浅草観音の教える経営が成功する秘密! 菱研 深見所長講演録17(Vol.4)

支持してくれる人への還元方法を考えよ

五番目は何かというと、「みんなに喜ばれ、支持される人々への還元方法を考えて、心中深く満足する」と。

たとえば、会社の利益が上がってきたら店頭公開するとか、上場会社になるとか、業界紙で紹介されるとか、何らかの形として表しますね。

たちばな出版も、キャンペーンの「御本ものうどん」が業界紙で二度取材されましたし、ラジオでも紹介されました。

書店さんからは、「シャレっ気がなければできないような企画だね」とか、いろいろと評価していただいています。

「噂の真相」にも出ました。「「座って読んでもたちばな出版」(笑)なんて考えるのもおかしいけれども、「本を買ったらうどんがもらえる」なんていうのもぶっ飛んだ企画だ。いったい誰がそんなことを考えるんだ」と書いてありました。

それで、その活字で出たとき、たちばな出版の営業マンはみんな、「やったあ!」と喜んでいるんです。

とにかく、会社の収益が上がったら、「君たち社員のお陰でこのようにして実績が上がって、これだけ利益が出た。だからみんなをハワイ旅行に連れていってあげよう」と言って、利益を社員に還元する。

そして、「さらにまた頑張ったら、次はブラジルのサンパウロに行こう」というのもいいですね。

グランドクロスの跡地というのがありますから、古代遺跡を訪ねるとか、あるいはまた、「南極へ行って、ペンギンと一緒にフラフープをしよう」と(笑)。

とにかく、「誰も考えつかなかったことをやろうよ」と言うと、みんな「おーっ!」というように、利益を還元すると、「見よう見まねでとりあえず、ぎこちなく、まずやってみて、物事の実態が分かって、よき指導者、経験者に意見を聞きながら、反省して改良して次作を出して、場数を踏んでいって大きな場面でうまくいって、形にはっきり残すことによって出てきたことが、みんなに喜ばれた」ということになる。

みんなが喜んでくれて支持してくれるから、みんなもうれしいし、「またやろうじゃないか」と、ますます前向きに努力するようになるんです。

ですから、最終的にはこの五番目の「みんなに喜ばれ支持されるように、人々に還元する方法を考えて、心中深く満足する」ということがないとダメなんです。

これを欠いていたら、E君みたいに新聞に出ても、一生懸命場数を踏んで大きな舞台をやってきても、いろいろよき指導者についてうまくなっても、見よう見まねで分かってきても、それがいったい何になるんだろうかと、あるとき、虚しさを感じるわけです。

こんなバカなことをしているより、人生にはもっと大事なことがあるんじゃないか。こんなことよりも、もっと社会には大事なことがあるんじゃないかと、疑問を感じるようになります。

ですから、この五番目がないと、一生懸命にやっている自分が虚しくなるんです。

その結果、続かなくなる。結局、途中で終わってしまうのです。

しかし、そんなことをして何になるんだろうか、ほかにすることがあるんじゃないんだろうか、という気持ちが湧いてきても、みんなが喜んでくれているじゃないか、みんなが支持してくれているじゃないか、みんなに還元して、人を幸せにできたじゃないか、みんなも応援してくれているじゃないか、と思っ心中深く満足すると、「またやろう!」というチャレンジ精神がふつふつと湧き上がってくるんです。

結局、五番目から一番目に返って、「見よう見まねでとりあえず、ぎこちなく、まずやってみよう」と。

これができたらみんなも喜ぶし、支持されるし必要だし、自分にとってもいい、と。

とりあえずみんなが喜ぶもの、支持されるものを、見よう見まねでぎこちなくやってみて、次によき指導者、経験者に意見を聞いて、反省して改善し改良して、次にまたやってみる。

