観音経入門(Vol.2)

「妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈(観音経偈文)」全文


「観音経偈文」現代語訳

1…妙相をそなえたもう釈尊に私(無尽意菩薩)は重ねて問う尊い人間性を持った人間をなぜ観音さまという名でお呼びになるのですか?

2&3…釈尊はお答えになったよく聞くがよい観音の行をいつ・どこでもみんなの役に立とうと、海よりも深い久遠くおんの誓いのもとに無数のほとけにつかえて、この清らかな願いをたてたのだ

4…われ、おん身のために再び略して説こう観音のみ名を聞きなさいみすがたを拝みなさい、心に念じなさい、このようにして空しく過ごさなかったら、すべての苦から必ず解放される

5…害意を持たれて火の中に落とされても観音を念ずれば火の坑は池と変わる

6…大海に漂流して波風ははげしく荒れても観音を念ずれば波に溺れることもない

7…須弥の峯からおし落とされても観音を念ずれば宙に浮かぶ

8…金剛の山頂からつき落とされても観音を念ずれば怪我もしない

9…賊の白刃のふすまに囲まれても観音を念ずれば彼らの心も和らぐのである

10…暴政のために刑死しようとするとき観音を念ずるなら刀はにわかに折れて命は救われるのである

11…手かせ足かせの責苦せめくにあっても観音を念ずるときこの苦しみから脱しられる

12…ねたまれたり中傷されたりしてわが身が危機にさらされても観音を念ずるなら、怨みも憎しみもあとかたもなく消えてゆく

13…羅刹や竜や鬼たちに出会っても観音を念ずれば危害を受けずにすむ

14…猛獣にとり囲まれ危難にさらされても観音を念ずればおそれをなしていずくにか逃げ去る

15…毒蛇やまむしに襲われて火の舌を吐かれても観音を念ずれば念仏の声とともにすがたをかくす

16…雷鳴とどろき雨あられ降りしきるとも観音を念ずればただちに鎮まるのである

17…ひとびとよ災いにあい、苦悩に堪えかねても観音の知恵は必ず世間の苦を救う

18…(観世音は)神通力と広大な知恵の方便によってどこにでも在すからいつでも観音さまにめぐりあえるのである

19…さまざまな悪趣、地獄、餓鬼、畜生、さらに誕生、老衰、病い、そして死の苦しみは(観音を念ずれば)しだいに消えてゆく

20…清らかな眼慈しみの眼理性と知恵の明らかな眼あわれみの眼汚れなき眼は世この闇を照らす

21…汚れのない清らかな知恵は暗い心に光をともしすべての災いをふせぎ普く世間を明るく照らす

22…あわれみの体である戒は雷のごとく慈しみのこころは美しい雲にも似る教えの雨を降らせて悩みの火を鎮める

23…役所で諍訟じょうしょう(あらそい)する怖れ、戦陣の畏れにおののくとき、観音を念ずるなら、多くの仇や恐れはおさまる

24…妙なる音世を観ずる音浄き音潮のごとき、音世に勝れたるみ声かな

25…念ずるがよい、常に念ずるがよい、念じつづければ疑う余地はなくなる、観世音菩薩こそ苦悩のよるべである

26…すべてのよき働きを身にそなえて、もろびとを凝視した、もうしあわせは、海の如く無量である、この故につつしみて礼拝するがよい

(結語)そのとき、持地菩薩は釈尊にお礼を述べた。「ほとけよ、この観音自在の働きと神通力を聞く者は、その功徳はけっして少なくありません」と。

釈尊が、この法を説かれたとき、座にある者はみな、無上の菩提心を起こしたのである。

第一部「観音経」とは、どんなお経か

①観音とは何か? ~荒廃した現代人の心をいやす~
■「観音経」とは人間自覚のための経

観音は(観る音・観える音)とも〈音を観る〉とも読めます。観音(正しくは観世音薩)とは、この二つのはたらきのできる人間性の豊かさと深さの象徴で、ふつう考えられているような歴史的実在者ではありません。

〈音を観る〉については後でお話しいたします。ここでは、まず観る音・観える音〉のはたらきを考えましょう。テレビで音楽会を見ます。ほんとうは「視聴」するというのだそうです。音楽を聴くとともに視ているからです。音を視、音を聴くとは、やはり視る音、聴く音がそこにあるからでしょう。

視るも、観るも、ともにみるですが、視るを深めると観るになります。観るとは、辞典に〈心に思い浮かべて分別する・見えるさま・つかむ・おがむ〉とあります。

八木重吉さんに「ない日」という短詩があります。

幼ない日は
水がものいう日
木がそだてば
そだつひびきが
聞こえる日

私たちも幼少のころは、もの言わぬ石や草や木に語りかけました。きっと、生きていないものは何一つないと観えたのに違いないのです。だから、木のことばが聞こえたのです。ところが、大人になるにつれ、水や木に話しかけるのを忘れてしまいました。

そのころは、「木がそだてば、そだつひびきが聞こえる日」だったのです。聞こえるだけでなく観えたので部す。人間が原点にたてば、このはたらきは今でもできます。この「観音」のはたらきを身近の問題から、人間性の自覚にいたるまで説き深めたお経が「観音経」です。

このお経は、「爾時そのとき無尽意菩薩むじんにぼさつは立ち上がって服装を正し、手を合わせて釈尊に質問します。

「観世音菩薩という名を、どういう理由でおつけになるのですか」」というプロローグで始まります。

この問いに対する回答が「観音経」の内容です。それについて学習しますが、その前に、もしも私に「観音さまとは?」と同じ質問を出されたら、まことにおこがましいけれど、私は答えます。

観音さまは、素晴らしい音楽家の象徴です。…と。

宮城道雄「蟻の音さえ澄んでいる……」

なぜなら、観音とは「観る音」と読めると申しました。また「音を観る」とも読めます。ちょっと異様に感じますが、不思議ではありません。私たちが、音譜を読んだり見たりするのは、音を読んだり観たりしているので、観音さまだけの特技ではありません。

淡谷のり子さんが「音楽を教えてくれる先生はあったが、すべてのものがよい音をかなでていてくれると教えてくれた先生は、たった一人だった」と、随想で書いておられました。

すぐれた音楽家にとっては、楽器だけが楽器でなく、すべてが「楽器」なのです。

盲目の音楽家・宮城道雄氏も「澄みきった静かな日に、縁側に出て立っていると、人びとのうるさがるの舞い立つ音でも、何となく澄んでいるような気がする」といわれます(同氏著「水の変態」)。

また、「私は、すべてを声で判断する。婦人の美しさ、少女の純な心とかは、その声や言葉によっ感ずるわけである。声が美しく発音がきれいであると、話している間に、春の花の美しさとか、鳥の声をも想像するのである」(同書)

目は見えなくとも、宮城先生には、音や声を聞いて、美しい風光が見えてくるのです。

よい音や声や、美しい景色だけでなく、自然のたたずまいの中に人間の生きるよりどころとなる教えを、人びとの声の中に楽しみとともに悲しみや苦しみを、罪ある人の心中にも美しいものを観ることができたら、人生の大音楽家です。観音さまは、この大音楽家の象徴です。

