鹿島 ~日本霊界風土記~(Vol.3)

団体参拝の意義

もう一つ、団体参拝の意義についてもお話ししなければなりません。

鹿島神宮であれ、どこの神社であれ、個人で参拝するときには、ゆっくりと、心ゆくまでお祈りすることができます。その点、団体参拝では、ある程度、規制がありますので、個人で参拝するときほどゆっくりお祈りすることはできないかもしれません。

しかし、団体で参拝すると、個人で参拝するときの何十倍、何千倍の功徳がいただけます。たとえば、千人で参拝するとしましょう。その場合、神様からの功徳は千人分現れる。

もちろん、中身が極まっておらず、単なる観光参拝ではダメですが、中身が極まった人が一人で参拝するのと、中身が極まった人が五人で参拝するのと、中身が極まった人が千人で参拝するのとでは、功徳が違う。千人で参拝したら、千人分の功徳がいただけるのです。

ご神霊の力は大神力ですから、千人分であろうと一万人分であろうと、中身が極まっていれば、いとも簡単に功徳を出される。

十人で参拝したら、一人ひとりに十人分の功徳、百人で参拝したら一人ひとりに百人分の功徳、千人で参拝したら一人ひとりに千人分の功徳がいただける。これが「団体参拝の意義」です。

物質界の考え方とは違います。大神霊が動くときには、一人ひとりに強い功徳が授かります。千人分が一人ひとりに授かるというのは、千分の一になるということではありません。一人ひとりの功徳が千倍に増幅されるのです。

真心を結集して玉垣─御魂と御魂の垣根をつくって合霊状態になると、それだけ大きな功徳が授かるのです。

千本のロウソクを一つに束ねると、大きな炎になりますよね。その大きな炎の中に「天の御柱」がボワッと立つと、千本分の大きな炎に合った分だけの神霊が功徳をくださるわけです。

日本の神様は太鼓と同じで、大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く。

そして、来る者拒まず去る者追わずで、強制はしません。けれど、真心込めて参拝に来た人には、その真心に合った分だけ功徳をくださる。真心が小さければ、その分だけの功徳しかくださらない。つねに法則に則っております。非常にフェアで平等です。

なぜか。神様は私たちの親神様、親なんです。だから、どんな宗教団体に入っていようと入っていまいと、そんなのは全然関係ない。鹿島の神様や日本の神社の官幣大社、錚々たる神社の神様は私たちの親の親。

これを神道では、「人は祖に基づき、祖は神に基づく」と言います。私たちはご先祖さんに基づいて生まれてきた。

そのご先祖様は神から出てきた。つまり、先祖の先祖の先祖の先祖をずーっと辿っていくと神様に行き着くわけです。ギリシア神話の世界もそうですし、古代ローマ人の考え方も同じです。

人は祖に基づき、祖は神に基づく・・神様とは私たちの大御先祖様なのです。

それに対してキリスト教では、神と人間とは造物主と被造物。造った者と造られ者の関係です。いうなれば、体制側と非体制側です。神社はそうではありません。みな、体制側です。それは親だから。

ですから、神社に参拝するのでしたら、大勢の人たちと一緒に、真心込めて参拝したほうがいい。もちろん、物見遊山ではダメですけれど、大勢の人が極まったら極まった分だけの功徳がブワーッと授かる。

千人で参拝したら一人に千人分ずつ授かります。今日は千人くらいの会員さんが参加しておりますから、一人千人分の功徳が行き渡ります。わかりますか。これが、団体参拝の意義であり、神霊界の法則です。

鹿島の大神様を感動させよう

このあと、神法悟得会の実習があります。そこでミニ剣の儀があります。ちっちゃい剣にご神気を入れます。それから、御手洗池のところでは木刀を振ります。

この団体参拝では皆さん一人ひとりが千人分の功徳をいただく。そして、千人分の功徳をくださった神様をお送りして解散、ということになります。

「昨日の悟得会で出されたそれだけの功徳を団体参拝でいただき、ありがとうございました」と、神様にお礼を申し上げなければいけませんね。

海原びらき神事、そして悟得会に参加された方は、もうフラフラになりながら今日の団体参拝を迎えたかもしれません。しかし、極まった心で来ていますから、一人ひとりのパワーが違います。そのパワーのお蔭で、団体参拝だけの人も大きな功徳がいただけるわけです。

