神との語らい2

天国か地獄かと聞かれたら
死んでみるまでわからんと言い
只今に全力を尽くす人が、神に愛されている人である。


神が嫌うのは、われよしである。

自分では気が付かないわれよしを、
見逃していることが最も恐ろしい。

そのわれよしのために自分は善人であると思い込み、
人をせめるからである。


おじけとは、なにかの邪霊がさよっているのである。

それは我があるか慢心があるか、
いずれかの性格の影にすくうのである。


ぐずぐず不足が出たり、愚痴っぽくなるのは
今なすべきことがらに
懸命に身も心も励んでいないからである。


中途半端になっている仕事を、
一つ一つかたづけていくことが
修業であり、虚心であり、
非凡に至る道標というものである。


注力散漫なれば事為らず。
万事に注力の集中こそが大切である。

どうすれば注力の集中が為されるか。

それは、目的をはっきりとさせ、
目標を日々に
小さくくぎることからはじめることだ。

そして、自分を忘れる程に
楽しんだり喜んだりする
工夫を為せば良いのである。


つくづく自分がいやになったとき、
「さあ、死んだ。自分はもう死んだ。」
と思いこませ、その日は寝よう。

その翌朝、夜明けとともに新しい自分が蘇生するのである。


生きても死んでも同じだといつも念じ、
精一杯やるだけだと決意した時、
人に本当の度胸が生まれる。


やっぱりあいつはばかだと言われる。

逆にそんなとき、
あんなこと言う、
ひどいばかがいるもんだと思っていると、
全てが平気になる。

増長にならぬ程の、他人の気に負けぬ心の位を持て。


すごすごと頭をかかえ
「すみませぬ、自我がでておりました」
といって神に詫び、自己を振り返る。

それが神につかえる、まことの人の修業なり。


大変な人が来た。どうすれば良かろうか。
「ただただ相手に喜んでもらえばいい。」

咄嗟の時は神に祈ろう。

人と会う時、物事をする時、
常に自分をそう持ってゆくことで道は開けるものなり。
それは、自我をなくすのに最もすばらしいありかたであり、
修業でもある。


人をあなどるな。
どんな達人がいるかもわからんぞ。

自分の考えや概念の押し付けが最も悪い。
色々なことを知って、
いろいろなことをわきまえておれど、
肝心な人を生かし、
人を育み、
人を生成化育する働きのないのは、指導者とは言えぬ。

