熊野 ~日本霊界風土記~(Vol.4)

第三章 甦りの神・熊野

温泉の守護神・熊野 ~講演会より 平成9年3月30日~

温泉の守護神とは何の神様かと言うと、熊野の神様。だから、熊野権現のことを別名、熊野権現と言う。熊野と書いて「ゆや」と読むわけです。

能にも「熊野」というのがありますが、あれは人の名前でありまして、まあ熊野権現から来た名前なのでしょう。

なぜ、熊野の神様のことを熊野権現、あるいは熊野山上権現と言うのでしょうか。熊野本宮大社で聞いたことですけども、それは、結局、熊野の神は甦りの神様。

命の甦り、運気の甦り、生命力の甦り、人間としての甦り、いろいろな意味における甦りの神様なのです。死せるものを甦らせる、枯れたものを甦らせる。

それだけの素晴らしいお力をお持ちの神様なのですが、温泉というものは、いわば体力の甦りです。

サルやシカなども、温泉に入れば傷が回復することを知っているらしく、傷ついたクマやサルが温泉で傷を癒やしたりします。人間も、温泉につかると本当に病気やケガから回復します。

だから、体の甦り、健康の甦り、生命力の甦りなのですが、そういう肉体的、物理的な甦りの作用のある温泉に、霊的な甦り、無形の甦り、魂の甦りの神様である熊野が甦りの神様という形でお祭りされているわけです。

九州の指宿温泉でも、温泉による肉体的な甦りと霊的な甦りがあるということで、熊野の神がお祀りされています。

それで、昔から熊野権現、熊野の神様と言って、熊野には湯の峰温泉というのがあります。

山の谷間の中にある温泉で、そこで、死んだはずの小栗判官が熊野の神のお力によって甦ったという、伝説が残っております。日本最古の温泉と言われる所以でもあります。

温泉を発見する神様は少名彦と大己貴の神様であって、少名彦の神が発見したと言われる温泉、大己貴が発見したと言われる温泉が全国にたくさんあります。実は、それを守っている温泉の守護神は、実は熊野の神様なのです。

熊野権現様。肉体と霊的な面との両面の甦りをそこで果たそうという、そういう働きのある神様であり、温泉の守護神様と言うことができるでしょう。

「開寅祭」で現れる神とは ~箱根神社での講話より 平成16年9月25日~

※「開寅祭」…熊野本宮には、毎年元旦の寅の刻の二時間(午前二時~四時)だけ、御本殿の御扉を開いて斎行される開寅祭が鎌倉時代から伝わっています。開寅祭とは、この時間に参拝すると、その一年の内に必ず願い事が聞き届けられる、というものです。

以前、なぜ素盞鳴尊が熊野にいらっしゃるんでしょうかと、熊野本宮大社の九鬼宮司に尋ねたことがあります。

すると、九鬼宮司がおっしゃるには、「熊野には言い伝えがあって、お正月の寅の刻、夜の二時から四時までの二時間だけ、御扉を開いて、それを「開寅祭」と言います。そうすると、艮の金神様が、グワーッと霊威を発揮して、天の素盞鳴尊様をお迎えするんです。

これは昔からの言い伝えで、開寅祭の神事を最も大事にしてるんです」ということでした。これはどういう意味なのか、ちょっと解説いたしますと、陰陽五行に木火土金というのがありますね。

あれを四季にあてはめると、「春は木の気で、生まれる」。「夏は火の気で、長ずる」。「秋は金の気で、収穫、収める」。「冬は水の気で、蔵する」。冬は先天の気を蔵して、水気が動くから雪が降り、氷が張るわけです。

では、「土の気」はどこにあるかと言うと、春夏秋冬それぞれの変わり目どき。

それを節気とも言いますが、年四回ありまして、季節の変わり目どきには「土の「気」が動くわけです。

土用の丑の日というのが、夏の暑い盛りにありますね。しかし、あの土用の丑の日は、実は秋の始まりなのです。そのように、つなぎどころが全部、「土の気」なので、それで木火土金水になっている。

それから、一日で言うと丑の刻と寅の刻が「土の気」です。だから、大地の金神、艮の金神が出てくるのは丑の刻と寅の刻だけでなく、一年を通して見ても四回ある。

熊野は大地のエネルギー、すなわち土の気が凝結したところであり、熊野という土地そのものがご神体であります。その熊野の地で、土の気に満ちた寅の刻に天から素盞鳴尊をお迎えするのが、「開寅祭」であるわけです。