そして、場数を踏んで徐々に大きな舞台に立っていく。

ゴルフでも何でもいいんです。大きなコンペをするとか、大会に出るとか、何でもあります。

絵とか書とかなら、画展でも書展でもいい。形にはっきり残す何かをつくり、手応えのある感動を味わう。

そしてまた、みんなに喜ばれるように、支持されるように人々に還元していく。

こうしていくと、次々次々ものになって、また次にものにしようという気持ちになってくるんです。

そうすると、観音様がおっしゃったように、「心の底から興味を持つようになってくる」わけです。

観音様がおっしゃっているとおりなのですけれど、どうしたら心の底から興味を持てるのか。結局、男性社員の扱いの得意な人が、女性社員の扱いも得意になったら、女性社員に喜ばれる。

そして、女性社員一人ひとりの性格まで分かってきたら、「この男性といいんじゃないの?」といって、結婚をまとめてあげることもできるし、そうすれば喜ばれます。

あるいは、あの取引先は得意だけど、この取引先はどうも苦手でというのが克服できたならば、売上の幅が広くなってくるわけですし、攻略できたら人に教えることもできる。

それから、経理も営業も両方とも得意になってきたら、営業マンを育てることができるわけですし、営業を考えて営業のための経理、経理的な頭を持ちながら営業をしていくと、より立体的な営業ができて、会社に還元することができる。そうやってみんなに喜ばれる、と。

逆に、絵でも書でも歌でも何でも、最終的にみんなを喜ばせることに結びつけずに、本人が勝手に喜んでいるだけでは、やがて、本人もバカらしくなって続かなくなります。

そうではなく、いま言ったようにすれば、次々次々と興味を持っていくことができる。次々次々と到達していくことができる。

それが深見流の「観音様になっていく方法であり、能力をつけていく一つの方法」です。

深見流「済まん六千日」

ここで締めくくりとしてひと言つけ加えますと、深見流のやり方も「見よう見まねでとりあえず、ぎこちなく、まずやってみる」と、人様に迷惑をかけます。ドジをした分、周囲の人に迷惑をかけます。そういうときには、「済まん、済まん」と言って六千日(笑)。

それから、よき指導者、経験者に意見を聞いて、反省して改良するんだけれど、「いやあ、ここはもっと気がつけばよかった。済まんかった」と。

おのれが反省したときに、本当に心の中から「済みません」と言って改良して、次を出す。

そのときに、指導者とか経営経験者に教えていただいた分だけ、「ありがとうございました。済みませんでした。

私のような者に教えて下さってありがとうございました」といって大事にするわけです。

自分の先生や教えてくれる人を大事にして六千日。そうしていくと、どこまででも教えてくれるようになります。

また、場数を踏んで大きな舞台や場面になってくると、周囲の人も次は何をやるのか分からなくなってきて、ハラハラドキドキします。

そういうときも、「済まん、済まん」と言いながら場数を踏んでいく。

ご主人が休日ごとにゴルフへ行ったら、奥さんは、「またゴルフですか!」と角を立てます。

そういうときは、「済まん、済まん、ゴルフのコンペで場数を踏んで大きな舞台に行くんだから、済まんね、済まんね」といって頭を下げて六千日。

場数を踏んで徐々に大きな舞台と言いましても、時間と労力がかかりますし、人様と家族に迷惑がかかる。

しかし、そんなのを気にしているとダメですから、「済まん、済まん」と言いながら、六千日やったらいいんです。

要するに、「形にはっきり残す何かをつくり、手応えのある感動」といっても、人様の協力がなかったら、形にはっきり残せません。

発表会のときなんか、教えて下さる先生方も必死です。形にするとなってきたら、先生も緊張するのです。

「コンクールに出場します」と私が言うと、先生方は驚いた顔をして言います。

「えっ、出るの?本当に出るの?」

「出ます」

「分かりました。協力します」と言って、バックアップ態勢を取って下さいます。

それから、「音大を受験します」と言ったときも、先生は驚いていました。

「えっ、いまから受験するの?あなたの歳で?」

「はい、やります。場数を踏んで大きな舞台で形にはっきり出るように受験します」

「その歳でやるの?」

「やります」

「忙しいのにやれるの?」

「何とかやります」と言ったんですけれど、その分、先生も大変です。

「この歳でやります。一生懸命にやります。あと三ヶ月しかありません」

「できるの?」

「何とかやりますから。済みません、済みません」と言って、先生にもう、「済みません、済みません」の六千日です。

そして、皆様に喜ばれて支持されて還元していくというのは、「本当に皆さんのお陰で済みませんねえ」と。

「日ごろ皆さんからご支持いただいているお陰ですので、皆さんに還元いたしますから」と謙虚にお礼を申し上げる。

これが深見流の最終的な「済まん六千日」ということでございます。

以上です。ありがとうございました。(拍手)

