第3章 私の素晴らしき絶叫の日々
苦しみの中から光明は射す!
ベートーヴェンの最高の師匠は、飲んだくれの父親だった
前章では、神に与えられる試練の中で、自分の信心の誠が試されると書いたが、読者はそういう私自身がどんな体験をしているかに興味があるだろう。
そこで私は、読者が修業に取り組むときの参考になるように、恥も返り見ず、私が信心の誠を試された少年時代の修業について、具体的に紹介していこう。
私を鍛えてくれたのは父である。聞くところによると、ベートーヴェンもどうやらそうだったらしい。ベートーヴェンと彼の父親の関係が、私と父の関係に似ているのである。
ベートーヴェンの父親は大酒飲みだった。定職にもつかず、いつもブラブラしていたが、酔っぱらうと、幼いベートーヴェンに向かって、「こっちへ来てピアノを弾け」と命令し、無理矢理に鍵盤を叩かせるのである。
ベートーヴェンが嫌がろうものなら、殴りつけてでもピアノを弾かせた。弾いてさえいれば、ニコニコと喜んでいるのである。そうでなければ、殴る蹴るだ。
さすがの父親も素面のときは我に返って、「わしはなんてばかなことをするんだろう」と後悔もするのだが、夜になってまた酒が入ると「ベートーヴェン、ピアノを弾け」なのである。
ベートーヴェンはそんな父親を憎み、ほんとうに軽蔑しきっていた。無理もないことである。
後年、大作曲家となったベートーヴェンが自分の人生を振り返ってこう語っている。「音楽の上でも人生の上でも、さまざまな人に出会い、いろんなことを学んできた。師と呼ぶに値する人は数多くいる。
しかし、あの無職で大酒飲みの父親にピアノ演奏を強いられたことが、今の自分の出発点になっているのである。あの父親なくして、今日の自分はなかった。
つまり、父親が自分にとっての最高の師匠だったのだ」と。
これについては、かの文豪芥川龍之介が次のような面白い言葉を残している。「私は、ベートーヴェンのような父を持たなかったし、ゴッホのように貧乏ではなかった。だから、天才的な才能を発揮することができないんだ」
東大出身の優秀な頭脳を持った龍之介だが、そこはやはり育ちのよいエリートなのである。
大きな障害にぶつかることなく、スーッとそこそこの地位まで行ってしまったのだ。
そういう人間は他人に真似のできないところを勿論持っているけれども、逆境のまっ只中で、頭ではなく魂の奥から叫びがこみ上げてくるような環境に育っていない。
だから、才能が発揮できないんだ、と嘆いているのである。
包丁を手に、母を追い回す父親から逃げ続ける日々
芥川の憧れの対象にもなった(?)ベートーヴェンの父親だが、ありがたいことに私の父は、まさしくそういう人だった。
今では、本当に心の底からその父に感謝をしている。あの父と、あの環境がなければ、今日の私はなかった。
三月十八日生まれの私を、生まれた時から守っておられた正法秘明観音、又の名を聖観音様がその環境を設定し、父に神がかりして私を今日まで育ててくれたのである。
私が物心ついたときに覚えているのは、包丁で母を殴る父の姿である。もちろん、刃を用いれば大ケガをするので、瞬間に包丁を裏に返していたけれども、それで頭を殴るのである。
他にもお茶碗などいろんなもので、手当たり次第に父は母を殴ったり蹴ったりしていた。母の頭は傷だらけで、いつも包帯を巻いていた。
父は特攻隊の生き残りである。出撃が一週間後に迫り、死を覚悟して別れの盃を交わしたのだが、その直後に戦争が終わってしまったのだ。
あと一週間、戦争が終わるのが遅かったら、私はこの世にいないわけである。
その後、父は極左に走り、学生運動に明け暮れた。無罪にはなったけれども、一度未決の牢屋にも入っている。
母がよく面会に行ったそうだが、そのときお腹にいたのが私である。今でも京都の格子などを見ると何故だかムカッ腹が立つのは、そのせいかもしれない。胎教があまりよくなかったのだ。
冗談はともかく、父はその後さらに極右に転向し、最終的に真ん中を行った人である。確かに変わっている。だから私のような変な子が生まれるのは当然だろう。
父によく「お前は変わっている」と言われたが、しかし私から見れば、向こうの方がよっぽど変わっていると思う。
父は頭もいいし、けんかも強いし、超ワンマンで、飲む、打つ、買うとやりたい放題だった。幼なかった私は、母親といっしょに毎日お茶碗や包丁を手にした父から逃げ回っていた。
まともに家で食事をしたことがないし、一家団欒なんてものは、ほとんど経験したことがない。
