鹿島 ~日本霊界風土記~(Vol.2)

第一章 鹿島の神の働きと功徳 ~鹿島神宮団体参拝での講話 平成2年6月10日~

神社参拝の心構え

本日は、この鹿島の神様の前に団体参拝をするわけでございますが、その前に、皆様に二つのことをお話ししたいと思います。

まず、参拝とは何か。皆様も日ごろから神社に参拝なさっていると思いますが、社殿に向かって恭しく頭を下げればそれでいい、というわけではありません。世間一般ではそれでも参拝したことになるかもしれません。

しかし、神様の道を極め 77 ようとしている私たちは、もっと深い世界から参拝というものを考えなければなりません。

皆様もご存じのように、神社の神様に参拝するときには普通、「二礼二拍手、」の形式に則って行いますが、最初の二礼はだいたい四五度ぐらいの角度でお辞儀をいたします。それに対して最後の一拝、これを一揖といったりしますが、一拝は二礼の半分ぐらいの角度です。

そうやって神様にご挨拶をするわけですけれど、普通ならそれで参拝が済んだことになります。

しかし、それだけだったら、いつも私が申し上げるように観光参拝でしかありません。私たちは参拝するために参拝するわけではないのです。

では、参拝の基本とは何なのか。結論から先にいえば、「感性の参拝」、すなわち、神霊世界に感通する参拝でございます。その感性の参拝をするためには、まず、神域というものに目を向けなければなりません。

日本にはたくさんの神社がありますが、一つひとつの神社にはそれぞれ神域があります。この鹿島神宮(茨城県)も広大な神域を持っていらっしゃいます。

これだけの神域を持っている神社は関東でも数えるほどでございまして、皆様、あの森をご覧ください。非常に清々しくて、素晴らしいでしょう。一本一本の樹木が樹齢何百年という歴史を誇っております。とくに、一番奥にありますご神木は樹齢千年を超えているそうです。

時間があったらあとで見ていただきたいと思いますが、樹齢千年と申しますと、西暦九九〇年ごろからあるわけですね。八九四年が「白紙(八九四)に戻した遣唐使廃止」。菅原道真公が「遣唐使、廃止にしましょうよ」と言ったのが八九四年。

平安時代です。「源氏物語」が書かれたのはそのあと、一〇〇〇年ごろでしょうか。いずれにしても、藤原氏の政権が華やかなりしころ、藤原文化、国風文化が栄えたころです。

それから、伝教大師最澄が唐へ渡ったのも八百何年ですから、その直後ぐらいから鹿島のご神木は、ずーっと皇室と日本の国を見守りつづけてきたわけです。

その、千年以上たっているご神木以外にも、何百年という樹齢を誇る樹木が鹿島の神域の中にたくさんっているわけでございまして、この樹木一本一本に神様が宿っております。

そういうご神域に足を踏み込んで、神域の気をたっぷりと受けるのが参拝の第一歩。感性の参拝はそこから始まるのです。

その次に、神域の中に降臨されている神様に意識を向ける。

神社は、改めていうまでもなく、神様をお祀りしている場所ですけれど、それと同時に、どこかの宇宙空間から降りて来る神簾、換言すれば目に見えないパイプロがあります。

「天津乙女の通い路」といいますが、天津乙女、すなわち天人が上り下りする通い路、目に見えない通路があるわけです。通い路ばかり見ていますと、これは戒められますけれども、天界にいらっしゃるご神霊とのパイプ口が神社にはあります。

神社の始まりは、降りてきた神様の御魂を磐境の中にお祀りをして、お告げをいただいたり、功徳をいただいた、と。神社はそこから始まったといわれておりまして、それから、いつも神様にいていただきたいということで玉垣をこしらえ、浄なる禁足地をつくった。

さらに、雨の日でも風の日でも、雪の日でもお参りしたいということで建物を建てた、と。つまり、神籬、磐境というのが神社の原型でありまして、大和の三輪神社(大神神社)には古来の磐境がいまだに残っております。

この鹿島神宮は、東征に成功した神武天皇様がそのお礼にということで、お祀りしたのが始まりですが、先ほど申しましたように、神社のあるところはそういうふうに、ご神霊をお祀りするだけでなく、天界あるいは宇宙空間と現実界を結ぶ通い路があるわけです。

そのパイプロがあるところに真心を込めてお祀りしていたら、天界から神様がいらっしゃる。常駐している神様もおられますけれど、本当のご神霊はだいたい高天原にいらっしゃる。見ていらっしゃる。