素盞鳴尊は金星の主宰神です。その素盞鳴尊が開寅の寅の時に金星から降りてきて、大地の金神と合体してエネルギーを増幅し合い、天照大御神様のご意向と輝き地にならしていく。

地球の大地の金神と、金星の素盞嗚尊が合体して、芸術、文化、宗教の神としての働きをされる。金星の働きです。

そういうことで、「開寅祭」というのは、大地の金神と天から来る素盞鳴尊が一つになるんだという話を九鬼宮司からお聞きして、「ほおー」と思ったわけです。

九鬼の九は陽の極まり。「ひとふたみよ」の天の数歌では、九を「ここの」と言います。その「ここ」は、凝結。「の」はおさまる。普通に言う場合の「九つ」も同じで、「ここの」は凝結しておさまっていく。「つ」は大津の津で、水気がまた凝結する。

つまり、九は凝結して広がっていくってことだから、陽の極まりです。ところで、九鬼の鬼という字は上にチョンがありません。

これは中国の文献にときどき出てきますけれど、植物の芽が出て、花が咲いて、実が実るというところまでは神の働きで、実が実ってから枯れ始め、それが肥やしになっていくんだけれど、実の中から種が出て、また新しい命を生み出していくまでが鬼の働き。

この神の働きと鬼の働き、二つ合わせて鬼神の働きと言うわけですが、そのときの鬼という字は上のツメのない鬼の字を使う。九鬼の鬼にはツメがないわけですから、要するに、ものが生い茂ったなかから枯れていく働きなんですね。

そういうことで、金神様というのはものを枯らす。鬼門みたいな怖い存在です。ものをボロボロにし、枯らしていく働き。ダメにするのではなく、新しいものを生み出すために枯らしていく。だから、立て替え立て直しです。

いったん壊して、そこから新しいものを生み出すためにそうするわけです。

ダメにするためでは決してなく、新しいものを生み出すために壊していくという、生成化育、進歩発展の働き。神様の働きの陰と陽の部分ですね。

だから、九鬼の九も陽の極まりで、ものを枯らしていく。九鬼という苗字そのものも、艮の金神の働きと、たたり神と恐れられた金神の働きと、二つの意味を持っている、と九鬼宮司がおっしゃっておりました。

その国常立大神が出口ナオに顕われて、出口ナオは九鬼のお社をいただいたのですが、熊野の神、艮の金神は結局、元神様で埋没神だった。

本当のお役目なるがゆえ、お父さんの役割で厳しくするけれども、大きな慈悲によって枯らす働きがあったのです。

金星の素盞鳴尊と熊野の神様 ~箱根神社での講話より 平成18年1月8日~

地に生きる魑魅魍魎、悪鬼羅刹、そういった悪も善も包含して人間ドラマを見ていくところに、最高の次元の神様があり、『古事記』に書かれている国常立大神、素盞嗚大神の要素と、天上界の御魂である菊理姫様の要素の両方を持って初めて、神様の真にかない、愛にかなって、現実界の誉れ、栄光、冠を授かるわけです。

菊理姫の純粋なる心だけではダメでありまして、国常立大神様、素盞鳴尊様の要素も必要なのです。

国常立というのは、地球をつくった神であり、エネルギーの凝結力そのものなのですけれども、それをバランスよく成らしていく。地球を地球たらしめるバランス、まあ、和魂ですね。それが素盞嗚尊。