毎日、毎日、食事が始まると急に目つきが変わり、機嫌が悪くなるからである。
毎晩のように裸足で家を飛び出し、近所の軒先をウロウロしながら、ごく普通の家族が和やかに夕食を楽しんでいる光景を、本当にうらやましく思った。
とにかく私は、暴力を振るわれる母が心配で心配でしょうがなかった。だからいつも手を合わせて、「母が助かりますように」と切実に神に祈っていた。
これが現在の私の原点である。環境が自然にそうさせたのだ。
余談だが、おかげで一時期マザーコンプレックスに陥って、女性を大切にしすぎた時期があった。
あまりに女性を美化し、大切にしようとするものだから、女性のほうは暑苦しくなるのだろう。小学校五年生の森田まき子さんから始まって十七回連続失恋である。
その後、アンドレ=ジイドの「狭き門」を読んだのをきっかけに、あまり女性を美化してもしょうがないことに気がついた。
また大学三年の時、女性部員のあまりにも自分勝手でエゴイストなのに腹を立てて、深くそれを悟った。
四百人の部員の長に立つES Sの委員長だったから、クラブ全体のために女性部員でも遠慮なく厳しく叱るようになった。それで男らしくなって急に女性にモテるようになった。
神様のお守りにワクワクした小学五年生
左翼活動をしていた父は対照的に、母は信心深い人だった。そうでなければ、あの家庭の中でやっていけなかっただろうと思う。
小学校五年生のときだったか、母が信仰していた近所の世界救世教から神様のお守りを私にもらってくれることになった。そのときの嬉しかったことといったらない。
「神様のお守りがもらえるぞ、嬉しいな、神様だ、神様だ!」
そんな調子で、遠足に行くよりも何よりも嬉しくてたまらず、その日をワクワクしながら待っていた。
今は自分でお守りをいくらでも制作できるようになったが、その頃は神様のお守りをもらえるというだけで興奮して、夜もなかなか寝つけないくらいだったのだ。
とにかく神様のことを考えると、嬉しくて嬉しくてしょうがないのである。かなり変わった子供だったと言っていいだろう。
別に神様について何か知っているわけでもなく、お守りがもらえるといってもそれがどういうものなのかわかっていたわけでもない。たなぜかしら無性に嬉しかったのである。自分の天命を無意識に自覚していたのだろう。
ところが、そんな私の期待を踏みにじったのは父だった。母はお守りを首から下げていたのだが、それを父が、「何で神様なんて訳のわからないものを信じるんだ」と言って、引きちぎったのである。
母の首筋が切れて血がにじんだ。
こんな状態で私にまで新しくお守りをもらってきたら、どういうことになるかわからない。だから、母は、おまえもうしばらく辛抱しなさいと言って、お守りをもらうのを中止してしまった。
私はそのときひどくがっかりして、三日間くらい泣いていた記憶がある。
理想社会の到来を日記に記す
中学一年生のときの日記に、私は次のような言葉を書いている。
「いつか必ず人類の理想の世界がやってくる。なぜだか知らないけれども、僕はそういう世の中が来るような気がする」
当時はまだ、どこの宗教にも入っていなかったし、西宮の山や川で遊ぶのに忙しくて本もロクに読んでいなかった頃である。きわめて普通のワンパク小僧だった。
それなのになぜか、さっきのようなことを、ふと思ったりしていたのである。
そう思うきっかけとなったのは、あるテレビ番組だった。その中で、一人の老科学者が、私のライフワークとしてこれだけは残していきたいんだと言いつつ、病院のベッドで死んでいくのである。
それを見て私は思った。野口英世にしてもアインシュタインにしても、学者や科学者はこれだけは世の中に残していきたいと思って研究している。
そして次の人がまた、先人の研究をさらに深く研究して、後の世に残そうとしている。
なにも学者ばかりではない。普通のサラリーマンだろうが、一介の主婦だろうが、これだけは自分の手で残していきたいと思って、趣味や芸術やいろいろな分野の活動に取り組んでいる。
みんな良いものを後の世に残そうとしているのだ。だったら、そうやって残されたものを先々積み重ねていったらどうなるか。良いものがたくさん集まったよい社会ができるんじゃないか。
人類のすべての知恵が凝結された、ものすごく素晴らしい世の中が来るんじゃないかと、単純にそう思ったのである。
それを読んだ担任の先生が、「君がそんな立派なことを考えているとは知らなかった」と言って、五重丸をくれたことを覚えている。
