神様の功徳を引き出す本(Vol.4)

お蔭信仰から本物の信仰へ

ちょっと横道にそれましたが、お蔭というのは方便で出されるもので、道に志した当初は神様も幸せにしてくれます。

しかし、本当の道、あるいは魂の本当の幸せを考えたら、いま申し上げたような方向に向かわざるを得ないと思います。

「大天運」を読まれた方はおわかりだと思います。因縁が噴き出して、ちょっと災いがあったときにグラグラしてしまうようではいけません。

親鸞上人の求道の姿勢を見てください。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と祈りに祈って、これほどまでに御仏のためにと思って頑張って努力してるのに、いったいどれだけの迫害を受けたことでしょう。

ここまで衆生のためにと思っているのに、御仏はなんと無慈悲なのだろう。親鸞さん、何度そう思ったことでしょう。日蓮さんも同じです。

だけど、親鸞さん「この苦しみ葛藤も、尊い御仏のご加護で小さくしていただいているのだ、本当はもっと大きな業だけれど、御仏が小さくしてくださっているのだ」と感謝して、乗り越えていった。決して艱難辛苦に負けなかった。

単なるお蔭信仰ではなかった。言っているのは「南無阿弥陀仏と唱えれば救われる」というお蔭信仰ですよ。

「南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土へ救われる」と説いて回り、衆生済度に生涯を捧げた親鸞上人。「自分が地獄に落ちてもいい」と言っているのですから、衆生を救いたいという慈悲以外の何ものでもなかったのです。

だから、あらゆる艱難辛苦に遭い、葛藤、苦しみがあっても、御仏に感謝して喜んで乗り越えていくことができたし、それがゆえに、あれだけの足跡を残したわけです。

皆さんのなかには、私、深見東州という人間を信仰している人がいらっしゃるかもしれませんが、そこから一歩でも二歩でも前進して、無形なる道、本質を目指していただきたい。

私は、あくまで媒介ですから。だからと言って開き直って、いい加減なことをしているわけではありませんが。私を通して出てくる神霊の本質。

皆様の魂が求めている本質。皆様の守護霊様が導いていらっしゃる方向性の本質。これを見ていただきたいと切に思います。

窓口、とっかかりは救霊でも星ツアーでも結構です。救霊を受けたら病気がよくなった、星ツアーに行ったら人間関係がよくなった、運がよくなった。それはそれでいいことですが、果たしてそれだけでよいものでしょうか。

これまで、著作のなかでも口を酸っぱくして言ってきました。

「人生の本義に目覚めなければいけない。何のために生きるのか、どういうふうに生きるのか、霊界に行ってどうなのか。生きても死んでも幸せで、強運で豊かな人生を送らなければいけない」と。お蔭というのは、その窓口、とっかかりです。

救霊や星ツアーにも、もちろん意義があります。だけど、それだけで「よかった、よかった」と言って進歩しないのは果たして、神々様や御仏や守護霊様、自らの魂の切なる声に従っていると言えるのでしょうか。本当の道なのだろうか。やはり、これを考えなければならないのではないでしょうか。

私は神様に感謝しております。植松先生の本を読んで、本に共鳴して植松先生のもとに来たのではありません。植松先生は本を書いていらっしゃらないし、それに何より、まだ形も何もなかったころですから。

その植松先生のところに会社を辞めて行くと言ったとき、父も母も「あいつ、頭がおかしくなった」と、それは大変でした。会社の上司からも、「お前、気は確かか?」と言われました。

それでも、こうやって形が出て、本も出て読者も二十万人、三十万人と増えてきますと、反対した人もそういうものかな、と。形が出てきて人は信じるものなのです。

本は窓口、お蔭も救霊も窓口ですが、親鸞上人が体得された本当の信仰心というものに一人でも多くの人が目覚めてくれればいいなと日々私も思っておりますし、神々様も皆様の守護霊もそう思っているはずです。

道ということから考えると、親鸞さんがいまここにいたら、多分そう言うでしょう。浄土真宗を広めたいと思ってやったのではないのですよ、親鸞さんは。まず衆生を救いたいという切なる願いがあり、行動があって、そのあと浄土真宗ができたのですから。

いまは、鎌倉時代みたいに無学文盲の人はいません。高学歴社会で、ある程度知的レベルも上がり、いろいろな宗門宗派も出て、もっと本質的なものは何なのかという方向に人々の意識が向かっております。

だから、こういう仕組が降ろされているのでしょう。

私も人為的にやっているのではありません。天の御心のまにまに自分の役割を考えてやっているわけで、浄土真宗の皆さんの素晴らしさもよくわかりますし、日蓮宗一派の方々の素晴らしさもよくわかります。

