神との語らい

簡単そうで一番難しいものが、
一日も怠らずに、神仏に祈念する
朝を迎えることである。

神をいのりて神が聞かぬことはない。
皆で祈れば祈るほど、事は早く成就するなり。


山を見て、美しいなと感動して言葉も出なくなった時が、
自分の気持ちの故郷である六次元を押し開けている時である。

※六次元…人の知覚できる上限の神界。芸術的・創造的・文化的であり、すがすがしく繊細で、高貴にして雅やかな世界。次元界の構造は、私たちの暮らす三次元の上に、四次元(霊界)、五次元(神社の神々様がおられるレベルの神界)があるが、第六神界はその上に位置する。人が高貴な創造の思いを発して、こんなすばらしいものがあればいいな・・・という、そのイメージの中身が、第六神界からキャッチしたイメージである。


暑いときから寒さはあり、
涼しいときから心暖まるものがめばえる。
それは、ゆかしい人にしかわからぬ
天の進化の妙なり。


飛ぶ鳥は物を案じわずらうことなく、
咲く花は、人を疑うことなく、
手折られても、それで文句を言うことはない。
それより他に、人を幸せにすることを知らぬ、鳥よ花よ。
そのままが、神の化身の姿に相違ない。


どうしても神と話しがしたいのなら、
さえずっている鳥にされよ。

神の姿がどうしても見たくば、山の姿、海の姿、
花々の笑顔を見られよ。

それでもなお神のことがわからねば、
思い切って人を信じ愛してみられよ。

その気持ちが神心に等しい。
神は知るものではない。


ただ恋してさえいればいいものなり。
それが神と人との本来の姿なり。

恋愛も親子の愛も、この一端を告げるものである。
恋しい、なつかしい、親しい、ふるさとを求めるかなしみ、

全ては神と人との間ができて以来、
人に残った魂のなごりの感覚なり。
これは、人の心にいつも宿っている古代のなごりであり、
六次元神界を今一度もとめる人の本能である。


