神の叡智をキャッチする法
前項までのまとめとして、気水の枯れ、つまり気力の欠乏状況の解決にはどうしたら良いかというご神示を歌(道歌)にして記してみよう。
読み方は五七五七七の短歌調である。一通り、声に出してお読みいただければなお良い。
「悶えても悟り来たらず何事もあっさり捨てて天の知恵来る」
「問い学び努め省みするうちに悟りは深く広くなりゆく」
「気のなりて自ずから来る悟りこそ神より来る恵みの知恵なれ」
「豊かなる玉あらわれししるしありそのまま実る努力の喜び」「急ぎたつ手柄に難あり知らぬ間におれがおれがの自我いでにけり」
最初から順番に解説していこう。
「悶えても悟り来たらず」
悟ろう悟ろう、悟らなきゃ・・・・・・と思って悶え苦しむ。しかし苦しむばかりでは、何も悟れませんよということだ。
例えば、どうしたら結婚できるかを悟りたい人がいて、必死で思い悩んだとしよう。結婚とは何か、結婚とは何か、結婚とは、結婚とは結婚とは・・・ウーン悟れない・・・・・・、そこで、もう結婚なんかどうでもいいやとあきらめて、あっさり捨てた途端、
「結婚したければプロポーズの回数だ」と天の知恵がやって来る。
要するに悶えても(そのことばかり考えていても)悟りは来ないのだ。何事もあっさ捨てた瞬間に、上からスッと答えが来る。あっさり捨てられないものは、悟ろう悟ろう答えを得たい得たい)という思いが執着心の域に達している。霊的に見れば、執着心が雲になって、かえって天来の知恵が届くのを妨げているというわけだ。
そうかといって、ただわけもなく捨てていれば良いというものでもない。やはり最初は発願し、神様に思いきり投げかける必要がある。投げて投げて投げて、悟りたい悟りたいと必死になって願いをかける。
しかる後に、執着なく忘れる。自分がああしたい、こうしたいという執着心や、欲望や、そういう一切のものを捨てる。
すると捨てて忘れて忘れ果てた頃に、スッと神からの答えが返って来る。これが、神と自分とのキャッチボールの呼吸である。
先に書いた、書道や絵を仕上げる際の「神がかり」も同じだ。何度も何度もやっても書けない時に、ああ、もうどうでもいいやと己も何も忘れ果て、ピークまで来たら、その時にスッと一瞬にして書ける。あっさり捨てた瞬間に、パッと天来のものが来る。その呼吸をこの道歌は教えているのだ。
「悶えても悟り来たらず何事もあっさり捨てて天の知恵来る」
捨てられない人には悟りがない。今までの自分や経験を大事に抱えているうちは悟りに届かない。悟りというのは、一度捨てたときにやって来るのである。
次の歌で、もう少し深く考察してみよう。
悟りを深める極意はこれだ
「問い学び努め省みするうちに悟りは深く広くなりゆく」
歌としては、こちらのほうが伸びやかで気に入っている。
何かを悟ろうと思い、あるいは疑問点があって、神様に問いかける。守護霊に問いかける。人に問いかける。しかし、問いかけるだけでは駄目であって、自ら学んで追求す努力も、並行して行わねばならない。そう、自分なりに学び求める努力の足跡なくして、問いかけた答えは返ってこない。問えば問うほど、学ばなければ返ってこないのだ。そして「努め」「省み」。努力は勿論必要だが、努力さえすればいいというものではない。努力がいつしか我と慢心を誘い出すことは多い。そこで、さて私の努力はどうだったのか。我と慢心、驕り高ぶりはなかったか…と反省が必要となる。
孔子の高弟の一人であった曾子は、吾が身を日に三たび省みたと言う。「人の為に謀忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか」と。
私達もその恨みを見習いたい。自分が努力する中にも、必ず独善にならぬよう、幾度も省みる時、魂の謙虚な輝きは増し、悟りが深まっていく。
またあるいは、「易経」に謂う「終日乾乾、夕べに惕若」の精神で事にあたることを勧めたい。乾乾とは懸命に事にあたること、若とは慎み反省する意味である。すなわち、朝起きたら「さあ、今日もやるぞっ」と気合いを入れ、また今日一日のご加護を神仏に祈る。朝に天地を仰ぎ奉って、「頑張るぞー」と、元気一杯に叫んでみるのもいいだろう。そして、終日(一日中)、その勢いで張り切って事にあたり、その場所で自分に出来るベストを尽くす努力をするのだ。
そして、夕べに惕若。仕事を終えて家に帰った時に、ああ、果たして今日一日はどうだっただろうか。あんな言い方はよくなかったのではないか。もう少し、部長に進言すべきだったな。会議であがってしまったのは、ちょっと根性がなかった。今度やるときには、こうするぞ・・・・・・というふうに反省する。
これが「終日乾乾、タベに楊若」の、私なりの活用法である。努力しながらも一方で省みつつ進む、そのうちに悟りは深く広くなってゆく、ということである。
これが、「問い学び努め省みするうちに悟りは深く広くなりゆく」という歌の意味だ。
悶えても悟りは来ない、捨てたときに来るという。しかし、ただ捨てればいいわけではない。学問と修養、努力と反省を経て、悟りを深く広くしていく必要がある・・・・・・ということを、簡単に二首の道歌に詠んだものである。
悟りの訪れるタイミングはここだ!
