いまの仕事の延長線上にない勉強は捨てよう
それから、二番目に大きなこととして、捨てることの大切さを挙げておきたいと思います。
いざ勉強するとなると、あれも勉強したい、これも勉強したいというふうに、勉強しなければならないことがいっぱいあることに気づくのですが、では、何から勉強したらいいのか分からない場合が多いことも事実です。
その場合、私がいつも考えるのは、そんなにたくさんのことを一度に勉強できるわけがないから、これは勉強しなくていいというものについては、思いきって捨ててしまうことが大切だ、ということです。
その捨てる覚悟がないと、本当に身になる勉強ができません。勉強しなくていいという、捨てる覚悟があって初めて、本当の勉強ができるのではないかと思います。
私について言えば、科学の勉強はもう捨てています。いまさら科学を勉強したところで科学者みたいになれるわけがないからです。
もちろん、物理学にも興味はあります。しかし、物理学の勉強をしていってもしようがないと思うわけです。
というのは、私の行く道に、どれだけ物理学が生きるかどうか分かりませんし、いまやっている仕事の延長線上に関係ないことだからです。
もちろん、興味はあります。物理学とか、化学とか、数学とかというものの勉強も興味はなくはないんです。というよりむしろ、数学的な発想を持った論理とか議論とかというほうが私に合っていると思います。
しかし、物理を研究し、化学を勉強してもあまり意味がない。まあ、科学思想史ぐらいは思想の一環としてできるでしょうけれども、自分のやっている仕事の延長線上にある事柄ではありません。そういうものは、たとえやったとしても効率が悪いから、それはもう捨てるんだ、と。
宝島社から出ている、「空想科学読本」は面白いですね。ウルトラマンがあの格好でブワッと相手を蹴ったら、相手が倒れる前に自分の足が壊れているとか、足の太さが何センチ以上でなければあの技を使えないとか、ドラえもんのタケコプターを実際にやったら頭の皮だけ飛んでいくとか、面白い話がいっぱいあります。だから、ギャグの一環として読みます。しかし、実際の科学の勉強はもう捨てています。捨てたほうがいいと思うからです。
それから、生物学的な事柄も捨てています。興味はあります。カエルや猫、あるいはイリオモテヤマネコはどういうふうな生態なのか、とか、昭和天皇がなさっていたヒドロゾアの研究とか、あるいはナマズの研究とか、ハゼの研究なんかにも興味はあります。
まあ、昭和天皇がああいうような生物分類学を研究されたのは、論争がない分野だから天皇のお立場にふさわしいということで選ばれたらしいですけれど、私の場合、そういう研究をしたところで、いまやっていることとほとんど関係ありません。
むろん、生物学的な世界を見たり、動物の生態を見たりして仕事のヒントにすることはありますけれども、生物学の勉強はもう捨てています。
それから、法律の詳しい勉強も捨てています。ときとして、法律の知識も必要になりますけれど、法律論を一つひとつ学んでいくということはやっていません。
そもそも私は法学部出身ではありません。法学部出身でなくても、法律に関わることがありますが、最低限の法律知識があればそれでいいと思っています。
それより大事なのは、自分の専門とすべき分野の勉強です。これだけは誰にも負けないという分野を持っていないと、人間は誰でも苦しくなります。
ですから、専門分野の勉強はおろそかにできないわけですが、勉強時間は限られているわけですから、専門以外の分野の勉強は捨てなければなりません。
それだけの覚悟がないと、自分にしかできない勉強に徹底できません。
自分がいまやっている仕事の延長線上、あるいは自分がやりたい、好奇心と興味と意欲と情熱が湧く事柄の延長線上の勉強なら身につきます。
しかし、好奇心も興味も情熱もまったく湧かない事柄の延長線上の勉強は、なかなか熱中できないし、身につきません。
若いときは、興味が湧かなくてもある程度は勉強できるでしょうが、歳を取ってからでは無理です。だから、捨てたほうがいい。
ギリシャの哲学者の有名な言葉があります。「いまのわれわれに必要な学問は何か。余計な学問を捨てる学問だ」と。
耳学問の達人になれ
そして、今日の三番目のポイント。私の勉強方法の究極であり一厘です。それは何かといいますと、「スーパー耳学問」です。通常の耳学問ではなくて、「スーパー耳学問」。ちなみに、松下幸之助さんの学問もこれです。この「スーパー耳学問」が一番大切なんです。
松下幸之助さんが本当に大きなヒントを言ってくれています。幸之助さんは学歴がなく、病弱で、しかも貧乏だったんです。
