この世とあの世(Vol.2)

第一章 吾輩の悪霊追い払い秘伝

こんな人が浮遊霊に憑かれやすい

霊界の研究をしたり、苦しんでいる人々を救おうと働いていると、霊に悩まされる人々からさまざまな質問をうける。おかしなことに、一番人気がある(?)ジャンルの一つが、憑依霊や浮遊霊についての質問である。

実際、私が受ける質問には、次のようなものが最も多い。

「憑依霊、浮遊霊やその他の悪霊につかれないようにする方法をご教示ください」と。実は、こんなことを考えるような人は、既に浮遊霊を2~3体、くっつけてしまっているものだ。何故ならば、そんなことを思いついたり質問したりするくらい、その人はひまだからである。

浮遊霊とか憑依霊によくあう人というのは、暇な人が多い。なぜかというと、暇な人は心が「無」である。実は、この無の状態というのが非常に怖いのである。

ヨガや禅では、無という状態を大事にして、「無の境地」などと気軽に言うが、無は本当に怖い。無の状態にはいい霊も来るけれど、悪いものも来るからだ。いい霊が来て悪い霊が一切来ないというのが理想だが、単に無心であるだけでは、なかなか達人が得る無の境地と同じようにはならないものなのだ。何も考えないというだけの無の状態は、悪霊も忍び込める無防備な状態で怖い、ということを忘れてはいけない。

一つの事に夢中になって、我を忘れる「無心」がよい

一つのことに集中し、それによって無になる方法として、真言密教では阿字観、天台宗では止観というものがある。また、経文の要諦を示す一部を唱えて没入するというのが、南無阿弥陀仏の親鸞上人らのやり方であり、南無妙法蓮華経をひたすら唱える日蓮上人の没入法であった。これらは、一つのことに集中し没入し、その間は他の事柄はまったく忘れてしまうのみならず、目前の集中している物事まで忘れる程(つまり我を忘れるという状態まで)必死になることによって、無の状態を創っていこうというものである。

これに対して、中途半端に頭を使って禅をやる人は、無とは何だろうということを考えている。無、無、無。無はどうなんだろうか、何も考えなければいいんだろうか……。そして、物事に集中して無となるのではなく、無になろう無になろうとばかり連想する。だから、脳の中はほんとうに静止した無になっているのである。

ところが、そんな脳(意識)をストップした無の心境に入ると、いいもの(霊)も来るけれど、悪いもの(霊)も来る。このことを正しく知らない人が、やたらに瞑想したり、座って無念無想するというのは、大変危険なことなのである。

守護霊とか守護神様に近い霊覚を持った、かなり修業を積んだ人ならば、一時、無の境地に入るのも良いだろう。霊層が高いので高級神霊の守りも厚く、悪霊も恐がって寄ってこれないからだ。ところが、面白半分や興味本位で瞑想などをする場合には、ほとんど九分九厘まで悪いものが入ってくるのだ。都会や人ごみの中など、場所も選ばずに行えばなおのことである。

それは遊び半分にコックリさんをやったら、悪い動物霊を呼び寄せて取り憑かれてしまうのと同じ道理だ。

本当の瞑想や座禅が共通して目的とするのは、ただ無であるだけではない。人欲とか、気負いというものを無くした上で、至誠や真心は輝かせている、愛に満ち満ちている。

そういう境地が目的である。そしてそういう時にだけ、悪いものはよりつかず、正神界の神様や守護霊は来るのである。これが原則だ。

だから、もしも瞑想や座禅によって高級霊との交流をめざしたいのなら、単に無になるだけではダメである。無の自分に返ると同時に、至誠で魂を輝かさなければいけないのだ。

無にならないと、真心だ愛だといっても、そこにはまだ雑念が入っているし、本人のエゴや欲が入っている。だからいったん、無に返して、その後に至誠の一点に凝結しなければ、正しい神霊との感応はないというのが基本原理となる。

そういう魂の澄んだ輝きに自信のある人ならまだしも、やたら欲望や雑念が多いままで「無」(心を空にする)を求めたりすると、手痛い目にあうということを、くれぐれもよく知っておいていただきたい。

