妻の冥利は、死んだ夫をふり返る時にわかる
ここで、少々横道にそれるが、私の「未亡人研究」というテーマの話をしよう。
いろいろと縁あって相談にこられる女性の中に、有名無名の人の未亡人がいる。私は、これらの未亡人を冷静に見ていて、二つのパターンがあることを発見した。
第一のタイプは「夫もよくやりました。そろそろ私も再婚して、第二の人生をスタートさせなければ……」と考える女性。
要するに、過去は忘れてしまいましょう、というタイプだ。
再スタートをするにあたり、たいていは亡きご主人の悪口が必ず一つ、二つは出る。
最悪のケースになると、「本当によく死んでくれました。こういうと悪いのですが、酒は飲むし、女は泣かすで、親戚一同からも鼻つまみ者でしてね。
かねがね、ロクな死に方はしないと思っていたんですが、案の定……」といった具合だ。
これに対して、一周忌、三周忌はもとより、祥月命日、日々の礼拝も欠かすことなく、ことあるごとに「うちの主人は、生前………」と必ず、会話の中に亡き夫を登場させ未亡人がいる。
夫の死後、ますます彼を愛し、敬い、自分の心の中に、いまなおしっかり夫が生きていて、大切な自分の一部となってしまったかのようなタイプの女性。これが第二のタイプである。
どうして、同じ未亡人でありながら、こんなにも差が出るのだろう。
私の大学時代の先輩に、Kさんという人がいる。当時、彼の下宿で聞いた話を思い出し、その答えがわかった。
K先輩いわく、「女の幸せというもん知っとるか(彼は和歌山県出身)。おれのおやじは、私鉄総連の委員長をしたこともあったのや。
きついおやじでな。おふくろは苦労ばかりしていたよ。けど、おふくろはこうもいっとった。世間の多くの人から夫は尊敬されている。
皆がその実力を認めて、評価している。その主人を今日まで支えてきたんは、この私なんや。
私しか、一緒に苦労した時のことや、子供のように無邪気な面、あるいは弱点を知る人はいない。
そういう夫を尊敬して訪れる人たちの眼差しを、横目でチラッチラッと見ながら、笑顔を絶やさずにぬか味噌をコネている時が、本当に女の幸せを実感する時なのよ”。おい、わかるか。女の幸せはこれなんや」
あの世紀の大天才、アインシュタイン博士の奥さんも、こう語っておられる。
「私にはむずかしい理論はさっぱりわかりません。けれども、アインシュタインがどういう人であるかは、誰よりも一番知っています」
死後自慢できる夫をもとう
読者の方もおわかりになったと思う。
死してますます夫を愛し、生涯愛し続けるであろう未亡人は、この「女の幸せ」を味わった方々なのだ。
女の誇りと幸せを充たしてくれた夫に共通するものは、まず、社会的地位、名誉、経済力の三つが備わっていることであり、次に、絶えず努力をして才能実力を磨く人であったということだ。
さらに、包容力と優しい言葉があれば、いうことなし。もう、とろけそうなぐらい幸福な日々をおくることができるのだ。
こういうタイプの男性を、読者の方々は理想の夫と考えているに違いない。
そして、自分の意見を聞き入れてくれ、夫が美男子であったらどうなるか。もう、「いつ死んでもいい」と思うほど、幸福の絶頂の日々だろう。
アメリカのファーストレディーである大統領夫人は、この数少ない女性の一人ではないだろうか。
ところで、後者の未亡人の一人のお話を聞いて、わかったことがもう一つある。なんと、亡くなったご主人は、他に女性を作ったりして、しばらく家に帰ってこなかったこともあったとか。
また、性格も激しかったり、酒、バクチもやり、仕事の失敗も何度かあったのだ。
つまり、人が思うほど、順風満帆な夫婦生活ではなかったのである。
これだけを見ると、最初のパターンで紹介した、死後、未亡人から愛されない夫と、かなり共通する部分があるのだが、最終的には大きな差がついている。
その違いは、「本物の男の甲斐性」があったかどうかである。男の甲斐性は、女性が真似しようとしても、真似できるものではない。
いわば男だけの世界だからこそ、女性はそこに尊敬の念を払うのである。甲斐性のあるご主人をもった女性は、その夫が亡く なると、即、その偉大さを痛感するようである。
だから、もし夫が後者のパターンにあてはまっているのなら、「やりにくい人だ」とボヤかずに、女の幸せを甘受して、せいぜい、マッサージや料理に愛の花を咲かせることだ。
夫が死んでも悔いを残さないためにも、幸せで満足な女の日々を実らせるためにも。
結婚して伸びる男と伸びない男
最近の大相撲界には、大関で結婚するとダメになるという定説(?)が流れているそうだ。プロ野球でも、結婚したとたん、成績を悪くする選手がいる。
もちろん、それとは逆に、結婚を機に大きく飛躍する人もいる。奥さんを替えたとたん、ホームランバッターに返り咲いた田淵幸一選手のような場合もあるのだ。
この違いはいったい何だろう。成績を上げる人も下げてしまう人も、結婚まではともに、心ウキウキであったはずだ。
ところが、結婚を境に道は大きく分かれていく。一方は成功へ、一方は失敗へ。
成功パターンは、これまで説明してきたように、互いの力を存分に出しきれるように、励まし合い、尊敬し合っている。
だから、当然、善霊たちがうず巻き守護霊たちも互いに助け合うようになる。すべてがプラスの方向へと動き出すのである。
ところが、失敗パターンをたどる二人は、たとえ人間的には非常に優れた部分があったとしても、我が強すぎて、相手を立てることを忘れていたりする。
また、先祖の因縁が悪くて、守護霊の援助が届きにくい場合もある。
本人同士の責任なのか、はたまた先祖の責任なのか。原因は様々考えられるだろうが、大切なのは愛し合って結婚した二人なのだから、直面する困難や苦難にともに力を合わせて対処していく態度なのだ。
