神人合一の五大項目
「拙著「大天運」(たちばな出版刊)をお読みの方はご存じのとおり、一口に神様といっても絶対神と顕現神がある。絶対神とは宇宙創造の主神のことであり、無限絶対無始無終、色なく形なく全智全能である唯一神のことだ。
これは人智をまったく超えている。有限なる人間の知覚には、とうてい理解することも到達することもできない絶対的な存在次元にある神様のことだ。
顕現神とはそのわずか一部を司る神であり、個別の働きや個性を有して、人間の知覚できる姿や形をもって表される神様のことだ。
またこれは、無限極から有限極に仮の姿で現れた時の、主神の化身であるともいえるだろう。そして、私たちが通常、神社で祈願をしているのは顕現神のほうだ。
以前に神界はいくつもあり、神様はたくさんいらっしゃると書いたが、それは、すべて顕現神のことを指していると思っていただきたい。
神と人とが一体になる。これも二つの次元があって、つまり働き自在なる神人合一のことを言う場合の神様とは、顕現神のことを言うのである。
ところが、永遠に向かって精進し、絶対者に対して謙虚に己れを見つめる時、すなわち、造物主や天という存在に対して、静かなる内的交流を行って、神と人とが一体化している時には、祈りの真なかにおける絶対神との神人合一の状態だといえる。
絶対者に対する絶対帰依の状態だといっていい。これは太極次元への祈願、前者は、陰・陽次元への祈願といっていいかもしれない。
中心と派生、本質と変化質、基本と応用、本と末、中と和、静と動、この両用があって、初めて正しい本当の祈願が達成できるのである。
それは、絶対神に対して祈願しているのである。だから、祈願というのは、単に神社にお参りするといった狭義のものではない。
祈願の究極には、両用を得た神人合一の道があり、神人合一して無限の神徳を社会と人々に発揮することにより、自分自身のこの世の使命を最高度に全うするということが、奥に含まれているのである。
それが、人間が生まれ変わりして魂を磨き、この世に生を送る究極の目標なのである。
では、神人合一の道を目指す、レベルの高い祈願をするためにはどういう基準が必要か。私の師である植松愛子先生が明らかにした五大項目がある。
①信仰心
②愛念
③秩序
④調和
⑤平和の心
の五項目である。
この五項目を実践すれば〝弥勒の世〟という理想的な社会がくると、植松先生にご神旨が下っている。
逆に言えば、未来のユートピア、理想社会、弥勒の世では、この五大項目がおのずから行われているということである。一見したところあたり前で簡単そう五項目だが、意味は実に深い。
宗教にすがるだけが信仰心ではない
信仰心とは宗教をもっているとか、何かを拝めばいいというものではない。
それも一つの信仰心には違いないが、たとえば美術家にとっての景色の美、形の美、音楽家にとっての音の美も立派な神様なのだ。
宇宙創造神の美の側面をとらえているからだ。画家が自然の景色、美しい形などを描こうと思い、一生懸命に打ち込むのも信仰心であり、それをやり貫こうとする魂の輝きや心の高貴さも、広い意味で、信仰心の発露であるといえるのである。
神様が持っている真、善、美の一部を、その人が憧れ敬い、生涯かけてそれを会得し表現しようとすれば、それはもう立派な信仰心である。
科学者にとっては、宇宙と自然の真こそが信仰である。
科学は真の道を極める道だからだ。アインシュタインをはじめ、ほんとに謙虚に宇宙の真理を求め続けて来た科学者は、クリスチャンになったり、宇宙、大自然の不思議さや神秘さを肌で感じるという形で、神を自覚している人がほとんどである。
真理を探究することは、それ自体が神に近づくということなのだ。
では、宗教とは何なのかというと、善の道を追求することである。これが無論、中心的な信仰心なのである。
だが、ただ拝めばいいという宗教では、善の道の追求とはならない。
有名な話がある。日蓮上人が伊豆に島流しにあい、その途中に海中の岩上に置き去りにされ、あわや海水に沈むかというとき、南無妙法蓮華経と何度も真剣に唱えていたら、漁師が忽然として現れ、日蓮は命を助けられる。
また、鎌倉の龍ノ口で首斬りの処刑を受けることになったとき、処刑人の刀にカミナリが落ちて、またもや、助かっている。
一説によると、江ノ島の方から光の玉が飛んで来たとも言われている。
しかし、日蓮上人の弟子が処刑されるとき、南無妙法蓮華経と一心不乱に唱えたが、奇跡は何も起こらず、アッサリと斬られて死んでしまった。
なぜ同じ南無妙法蓮華経で、お弟子達には奇跡が起きず、命が助からなかったのか。日連上人の南無妙法蓮華経とお弟子達のそれは、それを唱える人の魂の錬磨の度合と内面の覚醒度や徳の輝きが違うからだ。
つまり、日蓮上人は、仏の真の道と善の道を一生懸命に探究して妙を得ていたから、神の絶大なるご加護があったのである。
だから、どんなに有難いお経や呪文であっても、ただ唱えればいいというものではなく、その人が真の道を尋ね、善の道を極め貫かんとしている前提があって、はじめて経や呪文に妙力が現れることを知らねばならない。
逆にいえば、どんな宗教を信じていても、貫き通す精神のない人は、宗教はあっても本当の信仰心はないことになる。
信仰心とは、このように広く大きく神というものをとらえて仰ぎ、信じて貫き通す精神のことをいうのである。
愛念を持って明るく温かく生きる
愛の念を持つ人は温かい人だから、死んだ後に温かい霊界、つまり天国に近い所に行ける。愛念のない人はエゴのかたまりだから、クールで冷酷だ。だから、その想いの波長に合ったように、冷たい氷結地獄に落ちることになる。
自分のことしか考えない人、何でもお金で割り切ってしまう人は冷たく、そして暗い。だが、愛念があれば明るいムードがあるのだ。
その他にも、明るさと軽さというテーマがあって、それが、いい霊界に行くための心の三条件になっているのだが、ここでは説明を省く。
詳しく知りたい方は、拙著「大除霊」「神霊界」「神界からの神通力」(ともにたちば出版刊)などをお読みになるか、私が作詩・作曲した「組曲大除霊」のCD・カセットをお聞きいただきたい。
ところで信仰心はあるが愛念のない人は、芸術家なら退廃的に、科学者なら兵器ばかり開発するといった方向に向かわざるを得ない。
それでは神様は絶対に動いてくれない。地位や名誉や権力や、富や恋人、家族に対するとらわれの心を払拭して、おのずか沸き上がる愛念を前に立てねば、いかなる神も仏も高級霊も、決してお働きになるものではない。
キリストは、神は愛なりと言ったが、愛というのは抽象的で意味が大きすぎ、実際にはなかなか掌握できるものではない。
そこで、イエスはまず隣人への愛から為せ、と説いたのである。神に通じ、神そのものである愛は、私達一人ひとりの中にその芽がねむっている。
それが愛念という念であり、情感なのである。
隣人への愛というのは、別な言葉で表すならば、自らに内在する普遍の愛、そして神なる存在を、愛念を、隣人に対して向けて日々に出す練習をすることによって、一人ひとりが見い出すことができるということだ。
愛念とは、普遍の愛に進むための入口なのである。
秩序と調和はお互いを尊重し合うこと
神霊界とは、きちんと秩序だっているものである。春、夏、秋、冬と必ず秩序だってめぐってきて、天地自然の生生化育と自然淘汰の歴史を繰り返している如くである。
無論、私たちの頭上に輝く天体も、秩序なく存在しているものは何一つとしてない。神霊界も人間界も、すべてこの秩序というものがあってこそ成り立つのである。