そして、ここ一番というときに、通い路を通ってうわっと大神霊が降りてこられるけれども、普段はご眷属が見ていらっしる。大神霊も一応、見ていらっしゃいますが、ここ一番というときに降りてこられるんです。

そういうことで、参拝とは何かといいますと、まず神域に足を踏み入れるということ。神社は神域というか神霊空間ですから、そこに足を踏み入れるんだということを自覚しなければなりません。

その次に、通い路から来ていらっしゃるご神霊にお目にかかるんだと意識すること。これが二番目に大切なことです。

三番目は、形を整えて、神社の前で二礼二拍手一拝の参拝をする。礼節を持ってお参りするわけです。「ここが尊い神霊空間でございます。ご神域でございます」と言われても、樹木のないはげ山だったらどうですか。

参道がアスファルトで塗り固められていたらどうですか。「ああ、ここに天の通路があるんだなあ」という、厳かな気分になりませんね。

やはり、深い森があり、古の昔を偲ばせる社殿があり、清らかな鈴の音が聞こえ、さらには神主さんが立派な衣装を着て、恭しく言上申し上げるからこそ、私たちも厳かな気分になって、思わず居ずまいを正すわけです。

だからといって、建物は神様ではありません。建物というのは、厳かな気分になるための、いわば舞台装置です。そのために、ものふりたる趣と、森厳とした佇まいがあるわけで、それによって私たちも厳粛な気分になるわけです。

参拝というのは、お社の建物を拝むことではありません。ご神霊です。ご神霊だけではない。ご神霊がいませる神霊空間。そこに足を踏み入れるんだと自覚することが大切です。あとになるほど重要です。

この三つのことが揃って、まさに「感性の参拝」になるわけです。お蔭だけをいただこうという気持ちだけでなく、神様に親しくお目にかかるんだという参拝。これが大事なのです。

境内での世間話は厳に慎む

それがわかったら、どういうふうなことに注意しなければならないかといいますと、サクッ、サクッ、サクッ、サクッと玉砂利の上を歩くときにも、神様の世界に心を向けなければなりません。

伊勢神宮団体参拝の折にも申しましたが、サクッ、サクッ、サクッと踏みしめるこの玉砂利の音を聞きながら、神霊空間の中にいるという自覚を持って、「鹿島の神様!」と、この胸で、心でまずお参りする。

そういう厳かな気持ちで玉砂利を踏みしめ、鳥居をくぐり、いろいろ境内に立ち並ぶ樹木を見ながら心を神様の世界に通わせる。

「この木、とても古そうね。売ったら一本いくらぐらいになるかしら?」

そんな俗界の話をしてはいけません。

「ああ、鹿島の樹木は何百年もご神気を宿しながら、人々を見守ってきたんだな。

平安時代の昔から、源頼朝公も義経も樹木は見てきたんだな」と、文学的な情感と情緒を豊かにしながら、玉砂利を踏みしめて歩く。これが一番尊い。

そうしている中にも、ご祭神との一体感があるわけです。そして、気分を盛り上げていったところで、「ああ、武甕槌神(鹿島の神のご神名)よ」と、鹿島のご神霊と感動的にお会いする。

「武甕槌神様。あなたは神武天皇様、それから瓊瓊杵尊様をご守護になったのであれば、願わくば私にも、その功徳の三分の一もいただけませんでしょうか。必ずや御心に合うようにいたしますので」とお祈りする。そういう神様との語らいを大事にしなければなりません。

「鹿島の神様って何だかわからんけれども、とにかく拝んでみようか」というのは一般の方。私たちは、ごく普通の参拝ではいけませんね。少なくとも今日お集まりの皆さんには、いま申したような、一味も二味も三味も違ったような情感でお参りしていただきたい。

いつもお話ししているように、神霊との交流能力は、芸術的感性のレベルに正比例いたします。

ですから、もともと芸術的感性に優れた人は神様に通じやすいのですが、芸術的感性に特段優れていない人でも、こういう神域に来ると通じやすくなります。ただ、それには条件があります。何度もいうように、口をきかず黙々と歩いていくことです。

文学少女、歌人、詩人になったつもりで神域をしずしずと歩いていきましょう。お友達が話しかけてきても、「あ、ちょっと」と言って、話に乗らないことです。とにかく厳かな気持ちを大切にしなければいけません。

そういう気持ちになるには、俗界の話をしないことです。参拝が済んだら思う存分お話しして結構ですけれど、いつもなさっているわけですから、せめて神域に足を踏み入れたときぐらい、俗界の話はしない。情感をぐわーっと高めて、心と感性を研ぎ澄ます。