「気のなりて おのずから来る 悟りこそ 神より来る 恵みの知恵なれ」
前の二首で、悶えても駄目な時には、あっさり捨てること。ただ悶え、あっさり捨てるだけではだめで、学び問い、努め、励み、省みることが大切であると述べた。
ではそうすればいつでも悟りがやって来るのか、といえばそうではない。チャリンと硬貨を入れてジュースが出てくるようなわけにはいかないのである。本当の神様の悟りの知恵を得るには、自らの悟りの機が熟するだけでなく、上からやって来る天の時を待たねばならない。これを啄同時と言う。
豚同時とは、卵の中からヒナが出ようとする瞬間を親鳥が本能的に察し、卵の内と外から母子が同じタイミングでチョーンと殻をつついて、ヒナがバリンと殻を破る手助けをしてやることを指している。
要するに、従来の自分の殻を破る瞬間というのは、そういうふうに問い、学び、省み、悶えて、悟りたい、いや捨てた、と行きつ戻りつしながら、自分の状態をまるで熟れきった果実のように、少しでも触れればたちまち弾けそうな極限の段階まで高めていく。そして、天の時期とも言うべき絶好の時を待つのだ。そうして、無形の気がなった瞬間に、竹筒がカーンといった音だとか、ちょっとした言葉をキッカケに、あっ、そうか!と大きなヒラメキで悟る。魂の奥深いところに、「そうだ!」と深く悟入する瞬間である。
悟った瞬間の感激を表現することは、口のきけない少年が、とびきりおいしい西瓜を食べた感動を、身ぶり手ぶりで表そうとする様に似ている……と言った禅者がいる。まことに至言である。手の舞い足の踏む所を知らずとも言うが、文字や言葉で表せないような、これほど深い感動や深い悟りというものは、己れの気が熟しているのは勿論、天の気が凝結した瞬間でなければ到底できないものなのである。悟りの時期と天の時が合う、ということだ。
そのことを知って、今一度、「気のなりておのずから来る悟りこそ神より来る恵みの知恵なれ」の歌を味わっていただきたい。
悟りに関する以上の三首は、いわば連作である。皆様はこの三首のうち、どの段階におられるだろうか。ぜひとも、最後の歌の境地にまで到っていただき、悟りの歓びを味わっていただきたいと思う。
努力した分だけ実るのは、御魂向上のしるし
では、次の道歌を解説してみよう。
「豊かなる 魂あらわれし しるしなり そのまま実る努力の喜び」
ストレートに表面的意味を記せば、「努力したことがそのまま実る人というのは、魂が豊かである人のしるしである」ということだ。
一生懸命十の努力をして、十の喜びが返ってくるのが、すばらしきよき御魂である。
ところが、十努力しているのに一しか返ってこない人というのは、豊かではない、乏しき御魂だということになる。努力しない人は論外である。
これが極上のすばらしい御魂の持ち主となると、十努力すれば百、二百返ってくるのである。一見不公平なようだが、実はそうではない。
極上の御魂の持ち主とは、徳分もさることながら高い叡智を体得した人である。すなわちこの人の努力は、同じ「努力」ではあるけれど、他の人とは、努力のやり方のセンスが違う。しかも、今までの努力の積み重ねの上の努力であるので、叡智と徳分が備わった上での努力となっている。一見、十の努力だが、実は普通人の百以上もの努力に匹敵する内容が凝縮されているのだ。当然、百以上のものが返ってくる訳である。
また、十の努力で百返ってくる十倍の法則が出来るようになるまでには、もっと前からの地道な努力が積み重なっている。そのように、日頃から努力が積み重なった人の御魂は、御魂の中に豊かなる恩頼(栄養)を蓄えているので、十努力すれば、百や二百にしてキャッチすることが出来るのである。
結局、「そのまま実る努力の喜び」とは、自分が努力した分だけ(あるいはその何倍も)、そのままが実るのが、正しく豊かなる魂を持っている人のしるしなんだよ、ということだ。反対に、乏しい魂、業の深い魂の場合は、十努力しても一しか返ってこない。
豊かなる魂の人はそのまま努力が実っていく。努力した分だけ(あるいはそれ以上)返ってくるから、努力することが喜びとなる。
理想的な良循環である。私達は須くこうありたいものだ。
ところで、豊かな御魂の逆は、傷ついた御魂である。豊かな御魂の証しが「そのまま実る努力」なら、傷ついた御魂の証しは何であろうか。
例えば、愛情を注いだ男性に裏切られ、捨てられた女性は、今まで自分の尽くしてきたことは何だったんだ、自分はもてあそばれていた・・・・・・と、深く傷つく。あるいは、投資した会社が倒産する。不渡りを食らう。だまされた・・・・・・と、深く傷つく。要するに、投げたものが返ってこないときに、多くの人はガッカリする。
形で出したものは形で返り、目に見えない愛情を注いだものは、目に見えない愛情で返ってきたら満たされる。これが豊かなる御魂の人の実りだ。
ところがそうならなかった時には、がっくりして気落ちし、人は絶望感を味わう。この時霊眼で見れば、御魂はグサッと傷ついているのだ。そして、御魂は感性そのものであるから、傷ついたその時から、「羹に懲りてを吹く」癖が習慣づいてしまうのである。
例えば、心の底から愛した人との間に水子が出来、悲しい別れをしたとしよう。この女性は子供と聞くと、「あっ、子供……男の裏切り……………」と連想するかも知れない。もしそうならば、男性に裏切られた御魂の傷がそう思わせているといえる。
あるいは、男性との交際が怖い…という思いが無意識に湧いてくる。どの男性を見ても、冷酷打算の男じゃないかと思ってしまうのだ。つまり、御魂が傷ついてしまっているということだ。
「注いだものが返ってこないかも知れない……」と怖れることこそが、御魂が傷ついているしるしなのである。例えば、仕事で失敗してさんざん言われたり、お客様からクレームがあったりした時、一時その理由を反省するのはいいだろう。けれど少し反省したら、もうそれ以上は振り返るべきではない。また失敗するのが怖くなるだけである。
では、既に傷ついてしまっている人はどうすればよいのか。答は一つである。怖くななるまで、そのことが成功するまでやることだ。たまたま失敗したそのことに縛られる御魂の傷を癒すべく、同じことに何度も何度も立ち向かうのである。やがてそのことに成功した時、あるいは怖さを感じなくなった時、あなたの御魂は壁を乗り越え、傷を癒したのだといえる。そうしたら、魂は豊かになる。そして、
「豊かなる玉あらわれししるし」
「そのまま実る努力の喜び」の心境で、そのまま実った努力に喜んでいるというときが、豊かなる魂があらわれたしるしなのだ。
努力が実らず、喜びではなくなった時は、御魂が傷ついたり、御魂が曇っていたり、乏しくなっているしるし(であるから反省すべし)、と、こういう意味(教え)が含まれている道歌である。
さて、最後の「急ぎたつ手柄に難あり知らぬ間におれがおれがの自我いでにけり」
これはわかりやすいと思う。紙面の関係上解説は省かせていただく。是非味読・含読していただき、神に投げかけて、幾重もの意味を受け取る訓練材料としていただきたい。
第三章 吾輩は救霊師である-知られざる救霊開運秘伝-
救霊を受ければみるみる運が良くなる!!