しかし、こんな月並な常識論をいってみてもしかたがない。この成功パターンと失敗パターンを神霊的に詳しく分析すると、女性のほうからいえば、発展の妙気をもつ女性か否かで、男性が結婚して成功するかしないかが決まるケースが多い。
発展の妙気とは、何となく女性から発散する気とムードと考えればいい。その神霊波動が男性の運気に作用するわけだ。具体的には、どんな気かといえば、包み込む気などである。
①明るい気②やる気③大きくする気④伸びようとする気⑤やすらかな気
こういった気をもった女性になることが、男運をつかみ、さらに発展させるためには最も重要であり、そして、そう心掛ける日々の心の精進が大切となるのである。
仕事のできない男は、男の値打ちがない。だからこそ、女の気で、男に「やるぞ」という気を起こさせるのである。
これが、女性の第一の任務だといえよう。この息吹きの乏しい女性は、男性の才能とやる気をだめにしてしまい、男も、そして女性自身をも不幸にしてしまう。
あなたが真に彼を愛するならば、いろいろな理屈を並べる前に、果たして自分は夫を出世させ、発展させ得る女なのかどうか、この点からまず省みる必要があるだろう。
ついでにいっておくが、生霊や苦しんでいる先祖霊、あるいは怨念霊とは、この「発「展の妙気」を妨げる存在なのである。
また逆に、守護霊や祈りの念、産土神とは、この「発展の妙気」を増幅してくれる存在である。
以上が、「気」という世界から幸、不幸を見た場合の考え方であり、われわれの心掛けるべき一つの方向性を示しているのである。
ここで、この「発展の妙気」を助長させ便利な方法をお教えしよう。
「ハルチ ウムチ ツツチ」のパワーコール。
この説明はすでにすんだ。自分の潜在能力を発揮させるパワーコールであると同時に、月神霊界からの「発展の妙気」を引き出すものなのである。
さて、この「ハルチウムチツヅチ」にもまして、夫婦の一体化、夫婦の守護霊と 「発展の妙気」をパワーアップさせるパワーコールが、「センテン ナム フルホビル」である。
これは、守護霊と自分の本霊との合体を促すもので、悪霊を祓い善霊を呼び集める力もある。
自分の守護霊と相手の守護霊、自分の心霊と相手の心霊が大いに発展・合体しているさまを想像し、できれば、想像図を紙に書いてパワーコールを唱えるとよい。
もちろん、いうまでもないことだが、パワーコールによって、守護霊団が作られ、霊的パワーがアップすると確信しなければ、効果はない。まず、確信、至誠。それかパワーコールである。
夫婦ゲンカはこうして回避
夫婦ゲンカといっても、いろいろな段階がある。「料理がまずい」「帰りが遅い」「風呂がぬるい」「オナラをするな」などは、ごく初期症状で軽い。
「浮気をしてる」「金遣いが荒い」「酒グセが悪い」は、中期症状。心の溝の亀裂は深く、お互いに気をつけないと、とんだことになりかねない。
「家を出ていけ!」「殺してやる!」「クソババァ!」ノーセックスにノートーキング。これは末期症状。感情の高ぶりは行動となって表われ、暴力がふるわれる。
完全に冷めきった感情は、侮蔑の目と寒気のみ。氷のように触れれば痛く肌を刺す。歩み寄る心の橋は、すでに嵐で流れ去って久しい。
離婚の話となれば、心と神霊をズタズタに傷つけ合い、傘一本、犬一匹の所有権についても激論を交わす。
初期、中期、末期、夫婦ゲンカはどこかで歯止めをかけ、お互いが妥協し合うか、理解し合うかしないと、ついには悲惨な末期症状を迎えることになるのだ。
夫婦もマンネリを防ぐ意味で、たまにケンカをするのもいいだろう。だが、三日に一何とか毎日とかでは、お互い精神衛生上からも神霊の健康状態から考えても好ましくない。
男も女も、一日中イライラしていると、思わぬ事故を起こしたりするものである。夫婦ゲンカは犬も食わないというが、悪霊たちは二人の心のイライラ、カリカリを手を打って喜んでいる。
犬は食わないが、悪霊がちゃんと食べるのである。そして、二人をますますそそのかして、ケンカ地獄へ引きずり込もうとしているわけだ。
毎日のように夫婦ゲンカをしていると、二人とも精気のない、疲れ切った顔になる。
運勢の力強さも感じられないし、表情も態度もボヤーッとなる。悪霊が運気を食べているからである。
こういう状況は、なんとしても避けなければいけない。それにはどうしたらいいか。第一はケンカのパターンを知ること。
夫婦ゲンカをよく観察してみると、怒り始めるキッカケは、たいてい同じである。あご主人は、お風呂のお湯かげんに非常にうるさい。
ぬるかったり、熱すぎたりすると、とたんにご機嫌斜めになる。そこから、中期的症状までたいてい発展して、双方憮然としたまま寝床に入るのが、その家のパターンである。
また、別のご主人は、会社のウップンを家でまき散らすのだが、そういう日は、帰宅するなり、すぐに浴衣に着替えるのがクセになっている。
そして、風呂に入らず、すぐに酒を飲み始め、ホロ酔い気分になった頃、奥さんに当たり始めるというパターンだ。
どちらが、ケンカを仕掛けるにせよ、パターンはあるのである。これを上手にコントロールすれば、ケンカは未然に防げるはずだ。
湯かげんにうるさい夫をもった奥さんの場合は、ご主人が帰宅したら必ずイの一番に湯かげんをみることにした。
もちろん、入浴中も、「湯かげん、どうですか?」と尋ねるようにした。この努力が実って、夫婦ゲンカはほとんどなくなった。
後者の会社のウップン晴らしをする夫の奥さんは、浴衣に着替えそうになったら、まずともかく、風呂に入るようにすすめた。
ご主人はしぶしぶ湯舟につかるが、そのうち、心身ともにリラックスして、会社でのイライラが消え、奥さんに当たり散らすことがなくなったという。
