第6章 神様のことを知りたいあなたへ
魚釣りなど趣味のために殺生をしてもよいか
Q 職業として、魚釣り、漁業などをするのは構わないのですが、趣味で魚を釣って食べるのは良くないと聞いています。本人や家族が奇病になる場合も少なくないといいます。
私も同様に考えています。私にはもちろん魚釣りの趣味はありません。自分の楽しみのために殺生をするのは良くないのではないでしょうか。解説をお願いいたします。(H・M/三十四歳/男)
命が生きれば殺生にならない
深見:魚釣りが駄目だとすると、趣味として山菜を取るのもいけないのでしょうか。葡萄狩りに行ったり、イチゴ摘みに行くのも良くないのでしょうか。職業として畑仕事をするのはいいけれど、家庭菜園で野菜をつくって食べている家族には奇病が発生するのでしょうか。
植物なら良くて、魚は駄目ということはありません。確かに魚は釣られると、「残念だI」と言っています。大きい魚は「きわめて残念だ!」と言っています。これは私が他心通(相手の心を読み取る神通力)で聞いた声です。
でも、植物にだって心はあるのです。北海道のレストランに行ったとき、テーブルの上にカーネーションが活けてありました。ちょっと声をかけてみると、「私はバラ科の植物で・・・」と自己紹介をはじめました。
そのとたんに周囲の雰囲気がパッと明るくなったのです。
「何のために咲くんですか」と聞くと、「みんなに、綺麗な花ってほめてもらえるわ。それが幸せなんです」と赤いカーネーションは答えました。
ピンクのカーネーションは、「ピンクって、本当は自分じゃあまり気にいっていないんです」と言っていました。
本当は白がよかったということです。
「いや、ピンクはいいですよ。素晴らしいです。綺麗ですよ」と言うと、ウフフと笑って、「私はあと三日の命なんです。でも生きててよかった」と言っていました。
花にも果物にも心はあります。趣味として育てている盆栽にも木霊が宿っています。生きている物すべてに、霊体があるのです。ですから、植物なら許されて、魚や動物は駄目だということはないのです。
どんな生き物にも霊があることを知った上で、よくそのわけを説明すれば、その霊は納得します。すると、死んでもその「命」は生きるのです。命を無駄にせずに生かすことができれば、神道では殺生ではありません。
ですから私は釣りをするときでも、「一柱も漏れ落つ事なく、おいしく料理していただきますから」と神様に理由をよく説明して魚を釣らせてもらいます。
そして、釣れた魚は、お刺身や焼き魚や煮付けにして、とにかく全ていただきます。そうすることによって、魚の命は生きるのです。よく釣れたときは、周囲の人たちにお裾分けをしたりします。
神様に許可された分しか釣れない
先日、トカラ列島というところへ釣りに行きました。東京から鹿児島まで飛行機で行って、鹿児島から奄美大島までまた飛行機に乗って、そこからさらに船で五時間かかります。
一週間に一回しか定期便が来ないという秘境のようなところです。そこに、天秤座の神様が降りていらっしゃったのです。
釣りをする場合は、必ずその水域の神様に許可をいただきます。
そこでは大変良く釣れました。百三十センチ、三十七キロと百二十センチ二十六キロのカッポレという大物の魚二匹をはじめ、全部で十六尾も釣れたのです。
ところが、もっと釣ろうと思ったら、船のクレーンにカーンと向こう脛をぶつけてしまいました。他の人も糸が途中で切れたり、リフトが絡まったり、ちょうどエサがなくなったりして、時間はまだたっぷりあるのに、あるタイミングからピタッと釣れなくなってしまったのです。
結局、神様に許された分だけしか釣ることはできないのです。それ以上釣ると殺生になるというところで、神様は釣れなくさせてしまうのです。釣った魚は氷詰にして東京に送り、師匠の植松先生に献上して、みんなでおいしく戴きました。
私たちのお腹の中に入って、魚は血となり肉となり、その命は生かされるのです。これは職業だろうと趣味だろうと関係ありません。
職業としてやっている場合でも、そういう気持ちを持たない場合は、奇病が出ることもあります。そこのところをちゃんと分かって供養しているところは、それほど問題は起きません。
ただ、祟る力の強いものと弱いものというのはあります。植物と魚はあまり強くありません。動物でも、豚や牛は覚悟して生まれて来たようなところがありますから、それほど心配はありません。怖いのは鳥です。
小さいときに鳥を殺した人は、胃潰瘍になったり、十二指腸潰瘍になったりする場合があります。
木霊も強く祟ることがあります。職業であろうとなかろうと、特に木霊の場合は所有者に強く影響が出ます。木をバサリバサリと伐った人や、そういうご先祖がいる人は、脳溢血や脳血栓で倒れる場合があります。
松とか杉の場合は長男がやられます。花が咲いたり実が成る桃や柿などを無造作に伐ると、子宮筋腫や婦人病などの形で家族や子孫の女性に表れます。
その他、関節炎や皮膚炎、リューマチなども木霊の祟りである場合がほとんどです。
自然と共存して生きるということ
人間は万物の霊長です。この大自然の動物、植物は皆、人間のために神様がお創りになったものです。自然界のために人間があるのではありません。
最近、自然環境の汚染や環境破壊が問題になっていますが、それは我々の子孫のために、神様が与えてくださった自然を長く保たなければならないからです。
