道は悠久な宇宙や天地の根源的な法則を解明し、その中で生きる人間の生きざまを指す。

だから、先ほどの程明道の答えは、「私は聖人に至る道の一つとして書道をやっております」という意味なのだ。

このように、書芸術と書画で己の魂を完成させるべく修行を積んでいる人もいる。こういう修行目標もあるのだ。

生涯をその道にかけて没入し、精進していらっしゃる方は、本当に尊敬に値する。私自身も、そのような勉強をしたい気持ちで一杯だ。

菩薩と如来、そして神

「心の道を極め、心が極まる」ことを菩薩という。

菩薩というのは、心が極まった境地を指す。だから、菩薩のような人というのは、そういう境涯、そういう気持ちで一生涯生きている人のことである。

そして、その菩薩の境地が全く揺るぎない、いかなることがあってもその境地が揺らがない状態を、如来という。

法華経では、如来の位に立って様々な説法がなされている。その法華経の如来が如来寿量品で、如来の位から人に方便の道を説いている。

当然、自分がぐらぐらしていたのでは人に説法などできない。だから、如来というのは悟った位、域ということになる。

如来が定まると、その上に神様がいらっしゃる。

明治陛下は、その典型的な方だ。本当に内面が神様みたいな方で、その方が歌う歌はまさに神様が詠まれた歌そのものである。その方が描いた絵は神様が描いた絵ということになる。

その上にいくと、もう心の念や思いを超えて、その人の霊体・魂の輝きそのものが神なるものとなる。だから、心のままを芸術の作品などに普通にかいている時に、そのまま神気が宿っている。

そして、それがご神体になったりするわけだ。

つまり、心の道を極めたら気の世界になる。墨気、墨の気でその天地、宇宙、その人の生命と宇宙、森羅万象全てを物語るような気をもって描けば、まさに神品、神の作品とも言えるものができるのだ。

心の道というのは、そういう四次元の悟りの世界の道である。菩薩から如来に上がり、如来から神に上がって神人合一する。

肉体は人間だが、中は神様となっている、そういう方の言葉や書は、芸術を乗り越えた神品なのだ。ご神体のようなものなのだ。世界の歴史、日本の歴史には、そういう人がいるのである。

私も、読んで感激するだけの本ではいけないと思う。

触っただけで病気が治るような本だとか、日々の修行が活字の中に自ずから現れて、表紙から始まって一ページ、二ページ触っただけで、涙が出て、たたりの霊も改心し、その後にいい事が次々起こるという、そういう本を書くのが目標である。

本に触ったらそこから神気があふれて、その気によって胸を打たれる。それは神社などと同じだ。神気があふれて魂が洗い流される……。

そういう、さらなる上の世界にいかなければならない。それが私たちの目指す究極の道であると思う。


カルマはこう乗り越える!

人生の目的は境涯を高め、徳を積むことにある

Aさんは書の大家である。

ある日、相談にいらっしゃった。それで「Aさん」といった瞬間に、Aさんの守護霊が勝手にこっちにきてしまった。そして、私に次のようなメッセージを「A」に伝えてほしいと言ってきた。

「あなたは、もう少し境涯を高めなければと思って、ここにきたはずだ。その答えは、そのためには身を清浄にしていくこと。

もう一つ。人に対して徳を積むこと。徳を積むというのは、本当に人を幸せにすることである」

これを少し解説すれば、徳を積むには体施、物施、法施があり、それぞれ体によるご奉仕(体施)、ものやお金で人を幸せにするご奉仕(物施)、そして法を説くことによる

ご奉仕(法施)がある。Aさんの場合は法施であろうと思う。

大勢の方に、素質のある人が人の道を説くことによって、人が感激し、「精進努力しよう」「求道心を持っていこう」という気持ちになっていく。

そして、幸せになる。そして、その徳分が、今度は自らを清浄にしていくわけだ。

身を清浄にすることと、人に対して徳を積むこと。この二つを行なうことで、さらに上の世界への道が開ける。だから、その身を清浄にして徳積みをしていく。

その根源になるのは、本当に清らかで涼しげな愛でしかない。

最高級の世界は、これだ!