会社の因縁を五年で変えるには(浅草観音ご神示解説) ~平成13年1月7日東京・池之端文化センター~

「社運龍昇」と「一念創業」

いま、新年のご神示と龍の絵を書いていました。それを皆さんにお配りいたしますが、せっかくの絵を白黒コピーするとイマイチなので、絵はカラーコピーで刷っています。所要時間はだいたい四十分ほどです。

それから、ご神示ですけれど、これも絵のような書でして、やはり白黒コピでは冴えないので、カラーコピーで刷っています。

しかし、そのための時間が、これまた四十分ほどかかります。

両方合わせて八十分かかりますので、ゴールドフカミの人には二枚ともカラーにいたしますが、ゴールドフカミ以外の人には一枚をカラー、もう一枚を白黒コピーにしてお配りいたします。

そうしないと時間が間に合わないものですから、ご了承のほどお願いいたします。さて龍の絵のほうは、ほとんどの皆さんのお手元に届いたと思います。

この龍は四十五メートルの金龍神なんですけれども、脇に「杜運龍昇」と書いてあります。それで、「りゅうしょう」の「りゅう」の字は西郷隆盛の「隆」ではなくて、金龍神の「龍」の字です。

そして、その上に北極天神というのが降りています。

そこにはまた、「黄色い玉」と「赤い玉」と、紺というか「紫っぽい紺の「玉」の三つの玉が降りてきています。浅草の三社祭りというのは、日本の三大祭りの一つで、三社あるから三社祭りなのですが、謂われはともかく、三つの玉が降りているんです。

それを写しています。

その三つの玉のうち、青紫の玉は、「精神力、気力を持ちて蘇生す」という玉で、観音様の功徳を表すわけです。

それから赤い玉は、「精進努力して向上「す」という玉で、黄色の玉は、「智恵豊かにして、物事の本質が見える」という玉です。

それで、「社運龍昇」の龍は玉を持っています。

浅草は「金龍山浅草寺」と言って、仏閣ではありますけれど、仏さんと龍がいるだけではない。

もちろん、仏さんと龍がいるんですけれども、これだけ弥栄えていますので、やはりそこには神魂が降りているのです。

観音様が浅草寺を統括しているのですが、ちゃんと神魂が降りているわけです。

玉を持っている龍なんです。ただワイルドに龍がいるわけではない。玉持ち龍です。

三社だから三社祭りなのですが、ここの龍は「三つの玉を持っている」ということが分かりました。

それから、もう一つ出てまいりましたのは「一念創業」。これは、菱研の皆さんにとりまして、この一年間の大事なポイントです。

この「一念創業」と「社運龍昇」の二つが、非常に重要なポイントです。

人も会社も三十年で変わる

それから、浅草のご神示としては、

心のゆくままに行かず、と信念と信仰心のおもむくままに行くべし

何でもかんでも思うがままにやればいいというものではないんだ、と。

それはなぜかというと

人間は善悪正邪高低聖俗の混入するものなれば

と入り乱れている、両方あるんだ、ということです。そして、

一切は善性を呼び出す人の努力がいるのである。

と。

つまり、善も悪も、正も邪も、高いも低いも、聖も俗も、両方併せ持っているのが人間なんだ、ということです。

だから、心のゆくままに行くと両方が出てくるんだけれども、義を貫き、信念を貫き、信仰心を貫いて、そのおもむくままに行くと、善と悪の「善」の部分、正邪の「正」の部分、高低の「高」の部分、聖俗の「聖」の部分が出てくる。それを含めて「一切は善性を呼び出す人の努力がいるんだよ」と言っているわけです。