久しく顔を見なかった人に会っても、「やあ」と軽く挨拶する程度にとどめて、黙々と玉砂利の上を歩いていく。

参拝が終わったら、俗界の話をしようと何を話そうと、それは自由です。けれども、ご神霊とお目にかかる前はなるべく会話は慎む。参拝する前は、情感を高めることが一番大事なのです。

そうやって、自分自身の内面の高まりを大切にしながら祝詞を聞き、ご神前で二礼二拍手をすれば、パーッとご神霊に感応します。

これが、「妙」というもの、「玄」というものでありまして、それを尊重する人はこういう行いをするわけです。

伊勢の御垣内で参拝するときとか、あるいは神霊界の神様に向かうときとか、ここ一番というときには絶対に口をきかない。神域に入ったら、黙って参拝しなければなりません。

御垣内参拝というのはそういうものです。なぜかといえば、気が乱れるからです。

主一無適の心で神様に向かう

だからといって、無念無想でお参りしてはいけません。自分の心を真心でいっぱいにし、誠の状態で神様に向かう。これを居誠といいます。

誠の状態にいる。それを靴といいます。和敬清寂の敬です。また、敬とは主無適。無適の適は適当の適。つまり、右に左に揺れ動くさま。これが適ですから、主一無適とは、一を主にして右に左に揺れ動かない、ということです。

では、一とは何か。真心であり、神様に向かう心。主一無適の状態。居誠。誠の状態。これを敬といいます。尊敬の敬、和敬清寂の敬です。誠の状態にあって初めて敬うという意味になるわけです。敬う状態を敬。敬とは居誠、主一無適の状態です。

この主一無適が神様を敬う心ですから、揺れ動かない状態にして、サクサクサクサクと玉砂利を踏みしめながら歩いていく。そして、情感を高めて「ああ、鹿島の神様~!」と。

ご神域の木々を見ても、「緑が綺麗ね」なんて言うのではなく、「この木の一本一本に神様が宿っていらっしゃるのか」と思う。

宿ってなくても、「ああ、宿っているんだなあ」と思うと、神様も「そんなに思うんだったら、宿らなくては申しわけないかな」という気持ちになって、急遽、降りていらっしゃったりして……………(笑)。

とにかく、そういうふうな心で向かうのが正しい。

これは決して冗談ではなく、私自身、いつも気をつけていることです。目に見えざるものを意識尊重する人の態度です。まずこれを、皆様には気をつけていただきたい。

それができたら、ビシッとします。「あ、そうか!」と思えば、その瞬間、妙の世界、玄の世界に入っていきます。反対に、「何だか、木がいっぱいあるな。古い建物が並んでいるな」と思ったら、単なる木、単なる建物です。

神霊界というのはそういう世界で、神域に足を踏み入れる自分自身の意識がどこに向いているのか。それが大切なのです。

参拝するときには、そこを考えなければなりません。ですから、どこの神社であろうと、団体参拝をするときには、まず最初にこの説明をすることにしているわけです。

大きな神様には大きな心で向かう

それから、鹿島の神様は大きな次元界の神様です。

天孫降臨のみぎり、それから神武天皇の東征のころ、危ういときに武甕槌神が夢に現れ出てきて、導かれました。

そういう次元の高い神様、大きな神様に向かって、「夫とケンカをしました。早く仲直りできますように」とか、「子どもの病気が治りますように」などと祈ったらどうですか。

もちろん、聞いてくれますよ。しかし、いつも申しますように、大きな神霊には大きな心、小さな神霊には小さな心で向かわなければなりません。

たとえば、三宝荒神様に宇宙の未来をお願いして、実現すると思いますか。

あるいは極東の平和を守りたまえとか、東西ドイツが早く統一されますようにとか、北方領土が早く返ってきますようにとか、そういう大きなお願いごとを三宝荒神に向けて、実現すると思いますか。お願いされた三宝荒神も困ってしまいますよ。

どうやったら願いを叶えてやれるのかわからないと、頭を抱えてしまうでしょう。

やはり、お台所の家計を守る三宝荒神様にはお台所のことをお願いする。魂の教育係である守護霊様や守護神様には一身上のこと、お仕事のことをお願いする。それが本来の祈願のあり方です。

どこの神社の神様も、真心でお願いすれば、それなりの功徳をくださいます。産土の神様というのは、地域の人々に恵みを与えたいと常に思っていらっしゃるから、聞いてはくれます。