では、本章では霊の実体について述べてみたいと思う。
ところで私には霊が見える。悪霊から高級霊、そして神仏に至るまで見えるのである。霊の世界は専門家であるが、それだけではなく、前世や未来に起こることも解ってしまう。
この能力は、自分の人生を神に捧げたごほうびとして、神様が私に与えてくださっプレゼントであると思う。
感謝しつつ、少しでも多く、世の為に役立てたいと思って、この章では、読者の皆さんに真実の神霊界の実体を知っていただきたいと思い、ここに私の審神霊の正邪、正体を見破ること)実例の一端を紹介しよう。
実例【その1】胃弱の男性は、胃ガンで死んだ祖父の霊が
実例その1 胃弱の男性は、胃ガンで死んだ祖父の霊が……
胃弱の男性は、胃ガンで死んだ祖父の霊が…… 私のところへ、胃が弱いという3才痩せた男性が相談にやって来た。
3年程前から具合が悪いという。本人は、胃ガンでは?と心配もしている。私も今日は朝から胃の調子が悪く、健康には自信のある私もさすがに辛い。予想通り、原因はこの男性に憑いている霊の影響だった。
その男性に会った瞬間から、彼と二重写しに、彼の父方の祖父の霊が見えている。話を聞くと、祖父は三年前に胃ガンで亡くなられたということだ。その祖父の霊が胃の悪い原因であることはもう言うまでもない。
私はその祖父の霊に意識で話しかけてみた。
「あなたはどうして霊界に行かず、孫であるこの男性に憑いているのですか?」すると、「私はこの孫を守護しております。邪魔をしないでいただきたい」という。
やれやれ、守護霊きとりの先祖か……。
そこで私は、その祖父の霊に五つの事を伝えた。
まず一つは、守護霊になるにはかなりの霊界修業を積んで、霊格を向上させた後、神霊から人を守護する資格を授かって、はじめて守護を許されるのだということ。
二つ目は、人は死んだ後には一切この世への執着を断ち、行くべき霊界に行ってより御魂の向上をしなくてはならぬこと。
三つ目は、人に勝手に憑く罪は非常に重いということ。
四つ目は、あなたがこの男性(孫)に憑いていることにより、孫の胃の具合を悪くし、かえって迷惑を掛けているということ。
そして五つ目は、霊界には病気はない、生前肉体は病んでも、死後の今は、肉体はもうないのだから病気もないのだ、ということ。
こうしたことは、本来生前に学んでおくべき事なのだが、知らずに一生を終えてしまった今となっては、一つずつ教えて差しあげるしかない。
その時、神霊が私に教えてくれた。
「この男性はこのまま放っておくと、五年後に胃ガンになる。救霊してあげなさい」運の良い人である。しかし今回救霊すれば八十五才までは寿命があるようだ……。
私はこの成仏していない祖父の霊に対し、救霊(除霊)をはじめた。今申し上げた五ポイントの内容を織り込んだ歌にして。
一時間ほど救霊をし、その祖父の霊の胃を治し、霊界での食事も与える。他にも先祖など合わせて十三体の霊を救済し、無事に霊界へ連れていった。
終了後に、私は閉じていた目をあけて彼に聞いた。
「いかがですか、胃の具合は」
その時、彼の目から一筋の涙がこぼれていた。彼は私に言った。
「どういう訳かわかりませんが、涙が出てしまって…」と。
霊が喜んで救われる感動が、憑かれていた人には無意識に伝わってきて、自然に涙がこぼれたりするのである。
ほとんどの場合、先祖霊の救済はすみやかに行なわれる。霊界のことを知らないだけのことが多いので、わかれば後は早い。
その男性はその日以来、すっかり胃の調子が良くなり、食欲も元に戻ったという。一カ月後の連絡では六kg体重も増えたそうである。
もう少しておけば、よく胃ガンなら胃ガン、子宮ガンなら子宮ガンと、代々あるいは家族が次々と同じ病気にかかったりして、ガン家系などと言われたりする家がある。 2 これも、ガンで亡くなった先祖が守ろうとして憑いていたり、助けを求めて憑いたりして憑かれた人から順番にその先祖と同じ病気で亡くなるのである。だから、誰かが一度救霊を受けると、ピタリとその病気は家系から姿を消したりする。
しかし、先祖霊はまだしも、少々やっかいなのが、家代々のたたり霊である。
実例その2 たたり霊の救霊後、目の前で歩けるようになった・・・・・・
私のところに、重症の患者が運ばれて来た。聞けば、車の事故に起因するヘルニアで二ヵ月前から動けないという。
「これは単なる病気ではないな……」とピンと来る。私の腰も今朝からビリビリ痛むので、腰の悪い人が来るのはわかっていたが……。
早速霊視してみると、案の定霊が数体憑依している。中でも強烈なたたり霊が三体。その内の一人は何故か子供である。
霊達との対話、及び神霊の教えでわかったことは、この人の十二代前の先祖に土地争いで騙されて恨みながら病気で死んだ夫と、後追い自殺(崖から飛び降り自殺)の母子であった。
腰が動かないのは、その後追いの飛び降り自殺をした妻が、腰を強打して死んだ時のショックのようである。(自殺した人は、霊界においては一日に何回も自殺をくり返すので、その度に憑かれた人は痛みが走るのである)
人はこの世で死んでも、霊界に痛みを引きずっている者は多い。良い霊界へ行った者は自然に癒されたりするのだが、このように怨みや絶望の果てに死んだような場合は、良い霊界に行けないので、痛みを引きずったまま苦しむ事が多い。
そして、彼らは、死後はこの人の十二代前の先祖に憑き、その後家代々を怨み続けてきた、というわけである。現に、その男性の家系は、事故や病気で四十代で亡くなっている人が多いという。なかなかの強烈な怨みといえよう。何しろ、もうかれこれ三百年以上も怨んでいるわけだから………。