「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」。孫子の兵法ではないが、まず、敵のクセを見抜くことが大切。
敵の攻撃パターンを読みとれば、戦わずして勝利をおさめることができるのだ。これが、奥様の”夫操縦法”の基本戦略となるものであろう。
ところが、現実はなかなか厳しい。「激情」と「面倒くさい」が先に立って、同じパターンの夫婦ゲンカを延々とやってしまうものなのだ。もっと知恵を働かせて、積極的に夫婦和合の道を勝ちとろう。
第二は、相手に”完全”を求めないこと。
人間誰しも一〇〇点満点ではあり得ない。五〇点、六〇点は当たり前。七〇点なら御の字であろう。
ところが、自分は五〇点ぐらいなのに、相手には一〇〇点満点を要求しようとする。そこが、そもそも間違いのもとなのである。満点を求めるから、相手の失敗が気にくわない。だからイライラして、怒りたくなる、というわけである。
自分の点数は辛くして、相手は甘くしてあげると、怒りはおさえられる。
「うちの人はチビで、ハゲで給料は安いけど、家族皆のために一生懸命働いてくれているし、それに健康だから、合格点」
こうすれば、相手を許す心が芽生えてくるものである。
第三は、ケンカしても根にもたないこと。
すぐに忘れて、仲直りすることである。表面的には和解し、仲直りしたようでも、根にもち、相手を怨み続けると、やがてそれが生霊となってしまう。
夫婦ゲンカの中期か末期的症状にかけては、たいてい、お互いに生霊の飛ばし合いをやっている。
こうなると悲惨だ。執念と執念、怨念と怨念の戦いだから、言葉など不要になる。一日中、相手のことを呪い続ける。
勝負は、執念深いほうが勝つが、勝ったといっても神霊的に見ると、霊は真っ黒。夕コとイカが墨をかけ合っているようなものだ。
霊の顔は半分になっているし、お腹も半分しかない。手足はヒョロヒョロなのに、大蛇が体をぐるりととり巻いているような状態だ。いいことなど、一つもない。
小さなケンカの怨みを忘れずに、いつまでも心にもっていると、必ず、大きな災いとなるので、怨みは小さな芽のうちに摘みとっておくべきである。
とはいえ、理屈でわかっていても、なかなか実践できないものである。怨みを抱かず根にももたない最良の方法は、日常生活で暇を作らず、特技か趣味か、何かに心を転じ、没頭できるものをもつことである。
つまり、気を転ずることによって、悪い気の凝結をうまく発散させるのである。それができない女性は、絶えず夫と子供にばかり心が傾き、アンバランスの状態をきたす。
すると、何か、ちょっといわれたことを根にもって、そのことばかりを気にとめて、反復しては想念の中で拡大化してしまうのだ。
これが不幸感と苦しみの実体となるわけである。もっと心の切り替え上手になろう。
以上、三点が夫婦ゲンカの回避法だ。好きで一緒になった仲だ。ケンカは誰でも嫌なもの。お互いがこういう努力をし合えば、第一期の初期症状だけですむものなのである。
偉人の家には、必ず賢母がいた
古今東西の人物史をひもとくまでもなく、偉人と呼ばれる人々が生まれた家庭には、必ずといっていいほど、賢母がいた。
賢母によって育てられた子は、運が強くなり、後に大成することが多い。
では、父親はどうかといえば、飲み助だったり、遊び好きだったり、たいていは「トンビが鷹を生んだ」などと陰口をたたかれる人物であるようだ。
しかし、賢母はすなわち、賢女であったわけであるから、いくらダメな父親でも、どこかよい点はあったのだろう。
でなければ、結婚するはずがない。思うに、父親はその子の反面教師的存在となっている場合も多い。
ベートーベンなどが、その好例である。「おやじのようにはなりたくない」というわけで、父親への反発をバネにして、自己を律し、大きく成長していく。が、思春期をすぎた頃から、父親に対して理解を示し始める。
「おやじも、それなりに生きてきたんだな」という具合に。
父親は厳しく、母親は優しくというのが、子供を育てる場合の基本であろう。
特に一五、六歳までは、父親が子供にとって恐ろしい存在であることが大切だろう。
母親は優しいばかりではいけない。大らかで明るいことが大事で、優しさのあまり子を溺愛する危険もある。
優しいからこそ、きちんと叱るべきところは叱らなければいけない。逆に、父親も厳しさ一辺倒であってもいけない。時には、優しくあるべきだ。子供にとっては、こういうことが教訓となって頭に残る。
いつも優しい母親から、突然叱られる。いつも厳しい父親が、時たま優しい言葉をかけてくれる。これが子供への教育によいのである。
「孟母三遷の教え」「孟母断機の戒め」という言葉があるが、まさしくそのとおりであろう。
三遷の教えとは、孟子の母親が、子供の教育のために三度住まいを替えたというもの。
断機の戒めとは、学業中の孟子が、母親の安否を気づかって家に立ち寄ったところ、「学問を途中でやめれば、このようになる」として、織っていた布を切り裂いたという戒めである。
自分の子供を偉い人物にしようと思えば、女性は優しさの中にも賢さと厳しさがなければならないのである。しかし、それも本当は時期が大切なのである。
子供の教育は神と自然が行う
神霊世界から見た本来の教育は、人為を主とした父母の全面バックアップ教育体制とは少し違う。子供は人が育てるのではなく、自然や神霊たちが育てるのである。
どんな人間も最初は子供。天の命と何らかの使命をもって万人はこの土地に誕生するのである。その天の命令を実行すると、心の奥の満足感や充実感となって現われる。