先ほど、ある人が言っておりました。「一度も来たことがないから、今日来たのよ」と。本当にそうであっても、「鹿島の神様にお目にかかりたくって」と言ったら、ご神霊もおなかの奥を見すえて、「まあ、努力してるな。よしよし」と、お思いになるに違いありません。

それを、「一度も来たことないから来たのよ」というのでは、やはり感心しませんね。正直と言えば正直ですが、たとえそうであっても、心を変えてから鳥居をくぐらなければなりません。

そういう心であっても、悟得会に参加した人のエネルギー、頑張った人のエネルギーがガーッと凝結しているから、一人千人分の功徳がいただけます。千人分プラス悟得会の極まった迫力。

それに合った分だけ神様がくださるわけです。そして、私たちの前に現れ出たご神霊に、日本の国運上昇の祈りをバーンとぶつける。一億二千万の日本国民みんなによくなっていただこうじゃないか、と。これが「団体参拝の意義」です。

そこまでの大御心を持ったら、神様は聞いてくださいます。これがやはり参拝をするときのコツですね。心の法則です。

ということで、一応、私のお話を終わりにいたします。涼やかな風が吹いてきました。反応の早い神様って好きですね。

これで、私の参拝前の注意事項を終わりにいたしまして、これから参拝に移りたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)

鹿島の大神様による和歌添削 ~団体参拝後のお話~

神様に真っ直ぐに向かっていったら、真っ直ぐにパッと受けてくださいます。神様は、真っ直ぐな心がお好きです。

ですから、家のこと、会社のこと、いろいろと気になることもあるでしょうけれど、神様のところには真っ直ぐな心で来ることが大事である、と。そういうことを、ご祈願中に鹿島の神様がおっしゃっていました。

それからもう一つ、私の歌について先ほど解説いたしましたが、神様の添削がありました。「つむがりのたち」の解説のところですけれど、本当の意味はちょっと違うということで添削されましたので、ご報告申し上げます。

神様がおっしゃるには、つむがりには二つの意味があって、一つはおつむのことで、パッとおつむを切ってしまえ。

要するに、大事なのはおつむでなくて、おなかだ、「宮桂太敷立て」というのは、臍下丹田の腹に立てるのだ、と。そう神様はおっしゃいました。

臍下丹田に宮柱を立てるということは、真っ直ぐな心になれ、ということでしょう。

つむがりというのは、神道の解説書によれば研ぎ澄まされた刀、ということになっておりますけれども、「つむがりのたち」ということは要するに、頭を刈り取れ、と。大切なのは頭じゃない腹だ、肝だ、魂だということですね。これが一つ。

もう一つは、おつむの「つむ」です。おつむには髪の毛があります。その髪の毛は、霊界ではその人の想念を象徴しております。はげ頭の神様は智恵の神様。怨念霊は激情の固まりで、グワーッと髪の毛を逆立てている。

静かな髪の毛は感情が穏やかな優しい心を表す。そういう髪の毛を切って真っ直ぐな心になれ、というのがつむがりのもう一つの意味である、ということです。

出家するときには、もろもろの思いを断ち切って、杉のような真っ直ぐな心、輝く心になりなさいということで、髪の毛を剃り落としますよね。そのように、もろもろの思いを断ち切れ、丸坊主になって一から出直す気で頑張れ。それがつむがりの意味だと。

そういう神様の解説って、普通の参拝ではなかなかないと思います。あまり聞かないというか、ほとんど聞いたことがないでしょう。

私たちの団体参拝では、それがあるわけです。今回は、「つむがりのたち」に関する添削をしていただきましたけれど、とにかく真っ直ぐな気持ちでやりなさい、ということです。

ただ、真っ直ぐな気持ちで生きなければならないとわかっていても、現実問題、なかなかに難しいことですよね。日々、仕事に追われ、家庭の問題に悩まされていると、真っ直ぐに生きなければという気持ちさえ薄れてきます。皆さん、そうではありませんか。