私は、刀の鑑定士と、よく「どういう刀が本当の名刀か」という話をする。

正宗や安綱など、世にはいろいろ名刀と呼ばれる刀があって、中には国宝に指定されているものもある。

しかし、国宝だから名刀だとは限らない。何を名刀と条件づけているかというと、「暖潤味」である。暖潤味のある刀が名刀の条件なのだ。

つまり、刀には、その刀を打った人の境地が全部出ている。名刀といわれるのは、触ると暖かくて潤いのある感じが伝わってくるもの。それが名刀で、持ったら身が引き締まったとか、あるいは、清らかであるとかは問題ではない。

清浄で徳を積んでいる根源には、広くておおらかな愛が、自分の中に自ずからにじみ出てくる。それが神魂であり、神様なのである。

道の奥には何があるか!?!?!!-―それは愛と歓喜だ

修行者はよく、「道を極めよう」という。だが、その「道」というのがくせ者である。道はどこまでいっても道なのだ。道路は全部つながっていて、どこまでいっても道がある。どこで道が終わるのか?

あれだけの歴史と伝統のある中国では、道を説いている。だが、道の路上には真髄はない。では、どこに真髄があるのか?それは道の奥にあるのである。では、道の奥には何があるか?それは愛と歓喜なのだ。

そこには、道を極めようという気持ちもないし、求道しようという心もない。ただもう、本当に澄み切った愛情と、愛情に満たされた歓喜がある。全てが無為に化しているのである。

先ほど述べた頭山立助さんがそうだったように、「無為に化す」人物というのは、その人といるだけで幸せで、悪が善に変わっていく。そういう気持ちが自然に湧いてきて、魂が洗われる。

その人自身は別に道を説くわけでもなく、頑張ろうなんてこともいわない。ただ会ってにこにこしているだけ。それで人を変えてしまう。無為にして化す。すなわち、道を超えた人である。

道は到達することがない。道の到達点というものはない。ここに、書道、芸術でも武術でも、求道者にとっての落とし穴がある。

どこまでも道を求め続けていくのだが、その先には終極はないのである。

神道では、道など説かない。今が幸せで、喜びだったらいい。毎日、そうして生きている人間は、本当の意味で達人であろう。

そこまではなかなか難しいが、それをすぱっと拭っ切れば、話をしても、点を書いても、墨をすっていても、顔を見たら、愛と歓喜と喜びに満ちてくるということになる。それは本当に神がかりした人である。

そういう方は明治天皇ほか、過去に何人かいる。その方々は肉体がなくなると神様の世界にいく。そういう人を神上がりした人というわけだ。私の「神霊界」という本にもちょっと書いたが、菅原道真公やお釈迦様もそうだった。

神がかりする時には、己の修養を乗り越えて、本当に神に目覚めて、神様から引っ張ってもらうと同時に、自分の中がぱーっと割れるのである。

例えていえば、雛鳥が卵 2 の内部から殻をコツコツと叩く。同時に、外からも親鳥が同じ点を叩く、そうして見事に殻を割る。

そういう一瞬のタイミングというのがあるわけだ。Aさんは今、その時をひたすら待っている状態かも知れない。

Aさんの守護霊がいいたいのは、そういうことなのだろう。

前世で撒いた種は、今世必ず報いを受ける

Aさんの前世は、天保の改革をした人だった。

なかなかすごい方である。改革を断行するために、人を処罰して牢屋に入れたり、いろいろと、かなり無理な改革を行なった。

それで今世は、脳血栓のような病気を得て、ハンディキャップを背負わなければならなかった。(Aさんは脳血栓の為、きき腕の右手が不自由になり、左手で書を書くようになられてから、以前にもまして世界的に有名になられた書道の大家である)。

前世では「よかれ」と思って天保の改革に取り組んだわけだが、「絶対こうだ」と思ったことは断じて行なう。そういうタイプの人だった。だから、信じた道をつき進んだ。人が何をいおうと、絶対に自分の信念を曲げない。権威にも屈しない。そういう人だったわけだ。

権力に負けるものかと思って、全知全能を振り絞るという感じだ。そして改革をした時に、無理に処分をしたり、贅沢を禁止した。確かに天保の改革は、庶民の贅沢を禁止するなど、あらゆるところを改革しようとした。

ライバルを政治的に失脚させたりもした。派閥闘争も起こり、闘争の中である程度悶々とする。そういうことが前世であったのだ、当然、今世は因果応報というわけで、前世、人にした事が自らに返ってくる。