地球はそのままで本当に美しい。

その美しさをたたえるために芸術があり、そのような成り立ちを勉強するのが学問であり、それを生み出す神の御心を知るのが宗教なわけです。

宗教、学問、芸術。これを司るのが素盞鳴尊です。金星の御魂でもありまして、地の艮の金神の息吹を受けて、地球をバランスよくつくり固める。

芸術、宗教、学問は、実は金星の働きです。金星、またの名を太白星。その金星の主宰神です、素盞鳴尊は。それが大地のエネルギーと合流するのが、熊野本宮の「開寅祭」。

お正月に、寅の日の寅の時刻に寅の方角に向かって、御扉を開けるわけです。すると、その艮の大地のエネルギー、すなわち艮の金神と素盞鳴尊が合体する。

素盞嗚尊、その開寅の方角から降りてくる。天上界から金星の神様が降りてくるわけです。

艮の金神、国常立大神は、大地のつくり固めなすエネルギーです。これが寅の日の寅の刻の開寅の神事において合体するわけです。

これが熊野の神様です。艮の金神、国常立大神だけど、金星の働きによって内面の文化性というものを持っている。

その意味で、人間理解というものの道を実体験を積みながら勉強していかないと、やはり、地上の冠というのは授からないのです。しかし、心配することはありません。

そのことがわかって、学んでいかなければならないことを理解すれば、普通の人が十年かかるところ、十努力するところを二~三年で達成できますし、三分の一、五分の一の葛藤と苦しみで冠が授かります。

これが本当の正神界の神のご守護なのです。いま申し上げたのは原則ですけれども、他力、神様の御働きがあるから、期間も苦しみも圧縮してくださるわけです。

★神武天皇を導いた八咫烏

東方に天下を治める都を造るべく大和に向かった神倭伊波礼毘古命(のちの神武天皇)は、最初、難波から淀川を遡上して大和に向かおうとしたものの、大和の豪族長髄彦の迎撃に遇い、うまくいきません。

その理由を天皇は、太陽神の天照大御神の子孫であるにもかかわらず、太陽に向かって戦ったためと考え、紀伊半島を迂回して熊野から大和に入ることを目指しました。

さて、一行が熊野の村に着いたとき、大きな熊が草の中から姿を現したかと思ったら、すぐに姿を消した。すると、天皇は急に気を失って、また、軍隊もみな気を失って倒れてしまった。毒気に当たったのです。

このとき、熊野の高倉下が一振りの太刀を持ってくると、神倭伊波礼毘古命は、たちまち目を覚ました。

そこで、神倭伊波礼毘古命がその太刀を得た仔細を問うたところ、高倉下が答えて言うには、「私の夢に、天照大御神と高木大神の二柱の神が武甕槌神を召して、『わが御子たちは困っているらしい。汝が降りて平定せよ」との命令を下された。

すると、武甕槌神は、『私が降らずとも、葦原の中津国を平定した太刀があるので、この太刀を渡しましょう』とお答え申し上げ、私に向かって、「高倉下の倉の屋根に穴を開けて、そこから太刀を落とそう。

そこで、朝、目が覚めたら、お前はこの太刀を持って、天津国の御子に献上しろ』とおっしゃった。そこで、夢の教えのままに朝早く自分の倉を見たところ、本当に太刀があった。

よって、この太刀を持っ献上したのです」ということでした。このときまた、高木大神は、「天津神の御子よ、ここより奥には入りなさるな。荒ぶる神がたいそう多くいる。いま、天より八咫烏を遣わす。その八咫烏がお前を案内するあとからお行きなさい」とおっしゃった。

そこで、一行は言われるままに八咫烏のあとをついて行ったところ、吉野川の上流にお着きになった、と言われております。

この八咫烏は、熊野三山(熊野本宮大社・那智大社・速玉大社)の守り神です。八咫烏の咫とは、中国から伝わった長さの単位。親指と人指し指を広げ、先端同士を結んだ長さで、およそ一ハセンチ。

したがって、八咫は一四四センチの計算になりますが、八咫烏の場合は単に「大きい鳥」というふうに受け止められています。

参考資料:「古事記」、熊野本宮大社パンフレットなどより

第四章 熊野の神の願いとは ~熊野本宮大社の団体参拝より 平成7年7月23日~

「日本の国を世界一素晴らしい国にしてください」と祈る

今日は、一千二百四十七名の方が参加しておられますけれども、明日はまた、平日にしか来られない人のために、もう一度、参拝だけ行います。

皆さんのご祈願とお祈りが終わったあと私が話をいたしますと、皆さんの極まった気を受けて、深い内容の話ができる。平日バージョンの人はその話のビデオを聞いてから参拝しますので、参拝に関しましては、平日バージョンのほうがいつも引き締まっております。

ですから、私の話を聞いて参拝したほうが引き締まるわけですが、参拝前では普通の話しかできません。

やはり、皆さんの誠、その極まり度合いが百パーセントでなくても、それなりに極まってぶつけた結果、神様がお働きになるものを私が受けるから、実りの濃い、内容のある話ができるのであります。

