第4章 神人合一の道は「堅・誠・恒」で極める
これが神人合一の秘訣だ!
神人合一の道の三要素
ワールドメイトは神人合一の道が降ろされているところである。そして、この神人合一こそが、私たち人間の究極の目的だと言ってもいいだろう。
人はこの世に生ある限り、神人合一を目指して一生懸命努力し続けなければならない。いや、この世にいる間ばかりではない。これは死んで霊界に行っても、まったく同じなのである。
ワールドメイトでは、救霊や神法悟得会、星ツアーなどさまざまなことを行っているが、これだけを見て、現世的幸せばかりを追求しているようだと感じられた方もあったかもしれない。
しかし、こうしたものもすべて、神人合一の道を一人でも多くの人に歩んでいただくために、神様からお許しいただいたきっかけづくりなのである。
「普通の宗教団体のように無理に会員を増やしてはいけない」
「仕事を持ったままで、神人合一の人材を育成し、神の道を正しく広めよ」
神様がこうおっしゃったとき、わたしは正直、どうしたらいいんだと頭を抱えたものだ。この、ほとんど不可能と思えるような神様の注文に沿って、私が必死になって編み出した方法が現在のやり方なのである。
きっかけは何でもかまわない。「結婚したい」でも、「病気を治したい」でも、「金持ちになりたい」でも結構だ。大切なのはそれを契機として人生の本当の意義に目覚め、神人合一の道を歩むことなのである。
ワールドメイトでは、そのためさまざまな学びの機会を提供しているのだ。
では、神人合一の道を歩む決心をした人は、どのようなことを心掛ければよいのだろうか。
わたしは道を成就するための大事な要素として、いつも「堅」「誠」「恒」の三つを説いている。
もしも、神人合一判定テストなどというものがあったら、間違いなく「堅」「誠」「恒」の三つが判断基準になるはずだ。
どんなことでも成功した人というのは、必要なポイントをきちっと押さえているものだ。
逆にいえば、ポイントさえ押さえていれば、少々脱線しても何とかなるものなので 1 ある。
神人合一の道は一生かけて歩む道だから、脱線しないことを考えるより、脱線してしまったときに、本道に戻ることができるように、ポイントをきちんとつかんでおくことが大切なのだ。
神様を動かす三段跳び秘伝
何かことを成し遂げようというとき、いくら頑張っても我力だけでは決してうまくいかない。神様のお力添えがあって、自分の努力と神様の働きとが一つになった時、ものごとは実を結ぶのである。
神様に動いていただくには、まず何といっても神様をその気にさせることだ。ではどうしたらその気にさせることができるのか。私も試行錯誤を繰り返した末に、神を動かす絶対の法則を発見した。
名付けて「三段跳び秘伝」をご紹介しよう。
神様を動かす〈第一条〉── 発願をする
まず何か願いを発する。願い事は何でもよい。私は神様のために役に立ちたいんだとか、あるいは、大学に合格するんだとか、こんな仕事がしたいとか、願いを発することを「発願する」というが、とにかく目的を持って「神様、私はこうします」と言うのである。
これが三段跳び秘伝の第一歩、ホップ、ステップ、ジャンプの「ホップ」にあたる。
神様は私たち人間が何か志を持って発願すれば、必ず「んっ」と、目を向けてくださる。といっても、この段階ではまだ目を向けてくれるだけでしかない。
それだけなのだが、しかし間違いなくこちらを見てくださっている。ただし、発願しただけで終わって何もしなかったら、「なーんだ」とまたあっちを向いてしまうのである。
神様を動かす〈第二条〉── 行動をする
そうして、神様がこちらを向いてくれているうちに、次の「ステップ」に進まなければならないのだ。「ステップ」とは行動、つまり努力である。
発願したことはすぐ行動に移すことだ。結果はともかくとして、とにかくやれるだけのことはやるんだと思って行動する。
ああでもない、こうでもないと、試行錯誤しながとにかくできる限りのことをやってみるのである。そうすると、神様は「うーん」と身を乗り出してくれる。「よく頑張っておるな。毎日ご苦労さん」と言って、身を乗り出してくれるのである。
しかし、これでもまだ身を乗り出してくれる程度でしかない。知恵をくださったり、手を貸してくださるなど、そうした動きにはいたらないのだ。
神様を動かす〈第三条〉── 絶叫するまでトコトンやる