しかも、天の命令は、前世と現世の才能をきわめた後に発せられるのだ。本人が正しい方向でそれに合った努力をすれば、必ず現世でその才能を開花するようになっている。
もちろん、尊い守護神や守護霊は、皆、それらをよくご存じであり、間違いなく天の命令が遂げられるように、朝な夕なに守護してくれるのである。
「できれば、もっとそれ以上に素晴らしくなって欲しい」。これが、神霊世界の善神善霊たちの願いである。
教育とは、この本来の道をまっとうするための、いわば、花や木が成長し、開花し、結実するための根固めなのだ。
だから、人為的な教育をあまりやりすぎると、見た目はきれいな樹木や花に育つかもしれないが、本来の天性や守護神、守護霊、本人の御魂の顕現を妨げる恐れがあるのだ。
それゆえに、ある程度は、自然に任せて子供の成長を見守るようにしたい。
親として為すべきことをやるのは当然で、「放任主義」をすすめているわけではないので誤解しないでいただきたい。
大切なのは、たとえ厳しく躾けても、子供の素直な気持ちを摘みとってはならない、ということなのだ。
なぜなら、その素直さこそが本人の天命をよりスムーズにまっとうさせるからだ。
教育とは、本来「人」がするものではない。内在の本人(潜在意識の中にいる、天命を知っている自分)と神様がなさるもので、両親、あるいは教師は、単に教育の介添えをさせていただいているにすぎないのである。
それは、「両親の悪い環境、逆境が幸いして……………」とか、「両親を嫌って家出して、それがかえって成功するきっかけとなり…」、あるいは「両親のいい環境が幸いして天才ピアニストに…」といった具合に、立派になる人のプロセスには、様々なパターンがあるのを見ても明らかであろう。
本当のことをいえば、両親はそういう運が強く、力量や豊かな天性をもった子供を神様から授かるよう、己を磨き、徳を高めることが大切なのである。
そして、わが子に両親が、真に影響を与え得るのは七歳までであり(これが“根固め”の時期)、この躾けの時期を逃がさないようにしたい。七歳以降はその子自身と、その子を守る守護神、守護霊の責任なのだ。
「親はなくても子は育つ」。ひどい言い方のようだが、これが神々様から見た場合の人間教育なのである。
いつまでも、「私の子供が……。うちの子供が……」と、子供に心を傾けすぎてはいけない。親としての社会的責任(親の義務)をまっとうすることは当然としても、それ以上は本人と天の采配にまかせるべきなのだ。
また、それよりも、両親自身にも天命はあるわけで、そちらを完遂するほうに意識を傾け、才能と技量、そして徳を磨く努力をしていただきたい。
両親、特に女親が暇だから、「子供が・・・・・・子供が・………」と、過剰に心配し、干渉したくなるのだ。
しかし、今日の日本の教育制度は、天と自然の理に基づかない部分も多いので、子供の才能を正しく伸ばすためには、ある程度親として注意が必要だ。注意すべき時期は、小学校四年生と中学一年の後期、そして中学三年の高校受験期である。
最初の小四の時は、発達心理学からいえば「抽象概念」が発達する頃なのである。だから、この時期に割り算や分数、小数点などを習う。
また、一生涯使う常用漢字の九〇パーセントを小四、小五までに習うのである。
日本の学校教育のカリキュラムがそうなっている以上、親が注意すべき最初の時期である。ここをある程度しっかりさせなければ、日本では落ちこぼれてしまう。特に早生まれの子供は、一年の差が大きいこともあるので気をつけたい。
あとは中一後期。この時期は英文法がむずかしくなるので、英語の落ちこぼれに気をつけよう。
学校教育において、母親が影響を与え、注意すべきポイントはこの二つの時期と、もう一つは、高校受験期。この時期までは、ある程度母親の影響や言葉が効くが、七歳までに自主自立の躾けや読書の習慣があれば、子供本人と守護霊の力で、楽々越えてしまう関門なのである。
「根固め」の時期を逃がした後で、急に教育ママになるのは本来の賢母とはいえない。しかし、それが不完全な場合でも、母親の干渉が効力を発揮する時期である。
手を抜かず、なるべくいい高校へ行けるように、全力を尽くしてあげて欲しい。
だが、親がいつまでも子供に干渉するのは、傲慢な人為と親の自己中心的な考え方に基づいており、本物の愛や理性、そして神や自然に基づくものではないといえよう。
これらを見る時、その奥に潜む儒教教育の弊害を感じざるを得ない。私のこの説は、日本古来の神ながらの道(神道)によるものであり、神霊世界の法則と真意を代弁するものなのである。
信ずる子供は神霊界を動かす
子供は天来の可能性をもっている。それを引き出し、伸ばしてやる七歳までの根固め躾けの第一の責任者は、母親である。
子供の才能を伸ばす最善の方法は、子供に自信をもたせてやることだろう。
「辛いことがあっても、必ずやれる。大丈夫、失敗してもともと、頑張りなさい」こう元気づけられるだけで、子供はもてる力を十二分に出せるものである。
逆に、「あなたは、何をやってもダメねー。失敗ばっかり、今度、失敗したら承知しないから」
これでは、子供は萎縮するだけである。失敗してもいいから、どんどん積極的にものごとにとり組もうという気持ちが大切なのに、それでは魂の根が萎えて、発育不全になってしまう。
子供は元来、好奇心が旺盛で、何にでもチャレンジしたがるものである。また、大人の常識では夢物語のようなことであっても、必ず可能だと信じることができる。
そして、頭の中では、すでに夢物語の主人公として大活躍している、というのが普通だ。
野球少年は、皆、将来プロ野球に入って甲子園や東京ドームでホームランをかっとばしている自分の姿を、頭の中で描いている。