そして、そういう努力を続けていると、「三十年で因縁が変わる」と。早死にする人間は長生きする、と。

二十九年目に亡くなると困りますけれど、三十年で因縁が変わるというふうに覚えていただきたいわけです。

人に寿命があるように、会社にも寿命があって、どんな一流の企業でも、三十年経つと衰退すると言われています。

つまり、三十年が一応、会社の寿命と言われているのです。統計を取ってみますと、どんなに一流といわれる会社であろうと、約三十年で当初の寿命が終わって衰退し、潰れていく、と。

要するに、「経済のサイクルや世の中のサイクルが三十年サイクルで回っていて、一つのマーケット、一つの商圏はそんなに長く続かないものなんだ」というふうに言われているわけです。

三十年というのは、世の中の仕組みどおりです。大本の「筆先」なんかを見ても、三十年単位で仕組みがなされています。

そして、三十年と三十年で陰と陽になっていて、合わせて六十年。人間も六十年で還暦を迎えます。人間も六十年サイクルで生きているわけです。

十干と十二支が全部組み合わされますと六十通りで、満六十歳で還暦。その半分が三十年で、陰と陽を合わせて六十年になります。

それで、三十年というのは、実は十年単位で「天人地」と来るわけなんです。そうやって三十年経つと因縁が変わる。

バカとして生まれてきた人間が賢い人に変わる(笑)。どうしようもないような人間でも、「三十年経ったら因縁も変わるんですよ」と。

それから、「会社の寿命も三十年で変わるんですよ」「世の中が変わるのは三十年の単位なんですよ」ということです。

しかし、心のゆくままに行かずに、義と信念と信仰心を持って一生懸命に生きて、善と正と高と聖なる部分を一生懸命に呼び出していく努力をすると、実は五年で人の功が現れる、と。

一生懸命努力した成果が出始めるのは五年目だよ、と。そういうことがここに書かれているわけです。

この五年というのはまた面白い年月でして、よく言われていることですけれど、人間というのは五年間、同じ職場で同じ仕事をしていると、それが一生続くものだと思ってしまって、「もう私はやっていけない。こんな仕事では到底続けられない」ということで、挫けてしまう。

一生ずっと続いていくものだと思ってしまうわけです。

だから、独身生活が五年続き、結婚生活が五年続き、職場で変な上司のもとに五年いますと、一生これが続くのかと思って嫌になってしまう。

五年二ヵ月目にガラリと変わる可能性もあるんですけれども、六年目、七年目に変化があるかもしれないんですけれども、人の意識として、五年間同じことをやっていると、「一生これが続くんだあ」と思ってしまう、と言われています。

それを考えたら、どんなに優秀な社員でも、どんなに調子よく仕事をしている人間でも、五年以内に昇給、昇進、栄転など、何らかの形で変化を持たせるようにしてあげなければいけない。