神様に動いていただくには、最後の「ジャンプ」、これが絶対必要なのである。
こんなに頑張っているのに、一向に功徳がいただけないという人は、この「ジャンプ」が欠けているのだ。では、「ジャンプ」とは何かというと、早い話が「絶叫」なのである。絶叫するまでやるということなのだ。
絶叫するまでやるとは、どういうことか。つまり人間の努力の限界までやるということである。
努力の限界に達して、もうだめだ、死にそうだ、もうどうなるかわからないという極限状態まで達したときに、自然にこみ上げてくる魂の叫び。これが絶叫なのだ。
魂だけではなくて、実際に声に出す人もいるかも知れないが、とにかく、限界に達して、その限界を超えるか超えないかというギリギリの状態で絶叫したときに、初めて神様は「よしっ」と言って動いてくれるのである。
たとえば、絶壁の岩山を素手で登っていたとしよう。頑張って、頑張って、そこでま頑張って、肉体も精神も限界まできて「もうだめだー、落ちる!」と絶叫する。引っ掛かっていた指が最後の一本になったとき、初めて神様はその手をつかんで上に引き上げてくださるのだ。
このやり方は三段跳びが基本だから、「ホップ」「ステップ」「ジャンプ」のうちどれか一つでも欠けたらもう用をなさない。
たまに「自分はいつもいつも絶叫です」と言う人がいるが、絶叫だけでもだめなのである。いくら努力して絶叫するまで努力しても、最初の発願がなかったら、神様は動いてはくれない。
「発願」「努力」「絶叫」この三つの要素がそろうことが、神様に動いていただくための絶対必要条件なのである。
日蓮上人は堅固な志で道を開いた
この三段跳び秘伝は、道を成就させるための三つの要素「堅」「誠」「恒」のうちの「堅」に当たる。
こうするんだと発願する。発願したら、どんなことがあってもやり遂げるんだと実際の行動を重ね、努力をする。そして、一生懸命になって絶叫するまでやり続ける。つまり、堅忍不抜の「堅」なのである。
別の言葉でいうなら「立志」。志を立てること堅固なり、という「堅」である。
私たちの堅忍不抜のよい手本となるのが、日蓮上人だ。
仏教にはいろいろな宗門、宗派がある。南無阿弥陀仏の浄土宗・浄土真宗があったり、真言密教や天台密教も、南都六宗もある。仏教の最初はお釈迦様お一人なのに、なぜこんなにいろんな宗門、宗派があるのだろうか。
それらの膨大な教えの中で、真実の教えはどれなんだ。そう思った日蓮上人は、千葉県小湊誕生寺で「本当の仏様の教えというのは、どんなものか、教え給え。そのための知恵を与え給え。日本第一の知恵者ならしめ給え」と虚空蔵菩薩に発願をする。
そのときに日蓮上人は虚空蔵菩薩から、宝珠を与えられたという。
日本で一番賢い人間にしてくれと発願した日蓮上人は、その後比叡山で十二年間勉強して、天台密教はもとより、真言密教はじめありとあらゆる経典を読破した。
その結果、法華経こそが真実なるお釈迦様の教えだという結論に達したのである。
これは日蓮上人の「堅」が素晴らしかったからこそ、できたことといえるだろう。すなわち、日本一の知恵者ならしめ給え、という志が揺るぎないものであったからである。
日蓮上人の例を見ても、道を成就するためには「堅」がいかに大切かわかる。最初の志、これがフニャフニャした人間はだめである。
まず、自分の志をはっきりとさせることなのである。そして、さらに何が何でもやり抜くのだという覚悟をもつこと。この覚悟こそが、志を揺るぎないものへと高めてくれる基なのだ。
道元禅師版「学問ノススメ」
「これに対して、「堅」なんかなくてもよいと説く人がいる。曹洞宗の開祖となった道元禅師が、その人である。
道元禅師は、堅なんかなくてもいい、慈悲心なんかなくてもいい、悟りも精進努力もなくてもいいと言うのである。
そして、ならばどうすればいいのかと言えば、ただひたすらに学問をしなさいと説くのだ。
「とにかく、本をたくさん読んで学問をしていきなさい。そうすれば、その中には素晴らしい人生を送った人のことが書いてあるのだから、自分もこうなりたいと「堅」が出てくる。
また、別の書を読み、御仏というものは、このように慈悲深いんだということがわかれば、自分の生きざまは、なんとちっぽけなものかということに気がつく。
そうすれば、慈悲の心も自然と湧いてくるものなのだから」というのが道元禅師の論理である。