私はさっそく救霊をはじめた。
まず霊達に怨みを解き人を許すよう説得をする。無論、言葉だけで納得するわけではない。そこで、その三名に、何故そのような不幸な一生であったのか、その原因となるそれぞれの前世を見せるのである。
彼らの不幸の元を作った前世を見ると、三人共(夫も妻も子も)、鎌倉時代の中期に一地方の豪族一家であった。根っからの宗教嫌いで、寺の僧二名を何とか追い出そうとして、最後は毒殺してしまったという前世であった。
まさに因果応報である。人を殺せば殺されるの法則通りだ。その為に、生まれ変わって今度は、自分達が死に追いやられる運命になったという訳である。
自殺にまで追い詰めたのは、確かにこのヘルニアで苦しんでいる男性の十二代前の先祖ではあったが、そもそも自分の不幸の真因は自らにあった訳である。
自分の前世を見たたたり霊親子も、その自らが前世に犯した罪と残忍さを見ている内に、改心をしてきたようだ。
鬼のような形相であった三人の顔も、柔らかい表情になってきた。
私はその夫の霊の病気を治し、妻と子のバラバラになった骨を治し、体を楽にしてあげる。
霊を救うには、何よりもまず楽にしてあげることが大切である。
というのは、霊は自らが霊界で苦しい限り、その苦しみを「これもあいつのせいだ!」という怨みに転化する。その痛みが、強烈な怨みを何百年も抱き続ける根源となるのだ。
自らの前世を知って改心し、体も楽になった霊達に、私は神霊と一体となって説得の歌をうたう。そしてようやく、霊達の心にも許す心が出てくるのである。
怨みの冷たい心は消え行き、許しと反省の温かい心が甦ってくる。そして冷めきった地獄の世界から自然と抜け出し、上の、温かい心の人達がいく霊界の方へと自分の力で昇って行けるようになる。勿論、神霊が導いて上の霊界へ連れて行くのだが……。しか本人の心から怨みが消え、温かい心が出てこない限り、いくら神霊が連れていこうとしても無理なのである。
そうして、私と神霊の共同作業で霊を救って行くのである。
この、霊を根源から救済する方法は、一般に行われている悪霊を霊力・念力で追い払うだけの除霊法とは根本的に異なる。ただ追い払うだけでは、その霊達の憎しみや怨みの心は全く解決していないので、一度は離れてもすぐにまた憑依し、以前にも増して不幸に陥れようとするからである。
ところで、この男性の場合だが、この時はその他に一五体の霊を一緒に救済し、救霊を終えた。
するとその男性は、動けなかった体を折りまげることが出来るようになったばかりか、何と起き上がったのである。そしてあろうことか、自分で二歩、三歩と歩いたのだ。付き添いの人は目を丸くして驚いていた。
しかし、一番驚き、また喜んだのは当の本人であったろう。
「ありがとうございます、ありがとうございます」
そう私に何度も礼を言ってゆっくりだが歩いて帰っていかれた。その後、普通に歩けるまでになって、今では元気に暮していらっしゃるようである。本当に良かったと思うと同時に、怨念霊の怨みのパワーには改めて驚く。
家に不幸や不運がよくある家系の人は、一度救霊(除霊ともいう)を受けておかれることをお勧めする。
それではもう一つ、動物霊のケースを紹介しよう。
実例その3 動物霊の実態(ベスト3)稲荷ギツネは一番始末がわるい
①怠け者のタヌキ霊
人格的に偏りがある人や、欲深い人に憑きやすいのが動物霊である。タヌキ霊が憑くと強欲になったり、よく物をなくすようになる。また怠けものでよく眠り、よく食べ、目下に威張って、よくしゃべる。おまけに体型もタヌキに似てくるので一目で分かる。またタヌキが憑くと、よくドジをしたり、動作がモサッとした感じになる。
以前、太っている女性に憑依していたタヌキ(ほとんどが怠け者や強欲な先祖が化身した人霊ダヌキ)を除霊したが、効果テキメン?すぐに痩せはじめ、一ヵ月で十㎏も痩せて丁度良いスマートな体型になったケースもあった。
②執念深いヘビ霊
ヘビ霊は、暗い性格で執念深い人に憑く。また、人を強烈に怨んだり、ショックな事があって傷つき、あまり落ち込んだりすると、その低い心の波動がヘビの波動と一致する為、ヘビの霊を引き寄せ、合体してしまうのである。
すぐに気付いて気持ちを回復させれば良いが、長く憑かれていると、ヘビ霊の影響でいつまでも気持ちが沈み込んで元に戻れなくなる。そして、本当に暗い性格になってしまうという訳である。
ある時、深刻なノイローゼに悩む女性が救霊を受けに来た。その若い女性は、ある時低級な霊能者に、あと五年の寿命だと言われて絶望し切っていたのである。ガックリ気力が衰えて、邪霊悪霊をハネ返す念のパワーが衰退し、無抵抗で悪霊を取り込んでしまっていたのだ。
その低級霊能者の一言は、まさにヘビの霊を呼び込む下地を作った一撃であったのである。夢、希望、元気がなくなると、やってくるのがヘビ霊である。
御魂が傷つくというが、そうなると運まで悪くなる。そんな人は前章で触れたように傷に立ち向かって回復させるか、あるいはスポーツで体を鍛えるなり、何か情熱的に向かっていくものを無理にでも作り、傷ついたことを忘れるぐらいその事に熱中するのがよい。
ところで、五年後に死ぬと言われた女性だが、私がその予言はいかに間違っているかをじっくり説き、一~二分の救霊で体に巻きついていた三mぐらいのヘビ霊を霊界に返したのである。すると、たちまち表情が明るくなった。まさに彼女の心が今まで地獄に落とされていたのが、若々しくて明るい、元いた上の霊界に戻ったのである。