三重苦です。その学歴がなく学問がない人間だったからこそ私はできるんだ、と。それは何かというと、知識というものに対して、学問というものに対して、分からないときには訊けばいいんだ、こんな簡単なことはない、と。
誰でも賢くなる。誰でも勉強できる、とにかく訊けばいいんだ、と。たとえば、知識のある人がいたら、
「はあー、すごいですね。これはなぜこうなるんですか、教えてください」と言ったら、
「いやあ、科学的にはこれこれこういう理由があるんです」
「なるほど、すごい知恵ですね。勉強になりました」と、耳で聞いて、ポイントだけ頭に入る。
法律問題もそうです。会社を経営していると、ときとして法律に関する知識が必要なこともありますが、そういうときには弁護士さんに素直に訊くことです。
「これ、どういうことなんですか」
「いやこれはね、法律上はこういうことなんですよ」
「なるほど、分かりました」と、スパッとポイントだけ頭に入ります。
それから、決算の事柄に関しても、分からないことがあったら、公認会計士さんや税理士さんに訊いたらいいんです。
決算なんかは自分の仕事の延長線上の事柄ですけれど、公認会計士や税理士になるほどの勉強をする必要はありません。
そこまで突っ込んだ勉強は不要です。化学や生物の勉強と同じで、必要以上に突っ込んだ勉強をすることはありません。
しかし、決算や法律に関する事柄となると、ときには突っ込んだものも少しは必要になります。
「訊くはいっときの恥、訊かざるは一生の恥」
では、どうしたらそういう知識を身につけることができるかというと、詳しい人に訊けばいいのです。頭を下げて、腰を低くして、「すみません、これ、どうしたらいいですかね」と訊く、尋ねる。
その場合には、相手を称えなければいけません。「いままで会った弁護士さんのなかで、あなたは最高の弁護士さんです」と、褒め称えたうえで訊くわけです。
そして、「教えてください」と頭を下げる。そうすると、たくさんの知識やたくさんの経験のなかから、エッセンスが聞けるわけです。
松下幸之助さんも、法律の事柄、化学の事柄、生物の事柄、経理の事柄、特許に関する事柄に関して分からないことがあったら、目上であろうと、同僚であろうと、目下であろうと、頭を下げて訊いた、と言われています。
そうやって、何でも頭を下げて訊く人間が一番いい勉強ができるのです。
中途半端に学歴のある人間、中途半端に賢い人間は、自分は知っている、自分には知識があるというプライドが邪魔して、なかなか訊けないんです。
こんなことを訊くとバカにされるんじゃないか、とか、こんなことを訊くと教養がないと思われるんじゃないか、とかいうふうに、訊くことを恥ずかしいと思っている。
経営者向けに出している「リーダーズ・アイ」という雑誌(平成八年当時)に寄稿された宮野澄先生という方がいます。
ブレーンネットワークという会社の代表者ですけれど、初めてお会いしたときに、私のことを大変気に入っていただいて、評価していただいて、いろいろ応援していただくことになった。その理由は何かというと、私が素直に訊いたからだと言うんです。
そのとき、宮野先生が、「企業のCIがいま、どうのこうの」という話をされたんです。ところが、CIの意味がピンと来ない。そこで私が、
「CIって何ですか」と訊いたところ、
「コーポレート・アイデンティティのことです」と。「ああ、コーポレート・アイデンティティ、それでCIか、なるほどな」と思ったのですが、宮野先生はこうおっしゃった。
「いやあ、あなたのようなお立場の方が初めて会った人に、「それはどういう意味ですか」と訊ねるというのは素晴らしいことです。感動しました。私もかねがね、横文字の省略言葉はなるべく使うのをやめようと思っていたんです」何のことかよく分からない英語の省略、羅列をよく見かけますが、その業界の人は分かっているでしょう。しかし、関係ない人にはまるで分からない省略言葉が氾濫しています。とくに音楽グループで、わけのわからないグループ名がいっぱいあります。
宮野先生は、そういうのをなるべく使わないようにしようと言っていた方なんです。私が、「CIって何ですか」と訊いたら、まじまじと私の顔を見て、「あなたのようなお立場の人が初めて会った人に、「それ、どういう意味ですか」と普通、訊けないものです。
なるべくこういうことは言わないようにということで、それを文章でも書き、あっちこっちで講演している私が言ったということが恥ずかしい。
あなたの言うとおりです。しかも、あなたは素直に訊いた。これは大変立派なことです。普通はなかなかできないことなんです」と、そう言われました。