人間誰しも最初は菩提心も、立派な志も持っているものではない。まあ、中にはそういったものを、もともと生まれ持っている人もいるにはいるが、それはあくまで特殊なケースでしかない。
ほとんどの人は、育ってきた環境の中で、学んで身につけるのである。
オギャーと生まれたときから、堅・誠・恒を備えている人などいないのだ。いくら人間だって、ゴリラに育てられたらゴリラのようになってしまう。
昔、狼に育てられた姉妹が発見されたことがあったが、人間社会に連れ戻されても、完全に人の生活には戻れず、やはり狼の生活から抜けきれなかったという。
つまり人間は、父親や母親、祖父や祖母といった、身近な人からの影響を受けながら、環境の中で必要なものを学んでいくのである。
そういう意味で道元禅師は、最初は堅も慈悲もいらないといっているのだ。
勉強をしなさい。学問をしなさい。学問をしていれば、精進も努力も慈悲も悟りも、すべて自然と身についてくるものなのだからと。
「素晴らしい「堅」を持ち、一つの道を成し遂げた日蓮上人でさえ、最初から「堅」を持って生まれてきたわけではない。日蓮上人がまだ蓮長という名前だったころ、それなりの師匠について出家し、勉強をした。
勉強していくうちに疑問が生まれたからこそ、あのような発願をしたのである。
だから、今の自分がたとえ軟弱で、とてもじゃないが発願や堅忍不抜などできそうにない性格だとしても、何も悲観することはない。それはまだ勉強が足りないだけなのである。
過去にも現在にも、世の中には素晴らしい人が一杯いる。学問を通して、その素晴らしさがわかれば、「堅」は自然と出てくるのである。
至誠こそが神様を動かす
「堅」ができてきたら、その次に大事なのが「誠」だ。
私の著書にも何度も繰り返し書かれていることだが、神様を動かすには、最後はもう誠しかない。
このことは何も私の著書だけではなく、『易経」や「中庸」などの古典はもちろん、何を見ても書かれていることだ。
では「誠」とは何か。誠とは言ったことが成る、と書く。つまり口に出して言ったことはもちろん、お腹の中でつぶやき続けていることも含め、口と心と行いで成就していく。
これが誠である。誠は天の道にして、それを成らすのは人の道である。すなわち、誠を成就することこそが人の道なのである。
「至誠にして動かざることいまだこれあらざるなり」と孟子は言っている。
至誠とは誠が至ると書く。つまり誠を尽くして、それでも動かなかったことはいまだかつて一度もない、といっているのである。
言い換えれば、誠を尽くせばどんなものでも動かすことができる、ということになる。
至誠天に通ず。至誠は神様に通じるのだ。いや、至誠しか神に通じないという言い方の方が正しいかもしれない。天・人・地、これらを貫く道の奥義はこれしかないのである。
「恒」を全うするにはカタツムリ人生でいく
堅をもって行い、誠をもって行ったが、一年でやめてしまった。これでは道は成就することはできない。ものすごい立志と発願はあったのだけれど、一年間しか続かなかった。これではだめなのである。
堅、誠をもって、三番目に必要なのが「恒」。
恒とは、魯のごとく愚のごとく、とにかくコツコツと続けていくことである。これがないと、「ようし!」と一時やる気になっても、誠が生きてこない。
道が成就できないのは、ほとんどの場合がみな「恒」が欠けているからなのだ。堅・誠・恒というが、実はこの恒が一番難しいのだ。
では、どうすれば続けることができるのか。ここに恒の心をつかむのにぴったりの歌がある。
「カタツムリゆるゆる登る富士の山」
カタツムリが、ゆっくりゆっくり富士山を登っている。これこそが「恒」である。道を成就させる極意の姿そのものだ。
カタツムリは頂上を目指す。その歩みは遅くとも怠らずじっくり行けば、やがては頂上に行き着くことができるということである。ウサギとカメが競争する話でも、何回競争しても結果は同じ。やはりカメが勝つのだ。
神人合一の道も同じことである。神様とのご縁というものは、一年頑張って後はやらないとか、とりあえず三年間頑張って後はやらない、というものではないはずである。
御魂の縁や、神様の道というものは、一生涯のものだ。今生、自分が何をテーマにものを考えていくのか、というレベルの問題であるはずだ。
決め手はペース配分