孔子の言う「礼」とは、この意味におけるよき「秩序」のことだと言ってよい。また、音楽や絵画における美も、それなりに秩序があってこそ美が成り立っている。
音楽理論や法則性、絵画の構図や色彩の定石といわれるものである。
これも「秩序」というものの大切さを示す、神意の一つなのである。そして、いいことをすればいい結果が生まれ、悪いことをすれば悪い結果がでるという秩序がある。
この善因善果、悪因悪果の法則こそが、私達の運不運、幸不幸にかかわる一番大きな大秩序だといえよう。
秩序というものがない限り、平等でいい社会とはならない。政治、経済、学問、宗教、芸術の、あらゆる面で、秩序がとれるということが、如何に大切なことであるかがおわかりいただけたことと思う。
そして、秩序が極まったものが調和である。また、秩序が縦、調和が横ということもできるし、秩序が中と律と法、調和が和と融合とバランスと考えてもよい。
秩序も調和があってこそはじめて生きるのである。調和があれば音楽でも絵でも人間関係でも、相乗効果が出てよりすばらしいものになる。
科学と宗教の調和、神霊界と現実界の調和、東洋と西洋の調和、老人と子どもの調和というように、調和があってこそ、別々の物事が一つにまとまって、互いを生かし合うことができるのだ。陰と陽の結びと解してもいいだろう。
だから神界では、すべてのものが実に調和がとれていて、何を見ても、どの事柄一つをとっても、美でないものはないのである。
平和の心がないと戦争に発展する
信仰心があり、愛念を持ち、秩序があり、調和がとれていても、戦争が起こる可能性がある。戦前の日本がそうだった。
日本国民は天皇と神社を崇敬し、天照大御神と産土神をお祀りして、ビシッと秩序だって心を一つにしていたが、これがそのまま戦争へと走ってしまったのである。
一つの国の中では、信仰心、愛念、秩序、調和があったとしても、国民と為政者に平和の心がなかったら、一致団結して戦争を起こすことにもなりかねない。
無論、戦争は相手があるからするのであって、火の粉が降りかかってきたら、払わさるを得なくなる。
だから、世界の国々の為政者と国民が、平和の心を前に立てて、初めて戦争のない社会が実現されるのである。
やはり平和の心がなければ、お互いが恒久的に幸せにはなれない。
ただ、今までの戦争のすべてが悪いのかというと、そうともいえない面がある。お互いがさんざん戦い合った結果、国際連合ができて、「もっと仲良く平和に暮らそうではないか」と、全世界が反省して、気持ちを一つにしたという成果も得た。
無論、それもまだまだ本物であるとはいえないが。
また、戦争によって通信技術、交通技術は非常に進歩発展した。文明、文化の進歩という点でとらえれば、戦争が善の一面を持っていたことは否定できない。しかし、殺戮は神様の御心に反する。
戦争を好む神様など、いる訳はないのである。
神は、世の進歩発展と、未来の理想社会建設のために、人々が本当の改心と反省をしてくれるその日まで、ただただ涙をのんで忍んでおられるのである。
一切は大愛なるが故である。
だから、人類の努力と叡智によって世界連邦政府が樹立され、地上からまったく戦争というもの種が根絶される日を、神様が一日千秋の思いで待たれていると考えればよい。
その時こそが、平和の心の道が恒久に確立される時なのである。
第二章 そのとき奇跡の開運がおこる!
■ 誠の五段活用で、あなたに奇跡の開運が起こる!
神霊的なお参りをマスターしよう!
日本全国には十一万を超える神社があるといわれる。全国のパチンコ店の数二万軒、書店三万軒に比較すると、その数の凄さが改めてわかる。
しかも、十一万という数字は、いわゆる宗教法人として登録されている神社の数であって、非宗教法人のまま、民間信仰の対象となっている神社はさらに相当数存在するのだ。
もともと、神社=村の鎮守様は、各村に一カ所以上あったのが、明治時代に一町村一社とする神社統合が行われ、その過程で、もともと十九万社あったうち約八万の神社がなくなったといわれる。
しかし、それは単に台帳の上のことであって、神社そのものは今日まで残されている場合が多い。
いかに国家権力がその力を発揮しようと、人々に根づいた神への畏敬は消えはしないのである。
春夏秋冬、折りにふれ、人々は神社に詣で、祈願をするのが日本人に根づいた風習である。
しかし、祈願が成就するかどうかについては、一般的に懐疑的な人が多い。困った時の神頼みとは言うけれども、願いがかなわなくても当たり前、もしかなったら、奇跡と考えてのお参りである。
確かにその通りだ。かなわなくても当たり前と思って祈っている限り、神様も真面目にお応えになるはずはない。
なぜならそこには誠の輝きが感じられないからである。だがもし、しかるべき手順と、しかるべき心構えでもってご祈願をしたとすると、その願いはご神霊のもとに届き、ご祭神の温かなご守護の手が差しのべられる。
そうでなくては、人口一五〇〇人に一社、実質的には千人に一社もの神社が古来より日本に存在するはずはないのだ。
さて、しかるべき心構えと手順とはどんなものか。私はそれを「誠の五段活用」という言葉で表している。
「誠の五段活用」とは何か?それを説明する前に、みなさんが神社に参拝するパターンを大きくふたつに分けてみよう。
ひとつは観光的な参拝、もう ひとつは神霊的な参拝である。国内の旅行スケジュールを立ててみると、必ずひとつかふたつの名所旧跡として神社、仏閣の参拝が組み入れられている。
神社そのものが観光資源とされているためだが、そのような参拝は、いわば外交辞令のようなもの。
パンパンと柏手を打って、百円玉か時には清水の舞台から飛び降りた気分になって、五百円玉という偉大なコインを賽銭箱に放り込んで終了となる。これが、観光的な参拝である。
そして、もうひとつの参拝こそが私が説明しようとしている「誠の五段活用」によっ発揮される神霊的な参拝なのである。
神社とは、神様が鎮座される神域のことである。この神域に足を踏みいれるということは、鎮座される神様、ご神霊にお会いするという改まった気持ちでなくてはならない。
神域には、大宇宙につながるパイプ、見えざる道があり、この道を通じてご神霊が行き来されているのである。
もし、あなたが、単に神社のたたずまいの荘厳さや、華麗さ、また神社を取り囲む社の美しさのみに感嘆の声をあげるのではなく、神様の足下に参じるという思いで参拝するならば、ご神霊は、あなたの存在を明確に感じてくださるはずだ。
一方、あなたもまた、心の深い部分で清々しさ、そして神々しさを感じるはずである。
これを神霊感応というが、このように神と人の間に魂の交流ができた時、神は、単なるお参りによる願い事と比べ、何倍もの功徳を授けてくださるのである。
これらは、既に第一章でも述べたことであるが、神社参りの重要なポイントになるので、再度触れた次第である。次もそうである。
神様に正しくお応えいただくには、私たちが正しくお願いしなければならないこと、そして、しかるべき手順としかるべき心構えでご祈願すれば、神様はその声を受け止めてくれることは先に述べたが、さらに、もう一つ認識すべき点は、神社の選択である。神社ならどこでもいいというわけではないからだ。
これも第一章で述べたことだが、ここではもうちょっと違った角度から述べてみたい。私たちの日常生活を考えてみてほしい。
あなたが、家族のために一戸建ての家を買いたい、と思ったとする。自前で買えるほどの貯蓄がなければ、住宅ローンを組むために銀行に出向き、自分の社会的な立場や現在の資金状況、あるいはいかに家が必要であるかという志を担当者に示し、融資の依頼をする。