私はそれぞれの祖師の著書を読み、ご神霊と直に会っていますので、素晴らしさがよくわかります。

どちらがどうとも言えません。両方素晴らしい。みんな目に見えない道は素晴らしかった。その時代に本当の信仰というものを会得して、教えを説かれた祖師たちの御心と求道心、信仰の姿勢を考えると、どうとも言えません。

だから、素晴らしいものを広く勉強して、親鸞さんでなければ説けなかったところは浄土真宗以外の人も吸収し、少しでも世に役立てなければならないし、そう願っているのが霊界にいる親鸞上人様の御心ではないかと思います。

実際、彼はそう言っています。友達みたいに言いますけれど……。

ほら皆さん、感じませんか、この白檀の香り。親鸞さんと一つになった観音様。

親鸞さんの神霊ですね。白檀の香り、香木の香り、感じますか。

親鸞上人、霊界ではだいたい六メートルくらいで、大きい方です。

霊界で「衆生を救うぞー!!!!」というときは三千メートルくらいになります。「何とか人々を…」というときには六メートル。霊界は意志と想念の世界ですから、大いなる心で生きて「やるぞ!」という霊はでっかいです。

「細々とでも何とかやっていければ、それでよろしいです」という霊はちっちゃい。大きな霊というのはそれだけ志が大きい。

意志と想念が勇躍し飛躍して、世のためにとか、道を極めるぞという人は大きいです。大きな霊というのはそういう方です。

感じますかこれ、お香の香りがする人?

そういうことでかなり横道にそれましたが、親鸞上人の著作と歴史、彼の生きざまを、求道者として見て本当に教えられるところが多かったです。

親鸞上人様の素晴らしさの何分の一しか伝えられなかったかもしれませんが、無形の道を探究する神霊家として、現代の人々に教えを伝える一人の人間として、鎌倉時代に生きた親鸞さんはどうだったんだろうかと考えましたら、百年の知己を見出したような感激がありました。

神霊家として学び、霊にもいろいろ教えていただきました。

私なりのアプローチではありますが、皆様にも感じていただけたのではないかと思います。こういう白檀の香りがするというのはおそらく、六角堂にいらっしゃっ霊が降りてきたからかもしれません。

親鸞上人様とともにいらっしゃった、六千メートルの大観世音菩薩。親鸞さんは三千メートルですが、この観音様は六千メートルくらい。大きいですよ。

感じますね、上からふわーっと涼やかな気が降りてきていますね。こういうものに包まれながら親鸞上人は説法なさった。

親鸞上人はだいたい、こういう穏やかな語り口調でやっていました。もちろん、ときには激しく説法しましたけどね。

道を求める求道者として、神霊家として、親鸞上人様の一生涯から学ぶべきものを皆様に縷々お話しいたしました。浄土真宗のM会館にふさわしいテーマではなかったかと思います。

これにて私の第一部の講義、終わらせていただきます。どうもありがとうございました。

阿弥陀如来とはどんな仏様か?

第二部の講義では天神様のお話をしようかと考えておりました。が、急遽、変更いたしまして阿弥陀如来の話をいたします。

今日は、親鸞上人、そして浄土真宗の縁によりましてお話をさせていただいていますが、親鸞上人様が信じておりました阿弥陀如来様とはどういう仏様なのか。

いろいろと仏様がたくさんいらっしゃるなかで、阿弥陀如来というのはどういう仏様なのか。クジの仏様なのか。阿弥陀クジ(笑)。

あるいは、阿弥陀如来様へのお布施、お札はナンマイダ(何枚だ)、と(笑)。

「ナンマイダ、ナンマイダ」と、阿弥陀とか南無阿弥陀仏という言葉はいまでは一般化しております。

しかし、その阿弥陀如来様という存在は神霊的にはいかなるお方なのかを、突っ込んでお話しした人はあまりいません。そこでこの際、少し掘り下げてお話ししてみたいと思います。

ところで、この阿弥陀如来様というのは歴史や教本などに出てきますが、実際に阿弥陀如来様に会った人はいますか。いらっしゃらないと思います。私はしょっちゅうお会いしているから、お友達を紹介するような言い方で恐縮ですが。

法然上人が救いということをおっしゃって、その後、親鸞上人がこれをもっと体系づけて、巷の人々の間に根ざしました。その後、融通念仏というのがまた別に起き、高野山の歴史を見ても覚錢上人という方が出てきます。