それ以降、彼女はすっかり想念が明るくなり、もう恐怖心もまったく湧いてこなくなったそうである。
一つ言えることは、このような場合、憑いているヘビの霊だけを除霊してもダメだということだ。心の中に傷ついた暗い想念の部分がある限り、また別のヘビがやってくる可能性があるからである。霊界には、高級神霊も無限におられるが、邪霊も無限にいるのだから。
そうならぬよう、最終的に人は、完全で傷のない人格を完成する事が大切なのである。ただし、救霊をまず受けて、明るい想念になってからその人格直しに励むのがよいだろう。というのは、今現在邪霊を付けたまま、自分の力でいくら頑張っても、足に重りを付けたまま上に上がろうとするぐらいの困難と労力を伴なうからである。
自分は運が悪いと思う人は、救霊を受けてみることだ。必ず、驚くばかりに努力が実る人生に一変するだろう。
③悪賢いキツネ霊
動物霊の中でも、一番始末が悪いのが稲荷ギツネである。
なぜ始末が悪いかと言えば、キツネは、タヌキやヘビより賢いからである。賢いといっても悪知恵であり、悪賢いのであるが。
イライラグセや、ヒステリー、ウソつき、利己主義の人などは実によく憑かれている。本当に現代はエゴが渦巻いているのか、詳しく霊的に見ると十人に二~三人の割でキツ霊が憑いているように思う。
また見栄っ張りや、プライドの高い傲慢な人、そして何でも他人のせいにするような責任逃れのクセがある人もこれだ。
実際キツネに、「何でこの人に憑いたんだ!」と聞くと、「オレはこいつに頼まれて憑いてやってるんだ」という。頼まれた?そこで何を頼んだのか追及してみると、「こいつがいい女はいねえかナーと思ってるから、オレ様が世話をしてやろうとしたのさ。つまり頼まれたってわけだ」
ああ言えばこう言う。しかも全く反省しないのである。
私はキツネに関してだけは害が多くて放っておけないので、抹殺することにしている。以前は、自分の霊体の手を百倍ぐらいに大きくして、両手で挟んでまとめて何十匹も一度に押しつぶしていた。しかしこれは大変疲れる。おまけにしばらくたつとまた生き返って来て、悪さをする。
そこで考え出したのが、キツネの霊たちを大きな投網のような大網で取り込み、まとめて火山の上まで飛ばし、網ごと火口に放り込む方法である。しばらくこれをやったが、毛が焼け焦げたキツネがまたはい出して来て悪さをする。
次に考え出したのが、キツネを一匹ずつしばり、東京タワーに逆さまにぶら下げてつないでおくという秘法だ。ただしこれもキツネがあばれるため、月日とともに網がゆるむので、二ヶ月に一度ぐらい絞め直さねばならない。それで、お弟子に「二ヶ月目には必ず教えてくれ、網を絞め直すから」というのだが、お弟子も私も忘れてしまって、また戻ってきて悪さをする。
そこで編み出したのが、神様にお願いしてキツネを溶かしてもらい、鉛の中に溶かし込み、固めてしまうという秘法だ。コンクリートやプラスチックなどいろいろ趣向を変えてみたが、やはり鉛あたりが一番よく固まる。
さらに、キツネをまとめて粉ミルクのように粉砕し、宇宙の塵にしてしまう方法もある。これを私は、宇宙創造逆秘法と名付けている。
つまり宇宙は無から有を生むのだから、有から無に逆戻りで還元してしまうという秘法だ。
そして最近でもよくやるのが、紙にそのキツネの絵を描き、結界を張って二次元にキツネの霊を封じ込めてしまうという秘法だ。
その他にもまだまだあるが、キリが無いのでこれぐらいにしておこう。
こうやって考えてみると、私も昔は本当に暇だったなと思うのである。忙し過ぎる今から思うと、よく考えついたものだと自分でも笑ってしまうくらい、グッドアイデアがぞろぞろあった。
話を戻して、キツネ霊に憑かれた人は本当に多いといったが、それを今述べた方法などを使って救霊するのである。キツネがいなくなると、運が良くなったり体調が良くなったり、精神的に落ち着きが出て来たりして信用や人気がグングン増す。
オッチョコチョイなミスをさせるのもキツネ霊の特徴であるから、ドジもなくなる。
人一倍好色な人も、キツネにやられている人が多い。これも救霊によって普通に戻ってくるのである。
以上述べたタヌキ、ヘビ、キツネが、人に害を加える三大動物霊である。
このように、先祖霊、家代々のたたり霊、そして動物霊と代表的霊障(人を不幸にする弊害)のある悪霊を紹介してきた。
その他にも人に災いする霊はまだまだある。生霊や木子霊、浮遊霊に地縛霊、木霊、井戸霊、天狗、行者、宗教団体霊etc……、数え切れないぐらいある。
それらの救霊(除霊)は、私が教え、指導した救霊師という資格を持ったお弟子が、全国約百十ヶ所で行なっている。一度は受けておかれることをお勧めしたい。
というのは誰にでも、守護霊などの善霊も数霊~数十霊いるのと同じく、マイナスの邪霊・悪霊も十~二〇体は憑いているものだからだ。
普段はそれ程害は感じないが、人が一旦衰運期に入った時などには一気に姿を現わし病気や失敗、不幸に陥れようとするのである。
受けてみればおわかりいただけると思うが、体が軽くなったり、病気や家庭不和が改善されたり、運勢がグングン良くなったことを実感したり・・・と、ほぼ100%の人が何らかの感触を得ておられる。
もちろん、私は無理にはお勧めしない。「救霊」は、神霊によって救済して頂く秘技であるから、よく理解して下さり、感謝をもって受けていただける方にのみ、お取り次ぎをさせていただきたいと思う。そうすることが、神霊に対して礼節を欠くことのない、正しい神霊に対する姿勢だと思うからである。
第四章 吾輩は先祖を供養する-正しい先祖供養と仏壇の祭り方