この時、間違っても裁判官や学校の先生に融資の相談を持ちかけることはしないだろう。
逆に、刑事事件の解決を銀行員に依頼するような、間の抜けたこともしないはずだ。
「八百屋で魚を求める」という諺があるように、専門外のところでほしいものを求めるのは、正しい方法ではない。
人間社会に、それぞれの専門の職業があるように、神様の世界にも、それぞれの専門の分野と専門外の分野があるのだ。
むろん、相手は一応神霊であるから、一般的な人々の願い事なら、こちらさえ正しければ何でもかなえてくださる。ただ、「すごい、てきめんだ」という程の神徳の冴えが足りないだけなのである。
自分の願いに合った神社を選ぶ
では、どのような特性を持つ神社があるのか、若干の例を挙げて紹介しておこう。
あなたが会社における今のポストを維持したい、次のステップのために、何としても現在の地位を保ちたいと考えているのなら、茨城県の鹿島神宮を参拝するのがよいだろう。
ここは国政における権力保持の神様が鎮座ましましている。詳しくは報じられていないが、歴代の首相の中でも最長不倒内閣だった佐藤栄作氏は、鹿島神宮に毎年詣でるか代理参拝を欠かしたことはなかった。
一方、詣でない首相は、短い期間しか権力の座にいることはできなかったはずである。
長野県の諏訪大社には、無から有を起こす建御名方神がおられる。あなたが何かことを始める時、あるいは、新しく何かにチャレンジをする時に参拝をすれば、必ずあなたの声をお聞きとどけになり、龍巻のようなパワーを与えてくださるはずである。
また、福岡県の宗像大社なら、人、物、金を結集する神様であるから、新たな企てをするために、あるいは、組織の拡充のために、勢力不足の時には早速お参りに行きたい。
神様は人、物、金の手配をよろしくしてくれるだろう。
三輪大社の神様は、資金繰りに霊験あらたかな神様だから、お金のやりくりに困った時、心から祈願をすれば、きっと助けの手が差しのべられるであろう。
ただし、売り上げ全般が足りない時は別である。そういう場合は住吉様の方がいい。
住吉大社なら、和歌の神としてだけではなく、事業の行き詰まり全般を大きく広く開いてくださるからである。
漠然と、神様ならどれも同じであると考えたり、漠然と参拝するのでは、神様もあなたの声をお聞きにならず、感応力も弱いものになってしまうのだ。ということを考えれば、これらの神様の個性、特性、さらには神社の歴史を十分に知り、それぞれの神様の得意とする分野に願い事をすることが、効果的な参拝をするために必須不可欠なものであることがわかるはずだ。
「あそこに行ったら、効いた!」というのでなければ、神頼みも単なる気休めにしかならない。
それではあまりにもつまらないのではなかろうか。願い事の種類によって、専門の神社を選択するべきだということは、いま述べたことで十分に認識していただけたと思う。
ただし、これまでちょっと述べてきた神社別の特色というのは、今までどの本にも書かれていなかったものであるはずだ。
第三章では各神社ごとにもっと詳しく述べるつもりであるが、神社神道のどの学術書にも、各神社の故事来歴にも載っていない。すべて、私がこの体で体験し、体得し、実践している事柄である。
だから、神社関係の方がお読みになったら、「私どもはこういうご神徳ではありませ「ん」とお答えになるだろう。
神社関係の方は、それでしかたないのかも知れない。広くて一般的で、昔から言われている伝統的なものを告げなければ、現在の神社界では異端視されてしまうからだ。
現在の神社界では、霊能者はすべて異端である。霊能の正邪と高低を、見極める方法や基準がないので、無理もないことだ。それを安易に認めてしまうと、確かに神社界は混乱するに違いない。
しかし、その故事来歴をつぶさに見てみると、神武天皇、崇神天皇、日本武尊をはじめ、ほとんどすべての神社発生の歴史は、この方たちのような高級霊覚者の直接的な霊夢、霊能、霊告か、あるいは石上神宮の発生史にも見られるように、神武天皇が高倉下という霊覚者の夢のお告げを認定したことによって成り立っている。
すなわち、必ず何らかの形でそこに霊能者が介在しているのである。
また、山岳信仰に基づく神社がある。奈良時代に泰澄上人が開いた白山、それを人々が信仰して盛んになった白山比咩神社(石川県一之宮)。
奈良時代に勝道上人が開いた二荒山、それを二荒と読んで日光となり、それが観音霊場補陀落山も習合して二荒山神社の歴史を作った。これが栃木県の一之宮だ。
また、関東総鎮守といわれる箱根神社は、萬巻上人という抜群の霊能者によって、その発展の基盤ができている。山岳信仰とは、役小角が始祖であり、奈良の大峯山、四国石鎚山をはじめ、峻険な山をご神体と仰ぎ、そこに神を祀って霊場にしているのである。
日本の霊験あらたかといわれる神社は、役小角の影響を受けた山岳信仰に基づく場合が多い。
全て、霊能者がその基を開いたのである。そして、伊勢神宮でさえも、崇神天皇、垂仁天皇、倭姫の夢や霊告によって築かれただけではない。
江戸時代に民衆の間に広く広まったのは、御師という霊能者兼行者が、定期的に多数の人々を引率し伊勢神宮に案内したためだ。ちょうど私がやっている伊勢神宮団体参拝のようなものである。
このように、為政者か、為政者に認められるか、その昔有名だったか、長く人々に認められた摩訶不思議なものこそが、神社の社史や神道学術の文献や資料になり、神社界で認められているのである。
矛盾するといえば矛盾する。昔のものなら認められ、今のものは認められない。歴史に残っているシャーマンの事跡は認められ、現代の人のものは認められない。
人口が極めて少ない当時に有名だった霊能者は尊く、人口が何百倍も多い現代で有名な霊能者はうさん臭い。
素朴な神秘主義と霊能者の存在なくして発生し、発展した神社はただの一社もないのに、神秘主義と霊能者を極端に忌避する。
礼をもって、ありがとうと祈る
戦後のGHQの神道令の後、国家の庇護のなくなった神社界にとって、神社界を存続させ、発展させるものは、民衆の支持と応援しかないはずである。
その民衆は、学術的発表や神社の歴史が知りたいのではない。神社の発生と発展の原点である素朴な神秘主義、つまり、霊験の実際と摩訶不思議な神秘談が聞きたいのであり、できれば自分も体験したいと望んでいる。
だから、霊能者が大好きなのである。それは、昔も今も変わらない。
明治維新から第二次大戦の終了まで、国家に長年庇護されて、徹底して甘やかされてきた神社界は、民衆の支持や応援を如何に受けるかよりも、格式と家柄と権威を重んずるほうが優先されるようである。
もう先が見えているにもかかわらず、格式と家柄と権威が邪魔をして、どんな改革も、斬新な布教案も、可決されて実行されたことはない。
ご高齢で、格式高い方々が神社界の中心になっているので、それも無理のないことかも知れない。若い、前向きな神道家が大勢台頭するのを待つしかない。
私の提案は、「はじめに」でも述べたように、国家に庇護される前の江戸時代、仏教や儒教と結びついて神職が人々を教化した歴史に習い、習合思想を復活させること。
神職が、本当の意味における魅力ある宗教家になることが先決である。
次に、前述したように、昔も今も変わらない民衆の望みをかなえてあげること。
つまり、素朴な神秘主義を大切にして、「日本書紀」の「ある書に曰く」というやり方で、沢山の古今の神秘談や霊験談を人々に紹介することだ。どれを信じ、選択するかは、民衆の判断と体験に委ねればよいのである。