浮遊霊は「霊界通」が大好き

ところで、浮遊霊とは無の空間が大好きな霊だ。

人が日常生活でも何も考えないで、ぼけーっとお墓などに行ったとすると、その心の状態はまさに無の空間となる。浮遊霊にとって、その無の空間は非常に入りやすく都合がいい。

それはちょうど、主人が留守で、玄関を開けっ放しにしたような状態であるからだ。ところで面白いことに、悪人にはあまり浮遊霊は愚かない。というのは悪人は念力が強いからだ。

念力が強い、ということは、強くて恐い主人が家の玄関に仁王立ちしているようなものなので、とても恐くて入れないのである。

もともと浮遊霊というのは念が弱い。弱いからこそ生前自分の立志とか、根性で困難を打破する、などという強い意志(念)がまったくなく、無気力にフラフラ生きた者たちなのである。それで死後もフラフラ・・・・・・とさまよっているわけだ。だから浮遊霊は、悪人は大嫌い。大嫌いというよりも、ニガ手と言った方がいいだろう。気合いでいっぺんに吹き飛ばされてしまうのだ。

そんな浮遊霊にとって一番憑きやすい人材、つまり大好きな人間は、暇で、優しくて、思いやりがある人。

「ああ、かわいそうに、無縁仏さん、こんなところで大丈夫なの」なんて心をかけてしまうような、人のいい人。

こういう人には、「助けてほしい〜」とばかり、浮遊霊はどんどん悪いてくる。

善人にも悪霊が憑いたりするのか。憑くのである。しかも、意志の弱い善人ほど、かえって霊にやられっ放しの人生をたどる。だから、ヘタに人がよく、霊界のことを半端に知って、何でも霊を救ってあげようなどと思わないことだ。

考えてみるといい。

ネコでもヘタに食べ物なんかやると、どこまでもニャアニャアいってついてくる。ネコならまだいいが、浮遊霊に愛情をかけるというのは、この世でいえば、ちょうど乞食や浮浪者などに愛情をかけて、食事などを一度与えるようなもの。「お、こいつはいいカモだ」と味をしめられ、付きまとわれるだけでなく、図々しくあなたの家に住みついてしまう、というぐらい迷惑なことなのだ。

逆に「霊界なんてあるもんか」と固く信じている人に、浮遊霊は愚かない。理由は、いくら憑いても絶対に救済してくれないし、絶対に供養してくれないだろうと思うから。同じ理由で、無神論者にもあまり憑かない。

霊界ものの雑誌をよく読んでいたり、霊界書を読んで、興味本位に霊というものがいるんだと知っている人は、霊から見たらすぐわかる。

「ああ、こんなところに来ると浮遊霊が憑くんじゃないかな、霊がいるんじゃないかな、だが来ても負けないぞ、浮遊霊なんかに絶対に憑かれるものか、あっ、やっぱり来てしまった、あっちへ行け、あっちへ行け、あっちへ行けーっ!」などという人が結局憑かれてしまって、私どもの所に駆け込むことになったりするのだ。悪霊にやられるというのはこういうパターンが多い。

だからまず、霊がいるとか、来たとか来ないとか考えないように勧めている。それでも、「だって先生、霊が来ていますもの」、「だって、背中から、こういうふうに押されますもの」というふうに、霊感体質の人ほど、言いわけをして、ますます霊の存在を肯定し、ますます霊が喜ぶような意識環境を作ってしまう。

つまり霊感体質の人というのは、自分で悪霊が憑きやすくしているのだ。悪霊コレクターのようなものである。

悪霊を追っぱらう特効薬は?

「ああ大変だ。また怨念霊にガンを飛ばされた。これで昨日から七回目、いや九回目だ!」などと霊のことで忙しい人は、どうしたら悪霊から逃れられるか?