参拝の引き締まり、ご神霊への投げかけから考えたら、私が先に話をしてから参拝したほうがいいんですけれど、今回は、先に皆さんが参拝して、それを受けて話をするというパターンを取っております。

平日バージョンはそれを受けて引き締まります。この二重構造で、ダブルで神様に向かっておりますので、明日、もう一度いらっしゃってもよろしいわけです。連続で参拝される方もいらっしゃいます。

私は昨日、石垣島を出発しまして、夜の十二時半にここに到着しました。それで、二時間ほど話をしてから床に就いたのですが、四時には起きて熊野灘に出ました。

熊野灘の日の出をバーンと受けて、熊野の神様と話をし、それからずっと祈り続けて、この参拝を迎えたわけです。そして、皆さんの祈りがあって、いま、神様にお伺いしたのですが、熊野の神様が何をおっしゃったか。

「皆々の誠は受け取ったけれども、志が小さいことよのう。なぜ、日本の国を世界一素晴らしい国にしてくだされと祈らんのじゃろうか」と、おっしゃっています。

「そう祈れば、してくださるんですか」と言ったら、「する」と。

「それなら、何も言わなくても勝手にしてくださればどうですか」(笑)

と言ったのですが、貞永式目に「神は人の敬によりて威を増し、人は神の徳によりて運を添う」という言葉があります。

つまり、人の敬がまず極まって、そして、神様のご神徳が弥増しに増していく。

弥増しに増したご神徳を受けて、人は運を添えていただけるんだ、と。

これが原則ですから、まず私たちが祈らなければいけません。その祈り、志が小さいと熊野の神様はおっしゃっているわけです。

「皆々の誠は受け取っておれど、志の小さいことよのう。なぜ、日本の国を世界一素晴らしい国にしてくだされと祈らんのじゃろうか」

明日来る方は、この話を聞いてから参拝するので、きっとそれをお祈りされるでしょう。

「しまった。言ってくれれば、そう祈ったのに」と思うかもしれません。しかし、こうやって添削が入るからいいのではありませんか。最初から聞いてそう祈るよりも、こうやって後で添削を受けたほうが、よりいいレッスン、勉強になります。だから、いいんですよ。

参拝というのは、まず、そこの神域に触れること。次に、神域にいらっしゃるご神霊に触れること。

それから、ご神霊の前で祝詞を奏上し、お参りすること。

ですから、建物を崇敬しているわけではない。ご神霊だけを崇敬しているわけでもない。この神域そのものが、神坐すところなのです。だから、参拝が終わったあとでも、この神域にずっと神様がいらっしゃる。

私の話が終わったら、もう一回、二礼二拍手をいたしますけれど、そのときにもう一回、祈り直していいわけでね。

添削が入るというのはとても便利です。私たちの場合は、神様の添削がありますから、勉強になります。

「不浄な身なりといえども、われ、これを守らん」

まず、熊野信仰をしていらっしゃる方には一つの特色があります。

それは、熊野の神様のご性格から来ているんですけれども、何かというと、お蔭信仰です。というのも、熊野の神様は、お参りに来たら、何でも必ず願いを聞いてくださるからです。

「不浄の身なりといえども、われ、これを守らん」

不浄の身でも守ってくださるんですよ。

もうやりたい放題やって、どんな不浄の身であっても、「どうぞ、熊野の神様、この苦しみを救ってください。悩みを救ってください」と、お願いしたら、「ああ、大変だろう。聞いてやろう」

鼻をつまみながらでも、「臭いやつだなあ、こいつは」と思いながら、

「でも、困っているだろう、大変だろう。現世に生きていくということは、それは大変なものだなあ」

ということで、弱い者の味方、汚い者の味方になってくださる。不浄の身なりといえども守ってくださる。

この大きさ、おおらかさ。それは、熊野の大神様、素盞嗚尊様が海原をしろしめす神様で、本当にお優しい神様だからです。

悔しい思いをしている者、葛藤している者の側に立っていつも考えてくださるから、どんな人でも救ってくださる。このおおらかな大愛、大いなる御心をお持ちになっているがゆえに、私も本当に熊野の神様が大好きなのです。