将棋を覚えた子供は、すでに名人と対局している自分を想像している。科学の好きな子供は、科学者。宇宙や星に関心のある子供は宇宙飛行士といった具合である。一事が万事、子供はそうなのだ。
しかし、これを子供のたわごと、とかたづけてはいけない。信じて行なえば、霊界がそのように働くのである。
これは大人でも子供でも変わらない。信ずる心が向上と発展の気と霊たちを動かすのである。
また、子供は何でも覚えるのが早い、といわれる。確かに知識においてもスポーツにおいても、大人ではとうてい太刀打ちできないほどのスピードで新しいものを吸収する。
これを一般の学者にいわせれば、「子供の脳細胞はやわらかいから」ということになるらしい。
そうかもしれない。だが、そればかりではあるまい。数学が好きな子供と嫌いな子供では、同じ勉強をしても覚えるスピードはまるで違う。
脳細胞は同じようにやわらかいはずなのに、これはどうしたことか。むずかしい数学の問題があるとする。
数学の好きな子は、「必ず解ける。その方法を考えるのがすごく楽しい」と思う。
ところが、嫌いな子は「むずかしすぎて、ボクには解けない。ああ、苦痛だ」となる。脳細胞の働きの違いは、どうやら、このあたりにありそうな気がする。
「必ず解ける」と信じて脳細胞を働かすと、霊界は信じた分だけ動く。頭脳は明晰になり、インスピレーションが湧いて、その結果、問題が解ける。問題が解ければ、それは喜びとなり、同時に自信ともなる。
その深奥では、仏教でいう「阿頼耶識」が動くのであるが、拙著『強運』でも触れたのでこの詳説は避ける。こうして、子供の才能がどんどん伸びていくのである。
また、子供は常識にとらわれない。可能とか不可能といった境がない。すべてが、可能であり、将来、必ず実現すると信じて疑わない。
そこに霊界が働く余地が生まれる。せっかく霊界が、その子の将来の夢を実現させようと、後押し態勢に入っているのに、それを大人の常識でストップさせてはならない。
「そんなこと、やめなさい。ダメに決まってるでしょ」というのはタブーである。
「やればできる。自信をもってやりなさい。あなたなら、きっとできる」というべきである。
そうすれば、子供は自信をもち、何ごとに対しても楽しくとり組むことができる。たとえば、かりにそれが失敗に終わったとしても、「努力したことは必ず実になっている。貴重な次のステップになっているのよ。だから、くじけないで、恐れずに再チャ「レンジしなさい」と励ますべきだ。
これが神道の教育、進歩発展の思想であり、かの松下幸之助氏の成功もこの発想が原点となっている。
これは、子供ばかりではない。大人でも同じことなのである。まず、好きになって、そして自信をもち、楽しく対処する。失敗したらますます闘志を燃やす。
すでに、ことは成っている、と信じれば、霊界もそのように働く。「どうせダメだ」と思うことが、一番ダメである。そう思った瞬間に、霊界の働きはピタッと止まってしまうからである。
ガンバリ精神を植えつければ成功者になれる
世の成功者といわれる人は、例外なく、ガンバリ精神があり、粘り強い。集中力があるのである。よきにつけ悪しきにつけ、執念が強いと霊界が働く。
怨みの執念は生霊やたたり霊となるが、相手を深く、大きく、強く愛して慕うと、それもまた生霊となる。ただし、こちらのほうは、相手を守り、導く善の生霊であるが。
ともかく、一つのことをやり始めたら、トコトンやり抜く精神力は、子供の頃に培われる。二〇歳をすぎて、自分の性格を改めようとしても、なかなか改まらないものだ。
子供の頃なら、まだいくらでも修正がきく。だから、できるだけ根気が続くよう、
母親はしっかり監督する必要がある。オモチャを与えすぎるのはよくない。一つのオモチャで、何時間も遊ばせる訓練が大切。そうでないと、移り気を増長させるようなものである。
小、中学生ならば、クラブ活動にしろ、趣味にしろ、とにかく一つは途中で投げ出すことなく、継続させるべきである。自分の気にくわないことがあると、プイッと横を向き、すねたり、いじけたりするようなら、厳しく叱りとばすように、それが、親の務めである。
いくら豊かな天命と強運のある子供でも、地上に肉体をもって生まれてきた限り、日々の努力と幼児期の顕在意識の躾けがなければ、天命を十分にまっとうすることができないのである。
命運は、あくまで確率の高い可能性であり、一〇〇パーセントではないからだ。だからこそ、その時、その瞬間を精一杯生きなければならないのだ。
また、子供は純真であるがゆえに、善霊も働きやすいが、悪霊も憑きやすい。わがまま、いじわる、いじめ・・・・・・、などは悪霊が働いている場合がほとんど。
子供自身、フッと気がついて「こんなことしちゃいけないな」と改心することもあるが、そうでない場合は、親が指導すべきである。
親は幼児期の子供にとって、肉体をもった直接の守護霊であり、守護神なのである。それを忘れて、子供にやりたい放題をさせておくのは、明らかな責任放棄である。
根気をもたせ、集中力を養えば、それだけ霊的なパワーを一生涯に期待できるのである。
子供にとっても、「一つのものをやり遂げた」ということは大きな自信につながり、いま、流行の〝いじめられっ子”に陥ることもなくなるだろう。悪の誘惑に負けない強い意志と霊力、これが重要なのである。
子は親を見て育つからしっかり夫婦円満
子は親を見て育つ、という。両親がいつもケンカばかりして、お互いをののしり合っているようでは、子どもの情操教育上、はなはだよろしくない。
親がいがみ合っている様は、神霊的に見ると、悪霊、邪気の飛ばし合いである。
子供は霊的に敏感だから、両親の霊的雰囲気をすぐに察知してしまう。そして、いつも、両親の顔色ばかりうかがうようになる。