自殺願望を持った魚や鳥や動物というのはいません。みんな精一杯生きて行こうとしています。だからこそ生命が維持されているのです。
植物も魚も鳥も動物も、人間が採って食べたり、生活の中に生かすのであれば、神様はお喜びになります。これが神道の基本的な考え方です。
無益な殺生は確かによくありませんが、それが趣味であるか職業であるかには関係ありません。すべての生き物の中にある霊的な存在にキチンと断って、命を生かせばそれでいいのです。
キリスト教ユダヤ教、イスラム教では、神と人間、人間と自然、自然と神の関係を対立するものとしてとらえます。
神と人間は創造主と被創造物の関係であり、人間は厳しい自然に負けないで、切り開いていくというのが、自然に対する基本的な考え方です。自然と神との関係も対立的です。
これに対して、神道の場合は、神と人間、人間と自然、自然と神の関係は融合しています。人間は祖先から生まれてきたわけですが、その祖先は神から生まれてきたというのが神道の考え方です。
人間と自然も互いを生かし合う関係で、神と自然の関係も、美しい自然の中に神なるものが宿るという形で共生しています。神道だけではなく、古代の宗教では皆このように考えてきました。
キリスト教でも、カソリックの中には多神教的要素が残っています。精霊がいたり、エンゼルのような御眷族もたくさん出てきます。神様の子どもを産んだマリア様も崇拝の対象になっています。
キリスト教の素晴らしいところは、愛ということの大切さを明確に打ち出した点にあります。人類愛というものをあれほど徹底的に説いた宗教は他にはありません。
私の友達のカソリックの人たちは、霊的なるもの、神秘的なものにたいする尊敬の念を持っています。神道のこともよく理解して、伊勢神宮にお参りしたり、善光寺にもお参りしたりしています。
日本の神道では、神様は人間と共存して、お互い生かしあっています。自然と人間も生かしあっています。自然は神様が人間を生かすために創ったものですから、必要なものについては感謝しながら活用していけばいいのです。
ただ、私たちの子孫が代々自然とともに生きていけるように環境を守っていかなくてはならないわけです。

①供養… 三宝(仏・法・僧)や死者の霊に、花や香などの諸物を供えて、尊敬をもって、ねんごろにもてなすこと。慣習や習俗によりさまざまな供養の方法がある。死者の冥福を祈る「追善供養」、そのために卒塔婆を立てる「塔婆供養」、餓鬼に食物を施す「施餓鬼供養」など。
②精霊… 広義では、霊的存在または超自然的存在一般のこと。精霊はあらゆる生物、無生物(人工物、自然物)に宿り、あるいは空中を浮遊しているような、目に見えない人格的存在と見なされることが多い。
③眷族… つき従う者の意。神道では諸神の使者という意味で用いられる。正神界の代表的なものとしては、龍や天狗、蛇などがあげられる。
④伊勢神宮… 皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)の総称を言う。皇大神宮の祭神は天照大御神。三世紀後半、垂仁天皇の時代に宮中に祀られていた天照大御神をこの地に鎮座させた。
豊受大神宮の祭神は豊受大御神。内宮鎮座の約五百年後に丹羽国(現在の京都)から迎えられた。現在も豊かな自然に包まれて、神道の聖地として、国民的信仰の中心的存在である。所在地は三重県伊勢市。
⑤善光寺… 天台宗と浄土宗が管理する単立宗教法人の寺院。本尊は五五二年に百済から渡来した阿弥陀三尊仏。
「牛に引かれて善光寺参り」との説話もあるように、古くから国民の信仰を集め、本尊は、武田、織田、豊臣、徳川などの戦国大名が各地への遷座を繰り返したこともある。所在地は長野県長野市。
神棚の榊は毎月一日に必ず取り替えたほうがいいか
Q 神棚の神は、毎月一日には、必ず新しいものと取り替えたほうがよいのでしょうか。地方の神主さんの話ですと、毎日水をかえて、枯れなければそれでよいということです。(S・T/女)
神事には絶対的な決まりはない
深見:月に一回、榊を替えることが望ましいだけであって、替えなくても別に神様が怒って、祟りを及ぼすというわけではありません。月に一回神をかえるのは、清々しさを保つためなのです。
神様ごとには、本来こうしなければいけない、というようなことはありません。たとえば、神社にお参りするときに、二礼二拍手一拝をするのは、神様がそれを強要しているからではなく、神社によっては二礼四拍手一拝というところもあります。
これは、ストリップ劇場で客の拍手の多い方に踊り子が喜んで近づくように、真心のこもった相手のある所へ、ご神霊も近づくためです。
また、二礼二拍手一拝はご神霊への礼を尽くすご挨拶であり、来て下さいとお願いしている、踊り子への歓迎の拍手のようなものだと思って下さい。
また、こんなに挨拶として短いのは、参拝に来た後ろのほうの人たちが混まないためでもありましょう。神様に本当に願いが通じるように、極まるまでみんながお祈りをしたのでは、初詣のときなどは神社が混雑してしまいます。約束事には、それなりの理由があるのです。
ですから、別に毎日水をかえなくても、二日に一回でも三日に一回でも、枯れないように水を替えればそれでいいのです。