答えれば、それには何でもいいから現実界のことに没頭し、自分を忙しくすることだ。例えば、高校時代の先生に電話をして会うことにするのもいい。なるべく自分に厳しかった先生の方がなお良いだろう。

「どうも先生、ご無沙汰しております。○年前にお世話いただいた○○です。実はお久しぶりでお目にかかりたいのですが・・・・・・」

「これは珍しいな。元気でやっているの。私の方は構わないけれど、どんな用事かな?」

まさか、怨霊に毎日狙われてるとか、浮遊霊が、なんてみっともないから言えない。大体、そんなことを言ったら「この馬鹿者!」とやられる。

いくら霊にやられて、たらたら汗を流していても、恐い先生に会うと思えば服装もきちんとしなければならないし、先生の子供に土産も揃えなければならない。

「会ったらどういうことを話そうか……」と必死で考える。

社会常識から言って、誰でも緊迫する。そうすると憑いていた悪霊は逃げてしまう。というのは、何か目前のことに緊迫して一生懸命の時は、守護霊が動くからなのだ。何かに一生懸命に、有の状態であれば守護霊は動いて守ってくれるが、無の状態では、守護霊は決して動かない。無の状態で絶えず接触してくる守護霊(?)というのは、決して正ではない。守護霊をかたる邪霊がほぼ100%である。

高級霊と低級霊は、ここが違う!なぜだろうか。

それは、高級霊と邪霊とでは、人に憑く目的、理由がまったく反対だからだ。

高級神霊は、人それぞれの本人の生まれてきた意義を知っている。すなわち、本人に対して「魂を向上させる」、「善徳を積ませる」という二つの局面において、魂の教育を第一に考えるので、あまり守護し過ぎないのである。それは常に、本人にさまざまな体験を積ませ、学ばせることによって成長させようとするからなのだ。

これに対して低級な霊は、憑いた相手の肉体を占領しようとするだけだ。そしてその肉体を通して霊が思うままに操って、憑いた肉体において下等な欲望を実現しようとするのである。

そう考えると、暇な人、とりわけ暇で「浮遊霊が来たらどうしよう…」と考えてばかりいる人には、高級霊と邪霊のどちらが近付いて来るか、すぐ分かるはずだ。そんな暇な者は霊が思うように操ろうとする。つまり悪霊が占領しに来る、というわけだ。

逆に、高級霊である守護霊たちは、決して浮遊霊にとって居心地のよさそうなほんやりした人間のところには来ないのである。だから、本人の主体的人生もなしに、神だのみだけして棚ぼたを待っていても絶対だめ。そういう人には神霊は来ずに悪霊が来るということだ。

本当の高級神霊は、人が真心か愛の発動によって、何事かをやろう!と決意し、一生懸命に行動した時に動いてくれる。またそういう状態の人は、祈らずとも守護霊がお守り下さっているから、邪気とか浮遊霊とか変な霊には絶対にやられないのだ。

霊界マニアの悲劇

ところで、私の霊界ものの著書を一生懸命勉強してくれたのはいいが、ちょっと方向間違えて、そのためにかえってまずいことになっている人が時々いる。今回私が本書を書き始めたのは、そういう人に正しい提案をしようという意味もあった。

以前、拙著「神界からの神通力」(たちばな出版刊)を発刊した後のことである。この本を読んだ人から問い合わせが実に多くきた。その中に、「守護霊様、守護霊様、今ここに○○霊が憑いております。どうか守護霊様、こいつをやっつけて下さいませ」とお祈りする。けれども、さっぱりやっつけてもらえない。どうしてでしょう、というものがあった。

それは何故かというと、知識の弊害が出たのだ。せっせとお祈りするのはいいのだが、心の中では、「邪がいる、魔がいる、狐がいる… ブツブツ」とか分析している。

私は、あの本の中で動物霊や生霊などを大変詳しく分析しておいた。読者からすると、その分析が面白いらしい。自分で審神の訓練をしてみようとする人もいたようだ。そこで、人によっては、「あれっ、これは、たたりの狐かな、それとも稲荷狐、いや、豊川かな……」と、そればっかりやっている人もいるという。中には、「先生、私は、きっと人霊天狗だと思うんですよ」と、意気揚々としてやって来る人もいる。