たまにはケンカするのもいいだろう。子供を叱るのもいい。だが、これが日常茶飯事では困る。心の安息場所がなくなってしまうからである。
いままで、強い運をもった子供を育てるための工夫について、あれこれ説明してきたが、最も注意すべきことは、家の中が、神霊的に重く暗く沈んでいる状態が一番よくないことだ。
明るく、軽く、そして希望に満ちている霊的雰囲気の中なら、子供は本来の才能を一二〇パーセント発揮するだろう。守護霊も十分に力が出せる。そのためには、
心と言霊と行いを前向きにして、母親が明るくふるまう必要がある。
そして、グータラ亭主であっても、子供の前で夫の悪口を吐いたり、愚痴をこぼしたりしてはならない。
また、逆に、男性は自分の妻を子供が聞いている場所で、ののしったりすることもダメ。
お互い、やるなら陰でやろう。ところが、以上のような理屈に比べ、まったく絶望的な環境とご亭主をおもちの方はどうするか。
これはもう、信仰の力しかあるまい。罵声を浴びせる夫の下で、こんこんと神様、仏様、守護霊様の話をして、前向きに、明るく子供を育てることだ。
理想は、常に相手を尊敬し、大切にしている心子供に示すべきである。そうすれば、子供は「人間は、お互いを尊敬し合うのが普通「なんだな」と思うのである。これが、心の〝基準〟となるのである。
心の基準が狂った場合、どうなるか。情緒障害に陥り、それが家庭内暴力、校内暴力、性的倒錯、イライラ、臆病、ツメかみ、奇人的発想、UFOに夢と希望を託す…..等々の異常性格〟に発展する危険がある。
心の基準とは、すなわち、神霊界の基準でもあるわけで、基準が高ければ、ランクの高い霊層の影響を受けることができ、心身健康、頭脳明晰の幸運の人となるのである。
ところが、基準が低いと低霊層と感応するので、怠惰、わがまま、暴力、自己嫌悪等、いわゆる情緒障害の不運児となるわけだ。
それでも、強い天命や天運をもつ子供は、それを自力で克服して伸び上がるが、大変な苦労と努力を余儀なくされる。
子供が、こうして情緒障害に陥るのは家庭内の霊的雰囲気が悪いためばかりではなく、水子霊のたたりや、先祖の因縁、昔別れた恋人の怨霊生霊などが影響していることも多い。
いずれにしても、この点は子供には責任がないわけだから、両親がしっかり子供を監督し、高い霊層と感応できるように導いてやる必要があるだろう。
そのためには、悪気をはね返す家庭円満、夫唱婦随の発展妙気のパワーが何よりなのである。
パワーコールは北極星に向かって
さてもう一つ。運勢の強い子にするための方法が、このパワーコール。「ウンテントーボーエータート」である。これは北極星神界のパワーに波長を合わせることのできるパワーコール。
北極星神界の主宰神はサンタクロースのような格好をした太乙老人と呼ばれる方で、常に子供たちのすこやかな成長を願っている。
毎月旧暦一日、北極星に向かってパワーコールを唱えるとよい。そうすれば守護霊に、善なる応援気運がゆきわたるはずである。
これは子供に直接唱えさせることが一番であるが、大人が代理として唱えても効果は絶大である。
ただし、天を敬う至誠の気持ちで祈らなければ、正しい霊力は授からない。七夕の願いは年に一回きりだが、北極星への祈りは年一二回。
もちろん、旧暦一日以外の日でも、真心を込めて唱えれば何ら支障はない。つまり、三六五日可能なわけだ。
真理と勇気、そして力強さと健康、叡智。これらが、北極星神界の霊波動として、地上に降り注いでいる。あたかも、太陽の光のごとくにである。ただ、人々は無形の世界なので気づかないだけである。
結婚したら観念せよ
「家つき、カーつき、ババア抜き」は、ひと頃流行した言葉だが、意味は、「家があり、クルマがあって、しかも姑がいない男性に嫁ぎたい」というものである。
しかし、それはあくまでも願望であって、現実はなかなか厳しい。
昔は子だくさんの家庭がほとんどだったので、相手の男性が長男で、しかも両親と同居しなければならなくなるケースは、確率的にさほど多くはなかった。
だから、嫁いじめの実態は、限られたケースといってよかった。戦後のニューファミリー世代以降は、長男、長女の結婚が増加した。
一人っ子家庭が戦後ふえたのである。その結果、男性側の両親と同居ならまだしも、女性側の両親も同居などという事態も生じている。
いずれにしても、男性側両親と同居する場合、嫁姑の関係は避けて通ることのできない大問題である。嫁ぐ女性は、どういう心構えでいたらよいのであろうか。
はっきりいって、これは観念する以外にない。いまさら、じたばた騒いでも始まらないのである。逃げることはできないのだ。
寂しさをこらえて、しかたなく独身でいるよりはずっといいはずだ。確かに、血のつながらない女が二人、一つ屋根の下で生活をともにするのはお互い苦痛であろう。
世代が違い、歳が親子ほどかけ離れていても、女同士の確執はあるものなのだ。それは、いつの時代でもそうであった。
「嫁にくわすな秋なすび」など、嫁姑の関係のことわざを見てもわかる通りである。
嫁姑の関係から逃れたい、と思えば思うほど、苦しむだけである。逆に、「何のこれしき」と開き直ってしまえば、意外と気は楽になる。
「嫁姑は仲が悪いのが当たり前。嫁は意地悪されるのが普通なんだから、私だって嫁の意地で耐え抜くわ」という具合である。
嫌だ、と思う気持ちが相手への怨みに発展する。この思いは相手も敏感にキャッチする。すると、相手もこちらを怨み返してくる。ますます仲が悪くなると悪循環に陥るのが関の山だ。
相手にしない。存在を気にしない。そして怨まない。いつもニコニコ、こんにちは。ストレスたまれば、やり返す。