ただ、毎月一日とか十五日というのは、長い間みんなが、その日はお祭りをする日と決めてお祈りをしていますから、神様のほうもその気になって待っておられます。そういう霊界ができていますから、一日にかえたほうがベターだということであって、絶対ではありません。

①榊… 神事に用いる常緑樹の総称。「古事記」の天照大御神の岩戸隠れの段に、「天香山の五百津真賢木を根こじにこじて・・・」とあるように、古くから神事に用いられていた。
神社のお札がいくつも部屋にあるのだが
ある神道についての本に、神社のお札はいくつも置いてはいけないと書いてありました。神気が交錯してしまい、また神様にも失礼になるのだそうです。
違う本にも同様のことが書いてありました。私の部屋には、皇大神社をはじめ、伊勢、住吉、諏訪、三輪、それに産土にあたる松戸神社と、お札が六つあります。本当のところはどうなのでしょう。最近気になっています。(M・Y/男)
神棚の正しい祭り方
深見:全然関係ありません。私などは四十枚くらいお札を並べています。
どなたが書いた本かは存じませんが、その方はどれだけ神様と交流していらっしゃるのでしょう。神気が交錯することのどこが悪いのでしょうか。
神道は多神教ですから、最高の神様はいらっしゃっても、絶対の神というのはいません。この事柄に関してはこの神様、あの事柄に関してはあの神様と、それぞれ個性を認めあいながら長所を生かしあっているのが日本の神様です。
ですから、お札を何枚並べても全く構わないのです。ただ、お稲荷さんとか、龍や蛇、天狗などの御眷族の場合は、そういうことをうるさく言うこともありますが、主宰神になると神様ですから、全然そういうことはおっしゃいません。
神社はお札を貰うために行くところではありません。神社に行って、神様に感謝し、真心をこめて誠を捧げれば、それでお参りは完成しているのです。お札というのは、御神体ではありません。
御神気のお裾分けをお土産にいただくようなものです。御神気は少しずつフェイドアウトしていって、一年ぐらいしたらただの板に少しだけ神気が残っているという程度のものになっていきます。
ですから、だいたい一年たったら、お札はお返しして、新しいものに取り替えるというのが原則です。
さて、六カ所の神社にお参りをしてお札をいただいてきたら、どうしたらいいでしょう。あわせて置くのがいけないなら、家の中に神棚を六つ造らなければならないことになります。一年に十カ所も二十カ所も行ったら、家中が神棚だらけになってしまいますね。
常識で考えてもそんなことは不可能です。
正しい神棚の祭り方は、まず真ん中に天照大御神様のお札を置きます。天照大御神様は何と言っても日本の正神界の中心にいらっしゃる神様ですから、真ん中です。
向かって右、神様から見て左には、一の宮を置きます。一の宮のお札がない場合は、近くの産土様のお札を置きます。
そして、向かって左、神様から見て右側に、自分が行ったいろいろな神社のお札を並べていけばいいのです。
もし、それでも気になるようでしたら、「本当ならば一つひとつお供えしたほうがよいのでしょうが、神棚が狭いもので、どう神様、ご了承ください」とお断りしておけばよいでしょう。
「失礼なことをするな!」と言って怒り出すような狭量な神様は、正神界にはいらっしゃいません。
それでもお札の扱いには気をつけよう
ただ、こんなこともありました。今から十五年ほど前のことですが、私のところのスタッフが厳島神社に参拝に行って、もらってきたお札を居間の棚の上に置いておいたのです。
私はそのことを知らなかったのですが、次の日、朝からずーっと頭が痛いのです。原因不明の頭痛が一日中続きました。
そうして、ずいぶん時間がたってから、お札が置いてあるのに気づいたのです。その瞬間に、また割れるように頭がグアーンと痛くなりました。
「あっ、怒っているんだ」と分かって、二礼二拍手して、お札を御神前に移しました。そして、「大変失礼いたしました。どうぞ、ここでお守りください」と言ったら、頭の痛いのがスパーッと消えたのです。
厳島神社は弁天様ですが、そのお札に入っていたのは、御眷族の白蛇でした。白龍と白蛇の間くらいの白金色の龍蛇です。
そういうこともありますので、ちゃんとお参りをしてもらってきたお札でも、品物のように扱うとやはり失礼になります。キチンとお断りをして並べれば大丈夫です。
いろいろと事情がありますから、たとえ神棚がなくても、「神棚はございませんが、ここに立て掛けさせていただきますので、よろしくお守りくださいと言えば、納得してくださいます。
敬う心があるのなら、キチンと言葉にしてお断りすることが大事です。

①住吉(大社)… 住吉大神(底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神)は、神道上、もっとも重要視される「禊ぎ」や「祓い」をご神格としてお生まれになった神様で、数々のご神託を下されるなど、常に歴代天皇の近くにあって、国家の経営を助けられた。
住吉大神のご神徳はあらゆる面におよぶが、中でも特筆すべきは、大志を抱いた人の物事を強烈な力で推し進めるご神力とご威勢があること。所在地は大阪市住吉区。
②三輪(明神)… 奈良県桜井市にある美しい円錐形の三輪山の大神神社の祭神。そのご神徳は、第一にもめごとやトラブルの解決。第二は、悪霊、邪霊などの「もののけ」を封じ込めて下さること。