まるで本人は新種のゴキブリかカブトムシでも発見したようで、私も、「ああ、そうですね」と言うしかなかった。

さすがに私も、これには反省した。詳しく分析しすぎた…と。

というのは、あまり知識があると、それからそれへと心が向かう。どうしても、自分が身に付けた霊的知識を試してみたくなり、今この場にも変な霊がいるはずだというふうに心が向くので、その霊界に心が感応してしまう。だから、払っても払っても悪霊が来るわけだ。そういう時には逆に、全く関係のない現実の物事や、目の前のことにパッと心を向けて、真心、愛、精進、努力などに真剣に集中して、忙しくしているべきなのだ。

そういう毎日にすれば、浮遊霊とか邪気はやって来ない。そして守護霊、守護神様、ご先祖様が応援して、バックアップして下さる。だから体力、気力、そして霊力もみな与えられ、運気を呼びこむことが出来るのだ。現実界で頑張る人ほど、霊界の応援が得られるというわけだ。

しかし、そう言われても私はナマケものでして……という人もいるだろう。そういう人はこうすればいい。名づけて、「霊界完全否定法」だ。つまり、霊界なんかあるもんか、現実しかない、ない、ない。この手、この足、このテーブル。あるものは現実に見えるものだけだ~!と自分に言い聞かせる。

そして実際歩いてみる。声を出して、「右足、左足、右足、左足、……」

こうして自分の肉体や、物質に意識を戻すのだ。

このように霊界を100%否定すれば、霊はどこかへ行ってしまうのである。認めれば認める程、意識をすればする程、霊や霊界の存在は確固たるものとなり、その影響も大きくなる、ということを申し上げておこう。

ところで私は、ベストセラーとなった「強運」で、金縛りをはずすパワーコールを紹介した。

だが、これも使い方を間違えないでほしい。つまり、日頃一心不乱に奮闘しているような人には、浮遊霊とか地縛霊はめったに愚かないのだ。金縛りにあいやすい人は、体質もあるだろうが、毎日の生活ぶりを省みてほしい。パワーコールの助けで一時は邪霊がはずれても、一生懸命何かに打ち込む輝きが生活の中になければ、霊はまたすぐにやって来るのだ。

あまり金縛りのことなど考えないで、仕事や学業に努力していれば、パワーコールがなくても霊の方から来なくなる。あくまでこれが本筋である。そういう生活を送っていれば、浮遊霊も怖くないし、悪霊が憑くこともない。暇な人に悪くという原則は例外がないのだ。

こういう質問を書く人で忙しくしている人は、ほとんどいないはずだ。

子供が熱で苦しむ時に、親が浮遊霊を気にかけるか?

こういうケースを考えるとわかりやすい。

あなたが家庭の主婦、一児の母で、五歳ぐらいの子供がいるとしよう。あなたの目の前で、子供が病気で発熱して死ぬかどうかという時に、どんなに自分の肩や背中に霊の重さを感じても、子供そっちのけで「たたりの霊が、浮遊霊が、地縛霊がどうした…..」

なんて騒ぎはしないだろう。いや、そもそも霊のことなど全く忘れているはずだ。

自分の子供が死ぬか生きるかという時には、ふだんは「先生、こんな霊が憑いてきまして、おまえは死ぬぞ、なんて言うんですよね」と言っているような人でも、そんなことは言わないだろう。必死になって子供の心配をしているはずである。

たたりの霊が憑いているかどうか、そんなことはどうでもいい。それよりも、子供の命の方を大事に思うからだ。絶えずこのぐらい、何かに必死になっている状態にしていれば問題はない。邪霊などというものは決して恐れないほうがいいのだ。

邪霊は無視して追っぱらえ!

会社では一時有名になった、窓際族というのがある。こういう人を扱う時にはどうするか、これが邪霊とのつき合い方のヒントになる。上司が、「大体、君の勤務態度は何だ」と怒れば、「いや、そういうあなただって大した仕事はしていない。それにこんな劣悪な環境でできるもんか。これだけのボーナスしか出さないくせに」