神の喜ぶことは
人の喜ぶことである。


遠き世界に世界に神居まさず
人の世界に神はある。

人の世界のしがらみは
人がみずから作りしこと。

なんぞ神をのろうことあらん。


安心せよ。神は身の内にあり。
どこにも逃げず離れぬものなり。

ただ忘れていたか、無意識だったがために、
見出せなかっただけである。


人間とは神の化身であり、神の息吹きであり、
神の心である。

心の中を見よ。人類の歴史を見よ。

いくつものヒントがあり、
そこに神の姿とドラマに顕われでた神の心や教えを知るであろう。


人間にあることを知ろうとするならば、
歴史を見よ。

やれば出来るぞ、
過去に誰かがしたことは。


新たなるものに古きものを見出し
古きものに新しきものを見出す
これ明天通なり

古きものに道があり
新しきものに栄えがある

古きと新しきをたばぬるは全覚の智者
全天の認証するところなり


人間の妙なる悟りや知恵とは
ほとんどが高貴なる書物を精読した後に
触発されて出てくるものである
それを研鑽の第一となせ

高貴なる書物を読んでも
何の知恵も浮かんで来ぬのは
蓄積が足りないからである

焦るに及ばず
高貴なる書物とは
名文であり明智であり
明解であって
著者の生き様が立派で
尊かった書物である


習作を繰り返して初めて大作が仕上がる
習作の労を惜しむなかれ


心配御無用。

人間はいつでもどこでも勉強する時間をもっています。
場所もあります。

ただそれを見つけられない人が多いだけです。


知っていることと知らないことをはっきりさせるのは、学問の始めであり、

それは謙譲の美を体得している人によってはじめてなされる。


知らないことが解るようになった。
それだけで、大いなる御魂の向上である。


もっと解るようになりたい。
それだけで、大いなる求道心である。
もっと偉大な人物になるように己を磨きたい。
それだけで立派な神人合一の道を歩んでいる。


悟りとは何か。覚悟である。

死者も生者も道を悟り、
天意を悟ることが出来ぬのは、
覚悟が甘いからである。

覚悟の最上のものとは何か。
我を捨てることである。

人間は皆小さな我にとらわれて、
慈悲も協調も透徹した精進もできぬのである。
我とは小心と考えてよい。

小心なるが故に、人が許せず、
小心なるが故に、大局から見て必要な時に
自己の主張を没することができぬのである。


大心なれば人を許容し、
これを没するときには見事に没して、
精神と生き様の真価を発揮することができる。

まずは、なまくらから追い出せ。

小悟に安住しているこれをたたき出すのじゃ。

悟りなきところ、信仰も神業もなきものぞ。
悟りなきところ、進歩も向上もなきものぞ。

進歩と向上なきところ、
生まれ来たった意味もなきものぞ。

さぁ、汝は何を悟り、何を覚悟するのじゃ。
言うてみろ、言うてみろ。


年を取って情熱のない人は、
信仰をしていても、
神の愛を常に受けている人とは言えぬ。


老化するのは
冒険心がなくなるのが原因である。

冒険心がなくなると、老化する。
健康と体力は、気力と精神力の結実である。

気力と精神力とは、
冒険心によってこそ生み出されるのだ。

冒険せよ、冒険せよ。
勇猛の自己を失うなかれ。

頭の老化より、霊体が輝きを失い、
御魂が退化する方が問題である。

何のために生まれてきたのかを、
日に実感していたら分かるはずだ。

冒険心とは、
未知のことへのチャレンジであり、
不可能と思えるおじけ心と、
面倒だと感じる心を越える、
御魂の力の発動である。


知足安分は六十からでよい。
それまではただ積極果敢たれ。


精神統一は瞑想にふけってなされるのではない。
生活を通し、芸術を通し、
真諦に達するまでの肝ねりでなされるものなり。


何事も好意的に受け取って、
神様に感謝する材料をさがす。
日々の生活修業は、
受け取り方の修業である。


自分の身の回りにこそ
全ての解答があり、
全ての指針がある。


発見というのは、
見つけようとしてできるものではない。

その探求の態度を神は見て、
パッと覚らせていただく。

是れ妙智と言うなり。


やっぱり自分の身の内から出た言葉でなくば、
魂が入っている言葉とは言えない。

ただしい言葉は、常に自分が経験し
体得できている言葉である。


用心せねばならないのは、常に今の心である。

萬の行いを正し、萬の言葉をつつしみ、
いつも心に太陽のかがやきと、
月のロマンを持つべし。

人に対しては、
月の光の如き柔らかな思いやりと、
時には静月をいっそう静かにするために、
嵐を呼び、雷雨にまじりて神を入れる喝が要る。

滞っている有明け月の雲霧は、
風神によってふり払うのである。

こうして、人と人とが天地の風情と相合して
古きを知り、
新しき日々にわれを新ためてゆくことができる。


天は二物を与えずとか、
人は生まれながらに
定まった宿命をもつ、とか言われているが、
本当は、全て前世で培った分だけしか
天賦の才として備らない。

人をうらやむな。
前世の貯えが異るだけだ。

今世磨けば、その分だけ功徳が備わり、
来世までも持ち越されるなり。
来世に持ち越しが可能なものは、
信仰、芸術、学問である。


自在とは、いかなる品の人とも心地良く、
楽しく付き合う柔軟な品性を言う。


尽くしたらそのあとを追憶する人多し。
報われぬことをなげく人さらに多し。

それは、自分を捨てて愛そのものになりきって
いないからである。


色々あっても神とともに生きる人間は
全ての結果が吉になることを信ぜよ

まさに神はそのように守護しているなり


焦燥が全ての災いを出だすなり
乱言、乱行、乱動、みな焦りによりて出ず


玉磨かざれば光らず
磨きすぎればすり切れるなり
どこを適当とするや
玉磨くにも強弱のアクセント
弛急自在のリズムがいるのである。


善悪正邪をそのままにしておく人が
事なかれ主義の人である。


整理整頓が最も大切。
心の整理を修業するからなり。


何事も中途半端は神きらう
徹底的に遊ぶのも仕事


