初版時のまえがき
「般若心経」を学ぶと、つづいて「観音経」を知りたくなります。
「般若心経」で「空」の知恵に目ざめて、”人間が人間になる”教えを学びました。しかし、”般若の知恵”を身体で受けとめないかぎり、ともすると哲学的理解にとどまり、観念論になる危険があって、実行が伴わないきらいがあります。
そのときはわかったようでも、経典から目を放したとたんに、もとの木阿弥になってしまいがちです。加えて、思いもよらぬ災難にあったり、内からの欲望に振りまわされるのが現実の生活です。
そうなると、わかっていても、つい目先だけの幸福を追求することになります。といって、世間を離れて修行することは、実際には容易でありません。
かくして、どろどろの生活の中に、なんとかして安らぎを得たいとあせっているのが、私たちの現実の姿で、このあせりをなだめすかして現実的な欲望を尊厳な人間性自覚の願いにまで高めさせようと、手を代え品を代えて説きすすめられるのが「観音経」です。
「般若心経」における知恵の象徴の「観自在菩薩」が「観音経」では、慈悲の象徴の「観世音菩薩」と名を変え、”観音さま” の愛称で私たちと出会われるのです。そして、つねに私どもの辺になってくださるのです。
機械文明の極点に追いあげられ、干からびた物質生活を強要されている私たちが、ふとしさを感じたとき、心の奥底から「人間の原点の愚〟に帰りたい」との叫びを聞きます。
霊鷲山で「般若心経」を説き終えられた釈尊が、深い思索の後に「法華経」を説かれたのも、後世における人間のこの悲痛な声を観じられたからでしょう。
ここに釈尊は「般若経」とは打って変わって、多くの譬喩をつかって語られるのです。「般若心経」が「般若経」の真髄であるように、「観音経」は「法華経」のこころです。
釈尊は、人生の難関で、一心に観音の名を唱えるよう教えられますが、その観音さまこそ、実は、私たちのどろどろの煩悩の底に埋みこめられていた”尊厳な人間性” つまり、”もう一人の自分”にほかならないと教えられます。
観音さまとは、”称名する自分自身である” と最後に気づかしめられるのが「観音経」です。
現代の不安の中で安らぎの場を発見するために、「自己開発」をすすめる「観音経」を知る必要を感じて本書を書きましたが、ただ、一人でも多く「観音経」を誦もうとのお心が生まれるのを念ずるしだいです。
昭和四十七年七月
松原泰道
目次
第一部「観音経」とは、どんなお経か
(1)観音とは何か?
(2)今、あなたは幸福といえるか?
第二部「観音経」偈文598文字を読む
(1)今、何をなすべきか
(2)姿と心を調える
(3)火難…怒りについて
(4)水難…愛欲について
(5)成功と失敗
(6)盗難…煩悩とは
(7)刀・囚難…「解説」ということ
(8)人間らしさということ
(9)鬼難…怨みと中傷
(10)怒りと欲望
(11)風難…急ぐこと・焦ること
(12)「忍耐」の意味
(13)人間の業
(14)厳しいこと・美しいこと
(15)失意と悲しみのとき
(16)不安におそわれるとき
各ページ
観音経入門(VOL.1)