今二十歳の人は、平均寿命を考えて、八十歳で死ぬとして、これからの六十年をどう生きるのか。四十歳の人なら、あと四十年をいかに生きるのか。七十歳の人は残された十年をどう生きるのか。
八十歳の人はもう時間がないと諦めないで、自分は九十歳まで生きるんだと考える。万が一それで翌日死んだとしても、それはそれ、前向きでいいじゃないかと私は思うし、神様も愛でられるはずである。
そうした大きな視点で見ていかないと、「カタツムリゆるゆる登る富士の山」の心境にはとうていなれない。魯のごとく愚のごとくいかないと、魂の道というのはなかなか極まらない。
焦ることはない。むしろ、怠らないためにも、焦らない方がいいのである。
年齢の話をすると女性はいやがるが、人生を考えたとき、これはどうしても避けられない現実である。
女性の場合二十八歳ぐらいになるとトウが立ってくる。これはもう仕方のないことだ。そして、三十三歳で厄年を迎える。
だいたいこの年頃の女性というのは、はたから見て一番やりにくい存在である(断 20 ておくが、これは同じ女性である植松愛子先生の説である。まあ、私も同感だが)。
世の中ってこんなものか、男性ってこんなものか。結婚もして、子供もいて、でもまだ若いという自信は持っている。つまり、世慣れしつつも、若さへの執着心が捨て切れないのだ。
それが、四十歳を過ぎると、もう四十だし、と急に謙虚になってくる。そして非常に女性らしい麗しい性質になってくるのである。
男性の場合は、二十五歳がひとつの山で、四十二歳が厄年となる。
こういうふうに人生には、必ず山坂があるものなのである。それでも怠らないで、焦らないで行くためにはどうしたらいいのか、ということが問題なのだ。
発願成就の対策を立てるためにも、その年代年代の特徴を把握しておくことは、とても重要なことである。
たとえば長距離ドライブするとき、最初から高速道路で速度オーバーして百四十キロで飛ばしても、疲れるので、結局は休憩所で長く休むことになってしまう。
それよりは最初から八十~百キロぐらいの適正スピードで走り、その分、休憩時間を短くした方が、目的地に早くつくのである。
人生はまさに長距離ドライブなのだから、自分はどのペースで行くのか、どのコースで行くのかという、人生全体のペース配分をすることが重要になってくる。
これができる人は、お茶でもお花でも、武道にしても、どんな習い事にしても、実を結ぶことができるはずである。
だから、最初は目だたなくて、ボーッとしているように見えた人が、三年ぐらい経って、気がついたらものすごく上達していたということがある。
そういう人は、このペース配分の上手な人なのである。
逆に、はじめから熱心すぎる人というのは、やはり途中で息切れしてしまう場合が多い。
「一芸に秀ずるものは万芸に通ず」と言うが、何が通じるかというと、こうした道を成就させる資質が通じさせているのである。
実は、神様の道を成就することができるかどうかも、意外とこういう点が分かれ目になっている場合が多いのである。
あくまで自分のペースで走る
まだ若いのに、何やら年寄り臭いことをいうな、と思われる方もいるかもしれない。しかし私は、二十代からこのペースなのである。
私は非常に守りの姿勢が強いタイプなのである。完全に守りを固めて、最悪の場合の対策も、これ以上やりようのないところまで考える。
そこまでやってはじめて、思い切って行うのである。絶対にありきたりの準備で軽率に行うことはしない。
そのかわり、やるときにはできる限りの準備と対策を講じてあるので、もはや迷うこともなく集中して行なえる。
若くしてどうしてこういう姿勢ができたのかというと、それはひとえに学問のお陰である。
自分の思いや焦り、あるいは、失敗するんじゃないか、駄目なんじゃないかというネガティブな思いがわいてきたとき、どう対処したらいいのか。
数々の古典をすり切れるほどに読み、糧として学んでいるからこそ、自分を鼓舞する方法や、さらにああすればいい、こうした方がいいという知恵も出てくるのである。
古典というのは、そういうものだ。時代が変わっても変わらない、古人の叡智と生き方の指針のエッセンスが凝縮されている。だから本来、古典は、若い人こそ学ばなければならないものなのである。
神業、修養、錬磨などの極意は、間なく断なくということが一つ。
もう一つは、人に何と言われようが、気にせず自分のペースを守ること。焦らず怠らず、しかし死ぬまでやめないことである。