覚錢上人という方は、弘法大師の教えがあまりにも難しいので、もう少し簡素化して高野山を再興しようとしました。

何せ、東寺と高野山の二カ所に修行場があり、「私の弟子として真言密教を勉強するのだったら最低、これだけは読んで欲しい」と弘法大師が指定した本が数百冊です。

これだけは最低基礎だよ、と。英語を習うときのテキスト、たとえばニュープリンスリーダースの一巻二巻三巻に当たるのが、弘法大師の場合は数百冊あるのです。これぐらいは勉強してくれたまえ、と。このレベルの違い。

だから、なかなか弘法大師以上の人が出なかったのです。あまりに難しすぎるということで、弘法大師の入定後、三百年くらい高野山の宗風は活力を失い、荒涼としていました。

それで、「この道を廃らせたままにしておいてはいけない、もし人々のために再興すべきならば、一回の火打石で火がつきますように。

それほど要請されていないんだったら火がつかないように」なんて願いを込めた人が、カチンと石を打ったら一回で火がついた。

「あっ、これは弘法大師の霊がお導きしなさい、やりなさいと言っているのだ」と高野山を再興しようとした動きがあったりしました。

その後、時代を経ると高野聖というのが私の大好きな泉鏡花の代表作に「高野聖』というのがあります…..

「われこそは弘法大師だ」なんて言いながら諸国を巡って、「高野山にお骨を預けましょう、皆さん死んだらお骨は高野山へ」と。弘法大師の伝説を全国津々浦々まで伝え、大師信仰を導いたのは高野聖だったのです。

その高野聖というのは何をしていたかと言うと、念仏をしていたのです。

皆さん、弘法大師さんがご入定あそばしたとき、さぞかし大日如来にお祈りしながら死んだのではあるまいかと思いますでしょう。ところが違うのです。南無阿弥陀仏を唱え弘法大師さんは入定しました。

法然上人、親鸞上人はそれをヒントにしたと私は思います。一つの霊的ヒントです。あとで体系づけるときには中国の浄土宗の教えを勉強していますが。

法然、親鸞の修行プロセスにいろいろと想像を巡らし、霊的にもタイムマシン神法で、あの時代の様子をときどき見せていただいております。

霊界にはビデオがあるから見られるけれど、全部が見えるとはかぎらない。

額田王と天皇様のキスシーンなんて、見たいと思っても絶対見せてくれません。

卑弥呼がお化粧したときはどうだったのか、見せてくれません。不必要なものは見るなと神様から言われておりまして、興味本位では見られないようになっています。

だけども、道を勉強していくうえでどうしても必要なときは神様が見せてくれます。別に信じない人は信じていただかなくても結構ですが、タイムマシン神法で、神様に過去を見せてもらうことができます。

それによって、今日残っている経典や歴史から窺い知ることのできる、親鸞さんなり法然さんのお気持ちのより奥深いところ、史実の奥に隠されている意味を解読し、私たちの求道の糧にできる。

どんなものであれ、道の糧になればいいわけですから、ときどきタイムマシン神法というのをやっているわけです。

それは別として、高野聖はすべて念仏でした。簡潔明瞭にやっていたのです。南無阿弥陀仏と唱えたり、いろいろな呪文を念仏的に言い、真言を唱えていく。

こういうものをヒントに、エッセンスだけをつくっていったのです。実際、真言密教では阿弥陀如来様も出しています。

阿弥陀如来のアンドロメダ天界

親鸞上人があれだけ自信をもって迫害を乗り越えた背景には、「実際に御仏に会って、阿弥陀如来様にもお会いして浄土というものを見てきたからにほかならない」と私はそう信じております。

それだけの修行を経て決心するまでのプロセス、たとえば六角堂でも磯長の廟でも、霊に会ったという話が残っているから、そう考えて間違いないと思います。

学者さんはそういうことを無視して、学術的に見ています。宗教家は宗教倫理、宗教家としての目で見ていますが、神霊家は神霊の目で見ていく。

私は神霊家ですが、単に神霊の目で見るだけでなく、学術と宗教の両方を押さえていこう、と。それが私の立場であります。

実際、私も阿弥陀如来様を見たことがあります。阿弥陀如来様はどこから来て、どこに住んでいるのか、阿弥陀如来の住所は高野山か比叡山阿弥陀寺か……アンドロメダなのです。

星ツアーでアンドロメダ星雲に何度か皆様と一緒に見に行ったことがあります。阿弥陀如来様がいらっしゃるのは崇仏宮というところです。

話が何か、「強運」(たちばな出版刊)の後半部分で書かれているような世界になってきましたけれど、これは信じようと信じまいと私の体験ですし、神秘は神秘の世界で語りますから。