熊野の神様は、そのままの自分をぶつけていっても、大きく包んでくださる。

これだけの包容力のある素晴らしい神様はいらっしゃらない。願いがあれば、もうどんなことでも聞いてくださる。必ず聞いてくださる。一度も聞いてくれなかったことはないし、一度も叶わなかったことはありません。これだけは断言できます。

だからこそ、「蟻の熊野詣」といって、天皇様も、公卿も源氏も平家も、はるばると、この熊野の山中へ来て、願い事をしたわけですよ。そうでなければ、蟻の熊野詣なんて、あり得るはずがない(笑)。

この素晴らしい、偉大なる熊野の神様のご性格があるがゆえに、熱心に熊野崇敬をしている方がいる。その人たちは、この熊野の大神様の大御心と、大愛と、どんなことでも叶えてくれる偉大なるご神力に甘えてしまって、いわばあぐらをかいて、お蔭信仰になっているのです。

それは、この神様があまりにも偉大で、あまりにもおおらかで、あまりにも素晴らしいからで、困ったときには熊野の神様にお願いしよう、お礼にも行こう、という気分になるんですね。

「熊野の神様をずっと熱心に崇敬しておりまして、何かあったらいつも熊野へ行くんですよ。熊野の神様って本当に素晴らしい」と言う方がいたら、ああ、お蔭信仰の傾向があるんだな、と。

もちろん、百パーセントではありません。その傾向がある、ということなのであって、全部が全部お蔭信仰とは言えません。

それでも、「不浄の身なりといえども、われ、これを守らん」という、熊野の大神様の大御心と大神力の上にあぐらをかいているわけであって、これは熊野の神様のせいではありません。

熊野の神様を崇敬するわれわれの、やはり質によるわけですよ。

熊野の神様は何を願っておられるか。人々の幸せです。

救い主の熊野の神、素盞嗚尊は、現実界に生きている人間の気持ちをよくご存じなので、苦しみや葛藤からも救い出し、人を幸せに導いてくださいますが、熊野の大神様の本音は何か。

「いつまでもお蔭信仰ではなあ。苦しいところは助けてやるけれども、一歩でも二歩でも、人間として向上してくれなくてはなあ。自分だけのことを考えずに、ちょっとは人のために、ひいては国のために考えてくれんかなあ」

これが熊野の神様の本音です。

天皇という、ひとつの個別の皇室信仰になってくれとは言わないけれど、民族の長として天皇という存在を考えてもらいたい、と。

会社の社運で言えば、社長の運ですから、われわれ日本民族固有の存在である天皇陛下のために祈ることも忘れてはいけませんよね。

皇室の奥の院に当たるのは伊勢の神様。伊勢の神様が民族の中心です。

それに対して熊野の神は庶民の神で、庶民が伊勢になかなか参拝できなかったとき、それを全部、私が受け入れましょうということで、庶民が伊勢の中に入れてもらえなかったときにも、熊野の神様が引き受けてくださった。

どんな身分の者でも、全部、引き受けられたんですね。

そういう意味で、自分だけのことを考えずに、少しは人のために、少しは社会のために、国のために、皇室を中心とした日本の国運のことを考えていかなければいけません。

自分だけの願い、目前の願いというのは、煎じ詰めれば、欲望と煩悩ですよ。もちろん、生きるか死ぬかの、もう神様におすがりするしかない、というケースもありますけれど、「一歩でも二歩でも向上してくれればなあ」というのが熊野の神様の本音です。

私たちは何のために生まれてきたかと言うと、現実界で生きていくために生きているわけではない。魂を修養せんがために、魂を向上せんがために生まれてきたのです。

「大宇宙をおつくりになった、親神の神の御心に適うような、天地自然の道に適ったような、道義の道に適ったような優れた人間に、また、でき得れば、神様のお役に立つような素晴らしい人間になってくれんかなあ」と。

これが熊野の神様の本音なんですね。

どの神様もすべて同じです、それは。熊野の神様だけではない。やはり、一歩でも二歩でも向上し、少しでも器を大きくする、精進・努力してやってくる人を、一層、熊野の神様は守ってくださるし、愛されるわけです。