第三は、資金繰りに絶大な力をお貸し下さること。詳しくは深見東州著 「神社で奇跡の開運」をご参照下さい。
③お稲荷さん… 稲荷狐の意。本来、稲荷狐は、五穀豊穣をつかさどる神様の使者であったが、人間の心に邪念が多いため、本来の使命を忘れて人間に悪さをする”ハグレ狐”と化してしまったのである。
そうした”ハグレ狐”でも、信仰している間は、商売繁盛、家内安全などの現世利益をもたらしてくれるが、崇敬しなくなるとたちまち仕返しをして無一文にまで追いやり、ひどい場合は七代祟るとも言われている。
また、死んで霊界に行った人間霊が狐の姿になっているものも多い。現世利益だけを求めて稲荷信仰をしていると、死後、狐の姿になってしまうのである。これが先祖霊稲荷である。
そしてこの先祖霊稲荷は子孫たちに憑いて霊流を送るので、その子孫たちも狐のような性格を形成しやすくなる。ご先祖の中に、生前、稲荷信仰をしていた人があれば、人霊狐になっている可能性がある。
④龍… 龍神のこと。龍神は実に多種多様であって、決して一辺倒に考えてはならない。
色で分けても白龍、金龍、銀龍、青龍、紅龍、緑龍、紫雲龍など千差万別。役割も出所も千差万別。ただし、すべての龍神は真の神や神霊ではなく、神霊の化身であったり、乗り物であったり、眷族であったり、神使であったりする。
⑦蛇… 蛇の霊が憑くと夢のお告げ〟を受けるようになる。ある瞬間にパッと見えたというのではなく、白日夢のように常に見えているという人は、蛇が憑いている場合が多い。
霊界における蛇は、一般の人が考えているほど単純なものではなく、その種類も狐や狸にくらべてはるかに多く、「1.動物の蛇」「2.人霊怨念霊蛇」「3.人霊怨念合体蛇」「4.生霊怨念蛇」「5.生霊強烈慕情蛇」「6.先祖霊蛇」「7.神罰の蛇」「8.仏罰の蛇」「9.水蛇」「10.海蛇」「11.ヨガ蛇」「12.白魔術系の白金猛蛇」「13.黒魔術系の黒猛蛇」 「14.本人の情欲過剰蛇」の十四種類がある。
1は動物の蛇、2~6は人霊が蛇の姿になっているもの、7、8は人霊ではなく神の眷族としての蛇、9~14は実際に霊界にいる特殊な蛇。
これら十四種の蛇は、霊界ではみな同じ姿をしているので、外見だけで判断すると失敗する。霊視だけをする霊能者は、特に危険である。
一般的特徴としては
①進歩向上しない
②絶えず低いところ低いところへ逃れようとする
③苦難に遭遇すると、精進努力してそれを乗り越えようとするのではなく、横にヌルリと逃れようとする、ネクラで、悪いほうへ悪いほうへと考える
⑤性格が陰湿でいつもグチを言う、などがあげられる。(神通力や動物霊などについて詳しく知りたい方は、深見東州著 「神界からの神通力」(たちばな出版刊)をご参照ください)
⑥天狗……天狗は想像上の怪物とされるが、実際に存在している。修験道や山岳信仰をする人々とは密接な関係がある。天狗がつくと、あらゆる神通力に秀でて、薬草を見つけることができたり、空中に高く飛び上がることができたり、念力が強力になったりする。
しかし、龍神同様、あくまでご神霊の眷族(使者)であって本当の神様ではない。
また、天狗がつくと、高慢になったり(天狗になる)、うぬぼれが強くなるという落とし穴があるので要注意。また、人霊が天狗に化けていることも多い。木霊の化身の天狗もいる。
⑦天照大御神伊邪那岐、伊邪那美二神の間に生まれた三貴子の第一子で、太陽の神、皇室の始祖とされる。
⑧厳島神社… 祭神は市杵島姫命、田心姫命、満津姫命の三神。推古天皇の時代に創建された。商売繁盛の守護神として信仰されている。日本三景のひとつ「安芸の宮島」としても知られる景勝地にある。所在地は広島県佐伯郡宮島町。
⑨弁天… 弁才天の略。弁舌と才能を伸ばして出世と名声を司る神様。また、弁財天とも記され、財福神とも言われる。仏教に取り入れられてからは、吉祥天と並んで多くの信仰を集めている。七福神のひとりでもある。
神様に願いが通じる祈り方のコツ
Q お祈りを長時間できません。愛と真心が大切だということは分かっているのですが、いざお祈りをしてみると、ほんの数分しかできません。神様は全部分かってくれているはずだと思ってしまうのです。
ですから、たとえば住吉大社に行って日本の国のことをお祈りしたら、次に熊野大社に行ったときは、「前に住吉様にお願いしたようにお願いします」といった具合になってしまいます。どうしたら、キチンとお祈りできるようになりますか。(Y.Y/二十一歳/男)
神様はあなたに注目していない
深見:不精してはいけません。でも私も昔はこうでした。
あるとき、伊勢神宮でみっちりとお祈りをして、それからしばらくして、また、別の神社に行って、「この間、伊勢神宮でお祈りしたアレをよろしくお願いします」とお祈りしたことがあります。
ところが、神様は、「はぁ?」とおっしゃるのです。
神様だから何でもご存じかと思ったのですが、そうではないのです。神様もお忙しいのです。
たとえば、私も、「先生はすごい超能力者、霊能者ですから、もう、私の気持ちもご理解いただいてると思うのですが・・・」と、いきなり書き出している手紙をいただくことがありますが、そんなことは知るはずがありません。