では、真っ直ぐな心が歪む原因は何か。

いろいろあるでしょうけれど、極論すれば、迷いとか焦り。この二つの心が真っ直ぐな心をダメにしてしまう。

その迷いと焦り、どちらが先に起きるかというと、焦りが先です。焦るから迷うんです。焦らなかったら、一つひとつ着実にやっていけるから、迷う心は起きてきません。

迷っているときの自分を観察すればわかります。必ず、どこか焦っている心があるはずです。

功徳を早くいただきたい、早くよくなりたい、早く家庭問題を解決したい、こじれた人間関係を早く元に戻したい……。時間をかけてゆっくりやっていけば解決する問題でも、焦って進めるものだから、どうしていいのかわからなくなってしまうのです。

そういうときには、順番に片づけていけばいい。心は真っ直ぐにしておきながら、焦らずゆっくり着実に歩を進めていけばいいのです。早く早くと思うから、焦りが出てくるんですね。

武術でもそうです。焦りの心、迷いの心が起きたときには隙が生まれる。そこをバーンと打たれる。ところが、「つむがりのたち」で頭を切ると、余計なことを考えない。余計なことを思わない。

真っ直ぐな心だけがある。だから、隙が生まれない。「神様の道でも武道でも、これが極意なんだ」と神様が教えてくださいました。

なるほどなあ、と思いましてね。ご祈祷の間に、先ほどの私の解説で足りなかったところを添削指導していただいたからわかったことですけれど、私はいつも、このように神様から教育されているわけでございます。便利というか……便利なんて言ったら申しわけないことですけれど、実にありがたいことです。それだけ申し上げておきます。

「御船祭」に参加する意義

鹿島神宮にも御垣内というところがあって、普段なかなか一般の参詣者は入れない清浄な神域がございます。のちほどそこで、宮司さんのご厚意で参拝させていただきます。

ところで、宮司さんのご挨拶の中に、「御船祭」のお話がありましたね。この御船祭は十二年に一度の大祭でありまして、午の年だけに行われております。しかも今年は、天皇様の「即位の礼」と重なりましたので、まことにめでたいかぎりでございます。

セミナーで何度も言っておりますように、午年というのは陽の極まりでございまして、方角でいえば真南です。その陽の気がグワーッと極まり、神力と霊力が最高潮に達する年に即位の礼があるということは、やはり宮司さんがおっしゃったように素晴らしい天の時です。

このたびの海原開きの神事も、鹿島神法悟得会も、天の時だと思ったからこそ、今年、第一回として始めたわけです。

九月には御船祭がございます。九月の一、二日ですか。そのときには、たくさんの船が出ますけれど、一応、ワールドメイトの船も出します。

宗像大社のお祭りもスケールが大きいですが、一番古くて一番スケールの大きいのは鹿島の御船祭です。

まあ、諏訪大社さんとか、大阪の住吉大社さんの場合は、オールラウンドに氏子さんがいますけれど、ここ鹿島は片方が海側になっておりますので、オールラウンドに氏子さんがいるわけではありません。海の中には魚がすんでいるだけで、魚からはお玉串はいただきません(笑)。

その分だけこんなに素晴らしい神様がいらっしゃって、日本の国を守っている、と。まさに鹿島は日本の心であります。

鹿島の神様は大神霊ですから、どんな功徳も授けてくださいます。しかし、鹿島の神様もこの清浄な神域を守り、神職さんたちの生活を維持していくためにはある程度、お玉串が必要です。

森が荒れますと、気が乱れて、ご神霊の霊力も衰えていきますから、神域はいつも清浄に保っていなければいけない。そのためには、ある程度のお金が要るわけです。

それに役立てるように、という気持ちでするのがお玉串。本当は、お榊だけでも喜ばれるんですけれど、現実界に神社があるかぎり、現実界にご神霊に降りてきていただくには必要なことであります。

そういうことで、御船祭に際しては会員の皆様の心を集めて、ある程度、鹿島の神様にお玉串をさせていただこうと考えております。まあ、参加するのは五十人ぐらいでしょうか。あるいは百人ぐらいでしょうか。

たくさん船が出る中で、ワールドメイトの会員だけが乗る船を用意していただきまして、私たちの気持ちを結集したい。そして、皇室と日本の国を守るべく、鹿島の神様に大いに奮い立っていただ
きたい。そう考えております。