しかし、ただお願いするだけではなかなか動いてくれません。心の底から「うーん、わかった!動こう」ということで応援をいただくには、やはり、お願いごとのツボを心得なければなりません。

では、何が一番ツボにはまるのか。

この鹿島の神様の場合は、高天原随一の武の神様だから、「ふつふつと湧いてくる気力、霊力を与えたまえ」と祈る。そうすると、「よし、その心、受け取った。私の得意分野だから、大いに力を与えてやろう。本当は因縁も深いし、邪気も多い。

劫も深い。人間性も大したことない。顔もひどい(笑)。しかし、お前の心は実に立派じゃ。だから、特別な功徳をあげよう」と言って応援してくださるのです。

やはり、ただお願いするだけでなく、神様を感動させなければいけない。そのためには、その神様の得意分野を知って、ツボにはまった願いごとをする。これを「神霊高級ごますり術」といいます(笑)。言葉は悪いですけれど、そうやって神様を感動させると、神様も動かざるを得ないわけです。

鹿島神宮では国のことを祈るべし

それから、思っても思わなくても、私たちは日本国民ですから、「日本の国を守りたまえ!」と大言壮語すること、これも忘れてはなりません。それというのも、ここの鹿島の神様は、国を思う心、国を愛する心にもストレートに応えてくださるからです。

身の回りのお願いごと、心配ごとを聞いていただきたいと思っている人もいるかもしれません。しかし、そういう一身上のことは、三宝荒神や守護霊・守護神にお預けして、この鹿島神宮では日本の国を思う心を前面に出して、「日本の国を何と守りたまえ」と祈ってください。

その日本の国、日本の民族の大宮司に当たるのが、天皇というお立場です。日本の国、日本の民族を一つの神社と考えた場合、天皇様が大宮司で、国民が氏子です。

そして、氏子の皆さんの真心、すなわち国民の真心が極まると、全体がピシッとする。天皇様は日本の大宮司のお立場にありますから、神様が懸かるわけです。

神様はそのお立場を守護される。今上陛下もとても立派な天皇様ですが、氏子である私たちが一生懸命に真心込めて、国のため、天皇様のために祈ると、ますます日本の国が素晴らしくなる。

会社でいえば、社長の運気がよくなりますと、会社が繁栄します。それと一緒です。

日本の国、日本の民族という会社の代表取締役社長、それが天皇というお立場でありまして、天皇様の運がよくなると、日本の国、日本の国民の運がよくなる。国の運がよくなれば、私たちの運もよくなります。

そういうふうに気持ちを大きく張り広げて、心を一つにして鹿島の神様に祈ってみましょう。それくらいの気持ちがないと、いつまでたってもお蔭信仰から抜け出せません。

いままではお蔭信仰であったかもしれません。しかし、せっかくこうし鹿島神宮に団体参拝するわけですから、これを機会に一歩でも二歩でもお蔭信仰から抜け出すように努めましょう。

鹿島の神様は大きな神様です。その鹿島の神様が動けば、身の回りの小さなことなんか、アッという間に解決します。「あっ、いいですよ」と、小指をピッと動かすだけで病気もよくなるし、家運もよくなります。

それだけの大神霊に参拝するのが今日の団体参拝です。先ほど、大きな神様には大きく向かわなければいけないということをお話ししましたが、今日は心をできるだけいっぱいに広げてお祈りするようにしたいものです。

情感を湧き上がらせる和歌

三番目。ちょっと皆さん、メモをしていただけますか。ノートがなければシャツに書いても結構ですし、掌に書いても結構です(笑)。

一般の皆様がお参りするのと、ワールドメイト(編集部注著者が主宰するグループ)の会員さんがお参りするのとでは、自ずから心構えが違って然るべきですし、情感も違って然るべきです。そのための歌を詠み上げますので、ちょっとメモしてくださいますか。

情感豊かにお参りをしよう、神様にだけ気持ちを向けようと思いましても、現実問題、なかなか難しいところがあります。

とくにアメリカ帰りの会員さんは、「神様、お願い、わかってね、ハーイ」という軽い調子で神様に向かうかもしれません。あるいは、中国の古典を勉強した人は、漢文の書き下し文が好きかもしれません。

しかし、惟神の日本は大和言葉、大和歌の国。須佐之男尊様以来、連綿と続いてきた大和歌の国でございますので、やはり、和歌を詠んで神様に献上するのが最もふさわしい。和歌を詠み、滑らかな言霊で口ずさんでおりますと、鹿島の神様が喜ばれます。