接心や問答のときなどは、その人に関心を持って、気を向けるから相手のことが分かるわけです。超能力や霊能力というのは、その事柄に意識を向けることが必要なのです。
もし、私がふだんから全てのことがわかるのなら、お茶漬けを食べていても、関西の○○さんと××さんがキスをしているところや、北海道の△△さんが仕事をさぼってパチンコをしているところが、全部見えてしまいます。
道を歩きながら、何百人、何千人もの人たちの様子をいちいち見ていたら、車にぶつかってしまいます。
そんな暇があるのなら、日本の国のこととか、政治のこととか、お祈りしなければならないことは一杯あります。
神社の神様も、いつも全ての人の心の中を細かく注意して見ていらっしゃるわけではありません。神様にも神様の生活というものがあるのです。いろいろ忙しいので、ふだんは、ご眷族を使って報告だけを聞いているのです。
報告を受けても、たいしたことがないと思えば、あまり気にかけてくださいません。神社の神様は、それほどあなたのことを見ていらっしゃらないのです。
だからこそ、強く発願をして、祈り込む必要があるわけです。
もちろん、宇宙の創造神である
の神様は全知全能の神様ですから、全てをご存じです。しかし、無限絶対のの神様というのは、お祈りをしても、あまり細かなことに力を
貸してくださいません。全てをご存じですが、宇宙を動かすのに忙しいのです。何でも絶対者が出てきて処理をするなら、日本中にたくさんある神社の神様はやることがなくなってしまいます。
菩薩も如来も明王もエンゼルもいりません。龍も天狗も必要ないでしょう。絶対者はあまり表面には出ないで、現場のことは現場に任せていらっしゃるのです。それぞれの神様が、お互いの長所を生かしながら仲良くやっていくというのが、多神教の原則なのです。
神様にも人格がある
もう少し詳しく説明すると、神様にも人格のようなものがあるのです。「格」という字は「いたる」とも読みます。性格の「性」は、りっしんべん(心)に生まれるですから、生まれながらの心がいたったのが性格です。
人格とは霊がいたったものです。ですから、私たち一人ひとりに個人のパーソナリティがあるように、浮遊霊や地縛霊にも人格があります。
神様の場合は、神格といいます。神格とは、神様の格式だと考えてもいいのですが、神様も人間と同じように人格を持っているのだと思っていただいたほうが分かりやすいでしょう。
神様にも神格がありますから、神様にお祈りするというのは、基本的に人に対して何かを言うのと同じことなのです。人と会って話をするときに、「この間、あの人に話したのと同じだから、そういうことで」と言ったら、相手はどう思うでしょうか。
「前に別の女の子に言ったんだけどさ、『好き』って。それと同じだから」と女の子に言ったら殴られます。
神様ですから殴りはしませんが、階段で転ぶかもしれません(笑)。
日本では古来から、「人は祖に基づき、祖は神に基づき」と言われてきました。つまり、神様は私たちの先祖の先祖なのです。ですから、孫がおじいちゃんにお話しするように、親しみをこめて接することです。
これは外来思想である仏教には本来なかった考え方です。仏教は、あくまで自分自身の内側を見て、見性し、悟りを開いていくものです。
つまり、個人の「命」の救済を目的としたものです。これに対して神道では、「命」というものを、親から子へと子々孫々に受け継がれる所が尊いものと考えます。
ですから、「命」の救済という場合も、連綿と子々孫々まで継承されていく命を救うと考えます。それが同時に、祖先から親へと受け継がれてきたものを大切にする心を芽生えさせます。お盆というのも、もともと仏教が入って来る以前に、古くから先祖祭りとして行われていたものです。その習慣をうまく取り込むことで、仏教は日本に根づいていったのだということができます。
お祈りは具体的に情感を込めて
神社の神様は、神格を持った私たちのご先祖様です。要するに、親戚、身内、一族郎党です。ですから、親戚の家に遊びに行くように気軽に何度も訪ねて行って、顔を覚えてもらうということが大切です。
すると、ご眷族の龍や蛇が見ていて、後で神様に、「また、この間の人が来てましたよ。お賽銭少なかったけど」なんて報告してくれます。
でも、そのとき、ちゃんとお祈りをしていなかったら、「それで、何と言ってた?」
「何だそれは?」
「いや、この間、別の神様にお願いしたのと一緒だということで」
「さぁ、なんでしょう。『神様だから、もうご存じでしょう』って言ってましたよ」
「わしゃ、それほど暇じゃない」ということになってしまいます。
神様も忙しいですから、前のお祈りの内容を聞くために、他の神社の神様にいちいち電話をかけたりしてくれません。やはり、直接お話しするのが礼儀というものでしょう。そも熱意を込めて話すことが大事です。
人に動いてもらうためには、相手を感動させる必要があります。これは人間も神様も同じことです。あるいは、守護霊も如来も菩薩も蛇でも龍神でも同じことです。
だから、発願をしたり、お百度を踏んだり、お賽銭を捧げたりする必要があるのです。
「神様、なにとぞ、この願いをかなえてください」と強い祈りのエネルギーを送ると、神様のほうから見ると、ボーンとあなたの顔が浮かんで来ます。二十一日祈願をすれば、だいたい十五日から十九日目あたりでそうなります。