昇進させるなり、給料をうんと上げてあげるなり、新しい別な仕事をさせてあげるなりしていかないと、従業員は腐っていくのです。

実は、経営者自身もそうなんです。五年間、同じ仕事を続けていると、これがずっと続くのか、と。

たとえば、美容師の仕事がずっと続くのか、居酒屋の仕事がずっと続くのか、カツラ屋の仕事がずっと続くのか、税理士がずっと続くのか、などと思って飽きてくる。

どんな人でも五年同じことをやっていると、この仕事が一生続くのだと思ってしまう。

だから、何らかの形で変化をもたらすとか、仕事を続けていく中で飽きないように、気持ちが萎えないようにしていかないと、効率が落ちていくのです。

逆に言うと、一生懸命に五年努力していると、それなりの成果が出てくるということです。

五年というのは、そういう一つの時間の単位というか、区切りと考えられます。

これは「数霊」から来るのか、「世の中の人の共通意識」から来るのか分かりませんが、だいたい五年経つと功が出てくるんです。

そういうものだと頭に入れておけば、自分自身を上手に持っていくことができますし、従業員を生かすこともできます。

ところが、いまはうんと時代のサイクルが早くなってきましたので、五年どころか三年を目安に考えたほうがいいかもしれません。

昔は「石の上にも三年」ということで、三年間辛抱すればモノになると言われていました。

「とにかく三年辛抱しろ。そうすれば、次のステップとして新しい仕事をやらせてあ「げるから」などと言われていましたけれど、最近は三年ももたないです。

せいぜい二年でしょうか。「二年間とにかくこれをやれ」と言っておいて、二年以内に何か新しい変化をもたらせるか、新しい仕事をやらせてあげないと、いまの若い人はもちません。

一つの仕事をやらせても、二年目ぐらいからくすぶり始めて、三年目に入ったらもうブッツンする。だから、一年半か一年七ヶ月目ぐらいに何かやらせてあげないと、なかなか続きません。

そうやって五年経つと、一人前になる。いっぱしに仕事がやれるようになる。功が現れるということは、そう考えていいでしょう。そういうことがここに書かれているのです。

一万円札を聖徳太子から福沢諭吉に変えた裏事情

そういうことで、「三十年」と「五年」というのが今日出てきた数字なんですが、この五年と五年が陰と陽で、実は「十年で物事が成就する、また世の中も変わるんだ」ということです。

いま振り返っても、一九六〇年代、七〇年代、八〇年代というのは面白いですね。とくに、オイルショックから始まった一九七〇年代は興味が尽きません。

いま現在、国債の発行残高は五百兆円以上(平成十三年当時)です。

しかも、税収が四十何兆円しかないのに、支出のほうが五十三兆円で、国債の利息だけで十四兆円の予算が必要とされていて、その利息を払うためにまた新たに国債を発行しています。

そのように、日本の国も大変国際的になってきていて(笑)、まさに世界に羽ばたく日本といった感じですけれども、この赤字国債の発行がいつから始まったかといいますと、オイルショックのときからなのです。

それまで、日本経済はずっと右肩上がりで、GNPが年間十パーセントぐらいずつ伸びていました。

ところが、二度のオイルショックがあってから、五パーセント成長とか三パーセント成長に鈍化し、そのとき、ケインズの考え方が導入されたんです。

たとえ財政が赤字になったとしても、国債を発行することで積極的に景気策を取るべきである、というのがケインズの主張したことなのです。

それに対して、J・ドッジという人は均衡財政。均衡財政というのはどういうことかといいますと、歳入歳出のバランスを取る、均衡させるということでして、要するに、税収の枠内で支出する、と。当たり前のことなんですけれど、福田赳夫首相のときまで十四年間、均衡財政が続いてきました。

ところが、オイルショックのために景気がニッチもサッチも行かなくなり、ケインズが言っていたように、国債を発行せざるを得なくなった。

そのときは一兆円ちょっとです。それで、昭和四十年代の末期の不況を乗り越えたわけです。

ところが、一旦やると罪悪感がなくなるというのか、すぐに元に戻せばよかったんですけれども、それから赤字国債がどんどん膨らみまして、いま五百兆円以上ですか。

最初は一兆円ぐらいで済んだんです。この五百兆円以上という負債はいったいどうなるのか。子孫にツケが回るわけです。

アメリカも財政赤字で大変でしたけれども、クリントン大統領のときにそれらを全部解消して、黒字に脱皮できました。

その代わり、日本がこうなってしまったわけですから、アメリカと日本と交互にやっているような感じです。

それでも、超インフレが来れば貨幣価値が下がるものですから、財政赤字も一挙に解決できるわけですけれども、一説によりますと、一ドルが百円になったときに、「一ドル=一円」にして、アメリカと日本で共通の紙幣を発行しよう、という考えがあったらしいんです。