次に、人々が大好きな(興味を持つ)霊能者を、正邪の別は抜きにして、もっと大切に扱うことである。
現代の御師であり、何度も訪ねて支持や応援をしてくださる、神社にとっては一番ありがたい民衆を連れて来てくださるからだ。上品な言葉ではないが、「神社のお客引き」をしてくださっているのだ、と思っていただきたい。
これらのことは、神社の発生と発展の歴史の中で、民衆の教化と素朴な神秘主義、そして、霊能者である天皇や霊能者の言葉を尊重した為政者の存在なくして、すべての神社が存在し得なかったという、歴史事実の原点に立ち戻ったまでのことである。
話題を元に戻そう。ここで、私の体験し、体得し、実践した神秘体験を紹介しておこう。むろん、第三章ではもっと詳しく紹介するつもりでいる。
たとえば、私が本当に資金繰りで困っている時に、神様に懇願して、「何この窮状を救い給え!」と涙を流して祈りに祈った結果、「三輪へ行け。汝を待っておるぞ」と神からポイントだけの短いご神示をいただき、なけなしのお金を全部はたいて、はるばると三輪大社まで行った。
ドン詰まりまで追いつめられて、さらにそれを越えて行かんとする決死の覚悟で、ご神霊に正面から立ち向かったのだ。その時、でき得る限りの資料を読み漁り、ご祭神に直接面する時も、その来歴にふさわしい祈り方をする。
それが礼儀というものである。
こうして、人間としてできる最善の努力を行い、燃ゆるばかりの赤誠を輝かして、ご神霊に体当たりするのである。
そうして、はじめて本当のご祭神の真の姿を拝し、戦後の天意の転換以後、どのようにご祭神の役割が変わり、どのよう神からの役掌を荷っておられるかが知らされる。
こういう直接の神霊交流の際に、学術的な解説や通説の誤りの箇所が教えられ、本当の意味する理を知らされるのである。
今は、もっと楽に自由に交流できるが、私の修業時期、一般の霊能者のように難行苦行をしたり、滝や行場で荒修業をしたことは一度もないが、どの神社の神域も、どのような霊的な障害も、涙と汗と血の出るような人間的努力なくしては開かれたことはなかった。
だからこそ、その時のことは今でもすべてをはっきりと思い出すことができるのだ。
この本をはじめ、私のすべての著作やセミナーは、ほとんど何の資料も見ないし、調べながら書くこともほとんどない。
これらを体験した時に学び、吸収したものがすべての基礎になっているからである。
これが、神様が私になさった、体で覚えるという教育なのであった。
その基本は今も変わっていない。そして、その神の体験的神人合一教育の方向を示し、苦労を共にしながら、完全で自然な神がかり状態によって、ある時は優しく見つめ、ある時は厳しく叱咤して、私たち当初の二十五人の弟子たちを導いてくださったのが、恩師植松愛子先生である。
つまり、私が正しく神霊界のことや神人合一教育を受けているかどうかを、霊的に厳密なる審神をしておられたのである。
だから、この本が書けるまでの背景には師の恩があり、膨大な時間と労力と費用の経緯があるのである。その貴重な叡智と神伝の塊を、この著書によって皆様に発表するのは何故か。
一言で言えば、「惟神の正しき道を、一人でも多くの人が知って体験し、この日本の神威を高めていただきたいから」である。
そうする以外に、この日本を真に建て直し、日本人の幸運と平安を確立する方法がないからである。神々の生きてある日本。
この国では単に努力するだけではだめなのである。広い意味において神と親しみ、神に愛でられ、神を動かす努力がなければ、本当の意味での天運は授からない。
だが、紙面の都合上、それらのことも含めて知り得た事の万分の一も伝えきれないのが残念である。
まあ、神界の機密事項は、「天機漏らすべからず」といって、本来明かしてはならないもの。
それを、神様に特別お許しいただいて発表させていただくのである。私のセミナーではもっと詳しく説明はしているが、それでも全体の七割までが限度なのである。その点、ご容赦願いたい。
神道では、顕幽一致する祭式、つまり顕斎と幽斎とを合わせた形を惟神のすすめ方だと考える。
「幽斎」とは、心の中で純粋に神を想い、神を迎えることである。こうして行う祈りというものは、目には見えないが、必ず神様に通じるものである。
キリスト教でいえば、プロテスタントの神に対する姿勢がこれである。ところが、「顕斎」とは形に表す祭であり、キリスト教でいえばカソリックの儀式にあたる。仏教においては葬式や法事がこれにあたる。
「気持ちさえあれば、形なんかどうでもいい」
というような言いまわしを耳にすることがあるが、これは、いささか言い訳がましい。純粋な気持ちが本当にあれば、「ありがとう」という言葉に表現されるはずである。
たとえば、あなたが失恋の痛手で苦しんでいる時、心の中を友人に聞いてもらったとする。聞いてもらって、心が晴れたことと、自分のためにわざわざ時間をさいてくれたことに対して、あなたは友に感謝するだろう。その時になんとかその感謝の気持ちを友人に伝えたいと思ったらどうするか。
「ありがとう」という言葉を、その友人に心をこめて言うだろう。また後日、あらためてもう一度電話でありがとうと言うかもしれない。
そして、「今度、また近々会ってほしい。その時には、ぜひおごらせてくれ」というぐらいのことは言うはずだ。
本当に真剣な気持ちとは、すなわち「幽が極まった」ことであり、それは言葉と行動という「顕」に現れるべきものなのだ。
神道では、この「幽」と「顕」の両用が備わり、合一したところが大事なので、どちらが大切ということはない。
いわば、不即不離、一体両用の関係であり、心極まれば形に表れ、形を整えて心をこめる、と考えればわかり易いだろう。
以上のことを念頭におき、お玉串というお布施のことも正しく理解していただきたい。
お布施というものは、単に形式上の行為ではなく、感謝の気持ちを表す誠意である。だから、誠意をこめたお布施でなければ、何の意味もないのだ。
逆に、「気持ちだけあれば、神様に通じるんだ」というのは、礼節にかなっているとはいえない。
お互いが心惹かれあっているカップルがいたとしよう。
男の方としてみれば、「こんなに好きなのだから、彼女はきっとわかってくれているだろう」
と思うかもしれない。しかし、彼女の方としてみれば、多少、彼の気持ちを察することはできても、やはり彼の言葉を心待ちにしているものである。
「きっと、わかってくれているだろう」というのでは、彼女は恐らく理解はしてくれない。それは、傲慢な考え方だともいえるし、不精者の考え方だともいえる。
結局、それでは誠意が伝わらないで、もっと熱烈にプロポーズする男性に、彼女を奪われてしまう危険性がある。
そのような、自分勝手な思い込みではなくて、プレゼントを添えて「好きだよ」という言葉を彼女にささやいてみる。彼女がどんなに喜ぶか、容易に想像できるだろう。
彼女は決して言葉やプレゼントだけが欲しかったのではない。彼の真摯な気持ちを形で表してくれた誠意に感動しているのだ。
つまり、お布施をすることによって、神様に感謝の気持ちを伝え、誠意の形を整えることができる。形を整えれば、純粋な誠意は相手に正確に伝わる。
このように形に表して、自分自身の「いい心」を強く引き出していくことが大切なのである。
私が勧める祈願法
ここで、私が常に勧めている「正式参拝」のことをお話ししたい。
「正式参拝」とは、「心願成就」とか「事業繁栄」といったようなお願いごとがある時、ご祈$79B1所に行き、三千円か五千円、あるいはそれ以上の金額をお玉串として差し出し、神主に祝詞をあげていただき、神社によってはお神楽なども上げていただいてお参りすることである。