ペラペラと英語で祈っても聞いてはくれます。しかし、麗しい言霊の調べ、和歌の調べで情感を乗せながらお祈りすると、もっと神霊に感通します。やはり、神様の前では大和の歌、大和の言葉のほうがふさわしい。

それから皆さん、心が揺らいだり、気持ちが萎えそうになったりしたら、鹿島の神様のところに来たらよろしいでしょう。ぜひ参拝にいらっしゃるといいと思います。その際、一味も二味も違った参拝をするために、いまから歌を申し上げます。

この歌を口ずさみながら、あるいは、胸で唱えながらお参りすると、一層、感通力が強くなります。ご神霊をバシーッと感じることができます。

その歌をいまから発表して、団体参拝にいらっしゃった皆様へのプレゼントといういい方はおかしいですが、お土産にしたいと思います。

鹿島の神の和歌その1

では、よろしいですか。いまから歌を発表しますので、書いてください。全部ひらがなで書いてください。

かみよりの

ふねまちきたり

つむがりの

たちのこころに

もどるかみさち

本当のことをいいますと、神という言葉が二つも入っているのはもったいない話でありまして、ちょっと直したほうがいいかもしれませんが、この神域に足を踏み入れ、鹿島の神様の前に立った瞬間、ふわっと出てきた歌です。そのときに受けた

言霊ですから、私は、このままのほうがいいと思います。

で、この歌は二句切れでございます。二句切れといっても、別にお肉が切れてるわけではありません(笑)。

二句目に意味の切れ目がある、ということですけれど、最初の二句の「かみよりのふねまちきたり」というのは、神様からいただく船を待っていました、ということです。

船というのは救いの船だったり、行く先を導く船であったりします。「ハコブネ」というのは、「方舟」と書きますね。

方角を指し示す船。こういうふうに行きなさいよ、と導いてくださる船。あるいは、鹿島灘のような荒々しい人生の荒波、世の荒波を乗り切って、渡らせていただける船。荒波を越えていくご守護。それが「かみよりのふね」。神様に祝っていただくその船を待って参りました、と。

また、「かみよりの」というのは、選り分けて、ということでもございます。神様が選り分けてくださった私にふさわしい救い、教え、導きを持って、私の来るのをずーっとお待ちくださった。それがやってきましたよ、ということです。

別の解釈をすると、「かみよりのふねまちきたり」というのは自分自身のこと。神様が選り分けてきたこの船、私が乗っている船が、待ちに待って今日参りました、ということです。自分を船とたとえているわけです。

神霊界というのは、そうやってシンボライズされている世界でして、「ふね」という一つの言葉にもいくつもの意味があります。

ですから、「ふね」と聞いただけで、同時に十通りも二十通りもの意味が瞬間的にぶわっと浮かんでくる。それが霊覚というものの深みです。

霊覚が深くなればなるほど、一言を聞いて十も二十も感じます。「あさ」と言ったら、朝は朝なのですけれど、「あさ」と聞いただけで、生命力、新鮮さ、清々しさ、生命の喜び、天照大御神の功徳。

あるいは、暗闇から陽に変わる、エネルギーがぐわーっと充ちてくる、邪の心がない、といったことが浮かんでくるわけです。「あさ」という言葉、あるいは「あさひ」という言葉には、それだけのメッセージが内包されているのです。

「あさひ」と聞くと、「あ、スーパードライ!」(笑)と思う人もいるかもしれませんけれども、霊覚が深くなればなるほど、たった一言でも幾重にも受け取ることができる。

その鑑賞力。情感のひだ。これが奥深い人であればあるほど、神霊界に通じやすいのです。

そして、「かみよりのふねまちきたりつむがりの」の「つむがり」というのは研ぎ澄まされた剣のこと。それを「つむがりの太刀」といいます。

もっと細かく分析すると、いくらでもあります。「つむ」というのは積み重ねていく。「かり」は、いろいろなものを切っていく。積み重なったものを切ってくれる。積み重なった思いとか邪気を切ってくれる。

つむがりにもいろいろな意味がありますけれど、「つむがりのたち」というのは、研ぎ澄まされた鋭利な刀のこと。それを「つむがりの太刀」といいます。

研ぎ澄まされた「つむがりの、たちのこころにもどるかみさち」。「つむがりの太刀の心に戻る」というのは、要するに、研ぎ澄まされた新鮮でシャープな心、引き締まった、研ぎ澄まされた、つむがりの太刀のような心。

クリアーで清々しくて、ピーンと引き締まったところのある、つむがりの太刀の心。その心に「もどるかみさち」というのは、鹿島の大神の幸。すなわち、海の幸、山の幸、幸せ、参拝させていただく幸せ、恵みをいっているわけです。