興味のある人は一度、連れていってあげます。

阿弥陀如来様はどんな仏様かと申しますと、とにかくでっかい。ドでかいです。ジャイアントロボやマジンガーZよりも大きいです(笑)。

ものすごく大きな仏様で、いろいろな糸が垂れている衣装をまとっていらっしゃいます。

皆様、私がいま、チョークで黒板に打ちました赤の点々を見てください。あれが僧侶、人の霊です。阿弥陀如来様のなかでは人の霊はあの点ぐらいにしか見えません。

あれだけでっかかったら救えるだろうと思いましたね。お寺さんにある阿弥陀如来様の像はちっちゃいです。

そりゃ、いくら何でもこんなにでかい像は製作できないでしょう、仏師も。しかし、神霊界の実像はこれだけでっかいです。赤の点々が人間の大きさでして、きれいな衣装に糸がいくつもいくつも垂れておりまして、人々はそのなかでニコニコしています。

いま、上から降りてきているのは阿弥陀如来様の気ですね、やわらかく穏やかで、幸福感に包まれているような気です。ピカピカと光っていて、衣装には七色の糸が垂れています。

そして、人々が「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱えると、七色の糸に繋がれて、引っ張り上げてもらえます。

南無阿弥陀仏の問題点

法然上人、そして親鸞上人も阿弥陀如来を信仰していましたが、この二人より前の時代に良忍が融通念仏を始めました。

そして、最終的に浄土三部経といった経論を一切乗り越えて、念仏を唱えれば感覚的に阿弥陀如来様と一つになれると言ったのが一遍上人です。

一遍上人の特徴は、神社の氏子組織のなかに信者を広めたことです。神道とか神社は、惟神のまにまにということで、理屈がない。

理屈より、神様と感応する感覚の世界です。そこに阿弥陀如来の信仰を昇華させて、一遍上人は時宗を開いた。

「お釈迦様は過去仏、弥勒菩薩は未来仏。いま生きている仏様は阿弥陀如来様だ。過去・現在・未来とあるなかで、只今は阿弥陀如来だ」と。

そして、時の宗と書いて時宗を開き、一遍上人は熊野の神様の導きを受け、神社組織のなかに念仏を広めました。一遍上人も実際に、阿弥陀如来様をご覧になったと思うのです。

先ほども申しましたように、阿弥陀如来様を信じて念仏を上げると七色の糸で引っ張り上げてくれる。では、引っ張り上げられた人は何をしているかと言いますと、引っ張り上げてもらってよかったと、安穏としているのではありません。

いっとき、地獄の苦しみ、地獄の境地から救ってはくださいますが、その後はどうなのかと申しますと、やはり精進努力の道を歩んでいます。精進努力が必要なのです。

これが浄土真宗や浄土宗ではあまり説かれていない点です。

まあ、一遍上人も法然上人も説いてはいるでしょうが、南無阿弥陀仏と唱えれば誰でも救われるというところが、あまりに強調されすぎたために、精進努力という面がおろそかにされています。下層階級へ向けての教えとしてはそれでもいいのかもしれません。

しかし、「八十歳くらいまで好き勝手なことをやっても大丈夫だ。いよいよ死ぬ間際になったら南無阿弥陀仏と唱えればいいんだから」という考えが知識階級のなかにまで浸透したのは明らかにマイナスです。

こういう一向宗、門徒宗が鎌倉から戦国時代にかけておきました。

一向一揆の歴史を見ますと、領主様よりも織田信長様よりも天皇様よりも幕府よりも阿弥陀如来様が尊い。

だから、たとえ死んでも阿弥陀如来様を信じていたら極楽浄土へ行けるのだと、一向宗、門徒宗というのはすごい結束力を持っておりました。

実際、そういう一面は神霊界にあります。しかし現代に生きる私たちは、法然上人、親鸞上人が咀嚼した南無阿弥陀仏の信仰のもっと奥深いところを目指していかなければなりません。

無学文盲の人たちに説いていくときには、救いを前面に出していくしかなかったでしょうし、それでよかったと思います。

しかし、知的レベルが当時とは比較にならないほどアップした現代の人々に向かって「念仏を唱えれば極楽浄土へ行ける」というのはいかがなものでしょうか。

やはり、神霊界のもっと奥深いところに根ざして、人生の本義、本質を見つめてい勢が求められるべきではないでしょうか。入り口は救いでもいいです。極楽浄土へ行けるから、というのでもいいです。