仏壇・お墓はこんなに大切
死後に霊はどこへ行くか?-死後の霊界案内
霊界の仕組みを正しく知るために、まず仏壇・位牌の意味から書いていこう。「仏壇に、毎日食事は上げたほうがよいのでしょうか」
等の基本的な質問をよく受けるので、その質問に答える中で具体的に解説してみることにする。
仏壇に関しては、私もいろいろ研究してみた。どういう食事が喜ばれるかということの前に、そもそも仏壇は祀る方がいいのか、祀らない方がいいのかという問題がある。
これは、どちらとも言えない。某宗教団体などでは、仏壇をお祀りすることで開運するというし、私も救霊に来た人に、「仏壇はお祀りした方がいいですよ」と言う場合もある。
ところが、たまには私も、「あっ、あなたはお祀りしないほうがいいですよ」と言う場合もあるのだ。これはなぜか。
仏壇にはまず位牌がある。位牌は依代(霊がかかるためのもの)であって、霊がかかりやすいような場所だ。黒に金文字というのが、霊にとってみたら、かかってみたいなというムードに誘われるのだろう。あれがピンクに緑でもいいんじゃないかと思ったこともあるが、色情霊が来そうなのですすめないことにした。やはり、黒に金というのが、いかにも、輪島塗のような感じがしていいのだ。霊に直接聞いてみたところ、やはり霊自身も、「あれが好きだ」と言っている。また、「なるべく仏壇は明るい方がいい」とも言っていた。
詳しくは私の「仏壇の正しい祀り方」という講義テープを聞いていただきたいが、少しつけ加えると、仏壇の依代にかからなければ、死者の霊は人間の体にかかりたがる。ところが霊が人の体に一日でも憑くことは、霊界法則に反することなのだ。一日憑いたその何倍、何十倍という期間、辛く厳しい霊界修業に行かされる羽目になる。すなわち、人間の体にかからせないために本来、仏壇はあるのだ。こっちにかかりなさいという意味と働きが、仏壇と位牌には元々ある。
ところが、仏壇にかかるということも、実は霊にとっては本来、よくないことなのだ。これについては、後ほど述べよう。
さて、死んで霊となった者は、あの世で霊界修業という次の修得過程が義務として待っている。ただし死後三十年ぐらいは、地上に極々近い世界である幽界に行くことになる。およそ三十年、まあ大体三十三回忌ぐらいまで仏壇で供養をしてあげればよい。彼らはそれ以上、この地上にいることは許されないのだ。人は死後もなお、しばらくは現世の思いが残るので、三十年かけて「幽界」で生前のアカを払拭し、それぞれの霊界へ行く。これが天の八衢修業だ。
その間は、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、とキチンと供養してあげた方が良い。霊というものは、「せっかく十三回忌のつもりで来ているのに、なぜ供養をやってくれない」などと怒ったりもする。霊が騒いで病気が起きたり、長男や次男がおかしくなったりということも多々あるのだ。
喘息や夜尿症であったり、あるいは大病を患ったので、よほど因縁が重いのでは…… と心配になって救霊に来た方がいらしたが、いざ原因を突き止めたら、ただ十三回忌の供養をしてくれなかったという、それだけの理由だったこともある。それが分かったら、途端に病もなくなったようなのでまあ良かったのだが。
ケース・バイ・ケースだが、ほとんどの場合三十三回忌ぐらいまでは、死者の霊も現実界と交渉してもいいということで、執行猶予期間とでもいうような許可がある。
そんな許可を神様からもらっているのに、何故供養をしてくれないんだということで、霊にも怒る権利が与えられているのだ。
中有界、天上界の霊には仏壇の必要はない
こう聞くと、ああ、ご先祖様のために供養やお祀りをしなくてはと思いがちだが、よく考えるとおかしいところもある。
というのは、子孫にかかって救済してほしいなんて言うのは、真ん中(中有界)のレベル以下の霊のやることだからだ。正しく現世で修業した人は、仏壇や人間の肉体にかかって「助けてほしい」などと言ったりはしない。真ん中以上の霊層を持って亡くなった人は、さっさと行くべき所に行ってしまう。
ところで、三途の川というのは霊が上・中・下の三段階に振り分けされる川で有名だが、他に、一途の川というのもある。
これは即地獄か、即天界かの一本の道しかないような人が渡る川で、これを一途の川という。もうお前には選択する余地はない、おまえはこれしかないということで、極悪の者、極善の者は一途の川に行く。
それ以外の大多数の人々は三途の川を渡り、行くべき霊界を振り分けられて天国(上)中有(中)地獄(下)と大きく三つの層の世界に行くことになる。
天国は気持ちいいし、中有界の上段もなかなかいい世界だ。ここに住む霊達にとっては、供養なんて全く必要ない。
だから真ん中のレベル以上の霊にしてみると、仏壇などあってもなくても平気なのだ。無論、人の体にかかることもない。もし万一かかっても、かかられた人はとても心地良いだけだ。
「あら、守護霊様かしら。守護霊・・・・・・、ふだんの守護霊よりも、何となく、高貴な感じだな。えっ、この間亡くなったおばあちゃんなの。そう。生前、世の為人の為に生きて、立派に修業も済ませていたのね」と、こんな場合はお互い幸せなだけだ。仏壇や位牌にかかっても、ああ、おばあちゃん、お元気ですか、と言うだけで十分。子孫がお供え物をする気持ちを受け取って、霊も嬉しいわけだ。これは非常に好ましい姿であって、それから三十年もたつと、用事のない時にはおばあちゃんも来ない。そして自分の霊界修業をする。