「かみよりの ふねまちきたり つむがりの たちのこころに もどるかみさち」

そういう、「つむがりの太刀」のような心に戻ることができるとは、鹿島の神様の功徳の何と偉大であることよ、ということ。これ、神様を讃えているわけです。

「鹿島の神様すごいですね、すごいですね。感動していますよ、すごいですね、よろしくお願いいたします」と言ったら、

「よし!」というふうな情感になるでしょ。

「神様、とにかくお願いします」と言ったら、「ああ、参拝したことだけは認めよう」と。

まあ、悪い気持ちでないことだけは認めるけれど、皆様がもしご神霊だったらどうですか。「よし、この者のために大いに動いてやろう!」という気持ちになりますか。

ご神霊に動いていただこうと思うなら、やはり「お社、素晴らしいですね、偉大ですね、立派ですね」など、それなりに美しい讃美の言葉を添えなければなりません。

たとえば、ある男性がボーナスを叩いて最高級のセリーヌのネクタイを買ってきたとしましょう。そのネクタイを人から褒められれば嬉しくなりますが、その褒め方が具体的であればあるほど、嬉しさも倍増しますよね。

「おっ!いいネクタイですね」

「いえ、それほどでもないですよ」

「いや、いいネクタイだ。色合いもいいし、とくにこのペイズリーの柄がいいですね。あっ、これセリーヌじゃないですか。高かったでしょう」

「わかりますかね」

「さすがセンスいいですね。柄がいい。渋い柄ですね」

気に入って買ったネクタイですから、そういうふうに柄を褒めてもらい、メーカーを褒めてもらったら、これはもう最高の気分ですよね。

「いや、大したことありませんけど、おっしゃるとおりセリーヌです。デパートで買ったんですけどね」

別にボーナスで買ったとまでは言わないでしょうけれど、柄まで褒めてもらって気分の悪くなる人はいません。

「あっ!いいお洋服ですね、綺麗ですね」

なんて言われても、「ああどうも。またお世辞言って……」と。抽象的な褒め言葉は、とかくお世辞と受け取られてしまいます。同じ褒めるなら、具体的に褒めなければいけません。誰でもそうでしょう。色合いがいい、柄がいいと思って買ったんですから、そこを言葉にして褒められると嬉しいし、感動する。人間誰でも共通しています。

口では、「また、お世辞上手なんだから」と言っていても、本当は嬉しいんですよね。

こういうふうに、ご主人がいつも奥さんに言っていれば、家庭も平和なんですけれど、そういう心の機微がわかっていない男性が多い。だから、家庭の中がゴタゴタするわけです。

やはり、真心や礼節のある人は、褒め方もセンスもいい。決して漠然とは褒めません。鹿島の神様を褒める場合も、つむがりの太刀、ふつの御魂の功徳を持っていらっしゃる神様ですから、そこの偉大さというものを讃えるのが真心であり、礼節であります。

ただ単に、

「素晴らしい、素晴らしい、鹿島は素晴らしい。一の宮、バンザーイ!鹿島!」なんて言っても、神様、感動しません。

それでももちろん、喜ばれるでしょうけれど、神霊の奥までグッとくるような感動の奥深さが足りません。

そういうことで、この歌は、「ああ、戻る神様の幸よ」ということで体言止めになっているわけです。歌としてはもう少し手を加える必要があるかもしれませんが、平たくわかりやすくいいますと、神様を讃える歌なんです。

ですから、この歌を口にするときには「神様を讃える歌なんだ」というつもりで、目いっぱい鹿島の神様を讃えなければいけません。

何だかよくわからないけれども口ずさんでいる、というのではいけません。「鹿島の大神様!」と、その大いなる徳を讃えている歌です。最初の二句切れのところまでは自分の詠嘆。それをもう一度、説明している。二句切れなのか三句切れなのかといった場合、二句切れの歌のほうがつくるのが難しいですよね。

鹿島の神の和歌その2

もう一首あります。今度は簡単です。

ありがたき

かしまのかみに

もうでする

いずみわくちえ

ふつのたまこむ

「ありがたき かしまのかみに もうでする」

これは自分のことです。「ああ、ありがたい鹿島の神様に詣でする」と。「する」で切れているところに詠嘆表現が入っております。ああ、ありがたい鹿島の神様に詣でることができて、私は幸せです、嬉しい、と。