だから嫉妬や妬みを受けられたことだろう。会社の中でも書道の世界でも、そういうことがあるのはまぬがれない。

「Aさん、今日までいかがでしたか?」

「はい、いろいろありました」

やはり、いろいろご苦労があったようである。前世ではその渦中にあって、絶えず「負けるものか」と思い、自分が信じる改革を断行した。

その時に、確かに、江戸庶民の生活はよくなったわけだが、反面、やはり人を苦しめている。反対者・違反者をどんどん牢屋に入れたりしているわけだ。

このために、どうしてもAさんは自分自身の魂が牢屋に入れられるような境地、境涯人生になってしまうのは避けられない。やはり因果応報だ。

その一つがこの病気。天が与えたハンディキャップなのである。前世に本人が種まきをしたことだから、刈り取らなくてはならない。

ハンディキャップのある人の方が、修行が進む

しかし、カルマで腕がどうなった、とか、動く動かないではなく、要は、天が与えたハンディをどのように受け取り、魂と己を完成させていく道に変えていくか、これが大切なのである。

前世に大したことをやっていない人間は、そういう悪因縁がないから、ハンティキャップもない代わりに、現世でも大したことができない。

逆にいえば、ハンディキャップが多い人は、それをバネとして、もっと大きな世の中に残していける可能性がある人、ということだ。だから、ハンディをバネに己を立派に磨く。そういう人のほうが、ドラマと値打ちのある人生を送れるはずだ。

因縁因果の法則とは、どんなにいいことを行ない、善徳を積んだとしても、前世で人を苦しめた分だけは、やはり背負わなければならない。

そういう因縁の先祖がいる家系に生まれ、そういう境遇におかれる。人生にそのような傾向があるわけだ。その傾向というのはカルマであり、業である。

このカルマがあるからこそ、争いの渦中に巻き込まれたり、そのような病気を得てしまう。

それをバネに頑張るのだが、一番大切なのは、置かれている境涯をどう受け止めていくかなのである。

その意味で、「只今」の生き方が勝負だ。そのカルマを善に変えるか、単にハンティキャップがあって大変だ、で終わってしまうか。それは「只今」が分れ目にある。

求道心というもの、あるいは信仰心という道で考えれば、ハンディキャップと苦しみは多ければ多いほど進歩する。

そういう生き方に徹底したら、全部が吉に変わる。しかし、日常の幸せと平安な人生を送りたいというだけの人から見れば、ハンディキャップは悲しみと悲劇の材料でしかなくなる。

そこが違う。だから、吉にするか凶にするかは、本人の只今生きている人生の捕え方、価値観次第というわけだ。

優秀な人物は因縁に立ち向かう!

カルマについて、禅宗では「不味因果」という。「因果を味まさず」という意味の、私の好きな言葉だ。

すなわち、人生を悟った人間は、因果や前世の因縁やカルマ、また家代々の祖先などに一切心を味まされない。只今、只今を充実して、精いっぱい平常心と安心立命の中に生きている。

そしてさらに、本当の悟りを得た人間というのは、甘んじてカルマを受けて立つ。因縁に負けないように、かえって自分のほうからそれに立ち向かっていく。

そこには、因縁をあえて受けようという心の余裕があるわけだ。

この、因果を昧まさずとは、善因善果、悪因悪果から逃れてしまうという意味ではなく、因果を受けても影響されない境地、境涯を持って生きているということなのだ。

そうしながら、甘んじて、不幸のカルマでも受けて、余裕で生きていこうということである。

この不昧因果という言葉は、本当に素晴らしい言葉だ。

どんなに徳を積んでも、この何百年、何千年の間に積んできた自らの業は、その分苦しんで返すしかない。ならば因果に冷静に立ち向かいながら、それをいいほうに変えていくバネ、糧にしていくのがベストの生き方である。

私もそうである。どんなに神様の道を送っても、どんなに徳を積んでも、厳然とした天地の法則がある、さまざまな葛藤はあるけれども、それから逃げないようにしている。

善、そして時には悪も行なえる、世を救う大物となれ!