適当にやれば結果は杜撰なり。
真剣不乱な日々に幸あり。


どこが悪いということはないが、
どこがいいともいえない。

こんな時は最も危険なときである。

ひたすら物に打ち込むまで

魂は眠っているぞ、
という警告である。


ぐずぐず不足が出たり愚痴っぽくなるのは、
今なすべきことがらに
身も心も懸命に
励んでいないからである。


自分の今のだらだらした気持や心を
自分の性質だと思っている。

その自分は、
次の瞬間にたちまち消えてしまうものなのだ。
自己の革新とは、それを信じなければできるものではない。


やっぱりあいつはだめな奴。
そう思われるのは、投げやりになる人柄である。


注力散漫なれば事為らず。
万事に注力の集中こそが大切である。

どうすれば注力の集中が為されるか。

それは、
興味と関心のあることから
深く掘り下げて行けばよいのである。


努力してただできると思うなよ。

人間とは勝手なもので、
自分が努力した分だけ
進歩するものだと思っている。

そうではない。

誠がいる。
愛がいる。
工夫がいる。


人をたよりとせず、神をたよりとし、
みずからの努力で切り抜けて行け。
弱気即ち邪気なり。


慎み深くして勇猛果敢、
これが本当である。


名は出すものにあらず
おのずから出ずるものなり。


女性が最初の赤ちゃんを生んだ後に
最もすばらしくなるのは、
ただひたすら神を行じているからである。

赤ちゃんが飲み易いように
ミルクを温め、風呂に入れ
夜に起きてワンワン泣いても
健康な証拠だからかわいい。

おもらししたかなと気配りし、
発熱しているのかなと心配したりする。

自分を忘れ、ただひたすら相手のことを思い、
愛念に満たされている。

他人に対しても、物に対しても、
かくの如くあれば即ち
神人合一せる人である。


甘えているうちが両親のある証し。
人に甘えず、神に甘える。
神を父と見、母と見るべし。


天真爛漫な人は世界の宝である。
その気持ちが天を楽しみ
喜びとしているからである。


叱られているうちが花。


芸術家であり、宗教家であり、文学者であり、
哲学者である凡人がいい。

世界狭しと活躍する国際人とは、そんな人である。


いやなことはいかに軽く言うか。
いい事はいかに重く、
本当にいいなと思えるように言うか。

それが極意である。


どんなに大変な時でも、
死ぬことを恐れなければ、
目の前にあるものは静なり。


むつかしい顔をしていると
むつかしいことがやってきて
簡単なことがわからなくなる。

神と人が一つであらば天真爛漫であり
ひとつひとつが生き生きとしている。

日本の魂はこれをもって徳とし、
人を化する働きをもつなり。

太平の世とは大和の心の花咲く世であり、
神のことを喜び楽しむ世である。


それが足らぬ故
今までの競いやけんかがあったのである。

あらそいのなくなる世とは、
楽天のむねのぼたんをあけ放つ世なり。

神も人も天真爛漫のものがより本物である。

すばらしいものはむつかしいものや
あたまをひねる困難なものでないことを
知ったのが悟りである。


一切向かうことのみを思って、
過去を見るなかれ。

これが只今に生き、
御魂が強くなるこつである。


人形でないぞ。
皆心が宿っているぞ。

ものいう時は人に語らず、
心に語るようにせねば、
行き違いがあるぞ。

いつも心が心に玉をころがす想念で
はなしをされよ。


自分のことを知ってもらいたいのは
人の常である。

しかしその気持ちを持っているうちは、
納得行く人生を全うできるものではない。

神様が知っていて下さり、
たった一人でもいい、

心ある人が見ていて下されば
それでいいのだ。


楽しき宴を催すには、大変な裏方の努力と工夫がいる。
これをやれる人が、本当にかみを行ずる人であり、
これを窺い知る人が、愛のみがけた人である。


人知れず修めし修業、
人知れず為せし悪業、
全てを神は知る。

報徳と裁きのあるは、
平等の神徳なり。


宝を求めてはならぬ。
力徳相応にさずかるものだから。


行人来人回人ゆくひとくるひとめぐるひと
皆天地のはい
悟るべし


随分磨けたようでも、
大変な修業が多く残っている。


大きな気持ち持つ修業。
小さなことに気を配る修業。
人の心をつかむ修業。


人の心にとらわれず、
冷静に為さねばならぬ
決断をする修業。


大悟徹底の人とは、一枚また一枚、今の個我の皮を
自分でぬいで行く人のことである。


本人が本人を取り締まる。
そんな人を育てるのが教育の務めである。


精進とは
持続力なり


世界中で自分一人になってもやり遂げるのだ、
という気持ちでなくば、人はついてこぬ。


魂磨きの独り道は、
日々の生活を行う時の想念の行である。

修業というのは、
想念のもち方を、
いかに感謝と進歩のみにしてしまうかである。

それより他に修業といえるものはない。

その他の苦労は
自分を広げるための焼き入れやかざりであり、
その苦労自体なんの誇るべきものを有していない。

ただ自分の我が他人の我とぶつかったか、
一人よがりで苦労だと思い込んでいるだけである。


修業とは、
業(なりわい、こう)をおさめると書き、

苦労とは、
労(今あることにつとめること)
苦しむと書く。

その苦しさや辛さの正体は悪想念なり。

故に想念を工夫するよう改めつつ、
日々の生業に業を修めよ。

励んで励んで励み続け、
そうして今に生き続けるより他はない。
それが本当の魂磨きの人生である。


すすみては止まり、すすみては止まり、
ひとつひとつのたねを育てては収穫し、
また育んではつぎの種をまく。
これが信仰の成果を上げるサイクルである。


人の一生はとうてい人慮で押し測れるようなものではない。
それは一人で生みつづける生産活動である。

それで一生というなり。
一人とは”ひとり”なり。

六次元の人はひのとりをたかめ育む人である。

ひのとりとは、「日」に向かって
ただ一羽になって大空を飛びつづける心であり、
直なる魂の真の姿なり。