「象徴」という理由は、観音さまは、偶像でもエリートでもなく、実は誰の心の奥底にうずみこめられている慈悲と知恵と勇気のはたらきにほかならないからです。

そんなに卑屈にならなくともよい、そんなに泣き悲しまなくともいい。あなたは、まだ気部がつかぬが、あなたには、こんな素晴らしいはたらきが宿されているのだ。既得のあらゆる第概念をすてて、あなた自身の原点にたち返ってごらん。あなたをあなたたらしめる尊い人間性を必ず自覚できるのだよと、あなたに内在する大きないのちが、あなたに呼びかけているのです。

その声が目のあたりに観えることを教えるのが「観音経」です。

「自己」はどこまでも「自己」であって、それ以外の何ものでもありません。だから、罪悪肩代わりしてもらったり、ただわけもなく抱かれるだけでは救われません。心のどん底から、「ああ、そうだった」との静かな爆発を意識して、はじめて救われるのです。自己を深自覚することが救いです。

この点を、多くの譬喩と例話の中に深く織りこんであるのが、「観音経」を含めての「法華経」(後述のように「観音経」は「法華経」の一部)の性格です。したがってふつうの読み方をしていると物足りないでしょう。それは、昔も多くの読者が同じ失望を感じています。字表だけでは真義はつかまえられないのです。

経の真理を二十七年目でさとった白隠禅師

白隠禅師(1768没、84歳)は、臨済禅を再興した高僧で、日蓮聖人より五世紀ほど後世の人です。

十六歳のとき、はじめて「法華経」を読んで思うに「「ただ一乗あり、諸法は寂滅じゃくめつなり(唯有一乗ゆいゆういちじょう、諸法寂滅)」の言葉以外は、譬喩と寓話ばかりだ。もしこの経に功徳があるのなら、謡曲や講談本にも功徳があるはずだ」と軽侮と疑惑の念を持ちます。

それから四年後、白隠は「禅関策進ぜんかんさくしん」という書物で、「慈明という坊さまが修行に努力して、眠くなると股に錐をさして目をさました」逸話を知り、自分はそれだけの努力もせずに「法華経」を批判したことを恥じます。

白隠が四十二歳の秋です。彼の傍らで一人の坊さまが「法華経」第二巻・第三章(品)の「譬喩品ひゆぼん」をんでいました。そのとき、たまたま石だたみの上で、一匹のコオロギの鳴く声が聞こえてきたのです。この声を聞いて、白隠の心中に深く閃くものがあったのです。

法華経」がほんとうにわかったのです。読めたのです。白穏だけが自覚した人生の真実です。どのように「法華経」がわかったか、どのような内容であるかは、それからの白隠の言動に展開されています。しかし、その時点での白隠の心境は、他からは窺い知れぬ絶対なものです。

古人は、この厳粛な絶対的な点を「耳鳴りを聞くようなものだ」と表現しています。耳鳴りは当人だけが知るので、他に発表の方法がありません。

とにかく、コオロギが無心に鳴く声を、ほとけの教えと聞けるところの、ほとけのこころ第が自分の心中に埋みこめられてあるのに気づき、今までの疑いが解けました。白隠は思わずうれし泣きに声をあげて泣きます。

法華経」は講談本のようなものだ」と「法華経」を投げ出してから実に二十七年目に、はじめてほんとうの意味で「法華経」にめぐりあえたのです。「この宇宙は、悉くわが所有である。その中に住む生命あるもの、みなわが子である」との釈尊の遠大にして、しかも心あたたまる教えが一つ一つわかったのです。

誰もが、いつ・どこでも、ほとけのいのちを抱くとともに抱かれている事実に、あるいは気づかせ、思い出させようとの、大きないのちの誓いと願いが的確に受けとれたのです。このときの心境を、白隠は次のようにうたいあげます。

衣やうすき
食やとぼしき
きりぎりす
聞きすてかねて
もる涙かな

法華経」とはこういうお経です。その第二十五品(章)が「観音経」です。「法華経」全巻を流れる構想が「観音経」に見られるのは当然です。この点を忘れて、現代的な知識だけをひけらかすと、真義はつかめないことを知っておく必要があります。

あなたは何のために生き、働いているのか?
ところで、あなたは観世音菩薩、つまり観音さまに、いままでにめぐりあわれたことがありますか?

聖観音しょうかんのん・如意輪観音・馬頭観音・准胝じゅんてい観音・不空羂索観音・十一面観音・千手観音の七観音をはじめ子育こそだて観音・子安こやす観音・悲母ひぼ観音・・などたくさんの観音さまが私たちの周囲にいらっしゃいます。

京都の三十三間堂(蓮華王院れんげおういん)には千一体の観音さまがまつられています。その中に必ず、自分の母親に似た観音さまがいらっしゃる、といわれます。幼時に母と死別した私は、母の顔を知らぬままに学生時代にいくたびも堂内をさ迷い歩いたものです。

しかし、「いや、修学旅行のときに、走り走り見たぐらいで、じっくりと観音さまの前第にたたずんだことなんかないねェ」

これが、多くの方の声かもしれません。

第一、あんな古いお像を見てもなんの役にも立たない。

第二に、この情報時代に観音さまに関心を呼ぶような情報を得たことがない。だから興味もないし無関心だ。

第三に、じっくり見たい気持ちがないではないが、何しろ忙しいから…といわれるでしょう。

ところであなたは、便利で精巧な新型のカラーテレビ・冷蔵庫・自動車・コンピュータ・流行の服(仏教用語でこうした物質的現象を“色”という)を持つ生活ができれば、それでいいと思いますか?経済成長は私たちをどこに導くか?と考えなくてもいいのですか?

また、情報がないから興味も関心もないといわれますが、現に、どこへ行っても観音堂を見うけるし、若い人たちの「観音霊場まいり」もなかなか盛んです。これは、私たちの祖先が観音さまに親しんできた証拠でしょう。

「いや、昔はともかく、科学の発達した現代では、その必要がない」と抗議されるでしょう。

しかし、科学的に解明できないものは、みな虚安だという傲慢さこそ、むしろ非科学的態度ではないでしょうか。

たしかに科学文明が低次だったころは、光化学スモッグも、PCBも、原爆も交通事故もありませんでした。山野は緑に包まれ、川や海の水は清澄せいちょうでした。それらを奪われた現代ほど「死」の恐怖を鮮烈に感じさせる時代はなかったでしょう。

さらに、忙しすぎて、ヒマがないのも、たしかに現代の生活様相です。心身ともにすり減らして働いたおかげで生活も豊かになり、欲求もある程度適えられました。しかし、不満は尽きません。ということは、満たされる以上に失ったほうが多かったからではないでしょうか。取り返しのつかぬものをなくしたからではないでしょうか。

としたら、あなたは何のために、誰のために生き、働いているのですか?