これさえ守ればどんな発願でも必ず成就するはずだ。
大地から太陽が出て、また大地へと沈んでいく。太陽は毎日必ず時間がきたら出て、時間になるとまた沈んでいく。
太陽が、「今日はちょっとくたびれたから休ませていただきます」とか、「今日は定休日でございます」などということは絶対にありえない。
一日も休む事なく繰り返されるこの太陽の姿こそが、自然の中に織り込まれた神の教えなのである。日々変わらぬ太陽のような心、それが「恒」というものなのだ。
堅・誠・恒を繰り返す
華道でも茶道でも、剣道でも柔道でも、夫婦の道でも人生の道でも、神様の道でも仏様の道でも、道と名のつくことはすべて同じだ。
いかなる道でも成就する天地自然の法則が、「堅・誠・恒」なのだ。ということは、この三つにさえ気をつけていれば良いということになる。
大切なのは、自分のペースを守ることだ。決して焦らず、しかし怠る事なく、死ぬまでやめないこと。
間なく断なく、魯のごとく愚のごとくやり続けることである。とにかく、この続けるという恒が一番難しいのだから、極端な話、恒さえできたら堅も誠も忘れてしまったとしてもいいくらいだ。
恒さえできていれば、堅は続けているうちに、必ずまたよみがえってくる。
そして、堅がよみがえってくれば誠も後に続いてくる。だから勉強でも、稽古事でも、とにかく継続することである。
決してやめない。神業の道はさらにいろいろな試練もあるが、「恒」を忘れずに神人合一の道を目指してほしいものである。
才能を磨くことの意味
道を成就するための三要素、「堅・誠・恒」。今述べたように、これは、何も神業だけに限ったことではない。
およそ、すべての道という道を極めていくための基本原則でもある。そのことをよく覚えておいてほしいし、是非とも実行してほしい。
一般的に言うと、これは「才能を磨く」ということにも、あてはまると思う。
「才能?そんなもの私にはないわ」という人もいるかも知れない。
だが、そんなことはない。人それぞれに皆、才能の元になっているものは持っている。それは何かと言えば、簡単な話であるが、自分が本当に好きなこと、やりたいことは何か、ということだ。
自分が何かを好きになり、やりたいと思うことは、すでにして御魂の発動でもある。絵でも、ピアノでも、板前でもなんでもそうだ。
あるいはあなたは、前世で一生懸命それに関連する何かを修業していたのかもしれない。
誰にでも、やりたい何か、好きなことというのが一つや二つはあるはずである。しかし、最初から何でもかんでもうまくできる人というのはいない。
そこで、才能を磨くわけである。磨いて光るか、光らぬか。自他ともに認めるほどの、才能と言われるものに成長したか、どうか。その違いはどこで別れるのだろうか。そのことを少し考えてみよう。
器用と才能は違う!
世の中には、いろいろなことが器用にできる人がいる。絵もちょっと上手、音楽もちょっと上手、文章もちょっと上手と、ものごとを何でも器用にこなせるタイプだ。
そんな人は見たところ、確かに便利そうだし、羨ましがられもする。
しかし、器用貧乏という言葉がある。
「あの人はなんでもできるけど、器用貧乏なんですよ」と言われるように、器用貧乏には何となく、マイナスのイメージがつきまとう。
ところが、「あの人はすごいですね。あれもできる、これもやっている。すごいですねー」という場合は器用貧乏とは言わない。才能と呼ばれるものである。
器用貧乏はマイナスイメージ、才能はプラスイメージ。プラスとマイナス、どこが違うかと言うと「貧乏」と「金持ち」の違いなのである。
器用貧乏というのは、いろいろ器用にできても、一言で言うと、お金にならないということである。お金になるのが才能、お金にならないのが器用貧乏と定義してもいいかもしれない。
器用だったらいいというわけではないのである。
何か他人より優れた技術があって、それで収入を得ることができるレベルならば、もうそれは才能なのである。それで生活していけるのならば、たとえ今のところは少し貧乏でも、とりあえず才能と呼んでもよいだろう。
お金は世の中の価値評価
では、お金になるレベルが、なぜ才能と言えるのか。やはりお金というものはこの世では、命の次に大事なものだという社会の客観的な価値評価があるからである。