やがて人類の理想社会である「みろくの世」がやってくるということを勉強して知ったのは、ずっと後のことである。
しかし、なぜだか知らないが、子供の頃からふと自然にそんなことを考え続けていたのだ。
十五歳で神とともに生きる生涯を決心する
高校生になったばかりのとき、初めて私は宗教活動に足を踏み入れた。近くにあった世界救世教の支部で入信したのである。
きっかけは単純だった。その教団の支部長から「支部に来ませんか。そこに来れば家庭もよくなるし健康にもなるよ」
そう言われて、一も二もなく入信したのである。難しいことはどうでもよかった。とにかく、神様が好きで好きでしょうがなかったからである。
小さい頃から霊媒体質だったということもあるが、自分はとにかく生理的に神様なしでは生きていけないと思っていた。辛くて泣くときも、悩みがあるときも、すべて一人で神様に祈っていたくらいだ。
神様だけしか自分の気持ちをわかってくれないと思っていたのである。
だから、その教団の活動内容も入会金も一切気にする事なく、入信した。そして、入会の儀式として、神様のお守りである「お光」をかけてもらった。
そのときはなんだかピカピカして体が熱くなったが、「これが神様なんだ」と思ってとても嬉しかった。
その日は十五歳の四月八日。後で知ったのだが、お釈迦様の誕生日だった。そしてそのときから自分には神様の道しかないと、はっきり自覚するようになった。
どんなことがあっても、神の道を貫いて、必ず世の中を良くし、理想社会を実現するんだ。そう決心したのである。
同時にそれは、父との闘いの始まりだった。
年四回の聖地参拝を目指して功徳を積む
「神様なんて非科学的なことを言うんじゃない、宗教は阿片だ」というのが父の口グセだった。
だから、私が宗教活動を始めたことは、間違っても父の耳に入れるわけにはいかなかった。私の神業は、父の目をいかに盗むか、というところから始まったのである。
父が私に苦しみを与える。その苦しみゆえに心を神に向ける。向けたことを父に叩かれる。叩かれるから目を盗んで行こうとする。
こっちが目を盗もうとするから、父はそれをみつけようとする。みつけられないようにしようと思うから、私の知恵と信仰と霊力が磨かれる。とまあ、こういう公式が、私を鍛えていったのである。
その頃のことで忘れられない思い出がある。
あるとき教会の先生から、年四回は熱海にある教団の聖地に参拝しましょう、と言われた。功徳を授かるにはそれくらい熱心な参拝が必要だというのだ。それが神様における義務なんだったら、絶対に行かなければ、と私は思った。
当時は高校二年生だったが、父は選挙に落選した直後でもあり、自営のアパートや保険会社の顧問以外は積極的に働くことをせず、ずっと家に居た。
選挙の時に作った借金が莫大にあり、家計は火の車だった。
だから、洋服を買うお金もないので、どこへ行くにも学生服で済ませるしかなかった。母の衣類もほとんど質に流れてしまった。おかげで本当に質屋の話ばかり詳しくなった。
私の話にやたら質屋が出てくるのはそのせいである。
そんな状態で年に四回も、西宮から熱海の聖地まで通うなどということは、常識的に考えれば不可能である。
しかし、神様がそうした方がいい、とおっしゃってるんだから、必ず行けるんだと信じていた。
そのために自分ができることと言ったら、功徳を積むことしかない。特に人の嫌がるトイレ掃除がいちばん功徳が高いと聞かされていた。
そこで私は、毎朝早起きをして支部に行き、十分から十五分トイレの掃除を行い、畳を拭き、お祈りをしてから学校に行くことにした。これを毎日、毎日、続けたのである。
聖地に参拝できることを心から信じて。その最中に私は初めて信心の証を体験した。といっても、些細なことである。
妹から移されたイボがなかなか治らずに困っていたのだが、トイレ掃除を始めて三カ月ほど経ったときに、ふと気がつくと、跡かたもなくイボが消えていたのだ。
「ついに神様に功徳をいただいた!」
今から思えば取るに足らないことだが、小さくても奇跡は奇跡である。私は感動して、涙ながらに神様に感謝を捧げた。
そして、一回目の聖地参拝のときは、母がなんとかお金を作ってくれて、無事に行くことができたのである。
家族の協力で聖地参拝へ大脱出旅行
参拝には行けることになったものの、それを実行するとなると、またひと騒動である。父に見つかれば半殺しの目に遭うからだ。