「心に化粧が済んだときの表情」
一度でも、観音さまと向かいあった方は、多くの観音さまが、微かなほほえみをたたえて部いらっしゃったことをご記憶でしょう。

この微笑を”アルカイック・スマイル”(古拙こせつの微笑。技巧はまずいが、ほとけのこころがよく表されている深いほほえみ)といいます。

亀井勝一郎氏は”衝突寸前の微笑、苦しみに耐えたほほえみ”といっていますが、このほほえみの起源はこうです。

その日も釈尊の説法を聞くために、弟子たちが霊鷲山りょうじゅせんの山頂に集まりました。しかし、釈尊は何もおっしゃらないのです。

やがて、その中の一人が一本の花を差し出すと、釈尊はその花を受け取って、黙ってほほえんでその花をみんなに見せられた。

「…?」

どういう意味か、理解できないでいると、マカカショウという弟子だけが黙ってほほえみました。

このとき、はじめて釈尊が口を開いて、「わたしの世界の見方、人生の極意、すがたと影のふしぎな道理、文字に書けない心の教えを、このマカカショウに授ける」(「無門関」第六・魚返善雄訳)と言われました。

この微笑が禅の伝承にもつながります。むずかしいことはともかく、筆舌につくせない人生の真実の伝承にあたり「ほほえみ」と「一輪の花」が登場したことは記憶していいことです。

このほほえみを観音さまも浮かべていらっしゃるのです。

朝日新聞がかつて社説で、「一週間に一日、ほほえみの日を持とう」と説きすすめたことがあります。それは、無意味な、あるいは卑屈なほほえみでなく、”心に化粧が済んだときの表情”だとあります。

私はこの言葉が好きですが、仏教では「微笑」を”みしょう”と読みます。

観音とはあなた自身のことである
このほほえみの意味を少し考えてみましょう。

親が子どものいたずらをするのを見て、まあこの子はしかたがないね”といいながら、子どもの成長を喜びながら涙をポロッとこぼします。

また、子どもがお菓子をもっと欲しいとねだってむずかります。親も、もっと与えてやりたいと思いながらも、これ以上はお腹をこわすからやれない。しかし、子どもに説明してもわからない。与えるのも愛情だが、与えないのは、なお大きな愛情です。

無邪気に泣きわめく子をみると、親も苦しい、やるせない……。いつになったら親の心がわかってくれるの第だろうか、早くわかってほしいという切ない願いが、このほほえみに象徴されています。

「人間は必ず死ぬ、いくら“死なないようにしてくれと頼まれても、それだけは無理だ。しかし、その苦しみからあなたを必ず私は救おう。それが私の誓いだ。それが果たせるまで、私もあなたといっしょにこの苦悩をともにして、耐えようではないか……」といまにも泣き出しそうなほほえみが、観音さまのほほえみです。

このほほえみは、あなたが観音さまと相対したとき、あなた自身の中に、あなた自身も気づかないで持っている”ほほえみ”なのです。

そして、このほほえみにかぎらず、さまざまの観音さまのお姿こそ、あなたが気づくべき真実のあなたのすがたなのです。観音さまとは、そういう存在なのです。

観音さまは、偶像ではありません。観音さまのお姿を崇拝しただけで、必ずしも財布の中味がふえるというわけにはいきません。

こう申しますと、観音さまを信仰している方は反論されるでしょう。

「観音経」を誦むと無尽意菩薩の質問に、釈尊はこう答えているではないか。

「あなたがいろいろな苦悩を受けたとき、この観世音菩薩の名を聞いて、一心にその名を唱えると、観世音菩薩は、すぐその音声をききわけて、みんな解脱させてくださる」と。

善男子ぜんなんし若有無量百千万億衆生受諸苦悩にゃくうむりようひやくせんまんおくしゅじょうじゅしょくのう聞是観世音菩薩もんぜかんぜおんぼさつ一心称名観世音菩薩いつしんしょうみようかんぜおんぼさつ即時観其音声皆得解脱そくじかんじょうおんじようかいとくげだつ

これを、現世利得といいますが、たしかに観音さまが、私たちの祖先に親しまれてきたのは、この現世利得、丈夫な赤ちゃんが欲しい”と願えば、ただちにそれが叶えられたり、不治の病といわれ、「観音経」を唱えて多くの祖先が救けていただいたからです。

しかし、ここで考えなければならないことがあります。それは現実の幸福は、たしかに望ましい。しかし、自分だけの幸福でよいのでしょうか。また、現在の災難から早く逃れたい。けれども、人間である限り必ず体験しなければならぬ心の苦悩を放っておいてよいのでしょうか?

男女の性〟を超えた象徴的存在

しかし、それを深く考える前に、とにかく、私たちのまわりには、あなた自身のすがたともいうべき観音さまがたくさんいらっしゃるのですから、一度、会いに行かれたらどうですか?

すると、あなたはきっと観音さまから何かを発見されるでしょう。”しかたがないねえ… それでは私もいっしょに悩みましょう”という例のほほえみだけではありません。

釈尊の時代にはカセット・テープなどないのですから、あなたに教えたい、あなたに伝えたい人生のありかたを、さまざまの“ブロック・サイン。-身体と、持ち物で知らせよう、学ばせようとしていらっしゃるのです。

情報がないから興味が湧かない、といわれますが、実は、あなたがこのサインを見落としているのです。

まず、多くの観音さまは、やさしいほほえみを浮かべていらっしゃって、その点は女性的だが、いったい、女性なのだろうか、男性なのだろうかという素朴な疑問が起こります。岡本かの子さんもいわれます。

「もし、仏教から代表美人を選んで、他教と競技させる催しでもあったら、ミス仏教となって選手に出られるのは、おそらく、この観音さまでしょう」(同氏著「観音経」)と。

岡本かの子さんは、観音さまを“女性だ”と決めていっているわけではありません。ご自身が女性であるから、「私はその表象として、普通は女性の姿であってほしいのです。女の臭みのない女性の姿として、観世音菩薩を見たいと望みます」と、”望まれている”のです。

もともと観音さまは男性でも女性でもなく、たとえば、馬頭観音のように、はっきり男性となっている場合は別として、偶像でないから、両性に通ずる“通”であるとともに、男女を超える超性です。

ですから、岡本かの子さんが“女性であってほしいと願う場合は、まさに女性ですし、観音さまは男性であってほしいと願えば男性なのです。

すでに述べたように観音さまはあなた自身である、つまり鏡に自分を映すように映るのですから通性。もちろん、男性が恋する女性の姿をそこに見れば、観音さまは”恋しい女性”でしょう。

それにしても、どうも、観音さまが女性のように見えるというのは、本来、観音さまは、知恵と慈悲と勇気この三つの徳の象徴ですが、誰の眼にも慈悲がいちばん強く感じられるので、観音さまが女性として受けとられるのでしょう。「般若心経」の場合は、同じ観音さまを、観自在菩薩と訳して、知性が表にれたから、観世音菩薩とは逆に、男性的な感じが強くなったのと同じです。

汚ない左手と仏陀の右手合掌の意味

さきほどブロック・サインと申しましたが、観音さまは、ときには手と指先で、ときには持ちものによって、いろいろと教えを説いておられるのです。

ブロック・サインとは「戒・定・慧」をミックスし、ブロックした指示です。

「戒・定・慧」は「三学」といって、仏道を学ぶ人は、必ず修業しなくてはならない本の柱です。「戒」は、いましめつつしみで、悪は避けねばならぬ、善はしなければならぬという当為ソルレンです。

「定」は、散乱する心を静めることです。「慧は、すべての存在の根源を空であるとわかる知恵(知識ではありません)です。

この三学を、手や指のポーズで示されるのを「印」といい、持ち物によるサインを「笑」といい、あわせて「契印」とも「印」ともいいます。この印と契印とを合わせたブロック・サインを「印相」と申します。