「いずみわくちえ ふつのたまこむ」というのは、泉のごとく湧いてくる智恵と「ふつのたま」が来る、と。「ふつのたま」というのはふつふつと湧いてくる魂ですからね。気力、霊力、体力、神力、集中力。ふつふつと湧いてくる「ふつのたま」。

ふつふつと湧いてくる魂の主だから、経津主。

神武天皇様が東征されるとき、那賀須泥毘古に邪気を飛ばされて金縛りにされたのでしょう。誰もがもう疲労困憊で立ち上がれなくなったときに、神武天皇様がお祈りしていたら、高倉下という人の夢の中に鹿島の神が現れて言った。

「しっかりせよ。頑張れ。もうすぐだ。わたしが加勢してやってもいいが、このたびは私が行くほどのことでもない。わが息子、経津主を行かせよう」

そして、ふつふつと湧いてくる功徳をいただいて、「うわっー、頑張るぞ!」と立ち上がって、神武天皇様ほか大和の国に入って大和朝廷をつくっていきましたね。その東征の歴史を見たらわかるように、経津主というのは、気力が萎えそうになったときにお働きになる。

「もうダメだ。もう死にそう。やられそう。もうやっていけない。この仕事、もうやめ。神業もやめ。発願も難しい。神人合一の道、そんなの人様にお任せ。私はもう、とにかく細々とやっていければいいんだ」というような気持ちになるときは、だいたいマイナスの霊とか邪気にやられております。

気持ちが沈む。心細い気持ちになる。心が、魂が、エネルギーが弱くなってくる。こういうときに鹿島の神様にお願いすると、ふつふつと勇気が湧いてきます。

あるいはまた、今日の神法悟得会に参加された人は、お渡しした木刀を振ってもいいですね。

鹿島神宮さんで用意してくださった木刀、ちょっとお時間があればあとで見ていただきますが、ふつの剣を写した木刀をのちほど下の御手洗池のところで振ります。神気充実する中でグワーッと振りますけれど、心の底からエネルギーがふつふつと湧いてくるのを実感できると思います。

そうやって、ふつふつと湧いてくる御魂の恩頼(神様からいただく徳分、魂の栄養)をいただいて、「負けるもんか!これから頑張るぞ!」と己を鼓舞していく。

そうすると、萎えた心も蘇ってくる。これが鹿島の神様の功徳です。

もちろん、女性でもそうです。何か挫けそうになったり、弱気になったりしたら、鹿島の神様からエネルギーをいただく。

そうすると、強運の妻になりますね。旦那さんはいろいろと不満があって文句を言ったりしても、奥さんの運が強いといいことが起きますので、やはり幸せですね。

借金があるとか、対外的にうまくいかなくなると、夫婦の関係も徐々に険悪なムードになってきます。そういうときに神気充実して、気というものを家の中に充満すると、いいほうへいいほうへと回転していきます。

だから、やはり神柱を打ち立てなければいけない。神柱とは何か。「頑張るぞ!」という心です。気合です。

「下津磐根に宮柱太敷立て」と大祓祝詞にありますが、下津磐根というのは、揺れ動くことのない岩のような心。

その心に宮柱を太敷立てる、つまり、人生の目的をはっきりさせて、目に見えない宮柱、神柱を立てる。それが目に見えない神柱になり、その神柱に神様が降りてくるわけです。

一生懸命に神様を拝んで、「お願いします、お願いします」と、お願いばかりしていても、神柱が立たなければ神様も降りてこられないのです。

神社の宮柱は「有形の神」。私たちの心の中に立てなければならないのは、「無形の神柱」です。皆さん一人ひとりの中に御魂がありますから、そこに神柱を打ち立てる。

不退転の心と、「頑張るぞ!」という気合で打ち立てる。

「下津磐根に宮柱太敷立て高天原に千木高知りて」と、いろいろ祝詞の言葉があり、いろいろな解釈がありますが、この部分を霊的に咀嚼したら、そういう意味になります。

この鹿島の神様に真心からお参りすると、そういう不退転の心と「頑張るぞ、やるぞ!」という心がふつふつと湧いてきます。

あっ、蝶々が飛んでいますね。鹿島の神様がお喜びになっている。いまのはアゲハ蝶でした。挨拶にきたのでしょう。

私たちがご神業で行くところ、雨が降ったり、蝶々が来たり、白鳥が来たりします。皆さんも、蝶々のように「鹿島の神様、ありがとうございます」と言って、天翔けましょう。それがふつの御魂。

「いずみわくちえ ふつのたまこむ」…… 泉湧く智恵といっても、そういう叡智のことです。あ、こうしたらいいんだ、こうしたらダメだと、瞬間的にわかる。その智恵が泉のごとく湧き出てくる、と。