「そういう君の態度だって悪いじゃないか」

「イヤ、そういうあなたの態度がもっと悪いじゃないか」

「バカモノ、頼むからもっと仕事をしろ!」というふうに、仕事の出来ない困った社員に対して絶えず怒っていると、その社員も抵抗する。邪霊も同じだ。

「君、改心しなさい。狐、あっちへ行け、あっちへ行け………」

「そういうおまえの方こそ、早く改心(?)して不運になれ・・・・・・」と付いてくる。

だから会社で、窓際社員や問題社員が付いてきた場合、「君、日当たりのいいところへ行こうね。その仕事は私がやるから、心配せずに日にあたるといい。日光は体にいいからね」という形で、やりすごす方がいい。

あとはこちらは、黙って仕事をしているのだ。

「あの、ちょっと」と言われても、「今、忙しいものですから」、「せっかく太陽が照っていますから、気にしないで日にあたってよ。北欧ではなかなか太陽もないそうですよ。どうぞどうぞ」

こんな調子ですますのだ。

「あのう……..」と話しかけて来てもみんな忙しくしている。実際、窓際で日当たりはいいけれども、することがない。相手にしてもらえないので自分で辞めていく。これが窓際族や問題社員への対処法だ。

邪霊も同じで、相手にしなかったらがっかりする。

「あの……..」、「今、忙しいものですから」と、あとは一切無視する。どんな声を出そうと、金縛りをかけてこようとだ。

中には強烈なおどろおどろしい姿で出て来るものもいるが、そういう時は、「はあ、歌舞伎役者みたいですね」と、狐とか、たたりの霊に言ってやろう。

そうすると、驚かそうとしてもちっとも驚かないものだから、がっかりして帰っていく。

とにかく、無視されるということが、人間社会でも一番辛いものだ。だから仕事を与えないで無視することによって、出ていかせる。これがベストの方法。相手になってもらえる間は、まだ生きがいがあるので、その人はいられる。それを存在無視で追い出す、 という最高の秘策なのだ。これを霊界に応用しない手はない。

変な霊がやって来たという場合には、霊媒体質の人は、絶えず忙しくして、真心を持って目前の事柄を真剣にやる。そして、霊に対して全然無視する。そうすると来なくなる。霊の方が、「この人にはいくらやっても、面白くない・・・・・・」とあきらめる。

操ることができないので、もうあっちへ行こうと、隣の霊媒体質の人のほうへ行く。まあ、霊の回し合いということだ。

そのように、霊が見えたり聞こえたりする人は、あんまり認識し過ぎないのが良い。

邪霊をいちいち気にしたり、悩んだりするのは、かえってつけ上がらせることになる。

冷たくつき放して、無視してしまうことが、邪霊にとっても薬になるのだ。

願いごとの種類別「御祈願法」伝授

神仏に助けてもらうお願い法

こういう質問もあるので、考えてみよう。

「守護霊様、観音様、産土神などにお祈りするときは、全部一緒にしてもいいのでしょうか。それとも、別々にしたほうがいいのですか」

観音様だ、お地蔵様だ、守護霊だ、守護神だ、産土様だといろいろお祈りしていくと、かなり時間がかかるものだ。だから、これはポイントの置きどころ、役割をよく考えてお祈りすることが大切だ。

★祈り方の原則〜神仏は次元別に折れ!~
まず原則だが、高次元の大きな神様は大きく活躍される。反対に、現実界に近い神様は、現実界に近い働きで、細かいこと、日常生活に即応した形で動かれるということを、知らなくてはならない。

確かに、日常のこまごましたことを、大きな(最高級の)神様である天照大御神様にお祈りしても、すぐに目に見えるようなおかげはほとんどない。しかし、だからと言って「天照大御神様よりも稲荷のほうがよっぽどおかげがある」という人がいたら、その見方は正しくない。

それは、その人の祈り方が間違っているだけなのである。

日本の国の、言わば神界の総理大臣役である天照大御神様が、そんな個人のどうでもいいような悩みや相談事にまで、いちいち手を貸したりはなさらない。当然のことである。無論、真に至誠の極まった人の祈りであれば、個人の願いでも、天照大御神様が動かれることはある。

しかしその場合でも、お働きのレベルが大きいので、すぐには結果があらわれない。6ヵ月経ち、1年経ってみると、人生の方向性が大きく転換していた・・・といった具合に、大開運へと導いて下さるのである。