これが、ベストであろう。なにしろ相手は、こちらより何十年も女稼業を長く営んでいる強者だ。まともにロゲンカしたら、とうていかなわないのである。まあ、最近はその逆のケースも多いけれど。
女は愛嬌はここでも活かされる
ところで、嫁姑の関係、敵は姑一人だけではない。なにしろ相手は、親戚一同という連帯でやってくる。なかなか手ごわい。
そこで、大切になってくるのが「女は愛嬌」という金言。女の愛嬌は、強力な女の武器でもある。
人生経験も不足しているし、嫁いだ先の風習や家風もまだよく理解できない。嫁としても、妻としてもまだ半人前。
だから当然、失敗も多くなるし、姑の怒りをかうこともあるだろう。親戚一同からの風当たりも強いかもしれない。
そんな逆境の中に一人たたずむあなたを救ってくれるのが、他ならぬ、あなた自身の愛嬌度である。愛嬌といっても、単に顔だけニコニコしていればよい、というものでもない。
ポイントは相手の心をいかに積極的につかんでしまうか、である。愛嬌度が低い人は、相手の怒りをまともに受けてしまう。怒りを他へ転嫁させたり、あるいは笑ってごまかすことができないのである。
ところが、愛嬌のある人は万事につけて得である。相手の怒りを巧みにかわし、かつ、怒りをしずめて忘れさせてしまう。
愛嬌という人の心を和ませる明るさが、怒りにともなう悪気を一瞬のうちにとり払ってしまうのだ。そして思わず愛嬌に引き込んでしまう。
相手は一瞬ポカンとしてしまい、フッと気がつくと、自分が一体、何で怒っていたのかも忘れてしまうのである。
いわゆ怒りの気をそらすのである。あるいは、怒気を消す間合い、といえるかもしれない。相手が怒気を発したな、と感じたら、先手を打って愛嬌をふりまくのである。
タイミングがずれるとぎこちない愛想となる。このタイミングのとり方は、バーやキャバレーのナンバーワンのホステスさんがうまい。下手な人は、ぜひ彼女たちから学び、マスターしたい。
もともと、嫁姑の間のいざこざは、ささいなことが発端となっていることが多い。
洗濯の時、水を余分に使いすぎるとか、味噌汁が濃すぎるとか、電話が長いなどとか、目くじら立てて怒るようなことではまったくないのである。
にもかかわらず、嫁姑がいがみ合うのは、双方の心にゆとりがないからだ。そのためイライラばかりして、相手のミスが気にかかるのである。これが怒気となる。
また、愛嬌と同時に、姑や親類縁者から誉められるような美点を何か一つでももつとよい。何から何まで、誉められようとしたら、かえって失敗を招くだけである。たった一つでよいのである。
たとえば、部屋の掃除だけは誰よりもきれいにするとか、味噌汁を作るのがうまい、といったちょっとしたことでよい。
要するにとり柄がある、と姑からいわれるようになればしめたもの。お互いを理解し合う第一歩となるだろう。
宗教の違う家に嫁いだ場合はどうする
自分はキリスト教なのに、相手の男性は熱心な仏教徒。嫁入り先の家で、仏壇に手を合わせることになった、さあ、どうしようと、こんな悩みをおもちの方も多いだろう。
信じてもいない宗教を、姑から強要されたりすることもある。
面と向かって、「嫌です。手は合わせません」ともいえないし、かといって、形だけでも手を合わせるのは、自分の信ずる神に対する冒涜になりはしないかと、不安になってしまうのだ。自分の宗教に、熱心であればあるほど、こうした悩みは深かろう。
だが、安心するがよい。たとえ、信じていない宗教に手を合わせ、頭を下げたとしても、神への冒涜にはならない。節操を捨てたことにもならないのである。要は心の問題である。
形がうんぬんではない。教条的な信徒は、形の上だけでも他宗教に染まることを忌み嫌うが、本当の神様は、そんなに度量の狭いお方ではない。
形は違ったとしても、なお、自分のことを信じてくれている信徒には、神はなお一層、愛を感じてくれるだろう。
つまり、“隠れキリシタンごっこ”をすればいいのだ。神様の心境は他家に娘を嫁がせた父親の心境と、よく似ているだろう。
たとえ、嫁いだ先で、義理の両親と仲よくしても、その娘のことを心配し、いつも見守っているのが実の父親なのである。他の宗派、他の宗教に手を合わせても、自分が信ずる神仏を敬う気持ちがあれば、それでよいのだ。
しかし、どうしても不安だという人は、手を合わせた時、本尊に対してでなく自分自身の守護霊を思い浮べて祈るがよい。
守護霊に対して手を合わせ、頭を下げるわけである。こうすれば、他宗教の霊的波動や影響をあまり受けなくてすむ。姑は「よしよし、手を合わせて拝んでいるな」と満足である。
位牌の斎祭り方で家運も変わる
自分の先祖の位牌を、結婚相手の家にもっていかなければならない場合はどうしたらいいだろうか。これははっきりいって、やめたほうがいい。
現代風習なら、奥さんが実家にひんぱんに帰ったり、気の合った親戚など足繁く出かけたりするのは問題ないかもしれない。
しかし、位牌のご先祖様や親、祖父母の方々は、明治、大正、昭和の初期やそれ以前に生きておられたのだ。ということは、霊体になっても考え方が昔風そのままなのである。
つまり、封建的であるということである。家長制度の中で生きてこられた方々だけに、いったん嫁いだ娘の家で安住されることはなかなかむずかしいのだ。相手の家の先祖霊も気づまりである。
夫婦間の違和感やケンカ、居心地の悪さは、夫の家の仏壇に妻の実家の祖霊を斎祭ることに起因していることも多い。
どうしても祭らねばならない時は、両方のご先祖さんに声を出して、よく事情を説明し、お断りをすることだ。
そして、新たに別の仏壇を購入して、別室に斎祭りをするべきである。ちょうど、奥様方の両親や親戚の面倒をみるために、庭にミニハウスを建てて、そこに住んでもらうようなものである。