しかし、成道して、菩薩の位や如来の位をいただけるような霊的ランクを、生きている間に会得した人はまた違う。伝教大師や弘法大師などがそうだ。
彼らは自由自在に、守護霊として霊界を動き回ることができる。親戚縁者はもとより、比叡山や高野山で修業する人や、世の為に生きようとする人たちに、血縁血脈関係なく、自由自在に神様の使者となって守護できる。こういう方々には仏壇も全く関係ない。供も全く必要ない。心地よい霊界にいて、自分で自由に動けるから心配することはない。つまり仏壇を祀って供養したいという遺族や子孫の心根は尊いけれど、霊にしてみれば祀ってもらう必要は特にないわけだ。
下等な霊の祀り方〜般若心経の功罪
問題は、真ん中以下の霊だ。特に、一途の川のどん底とか、地獄の三丁目から二丁目あたりのたばこ屋さんや、一パイ飲み屋でウロウロしているような先祖霊が問題となる。こういう霊は、三回忌、七回忌、十三回忌など、この世に来てもいいですよという時には、待ってましたとばかりに、地上の子孫のあっちに食らいつき、こっちに食らいつきする。そういう霊のいる場合が大変なのだ。
年供養の後に、家族が病気をして死んだとか、三回忌の後からどうも調子がおかしくて、家の中がゴタゴタしているというのは、そんな不成仏の先祖霊たちの影響と見てほは間違いない。
例えばどんなたたりの霊かというと、「深見先生の本を読んでみたら」というのに、嫌だといって、ずっと財テクばかりやって死んだというおじいちゃんだ ったりする。
そのおじいちゃんが問題だ。三十三回忌はもとより、仏壇でお祀りしようと思ったら喜び勇んで現れる。特に、仏壇で般若心経など上げようものなら、大変なことになるのだ。
般若心経は霊にとって気持ちいい
私はこれを恐怖の般若心経と呼んでいるが、この恐ろしさを知らない人が多過ぎる。世の中には、何でもかんでも般若心経を上げればいいと思っている人が実に多い。確般若心経を上げると、霊的に見たら金色の光がピカピカ光っている。
また、真言密教でも般若心経を上げるが、これは密教の修業の一つで、仏様とか如来様、権現様の法力を授かるために上げるものだ。基本的に、いい霊が来て、般若心経を上げる場合には、それがそのまま法力になる。だから、私のところでも救霊では般若心経をあげたりもする。
さて、問題なのは、仏壇で上げる般若心経で上げてもらうと、霊の方は気持ちがいい。だから、前述のおじいちゃんのようなレベルの低い霊に向かって、もし仏壇やお墓で上げようものなら、
「あっ、気持ちいい。やってちょうだい、やってちょうだい」
猫が喉をゴロゴロならすみたいに喜ぶ。それで、気持ちがいいものだからすり寄ってくる。
寄ってきた霊を救済する法力とか霊力とか、あるいは説得をするという力があれば別だが、普通の人にはただ寄ってくるだけだ。
「あっちへ行きなさい」と言っても、やってやって、もっとやってと我儘を言って離れようとしない。
こうして、霊は本来この世と別れて本格的に霊界で修業する時期になっても、供養してくれる縁者から離れられずに、地上界をさまようことになってしまうのだ。こういう場合が少なくないので、このおじいちゃんのような不成仏の霊をかかえている人には、私は般若心経はあげないように、というのだ。
恐怖の般若心経で浮遊霊のデパートに
本来、極めてありがたい般若心経だが、霊界法則を知らないで上げたがために、とんだ目にあった人の話をしよう。
お墓で無縁仏さんをお祀りして、般若心経を上げるという人が、私のところへ救霊を受けにいらしたことがある。
「先生、もう体が動かなくなって」と言う。一見したところ、「おやっ、この人は動く浮遊霊だ」という感じ。
まだ五十何歳なのに、見たところ八十数歳のよう。歩く姿も顔も、本当に、私が霊界でよく見る浮遊霊そっくりなのである。ところが救霊をしたら、途端に普通の顔になった。この人は〇〇会という会に所属していて、そこは、無縁仏様をお祀りすると功徳が積めると教えるのである。なんということか!無知というのは恐ろしいことだ。
自分のお墓だけでは足りず、無縁仏までもお祀りする。それで功徳が積めるとは・・・・・・、
それを信じて、無縁仏の所ばかりに行って、般若心経を上げるわけだ。それで、「ありがとうございました」と無縁仏にお礼を言うという。何がありがとうかといえば、浮遊霊をいっぱいいただきまして、ありがとうございました、と言っていることになる。
この人は、体中が浮遊霊のデパートのようになっていた。これを恐怖の般若心経と言わずして何と言おうか。
般若心経にまとわりつく霊はしつこい
こういう霊は子供と同じだ。子供とちょっとお遊びしてやると、楽しいものだからま寄って来る。
「もう終わり?おじちゃん、もう終わり?おじちゃん、おじちゃん、もっと遊んでよ」とまとわりつく。
「私は用事があって忙しいからダメ」と言っても、
「おじちゃん、もっとやって」とくる。
「あっちへ行きなさい。あっちへ行きなさいったら、行きなさい」
「おじちゃん、もっとやって。今のおもしろい。これ、もっとやってよ、キャンデーちょうだいよ~!」としつこい。
子供の実態を見るにつけ、浮遊霊に似ているなと私はため息をついてしまった。
「子供浮遊霊論」などというと、幼稚園からクレームが来るかもしれないが、とにかく、子供のお遊びのようなものだ。聞き分けのいい子というのは高級霊といっしょで少ない。「坊や、おじちゃんはね、誘拐犯なんだよ。誘拐されちゃうゾー」
というふうに子供に言って聞かせなければ離れないほどである。これなども、意志が強くてこわそうな人には、浮遊霊も寄り憑かないから、子供は大変よく似ているといえよう?