トコトン大きな神様なのだ。一方、稲荷ギツネなどの低級霊は、地面をはいつくばったように生きているので、地上の(現世の様子が手に取るようにわかる、だから働きも細かく現世的で一見すぐに願いが叶ってありがたいようにように見える。

もちろん、所詮は動物霊なので、後で不幸に陥れることをするのだが……。

それでは天照大御神様には、どのように折れば功徳をいただけるのか。それにはまず、なぜ日本の神々が「八百萬の神々」と言われるのかを知らなければならない。どの神様も同じ役割とお働きしかないならば、何も八百萬もの神様がおられるはずがない。八百萬もの神様がおられるのは、みな個性が違い、得意分野が違い、お役割が違うからなのだ。

その、それぞれのお役割と得意分野を考えたお参りのしかた、会得のしかたをすれば、テキメンの功徳がある。いわば、ツボにはまったお願いのしかたがやはりあるのだ。

例えば、宇宙創造の大きな神様に「明日のデートの段取りを・・・」とか、「子供のおねしょを何とか・・・・・・」などとお願いしてもだめだ。私も若い頃、宇宙創造の神に会社の資金繰りなどをお願いして、何度かガッカリさせられたことがある。神様とは、次元が高ければいいというものではないのだ。例えば、「やけどを何とか治してください。万物の創造主である◎の神様!」とか、

「今月のウチの会社の資金繰りを助け給え!」

なんて祈ってもダメ。

そうした願いには、やけど専門の神様とか入金専門の神様とかいうように担当があって、窓口が違っているのだ。このような、専門の神々様を「働きの神」という。

そして、働きの神々がいるということは、絶対神にさえ祈れば何でも叶えて下さるわけではないということを示唆しているのだ。

絶対神(宇宙創造神)は、それぞれの働きの神々に具体的な活動を全部委ねている。大企業の社長が、現場レベルの仕事まではやらないのと同じだ。権限と決定権を持っているけれど、社長はその担当の窓口の人にやはり仕事を委ねる。全部を掌握していても、具体的には窓口の人が動く。これは最高神の働きと、その下で動かれる他の神々との関係でもいえることだ。

これがわかると、天照大御神様(伊勢神宮の神様)や、あなたの近くの神社の神様である産土の神様への祈り方もわかってくるだろう。天照大御神様は、日本神界という企業の社長であらせられる。故に、そのお立場とお役割に見合った願いごと、すなわち人生の進路を決定するような大事な願いを抱えている時こそ、伊勢に参じて熱誠祈願を行うべきなのだ。無論、そうでない時や、日頃の無事を感謝したい時に参るのも、一向に差し支えない。現実界で、社長と顔見知りであれば取引がスムーズに行くように、神霊界でも伊勢の神様のバックアップをいただいていると、産土神様にも活発に動いていただける。

といってあなたが産土神様に全くご挨拶を欠いていたとしたら、産土神様も働きようがないのだから、是非とも産土の神様には頻繁に足を運ぼう。産土神様はあなたの生まれた地域を担当している、いわばテリトリーの神様。だから、その地域で生まれた人、あるいは暮す人々の、出産、結婚、死亡、霊界案内など、人生の諸事全般を担当し、導いてくださる神様なのである。

だから当然、あなたのそのような事柄に対しての祈りには、産土神様が特に抜群の力を貸して下さる。もちろん、あなたの身柄保証人役の産土様だから、何をお祈りしても、正しき願いなら守護したり、応援して下さるのはもちろんだが。

一方、守護霊様は、たとえて言えば、個人的な悟りとか、一身上のことに関係される。何でも細かいことをして下さる窓口だ。守護霊と守護神は一緒にお願いしてもいいだろう。何でも日頃から感謝したり、相談したりと、意識で話しかける習慣があると、その守護は何倍にもなるのである。

ところで、毎日どのように祈ったら良いのか、という質問をよくいただく。私は、少なくとも一日一回、例えば朝起きた時に、太陽にパチパチと柏手を打って、「十言の咒」を行うことをお勧めする。十言の咒とは、「アマテラスオオミカミ」という言葉を、はじめにゆっくり、だんだん速く繰り返して言い、十一回目(ラスト)はゆっくりあげて終わる、というお祈り法だ。言霊の力により、太陽の神徳とエネルギーが体内に満ち満ちる。そうイメージしてお祈りしていただきたい。簡単だが、この十言の咒は絶大な神力を秘めており、その奥には深い神霊的解義があるのだが、紙面の関係上、詳細は省かせていただく。