この数あるサインの中で、いちばん多いのが施無畏せむいの印で、右手を胸のあたりにおかれた姿です。

「施無畏」とは、畏れなきを施すということで、「わかった!もう大丈夫だ。こわがらなくてもいい」といっていらっしゃるのです。

この無畏の印は、ふつう与願よがんの印左手を下にさしのべている形と組み合わさっている場合が多いのです。

「与願」は、願っているものを与える、“みんなが求めている願いを聞いて施し与えるという意味ですから、両手のサインを合わせると、「さあ、恐れずに行きなさい。あなたが求めているところのものは、きっと得られますよ」となります。

このように、観音さまはヒットエンドランのサインや、カーブのサインを出していらっしゃるのです。それを読み違えたり、見逃がしたり、ときにはサインをまったく無視し、勝手な行動をして、自分を不幸にしているのではないでしょうか。

観音さまに限らず、多くのお仏像のサインが合掌です。

先日もある会場で、高田好胤たかだこういん先生は、子どもにもわかるように、右手と左手のいかを合わせるからしあわせ幸せになるのだと当意即妙に説明していらっしゃいました。そのとおりです。

インドでは、左の手は不浄の手とされています。この間、インドに行ったときも驚いたのですが、あちらでは、左手をトイレットペーパーの代わりに使う。そうして、用がすむと、右手で水筒を持って、この左手を洗い清めるのです。

だから、左手で人に物を与えると失礼にあたるのです。そういうところから、左手は一般に汚ないもの、卑しいもの、転じて、穀の凡夫、悩んでいるふつうの人間の象徴とされています。

この左手を清める右手が仏陀、ほとけを象徴することになり、この左右の手が合わさるところに”理想”をみているのです。

価値のあるものとないものが合わされる西洋哲学でいう“止揚です。いもの、悪いもの、無価値なものの中に、美しいもの、善なるもの、価値あるものをみつけよ、というのが合掌”の印なのです。

印と契ブロックサインについては、第二部で詳述しますので、ここではくわしく触れません。とにかく、こうした印、契-ブロック・サインの組合わせの中から、私たちは教えを読みとっていくわけです。

願いを叶えるのはあなた自身だ
ところで、ブロック・サインを出していらっしゃる千手観音さまも、中心の両手に合〟の形をとっているように、このケースがひじょうに多いのです。

とかく仏像は人間から拝まれるだけの存在と思われがちです。しかるに、お仏像もまた人間の私たちに手を合わせておられるのです。

要するに、私たちは観音さまを手を合わせて拝みます。 観音さまもまた、私たちを手を合 わせて拝んでくださるのです。拝むとは、拝まれている事実を実感することです。

私たちは、観音さまに自分の苦しみや悩みを打ち明け、どうか救けてくださいとお願い します。

すると、観音さまも、「私が拝んでいる尊い人間よ、あなたは罪が多いとか、凡夫だとか、いろんな苦しみを訴え るが、あなたの中にも、ピカッと光るものが私には見える。どうか、あなたの中のもうひと りのピカッと光るあなた自身に気づいてほしい。わかってほしい。頼みますよ」と手を 合わせてくださるのです。

そして、釈尊が弟子のマカカショウと一輪の花をはさんで、無言のほほえみを交わしたあと、「いま、あなたに、口でいうこともできない人生の真実を伝えた」といったのと同じよう に、観音さまも、黙って、ほほえんで、私たちに、同じことを伝えられるのです。

「あなたの願いを叶えるのはあなた自身の心ですよ」と。そして、「あなた自身の中に私 (観音)がいるのですよ」と。

花・供養・回向は生者のためにある

もうひとつ、観音さまが私たちを拝んでいらっしゃる証拠をあげておきましょう。

私たちは観音さまやご先祖に花を供えるとき、花の正面をどちらに向けますか。たんなるプレゼントなら、花は向こうに向けるべきでしょう。しかるに、実際は美しい正面を私たちのほうに向けるのには、何かの理由がなければなりません(本来は、どこにも在す諸仏に供えるために、花を表裏のないように円周に活けて供えるのです)。

よく見かける花輪にしても、故人や仏さまを背にして、こちら向きではありませんか。このことから、仏教が偶像崇拝ではなく、生きている凡人の私たちが尊崇されているのがわかります。

「供養」という言葉があります。供給と”という仏教語が二字に勧められてできた言葉で、供給はお給仕です。資養とは“元手”とか“助ける”という意味です。ですから、仏に、お給仕することが、私たちの心の成長になるという意味なのです。

また、「回向する」といいますが、百八十度、方向を回ることです。たとえば、子どもが隣家でお菓子をもらって帰って来たとします。子どもは、このことを両親に報告するとともに、父母にも食べないかとすすめるでしょう。

しかし、親は「いいから、おまえ、おあがり」と自分に向けられたお菓子を、ぐるっと百八十度まわして、子どものほうに回します。これが回向です。花を献ずるのも同じ道理です。“さとった私はいいから、死んだ私はいいから、生きて悩んでいるあなた方こそどうぞと、その花をこちらに向けてくださるのです。花を供養した私たちが、仏に花を供養されているのです。

「契」の一つに「蓮華」というのがありますが、それがこちらを向いているのも、「泥の中にあっても、この花のように試練に耐えて、美しい花をつけてくれよ、わかりまし「たね」という教えです。

「観音の名をとなえれば、観音さまはこの声をすぐ聞きとどけて、解脱させてくださる」のは、まず、観音さまに出会った瞬間に、こうした一方通行ではないコミュニケーションが成立するということです。

そして、こうした“即時性”なり“同時性”が「観音経」の“現世利得”の根底にあることがおわかりいただけたと思います

私たちは今日という時代に生きていながら、仏教思想が生んだ「観音経」のこころを、いいかえれば私たちの師であり、友であるものを文明という名のもとに、あとかたもなく忘れむざむざと失っていいほど、いまの私たちは苦悩もなく、幸福に充されていると断言できるでしょうか?

カミュ「自殺か、それとも再起か?」

「ふと、舞台装置が崩壊することがある」

フランスの作家、故A・カミュが「シジフォスの神話」という作品の中でこういうことをいっています。

「朝起きて、会社にいって仕事をする。帰って来て、食事をして寝る。同じリズムで流れていく日月火水木金土… 人間というものは、こういう道をたいていのときはすらすらとたどっている。

ところがある日なぜ?”という問いが頭をもたげる。すると、驚きの色に染められたこの倦怠の中ですべてがはじまる。

すべてがはじまる… これが重大なのだ」(新潮文庫「シジフォスの神話」清水徹訳)

たしかに、私たちがよく経験するところです。

毎日、一生けんめい、キチン、キチンと働いている。ところが、ある日、フトこれが人生というものだろうか?生きるとはこういうことだったのだろうか?という疑問が頭をよぎります。

それはまじめに規則正しく生きている人ほど多くある“フト”でしょう。

それをカミュは”意識のめざめ”“意識の運動の端緒といっていますが、こうしたとき、私たちは、そのフト気づいたことを「ああ、こんなもんだろう」と忘れて、もとの気づく前の生活に帰っていくか、あるいは、“フト”を大切にして、改めて人生について考えはじめるかのどちらかでしょう。

ところが、いまの私たちはどうでしょう。

戦後のあの荒廃の中から、一生けんめいに働いて、今日の、世界に誇ることができるような物質の豊かな社会をきずいてきました。

それ自体は、とても素晴らしいことです。しかし、その一方で、何か取り返しのつかぬ大切なものを失ってきたのではないか?