松下幸之助さんは学歴がないし、そのことは周りのみんなも知っているし、幸之助さんだからということで、訊かれれば丁寧に教えたのだろうと思いますけれど、あの人の著作を見たら、歴史にも詳しいし、いろいろなことを勉強しているのが分かります。そのほとんどが耳学問です。詳しい人に訊いたわけです。次に専門家に訊く。それから巨匠、大家に訊く。
松下幸之助さんは、自分の目下であろうと社員であろうと、誰であろうと、「キミ、それはどういう意味なんだ、教えてくれ。わしゃ学歴がないもんで」
「あっ、幸之助さん、それはこうこうこういうことで・・・・・・」
「あ、そうなんか。なるほど」と聞いたあとで、エッセンスが全部入る。松下幸之助さんのように、分からないことがあったら、何でも詳しい人に訊いたらいいわけです。頭を下げて腰を低くして、真っ正面から訊いたらいい。とくに、専門家に訊いたら分かりやすく説明してくれます。
税理士、公認会計士、弁理士。その道のプロは専門の本を山ほど読んでいます。そういう専門家に頭を下げて、「すみませんけれども、これはどういう意味なんでしょうか」と訊いたら、「ああ、これはこういうことですよ」と、すぐに教えてくれます。
税務に関する事柄は、自分の仕事の延長線上のことではありますが、経営者は別に専門家になるわけではないのですから、難しい本を読む必要はありません。
分からないことがあったら税理士に訊けばいいのです。プロになるわけではないものは、全部訊いて終わりです。
しかも、私の場合は電話で訊きます。「税理士さん、これはどういう意味なんでしょうか」と、相手を褒め称えて、丁寧な言葉で言ったら、いっぱい教えてくれます。
教えてくれる相手も、教えてよかったと思って満足しますし、いままで以上に可愛がってくれます。ですから、両者にとっていいことではないと思います。
松下幸之助さんは、それがずっとできた人です。学歴がない分、余計なプライドを持っていなかったからできたわけです。私も中途半端なエリートではありません。
小学校、中学校時代の成績は輝く太陽で、3、3、3です(笑)。大学も、まあまあの中堅大学です。ですから、勉強ができるとか、学問ができるとか、エリートだなんていう自覚は全然ありません。
とにかく、興味があり、好奇心があり、情熱があり、知りたい、勉強したいという意欲があるだけのことで、その意欲を大事にしているから、何でもすぐに訊けるのです。
言葉で説明してもらっても分からないと、「それ、どういう意味なんですか」と。
目下でもいいし、誰でもいいから訊くんです。初めて会った人でも、「どういう意味なんですか」と。そうやって訊いてバカにされたことは一度もありません。
だから、どんなことでも分からなかったら訊いたらいいのです。
「訊くはいっときの恥、訊かぬは一生の恥」といいます。これは本当です。身分とか地位とか立場とか名声とかが上がってくればくるほど、誰にでも訊く人間は、逆に感動されます。
松下幸之助さんはそうだった。私も宮野先生からそう言われて、「ああそうなんだ」と。別に、名誉とか地位が上がっているという自覚はありませんが、私は誰にでも訊くんです。
「それはどういう意味ですか」「何でなんですか」と。そして分かったら、「へえー、なるほど」と。
興味、好奇心、意欲のある事柄だから、バシーッと一発で頭に入って、訊いたことがスラスラスラスラスラと出てくるわけです。
成功する経営者の勉強方法の究極は「スーパー耳学問」です。何でも訊く、と。経営者は忙しいわけですから、本を読んで勉強するのではなく、とにかく訊くことです。
しかも、興味があり、好奇心があり、情熱があり、意欲がある事柄ですから、バシーッと頭に入って、エッセンスが身につく。
だから、応用が利くわけです。ところが、専門家になると、逆に応用が利かない。
余計な知識がいっぱい入ってきて、何がポイントか分からなくなってしまうのです。
専門家、巨匠、大家に訊け
だから、まず詳しい人に訊くということから始まって、次は専門家に訊く。しかし、専門家もピンキリです。
一応、専門家なんだけれども、いつも負ける弁護士、いつも税務署から言われたとおりになってしまう公認会計士、いつもコンクールに落ちる声楽家、いつまで経っても売れない美術家、というふうに、専門家にもいろいろいます。ピンキリなんです。
専門家の上が巨匠、大家ですね。大家と言われる人に訊くと、絵でも、音楽でも、法律でも、財務でも、経営でも、ポイント中のポイント、エッセンス中のエッセンスがバシーンと返ってきます。
それで応用できるし、百の労力を一でやれるようになる。最小限度の労力で最大の効果が発揮できる。
そのポイントを教えてくれるのが大家、または巨匠です。その道の巨匠は巨匠になるだけのことがやはりあるわけです。