そこで、父以外の家族の全員が協力して、私の脱出及び生還をサポートすることになった。
土曜日出発、日曜にお参りして、月曜の朝六時に帰ってくるというのが参拝のスケジュールである。父は霊能などを否定しているくせに、本人は人一倍、直感力の鋭い人だった。
「あいつの姿が見えないな」と、すぐにピンと来るのである。それに対して母や妹が「いえ、二階にいますよ」と口裏を合わせてくれるのである。
ところが、父はどうもおかしいと思っているから、わざわざ二階まで私がいるかどうかを確かめに来た。やばい、と思った弟があわてて私の布団に飛びこんで、頭だけを出した。
「おまえ、いるのか」と言って上がって来た父は、弟を私だと思って、やっと納得したのである。私と弟が丸坊主だったから助かったのだ。
その間、私はと言えば、バスの中でただひたすら「もし神様がいるんだったら、絶対にみつからないようにしてください!」と、祈りっぱなしである。
「これでもし父にみつかったら、神様なんかいないんだ。本当にいるんだったら、僕がこんなに一生懸命やっているんだから、なんとかしてください!」
それは、まさに魂の底から吹き出してくるような祈りだった。私にとっては初めての、真に絶体絶命の中から誠を究めた祈りである。
結局、最後まで父にはみつからずにすむことができた。月曜の朝六時に帰宅した私は、学生服に着替えて、なにくわぬ顔で学校に出かけたのである。
ついに年四回の聖地参拝を達成
さて、お参りも二回目となり、もう旅費が捻出できない。いままで以上の信仰力が必要だと思った私は、トイレ掃除に加えて、日曜日に「栄光」という世界救世教の新聞を家々に配り始めた。
これは教団の出している新聞である。神様の道を一人でも多くの人に広めるんだ、という信念に燃えていた私は、日曜日になると一生懸命に新聞を配って歩いた。
その数は、もちろん教会の中でも常に私がトップだった。とにかく神業一筋の毎日だったのである。そして、聖地参拝まであと三日に迫ったとき、奇跡は本当に起こった。
私が通ってい支部の支部長は女性だったのだが、その先生がいきなり私に言うのだ。
「あなたが毎日、一生懸命にお祈りしているのを見ていました。私には子供がいないから、あなたを私の子供だと思って、行かせてあげます。この旅費で参拝に行ってらっしゃい」
「ああ、やっぱり神様はいらっしゃった」と、私はまたもや大きな感動に襲われた。実際に旅費をくださったのは支部長さんだけれども、やはりその陰には神様が働いてくださったと信じたのである。
こうして二回目もクリア。そして、三回目、四回目もなんとかクリアし、とうとう年間四回の聖地参拝を達成したのである。父にもついに一度もみつからずに済ますことができた。
ところが、終わってからわかったのだが、本当に年四回の参拝を達成したのは、何千人も信者がいる中で、私を含めて十人ぐらいだったのである。
信者なら誰もが必ず行くものだと思っていただけに、私はこの事実にはガッカリしてしまった。
しかし、それによって私は自分の信仰力に強い自信を持ったのである。
父親の直感力を上回る修業で神人合一
とにかく私の信仰心は、父という大きな障壁との葛藤の中で鍛え上げられていった。家では神様の「か」の字も出すわけにはいかない。
そんな言葉が耳に入ろうものなら、神様などと訳のわからない子供を育てたおまえが悪いんだ、と言って、母にまた暴力をふるうからである。
父は体も大きいし、ボクシングも剣道も達人である。どうやっても力ではかなうはずがない。それでも、中学時代には弟と二人で少林寺拳法を習ったことがある。
下世話な話で恐縮だが、大きくなって強くなったら、絶対に父親を叩き伏せてやるんだ、と思っていたのである。
高校受験で続かなくなってしまったが、あの頃に極真空手があったら、間違いなく入門していただろう。それほど殺伐とした親子関係だったのである。
今から思えば、家の因縁も大きなものがあったのである。私の家は、代々酒樽作りを営んできて、私はその七代目である。父が子供の頃の全盛期には、酒造りの本場灘五郷に樽を一手に卸していた日本一の酒樽屋だった。
それだけに、日本一となるまでには多くの因縁を積み重ねてきているのだ。
そういう意味で、私が神業をきちんとやり遂げないことには、家が救われないのだと固く信じていたのである。
父を除く母親や兄弟は、そのことをよくわかっていたから、なおさら私の神業をみんなでバックアップしてくれた。