それはいまさら私がいうまでもなく、日本人のひとりひとりが考えていることでしょう。

「何のための豊かさか?」といううめきを、最近よく聞きます。

いったい、私たちは一生けんめい働いてきたけれど、得たかったものとは、こんな世の中だったのでしょうか?いまの日本では、こうした私たちをとりまいている事情を考えるだけでも、カミュのいう“なぜ?”という疑問を持たざるをえないでしょう。

それなら、いったい、これからどうすればいいのか?

「自殺か、それとも再起か?」とカミュは私たちに問いかけます。いうまでもなく、私たちは“再起”しなければならないのです。それには、人間の「ふり「だし」にもどって考えなおさなければならないでしょう。

花(現実)と実(理想)の調和
「そのとき、無尽意菩薩は座より起ちて、右の肩を組ぬぎ、合掌して仏に問うた」

無尽意菩薩の無尽意というのは尽きることのない意志を持つ人”という意味です。私たちがいまから考えなおしてみよう、とするときに、ちょうどいい人が立ち上がってくださったのです。

ここからはじまる「観世音菩薩普門品第二十五」というのは「法華経」の中に入っています。「法華経」というのは“サッダルマ・プンダリーカ・スートラ(Saddharma pundarika_Sutra)という原典からクモラジュウが漢訳したもので、正確には「妙法蓮華経」といいます。

“妙法”は形容詞で最上の経義という意味で、蓮華〟はハスの花で、この場合、白蓮です。

“蓮華”はブロック・サインの中の契〟の一つだと先に申しましたが、観音さまがよく手にしていらっしゃる花です。

なぜ、白蓮がとりあげられたかといいますと、泥の中から美しく咲くということと同時に、もっと大切なことは、花の命はみじかくて…”というように、花はやがてほろびるものですが、この白蓮は美しい花を咲かせていると同時に、この中に実を宿しているのです。

つまり、美しい花びらを現象、うつつなものだとすると、それと同じに実”、つまり”実在”をそなえている花です。このことを法華経では諸法実相〟(現象の背後にある実第在)といって、この実在を把握するのを人生の究極の目的にしているのです。

たとえば、私たちが公害問題を話すときに、いろいろ議論を重ねていくと、必ず“理想” と“現実”の矛盾にぶつかります。

「自動車はとにかくやめてしまえばよい」「そうしたら、毎朝、食べる野菜はどうやって畑から台所まで運んでくるんだ?」――こうした矛盾が、台所から哲学の問題にまで、いつもつきまといます。

こまかくいえば、白蓮の美しい花びらは“諸法〟私たちの舌や耳、眼が感じるさまざまな現象のことをいい、“実相”とは、そうした現象の根本、つまり、花の中にあるので、直接見ることはできないけれども、必ず有る実”のようなものです。この実を蒔けば、ま花を咲かすように、けっして滅びないもの、つまり“実在〟のことをいいます。

この諸法”と“実在”“現実”と“理想”を白蓮の花のようにひとつに調和させることができれば、私たちの人生は素晴らしいものになることはいうまでもありません。それが、こうすればできる、と説いたのが「妙法蓮華経」という経典なのです。

私は、安積得也あづみとくや氏の詩、

はきだめにえんど豆咲き
泥池から蓮の花が育つ
人みなに美しき種子あり
明日は何が咲くか

が好きです。はきだめや、泥池という現実の実相の中に、汚れない清浄の真実が宿されているのです。それが「蓮華」で象徴される妙法です。

般若心経は知性、観音経は情的面に訴える

釈尊がさとりを開かれてから、まず、「華厳経」を、ついで、「阿含経」、「方等経」、「般若経」と説かれ、最後に「法華経」「涅槃経」を説かれたということになっております。

人間が徐々に成熟していくのを常とするなら、最終的な「法華経」がいちばん素晴らしいともいえますが、私は、お経に優劣があるとは思いません。

最初に説かれたという「華厳経」には、さとりを開かれた直後の若々しい理想にみちた素部晴らしさを感じますし、それが、少々、理論に走りすぎた難解さを反省して、今度はぐっとくだけて、実生活上のエピソードをまじえながら、わかりやすく説いたのが「阿含経」というふうにも理解できるのです。

「般若心経」の母体は、仏教の経典の最長編である「大般若経」ですが、この経典はまたこれで、その簡潔さ、明晰さ、深さでは類を見ません。

最後に説かれた「法華経」は二十八品(章)からなっていますが、その中でも第二十五品〟の「観世音菩薩普門品(観音経)」は「般若心経」でしぼりにしぼった仏陀の教えの精髄を、今度はその精神をつかみやすくするために、人間の情念に触れるような形で説き起こされたものといえるでしょう。

「こんな虚しい毎日であっていいだろうか」「スモッグを早くなんとかしなければ…………」

こんなとき、私たちは、まず、どうすればいいかを考え、行動をはじめますが、その場合、「これではいけない」という知的な働きと「いやだなァ」という情的な働きとがあります。

このどちらが欠けても、いい結論は出ないでしょう。強いていうならば「観音経」は「般若心経」にくらべると、この情的の面にスポットを当てた教えといえます。

観音の理念は「慈悲」と「知恵」
「それはこうなのだ。誰でもいろんな苦悩を覚えたとき、観世音菩薩の名を一心に唱えたら、観世音は、それを聴きわけて、みんなを解脱させられるのだ」

無尽意菩薩が“どういうわけで観世音菩薩という名がつけられたのですか?”と聞いたのに対して釈尊の答えが、これでした。観音さまの特徴がここにあります。

“観世音〟とは、世の音を観るということですが、この世とは、仏教では、花の咲くのも、虫が鳴くのも、木の葉が散るのも、すべて、自然が説法をしているというくらい広い“世〟です。自然を含めて、人間の声、あるいは声にならない声を観る菩薩ということになります。

さて、ここまでは“観音さま”とあたかも人間に対するかのように話してまいりましたが、観音さまは実在された人ではありませんから、語感がだいぶ異なります。

菩薩とは、原語ではボーサーといい、その音訳が「菩薩」で、「道を求める人」のことです。音訳の「菩」は“小さな敷物”、「薩」は“努力する人”ということです。ですから菩薩とは“小さな場にあって努力する人”ということです。

その人間がしなければならない“たゆみなく努力をする”という概念を、わかりやすいように菩薩という象徴的な人格で表わされたものです。観音さまは実在の人物でも、偶像でもありません。ただ私たちの目に見えるようにさとりのすがたと、さとりへの努力を、表象されたのです。

私たちが、大切なものを忘れそうになったとき、目に見える“像”にして親し教えと方法を考え出した先人の知恵と慈悲は実に素晴らしいではありませんか。

この古人の教えのままに、本書でも素直に“観音さま〟と、隣人のように呼びかけてまいりますが、この点をよく確認してください。

観音経を通じていちばん大切なのは、観音さまにお会いして、自分がいま、何をしなければならないかという教えを読みとることです。私たちの苦悩を聞いてすぐ、心に安らぎを与えるために、観音さまはいつも、私たちのそばにいてくださいます。この経のはじめに「是の観世音菩薩を聞けば」(聞是観世音菩薩)とあります。

それは”何か”を考え、解決への行動を起こすきっかけを作ってくださる、つまり、まず、“観音さまに出会うことからはじまる”ということです。

もう一度、突っ込んでいいますと“何でもじっくり考える時間を持つ、ということでしょう。よく聞いてくださる”“いつもさとりを開かそうと努力される”観音菩薩と会って対話してみること。そして、その対話は“観音さまはあなた自身ですから、自分で考えてみることになり、観音さまに会うということは、自分で

そこから、西国巡礼など、日常生活を離れ、放浪の旅路で考え、山水と語って苦悩に同化しながら、人生を豊かにする生き方を古人は考えついたと思われます。

「どうも、いまの会社はおもしろくないなァ。いまの生活はつまらないなァ」といった声を私はよく耳にします。

それなら、どうしたらいいか。観音さまにめぐりあって考えてみるために、一週間なり二週間の休暇を取って、一度、西国、坂東(関東)、秩父など、いずれかの地に巡礼の旅をしてみたら、どうでしょう?