話を元に戻して、Aさんの前世の水野忠邦という人、恐らく書道にも通じていたのではないかと思う。

ところで、ある時代にある人物が登場するというのは、歴史やその時代のニーズがあるからだが、水野忠邦(前世)を、過去神通(その人の過去を知る神通力)でさらにさかのぼって見てみると、平安時代にも一度生まれている。

平安時代では一風変わった人だった。日本流のとても優しい女性的な書を書いておられたが、それが何回か生まれ変って水野忠邦になった。はっきりいえば、水野忠邦の死後は地獄界で、そこに五十年から六十年ぐらいいた。それが、地獄界の刑期が終了したことで、今のAさんに生まれ変ったのである。

御魂は清くて汚れのないのが最良ではない

ところで「神界からの神通力」にも書いたが、霊層が高ければいいというものではない。清らかで純粋で本当に汚れのないシスターのような人が霊界に帰ったら、確かに本人は幸せかもしれない。

しかし、この世の中をどのようによくしようかと神様が考えておられる時に、清らかで純粋で、シスターを何回もやっていた人が守護霊になったとしたらどうだろう。

確かに神様のメッセージは伝えられるのだが、荒い波動の現実界に生きる「人間」の教育係である守護霊としては、やはりパワーが弱い。

戦国時代のように、大きな時代の転換期で大きな力を発揮した人は、やはり善悪様々なことを、生前に経験した霊が守護霊として働いていた。それだけのパワーで世を変えていかなければ、世の中がよくならないからである。

それが、先程少し触れた時代のニーズというものだ。

現世での書道の世界もそうだが、そういう使命がある人というのは、神様にあえて戦国時代だとか、徳川幕府が衰退に向かう時期に生まれさせられる。

そして、周囲の環境から、老中にならざるを得ない状況にやられるわけだ。そして、その道(宿命)を送るために、あえて道を開いていく。つまり、逃げられないその人生を、つき進んでいくのである。

土砂降りの中をいこうと思ったら、少々泥を被っても仕方がない。戦国時代なら人殺しもやむを得ないと、あえて罪と知っていながら断行するわけだ。

老子には「天地に仁なし、万物をもって芻狗となす。君子に仁なし、百姓をもって狗となす」という言葉がある。

これは、「天地自然には仁や思いやりなどはない。だから、万人を、わら人形のように扱うのだ」と解釈する。

これに関連して、例えばヒットラーは「国民の半分の意見を満足させるためには、残り半分の意見を無視すればいい」と述べているが、為政者が何らかの改革を断行するには、強権を降りかざして万民に当たるケースが多い。

それによって意見を封じ込め、反対する者や違反者をまるでわら人形のように首を切り落とし、投獄したり島流しにする。

そういう強権発動は、当時の為政者にとっては必要悪と考えられた。天地の仁ということを考えれば、仕方がないと。前世のAさんは、そういう道をあえて取った。

それが今世に返ってきている(だから苦しみのある人生である)のだが、その時代にはそうすることが一番大善であったのだ。

これをもし、小さな善にこだわっていたなら、世を救い、国を救うなどの大善はまず積めなかったのである。

だから、よき御魂はカルマを積むことも、時にはさせられるということを知らねばならない。

永遠に失われない三つの宝物

人間の才能とは、前世に努力し苦労して頑張ったものが身についているものである。

とりわけ、学問と信仰心と芸術、この三つが前世から今世へと持ち続けることが出来るものである。

これは私の「奇跡の開運」(学研刊)にも書いたが… 学問というのは魂で吸収するもの。それは咀嚼力そのものであり、理解力そのものであり、ものごとの考え方である。結局は魂で受けとる力だと言える。

信仰心は、神仏に向かう心はもちろん、何事も貫き通して成し遂げる、精神力のことである。

芸術とは、魂を磨いて魂で表現するもの。絵でも音楽でも、芸術は全てが魂の糧になっているのだ。この学問・信仰・芸術は、やればやるほど魂の糧となり、霊界に帰っても死んでも)続けていける。

故にこの三つは魂の奥深く刻み込まれ、永遠に自分の御魂の能力となるのである。

だから、今世にその三つを十二分に磨いていたら、来世に生まれ変わった時には、生まれながらにして頭がいい。理解力がある。信仰心がある。音感がいい。書道の手の筋がいい。色彩感覚がいいetc.…………こうした才能というのは、本人が前世で磨いた宝物だから、生まれ変わっても残っているわけだ。

人間としての有効な人生を考えるなら、どんな仕事も学問的に考え、どんな仕事も信仰の糧として考え、どんな仕事も芸術の糧として考えていく。

そういう人生が一番ムダがない。死ぬ当日までこういう生き方をしていたら、霊界に持っていけるし、来世にも持っていくことができるので、ムダがない。宝物が逃げない生き方であると、私は考えている。