十二年に一度のお祭りですから、参列させていただくことを喜びとして、お祭りを迎えたいと思います。

私たちもそういう気持ちでやらせていただきます。といいますのも、やはり伝統というものは大切にしなければならないからでありまして、それについては昨日、鹿島神法悟得会に参加された皆さんに詳しくお話ししました。

白隠禅師と盤珪禅師

どういう話をしたかといいますと、日本の禅宗には白隠禅師と盤珪禅師という二人の大きな人物がおります。二人の特色は、社会の底辺に住む人々にも禅宗の教え、すなわち妙と玄の道を広げたことにありまして、言行録を見ましても、二人とも実に素晴らしい。

ところが、盤珪は一代かぎりで終わってしまった。一方の白隠は法系を残した。

これまで何度も講義をしてきましたが、今の禅宗は全部、白隠の系統です。この白隠がいなければ、禅も臨済宗も隆盛の道はなかったといっても過言ではありません。

だからこそ、白隠は「臨済宗中興の祖」と呼ばれ、五百年に一度の天才と称されているわけです。

では、白隠禅師と盤珪禅師、どこがどう違うかと申しますと、白隠は応燈・関、すなわち大応国師、大燈国師、関山という臨済宗の伝統的な流れに基づきながら、禅の真実を語った。古典と伝統を踏まえ、そこに白隠独自のオリジナルな公案を加えて、民衆を広く教化したわけです。

つまり、皇紀二千六百五十年の惟神の道の伝統と古典、および、その法脈・霊脈・神脈を踏まえたうえでのオリジナルな解釈とか表現力を出していくからこそ、広く民衆に道が伝わるのであって、伝統を踏まえたものでないと長続きしないんですね。

整理と白隠の歴史を見たら、そのことがよくわかります。

皇紀二千六百五十年の歴史、日本民族の目に見えざる世界。それがあるから目に見える世界があり、私たちがある。先祖と神と歴史と伝統の重みというのは、実に偉大なものがあるわけです。

そして、十二年ごとに行われてきた祭りの伝統、惟神の道のしきたりの中には、やはり、変わらない真実なる輝きがある。

それを学んで、自分のオリジナリティー、自分の場に生かす。そういうふうに、継承されている伝統と古典を謙虚に学ぶ心、学ぶ姿勢がないと、やはり自分だけで終わってしまう。

子どももそういうふうに教育していくと、家が続いていきます。

二千六百五十年にわたって一つの家系が続いているというのは世界に例がありません。一つの家系が二千六百五十年も続くということ、これはもう、世界の人たちにとって驚異尊敬・驚嘆の事実なんです。

外国に行き、外国人と話したらわかります。オーストラリアの建国の歴史はたかだか百年、アメリカでも二百年ちょっとにすぎません。イギリスでもせいぜい七百年か八百年です。たとえ千年といったところで、日本の皇室と比べたら大したことありません。

私たち日本人は、二千六百五十年という歴史と伝統の尊さ、ありがたさ、偉大さというものにもっと誇りを持っていいのではないでしょうか。

二千六百五十年の厚みと重み。こういうものをやはり考えますので、ワールドメイトの会だけではなく、そこで学び、吸収したものを、伝統的な惟神の道に同化していき、会員の皆様、あるいは日本の国民とともに日本の国、惟神の国、神社神道、そして日本の神様のために大いに役立ちたい、というのが私の基本姿勢でございます。

ワールドメイトの中心になるのは皇大神御社でございます。どのような神社とも融合し、惟神の道が広く、大きく、隅々まで伝統が復興する。要するに、惟神の道のルネッサンスになればいい。そう思っております。

そこが私たちの特色です。ですから、鹿島の御船祭のときも、氏子さんたちの船と一緒になってワールドメイトの船を出します。ワールドメイトの船に乗り合わせる人はみな、心を極めて、船そのものがピカピカと輝く。

ほかの船と一緒に光り、より一層光りながら、十二年に一度の御船祭を盛り上げていきたい。そのために、大いに神様の力を発揮していただきたい、というふうに考えております。