そんな休暇がとれないほど、あなたが仕事に情熱を感じていたり、“休まれては困る”といわれるほど大切にされているなら、愚痴も出ないでしょう。かりに休暇がとれて、巡礼から帰ってきたとき、まだ、仕事がしたくなかったり、上役から”もっと休んでもいいよ”という顔をされるようなら、観音さまにめぐりあう―つまり、真実の自己に対面できるまで、さらに遍歴の旅を続けたほうがいいかもしれません。

乱暴ないい方ですが、やさしいばかりが観音さまではありません。

今、あなたは幸福といえるか?

“現世利得”とは、一心になることの結果だ

「どんな苦悩でも…………」と観音さまはいわれます。「観世音菩薩普門品」の、普門〟は“どこからでも出入りができる”ということです。

よく扉を両方にパッと開けている形を“観音開き”といいますが、もとは、観音像をまつる厨子の造り方に学んだのです。両扉を開けば、あけっぴろげで、どこからでも出入りできます。禅の「無門」に通じます。建造物の門だけが門ではありません。私たちには五官のほかに八万四千の「毛穴」があるといわれますが、それも門です。

また、門は入るために必要であるだけでなく、出るためにも必要です。入門とともに出門の作法を学ぶのも大切です。教えを求めるとともに、門を出て、人を救うことも大切です。

この点、観音さまは、あけっぴろげです。観音さまのお像をごらんなさい。観音さまはネックレスをしたり、イヤリングをしたりしておられます。ときには、赤ちゃんを抱いておられます。

また、たくさんのブロック・サインを出すために六本、八本、多くは千本もの手を持つスタイルになったりしています。

観音さまの基本的なスタイルというか、いろんな悩みに合わせて、よく七観音とか百観音という「変化の観音さま」がいらっしゃいます。この点についてはあとでくわしくご紹介します。

私たちが人間である限り遭遇する内外の災難があります。外部から受けるいわゆる外難を“七難”といい、人間の内部から起きて人間を苦しめる心の病いを“三毒”といいます。ま内外両面からの欲求を「二求」と名づけます。観音さまは、この内外の災難から守るとともに、内外からの二求も適えてくださるのです。

実際に“南無観世音菩薩”と心にお名を唱えて多くの苦境から救われたエピソードは数多く伝えられていますし、現代でもその喜びを体験された人はたくさんあります。

そして、このエピソードから学ぶことはただ、ひたすらに“一心になる”熱意と実行の決意だと思います。熱意と実行は、どん7日でも大切な資力”です。

また、科学文明が進歩すればするほど、不明なこと、解決できないことがたくさんあることがかえってはっきりしてきました。この科学の死角に立たされたとき、人間が精神力を集中して心になる”ことによって、問題を解決できることも私たちは経験してきました。さて、「七難」「三毒」は後章にゆずって、ここでは「二求」についてだけ考えてみましょう。

「二求」とは人間を救う愛・師友の希求
二求は、経典の語感では“男の子が欲しい”“女の子が欲しい”との男女の子どもを求め風に受けとれます。しかし、男性が女性を求め、女性が男性を求める願いに広めても少しも不思議はありません。むしろ、そのほうがいいと思います。

しかも、水難”(七難の一つ)や“痴”(三毒の一つ)の色欲とつながらないのは、この二求〟の奥を“よい男の子が欲しい”“よい女の子が欲しい”という自然な気持ちがささえているからです。かわいい子どもが欲しいから、よき男女を求め合う、そういう人間の純粋な願いです。

さらに、よい人生の師を求める、よい友を求める、これも二求として、観音さまはお手伝いしようとされます。

こうした七難、三毒、二求と、私たちが人生で必ず出会う大災難や希望に、観音さまが手を差しのべていらっしゃる。ですから、人生の大切なところにさしかかったとき、あなたのほうから観音さまに出会ってごらんなさいとおすすめするのです。

そのひとつが、これまでもたびたび出てきた観音さまの”ほほえみ”です。

このごろ、若い人たちの間で“スマイル・バッジ〟が流行しています。それもよく目につくところに貼ったり、身につけたりしていますが、理由もなく流行しているということは、いまの時代に“ほほえみ”が必要なことを無意識のうちに、みんなが考えているからでしょう。知らぬうちに、観音さまのサインを読みこなし、そのとおりに実行しているのです。ほほえましい流行です。

「慈悲」とは裏切られても深まる「愛」


この“ほほえみ”を基本にして、考える核になると教えている”慈悲”と“知恵”と“勇第気”――この中で、情動を重んじる観世音菩薩がいちばんの要素としているのが慈悲です。

觀世音音を観ずる大いなる人間性の場合、音は“現在”です。昨日の音、明日の3 音というのはありません。音はたった今です。たった今なる音を観ずる、ということは、現在を知ること、そして音はきれいな音もきたない音も、あるがままに聞こえます。ですから、あるがままの現在、それを知ること、それを十分に認識して現在を生きるのです。

どう生きるか。知恵と勇気とそして、大いなる”慈悲〟を持って生きるのです。

慈悲の”とは友情、この友情は特定の友のものではありません。また人間だけとも限りません。私たちをとりまく自然のすべて、鳥や魚にいたるまで、みんな友だちです。同じ空気を吸い、同じ水を飲む仲間たちだ、と実感するのが「慈」です。

“はうめき・痛み。友の痛みやうめきを、自分のものとして受けとる心、人の苦しみを自分の苦しみとして受けとる心です。大自然の喜びや悲しみを、自分のそれとして受けとれるのが「もののあわれ」です。悲です。

ちょっと愛(LOVE)に似ています。しかし裏切られると憎しみに変わるような愛でなく、裏切られれば、裏切られるほど相手をいとおしまずにはおれない、大きくて深い“愛”です。

つまり、七難、三毒、二求に出会うとき、知恵と勇気と、そして、この慈悲をもって、人間らしい道を生きていきなさいというのが観音さまの教えです。

そうして、観音さまは、あなたが今、そこにいるように、会いたいと思えば、すぐ会えるように、私たちのすぐ身近に、私たち自身のなかに、さまざまなすがた形をして私たちと、ともにいらっしゃるのです。