あくまでも、一説によりますと、ですよ。絶対やるとかということではありません。

そのときに、聖徳太子が引っ込み、福沢諭吉の一万円札が登場しました。

学閥に偏った政策ですよね。「何が、福沢諭吉なんだ。大隈重信が怒るじゃないか、新島襄はどうなるんだ」と(笑)。

そんな文句も言いたくなるんでしょうけれども、特定の学校に偏りすぎていますよね。慶応ばっかりが出てきて。

しかし、聖徳太子を引っ込めたのは、実は一ドル百円のときに、日本とアメリカの共通紙幣をつくって、片方が聖徳太子で片方が自由の女神にしよう、と。

日本の聖徳太子とアメリカの自由の女神が向き合っているような日米共通紙幣をつくって、一発で赤字解消をしようとしたんだという説もあります。

実際にはしませんでしたけれど、聖徳太子を引っ込めたのはそのためだという説があります。

ケインズ流の考え方にもドッジ流の考え方にも、それぞれ言い分はあるでしょう。景気をよくするためには、ある程度の財政支出も必要ですから。

しかし、あのオイルショックのとき以来、ダラダラと赤字を垂れ流してきたために、世界一の債務国になってしまったのですから、どこかで歯止めをかけなければいけません。

強い意志と決断力をもってやらないとダメなんです。それをせずに先送りばかりしていたら、いったいわれわれの子孫はどうなるのでしょうか。

一九七〇年代の試練で大きく脱皮した日本

しかし、考えてみたら一九七〇年代に二度のオイルショックに見舞われたこで、日本経済は強くなったんです。

あのとき、トイレットペーパー・パニックが起きて、家庭の主婦は大変な思いをしましたが、一番の被害を受けたのは石油産業でした。

石油化学工業がやられまして、たくさんの会社が潰れました。

しかしそのとき、「原油価格が高くなるから石油に頼ってはいけないんだ」ということで、重厚長大から軽薄短小への産業構造の転換へ向けて、国民が一丸となって取り組んだわけです。重くて厚く、長くてでかい産業から、軽くて薄く、短く小さい産業に転換しようとしたわけです。

それまでは日本の経済は鉄が中心でした。稲山嘉寛という新日鉄の社長が、「鉄は、日本の産業の米だから」と言いました。

それに対して、サントリーの佐治敬三さんはこう言いました。「鉄が産業の米というなら、ウォーター・ビ
ジネスはどうなるんだ」と。それを聞いた経済界のある大物が、「ウォータ・ビジネスって何だね?」と訪ねたら、佐治さんは、「水商売です」と(笑)。

ウォーター・ビジネス、水商売だ、と。確かに、ウイスキーやビールをつくっているサントリーは水商売かもしれませんが、「鉄だけじゃない。ウイスキーやビールだって日本経済の米なんだ」と言いたかったのでしょう。

それはともかく、「鉄は産業の米」と言われていた日本の産業構造が、オイルショック後の十年間で本当に変わったんです。

鉄鋼業とか石油産業とか、あるいは造船業のような重いものが軽くなり、分厚いものが薄くなり、長いものが短くなり、大きいものが小さくなりました。

そうやってエレクトロニクスの時代、ハイテクの時代、薄くて小さくて軽薄短小の時代を迎えたわけですけれど、そのきっかけとなったのがオイルショックです。

日本経済は一九七〇年代のオイルショックという大きな試練を乗り越えて、八〇年代のハイテク時代を迎えたわけです。

それからもう一つ大きな波がありました。それは「円高」です。

当時、一ドル百五十円を切ったら、日本国内で生産するよりも韓国や台湾など海外で生産したほうが安くつく、と言われていましたが、あのころのアメリカの円高攻勢はものすごかったんです。

二百何十円だったのが、あっという間に二百円を切り、百九十円、百八十円とどんどん上がっていき、ついには百五十円ラインにまで達してしまったのですから、輸出主体の企業の経営者の多くが震え上がったものです。