逆に、「正式参拝」に対して「チャリンコ参り」といわれるものがある。お賽銭箱に五十円玉や百円玉をチャリーンと入れて、「パンパン!」と手を合わせるかわいいものだ。
「親切は人のためならず」という諺は、「親切をすれば、それはやがて必ず自分に返ってくる」ということである。
これは『論語』の「徳は孤ならず、必ず隣あり」から発展した諺であろう。自分のしたい事は必ず自分に返ってくるのであれば、思い切っていいことをした方がいい。
そうすることによって、自らの成長にもつながるのだ。少なくとも神社の神様に対しては、チャリンコ参りよりも正式参拝の方が数十倍もいいことなのである。
しかも、一般的な親切よりも、何倍も早く、確実に自分に返ってくる。ここで、別の譬を話そう。
勝海舟の書いた「氷川清話』の中に、江戸城明け渡しに際しての、西郷隆盛との出会いが描かれているが、勝海舟は、西郷隆盛のことを「タイコのような人物」だと表現している。
タイコといっても幇間(タイコモチ)ということではなく、太鼓のことである。打ち手が強く打てば、太鼓は強い音で応えるし、弱く打てば弱い音で応える。
大きく打てば大きく返ってくるし、小さく打てば、当然小さくしか返ってこないのである。神様も、いわば西郷ドンのような存在である。
つまり、神様は「来る者拒まず、去る者追わず」といったような、人間個々の自由意志に対応した形でお応えになるのである。
日本の神様は非常に大らかであるから、小さく打ったからといって、祟りはしないが、こちらが思い切って向かっていかなければ、おも小さなものに終わってしまうのである。
では、なぜ「正式参拝」が大きく返ってくるのか。これは、改まって威儀を正した参拝であるからだ。
一般社会でも同じだが、「改まる」ということは、必要不可欠な生活の礼儀であり、知恵でもある。会社の社長に仲人を頼みたい時、いくら親しい仲だとしても、それだけの労をかけるのだから、電話一本で済ますわけにはいかないであろう。
「親しき仲にも礼儀あり」とは良くいったもので、頼みごとがある時は、それなりの正装をして、菓子折りを手にお宅まで伺うことで、相手に誠意が通じて快く思ってもらうことができる。さらにいえば、人間関係の筋道を通すことにもつながるのだ。
こちらが改まって頼めば、相手も改まって応えてくれる。このことが世の中の常であるように、神様との交流においても、まったく同じことがいえるのである。
以上のことから、「正式参拝」は、改まった頼みごとの時に行くものであることが、おわかりいただけたであろう。
もちろん、何事もなければ「正式参拝」の必要がないのかと言えば、決してそうではない。むしろ、何もない時にこそ、「正式参拝」をぜひとも実行していただきたい。普段から感謝の気持ちを丁寧に表しておくと、いざという時に、絶大なるお力を授けてくださるからだ。
頼みごとがある時だけ行くのと、常日頃から挨拶をしておくのとでは、神々のその人に対する評価が全然違う。みなさんも人間関係の経験上、その事はよくおわかりになるだろう。
それとまったく同じことだと考えてよい。日本では、目上の人やお世話になった人に対して、日頃の感謝の気持ちを中元という形に表して挨拶する習慣がある。
これは元来、道教の三官信仰に基づいて上中下の三元に配当されたもので、天官様は上元に生まれて福を与える神様、水官は下元に生まれて水火の災いを防ぐ神であるのに対し、地官は中元を誕生日として善悪を分別し人間を愛して罪を許す神としてとらえたのである。
中元というものに、このようないわれがあるのだが、これがいつの間にか中元という風習として日本に定着した。
これもまた「顕幽一致」の理が、自然に働いて風習となった一例であろう。
私は、私の主宰するワールドメイトの会員に、少なくとも旧官幣大社や中社、または一之宮の近くで仕事があったり、旅に出かけることがあったなら、まず身なりをただして「正式参拝」をするように勧めている。
そうすると、神様が先に立って仕事や有意義旅行を導いてくださるし、元気はつらつとした神徳と運気の貯えができるのである。
ちょっとした心掛けと習慣なのであるが、これが神社で開運する大きな秘訣の一つになっているのである。
以上をふまえた上で、誠の五段階を考えてみたい。
私が二十数年間神社の神様に熱烈に親しみ、よく誠が通った時と、あまり誠が通らなかった時を、体験上から冷静に分析して比較してみた。
そして、神様がよく誠として受け取ってくださり、強く神様が反応して、すばらしい功徳を与えてくださった順に事柄を並べてみると、次のようになる。
「わざわざ、早速、何度も、菓子折り持参で、丁寧に礼儀正しく」
これが、誠の五段活用である。この五段活用が、神社の神様を動かす誠のノウハウであると体得した時から、私の神社での大祈願は百発百中になった。
むろん、これは基本原則であり、応用法則は無限にある。また、この基本原則はあくまで法則であって、肝心なことは、それをいかに習慣として自分の人生の中に定着するまで実践するかである。
そのため私は、「栄光への脱出セミナー」というものを開き、手を替え品を替え、会員の方々が実践体得できるように指導しているのである。ここで、この五段活用をもう少しわかりやすい言葉に換えてみよう。
一(イチ)いつも心にとめ、
ニ (ニ)にわかに、
三(サン)再三、
四(シ)失礼にならぬよう、
五(ゴ)御丁寧にと言われるように、
一は常に心に掛けていることを「行動で表現せよ」ということ。
「わざわざ」という言葉は、「わざわざ、来てくれた」「わざわざ、忙しい時に」「わざわざ、遠いところを」という具合に、誰もが誠意を感じる言葉である。
だから、この言葉にあてはまるように絶えず行動することが、具体的に誠を実践するためには大切なことなのである。忘れずに頭に入れておこう。
二番目は、思い立ったらただちに行動に移すということである。友達が困っていたら、早速に行くとか、赤ちゃんが生まれた人があれば出産祝に早速行ってあげることだ。一年ぐらいたって、「赤ちゃんが生まれたらしいですね」と言ったところで、誠意が感じられるわけもないだろう。
誠意があるからこそ、早速という行為につながるのである。「早速来ていただいてありがとうございます」というのは、相手が本当に誠意を感じてありがたいと思っている時に出る表現である。
特に、神社の場合はすばらしいお蔭があったら、早速お礼参拝に行くことだ。そうすると、神様の方も次に何かの願い事をする時には、早速お働きくださるのである。
三番目は、再三再四、「何度も何度も」ということである。たとえば、「一度、病院にお見舞に来てくれた」というのと、「何度もお見舞に来てくれた」というのを比較してみれば、繰り返すことによって一層誠意が感じられることがわかる。
一回こっきりでも、気持ちが感じられることもあるが、それには、よほどの強い心と誠意を印象づけなければならない。
神社の神様へも、何度も足を運ぶことが大切なのである。
二十一日間祈願やお百度を踏むという行為が、古来より大いなる神徳を授かる方法であるとされるのも、この理由によるのである。
四番目は、必ず何かおみやげを持って行くということ。これは、なにも神様はいつも贈り物を期待しているからだ、というわけではない。
もし、お玉串がなければ、畑からにんじん一本でもいいから持って行って、それを真心こめて贈ることである。
こうすることで誠意が表れるのだ。これは、前述したように、恋人に対してプレゼントする人と、しない人とでは、どちらに一層の誠意を感じるだろうか、ということと同じである。