先ほどの第一部の講義で申したように、お蔭はある程度あってもいいし、求めてもいい。しかし、魂の進歩向上を考えた場合、それだけではよろしくないのではないでしょうか。

阿弥陀如来様にこうやって糸を上げられますと、みんな幸せそうな顔をしています。ニコニコしております。阿弥陀如来様のいらっしゃるところは本当に景色が美しく、その周囲に人々がいます。

アンドロメダというのは霊界の高貴なるところで、これと同じようにあるのが銀河系です。銀河系とアンドロメダ星雲というのはだいたい同じくらいの大きさです。

陰と陽になってますから。星ツアーで何度も見に行って、ここへ一度行って帰ってきますと、霊層が二つくらい上がります。

カシオペア座の神霊界へいきますとオーラが二倍くらい大きくなります。星に行くとそれぞれお土産がいただけるのです。私は何度も行きました。

「阿弥陀如来様お元気ですか」と。そのなかに、阿弥陀如来を信仰していた人たちの霊界があり、ピカピカのお坊さんたちが南無阿弥陀仏と幸せそうにやっております。

しかし、この人たちは阿弥陀如来様に救済してもらってはいるけれども、救済されたままで終わっているわけではありません。その霊界で精進努力しているのです。

これはなぜかと申しますと、次に申し上げるように、理由は明白です。

阿弥陀三尊は何を意味しているか

阿弥陀如来様の両脇には観世音菩薩様と勢至菩薩様がいらっしゃり、この両脇侍阿弥陀如来様を合わせて阿弥陀三尊と申します。

観世音菩薩様は、「南無観世音「菩薩様」と唱えれば誰でも苦しみから救ってくれる正義の味方。どんな人でも救ってくれる。欲望があろうとカルマがあろうと関係ない。

南無観世音菩薩と唱えれば救ってくださる。それが観世音菩薩。

一方の勢至菩薩は何かといいますと、「そんなことではだめじゃないか。しっかりやれ、しっかり勉強せい!」と言って尻を叩く。それが勢至菩薩。勢い至ると書きます。

衆生の苦しみを救ってくださる観世音菩薩の導きによって、阿弥陀浄土へと連れて行く。観音の門から阿弥陀浄土へ行く。

観世音菩薩は南無観世音菩薩と唱えるだけで救ってくださって、シュッと阿弥陀浄土へ連れていってくださいます。

ところが、もう一つの脇侍である勢至菩薩様の要素、つまり精進努力も要るのです。「しっかり頑張れ、努力せい」と。この勢至菩薩の要素を見逃してはダメです。

たしかに観音様からなら入りやすい。けれど、精進努力を欠いていたら上のほうには行けない。阿弥陀浄土にもレベル、ランクがあり、精進努力をしなければ上のランクには行けません。

実際、上のほうに行く人はやはり、南無阿弥陀仏と唱えるだけでなく、勉強し努力しています。

「南無阿弥陀仏と唱えるだけで救われる」と教えた法然上人、親鸞上人も、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えただけであれほどまでになったわけではありません。

大蔵経を勉強し、比叡山でも修行し、あらゆるものを勉強した結果、これしかないと救う立場になったのです。

救われる立場の人間は、南無阿弥陀仏と唱えるだけでいいかもしれません。それでも救われるでしょう。

しかし、その中で、人様を導き、人様をリードして救いの門を垂れるような人間になろうと思ったら、南無阿弥陀仏だけを唱えていればいいのかどうか。

それで人を救える人間になれるでしょうか。現在の浄土真宗でも、南無阿弥陀仏と唱えただけで救われ、救われただけで何の精進努力もしない人がこの会館の会長さんになっていますでしょうか。

東本願寺、西本願寺、それぞれのリーダー、たとえば蓮如上人など、皆さん大変な学問を積んでいました。法然上人や親鸞上人が勉強した浄土三部経はもちろん、中国伝来のものから何から何まで、あらゆるものを勉強して「南無阿弥陀仏の道はこういうものでございます」と。

法然上人、親鸞上人の弟子たちも、猛勉強をして一向宗をリードしたりしています。

人々に教えを流布している人は、南無阿弥陀仏と唱えるだけではありません。

至菩薩の精進努力、勉学という面も磨きに磨いて、人に教えを出せる人間になって、南無阿弥陀仏で救われた人々の中心的存在になっています。冷静に考えますと、さん、そうです。