日米の経済摩擦は、繊維から始まりました。日本製の低価格繊維製品がアメリカ市場にドッと押し寄せたため、多くの企業が潰れました。

その次はカラーテレビですか。カラーテレビで日米摩擦が起こり、日本製のカラーテレビが目の敵にされました。そして、カラーテレビに続いて起こったのが自動車摩擦です。

高性能・低価格の日本車が相手では勝ち目がないということで、アメリカ政府は日本が自主規制をするようにプレッシャーをかけてきました。

それで、日本の各自動車メーカーは輸出を控えたんです。

本当はもっと売れるんですけれど、アメリカからの要求で自主規制をしましたので、二百万台前後。もうちょっと増えていますけれど、自主規制をしているからこうなんです。

四十パーセントぐらいは自主規制で輸出を控えているから、この数値なのです。

輸出を控えたらどうなるかというと、数が足りないものですから値段が上がるわけです。

アメリカでの需要より数が足りない分だけ値段が上がりますので、ますます売りにくくなる。

さらに円高ですから、コストが上がる。日本人が一生懸命努力していい製品をつくったのに、アメリカ人はそういう努力もせずに、政治的にプレッシャーをかけて自主規制をさせる。

さらには、金融のほうから締めつけて円高攻勢をかけ、日本がアメリカに勝てないようにする。「フェアだ、自由競争だ」と言うんですが、これほど汚い国はないと私は思うんです。

しかし、日本のやり方を真似たアメリカは本当に強くなりました。三菱重工の開発部長だった人を引き抜いて、いいとこ取りで日本のやり方を真似て、日本のいいところ、優れているところを組み合わせた。

それをやり始めてから本当にコストが下がり、性能が上がり、使い勝手がよくなって、次々と日本車が負けていった。

トヨタだけが一人勝ちですけれども、日産もマツダもみんな負け始めるようになったんです。

さて、円高の話に戻りますが、円高というのは日本経済にとってものすごく大きなショックでした。

オイルショックに次いで日本の経済の危機だったわけです。それをも乗り越えられたのはなぜか。要するに、ほかの国には真似できないような高性能の生産機械をつくったからです。

前述したように、オイルショックを契機に日本の産業界は軽薄短小に切り換わりました。さらに、工作機械とか製作機械などの技術の高い製品に転換していましたので、通常の消費財に頼らなくて済むようになっていったわけです。

生産財と消費財とに分けますと、消費財のほうは一ドル百五十円ではもう輪出ができない。

コストが合わないわけです。それで、労働賃金も安く通貨も安い韓国や台湾などのアジア諸国にシフトしていったのです。

コストを比較すると、日本国内で生産するより中国や東南アジアで生産したほうが圧倒的に安い。十分の一ぐらいだったので、日本のメーカーが相次いでアジアに出ていきました。

それでアジアの経済がうんと伸展していったわけです。

しかし、高度な技術を要する工作機械のほうは、どうしても日本の技術がなければやっていけないものですから、円建てにし、「このお値段でなければやっていけません」ということにして、それで円高を乗り越えたんです。

もう一つ乗り越えた方法は、産業の空洞化と言われるものです。要するに一ドル百五十円を切りますと、日本でつくるよりも海外で生産したほうがいい。

ということで、現地生産をし始めて、輸出産業の中心の自動車会社が次々と海外に出ていってしまって、日本の車の下請けがいなくなってしまって、空洞化してしまいました。これが「産業の空洞化」です。

日本がそうなる前にアメリカもそうだったわけです。ドルが高いときにはアメリカで生産してもコストが合わないので、安いところに出ていった。

アメリカも産業が空洞化したのです。それをまた日本にやらせようということで、それだけの深い悪知恵があって、円高攻勢を仕掛けてきたわけです。

しかし、オイルショックによって産業構造が軽薄短小化し、円高攻勢によってますます真似できないようなハイテクの高い次元を実現し得たわけで、実は日本は、一九七〇年代の試練のお陰で八〇年代で世界一になった。