誤解しないでいただきたいが、神社というものは、時にお金が必要なのである。
「キリストは無欲で、当然お金なんか必要ないじゃないか。それなのに、神社ではお金が要るのか」とおっしゃる人がいると思うが、これについては少々のガイダンスが必要だろう。
キリスト教の神様はバイブルで、収入の一〇%を教会に献金しなさいと決めている。
いわば神様を取り次ぐ聖職者の生活は売上税でたてられているのだ。しかも、それは税引き後ではなく、税引き前の収入額の一〇%である。実際、バイブルにそう書かれているので、それがクリスチャンの義務になっている。
高額所得者にとっては、莫大な出費であるし、貧しい者にとっては大変な経済負担であろう。
しかし、よく考えてみると、これも当然のことだ。この献金がなければ、神父、牧師は信者のところに行くための、交通費もないばかりでなく、水一杯飲むことさえできなくなってしまう。
時に神社の神様は、お金を必要としていることを正当にご理解いただきたい。
そもそもお金とは何か。それは物や、一般的な意味における労力というものの対価である。
たとえば、みなさんに神社の神様のお祭りがあることを知らせる時に、どのような手段を使えば、間違いなく伝えることができるか。
それには、郵便でお知らせを送るしかない。その為にはまず通信費がかかる。切手を貼る人件費がかかる。その他に封筒代、印刷代、などといった一連の作業をクリアした上で、やっとみなさんにお知らせすることができるのである。
また、神主がいる神社は、荒廃することもないので神様も住みやすい。いつもきれいに掃き清められていれば、邪気はないし、神主の真心が、定期的に行われる祭礼や日々のお勤めによって充満すれば、自ら神気も強まる。
お玉串とはそのためにあると心得て 00 いただきたい。神主一人を神社に駐在していただくには、毎月どのくらいの費用がかかることか。
それに、ある年齢に達した神主は当然のことながら、家族を持つようになる。彼らをなんとか養っていけるだけの経済基盤がどうしても必要なのである。朝夕に真心をこめて奉職している神主がいると、この善き神主一家に、毎月毎月ひもじい思いをさせたくないとご神霊がお思いになられるのも当然だろう。
戦前はそれを国家がある程度まかなっていたが、今はゼロである。だから、もしあなたがご神霊だとしたら、真心だけで百円玉も賽銭箱に入れないで真剣にお祈りする人と、真心があり、神社の事情を良く理解して、毎回謹んで三千円を玉串袋に包んで、かつ真剣にお祈りする人がいるとすると、どちらの祈りの方に大きな功徳を与えるのだろうか。
どちらを一層愛しく思うことであろうか。答えは明白であろう。
五番目は、謙虚で礼節をふまえた美しい祈りの言葉に、神様に通じる言霊が表れてくるということである。
それは、目上の人に動いていただく時も、神様に動いていただく時も同じことである。聞く方は、その言葉の調べを聞いて気分がいいので喜ぶのは当然だが、語る方も、その調べに乗って自分のいい情感を引き出すことができるのだ。この良き情感こそが神霊に感通するのである。
こういう点でも、人間社会における人の評価や誠意の感受と同じことだと思っていただきたい。
以上の「誠の五段階活用」を心得ることによって、あなたの願いは神の御心にしかと届くのである。この大祈願の秘伝の五本柱を絶対にお忘れにならないでいただきたい。
自分の誠が至らないのを棚上げして、神社に行ってもお蔭がなかったと愚痴らないために。
第三章 この神社があなたを開運させる
現実界の一切について情感をふり絞って祈る
【伊勢神宮】
《奇跡の開運の秘訣と霊的解釈》
ふつう伊勢にお参りをするときは、外宮・内宮の順序で参拝するという慣わしになっている。
外宮と内宮との距離はちょっと離れているが、どちらかだけのお参りをする人はあまりいない。しかし多くの人は外宮も内宮も同じ気持ちで拝み、同じように願い事をかける。実は、これでは決して理想の参拝であるとはいえない。外宮と内宮の霊的意味をふまえた参拝であるとはいえないからである。
外宮とは、本来内宮に鎮まる天照大御神の御饌御食津物を調える神として、丹波の国から、天照坐皇大御神の要請によって招かれた神様である。
ところで、御食津物とは何か。神様の衣・食・住全般のことをいうのである。だから、このことを考えてみるならば、外宮の神様のご性格が浮き彫りにされてくるだろう。
そう、この現実界で生活をするために必要なものを、一切調えてくださる神様なのである。
そうなると、この神様にはどのような祈り方をするのが正しいか、また、どのようなお祈りならかなえてくださるかが、自ずからおわかりになると思う。
現実界に密着した祈り、自分の生活面での祈り、家事、人事、仕事などに関すること一切をご祈念申し上げればよいのである。
実は、この外宮に坐す豊受大御神様とは男神であり、地球神界の主宰神である国常立之尊の幸魂と和魂との合体せる神魂のことを申し上げる。
これも、他の文献に出ている訳ではない。「天御中主なり」とする文献や、「国常立之「尊」とする文献もなくはないが、そんなに詳しいものではない。すべては伝家の宝刀 「直接神霊にお伺いする」ことで判明したことである。
私がお参りをする時は、いつも厳然とした男神のお声で「何なりと申すがよい」と申される。
だから、私は、「まず第一に…、第二に…、第三に…」というふうに、箇条書きにして短歌を作るときのように情感をふり絞って、言いたいことを神様にわかり易く、しかも美しい表現にして祈る。
レポート形式で祈るとどうしても知的な祈りとなり、短歌形式で祈ると、情的なものになる。神霊には、知より情をふるいたたせて祈る方が断然感通力は強い。
むろん、必ずしも五、七、五、七、七の形式でなくてもよい。肝心なことは、情感をふり絞って、わかり易く素直にありのままの自分の思いを言上申し上げることである。
私の場合は、こうして祈った後、「それだけか」とのお答えが返ることが多い。
「えー、えーと、それから……。あっそうだ、第七番目に・・・」という具合に、祈りをつけ足して大祈願を終える。お祈りしなければならないことがいくつあるのか、ご神霊の方が、私よりよくご存じなのである。そうして、最後に、伊勢にお参りできた感謝と喜び、そして、外宮の神様の偉大さをたたえる和歌を、その場で十首ぐらいにまとめ、真心を込めて魂の奥底から献詠申し上げる。これが言霊歌というやつだ。そうすると、「ことごとく祈りはかなえよう、半年待て。精進を怠るな」という答えが返ってくることが多い。
一般の方はこうはいかないと思うが、こういう感じで対話をすることが大切なのである。
そうするとどうだろう。この世のことで気にかかること、悩みをかかえていたことなどは、洗いざらい申し上げた訳だから、気分はすっきりとしてわだかまりがなくなる。
神様よりご覧になれば、人間界の重みをもってやってきた参詣者の御魂が、軽やかで明るく、清々しきものとなっているのである。これで初めて、清浄と崇貴極まる内宮の神域に入るにふさわしい参詣者となることができる。
むろん、先程の言霊歌であるが、一般の方は、ここを丁寧な敬語でつづる御礼ご挨拶にすればいいのである。
これでいよいよ内宮に向かう訳であるが、外宮に参拝する時間がなく、内宮だけの参拝をする時は、神楽殿のご祈疇の時に、諸々の願い事をするのが慣わしとなっている。
そして、内宮の本殿では、広く、大きく、皇室や国家やわが天命のことをお祈りするのがよいのである。