神様だからご存じだろう、などと思わないで、とにかく人に話をするように、病気だったら病状も含めて、なるべく具体的に話してください。
「私は、こういう父と母の間に生まれたのですが…。だけども、だけども…、三ヵ月前に父が病で倒れまして…
途切れ途切れでもいいのです。情感を込めて話すことが大事です。お芝居でも、素晴らしい俳優というのは、ドラマがクライマックスにさしかかると、ポロポロと涙を流します。
役作りに没入すると、そこまで感情を高めることができるのです。すると、見ているほうにも感動が伝わって観客の涙を誘うわけです。お祈りでも同じことです。いかにして、神様を感動させるかが勝負です。
それには、まず自分が情感を極めることです。神様に言うというより、自分の魂と感性に言って聞かせるように祈ることです。真心が震えてくると、その波動が神様にバーンと通ります。
すると、胸がホッとしたような気持ちになります。そうなるまで祈り続けてください。何時間祈っても情感が盛り上がらなければ駄目です。
誠がなければ神様は動かない
人間でも自分のことをよく知っていてくれれば、嬉しいものです。たとえば、誕生日を覚えていてくれたというだけで、その人に対して親しみを覚えます。
神様も神格をもっていらっしゃいますから、これも同じことです。ですから、神社にお参りに行くときには、そこにいらっしゃる神様がどんな神格やお働きをお持ちなのか、ある程度下調べをしておいて、うまくお祈りの中に折り込むようにすると効果的です。
たとえば、住吉さんに行ってお祈りするときは、「言霊の偉大なる働きを持たれる住吉の神」
「うーん、分かってるじゃないの。それで願いは?」ということになります。
「うんうん」
「その言霊をもってすれば、天地も動かすばかりの神とお聞きしています」
「勅撰和歌集にも残っておりますように、何百年、何千年の昔から、歌詠み人が住吉の大神様の前で願いをかけたと聞いております」
「そ、そこまで知ってくれてるの?お願いは何なの。言いなさいよ、言いなさいよ」
「いや、願いごとはともかく、もう少し言わせてください。神功皇后のもとに何回もお出ましになって、三韓征伐のおりに津波を起こされたのも、住吉の大神様だと聞いております」
「いやあ、よく知ってるね。私のところにお参りに来る人は多いけど、そんなことまで知っていてくれたのは、あんたで二十五人目くらいだね。もう、お賽銭なんて三十円でいいから。うん、言いなさい、言いなさい」と、こんな具合です。
冗談のように思えるかも知れませんが、これが神霊界の実情なのです。神様がずっと親しみやすくなったと思いませんか。
もちろん、これは挨拶のようなものですから、その後のお願いが本当に真心と情感がこもったものであることが大切なのは、先程説明したとおりです。そのようにしてお願いをすれば、神様はあなたに注目してくれます。しかし、それだけで神様に動いていただけるわけではありません。
本当に神様に動いていただくためには、「誠」が必要なのです。誠とは、言ったことが成ると書きます。
つまり、口に出して言ったことと、心と行いとが一致していることが必要なのです。
あなたの真心が、どのような行動になって表れるかを、神様はじっと見ているのです。そして、本当に口と心と行いが一致したときに、神様ははじめてドーンと動いてくださいます。
自らが先頭に立ち、ご眷族も総動員して、それでも足りなければ、他の神様も応援に呼んでくれます。神様にそれだけ動いていただくためには、やはり愛と真心に貫かれた、神様に感動を与えるような生き方をしなければならないのです。

①菩薩… 「心の道を極め、心が極まる」ことを菩薩といい、心が極まった境地を指す。菩薩のような人とは、そういう境涯、そういう気持ちで生きている人のことをいう。
②如来… 如来とは、菩薩の境地が全く揺るぎない状態のことであり、悟った位のことである。
③地縛霊… この世に未練を残して死ぬ霊は、念を残して死ぬが、その念を残す場所が土地であった場合、土地との因縁を持つので「土地因縁の霊」あるいは「地縛霊」と呼ぶ。
死亡した場所とか、何かゆかりのある土地や建物などにとどまっている霊。幽霊屋敷現象の原因だと考えられている。
④言霊… 言葉に宿っている不思議な霊力。古代からその力が働いて言葉通りの事が起こると信じられている。古来日本は「言霊の幸う国」と言われ、言霊の不思議な力の働きによって幸福をもたらす国であった。
ご奉仕とは何か
Q ご奉仕とは何なのですか。ご奉仕をしていることがすばらしいのでしょうか。家でも仕事の中でもできるものではないのでしょうか。基本的なことで申しわけありませんが、教えてください。
神様にも願いがある
深見:ご奉仕とは何か。まず「ご」は丁寧語です。「仕」とは何かにお仕えするという意味です。「奉」は奉るということです。つまり、ご奉仕というのは何かに「仕え奉る」ことです。
何に仕え奉るのかというと、「神命の義」によって仕え奉るのです。神様の命の「義」によって仕え奉る。「義」というのは、義理と人情の「義」です。
「義」という言葉の意味をもう少し説明しましょう。
人間には欲というものがあります。この欲というのは必ずしも悪いものとは限りません。睡眠欲や食欲は人間が生命を保つために必要な欲だし、性欲がなければ、子孫は繁栄しません。