南無阿弥陀仏で阿弥陀浄土へ救われるだけでよしとしていた旧来の一向宗。それはそれで底辺の人たちには有効で、あの時代に必要ではあったでしょう。

しかし、そういう底辺の人たちをリードした人は、それ以上を目指しています。

より上を目指して努力している人が本当の南無阿弥陀仏を信仰し、法然、親鸞に匹敵するような人間になる。「そういう人が一人でも二人でもいてくれればなあ」というのが、親鸞上人の本当の願いだったのではないかと思います。

ですから、救われた人の中でも、勢至菩薩の勢い至る努力をして、観世音菩薩と勢至菩薩の両方の門から阿弥陀如来に行く。

これは阿弥陀三尊、なぜ脇侍として観世音菩薩と勢至菩薩がいらっしゃるのか、その理由を考えればわかるはずです。

文殊菩薩と菩薩菩薩

皆さん、石鹸の匂いがしませんか、石鹸の匂い… 面白いですね。文殊菩薩さんの香りです。

阿弥陀如来の底辺には文殊、普賢があります。文殊菩薩と普賢菩薩の働き、この二つを持って初めて、阿弥陀如来の真実の世界に到達ができるのです。

文殊は悟りの叡智の仏様です。普賢菩薩様は怜悧な叡智の仏様。普賢菩薩さんは不言実行で、黙々と現実界に即応したシャープな叡智があります。

仏典を見てみますと、普賢菩薩様は男の仏様でありながら一見したところ女性のように美しい仏様です。象に乗っていますが、非常に美しい仏様です。一見したところ女神様のよう

に思いますが、男神様ならぬ男仏様なわけです。男菩薩様。男性だけれども女性に見える。神出鬼没で、どこへ出てくるかわからない。パッと出てくる。

これに対して文殊菩薩は、霊的な悟りとか神仏の悟りの仏様。文殊は卵、普賢菩薩は辰。その文殊菩薩の悟りの叡智と、普賢菩薩の怜悧な頭脳の両方を持っている人、卵と辰の両方を持っている人はうだつが上がる。

本当ですよ。うだつというのは建築物の名から来ていますが、悟りのことです。

神様の悟りとか霊的なことはやたらと詳しいけど、仕事をやったら何もできない。人間はいいけれども、役立たず。すごく気立てはいいけども、世間様に受け入れられない。

大学はすごくいいところを出ているけれど、現実界では人がよすぎてやられてばかりいる。男らしさがない。「現実的なことは何をやらせてもダメですね、

あの人には文学者か学者さんが合っています」という人は、文殊菩薩の卯のほうが過剰と言うか、それしかない。それもいいかもしれませんが、文殊だけでは不完全です。

これに対して、普賢菩薩様の叡智を持つ人は現実界ではすごくシャープで、悟りの叡智を持っています。けれど、神様ごとと言うと、「は?神様ごと?あまり関係ないんじゃないの、明日の生活に。

ぼくはデートで忙しいんだ」と(笑)。

こういう感じです。

現実界では怜悧な頭脳をお持ちになって神出鬼没、あっちに出たりこっちに出たりして活躍していますが、人生の本質的な悟りや叡智、あるいは神仏の正しき道という面では足りない。だから両方要るのです。

文殊菩薩の悟りと、現実界のどこへでも出て行く普賢菩薩の働き。この二つを持って初めて、阿弥陀如来の真実の世界に到達できる。阿弥陀如来の底辺には文殊、普賢があるのだ、と。

この神霊界の実像を見て、それが何を物語っているかを考えると、まさしく書物を研鑽し神霊の道を極めて、あるいはまた、現実界での怜悧な頭脳で布教活動をしていく。

文殊と普賢。卯と辰。うだつが上がって初めて、法然さんも親鸞さんも現実界に教えと道を残すことができるのです。

ですから、「南無阿弥陀仏と唱えて救われればそれで終わりか、それでいいのか」と申し上げたいわけです。

苦しんでいる人たち、底辺にいる人たちは、何とか苦しみから逃れられればそれでいいのかもしれませんが、そのあとどうなるのだ、と。そのあとはやはり、文殊菩薩様が現れて、

「本当の人間の道とは何ですか。救われたけれども、その後、あなたは何のために生まれてきたと思いますか」と、問われます。

「神霊界の実相はこうだから、もっと勉強し努力して法然上人や親鸞上人や一遍上人のような人、阿弥陀如来様の代わりに衆生を救える人になるよう、勉強しなきゃなりませんよ」