それにしても、父親の目を盗んで神業を続けるのは並大抵の努力ではなかった。なぜなら、先程少し触れたが、父はとてつもなく直感力の優れた人だったからである。
初対面で相手を見たら、ほんの十秒ほどで相手の性格から人間性まで見抜いてしまうのだ。それもほとんど狂いがない。
県会議員の選挙参謀も何回かやっているが、だいたい何票くらいと言ったら、プラスマイナス五十票くらいしか狂わない。そういう面では天才的な人だった。
もっとも、自分が立候補したときには自分のような選挙参謀が居なかったので、惜しい所で負けた。自民党だったので投票日の雨にたたられて次点となったのだ。
浮動票が入らなかったのであるが、雨が降ればこれくらいで次点だろうという予想をしていて、皮肉にもその予想は見事に的中した。
こういうすごい読みと直感力のある人なのである。そういう父の気持ちや直感力を先回りしてキャッチし、こちらの活動がみつからないようにやっていくわけだから、直感力や察知力が身につかない方がおかしい。
だから、そういった環境が私の神人合一の修業の基礎作りに大きく役立ったわけである。
それでもあるとき、父につかまったことがある。教会でもらったお守りを身につけているのがみつかったのだ。
「おまえ、変なものをつけているだろう。神様事ばかりうつつを抜かしやがって、学校の成績が悪いのは神様事をやっているからだ」と怒鳴って、父は力づくで私のお守りを首から引きちぎろうとした。そのときである。
父が突然クラクラと眩に襲われたのだ。
「あ、やっぱり、これは触らんほうがいい。ごめんな」と言って、父は手を離してくれた。
お守りの不思議な力が私を守ってくれたとしか思えない。
自分の改心によって、父親が教会に入信
大学受験に失敗した私は、神戸で浪人生活を送ることになり、神業もその近くの教会に場所を移して熱心に続けていた。朝に夕に教会に通って薪を割ったり、後片付けをするのが日課になっていた。
私の奉仕する姿を見ていた教会長さんが、いつしか声をかけてくれるようになった。
「君はよく熱心に来ていますね」
「はあ、これが僕の喜びですから」
そんなことから気に入っていただいて、面倒を見ていただくことになるのだが、あるとき教会長さんがこんなことをおっしゃった。
「君、神様、神様と言ったって先はまだ長いんだから、学生であるうちは勉強をしっかりしなさいよ。それから親あっての自分なんだから、まず親孝行をしなさいよ」
私はこの言葉にガツンと頭を殴られたような気がした。
前の支部の女性の先生は、神様事がすべてといった感じであり、それでよしとしていたのだが、今度の男性の教会長さんは、そこにより広い社会性を伴った考え方を持っていたのである。
考えてみれば、私は家族のために神業をやっているつもりだったが、結果的には、そのことが父の神経を逆撫でし、新たな対立の火種を生んでいる。
では、自分がその父親に親孝行をしているかというと、反発ばかりでなにもやっていないのである。
地上に天国を作るんだとか、みろくの世の理想社会を作るんだ、というような夢に生きていたけれども、いちばん身近な家庭内の争いと葛藤の原因を引き起こしているのが自分であることに気がついたのだ。
そうか、理想は人類全体の幸せだけれども、その一歩はまず、自分の家庭から幸せにできなければならないんだ。そう気がついてから、私は父親に何と言われても絶対に逆らわなくなった。
「おまえのやっていることはくだらないんだ」と言われても、「はい、そのとおりです。すみません」と頭を下げるようになった。
「早く帰ってこないと承知しないからな」「わかりました。早く帰ります」
こんな会話を続けていたら、さすがに父もおかしいと思ったのだろう。しばらくして 100 私を呼びつけた。
「おまえ、最近変だぞ。どうしてそんなに素直になったんだ。おかしいぞ。何かあったのか」
「いや、何かあったわけじゃなくて、やっぱりちゃんと親孝行しなきゃいけないと思ったんです」
「今まではそうじゃなかったじゃないか」
「実は教会の先生にそう言われたんです。それで本当にそうだなと思って、心を入れ替えたんです」
私がそう言った時の、父の感激ぶりといったらなかった。おまえがこんなに素直な良い息子になってくれたのは初めてだ、と心から喜んでくれたのである。
そして、もっと驚くべきことが待っていた。
なんと、その翌日に、父が教会に入信したのである。あれほど宗教を嫌い、私たちに迫害を加えていた父が、である。