何ごとも、そういう気持ちでやっております。理由があってやっていることでございますので、ご理解いただきたい。

そういうことで、これから皆さん、宮司様ほか鹿島神宮の皆様のご厚意によって全員、御垣内の参拝をさせていただきます。

その際には、皇紀二千六百五十年の歴史の厚みと重み、神気の充実というものを肌で感じていただきたい。これから御垣内参拝を行いますので、よろしく心を引き締めて、一本真っ直ぐな心でお参りしたいと思います。ということで、これにて私のご挨拶を終わります。どうもありがとうございました。(拍手)

神社の近くのお店にお金をおとすことの意義 ~御垣内参拝後のお話~

まったく関係ない話でございますが、このまま帰る人もいらっしゃるでしょうね。

でも、スッと帰るというのは趣がありません。せっかく鹿島神宮に参拝させていただいたわけですから、やはり境内の茶店に… 言わなくても寄るとは思いますけれども、鹿島のお水がよろしいので、ここのお蕎麦は非常においしいです。

この境内のお店、あるいは近くのお店は、鹿島神宮のお蔭で成り立っておりますので、そこにいくばくかのお金をおとしますと、喜ばれますね。

その喜びが鹿島の神様への感謝の心になるわけでして、私たちは神社に参拝したら、必ず近くのお店で何か食べたり、買ったりします。この元気づけというか、お金をおとすこと、それがまたいいわけですね。

いろいろとお勧めはありますが、あとで行きます下の御手洗池の茶店、そこのお蕎麦がおいしい。池には鯉がいます。

鯉がいるところには龍神がいるんですけども、その池のところにある茶店のお蕎麦、これがわりとおいしいですね。私が個人的においしいと思っているだけなのかもしれませんが、とにかくおいしいです。

御手洗池のところにある小さな茶店、お水がいいのか調理がいいのか、小さなお店ですけども、それなりにおいしいお蕎麦です。

別に、無理にお蕎麦を食べろと言っているわけではないんですよ。お蕎麦が好きな人はお蕎麦をお食べになったらよろしいのではないか、と。

どこへ行っても、特産物、名産物があれば必ずいただくようにしております。伊勢神宮では、てこね寿司。それから、何といっても赤福本店の赤福餅がおいしいです。

鹿島ではお蕎麦とみたらし団子、これがお勧めでございますので、お帰りの際はゆっくりと気を味わいながら召し上がったらよろしいのではないでしょうか。

皆さん、奥のほうへどうぞ。鹿がおります。鹿島神宮の鹿は非常に闘争本能の強鹿でして、安芸の宮島に行きますと、やさしくて穏やかな鹿がおります。

いかにも弁天様という感じの鹿ですね。ここの鹿はまさに「鹿島!」という感じの鹿でございます。エネルギーがあり余っているというか、闘争本能があるというか、剣道の練習をしているというか……。

ちょっと奥へ行くと鹿がおりますので、餌をやるか、ご苦労さんとねぎらうか、とにかく奥に行くと鹿がおりますので、ゆっくりと神気を吸収して、情感を残しながら帰っていく、と。

ビジネスに来たのではございませんので、参拝の余韻を十二分に楽しんでいただきたいと思います。

そういうことで、老婆心ながら一言申し添えておきます。

(編集部注 以上で団体参拝は終了。悟得会参加者は実習のため境内を移動しました)

よく当たる鹿島の神占 ~要石へ移動中のお話~

それから、言い忘れましたけれど、鹿島神宮では神占といって神様の占いが有名です。神占というのは古くからありまして、非常によく当たるというので、皇室および武家の統率者は、よく鹿島に詣でて神占をしていたといわれております。

どういうふうにやるのかといいますと、ご神前に亀の甲羅をおいて火で割るんですね。それを見て予言をすると、それがぴたりと当たるんですよ。

ところが、中世江戸時代になりまして、それを勝手に解釈して販売する人が現れまして、それで乱れてしまったので中止にしたらしいです。それまではずーっと行われていて、とくに鎌倉時代には鹿島の神占というは非常によく当たるということで評判になったそうです。