こうすればお互いのプライバシーが保たれて、居心地はよくなるはずである。
ところが、そういう霊界の事情も知らずに、夫の家の仏壇に妻の家の先祖代々の霊位を斎祭ったり、結婚して夫の姓を名乗っているのに、夫の家の仏壇はなく、妻のみが堂々と実家の先祖代々の霊位を斎祭っているとどうなるか。
霊界が保証する、きわめつきのカカア天下の家となる。「からっ風とカカア天下」で有名な上州の女性も、顔負けであろう。
一般的に先祖崇拝の念の強い姑は、そういう場合奥さんのもとにそう易々とは組みしない。かえって反発を強めるのである。
また、小じゅうと(夫または姑の兄弟)もやはり、霊界の秩序の乱れを敏感に察知するのか、はたまた、乱れた霊界の影響を受けてしまうのか、姑以上に、奥さんにとってはやっかいな存在となる。
いわゆる、「小じゅうと一人は鬼千匹」となってしまうのである。たかが位牌ぐらい、と軽く考えるのは禁物であろう。
また、縁者一族の位牌を斎祭ってある家庭があるが、これも禁物。「霊界小じゅうと集団協同組合」を形成してしまうからだ。
本来は夫の直系の先祖だけを斎祭り、死後、三〇年以上たったご先祖の位牌は、心を込めて口に出してお断りをしたのち、処分してなぜ三〇年なのかは、死んだ人間が霊となって、この世の垢を洗い流す「天八衢」で修業する期間が三〇年だからである。
それ以降は、天国界、中有霊界、地獄界と大きく三つに分けられた神霊界へと旅立っていくからだ。
いや、旅立たねばならないのだ。天八衢で生活する三〇年間は、地上界の人間とコンタクトをとるのは、位牌や墓石を通してしかできない。
これが霊界の規則である。位牌はその期間だけ、霊界から許され中継基地なのだ。
しかし、たまには規則を破って、人に憑くのもいるが、のちに必ず戒められて地獄界におとされてしまう。人の体には、守護霊以外は憑いてはならないことが、霊界の掟だからだ。
さて、お盆とか命日には、天八衢の霊たちや、すべての修業中の先祖霊たちは修業を休み、位牌に憑くことを許される。
それが「先祖代々之霊位」と金文字で書かれた位牌の役割りである。ところが、狭い場所に、他の位牌とぎゅうぎゅう詰めになっていると、さすがにいい顔はしない。
また、そういう先祖を敬う気持ちが薄い態度に、祖先霊たちも不機嫌になってしまう。「あんたら、何を思てはるんや。先祖っちゅうもんを、もっと大事にしなはれ!」京都の祖霊たちの言葉である。
あまり、先祖をないがしろにすると、本人も家族も霊的パワーが衰退してくる。守護する霊的パワーがレベルダウンするので、悪霊たちの影響を受けやすくなり、それが家庭不和の原因となる、というわけだ。
これは、子供の成長、夫の出世などにも影響する。ゆめゆめご先祖様を侮ることがないよう、注意していただきたい。
なお、ご先祖様を大切にする心は、姑やお年寄りを大切にする心にも一脈通じているので、位牌等きちんとしておけば、嫁姑の争いも少なくなるだろう。
自分の家の先祖供養をしてくれている嫁を、姑がいじめることは少ないからだ。
生霊が姑をそそのかしていることもある
位牌も正しく斎祭っているし、何一つ落度がないのに、なぜかいつも姑にいじめられる、という場合は、生霊が原因していることも多い。
たとえば、あなたが今のご主人と結婚する前、別の男性とつき合っていたとする。
ご主人とその男性の恋を同時並行的に進めていたが、収入も多く持ち家に住んでいた今のご主人と結婚し、別の男性をふることになってしまった。
そして、その男性は、あなたを怨んだ。怨みはやがて生霊となり、結婚後のあなたを不幸に陥れようとする。この場合、生霊にとって手段はどうでもよい。病気、災難、家庭不和…。
一番不幸にしやすい方法を選ぶ。その結果、生霊は姑をそそのかして、あなたをいじめようと決める。
「何の理由もないのに、あの嫁を見ていると腹が立つ。こんちくしょう、と怒鳴ったり、ブン殴りたくなるのよ……」とこぼす姑もいる。
姑もいい迷惑だろう。本来は気が優しくて、イライラすることも少ないのに、生霊に憑かれたとたん、急にあなたの仕草のすべてが、何となく気にくわない。
ちょっとケチをつけたくなる。目つきもなんとなく、あら探しをしている。
あなたも、それに気がついて戦々兢々で、心は安まらない。が、姑自身も「ああ、私も姑根性が身についてしまった。
私が嫁いだ時、こんな風な姑にはなりたくないと思っていたのに。女の性だね「え」と自己嫌悪に陥っている。こうして、生霊演出・脚本、嫁姑出演の「いじめ芝居、家庭不和物語」の幕が切っておとされるのである。
「何となく嫌な気がする」。この何となくという部分が曲者。実は生霊のしわざなのだ。
生霊と同じように、嫁姑を使って悪さをするのが、先祖を呪うたたりの霊。
こちらは、本妻であった人が、妾に追い出され、そのあと夫を怨んで死んでいった、というような場合である。
あるいは、奉公人の娘さんをオモチャにしたあげく、捨てたような先祖がいると、これまた、たたり霊に代々怨まれることになる。
第一章で述べた通りである。こうしたたたり霊は、結婚そのものを邪魔する他、結婚後も姑に憑いて嫁をいじめたり、あるいは子種を断ったりする。
これを防ぐ一番よい方法は、まずともかく怨まれないようにすることである。
しかし、すでに怨まれていて、悪霊が一家を不幸に引きずり込もうとしている場合は、信頼のおける霊能者によって除霊してもらうのがいい。
近くに霊能者もなく、またいても、その霊能者で除霊できなかった場合(もっとも、高級霊能者なら、たいていの悪霊は除霊できるものであるが)、産土神霊に頼るとか、それでもだめなら、ワールドメイトに申し込まれれば、救済除霊をさせていただく。