ここで一つ大切なことがある。それは、伊勢神宮の内宮とは、内宮というお札や天照大御神という神様だけを拝めばいいというものではないということだ。
内宮も外宮も含めて、伊勢神宮にお参りするときの最も大切な心構えとなるものだが、伊勢にお参りする最も重要な意義とは、「日本という国体の主幹たる、皇室の奥之院に参らせていただく」ということであり、「太陽神界からのパイプが直降している、崇高なる神域に足を踏み入れる」ということなのである。
そう思ってお参りすると、そういう霊的作用が働くということを忘れてはならない。
前者の意義を知って参拝すれば、「皇神」(宇宙を統べる主神)が動き、後者を知って参拝すれば、太陽神界の神々がすべて動かれるのである。むろん、両方思って参拝するのが最高である。
ところで、伊勢神宮の神域は、広大であり、五十鈴川にかかる宇治橋から視界に入るすべての景色、すべての樹木は、これすべて伊勢神宮の所有するもの。
お米も塩も布も、伊勢神宮からすべてとれる。一部を除き、ほとんど、一切自給自足でまかなっているのである。
この神領、この神域こそが大切なのであり、太陽神界にある中枢神府を霊的に移写せるものなのである。
内宮とは、いわばその中の中枢であり、大つぶの玉砂利の敷きつめてある御垣内とは、そのもっとも中心となる至聖至高の神域なのだ。
このことがわかれば、前述の如く、このことがわかったようなお参りのやり方をしなければならない。
そうすれば、単にお参りして拝んだときと比べると、十倍以上も神霊感応力が違う。もちろん、お蔭の出方も強く、大きく、鋭くなる。
では、どういうお参りのやり方が理想的なのだろうか。
一言で言えば、「感性を豊かに鋭敏にした真心のお参り」がいいのである。
ここで、二人の女性に登場していただこう。一人は、私の主宰するワールドメイトという会の会員となって、毎月の定例セミナーの講義を聴いたり、毎年、年末に行われる「伊勢神宮の団体参拝セミナー」に参加して、「感性のお参り」を体得した人である。もう一人は若い女性向けの雑誌を見て、志摩観光ホテルの「アワビのステーキ」を食べたさに、伊勢志摩まで来た女性だ。
ただ、せっかく来たのだから、伊勢神宮にも観光でお参りして、「赤福」をおばあちゃんに買って帰ろうとしている女性である。
前者をメイ子、後者をノン子と呼ぶことにする。
メイ子とノン子の伊勢参り
ノン子「あれ、この交番、上品ね。お巡りさんも上品な感じがする……。わかった。ここでは神主さんが警官もやるんだ」
警官「神主は神主。警官は警官です。伊勢神宮は、ディズニーランドじゃありません」
ノン子「でも…。この本には、伊勢エビとスルメ以外は全部伊勢神宮の中でまかなえるって書いてあるし……。当然、警官も伊勢エビとスルメ以外のものでしょう」
警官「……。あのね……」
ノン子「それにさあ、なんとなく、おもちゃみたいな造りの交番だし……」
警官「実は、予算がなくて・・・・・・、な、何を言わせるのだ。今朝、女房と言い合いをした時、何かいやな予感がしたが、この女子大生のことだったのか」
ノン子「女子大生じゃなく、専門学校ですよーだ」
警官「うっ、女房も専門学校を出ているんだ・・・・・・」
ノン子「ところで、おじさん。伊勢の内宮にはどう行ったらいいの?」
警官「あの橋を渡って、ずっとまっすぐに行くとあるよ。専門学校では習わなかったのかい」
ノン子「習わないっ」
警官「じゃあ、何を習ったのだい」
ノン子「警官は怖いということ」
警官「………… うむ…………。まあ、そういうのもいたけどね。新聞で色々と……。しかし、
ここは伊勢だから大丈夫さ」
ノン子「でしょ。だから、やっぱり神主さんが警官をしているんでしょう」
警官「ちーがーうって、それは」
ノン子「あー、もー。その声を聞くと、昨日食べたアワビのステーキの味と伊勢エビの妙なる味の想い出が、ボロボロになってこわれそう。早くお参りに行こうっと」
警官「ああ、どうぞどうぞ。早くどうぞどうぞ」
急ぎ去って行くノン子の後ろ姿をながめては、本日の伊勢の神様の試練の味のしょっただ茫然とかみしめる警官であった。そこへメイ子がやって来た。
メイ子「どうも、どうも。先日の団体参拝のときはお世話になりました」
警官「ああ、あの時の、深見先生のところの方ですね」
メイ子「いいえ、私はご奉仕させていただいただけです」
警官「ほう、熱心になさるもんですな。ところで、あの先生も赤福が好きだねえ・・・・・・」メイ子「先生は、神様の方が好きだと思いますが」
警官「いや、そうとも限らないよ。「神様が赤福か、赤福が神様か……」なんて言ってたし、「このアンコには芸術が宿っている…」とも言っていましたよ。この人は、相当赤福が好きなんだなと思ったよ」
メイ子「ああ、あれね。『アンコ一粒にも夢があり、ロマンがあり、芸術がある」ってマイクロフォンで説明しておられたものでしょ。あれは、神霊界とは理屈ではなく、情緒、情感の世界だから、そういう感性を大切にしなければ、神様を魂で受けられませんよというお話だったのです」
警官「そういう難しい話はよくわからんが、皆さん楽しそうだったね」
メイ子「ええ、とっても。伊勢の神域の神気をいっぱい飲んで吸って、おごそかにしかも心楽しくお参りできました。今日も、そのつもりで来ました」
警官「あなたは、目が澄んでいて、まるで夢を見ているような感じですね。さっきの女の子とはえらい違いだよ・・・・・・」
メイ子「さっきって?」
警官「いやいやこっちの話・・・・・・」
警官「努力ね」
メイ子「そうですか。近鉄電車の中から、そうなるように努力してきたのです」
メイ子「そう努力です。努力してそうしないと、ついつい俗界の思いに心も魂も縛られてしまって、ただ形だけのお参り、お願いだけのお参りになってしまうでしょ」警官「そういえば、団体参拝の時も、皆さんあまり世間話などせずに、静かに歩いていましたね」
メイ子「皆さん、深見先生の指示通り、願いごとはすべて外宮で済ませ、あの橋を渡りながら、神様のふところに入って行くつもりで歩いておられましたからね」
警官「へぇー、そういうもんかね。長年ここにいるけど、そういう気持ちになったことはなかったなあー」
メイ子「あんまり近くに居ると、ありがたさがわからなくなるものですよ」
警官「いやあ、ほんとにそうだ」
メイ子「あの橋から手水の所までの玉砂利の道が好きなんです」
警官「ああー、いいですなあー」
メイ子「玉砂利を踏みしめて歩く、一歩一歩。それを噛みしめるように味わいながら歩いていると、まるで、くつの機械的な動きと自分という存在とが離れ離れになって、空間がゆがんで見えるような気持ちになります。そして、遂には自分が沈黙の中に舞い上がってゆくような気分になるのです。
その時、初めて「ああ、私は今、太陽神界にいるんだわ」ということが実感できるのです。それから……「この道を進んで行くほどに、恋しい恋しい天照大御神様にお会いできるんだわ」という思いが自然に湧いてきて、なんだかワクワクします。
そしたら、懐かしいお母さんよりも、もっと懐かしくて慕わしい、あの”気”に触れることができる喜びで、涙が出てくることもしばしばなのです。
深見先生が、「この道には何本も神気の柱が立ってますね」とおっしゃるのも、よくわかるんです」
警官「そうすると、さっきの女の子なんかは、チューインガムをクチャクチャ噛んで参拝に行ったから、何を噛みしめているかと言うと、きっと、舌でも噛んでいるだろう。鹿児島県出身の純情なほくに、ああいうことを言った罰だな、こりゃ」
メイ子「私は、ちょっと過敏すぎるんです。「そんなに思い込みすぎると精神病になりますよ」って植松先生もおっしゃるんです」