文殊菩薩が教えます。それを聞いて普賢菩薩が、「そうだ、そのためには勉強すると同時に実行しなければいけない。現実界に強い人間にならなければいけない」と言います。

現実界でとくに大事なのがお金のやりくりで、南無阿弥陀仏を信仰していても、このM会館を運営するには経理、財務の知識が不可欠です。

怜悧な頭脳で計算しなければ、南無阿弥陀仏と唱えているだけでは運営できません。

現実界に救いの道を広めていくためには必要な要素です。当たり前のことですが、忘れがちです。仏様が出ておられる実像を見たら、やはりこの二つの要素を大切にしなければなりません。

私が「神界からの神通力」「大天運」で書いたことは、普遍的な神霊界の法則で、法然上人、親鸞上人は全体がわかったうえで、その一部を強調されたのです。

そして、底辺の人々に、時代時代の虐げられた人々に、手に汗しながら教えを述べていらっしゃった。

少なくともこれくらいの読解力は、法然、親鸞、一遍上人にもありました。

この時代に生きている私たちは、救っていただく立場から法然、親鸞、一遍上人のように救う立場に立つよう、それぞれすこしでもできる範囲で努めなければならないのではないか。

文殊と普賢の要素。書物を通して研鑽し悟っていくプロセスと、職場や家庭での実行。ともに上には阿弥陀如来様がいます。

幸せな世界と置き替えてもいいでしょう。共通していると思いませんか。これが『大天運』では書けなかったところです。「これについては省略するが」と省略しましたが、そこを広げて書けば、こういうことです。

もっと詳しく書こうと思えばいくらでも詳しく書けますが、簡単に説明すればこういうことで、私たちは文殊と普賢の両方を目指さなければならないのです。

人によっては、普賢よりもまず文殊からだと、文殊のほうから入っていくかもしれません。しかし、文殊から入っていったら普賢が必要だと気づいて、普賢の要素を身につける。

逆に、普賢から入っていった人は文殊が足りないからもっと勉強しよう、と。そうやって南無阿弥陀仏の世界を踏まえてやれば、法然上人、親鸞上人のようにこの時代に敷衍することができるのです。

浄土真宗でも東本願寺でも西本願寺でも、トップに立っておられる方はみんな、これを実践していらっしゃいます。

神道の私が文句を言うわけではありませんが、東本願寺、西本願寺の代表者に成り代わりまして言わせてもらえば、真宗の門徒はすべからくこのように勉強しなければなりません。これが現代に求められている門徒ではないでしょうか。

神霊界の真実に照らし合わせてみれば、そういうことが申し上げられるわけで、これは日蓮宗でも言えますし、キリスト教でも言えます。

救っていただく立場から救う立場になるには、仏教であろうとキリスト教であろうと神道であろうと、同じようなプロセスを踏まなければいけない。

時代のニーズに原点があり、お釈迦様、法然上人、親鸞上人、それぞれ原点があります。その原点から時代時代の要請、あるいは出ていくジャンルに合わせて変化していきます。

仏教学も、ついちょっと前までは原点に帰ろうということで、人間釈尊の研究と釈迦牟尼仏の原点を見る研究が行われていましたが、それを研究し尽くすと、原始仏教とかいろいろな原始経典小乗仏教経典に当たるものが研究されました。

いろいろな考古学的な研究がなされ、原始仏教は研究し尽くしたので、いまではそれぞれの時代、それぞれの風土に根ざして仏教の原点がどのように開花していったのか。これをつぶさに見ていくのが、仏教学の潮流になっています。

私はそのつぶさに見ていったものを、つぶさに神霊的に見ていこうと、つぶさに追究しているわけでございます。我が喜びとするところでありますが。

こうやって見ていけば、「なるほどそうか。南無阿弥陀仏も素晴らしい教えだな」と考える人が増えるでしょうし、南無阿弥陀仏の本質、法然上人、親鸞上人が本当に教えたかったこと、伝えたかったことに多少なりとも迫ることができるのではないでしょうか。

皆さんのなかには信仰をお持ちの方、宗派に入っている方もいらっしゃるでしょう。そういう人は、それぞれの宗教が理想とする像浄土宗や浄土真宗なら阿弥陀如来様の像です

それに向かって人々を幸せにすべく、お導きの活動をしていると思います。

では、お導きして入信させた後はどうすべきか。阿弥陀如来様のそばに行って幸せになっても、やはり文殊と普賢、勢至菩薩と観世音菩薩の二極で向上しつづけるように、お導きしていかなければなりません。

正しい人の導き方

先ほど見ていた質問用紙に、「家族に本を勧めるべきでしょうか。ワールドメイト(著者の主催するグループ)のことを勧めていいものなのでしょうか」というのがありましたので、これに関連して申し上げます。