六十一歳で霊層が定まる

Aさんは、今世にそういうものを全部持ってこられて、それが今、開花した。自分の魂の完成時期に花が開いたわけだ。

六十一年で一つの干支が循環するが、この還暦が過ぎると、大体霊界では来世のことが一応決まっている。

天眼で見るところでは、Aさんは来世では、農作物をいかにつくるかという先端技術者になっていらっしゃる。

農作物がどうすれば有効にできるのか、その技術者になって生まれてくるはずだ。

今、書の先生をやっているが、それは残りの人生の何年かで終えて、来世は別なテーマをやることになる。

そして、今世書を極めた分、来世は技術者でありながら、また素晴らしい書家でもある、生まれながらの「天才」といわれるような人になる。

天才というのは、全部そういう前世の努力がなければ生まれてこないわけだ。

もしもハンディキャップを負っている方は、ここで述べたように受け取っていただきたい。死んだら霊界があって、来世がある。

だから、死ぬ当日まで、魂をますます磨い前世と前々世の功徳を開花させ、来世の貯金づくりをする、というのが、残された人生を過ごす最高の生き方なのである。

第七章 本物となれ

一流人の共通点

「やってもやっても、やり足らぬ。それで一流の仕事ができる人となるなり」*

人間誰しも、「こんなものでいいや」では終わりである。映画の黒沢明監督は、九十歳近くなってもまだ作品を撮っている。

「よくそれだけの作品に取り組む気力、元気が続きますね」と聞いたら、

「やってもやってもやり足らないと思うからやるんだ」と答えてくれた。

これは私の弟子の西谷泰人君の本にも書いてあったが、仕事でも神様事でも何でも、一流の人は皆、同じだ。まだ足りない、まだまだ足りないと向かっていく。

だから、一流の仕事がやれるのだ。また、一流の仕事をやっているから、当然に高い評価を受ける。いい意味での循環ができているわけだ。


親よりも、はるかに素晴らしき存在、守護霊に目をやろう!

親子は旅の道連れ。兄弟、夫婦も同じだ

親兄弟というのは、肉体を持って今世生まれてきた旅の道連れである。

格さん、助さん、風車の弥七のような間柄だ。要するに、親子というのは、旅をしている道連れなのだ。

前世、兄弟だった人が親子になったり、親子だったのが兄弟になったりしている。またかたき同士だったのが親子になったりもする。

前世からのカルマや、親兄弟・夫婦の縁というものは、そのように絶えず変化しながらからみ合っている。

また、夫婦というのは、前世に親子、兄弟、夫婦だった者同士がなることがほとんどである。

ところで、「父親」といえば、今世的な目で見たら親子の関係なのだろうが、もっと長い目で見れば、たまたま父親という名の役割で来た人にすぎない。

人生の修行、旅に共に生まれ来た人なのだ。前世はあなたの子や孫だったのかも知れない。

親に「勉強しろ、勉強しろ」と言われて苦しい人は、前世、逆にあなたの方が親で、子(今はあなたの親になっている)にさんざん「勉強しろ!」と言っていたのかも知れない。

小さな家族意識は捨てよう!

そうやって人生の本質に目をやると、親のことで苦しんでいる人は、必要以上に、父母、兄弟という現世での関係を、大きな存在に考え過ぎていることに気が付くだろう。

もしも、自分の人生というものをいかに向上させ、いかに自分が幸せになり、世の中にも寄与するか。

そういう広い心をもっと徹底して持てば、小さな家族などという、数人の人間関係の間のお父さんやお母さんのことなどで心を悩ましたり、悲しんだりすることはなくなるだろう。

前世、家族だったからには、やはりお互いに苦しめたり苦しめられたり、愛したり愛されたり、助けたり助けられたりと、さまざまのカルマを作っているだろう。

それを表面的には全て忘れてしまっているが、潜在意識はみな記憶している。

人間というのは、前世に経験したことを、何かのとき「ふっ」と思い出すのだ。そこで、前世からの強い縁で結ばれている「家族」と一緒にいると、その前世の記憶が出てきやすい。

記憶だけでなく、前世での性格や好み、すなわち嫌なことは嫌、好きなことは好きという、感情の中に潜む因縁が出やすくなってしまうのだ。

だから、前世のカルマを感じないようにするには、家族という意識を最小限にとどめることである。

そのように、何があっても動揺したり、感情的にならない強い精神性というものを持って人生を送っていけば、きっと素晴らしい人生がひらけることだろう。

そうしていると、素晴らしい結婚相手も出てくるだろう。逆に、そういう気持ちを持たず、目の前に起こることでいちいち感情を取り乱していたら、どんどん、本来持っていた(眠っていた)家代々のカルマの渦にまき込まれて、魂のレベルも下ってしまうことになる。

目前のことを達観し、家代々のいい因縁を引き出せ!