ちょっと器用な人だったら、大工仕事でも何でも、「あっ、こんなのは自分でできる。別に人に頼んでお金出すことないや、やっちゃおう」と、トントン、トントン自分でやってしまう。
しかし、それは所詮日曜大工程度の仕事でしかない。少し板が曲がっていたり、釘が歪んでいたりもする。
もちろん、自分の家の軒先くらいの仕事だったら、それでかまわないだろう。本人が気にしなければいいのだから。
しかし、その人のところに誰かがお金を出して、家の修理を頼みにくるだろうか。どうせお金を出して頼むなら、ちゃんとした仕事をする人に注文するはずである。
「ふむ、この仕上がり、この正確さ。さすがはプロだな」というレベルにして初めて、頼んだ方も満足するわけだ。
これは自分ではできないから、人に頼まざるをえないという時に、人はお金を出して頼む。どうせお金を出して頼むなら、ちょっと器用な人がやったようなレベルでは満足できない。
「なんだ、これは!」と文句の一つもつけたくなる。
少しばかり器用程度ではできないレベルの技能だからこそ、「お願いします」と言って、人はお金を出す。それも、納得して喜んで出すのである。
ということは、その人の能力が、客観的な基準として普通よりちょっと器用というだけではできない技量だと社会に認められた、ということである。お金を出すということは、その証なのだ。
器用貧乏で終わっている人は、少々器用には出来るけれど、別にお金を出して頼むほどのものではないとみなされている。
だから、自分の能力が才能なのか、単なる器用なのかは、お金になるかならないかで判断されるのである。ちょうど金太郎の腹掛けみたいなものだ。金があるかないかが分岐点というわけである。
道の成就、即ち”才能”
では、どうしたらお金になるか。どうしたら、人が喜んでお金を出すレベルになれるのか。それは、一つの物事を間なく断なくやり続けること、そして焦らず怠らずに死ぬまで続けることである。
何のことはない、ご神業とまったく同じなのだ。
つまり、才能を磨くのも、神業と同じ「堅・誠・恒」でやっていくしかない。それを繰り返せば、その技術については、並のレベルをはるかに超えることができる。
並のレベルを超え、さらに少々器用な人のレベルを超えると、「お金を出してでも頼もう」というレベルに到達するわけだ。
だから、逆に言えば、才能を磨こうと思ったら、何でもお金になるところまでやることである。それがやはり、いちばん客観的な評価であり、努力目標になるのだ。
お茶でもお花でも、建築でも音楽でも、「堅・誠・恒」で並みのレベルを超えるところまできたら、それは才能になる。
庭づくりでも、絵でも、書でも、何でもそのレベルにきたら、それなりのプロになる。それが世界一になるか、日本一になるか、あるいは何かの賞に入選するかどうかは別として、それなりに職業としてやっていけるようになるはずだ。「堅・誠・恒」で必ず成就できるのである。
「やるぞ!」と思ったら、誠心誠意努力することである。努力をするにも「誠」の心を持って行うのだ。本当に「誠」を持っていたら、傲慢さが顔を出すこともない。だから常に謙虚に、おのれの実力を省みることができる。
そして、目標達成にふさわしい努力を自らに課し、それをやめずに続けることだ。それができた人というのは、必ず努力が才能になって戻ってくるのである。
道を成就するということは、つまり、才能をものにするということなのである。
十年の継続で太陽神が物事を成就する
では、努力とはどれくらいやればいいのか。つまり、「恒」に値するほどの努力の継続とはどれくらいを目安にしたらよいのだろうか。
その一つの目安は十年である。よく十年一昔というけれども、物事はだいたい十年サイクルで実を結んでいくものだ。
志を立ててから一年、二年と努力していくと、だいたい八年目ぐらいで他人から評価されるようになる。八は数霊的に「開く」という意味があるから、八年目で才能が開花するのである。
そして、その後二年をかけて円熟し、十年でものになるというパターンだ。
実はこの十年という数字は、神霊界の単位でもある。
私が行う神法の一つ、星ツアー(参加者の奇魂を宇宙のさまざまな星の神霊界に連れて行く秘技)に参加した人はご存じだと思うが、太陽の神徳がこの「十年単位で物事を成就させていく」というものなのである。
太陽系の中心は、もちろん太陽であり、その主宰神は天照大御神である。天照大御神は現世に名声と栄光と成功を、功徳としてもたらしてくれる。