人を育み、
生き栄えさせるものは、
ただ観音自在の心とあり方である。


度を失うと全ての調和をなくすなり。
度と申すは、心の安定であり、

真理に基づいた精神と肉体のバランスのことである。
ただしい行いをすると、正しい結果が出ずるなり。

不動の信念を持ちておれば
いついかなる時も度を失うことなし。

強い弱いと言われる精神の働きも、
実はこの度の具合であり、
度胸、度量、みなこの語から来ている。

いつも度を胸中深く蔵し、
妙なる活動を行う人のことを、
大用を得る人というなり。


時をかまわず勉学に励め。

机がなくても、目があり、口があり、耳がある。
空気に字をかけば紙などいらぬ。

条件を創り変えて、やる気を持続させる修練が
むら気の人を自在にさせる。

やり方一つでマイナスがプラスになり、
プラスがマイナスになる。
良き知恵こそ宝なり。


つかれていると神(しん)がない。
不眠不休で働かねばならぬ時と、
じっくりと書に美術に遊ぶ時と、
弛急自在にして、いずれも楽しむ心がいる。


次元の違う本を読め
無駄な駄本は不要な
天と日常から学べば
偉人、聖人、道始めの人となる

人知を集むるなかれ
二級賢者となるなり


静と動を使い分けよ

過労を越える動の研鑽
休養の中に学びを深める静の研鑽

いずれも重要であり
長生の道もそこに備わるなり


相乗の気について
一、互いの長所をさがそう、
たたえようとする心。相乗の気なり。

二、信頼し好意の念で相手を見つめる。
相乗の気の晋化なり。

三、愛し合う男女が、言わず語らず互いの気を覚る。
相乗の気の妙麗なり。

四、よく音楽を楽しみ舞に秀ず。
相乗の気の鍛練なり。

五、丹精をこめて文字に意を乗せる。
相乗の気の応用なり。

六、神をめで、神をたたえて社に参らば、神託あらん。
相乗の気の神詣(もうで)なり。


静かに話して妙伝え
激しく昂(こう)して真を入れ
楽しく伝えて神やどせ


ころんでは起き、はい上がってはまたおちる。
それで一人前になるのが人なり。

神はその姿を見ておりて、時に涙し、時にほほえむ。
それが、神の親心というものなり。


天気予報をあまり気にせず行けるだけ行く梅雨の頃。


すばらしき世界は、あたらしい知恵によって開かれる。

神より来たる知恵なり。

広汎な知恵をもち、神より来たる波動を受けて、
はじめて世を改め、人をうるおす働きができる。

神より波動を受けて、高次元な体の運用が可能になる。

世界のかたすみにいたるまで神より来たる
愛のますなおな発露の詩(うた)は広がり、
高きおたけびも、低きうなりも全ていやされて、
あきらかにされる時が来る。

かく信じて祈る、六甲山の旅の朝。


すこしずつ自分の欠点がわかってくると
大きい神の愛をしみじみと感ずるものだ。

神のこころは、人の成長とともに少しずつ明らかになる。

けっして神は意地悪いことはしないが、
人の努力がギリギリまでゆくのを待っておられる。
父の如く、母の如く、大きな慈愛の目で見ておられるのである。


どこにいても自分を見つめ
だれといても自分を忘れ
苦しいときは苦の中に飛び込んで楽を見つけ
楽しいときは素直に喜びを表現して周囲を和ませ
つつしむときは自分をみはる番犬を
自分の中で飼えばいい


良くここまでやれたものだと思うほど、
自分を練り上げる人。


神は無限である故、
その受け器である人間がその世に出する働きを
小さくしてしまうことを恐れる。

何故なれば、神はその器の粋を越えて
力を出すことができないからである。

これは天界の法則であるから、如何ともしがたい。
神は平等である。

こちらが出す愛の器の大きさに比例して、
お蔭の度合い、神力のレベル、
さずける神徳の大小が決まってしまう。

だからこそ
神は精進、求道、脱皮を遂げんとする人を好まれるのである


自分が絶対に正しいと思えば、批判の心が出ずるなり。
ものごとを進めるには、話し合いが必要である。

その話し合いも、相手の言うことが正しいかもしれない、
という気持ちで話さねば、
決して本当の話し合いにはならぬものである。


人の上に立つとは、
間違いの道を、速やかに元にもどす勇気を持つことでもある。

創造とは、必ずしも新しいことをするのではなく、
また古き良き無形の指針を、
日に夜に具体的に表わすことでもある。


どこになにがあり、誰がなにをしているのか。
全てが明らかにならねば、統率しているとは言えない。

人を善導するのは愛のこころ
まちがいをその人の誤りとして受けとる前に
愛のまなざしで見る人であれ


まちがいを正す心を改めて、
自分で悟らせるようにたすけるのが指導である。


ゆみの心をもつよりも、
あたる的になる心がの神の心なり。
矢でも鉄砲でも、大らかに受け入れる、
大宇宙のような包容力を持て。


にくらしき、いやらしき人であろうと、神の子なり。
全てを生かし、愛の心でみるようにせよ。
神徳は、忍耐と愛の心をあわせ持つ人に下るなり。


パターンにあてはめると簡単に処理することができるが、
神より見れば大いなる誤りをしていることが多い。

それは人の魂も心も時々刻々移り行き、
新しく生まれ変わっているからである。

決して以前会ったその人、その心ではない。

だから、流れるようにさらさらとして、
見方を常に躍動させるのが、
具眼の士として世にある要件なり。

これを若柳の心、胎妙不知にして、
健富和の相楽をなすと言う。


金が詰まると心が詰まるようでは、
神と共にある人とは言えぬ。


とらわれの人の悲しきは、金があれば油断をするし、
なければ心がすさぶことなり。


優雅な職業はめったにあるものではない、
と思うからだめなのである。

いかにすればそれが優雅であり、いかにすれば時を見出して
優雅のひと時を持ち、お休みが単なる
からだの休憩だけに終らぬか。

その工夫と心がけこそが芸術の心と言える。


知っていることを体で行うのが体現であり、
体現こそが神業である。


鋳型に流して出来上がるものなら、神も苦労はない。
一人一人が生き物であり、

刻々に変わりゆく微妙の芸術であるからこそ、
どこまでも神が手をとり、足をとり導くのであるぞ。

それこそが神の人を慈しむ証(あかし)である。
夢々人に相対しても、物を取り扱うにしても
その神心を忘れるでないぞ。


人間界においては大胆さがいる。
大胆ならざる微妙は真虚なり。
真虚は現実における欠となる。
事業におきては勇の欠なり。
勇欠くれば事成り難し。
事成らざれば地に生かすこと能わず。
よりて真神と合一して六次元の宮人たらんと欲する者は、
時々にこれを知り、
これを全く行いて励むべし。


※六次元… 人の知覚できる上限の神界。芸術的・創造的・文化的であり、すがすがしく繊細で、高貴にして雅やかな世界。次元界の構造は、私たちの暮らす三次元の上に、四次元(霊界)、五次元(神社の神々様がおられるレベルの神界)があるが、第六神界はその上に位置する。人が高貴な創造の思いを発して、こんなすばらしいものがあればいいな・・・という、そのイメージの中身が、第六神界からキャッチしたイメージである。


神、人を見るに大愛をもってし、
人、神を見るにつきせぬ思慕をもってす。


すかれるのは
の神のあかるき愛に
通ずるものがある証拠。


わが命わがものでなく、
わが言葉、わがものでなし。
全てが神との共有物、私するとてなかりけり。
これが人生の最上、自我を上手に越えた生き方である。


人には尽せ、神には祈れ。
愛ある人には神、笑顔をむけ、
愛なき人には神、道をさずく。