熱心な熊野の崇敬者は、熊野の神様のご利益が偉大だから、ご利益にすがっているんです。

しかし、ご利益は与えてくださったけれども、それだけでいいのかな、と。この熊野の大神様の本音をよく理解して、やはり一歩でも二歩でも魂を向上させ、人間を立派にする、精進・努力を積み重ねていかなければいけない。

これが、神恩に報いるということなのです。

お蔭があるからというので、はるばる遠くから熊野へ来て、玉串を捧げて、それで、願望と欲望をかなえてくださった……。

それはそれで聞いてくださるし、全然、文句もおっしゃらないんだけれども、しかし、それが本音ではない。

「精進努力して少しなりとも魂を向上させ、少しなりとも人間を大きくし、立派にし、神様の役にも立ち、国のために役に立ち、人のためにも役に立つ、そういう人になってくれんかなあ」というのが熊野の神様の本音です。

では、熊野の神様の本音に一歩二歩、近づいていくのにはどうしたらいいか。

これが次にお話しする志なんですよ。人間の器を大きくし、向上するには、まず志を立てるしかありません。

前向きで明るい志を立てよ

私もよく熊野へも来ますけれども、志を持って来たときには必ず快晴で、熊野の神様が一番、バーンと受けてくださいます。

いま現在、何か困っていること、悩んでいることがあって、「何とかこの困窮から逃れますように」なんていうようなときに来たら、雨が降っていたりする。ほら、降り始めてきた。晴れていながら雨が降るというのはどういうことなんでしょうね。

とにかく、何か志を持って来たときの熊野の神様の反応は、普段の十倍、百倍。困ったとき、苦しいとき、「何とかなりませんか」とお願いに来たときには、ベチャベチャベチャベチャ雨が降る。

しかし、困ったとき、苦しいとき、困窮したときに、それを乗り越えて、「こうするぞ!!」と奮い立って熊野の神様に祈る、あるいは苦しいとき、困ったとき、問題が多いときに、これを乗り越えて、「自分はこうしたいんだー!」という、前向きで明るい志に置きかえて、「熊野の神様!」と祈ると、バーンと応えてくださいます。

基本的に男神ですから、男らしいのが好きなんです。そうでなくても愛してはくれますよ、「うーん、大変だろうなあ」と。

しかし、「そんな根性でいいと思ってんのか、お前は」というのが本音なんですね。聞いてくれるけれども、「その根性じゃなあ」と。

だから、熊野の神様の本音に近づけば近づくほど、打てば響くような、バーンとくるようなご神力、驚くような奇跡を与えてくださって、天気も驚くような快晴に恵まれるわけです。

この話を聞いて参拝したら、明日は雲一つないのではないでしょうか。セミの声もまた、いつにも増して、ビンビン響くのではないか。セミも神懸かってますからね。

志を持って熊野の神様に来たときには、必ず手応えがあります。バーンと反応があります。これは、何回も実験しているというのは失礼ですけれど、自分の体験からいって間違いありません。

ですから、こういうふうにやりたい、これを何とか達成したいという、前向きで明るい志や目標を持って祈ることが大事なのであります。

その際、その志や目標が神様のために役に立つとか、国のために役に立つのであれば言うことありませんが、そうでなくても、志を持っているだけで器が大きくなる。

あるいは、いま現在の自分と比べて、人間的なレベルが高くなるわけです。

だから、熊野の神様が喜ばれる。

しかも、神のために役に立ち、国のために役に立ち、地域住民のために役に立ち、人々のために役に立つ志だったら、これは器が大きく高く、広く、澄み切ってくる。そうなったら、熊野の神様は踊りながらやってこられます。

「おお、来たか、来たか、来たか」と言って、一番喜ばれるのはこれです。

そういう志を持ってここへ来るということが、一番、熊野の神様の喜びとされるところであるし、また、熊野信仰の陥りやすい部分、熊野の神様の本音ではない部分、熊野の神様のご性格から来る傾向を乗り越えていくと同時に、本当のご神力を奮い立たせていく正しいやり方です。

「皆々の願いはわかるけれども、うーん、志が小さいなあ。なぜ日本の国を世界一素晴らしい国にしてくだされと祈らんのかなあ」

すごい志でしょう。あなたたちの願いは何ですか、と言われたら、たしかにまあ、国を守りたまえなんですけれども、ほかの神様にもお願いしていますから、熊野の神様にも同じ願いでは、ちょっとね。