それが、百観音といわれるくらい、およそ人の心の姿のパターンを全部集めたような多種多様のポーズをとって、私たちに出会ってくださるのです。

七観音でほとんどの観音が説明できる
「観世音の身長は八十万億那由他由旬なゆたゆじゅん(数の単位・無限のこと)、身に紫金色。頂には肉、けいうなじには円光があり、面は各々百千由旬。円光の中には釈迦牟尼仏の如き姿の五百の化仏がましまし・・・・・・」(「観無量寿経=観音像講和」逸見梅栄著)

とは、聖観世音菩薩を彫ったり、描いたりするときの規範をしめすものです。また、観音さまの前にたたずむ人々の中にはいろいろな事情を持った人もいるわけです。

だから、その事情を知り尽くして対話するには、コンピュータのようにならなければなら部ないわけです。千手千眼の観音像などに、その無数の救いが象徴されています。ここでは、そのすべてをご紹介するわけにはいきませんので、「七観音」といわれる七人の観音さまについてだけ書きます。

七といえば無数を表わすわけですから、七観音で無数の観音さまを紹 38 介することになるからです。

しょう(正)観音… 一般に観音さまといえば、この聖観音のことで、いうなれば、もっとも基本のおすがたです。私たちと同じ人間そのままのすがた形で、二本の手と、二本の脚をお持ちです。基本的な原形は、どんな形にも変化できるわけですから、観音さまの融通無礙、あけっぴろげで、さまたげがない人格を象徴しているといえるでしょう。

ときには白蓮などを持っておられますが、印の場合が多く、いちばんサインの読みとりやすい観音さまです。

②千手観音… 正確には千手千眼観世音といい、千という数字はやはり無数無量ということを表わしていて、文字どおり、たくさんの手を持っておられ、聖観音と同じで、特定のレパートリー(特定のお得意)はありません。

私たちは、そのたくさんの契やの中から、自分の「願い」と対話すればいいわけです。古い文献には、「内には八万の心を滅し、外には四百四病を除く。誓って我名を三たびとなれば、万願成就せしむ。施無畏の徳を得、有縁の衆生を導き、女身を厭えば男子となる・・・・・・」とありますから、恋の願いから、赤ちゃんの産みわけまで聞きとどけてくださることになっています。

無数の指先には、一つ一つお目があります。それは「見ること」、観察と実行の大切さをうたわれます。また干の手のうち、いちばん大きな手が、大体、合掌をしていらっしゃいます。

③十一面観音… 文字どおり、十一のお顔を持っていらっしゃる観音さまです。ひとつの大きなお顔の上にも、まわりにも、小さなさまざまな表情をしたお顔が十一面あります。

そのお顔の一つ一つがブロック・サインを出していらっしゃるというわけですが、一般には、この世のあらゆるものの道理をわきまえないところから出てくる愚痴を断とうとの願いの象徴といわれます。

十一面のサインの中には、七難を封じるサインがありますが、坂東三十三カ所には、手のサインの中で“軍持手〟というのが多いようです。軍持とはサンスクリット語で”瓶”のことです。瓶は水を入れるもの。つまり瓶を満たすように、あらゆる欲望を満たしてあげようというサインです。しかし、一方の手にはだいたい、数珠を持っておられます。このサインは煩悩を断ち切るサインです。

「その望みを叶えるのはいいけれども、過ぎたるはおよばざるが如し・・・・・・ほどほどにしておきなさいよ」とでもいっているのでしょう。

④馬頭観音… この観音さまは、お不動さまのような怖ろしい顔をしていらっしゃる。どうして、馬頭観音だけが忿怒の形相をされているのか?世の中にはやさしい顔ばかりしていると、その意味を少しも汲んでくれない人もいるもので、たまにはガツンとやったほうがいい場合もあるという常識的な受けとり方だけでは不十分です。「怒り」が、どんなに悲しい、うつろなものであるかを、見せてくださるのです。

馬頭観音さまは昔から、村や町の角にまつって、馬や牛たちの安全を守ったり、あるいは交通の安全をお願いしました。したがって、今なら、ドライバーの安全を見守る大切な観音さまです。交通事故が多い今日、この馬頭観音さまが忿怒ふんどの形相をしておられることは、まことに意味深いものがあります。

ラッシュでいらいらしているとき、この観音さまを思い浮かべて”南無観世音菩薩”と口ずさめば、心も静まり、道をゆずる気持ちになり、その結果、交通事故からもまぬがれるでしょう。それが“現世利得〟です。あなたを事故から守るのは、馬頭観音であるあなた自身なのだからです。

馬頭観音にはお顔が一つから四つまで、お手は二本から八本までありますが、よく手にしていらっしゃる契は、“白蓮”と“宝剣”“金剛杵”“斧鉞(おの・まさかり)などです。宝剣は鬼難を断じ、金剛杵は怨敵を断じます。スピードの競争などをしていると、ついカッとして事故を起こしますよ、ということでしょう。

斧鉞は官難を除くといいます。官はお巡りさんですか、信号を守り、スピードを守れば官難に会うこともないでしょう。

⑤如意輪観音… 如意とは心のまま、ということ、輪とは初めも終わりもない自由自在。意味はおのずからわかります。この如意輪を持って、人間の迷いを断ち、さらに、心のままの自由な安らぎを生む観音さまといえます。手に宝珠を持ち、如意輪を背に持っていらっしゃることが多いようです。

主に貪、じん、痴の三毒を断って、安らぎを与える観音さま、ともいえます。

⑥不空羂索観音…羂索の覇は鳥や獣をとらえる網、索は魚を釣る糸で、この観音さまは、その網を煩悩の山野に張りめぐらして、煩悩の火にやかれている私たちを捕え、生死輪廻海に索をたれて、苦悩している私たちを釣りあげてくださるのです。

不空というのは、けっして失敗はしない、ということで、その網はさらに「四摂法」という網です。四摂法とは、布施・愛語・利行・同事をいいます。布施は、人によくしてあげるということ、愛語は、慈悲のこもった言葉。利行は、相手の身になってみること、同事は、形を変えて人びとに近づき、同じ仕事にいそしむことです。

心から言葉をつくし、人びとが本当に喜ぶような行ないをみんなと手をつないで網をつくって、私たちを引き寄せ、観音さまに同化させようというのがこの観音さまの願いです。みんなで、この観音さまの心を心として、手をつないで世の中をよくしていきたい、とい私たちの中にあるささやかな願望を引き出してくださる観音さまです。

⑦准胝観音馬頭観音が、多くの場合、男性で象徴されるのに対してこの准胝観音は、だいたい、女性で示された観音さまです。准胝というのは、サンスクリット語の音をそのまま写した名称で“妙”とか“清浄〟とかいう意味です。

つまり会う人の心を美妙清浄にする観音さま、ということでしょう。

准胝観音は中国では七億仏の母、つまりあらゆる仏の母、といわれていたようです。日本には一つのお顔に八つの手のものと、一面・十八本の手の二種があり、本当にやさしいふっくらとしたお顔をなさっています。

こうした観音さまのほかに、狩野芳崖が描いたことでも有名な悲母観音や、私のお寺にも安産の観音さまがありますが、子育観音、子安観音と、たくさんいらっしゃいます。

このように観音のお名はたくさんあります。ただ大切なのは、観音さまにめぐりあうことです。観音さまと対話させていただくとは、とりもなおさず、自分の心の中の観音さま、もうひとりの自分自身と対話し、“いま”をみつめ、観音さまのいわんとされるところを知って、新たな認識のもとに“いま”を生きぬいていくということです。