その功徳が結実するのが、お願いしてから十年後”なのである。もちろん地球も太陽神界の影響下にあるので、天地の法則として、物事の成就に十年という単位が与えられているのである。
これは、信仰があろうがなかろうが、神様を信じていようがいまいが同じだ。地球に生きている以上は、誰にでもこの法則による神徳、すなわち十年で努力が結実するという恵みがもたらされる。
「堅・誠・恒」で十年頑張れば、必ず天照大御神が微笑みかけてくれるのである。
そしてこのことを知り、意識しその恵みに感謝の心を向けるようにすると、同じ十年の努力も一層大きな実を結ぶ。
十年の努力の結果、巨万の富を築けるか、あるいは人より少しだけ恵まれている程度で終わるかは、その人の運、不運、前世の徳分業に関わっているわけだが、それなりの才能は誰でも成就する。
たとえ業があり、霊障があるままでも、努力したことに関しては、栄光と名誉と成功が必ず得られる。
それ以外のことに関してはなんともいえないが、こと才能に関しては、太陽の天照大御神が必ずくださるのである。
ちなみに、太陽神界からの神柱が直降している聖域・伊勢神宮に、年に一度は真心こめて参拝するようにすれば、十年を待たずして、もっと早い周期で功徳がいただける。
とりわけ参拝の半年から一年後には、大きな方向の転換による開運が期待できることを付け加えておこう。
三十年単位で神仕組が実現する
そしてご神業もやはり十年がひとつの単位である。
私の場合は、十五歳から神の道をめざして二十五歳が一区切りだった。そして二十五歳からめざした次のステップが形になり、区切りがついたのは、やはり三十五歳のときだった。
どちらも志が形になって現れるのは八年目くらいからである。私の弟子たちの修業を見ていても、やはりこのサイクルは共通している。そして十年で完成するわけだ。
ひとつの十年に区切りをつけて、次の十年ももう一度クリアすれば、これで陰の十年と陽の十年が揃い、あわせて二十年。
平成五年に実施されたばかりで記憶に新しい伊勢神宮の式年遷宮が、二十年ごとに行われるのも、実はこのためである。
陰の十年と陽の十年がそろって、二十年でエネルギーが一循環する。だから、伊勢神宮のご神体は、金の坐に二十年、米の坐に二十年という形で二十年を一単位として遷座されるのである。
三十年前に「今」は既にできている
さて、この陰陽の二十年にもう十年が加わると、これが太極となって、陰陽と太極が揃い、神仕組の形ができ上がる。つまり、神仕組というのは、三十年を一単位として実現するのである。
実を言えば、現実界に起きてくる事象の大枠は、霊界では三十年前にすでに起きていることなのだ。神仕組というのは、霊界で起きたことの、現実界への投影もしくは顕現だと考えてもよいだろう。
それがだいたい三十年ごとに霊界に現れ、そこからさらに三十年かけて現実界で成就するのである。
といっても、三十年目にいきなりポコッと出てくるわけではない。霊界をおおっている神仕組の気が、三十年かけて徐々に現実界に顕現していくのである。これが三十年を単位とした神仕組だ。
これもまた陰の三十年と陽の三十年を合わせて、六十年で一巡りとなる。つまり還暦である。気学でいう十干と十二支が、六十年かけてひと巡りするのである。
そしてまたゼロからスタートする。人生、だいたいこのようになっている。
だからもう一度、一人ひとりの人生に話を戻すと、「堅・誠・恒」で最低十年頑張ったら、折り返しの陰陽で二十年。さらに十年頑張って三十年。
ここまでやれたら、どん道であっても超一流の評価を受けるまでのレベルには必ずなっている。
いわゆる職人芸といわれるのがこのレベルである。たとえば畳職人一筋三十年などという人にかかると、畳をパッと触っただけで、
「あっ、これはどこどこで採れたイグサを使った何年ものの畳ですね」
これくらいピタッと当ててしまうだろう。
私は人の体に触れて、そこから健康状態を読み取る体神通や、人形(神社でお祓いに用いる和紙を人の形に切ったもの)に名前を書いたものを触って、その人の過去・現在・未来をピタリと読み取る人形神通なども得意とするが、さしずめその道三十年の畳職人の分析力などは、畳神通と呼んでもいいだろう。