「おまえがそんなにいい子になるようなところなら、わしも信心させてもらわなきゃいかん。そして、教会の先生にお礼を言わんとな」と言うのである。
そして、誰よりも熱心な信者となって、活動を始めたのだ。
私が心を入れ替えて、誠を尽くしたことが父の心を動かしたのである。私の信仰心がついに父の迫害に勝ったのである。私も家族もどれだけ嬉しかったことか。
残念ながら、その教団で大きな裁判沙汰が起きたとき、義侠心の強い父はその渦中に入り、良かれと思ってしたことが逆に悪人にされてしまって、嫌な形で教団をやめることになってしまった。
私の信仰はまったく変わらなかったが、父は宗教団体の嫌な面を見せつけられ、「こんなことに引っ張りこまれたのも、おまえのせいだ」と言って、私への第二の迫害が始まるのだが、もはや私が父を憎むことはなくなった。
父の迫害は観音様の神鍛えだった
私がその教団にいたのは結局五年間だったが、その間の時間というのは、徹底的に理屈抜きで何事も神様第一主義で行う修業だったと言えるだろう。
若いからやり過ぎた所もあったけれども、その反面改心するのも早い。
霊的な修業や神霊学を始める前の、最も大切な下座の行とも言える体で実行するご奉仕の修業であり、ゆるぎない信仰力を確立させた修業の期間であった。思えば本当に貴重な五年間であったと思う。
父との相克は辛かったが、あの父の迫害がなかったら、それこそ信心の誠は磨かれていなかったと思うのである。
だから、今は前述したように本当に父に感謝している。生前、父を見ると、後ろにいつも観音様がいらっしゃった。
どういうことかというと、前述した如く観音様が父を使って、私を今日まで厳しい試練の中で神鍛えし、また神試ししておられたからである。
ここに書いたのはあたりさわりのないことだけで、さらにさらに表現もできないようなあられもない相克と葛藤が、私が東京に就職し、植松先生の所に弟子入りしてからも続くのである。
父の言い分や気持ちも充分にわかるが、植松先生という天界のあり方を徹底的に貫く師匠をお守りして、現実界の常識的基準に合うような親孝行や、仕事を成し遂げながら、みろくの世の神仕組を担う神業を進めることは、まさに至難中の至難の技であった。
しかしそれは、どんなに迫害されてもそれに負けず、迫害されればされるほど誠の信仰心を燃やしていく強さを身につけるための、観音様が大愛によって与えてくれた修業だったのである。
あの父親がいなかったら、私も今頃は神様、円盤、超能力の世界で終わっていたかもしれない。あの厳しい神鍛えがあったからこそ、常識の世界でもビシッとやって、人を納得させることのできる神業の姿勢が身についたのである。
常識の社会に通用するようでなければ、神様事をやっても何の意味もない。それどころか、現実世界に通用しない神様狂いなんかやっていたら、社会的にダメになってしまうのがオチである。
亡くなる直前まで、父は私と商事会社をいっしょに運営していた。社内では神様の話はご法度であった。
「四次元の人間とは口をききたくない」と言うし、「神様事で物事が解決すれば、警察はいらないんだ」というのが口グセであった。
その実、大変信仰深く、お札にいつも手を合わせ、神棚を毎日熱心に拝んでいたのであった。
実は、父は私が神霊家として何冊も本を出しているということさえ、亡くなる数年前まで知らなかったのだ。
ところが、父が尊敬している人が尊敬している人というのが、私だったという事実を知る機会があった。
それ以来、父は少し私を見直したようだ。
「いままでおまえは母親似だと思っていたが、実は俺に似ていたんだな」などと言い出すのだから、愉快な人物である。
それ以後、私のことを「先生」と呼んだり、「出来の悪いバカ息子」と呼んだりもした。
私が逆らわないで「本当にそうですね」と言うと、ニコニコして大変に機嫌良く「お前も大人になったな」としみじみと言い、「父も人間が丸くなって、この丸くなった分だけ自分が成長したのかもしれないな」と思った。
どちらが強い弱いではなく、やは父親は勝てない存在であった。
苦しいことはこれまでもうんざりするほど体験してきたし、今でもいろいろな形で試練は続いている。
しかし、それはすべての神が幼少の頃よりそうであったように観音様の姿となって現れて与えてくださった神鍛えだと受け止め、不動の信仰心をますます堅固にする糧として、日々に覚悟を新たにしている次第である。
そしてむろん、そういった私自身の不動の信仰心が、ワールドメイトを支えているのである。