そのように、十年で産業の構造も大きく転換しています。産業構造の転換も十年かかるのです。

逆に言いますと、日本経済は八〇年代に破竹の勢いで二つの試練を越えたわけです。オイルショックと円高ショックを乗り越えて、無敵の日本になった。

競争力も世界一。それから一人当たりのGDPも世界一になりました。

ところがその後、世の中の様子が変わってきて、日本経済はガタガタになってしまいました。

そもそもは政治不況から始まったわけなんですけれども、グローバリゼーションという大きな方向転換に日本の脱皮力がなくなりまして、九〇年代という十年間は、もう、「ああでもないわ、こうでもないわ」と、かみ合わせが悪かったんです。

しかし、その十年間の試練を「何クソーッ!」ということで乗り越えて、二〇一〇年までの十年間で挽回の素地をつくり、さらに二〇二〇年までの十年間で大きく発展し、世の中が大きく変わっていく。それは、いままでの歴史を見ても証明されています。

ですから、五年と五年で十年なんです。十年が三クールで三十年。そこで会社の寿命が尽きてしまう。

時代は十年単位で変化していく

男性も、オギャーと生まれて三十歳で一人前になって、三十歳から六十歳まで頑張ったら定年退職です。三十歳で男は一人前になります。

それまでの三十年は陰の三十年。三十歳から六十歳までは陽の三十年。育成の三十年と活動の三十年で、合わせて六十年。六十歳から九十歳まではおつり。

六十歳まで頑張った人には、おつりとして金利がつきます。だから、六十歳以降はすごく充実人生を送ることができます。

しかし、そういう人はごくわずかですね。最近、富士銀行の支店長さんにお会いしたんですけれど、その支店長さんは私と同じ歳なんです。

私は同志社大学の経済学部、その富士銀行の支店長さんは関西学院大学の商学部で、「えっ、同年輩だ」と。

だから、話がよく合うわけです。若いころ流行していたテレビ番組とか(笑)。

バレーボール部のキャプテンだったそうですが、驚きました、自分が歳を取ったことに(笑)。

それで、定年退職は六十歳と言われています。会社によっては、六十五歳のところもあるようですが、富士銀行では五十二歳になりますと、管理職は全員、転業をさせられるんだそうです。

出向で行くのではないんです。子会社に行くのでもない。子会社はもういっぱいだから、子会社の取締役になって出ていくのはごくわずかな一握りだけです。

では、普通の管理職は五十二歳になったらどこへ行くのかというと、富士銀行が融資しているどこかの関連会社です。

子会社ではないです。どこか融資先の企業に転業するんだそうです。だから、ほかの会社の社員になるわけなんです。

ということは、富士銀行の定年は実質、五十二歳ということです。六十歳まで勤め上げられる人はほとんどいない、と。

だから、「俺もあと数年で五十二歳だから、この数年の間に行き先を探さなければいけない」と、支店長が言っていました。

富士銀行は今度、興銀と第一勧銀と合併しますので、もっと厳しくなります。いまでも五十二歳で転業ですけれど、本当に厳しいものです。

私も、銀行にいたらあと数年で違う会社へ行かなければならないことになります。だから、六十歳まで働けるかといったら違うんです。

住宅ローンなんかがまだ残っている人は、銀行の管理職でも必死の思いで頑張らなければいけない。

しかしそれは、「多くの会社に貸し渋りをした祟りだ」と私は思うんですけどね(笑)。

そういうことで、十年というのが時代が変わっていく一つの単位です。

それは、時代の流れを大きな角度と小さな角度から見たら分かります。自分自身にとってもそうですし、自分の会社にとってもそうだ、と。

自分の会社を大きくしよう、発展させよう、あるいは新しい事業を始めようと思っても、すぐさま成果は出てこない。五年くらい経ってから成果が出てくるんです。

ですから、何か目標を立てるときには、三年から五年越しぐらいのスパンで考えなければいけません。

そうやって腰を入れてやっていくと、五年後ぐらいに成果が出てきて、会社が新しく脱皮をする。

そして、善きにつけ悪しきにつけ、十年でガラリと変わると考えていいのです。

「十年で物事が成就し、また「世の様も変わる」というのはそういうことですが、私たちは絶対にいいほうに変えなければいけないわけです。