「住吉も頑張っとるし、氣比(氣比神宮、福井県)も頑張っとる。宗像さんも頑張っとるし、岩木山(岩木山神社、青森県)も頑張っとるし、また伊勢にも行くんだろう」と(笑)。もうご存じですよ。

「石垣島にも行ってきたんだろう。産土にも祈っているんだろう。宇佐八幡(宇佐神宮、大分県)にも行くんだろう」

そこで私が「海原をしろしめす神様でしょう。素盞嗚神様、剣を持っているでしょう。どうぞ、国を守りたまえ」と言ったら、もちろん、応援してくださいます。国のために働いてくださるでしょうし、援軍もよこしてくださるでしょう。

しかし、それだけでは…やはり、熊野の神様のお立場も考えて、お願いしなければいけませんね。

艱難辛苦を通して人間が磨かれていくように、国も磨かれていくわけです。国が磨かれていって、次に何があるのかというと、この日本の国が世界一の素晴らしい国になる。◎の大神様や伊勢の神様、あるいは熊野の神様は、実はそれをしようとなさっているのです。

日本の国を政治的にも経済的にも、いろいろな面で神鍛えして、戦後五十年のあく出しをする。

今年は、日本の国運が落ちているときなるがゆえに、国防上の問題点が次々起きてくる。こういうときにグーンと乗り越えて、私たちも立派にしていただくわけです。

私たちも神様のお取り次ぎをし、神の道に生きる人間として、立派に育ててもらっていますが、日本の国も、こういう問題点を乗り越えて、実は成長し、より大きくなっていくのです。

「世界一の国になるんだ!」と、日本の国が叫んでいるんですよ。

そういう声を聞いて熊野の神は、「それならば私にお任せください」ということで、地割れも縦割れも横割れも、何でも起こす。

以前、この熊野で団体参拝したときに、グワーンと大地が揺れました。和歌山県が震源地の、震度三の地震がありました。私が玉串奉奠をするちょっと前です。

その前に、ここの九鬼宮司が、「熊野の神様は、ドンドンドンと大地を踏み鳴らしながらお出ましになるんだ」という話をされていたのです。

「本当ですか」「いや、本当なんですよ」

脇にいらっしゃった権宮司さんも、「本当なんですよ」

にわかには信じがたいような話だと思っていたのですが、ところが、お祭りが始まったら本当に奥のほうで、ガタガタガタッと音がするんです。

「あれ、工事しているのかな」と。たしかに工事中で、ブルドーザーを使っていたらしいんです。と

ころが、その工事は森の中の工事で、ブルドーザーが数秒間隔でどんどん近づいてくるのはおかしいでしょう。

なぜ、森の中からこっちに近づいてくるのかな、ずいぶん速いブルドーザーだなと思っていたら、だんだん音が大きくなって、ダダ、ガーガーガーガガガー。

そして、音が近づいてきたあとに、ドーン、ドーン、ドーン、ドーンと来て、ご神殿がユッサユッサユッサと揺れたんです。地面も揺れているし、ご神殿がミッシミッシミッシと音を立てて揺れてますから、それは驚きます。

本当に、熊野の神様が大地を踏み鳴らしながら現れた、すごいなあ、と思ったら、権宮司さんと目と目が合って、互いに目の奥で、

「ね、やっぱり来たでしょう」

「ほんとに来ましたねえ」という会話を交わして、何事もなかったかのごとく玉串奉奠をしたんですけれどもね……。

誰にでも聞こえるような音がするんですから。工事も何もしてなかった。熊野の神様が、本当にドーン、ドーンと出てくる。すごいなあと思いますね。

「古事記」の中に、素盞嗚神様が足を踏み鳴らしながらやってきたという記述がありますけれど、これだったんだな、と。昔からこのわざで出現を知らしめす、すごいもんだなと思いました。

みんなが奮い立ったときには、熊野の神様がこういうふうにお出ましになるわけです。

本当に高い神の御心に適うように、お国のために役に立つように、人々の役に立つように、家族のため、社員のために役に立つようにという向上心を持っている人、入り口の部分ではお蔭信仰の要素を少しは持っていても、もっと本質的な次元の高い生き方、神の御心に適うような生き方をしている人が結集したら、そういうすごい奇跡が、ここではバーンと起きる。それが本質です。