むなしさからの出発が大切


そのとき、無尽意菩薩は、座より立って”とある何ごとも“発端”が大切です。

目が醒めたとき、お茶を飲みたいな、と思ったとき… いずれも、私たちは“そのとき”から行動を起こします。これを“永遠の今”といいます。

私たちにとって、現代は、どうにもこうにもむなしくてやりきれないときだ、と観じるなら、このときから「観音する」のです。ということは、まず照見する(自分をみつめる)ことからスタートします。

しかし、むなしいと知るだけで終わってしまうと、カミュのいうとおり、自殺するしか道はないでしょう。

人間、生まれてきても、どうせ死ぬ。だから、人生なんてむなしいものだ。花は美しい、しかし、やがて散る。だから花なんてちっとも美しくないし、むなしいものだ…。

ここで終われば、単なるニヒリズムです。人間は死ぬ、花は散る。だから、むなしいものだと知っその厳然たる事実を踏まえ、このニヒリズムをもう一度空じて、逆転して、たった一人しかない自分、たった一度しかない一生を生かしきること、美しいものは美しいと知ること、それがほんとうに「空しさ」を知ったさとりです。

何を私たちはあくせくするのか?こんなに急いでいいのか?

左手に軍持、右手に数珠の十一面観音が多くの霊場にまつられています。近くでは、坂東三十三カ所第一番の杉本寺にあります。軍持手はすべての欲望を満たすサイン、数珠は煩悩を断つサインであることはすでに述べましたが、一見、この矛盾する二つのサインを出して、観音さまがいおうとされたことは何であったか、を思い出していただきたい。

すべての欲望を満たすと同時に、そういう欲望のもととなる煩悩を制し、整理するまり“足ることを知れ”ということが第一です。

「足ることを知る」というぜいたくな英知

先述したように欲望は社会を進歩させます。すべての欲望を満たそうというエネルギーがなければ、人間は進歩しません。しかし、その欲望を満たそうとする一方に、その欲望を満たすことのむなしさを知っていないとどうなるか?

それが、まさに肥りながら痩せていく現代人の姿ではありませんか。海は汚れ、生物たちは滅び、自然を奪いつくされた荒涼さの中に放りだされた私たちの姿ではありませんか。

欲望を満足させることも、それは容易なことではないけれども、足ることを知るのは、もっとむずかしいことです。ひたすら、経済の高度成長を念じ、物質の豊かさのみを追求してきたことによって生じたのが現代のむなしさ、心の荒廃だとするなら、現代文明に感謝するとともに、文明を文明たらしめる、さらに大きな眼を開く“そのとき”が“いま”です。いまこそ、考えるべきときです。

無尽意菩薩が立ち上がった“そのとき”が、私たちが立ち上がるときです。爾時の爾は「なんじ・あなた」とも読みます。「私のとき」なのです。

豊かなることのむなしさを知る「私」の育成が、いまいちばん大切なのです。また「足る「ことを知る」きわめてぜいたくな英知を必要とする「このとき私のとき」だと信じます。

名古屋の近くの一宮市妙興寺の夏季講座のときです。この会に、ひとりのアメリカ人が参加していました。彼はサンフランシスコの一流のデザイナーだそうです。坐禅をする理由を聞くと、「商売繁盛して体がいくつあっても足りないほど忙しく、そして、もうかって仕方がないからだ」といいます。

重ねて問うと、「日本では「死んで持っていけるお金はない」というそうだが、私もそれ部に気づいたのだ。だが、家族もあるし、商売をやめるわけにもいかない。働かなきゃいけな第い。しかし、いまのように無目的な、盲目的な働き方じゃなしに、働くオレとは何か、と自分をしっかりつかんでから働きたくなった。それが禅に入る動機だ」といいます。

自分をしっかりつかんで、はじめて「足ること」がわかるのです。それほどむずかしいことです。自分自身との闘いだからです。

けれども、これを知らずしては、いま、私たちをとりまいている、公害をはじめ多くの文明の難〟は解決しないのではないでしょうか?

観音巡礼とは自己再発見の旅

いま、アメリカでは砂をいじること、土をいじること、山に入って、電気ノコギリを使わずに、手斧で木を倒したり、畠を耕やして種を蒔くことなどが最高のぜいたくなレジャーになっているそうです。これが一番いいというわけではありませんが、かつてない富をきずきあげた人間が、そのむなしさを知って、なんとか人間らしい本来の歓びにみちた生活をとりもどしたいと、手さぐりをしている一つの姿でしょう。

「ああいやだ。こんな世の中はたくさんだ!」といってみても、禅を組むアメリカ人のいうとおり、家族があり、社会がある私たちが、いま、それを一ぺんに投げ出すわけにはいきませんし、解決にもなりません。

ではどうすればいいか。それは、ひるがえって、真に“足ることを知る”ことの内容をじっくりと考えてみることです。

「観音経」五百二十文字に結び七十八文字、計五百九十八文字は、それを語ろうとしているのです。観音さまと同行二人――じっくりと、まず、自分自身をみつめてみることです。そのために「観音経」を読み、日常の時間を離れて、休日に巡礼の旅を試みるのも一つの方法だと思います。

坂東三十三カ所、西国三十三カ所、秩父三十四カ所、これらの札所には、人生の難関難所を模して、さまざまの難所がもうけてあります。それもまた古人の慈悲と知恵でしょうが、今日、そこを歩いてみると、またいっそう考えさせられるところがあります。

というのは、今も昔も変わらぬ古木のうっそうと繁った自然があり、文明におかされて、見るかげもなく荒れはてた道もあり、さながら今の世相を写しとった感があるからです。

そうした道を、ひとり、きびしい坂道に汗をかき、ときには、友人や恋人、妻子と手をつないで歩き、観音さまにめぐりあおうとすると、やがては、あなたが今日まで忘れていたあなた自身を発見できるでしょうし、人生の新たな出発の手がかりや人生のほんとうの歓びが第何であるかを見いだすことができるでしょう。

少なくとも、あなた自身について改めて考え直してみることはできるはずです。

そのために、観音さまは、今も昔も変わらぬ姿で、そこにあなたを待っておられます。レジャーを楽しむための、海外旅行もいいでしょう。しかし、もっと手近にある私たちの先祖が歩いた道を、その面影を思い浮かべながら巡礼するのは、さらに意味があると思います。

巡礼遍路も、地上の旅であるとともに、あなたの人生遍路でもあるのです。地上の旅に難所があるように、人生にも三十三番とか八十八カ所とか、百番という「角番」のあることを実感するのです。

現代の苦悩の解決は自分で「自己規制」する以外にないといわれます。しかも、規制する自分が、いかに貧弱であるかを思い知るのが何より先決でしょう。「観音経」を学び、観音さまにめぐりあうとは、自己を学び、自己に会見し、自己を規制し、そして人間が人間にめざめることであると重ねて申します。

つづく第二部では、この偈文の部分を中心に据え、長行をふまえて「観音経」のこころを学んでゆきたいと思います。

各ページ

観音経入門(VOL.1)

観音経入門(VOL.2)

観音経入門(VOL.3)

観音経入門(VOL.4)

観音経入門(VOL.5)