神柱の立つ鹿島の森

皆さん、見てください。樹木の佇まいが何ともいえないほど美しいでしょう。私は、ここが鹿島で一番好きなんです。樹木の右、左、なかなかいいですよね。

鹿島神宮で一番素晴らしいところです。関東エリアでこれだけの樹齢を誇り、かつ密度の濃いご神域はないんじゃないですか。どの樹木も、剣に見えますね。

こうやって歩いているとき、行進曲がかかるとカッコいいんですけどね。今度、「鹿島団体参拝」という曲をつくってみましょうか。

左手に見えてまいりましたのが、鹿島神宮の鹿でございます。何かちょっとカンガルーみたいな感じです。餌をやりたいかもしれませんが、いまはちょっと辛抱して、次回ということで。

ほら、このあたり、上からいろいろな星の波動が降りています。北極星だけではなく、アンドロメダ天界、冥王星、土星、あらゆるものが降りています。

この神域の中には一つだけでなく、いくつも降りています。天界からのパイプロというのは、こういう参道のごく普通の場所にあるのです。やわらかい気が降りてるところがあります。何本も何本も降りてます、神柱が。だから、森の神域というのは大事なんです。

今度、一人、二人で来たときには、ゆっくりと時間をかけて、神気をいただくつもりで歩いてみてください。

もうそろそろ奥宮があります。普通、奥宮がありましたら、奥宮にお参りするんですけど、奥宮よりも神域の樹木を見ながら気を吸収して歩くことのほうが、より重要です。

皆さん、どうですか。自動的に足が動いてるでしょう。感じません?自動的に勝手に足がクックックッと進むんですね。このあたり、気が徐々に濃くなっていっております。

海原びらき神事のときのあの柔らかい気は、鹿島神宮のここから来ていたんだな。

「要石」に隠された天の秘密

皆さん、ここが「要石」でございます。

本当に気持ちよかったですね。ここに来る道すがら、何カ所かフワッと温かい気があったり、香ばしいものがあったり、口に甘いものがあったり、ピシッと引き締まるものがあったり、いろいろと変化がありましたでしょう。

それが感じられずにただ歩いている人は、「ああ、清々しいね」と言うだけなんですけれど、神霊界のことに鋭敏になってきますと、その場に立ったときに、上からパッと降りてくるものが感じられて、男神か女神かくらいはわかります。怒ってるか喜んでるかくらいはわかります。

では、ちょっと「要石」の解説をしてから私が祝詞を上げ、神刀に神気を入れまして、皆さんに一つずつお渡しします。それから剣を抜いて「弥栄!弥栄!弥栄!」とやると、パッと剣に神気が入ります。剣に何を入れるのか。それについてちょっとお話しいたします。

ここには天界からのパイプ口が降りておりまして、その上にはある星の神界の武器弾薬庫がございます。

神霊的な武器弾薬庫とは、現実界では、金の力、人材の力、組織力、体力、気力、名誉や権威、情報力、文章力となって強い働きを持ち、私たちの現実生活を確実に豊かにしていきます。

この「要石」は別名、鹿島神宮の臍といわれておりますが、地上に見えている部分は小さな石なんですよ。小さな石ですけれど、マルにチョンになっています。前のほうの人は「ははーん」とうなずいています。

後ろのほうの人は「うーん、見「えない」と言っているようですが、あとで見てください。石がマルになっていて、石の上にチョンがあります。

これが不思議な石でして、真冬に雪が降りますでしょ。すると、このあたり一面、雪が積もるんですけれど、「要石」のところだけは積もらないんです。ということは地熱があって熱いんです。

ですから、「要石」のところだけは相当、雪が降りましても積もらないんです。

で、神社の案内書を見たらわかりますが、この「要石」が地震の神様。地震が起きるのをこの「要石」が抑えている。だから茨城は大地震がないんだといわれております。

面白いことに、掘っても掘っても「要石」なんです。だから、いったいどれくらいの石なのか、見当がつかないんです。一説によると、この神社からこの地域一帯は全部、石の上にあるといわれております。

ほら、説明しただけで足の裏が熱くなってきたでしょ。

この「要石」を地下、どこを掘っても石なんです。では、「要石」はどこまで続いているのか、それを突き止めようという人がいまして、コツコツコツコツ掘ったんですよ。

そうして何日かたったら頭痛と吐き気に襲われて、病院に担ぎ込まれたんです。当然のことながら、祟りです。ご神体なんですから、興味本位で発掘されると困るわけです。

ご神体ですから、この石自体にもう龍神様が入っております。大地の龍神。大地の要から来て、そして上の北極神界の神気を受けているのがチョンで、そのパイプ口になる磐境なんですね。天を仰ぎたてまつったわけです。