ですから、熊野の神様にもう一回、ここでお祈りしましょうね。

「おおー」

「日本の国を世界一の国にしてください」と言って、また地震があるかもしれない。なかったらなかったで、しかたがないですけれどね。別に地震を催促しているわけではありませんけれど、熊野の神様にそういう気持ちでバーンと志を持っていけば、バーンと聞いてくださる。

艱難辛苦を乗り越えて、国難を乗り越えて、素盞嗚神様はこの日本の国を大人にさせようと導いていらっしゃる。

熊野の神様にはそういう志を持って、それだけの気概を持って、男らしい願いを持って、ガーンとぶつけなければいけない。

そういうふうな気持ちがなくても聞いてくださいますが、そういうふうに祈るのが一番、熊野の神様にとってうれしいことであり、熊野の神様の特性を生かしたものなんだ、ということです。

そういうことで、「みんなの気持ちはよくわかって受け取ったけれど、志が小さいな。なぜ、日本の国を世界一の国にしてくだされと祈らんのかのう」とおっしゃる熊野の神様の真意、本音を解説いたしました。

これが、今日のお話の第二のポイントです。

熊野灘で待望のタイを釣る

この熊野灘へ、今日は朝の四時からタイを釣りに行っていたんです。ですから、夜の十二時に着いて、その後、ずっと、熊野の神様とそういうお話をして、それから、釣りに出た。

釣っている間も、もちろん、熊野の神様とお話をしているんです。魚を釣っているように見えても、ずっとお話をしている。夜明けを見て、熊野の神様から受け取ったものを、皆さんにいま、お話ししているわけですけれど、そのときは一睡もしていないんです。

とにかく、ずっとタイが釣りたい釣りたいと思っていたんですよ。で、釣れたとき、「私は恵比寿様だ」と言いながら写真を撮ったんです。今日、朝の四時半か五時です。

もう、鹿島へ行っても、石垣島へ行っても、どこへ行っても、「タイ、タイ、タイ。タイが釣りたい」と。そういう私の志が、やっぱり熊野で達成されて、四十七ンチのマダイを釣ったわけです。

熊野の神の証。いまからお目にかけましょう。これが、朝の五時ぐらいに釣っタイです(拍手)。もうこれで私の志が、やっぱり熊野で志が達成されました。熊野の神様、いま笑っていましたけどね。「ホッホッホッ。お前も変わったやつじゃな」と。「それはよかったのう」ということでしょう。

そうやって熊野灘でグググーンときた感覚があって、本当に私だけが四十センチのタイを釣ったんですよ。

三月前から、タイが釣りたい、タイが釣りたい、タイが釣りたい、タイが釣りたい。テープレコーダーみたいに、タイが釣りたいタイが釣りたいと言っていた。結局、その私の志は熊野灘で果たされたけども、神様が喜んで「よし」と。

「お前は志のある人間、得がたいものを得ようとする人間だ」と。小さなことですよ。

植松先生に「これ、釣れました」と言って奉納して、「おいしいわね」とおっしゃっていただいた、ただそれだけの、バカと言えばバカなことです。

しかし、その喜びと感動というものは、熊野の神様は知っているし、喜んでくださっている。神様って、そういう志を持ってやっていくときに聞いてくれるのです。

とくに、熊野の神様は、平凡で終わりたくない、並みに終わりたくない、自分を甘やかさないで、より志の大きいものにジャンプしていこうという願いは、バーンと聞いてくださる。

どこへ行っても叶えられなかったことが、熊野灘で叶った。夜、いらっしゃったんです、熊野の神様。聞いてくださったんですよ。

熊野の神様は、個人的に思い描いていることも、ちゃんと聞いてくださっているんです。いかに素晴らしい神様かわかるでしょう。

そういう個人的な思い入れ、思い描く志を本当に聞いてくれる神様なのです。志を持ったら叶えてくださるんです。

持たなかったら、神様も叶えようがない、ということです。どんな小さなことでも叶えてくださいます。

ということで、二つのポイントさえ言えばよかったのですが、このタイはおまけです。

本当ならば、このタイを一ミリずつ切って、皆さんにおすそ分けしたいんだけれども、気持ちだけということで終わりたいと思います。

どうもありがとうございました。(拍手)