またあるいは、産土様に天津祝詞をあげてお祈りするのも良い。この祝詞のあげ方、それから産土様の役割と、天照大御神様とのお役割の違いは、拙著「大金運」(たちばな出版刊)という本に詳しく書いているので、そちらで勉強されるとよい。実践できるように詳しく説明してある。

霊能者の中には、大したことでもないのに、神仏への祈り方などを大げさに「秘法を教えてあげる」とかいう者もいるけれど、この程度は大したことではない。秘法のうちにも入らない。基本なので是非読んでマスターし、行ってもらいたい。

ところで産土神様へのお願いは、朝起きたときがベストである。一日のスタートにお祈りすればそれで結構。産土様には何事もごちゃごちゃと詳しくお願いする必要はない。やはり日常の小さなことは、守護神、守護霊様がいい。この神様方は、あなたと一緒であり、肌について守っておられるから、絶えず頼もしい相談相手が側にいるというふうに考えていただきたい。そのように意識すればするほど、思いの架け橋ができて、守護のパワーが強くなるからである。

ところで神様へのお願いが通るか否かは、エモーションをいかに乗せるかということがポイントになる。神霊の感応のパワーを増大させる一つのコツは、表現方法に工夫をすることなのだ。例えば願いごとを申し上げる時も、「お願いします」とざっくばらんに言うのも良いが、「かけまくもかしこき、これの神床に鎮まります何々の大神様、きょうのよき日のたる日によき人を選び定めて云々・・・・・・」というふうに、正式な祝詞の言葉がスラスラと出てきた方がなお良い。

祝詞というのは、乗る言葉。祈りとは、自分の気持ち(意)を神様のお心意)に乗合わせるということだ。これがいのりということで、つまり自分の「意心」を神様の「意「心」に乗せるということなのだ。

「お願いします」と言うよりも、今言ったような文学的表現の言葉を出していると、自らも荘厳な気分になって、神霊に感応しやすくなる。祝詞にはこのような効果があるので是非覚えて、あげてほしい。先に紹介した天津祝詞ならば、短い言葉なのですぐに覚えられるだろう。

では祝詞はただあげるだけでいいかと言えば、そういうものではない。神様の気持ちや感覚に、自分の心が一致するんだ、一つになって行くんだ…という気持ちで祝詞をあげるのでなくてはならない。祝詞とは儀式のためにあるのではなく、神様の意に自分の意を乗せ、神様と同じき心になっていくためにあるのだ。

ところで特に観音様にお祈りする場合は、七日間とか十四日間、あるいは二十一日間、あるいは三十日間と、期日を決めて祈るとよい。

気分が乗りやすいように、そういう荘厳な気持ちになりやすいように、現実界に密着した一つ一つの事柄をこと細かに具体的に申し上げ、霊界に密着した形で情感たっぷりにふりしぼってお願いするのだ。すると低い霊界にいるご先祖とか浮遊霊が来ている時でも、自然に観音様の神力で、邪霊は祓われていくのである。

先祖供養に位牌のコレクションとは?

世の中には、ご先祖様の供養をしたいという人が実にたくさんいるものだ。

その心がけは結構なのだが、中には、「先生、私の家系は古いんですよ」と自慢する人がいる。

見ると、元禄何年、慶長何年、中には「南北朝時代から位牌があるんです、何百と。先生、これは純金でしてね」などと、誇らしげに見せたりするわけだ。もっと他のものをコレクションしたらどうかと思う。

大体人が死ぬと、三十年もすれば霊は霊界に帰ってしまうものだ。それなのに、いつまでも位牌など現実界に置いていると、霊界に帰っても霊は位牌に縛りつけられていることになる。だから、位牌を幾つも置いているような家は、子孫が喘息とか、いつまでも夜尿症とか、あまりいいことが起きない。子孫に救ってもらいたい先祖霊が、次から次へと子孫に憑こうとするからだ。