ところで人は、父、母、両方のカルマを持っているし、家代々のカルマも持っている。しかし、家代々の因縁とは悪い因縁ばかりではない、いい因縁もある。

悪い因縁を受けないで、いい因縁を引き出すには、目前のことを達観して、いちいちとらわれないようにする本人の努力次第なのである。決して親の問題ではない。

また、仮に親が亡くなっても、過度に悲しみすぎないことである。あまりに悲しんで亡き人を思いつづけることは、その死んだ親の霊を現世に呼び戻し、霊界修行を妨げることにもなるからだ。長い旅の道連れだったから情も強く持っているのは当然だが、来世、また会える。

立派さからいえば、親よりも守護霊さんのほうが立派だ。守護霊というのは、人が死ねば守護霊になれるというものではない。レコード大賞にノミネートされるような感じであると思えばいい。

レコード大賞というのは、何枚レコードを売ったという実績がなければノミネートされない。守護霊にノミネートされているという人は、それだけ生前に徳を積んでいる。

そして、霊界でかなりの修行をした人だから、必ず、親よりは立派だ。情緒も安定している。だから、親が亡くなった場合には、守護霊を親のつもりで、心の支えにして生きていけばいいのだ。

親以上に守護霊に情を向ければ、守護霊は親以上に、あなたを守護してくれることは間違いない。その法則をしっかり知っていれば、常にあなたは強い守護を受けられる人となる。

これもいい因縁につながる、ということなのである。

武者修行と霊能力

先日、二十歳の男性から次のような質問を受けた。

「私は、以前空手をやっていました。その流派はやや霊的、いい換えれば超能力的な技を多少取り込もうとする流派でした。

三休禅師のお話によりますと、邪霊にとりつかれる危険性があるので、やめたほうがよい、ということになると思いますが、やはりそういう傾向のあることは避けたほうが賢明でしょうか」

武術修行についての質問が幾つかきている。それについても答えておいたほうがいいと思うのでここで取り上げることにする。

結論からいって、やはりそれは避けたほうがいい。名前はいわないが、空手や武術にはいろいろな流派があって、中には霊的な色合いを強く打ち出しているものもある。そのほとんどが、やっている人に天狗がついている。

ただし、本当に謙虚で穏やかで柔らかくて柔軟な武術家、例えば、植芝盛平氏などの場合は、どちらかというと正神界の龍神系の神霊に守護されている。

要するに、霊的な色彩の強い武術家のほとんどには、天狗がついていて、武術からそのうち病気治し的な色彩をおびてくる。

たしかに武道では、「おれは強いんだ」という心も必要だろう。しかし武の心というのは、荒魂を刺激していいのだが、ほとんどの場合、自分をあまりに鍛練し過ぎる。日常生活や現界を超えてやり過ぎるのだ。

「心外悟道なし」心の外に悟りの道なしという。心の苦労、人間生活の中の苦労、葛藤というのは、己の精神を刺激し鍛える効果がある。

武術もその一つの媒介となる。しかし、あまりに武術の鍛練をし過ぎると、その鍛錬というのは、行者的なものになり、天狗がつくことになる。

したがって、そういう人の武術の技というのも、ほとんど天狗が与える霊能力なのだ。技がすごい神通力を発揮するものであればあるほど、すごい天狗がついている。

結果的に、どうしても我が強くなり過ぎて、人間社会に適合できなくなる。武術家を見ていると、ほとんどがその弊害に陥っているような気がしてならない。

普通人の行なう武術は、あくまでも日常生活にプラスになるための武術であり、鍛練でなければならない。

そのように規律しなければ生活に活きない。だから、霊的だったり、超能力を取り入れたりしている武道ならやめたほうがよい。私はそのように考えてでなければならない。