また、知識欲があるから、人間は進歩向上していくわけです。人間が生きていくためには、ある程度の欲は必要なのです。しかし、あまり欲が強すぎてもいけないということは、言うまでもありません。
欲というのは、肉体から来る心の働きです。これを人心といいます。これに対して魂から来る心を道心といいます。
求道心とか、高貴なるものを求めていこうという心は、自分の精神の深い部分、つまり御魂から来ているのです。
これを魂(こん)と呼んでいます。一方、人心、つまり肉体から来るものを魄(はく)と言います。両方合わせて魂魄(こんぱく)と読みます。
お芝居で、「魂魄この世にとどまりて~」と言う台詞が出てくるのを、聞いたことがある方も多いと思います。これは、魂と魄、すなわち、道心と心の両方がこの世にとどまっているという意味です。
いいものを求める心もあるし、欲望もあるという状態、つまり、生きている人間の心が、そのままこの世にとどまるということになります。
では、私たちの心の中に、魂と魄はどの程度の割合を占めているものなのでしょうか。
だいたい、道心が六〇%ぐらいで、人心が四〇%ぐらいならば、大変すばらしい人生を送れます。五〇%ずつならまあまあでしょう。ところが、ちょっと間違って、魄のほうが大きくなってしまうと堕落してしまいます。
欲望や煩悩に負けてしまった状態になってしまうわけです。生きている間は、常に心の中は、魂と魄との闘いだと言えます。
この魄を抑える働きをするのが「義」なのです。つまり、欲というものが起きてきたときに抑えるのが、義の心です。正しき義が、「正義」です。正義の味方というのは、自分の欲や損得に関係なく働く義の心の持ち主です。
楠木正成公が「大義」に生きたと言われるのは、自分の欲、立身出世したいという欲や領土欲、あるいは、財産や家の名誉などのためという人心を抑えて生きたからです。これが大きな義の心、大義です。
義理と人情という場合の義理は、欲を抑えるものであると同時に、情も抑えることです。
本当は、「嫌だ嫌だ」とか「怖い怖い」とか、あるいは「可哀相」だと思っても、義の心によって、その感情を押し殺さなければ、義理は果たせません。
義侠心というのは、自分の感情を抑制し、欲望を抑制し、義理を第一に考えることです。義に侠、任侠道の侠が入っているわけです。
人間には、人心、欲心というのがあります。あれもしたい、これもしたいという欲はいろいろあっても、義の心を持つことによって、その欲を抑えていくことができます。
情によって右に左に揺れる気持ちや、怖いとか嫌だという感情を抑えていくのも、「自分はこう生きたい」という義の心があるからです。正義のため、あるいは大義名分のために生きたいと思うからです。
「神命の義」というのは、その義が神様の命によるものだということです。神様の命というのは、神様の御心です。
植松先生は、「人にも願いがあるように神にも願いがあるのです」とおっしゃっています。人間が神様に「あれしてほしい、これが欲しい」という願いがあるように、神様も人間に「こうしてほしいのになあ、ああなってほしいのになあ」という願いがあるのです。
その神様の御心に沿うための義が、「神命の義」です。自分の欲や感情を抑えて、神様の御心に沿うために義を貫くこと、それが「ご奉仕」なのです。
自分を幸せにし、周りの人たちも幸せにすること
では、神様は私たちに何を望んでいらっしゃるのでしょう。
私は、神様が何でもお願いしたら聞いてくれるので、神様に、「それじゃあ、神様は私にどうしてほしいんですか」と聞いたことがあります。
すると、「寸暇を惜しんで学んでほしい。世のため人のために生きてほしい。どんなに仕事が忙しくても神を第一として生きてほしい」とおっしゃいました。
どれも、私自身の魂の向上のために必要なことです。私は生まれるときに、それらのことを自分で神様と約束してきたのでしょう。
私たちも、神様にいろいろこうしてほしいという願いを持っています。
それは義の心から来る願いのこともあり、また、欲から来る願いのときもあります。ほとんどの場合は、魂も魄もゴチャマゼだろうと思います。
しかし、神様が、私たちにこう生きてほしい、こうあってほしいという願いは、大愛に貫かれています。神様は、まずその人間に幸せであってほしいと願っています。
そして、より次元の高い幸せを求めていってほしいと思っています。できれば、その人間だけではなく、その周りの人たち、近くの人、地域の人も幸せであってほしい。
まず自分自身が幸せであって、その上で、周囲の人も幸せにしてあげるような人になってほしいというのが神様の御心なのです。
その御心の命による義、神様のおぼしめしの義ということが分かったときに、奉仕ということが自然に出来るようになります。欲心や情がなくなるわけではありません。
やりたいことがいっぱいあっても、それより、神様が自分にどうあってほしいと思っているか、ということを考えるようになるのです。神の御心に沿うためには、少しでもみんなが喜んでくれて、自分も向上するような生き方が望ましいわけです。
そのように生きるために、義の心を奮い起こして、欲とか感情を乗り越えて仕え奉る。自らはへりくだって、神様のために、皆さんのためにと思ってご奉仕をするわけです。