もっと本当のことをいいますと、大地の金神様がいて、これが揺れますと本当に地震が起きたりします。大地の金神。まあ、国常立大神様のエネルギー、大地が凝結したエネルギーですね。

で、この「要石」は、大地の金神の右の目になっております。目玉なんです。

左の目は隠していて、これは金神様の右の目に当たります。だから、地面の下は目玉のような格好をしているんです。最低十キロメートルぐらいは続いているんじゃないかと思うんですけどね。

どこを掘っても岩盤になっていて、どこまで続いているかわからない。下か横か知りませんが、それくらいの岩盤の上に成り立っている金神の右の目に当たる。右の目に受けているわけです。

どうですか。足の裏にぐわーっと熱いのが下から上がってきませんか。大地の金神様の神気というのが下にある。どうですか。体で感じますか。下から来るのと上から来るのと、両方あるんです。

ということで、この「要石」は謎の石といわれております。この要で地震が起きないし、鹿島神宮の臍になっているといわれているんです。どういう意味なのか、誰も知りません。来たときに神様が一つずつ教えてくださった。

ああ、熱くなってきた。それではいまからちょっと、祝詞を上げます。

(祝詞奏上)

ここにいらっしゃる金神様というのは、姫金神です。月偏に要と書いて腰という字。西の女ですから、要という目なんです、要石は。姫金神さんの右の目です。

どうですか、臍のところに何かピッと入りましたか。要が入った人、手を挙げて。

そこに入ったんです。

下津磐根に宮柱… という話をしましたけれども、下津磐根の臍下丹田、ここにピッと芯が入った。ここに武器弾薬の、目に見えない功徳が授かった。その功徳は三十年続きます。頑張った人は五十年。一応、三十年で一区切りです。

真心込めて、澄みきった心でご奉仕するという真っ直ぐな心のときに、ウワーッとこの功徳が出ます。その代わり、邪の心のときには自分を戒める剣に変わります。

そういうときには、「すみませんでした。悪いのは全部、私でございます」と言って反省する。人が悪いと思っていても自分が悪いという観点をつくって、なぜ自分が悪いかと考える。それが反省のコツです。

で、「すみませんでした」とお詫びすると許してくれる。許してくれたらパッと変わる。増長魔、我と慢心が出たらそうやって己を省みる。そうしたらすぐに原点に戻ってスタートします。

人生には山坂がありますから、いつも澄みきっているとはかぎりません。真心で澄みきった心とはかぎりません。だけど、原点に返る習慣をつけておけば大丈夫です。これが「魂の咀嚼力、御魂の力」なのです。これをぜひ修得していただきたいと思います。

これから急ぎ足で御手洗池に行きます。その御手洗池には龍王がおります。だから、御手洗池に大きな鯉がいるわけです。鯉がいるところには龍神がいるんです。

いろいろいます、小さい龍神はね。でも、中心になるのは御手洗池の龍神です。では、足並み揃えて移動しましょう。

(編集部注 このあと参加者は急な坂を下って御手洗池へ移動しました)

心のバネを持て ~御手洗池でのお話~

鳥居がなぜここにあるかといいますと、神職がこの御手洗池で斎戒沐浴しまして、潔斎をする。身を清め、禊をいたします。

そして、神主衣装を着て、帯をビシッと締めて、心がギュッと極まってからお祭りをするわけです。そのときに神様が見ておられるので、この御手洗池のところこそ、先ほど申し上げたようにお祭りをする者にとっては一番の勝負どころ。

ここで成功するか失敗するかが決まるわけです。だから鳥居があって、あの奥に湧き水が出ている。

だいたい湧き水が出ているところには龍神さんがいる。その龍神も中途半端なものではありません。何十キロメートルというほどでかいものなのですが、御手洗池はその最高の窓口になっております。霊的な空間ですよ。心が通じる窓口です。

それでは、皆さん、よろしいですか。いまからここで木刀を振って神様をお呼びする神法を行います。準備はいいですか。それでは開始!