警官「植松って?」
メイ子「ああ、深見先生の先生なんです」
警官「それじゃ、相当のご年配ですなあ」
メイ子「そうでもないですよ。司葉子に似た、きれいで上品なご婦人です」
警官「そうすると、深見東州師は、一体おいくつになるんですかあ」
メイ子「私もそう思って先生に聞いてみたんです」
警官「ホウホウ、そうしたら?」
メイ子「今年で二百六十歳ですって」
警官「冗談の多い人ですなあ」
メイ子「ええ、神様事以外はほとんど」
警官「むむ……。アッハッハッハッハッ」
メイ子「ホホホホホ。それじゃ、私、お参りに行ってまいります」
警官「じゃ、またね。帰りにも是非寄ってください。怖いことしませんから」
メイ子「えっ?」
警官「いや、なんでもない、気にしない」
五十鈴川にたたずみ「おかげ」をいただく
と言いつつも、警官は、さっきの女の子とは雲泥の差だなあ、と思いながら、暇な交番の毎日に、何か温かいものが残って得をしたような気がした。ところで、橋の上には、先程のノン子がまだアゴひじを立てて五十鈴川をながめている。
そこへメイ子がやってきて、偶然、隣に立って五十鈴川をながめることになった。
メイ子「ああ。この五十鈴川・・・・・・。懐かしい……。何度来ても懐かしい・・・・・」
ノン子「ねえ、ちょっと。あなたはよくここへ来るんですか」
メイ子「ええ・・・・・。よく、でもないけど、まあ」
ノン子「ふうーん。そう。ちょっと聞きたいことがあるんですけど、いいですかあ」
メイ子「ええ……。どうぞ…私でわかることでしたら……」
ノン子「あのさ。山田五十鈴っているじゃない。あの、おばさんだけど若っぽい人」メイ子「あっ、ええ……。知っています」
ノン子「あのさあ。この川の水を産湯に使ったから、山田五十鈴って言うのかな。それで、今でも若っぽいのかしら。それとも、この近くで生まれたのかなあ……。どおお、知ってるう」
メイ子「さ、さあ・・・・・・。私・・・・・・、よくわかりませんが、たぶん、私のようにお伊勢さんが好きな方じゃないでしょうか、あの方も。それで、名前に・・・・・・」
ノン子「ふうーん。そうかなあ。産湯だと思うんだけどなあ・・・・・・。こんなきれいな水は、産湯とか、流しそうめんに使うものなんでしょう」
メイ子「い、いえ。ここではみそぎに使うんですのよ」
ノン子「みそぎって?」
メイ子「神様にお仕えする人たちや、お籠りする人たちが、この清流で心身を洗い浄め、罪やけがれを祓うことです」
ノン子「へえ……あなたって詳しいのね」
メイ子「私は、この五十鈴川にかかる朝もやが好きでしてね。朝もやを見ていると、悠久の昔から、幾人もの人々がこの五十鈴川に入り、胸までせせらぎに浸かり、一心不乱に祈りを捧げたことだろうなって、しみじみとそう思えるんです。時々そんな姿が彷彿として、私も、前世でその内の一人だったのかも知れないと……」
ノン子「へえ……………。あなたってけっこう文学的なのね……。私は、そんなことよりも、この後に行こうと思っている「赤福モチの本店」、「手こね寿司」、それから「伊勢うどん」っていうダシの濃いうどんのほうが、よほど姿が彷彿として、思わずツバが出てくるわ」
メイ子「あなたって、けっこうグルメなんですのねえ」
ノン子「グルメでなきゃ、こんなところまではぐるめー、なんちゃったりして……」
メイ子「でも、一度でも神様に触れて、神気の妙味を知ったら、グルメよりももっとすばらしいものだってわかりますわ」
ノン子「あのさあ。神様って食べるものなの・・・・・・」
メイ子「あの…………。食べるんじゃなくって、触れて味わい、情緒で観賞し、感性で感じ取るものなのよ」
ノン子「じゃ、やっぱり食べものと同じじゃない。私はちょっとリッチなレストランや料亭なんかにね、おこづかいを貯めて行くのよ。もっとも、ほとんどはボーイフレンドからむしり取ったり、おごらせているけど……………。でもそういう時には、そうだわ、やっぱり、一流の料理って、食器やお箸に触れて味わい、盛りつけを情緒で観賞し、シェフの腕を感性で感じ取るものよ。感動しちゃうわ……。あのアワビのステーキ神様って、目に見えないじゃない。だからわかんないし、いやなのよ……」
メイ子「そう言われてみればそうかもしれないけど・・・・・・。でも…そんな毎日を送っていて、空しさを感じない?」
ノン子「ふむ…………。期待したよりまずい料理だったり、十四人目のボーイフレンドにふられた時なんかは…。けっこう空しかったなあ……」
メイ子「私も、最初のボーイフレンドにふられた時、人間不信に陥りました。そんな時に、深見先生の「恋の守護霊」って本を読んだんです」
ノン子「ああ、その人知ってる。「強運」って本を書いた人でしょう。私、本屋さんで、立ち読みして、袋トジも黙ってヘアピンで開けて見ちゃった。だから覚えているのよ」
メイ子「まあ、悪いこと…。それで私は、絶対に裏切られないもの、尽くした分だけ必ず報いられるもの、私を永遠に愛し続けてくれる存在、それを捜し求めましたから……」
ノン子「それなら、私だって求めているけど・・・・・・」
メイ子「えっ。そうなんですか。ふむ……。それで、それは、神様というものしかないということがわかったんです。形ある人間には、絶対に望めるものではないということが……………」
ノン子「形かあ・・・・・・」
メイ子「そう。目に見えないからこそ永遠で、絶対で、いつでも私のものなんです」
ノン子「………. なんか、しんみりしちゃった」
メイ子「そうですねえ・・・・・・」
ノン子「要するにさあ。神様って、目に見えない……、つまり人間の…うまく言えないけど・・・・・・魂の料理みたいなものじゃない、結局」
メイ子「うう….。どうしても料理から離れられませんねえ……。でも、言われてみればそうかもしれない。きっとそうよ。そうだわ」
ノン子「ね、ね、そうでしょ。そうに決まってるわよ。神様は魂の料理なのよ」
メイ子「高級な料理も、高級な神様も、理屈じゃないわ。体験するしかないのよ。舌で体験するか、魂で体験するかの違いだけだわ」
ノン子「そうよ、そうよ。肉体の栄養になるか、魂の栄養になるかの違いだけだわよ」
メイ子「えっ。あなた、本当にいいことおっしゃるわね。本当にそうだわ」
ノン子「それぐらい、私にだってわかるわよ、ドン」
メイ子「イタッ。あんまり強く肩をたたかないでください」
ノン子「私たちって、いい友達になれそう。有形無形のグルメかあ・・・・・。それもいいなあ……。十七人目の今のボーイフレンドにも、そろそろ飽きてきたしなあ・・・・・・。結局、空しさをまぎらわしているだけかもしれない……」
メイ子「…………」
ノン子「神様かあ……。ふむ……」
二人はしばらく沈黙して、五十鈴川のせせらぎの音に聞き入っていた。
春風が優しくノン子の髪をゆらせ、ノン子の表情に心なしか優しさが表れてきたのが感じとれる。
このように、伊勢大神様の功徳とは、その神域にたたずんでいるだけで、人生の軌道を変えてしまうだけの功徳があるのである。
このたとえは、極端な例であるが、多かれ少なかれ、自然な事の成り行きや、自然な人との出会いによって、人生の大きな軌道修正が為されてゆく場合が多い。
だから、参拝する時も、した後も、あまりあれこれと人智で考え過ぎないで、自然な成り行きに身を任せ、どこかボーッとした所があって、自分なりのベストを尽くしてゆこうとすることが大切なのである。
人智や欲心による執着心のない方が、ご神徳を一層受け取り易くする。
それが、自然体の妙であり、伊勢神宮に、感性でお参りする仕上げのポイントになるものなのだ。