また、理容師歴三十年という人も達人の境地に入っている。たとえば、もう自分はハゲて毛が一本も残っていなくても、人の髪の毛を触ると、「あっ、これはどこそこの床屋でやったでしょう」
パッとわかる。
「ウーン、これは先代の何々流の系統に、フランスの美容院が合わさったカットですね」などと当てることさえできるかも知れない。
おまけに、昨日の野球の話でもしながら、ロクに手元なんか見もしないで頭を洗ったりする。手だけがあたかも自動装置でもついているようにハサミをチョキチョキと動かし続け、気がついたらちゃんとセットができていたりするのである。
おもむろに「お客さん、終わりましたよ」などと言われて「エッ」と、こちらの方が目を丸くすることもあるくらいだ。それが、この道一筋三十年、と誇れるような技術なのである。
三十年は短い時間ではない。しかし、自分の才能を本当に世のため人のため、神様のためになるように磨き上げようと思ったら、やはりそれくらいの単位でものを考え、修業に取り組まなくては本物とはいえないのではないだろうか。
もう一度声を大にして言っておこう。地球上の人々は、誰であっても例外なく天照大御神の功徳をいただいているのである。
堅・誠・恒の三つを守って努力すれば、必ず十年単位で物事が実るようになっているのだ。それは天地の法則であり、約束されていることなのである。
だから、自信を持って自分自身を鍛えてほしい。神仕組のお役に立てるくらいに、思い切って人間のレベルを高めていただきたいのである。
大きな志を持って、日本国の罪穢れをはらう
ワールドメイトでは毎年、年末に伊勢で「天の岩戸開き特別大神事」を行っている。
そこで何をやるのかというと、大きな火壇を囲んで、個人の人形や、家・車・会社などの形代を皆で持ち寄って、お焚き上げをするのである。
十二月三十日という年末も押し迫った頃、夜を徹し、空が白むまで、今年一年の人々や自分の罪穢れを全部神様に祓い清めていただけるように、必死で祈り込むのである。しかし、この神事の目的はそれだけではない。
本当の目的は、日本の国家の安泰と国民全体の幸せを祈ることなのである。
日本国の今年一年の罪穢れを全部きれいにしていただいて、来年はまた素晴らしい年でありますようにと、三千人以上の参加者が全員で大祓祝詞を繰り返し唱えながら、必死で祈るのである。
実は伊勢志摩には日本随一の坤の金神・全長六百キロメートルの姫金神が鎮まっている。その龍王が、お出ましになり、炎の力ですべての罪汚れを祓い清めるわけである。
宗像大社にも同じような龍王はいらっしゃるが、やはり伊勢は「皇室の奥の院」たる伊勢神宮のおひざもとだけあって、スケールが全然違う。
大和朝廷が、九州の中心にいた頃に勢力を誇っていたのが宗像である。その頃の「世「界」はその程度の大きさだったのだ。
それが、大和国が開かれ、東北地方も開かれ、日高見の国が開かれ、列島全部が開かれたから、今度は伊勢が国の中心となった。
全長六百キロメートルの大金神。天照大御神という日本神界の中心たる光明神の御元に、そのものすごいパワーの龍王がおられるから、伊勢神宮は、あれだけの霊力を有しているのである。
その神霊域で、天下国家のことを思うスケールの大きな至誠で祈ったら、それだけの人間には、もちろんそれに応じた功徳がいただけるのである。
考えただけで、体中にエネルギーが湧いてくる。
個々人のことを超えて、もっと大きな日本の国、日本民族、世界、全人類という視野を持って生きていれば、それだけ神々のおぼえめでたくなり、応援も強くなり、大きな力と知恵がいただけるわけだ。
歳が若くても情熱と根性があれば、それだけのスケールに見合う応援を神様はしてくださる。考えてみていただきたい。個人の開運のためだけなら、何も神様に頼むことなどないのである。
守護霊で充分なのだ。そのための働きをするのが、守護霊だからである。それより、大きなものを動かしたい、大きく世のため、人のためになりたいと思うから、力の強い神様にお願いをするわけである。
だから、大きなことを祈っておけば、個々人レベルの小さなことなど、当然、神様はなんとかしてくださるのである。そういうものだということを認識しておけばよいのだ。
そして、このような一大祭事を設けることで、大きく、大きく、天下国家の安泰を祈りこむことのできる御魂を、私は育てていきたいのである。
それが、ワールドメイトが開かれた目的の一つであり、私の天命の一つでもあるのだ。