(木刀による神法の実習)

(編集部注 鹿島神法悟得会で伝授された神法です)

どうですか。体中からガーッと元気がみなぎってくるでしょ。

鹿島の神域を歩いた思い出。あの感覚、あの景色、あの情感。これを心に刻み込んでください。

それから、階段を下りてくるときに「これは大変だぞ、上りは。上りは大丈夫か「な」とつぶやきながら歩いている人がいました。これも失格ですね。悟得会を受けた人は、「上りは大丈夫だ」と確信を持たなければなりません。

そのための一つの方法を教えてあげます。物理的にいえば当然、下るより上るほうが大変ですけれど、非物理的に行けばいいんです。

どうするかというと、

「かしま! かしま! かしま!」と言いながら坂道を上っていく。そうすると、下りより楽です。体も疲れますが、疲れる以上に神力をもらいますし、剣をもらっていますから、どんどん上に上れます。

これくらいのことができないと、神の道を目指しているとはいえません。

もし、「大変だなあ」という気持ちになりかけたら、パッと気持ちを逆転させる。そういう心のバネを持っていただきたい。帰りはそういう気持ちで行ってくださいね。

富士山を登るときでもそうです。「ああ、これは大変だぞ」なんて、誰一人言いません。富士講の人たちが富士山頂を目指すのは、ご神山だからでしょう。

霊山だからでしょう。お山に登るのがご神業であり、修行だから登るのであって、「これは大変だぞ、登るのは」なんて言いません。そんな弱音を吐くぐらいだったら、最初から登らなかったらいいわけでしょう。

富士山は日本一高い山。そこに登ることに意義がある。お蔭がある。だから登るんです。ここも同じです。富士山に登るのと同じです。でも、ここの坂道は富士山より低いです。

富士山に登るときには、夕方に麓まで行き、そこから不眠不休で歩くんですから、山道を。酸素が欠乏してムカムカする。

それでも、「六根清浄! 六根清浄!」と唱えながら一歩一歩踏みしめていくと、いつしか登りきれるんです。そうして頂上に立って見る初日の出というのは、本当に感動する。苦しみを超えて登ってきたわけですから、その感動も並大抵のものではありません。

そこに一つの道がある。皆様がこの坂道を上るときには、「六根清浄」ではなく、「かしま!かしま!かしま!」で上っていく。そして、「明日は今日の十倍元気だあ!」と、己の気持ちをパッと切り替えていく。

「心外悟道なし」… 心のほかに悟りの道なし。もともとは禅の用語で、心の切り替えの大切さを教えている言葉です。パッと逆転する。凶を吉に、吉を大吉にパッと変えるものの考え方が悟りの極意なのです。

心外悟道なし。自分の心をそうやってパッと切り替えたとき、妙力とか玄とか神力とか、不可思議な神なるものが出てくるわけです。悟得会の最後の締めくくりとして、そのことを心に刻み込んで、明日から頑張っていただきたい。

どうですか。木刀を振っているうちにどんどん力が出てきて、ずっと振り続けたくなったでしょう?私も恍惚としてきて、果てしなくやってみたいという心になりました。

最初は大変でも、やっているうちに神がかるから、やっているうちにどんどん振り下ろすスピードが速くなる。私の祝詞もそうだったでしょう?時間がたつにつれて速くなって、果てしなく速くなる。

そうやって神力や他力というものを得た人は、やればやるほど元気になるんですよ。自力がなくなればなくなるほど他力が出てくるから元気になる。こういうふうに意識を改造しなければいけませんね。

木刀でもそうだったでしょう?最初はただ一生懸命やっていましたが、やっているうちに恍惚としてきて、気合で声をでかくしたんです。

無我夢中になったら、もう、いくらでも神様が加勢して、力を与えてくれる。大切なのはこの呼吸です。この呼吸を忘れないでください。

ということで、現地解散いたします。このあと、神域をゆっくり散策したい人に私が推薦するのは、この二つの茶店のおいしいお蕎麦。

食べてみてください。時間のない人は、「かしま! かしま! かしま!」と言いながら急いで帰ってください。

ということで、これにて終了といたします。(拍手)