それはともかく、仏壇やお墓で般若心経を上げると、今述べたように霊がやって来る。
払いのけたり、言って聞かせたりできない普通の人たちが般若心経を上げるということは、霊界の実情から見て非常に問題が多い。
誤解しないでもらいたいが、般若心経そのものは、数ある仏典の教えの中でも、最も意義深いお経の一つだ。決して低いレベルの霊をゴロニャンさせるマジナイではない。
それでは、般若心経は何かというと要するに、お釈迦様の諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、それから世間一切皆苦、これらが詰まっている。
仏様の教えを三法印と言う。大きく広く言えば大蔵法典、小さく要約して言うと三法印、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静が仏教の3大ポイントなのだ。
般若心経の核心は、現世で見たり聞いたりしたものは全て無い。無いということも何も無いぐらい無いんだ、ということだ。だから、この此岸のことをいつまでも思わないで、彼岸へ渡りなさい。執着心をなくしなさい。もっと軽やかな心になりなさい、と死者の霊に諭すお経なのだ。
ところで、極楽浄土へ行く三大ポイントはまず第一に、慈悲の心をもって、温かい。第二に、前向きで、執着心を捨てて、軽く。
第三に、感謝の心をもって明るい。だから、明るい極楽浄土に行く。
現世に執着心が何もなく、死んだら死んだで、霊界へ行くんだーっ!と明るく元気な気持ちでお亡くなりになった方は、心が非常に軽い。軽いから上へ上がっていく。このように、いかにすれば軽くなるかという解説を見事に説いたのが般若心経だ。
つまり、この三大ポイントのうちの「軽く」という、一つのポイントを実践する意味を書いているのである。すなわち、般若心経に書かれている内容は、生きている人が、生きている間に理解して、形あるものに対する執着心をなくしていこう、と実践すべきもの。これこそが般若心経に対する正しい読み方であり、姿勢であろう。
般若心経写経で頑張ったのに……女優Aさんの場合
名前を言えば誰でも知っている女優のAさんは、神一筋で生きている人である。
初めてお会いしたときに、「先生、私、般若心経を千回書こうと思って写経したんですよね。でも、どうしても続かなくて。私って持続力がないんですね。五百五十回しか書けなかったんです」と言う。
「ほう、五百五十回」
なかなかできないことだ。一日一つ書いても、一年で三百六十五回にしかならない。それを一年半の間、毎日彼女は書いていた。なぜ書けなくなったかというと、強烈に体が重くて、もう仕事もできないぐらいに重くなっちゃったと言うのだ。恐怖の般若心経を一年半も書き続けていれば、やはりそうなるのだ。
確かに、自分の書いているお経の意味をわかって写経すれば、それは大変意義のあることだ。しかしそれであっても、真ん中以下のご先祖が多い人が写経すると、どんどん霊が出てきて、身動きができなくなるのだ。これを「恐怖の写経」と言う。仏教系の某グループからは文句を言われるかもしれないが、確かにこういうことになる。
写経は、写す文字も意味を持っているが、般若心経が何が言いたいかということを咀嚼しなければ意味がない。お経はあげるものではない、書くものではない、まして拝むものでもない。内容を理解して、心の持っている内面性を覚醒する、悟りを開く、そして、お釈迦様が言いたかったことを納得することこそが大切なことなのだ。
お経というのは、元々、お釈迦様の生きた言葉を記録に残したものだ。お釈迦様が書いたものでなく、お弟子が、「私はこういうふうにお釈迦様から聞きました」と書いたもの。
「如是我聞」〜「このごとく、我、聞けり」なのだ。拝むための道具ではない。
バイブルも同様でイエス自らが書いたものではない。
イエス様はこうおっしゃっておられましたということを、マタイやルカが「このごとく、我、聞けり」と記録したのがバイブルだ。仏教の場合は、それが全部、お経として残っているのだ。そう考えたら、お経の本質や存在意義もわかる。お経は形ではなく、内容に接するのが本当で、これが基本なのだ。
お経を上げるとか写経をするということ自体は悪いことではないが、それだけで良しとしてしまって、本質を理解しないままでは問題がある。よく意味を理解して、時々般若心経を見て執着心が多いわが心を反省する。お経をあげながら、意味するところを理解して、そうだなと思う。これが大事なことなのだ。
そうは言っても、般若心経に限らず、仏教の経文はすべて全文漢字で書かれているので、現代の人には難しすぎるだろう。「南無妙法蓮華経」だけなら子供でも知っているが、肝心の法華経というお経の意味、法力の秘密となると、よほど研鑽を重ねたお坊さんでないと通じていない、というのが実状だ。
私はセミナーにおいて法華経の法力について、現代用語で易しく平たく解説したことがある。法華経の現代語訳だ。
しかしこれを今、記録にとどめていたとしても、一万年ぐらいたつと、難しい言葉を話しておったなというふうに言われるかもしれない。そういうものだ。
ともあれ、お経は理解するものであることは、おわかりいただけたと思う。これが本質なのであって、仏壇の前で般若心経をあげればいいとか、無縁仏さんに般若心経をあげてお祀りすればいいといった風説はあるが、私としては今述べたような理由で、あまりお勧めできない。どうしてもやるとおっしゃる方を止めはしないが、やるにしても本当の意味を理解してやったほうが、変な霊に取りつかれることもなく、仏教の本質に近づくことができるだろうと思う。
それからもう一つ話しておけば、時々、仏壇で先祖にお願い事をする人がいるが、あれなども、まずしない方がいいのはもうおわかりいただけたと思う。救われたいのは先祖の方なのだから。