だから位牌は三十三年を過ぎたら、お寺や神社でお焚き上げをしたほうがいいのだ。ただし、これは一般的なケースであり、位牌や仏壇についてはさらに詳しく説明する必要がある。より詳しくは第四章に記したので、そちらを参照されたい。

先祖供養は、先祖の業が重い人だけすればいい

ところで、先祖の供養をしたいという人に申し上げるが、先祖供養というのは、先祖の業が非常に重い、そういう方だけでいい。

先祖の業が重いかどうかどうしてわかるんですか?というご質問もあろう。答えれば、自分や家族の運命や家運が普通より悪い、と思われる場合である。例えば家族に重病人があるとか、事故で死んだ人がいるとか、長男や夫が酒乱でメチャクチャとかいうケース。

巷の霊能者に除霊を頼む人もいる。だが、先祖霊は何千人、何万人もいるので、ヘタに先祖供養でもしようものなら、おとなしく地獄にいた(?)ような先祖まで次々出てきて、供養する子孫に「助けてくれ~!」とくっついてしまうのである。

第そんな低い霊界の先祖に憑かれた人は、体調が悪くなり、不幸が次々に起こるようになる。恩をアダで返されたようなもの。まさに、「さわらぬ霊にたたりなし」であり、「さわらぬ先祖供養にたたりなし」というわけだ。

こういうことがあるから、除霊を頼む場合には、相手がどの程度の霊力の持ち主なのか、真剣に検討してから依頼しないと、かえって運勢を下げてしまうので、注意が必要だ。ちなみに私のやる救霊の場合には、神様から許された霊だけを救い、あとは霊界のフタを閉じてしまうことにしている。除霊を受ける人にとっても、地獄で修業をしている先祖にとっても、その方が幸せである。

ところで、先祖供養をする人に申し上げておくが、いっぺんで全部の先祖が救われる、などと思ってはいけない。何万人からいる先祖の中には、ひときわ業の深い先祖霊が何人もいるのが普通である。

だから、少しずつでも良くしていただけるようにと発願をし、観音様に祈る。特に因縁が悪いと自覚している人は、二十一日間とか二十八日間とか、七の倍数で自分なりに日にちを決めて「先祖を救済して下さい」と発願をすれば、それなりの効果がある。

祈る分数は、毎日七分とか、二十一分とか、これまた七に関係する数でいいだろう。

ただし、それには時間と労力が必要となる。そんな手間をかけていられないとか、もっと確実な霊の救済で開運したいという方には、たたり霊・先祖霊をはじめ多くの霊を一斉に救済する、私どものところで行なっている「救霊」を一度お受けになることをお勧めする。

先祖供養をする人の一千日分以上の救済が、一回(約二時間)で済むからである。信じられない人もあろうが、実際そうなのであって、これは体験していただく以外にない。体験者はほぼ100%何かを感じているし、どこかの宗教のように「一体何十「万円」ものお金がかかるわけでもないのでご安心あれ。

ところで、何かお行(先祖供養など)がしたい、お行を毎日しないと寂しいという人は、一番いい形のお行をしたらいい。特に観音様がいい。一番弊害がないし、発願をし(願を発して)毎日祈れば、因縁が最小限でとどまり、運勢がよくなる。そういう継続して祈るお行をやってみようかと心の動いた方のみなさればいい。

これはいわば、特効薬というべきものだ。体力が低下していたり、更年期に入ったりした場合、ビタミンEを飲んで元気が回復するとか、あるいはカルシウムと併用してCも飲まなきゃとか、そういうお薬にお行は似ている。健康でピチピチして元気な人は、無理に飲むことはない。

なんとかの行とか、因縁切りの発願というのは、そういうよほどひどい因縁にやられている人だけがすべきことなのだ。日常それほど不自由なく生きている人なら、産土様、守護霊様に、朝一番にお願いするだけで十分だ。もちろん、一度は「救霊」をお受けになることはお勧めするが。

※ここでは発願を因縁切りなどのケースとして出したが、よきことの願志を立てるなど)を叶えようとしてする発願なら、大いに結構。どんどんやって下さい。