それから、「いずみわくちえ」が、「ちえ」にも「ふつのたまこむ」にも、両方にかかっているんです。泉のごとく湧く智恵、泉のごとくグワーッと湧いてくるふつの御魂。鹿島の神様は、その叡智と「ふつのたま」を供給してくださるわけです。

武術をやる人はそうやって、ふつふつと湧いてくる気合と、己を練磨していく心でもって、剣道とか薙刀をやるわけです。

そういうことで、「ありがたき かしまのかみに もうでする いずみわくちえ ふつのたまこむ」

これはものものすごくわかりやすい、平たい表現です。

その次に、

「かみよりの ふねまちきたり つむがりのたちの こころに もどるかみさち」

もう一回、回復するわけです。どちらが先でもよろしいですけども。「ありがたかしまのかみにもうでする」のほうから入っていったほうがいいかもしれません。

この二つの歌を理解し、鹿島神宮に参拝するときには、何度も何度も口ずさみながら歩いていく。そうすると、余計なことを考えないでしょう。できたら、この歌を節をつけて歌って、それからお祈りしたらいいです。

鹿島神宮の参拝のときには、この歌をヒントにし、その言霊の調べに情感を乗せてお祈りしたらいいのではないでしょうか。

ああ、頭スッキリしてきた。目が覚めてきましたでしょう。「海原びらき神事」と「神法悟得会」(ともに著者が主催する神事)、それから団体参拝と続きましたから、睡眠不足と疲労でフラフラになっていたのではありませんか。

こういうときこそ、カーッと研ぎ澄まされた「つむがりの太刀」で、もやもやした雲をバシッと切ってもらう。そうすると、ふつの御魂をいただく前といただいたあと、卑近な言葉でいえば、使用前と使用後、その差がはっきりします。

気力、体力ともに限界に近づいたとき、神様がパワーを与えてくださるわけです。相当無理なスケジュールを組んでいるのは、参拝する前と参拝したあとの違い、これを体験していただきたいからでありますが、普通、参拝したあとのほうが疲れます。

ところが、いま申し上げたような心構えで参拝をすると、かえって参拝したあとのほうが元気になる。帰るときは、皆さん、シャキーンとしているはずです。そのことをまず体験していただきたいです。

以上、三つのことを申し上げました。参拝とは何なのか。大きな神様には大きな心で向かう。そして、この歌を通してふつの御魂をいただく。それによって、つむがりの太刀の心、シャープに冴えた心、エネルギーに満ち満ちた心に返っていく。

この三つのことをよく心に留めて、参拝していただきたいと思います。お祭りの間はもちろん荘厳でございます。その荘厳な雰囲気の中で、「鹿島の神様、鹿島の神様」と、いろいろなことを思い浮かべればよろしいでしょう。

ご神前との物理的距離は関係ない

後ろのほうの方、見えますか。見えないでしょうね。前の人が大きくて、後頭部しか見えないかもしれません。こういうとき、「ああ、見えないじゃないか」と思いながら拝むと、神様との距離もどんどん遠くなるんです。

私たちは肉体で参拝するのではありません。心で、魂で参拝するのです。ですから、後ろのほうの方は、目の前に神様がいらっしゃる、目の前二ミリのところに鹿島の神様の顔があると思って参拝すると、本当に二ミリのところにいらっしゃる。神霊界とは、そういう世界なのです。

目の前二ミリでなくて、一センチでもいいですよ。一センチ前に鹿島の神様がいらっしゃると思ってお祈りしますと、本当に目の前一センチのところにご神霊がいらっしゃる。

昇殿される方はもちろん、お社の中に入るわけですけれど、それを見て、「ああ、いいなあ。うらやましいなあ」とお思いの方もいらっしゃるかもしれません。

その気持ち、わからないではありません。しかし、そういう気持ちがあれば、いつでも昇殿参拝できます。そのときになさればよろしいのではないでしょうか。

今日は、全員での昇殿参拝はできませんが、目の前に鹿島の神様がいらっしゃると思ってお祈りすると、目の前に来てくださいますから、安心してください。

前のほうの方と後ろのほうの方、昇殿される方とされない方。形ある目に見える世界では違いがありますが、神霊世界ではまったく違いはありません。かえって、後ろのほうの方のほうが気持ちが充実して、素晴らしい参拝ができるかもしれません。

いずれにしても、形ある世界におけるハンディキャップは、神霊世界に入るとまったく関係なくなってしまう。そのことをしっかりと理解していただきたいと思います。