ボランティアなどの社会へのご奉仕も同じことです。「社会のため」というと漠然としていますが、社会というのは要は人々の塊です。人々のためにご奉仕する、という気持ちが固まってくると功を成すことができます。
社会というのは人々の塊ですが、今生きている人間だけのものではありません。社会は子孫まで続いていくものです。
ですから、病院をつくるとか、政治機構を改革するとか、いい会社をつくるとか、発明品を残すとか、研究を残すとか、何か後世の人たちにも役に立つような何かを残すことが、大きく社会にご奉仕することなのです。
これを神様の側から見ると「功が立った」ということになり、無形の宝となるのです。
自分の欲、感情を乗り越えて、社会のために仕え奉り、何かを残していく。自分に何か長所があるならば、その長所を磨いて人々に奉え仕る。神の御心に合うように、義によって社会に仕え奉るのが「ご奉仕」です。
ご奉仕の心は神様、守護霊様の心
神様の御心に合うように生きることが、すなわちご奉仕です。この宇宙をお創りになった
の大神様の大御心は大愛です。愛そのものです。世の人を思い、社会を思い、時代を思い、天地自然を生かす愛です。
実は、菩薩も如来も守護霊も神社の神様もみんな、
の神様の大御心に仕え奉っているのです。エンゼルもそうです。正神界の龍神さんも天狗さんも同じです。
たとえば、神社の神様は、別にお布施やお賽銭が欲しくて、人々の願いを叶えてくれているわけではありません。
「きょうのこの札束、うまいな~、ちょっと塩味がきいてて、夏だから暑くて手あかがついて塩辛いけども、一万円札はおいしいな」と言ってお金を食べているとしたら、それは化け物です。
眷族の龍とか蛇は、卵や神酒が好きですが、主宰神というのは、何よりも私たちの気を受けることをお喜びになります。「神様、ありがとうございます」と、感謝の気持ちを私たちが持つことを嬉しく思われるのです。
神社の神様は、
の大神様の大愛の大御心に仕え奉って、人々のために一生懸命働いておられます。
ですから、私たちが少しでも感謝すれば大いに喜ばれます。しかし、仮に感謝しなかったら、全く動いてくださらないかというと、それでも人々のために動いてくださるのです。伊勢の神様も、住吉の神様も、諏訪の神様も、神社の神様は全部そうです。
菩薩も如来も、守護霊も守護霊団もエンゼルも、高級神霊というのは皆そうなんです。決して、「俺がやってやったんだ」とは言わないし、願いを叶えてやったかわりに、ああしろ、こうしろなんて反対給付を求めません。
なぜ求めないかというと、義の心によっ
の神様の大愛という神命、大御心に仕え奉っているからです。人が報いてくれなくても、神様が報いてくださるのです。愛を与えてくださるのです。
「ご苦労だったな、天狗よ」
「よくやったぞ、金龍神」
「頑張ったな、住吉大神よ」と。
それが、何よりのご奉仕の喜びなのです。
もちろん、御神霊だけではなく、私たちが誠心誠意、義の心を持ってご奉仕をすれば、神様は愛で報いてくださいます。神様からいただく愛によって私たちは、喜び、歓喜を感じます。魂の奥から、「嬉しい」、「幸せだ」という気持ちになるのです。
これは、
の大神様の大宇宙の根源から来る愛の波動を受けるからです。すると、心と魂が満たされて本当に幸せな気持ちになるのです。
そして、自分のしたことが多くの人の役に立ったという歓びも加わります。だから、人にご奉仕したり、ボランティアをしたりして、社会に奉仕をすると、何か嬉しいのです。それは、自分の良心が喜んでいるからなのです。その喜びは、御神霊の感じる喜びと同じものです。
社会に貢献して功を立てると、魂のランクが上がっていきます。すると、霊界では、勲章がついたり冠をもらったりします。御神霊は、その誉れをいただくのが嬉しいのです。
たくさんの人を救えば、それだけ
の神様は愛をくださいます。神様も仏様もその喜びを受けて、今日も私たちを守ってくださっているのです。
の大神に仕え奉っている正神界の御神霊はすべて同じ気持ちです。
私たちのご先祖さんでも、奉仕の精神を持って生きた人は、高級な守護霊様となって、霊界で菩薩の位、如来の位、神の位をもらっています。
そういう精神ができていなければ、死んでも絶対に高級霊にはなれないし、生きている間も高級な霊格を持てません。守護霊も、エンゼルも、菩薩も、神社の神も、天狗も、龍も、みな仕え奉る奉仕の精神で生きているわけですから、同じ心、同じき志、同じ精神で生きている人を強く守ってくださいます。
ご先祖様も、高級霊はみんな一緒「おまえの志を助けてやるぞ」
「一緒にやろうな、
の大神様の神命の義によってともに仕え奉ろう」とご守護してくださるのです。
そういう人でなければ、高級霊は絶対に守護しないし、神人合一もできません。これがご奉仕の意味です。そういう次元の高い咀嚼力、人生観を持って生きて、ご奉仕を実践していかなければ、本当の宗教的人格というものを持つことはできないのです。

①煩悩… を乱し、悩ませ、正しい判断をさまたげる心の働き。本来は悟りに至るまでの修業を妨害する一切の心の作用をさす。煩悩は自己中心の考え、それに基づく物事への執着から生ずる。大乗仏教の基本的な思想は煩悩を断ずることである。しかし、人間は所詮煩悩から逃れられないと観念し、煩悩を人間のあるがままの姿として捉え、そこに悟りを見出そうとする考え方もある
。