どこかで行き詰まって、苦しんでいる人には伝えたほうがいいです。と言うのも、苦しんでいるときは、魂が乗り越えようとしていたり、あるいは守護霊がもっと高レベルを求めさせようとしているときであることが多いからです。

そういう場合は、一つの宗教を信仰していても、これでも足りないあれでも足りない、求めても求めても足りないと悩んだり苦しんだりする。実際、そういう人が多いです。

そういうときには言うべき天の機が動いてますから、自ずから言えばいいでしょう。別に無理をする必要はありませんが、知らしめなければ、その人にとって脱皮のチャンスがありませんから。

教えるとか導くというのは自ずからするもので、強引に導いたところであまり意味がありません。

導かれた人がまた導き、その人がまた導きで、永遠に導きっぱなしになって、会員の数と組織は大きくなりますが、会員のレベルが向上しない。

その人たちはいったいいつ向上するのか。

阿弥陀如来様のなかに一旦救われて、伸びていく姿が素晴らしい。その素晴らしい姿を見て、周りの人も自然に導かれていく。やはり、「桃李言わず、下自ら蹊を成す」が正しい道であります。

先日の守護霊前世鑑定で「少しでも世のために役立ちたい、人を導きたい、幸せにしたいと思っているのですが、どうしたら人を導いたり教えたりすることができますか」という質問がありました。

それについて簡単にお答えしましたが、じつは「碧巌録」のなかに感銘した言葉があります。

教えをするためにはどうしたらいいか。『碧巌録』のなかで語られていることを紹介しますと、「人を導くとか教えるとか教育するとか、そんなことは考えなくていい。自分がひたすら道を深く深く求め、深く深く悟り、広く広くものを求めて体得していたらいい。それだけを心がければいいんだ」と。そうしていますと、「お弟子とか人様と出会ったとき、深く極めた分だけ自然に出てくる。それが教えなんだ」と。

つまり、「教えというものは自ずからしていくものなのだ」ということです。素晴らしい話、素晴らしい教えだったら、もっと聞きたいと思います。

あんな話を聞かせてもらって本当によかった。そう思ったら、別の人が来たとき、「教えてやろう」なんて思わず、自分が同じく苦しみ葛藤したなかで救いを実感した体験を自ずから

「そうですね、僕の場合はああだった、こうだった」
と言う。すると聞きたいからまた来て話を聞いていく。教えというのは、これ見よがしで伝えるものではなくて、自ずから広まるものなのです。

これを「先天の道」と言いますが、このやり方を「碧巌録」は勧めています。

だから、ご自身がまず世界随一幸せで、立派であればいいのです。深く探求していればいいのです。ただし、「話を聞かせてください」と人が来ても、「嫌です」なんて言ってはダメです。

「あのぅ~」と来たとき、「いま探求しているので、あっちへ行ってくれ。うるさい」なんて言うとエゴイズムになりますから。

来たときには相手の困っているところ、悩んでいるところを自ずから「こういうふうにしたほうがいいんじゃないでしょうか」と言えばいいです。

救おう、救済しようということに、あまり気持ちを向けすぎない方が社会的に嫌がられないし、常識と教養ある人と思われるのではないでしょうか。

だけど、心のなかでは衆生を少しでも救いたい。少しでも人々の役に立ちたい。そのためにはまず、「大天運』にあるように自分を幸せにして、人から見て尊敬される人間にならなければいけない。

幸せの見本にならないとダメです。商品でもサンプルがよくないと注文が来ません。すごいサンプルだと言われるように、少々の試練があっても喜んで乗り越えていかなければなりません。

先ほど、神様の道にいる人はカルマを縮小していただけると言いましたが、たとえカルマが噴き出てきても、もうちょっとのところ、ギリギリのところでパッといつも助けてくれます。

神様の道に基づいて、少しずつ灰汁出しをして、カルマを縮小して守護してもらう人は、もうちょっとのところでいつも助けられる。

幸せのなかにも悲しみと苦しみが適当にブレンドされて、ブルーマウンテンにモカマタリが入ってるような味わいです。キリマンジャロが入ってもいいですが。

そういうふうにしていくものです。その姿勢を見ていて、「ああ、素晴らしい。

私もああなりたい。教えてよ教えてよ」と言ってきても、すぐに「あのね」なんて言わずに、三回目くらいにおもむろに教えるのが格好いいです(笑)。

これ皆さん、原点だと思いませんか。どこの宗派でもこれは共通することではないか。それぞれのお立場のなかで実践してくださればよろしいのではないかと思います。

ということで講義 第二部 阿弥陀如来様についてのお話を終わりたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)