巨匠とは、生き方とか考え方とか人生観を教えてくれる場合が多いんですけれども、学問にしろ、美術にしろ、音楽にしろ、書道にしろ、文章にしろ、どんなものでも巨匠とか大家と言われる人は、人とは違うすぐれた取り組み方、すぐれた学び方、すぐれた実践の仕方をしています。
だから、すぐれた人になっているわけです。
人よりもすぐれたポイント、なぜそういうふうになれるのかというポイントが、一番おいしいところであり、一番訊きたいところです。
そのためには、頭を下げて、腰を低くし、真っ正面から、「教えてください」とお願いする。
そうすると教えてくれます。何か極秘のことがあったら、匂わせてくれます(笑)。
そこから、「はあー、何か匂うな。こうなのかな」と推察するわけです。
ですから、まず詳しい人から訊いて、専門家から訊いて、巨匠に訊いて、大家に訊く、と。その道の大御所でもいいんです。同じ意味ですけれど、大御所に平気で訊きに行ける、平気で頭を下げて訊きに行けるという精神構造を持つ人間が、やはり最高の勉強ができると私は思うわけです。
私はいま、聴講生として大学院に行っていますけれども、聴講というのはいいですね。いま私は「卑弥呼に勝つプロジェクト」というのを組んでいます。
それは何かといいますと、卑弥呼は二三九年、生口を持って魏の国に使いを遣った。生口というのは奴隷で、いわゆる朝貢に魏の国へ使いを遣ったわけです、二三九年。
そして、金印をもらったわけですが、一回か二回でしょう。私なんかは、これから先十年ぐらいずっと行こうかな、と。
朝貢で勝つということで、私の場合は聴講生の「聴講」なんですけれども、これが「卑弥呼に勝つプロジェクト」です。
卑弥呼は魏の国まで使いを遣りましたが、私はいま、オーストラリアまで通学しています。二重学籍は認められていませんから、ずっと聴講生です。
それでも、なるべく巨匠とか大家とか専門家のところに行って、興味のあることを訊いています。
一発で頭に入ります。それはやはり、いまの仕事の延長線上にある必要な事柄だからですが、訊くのが一番早いんです。
しかも、詳しい人よりも専門家、専門家よりも巨匠、巨匠よりも大家、大御所に訊く。そうすると、誰にも訊けないようなすごいエッセンスが訊けます。
応用が利くのが生きた学問
菱研がやっている世界の巨匠の頭脳会には、レスター・ブラウンさんやジョン・ネズビッツさん、それからダニエル・ベルさん、サッチャーさん、アルビン・トフラーさん、P・F・ドラッカーさんなど、ものすごい大御所、大家、巨匠が顔を揃えています。
その方々の話はもう、エッセンスの中のエッセンスです。
皆さんそれぞれたくさんの著作を持っていらっしゃいますが、その著作の中の一番のエッセンスを聞くことができます。質問すれば、ずばりポイントが返ってきます。
耳で聞くということは、要するに討論できるということです。それに対して、こつこつこつこつ本を読んで勉強する場合には討論できません。
著者との対話は不可能で、一方通行でしかありません。
結論をいうと、スーパー耳学問というのは耳だけではなくて、もちろん目も使うのですが、私の提唱する成功するビジネスマンの勉強方法は生きた学問です。
生きた学問とは実用的であるということと、応用が利くということです。つまり、身につくわけです。
それからエッセンスであること。これらが生きた学問です。実用的であり、応用が利き、本当に自分の身につき、しかもエッセンスである、と。
エッセンスだからこそ、応用が利いて活用できるのかもしれませんけれど、これが生きた学問です。
ビジネスマンは学者ではありません。だから、ビジネスマンとして成功しょうと思うなら、何よりもまず実行しなければいけない。
企業活動の中で、ビジネス活動の中で実行し、表現しなければいけないわけです。
どんなに幅広い知識があっても、それだけではダメで、あくまでも実行できなければ意味がありません。
実行するには何が必要か。エッセンスであって、身につけることができて、実用的で応用が利く。これが生きた学問であり、その生きた学問を身につけるための勉強方法でないといけないわけです。
では、どうしたら身につくのか。それはやはり、好奇心があり、興味が持てて、意欲に燃えて、情熱をかき立ててくれるようなもの、そういうものなら身につくし、応用できるし、実用的であるわけです。
最終的にはスーパー耳学問が要るわけで、政治家もほとんどそうです。政治家の勉強方法というのはほとんど耳学問です。
学者さんとか、その道の専門家たちが提唱するエッセンス、要するにどういうことなんだ、要するにどうなんだ、と。
これが大切なのです。要するにどういうことなんだ、と。
要するにどうなんだ、というエッセンスを身につければ、具体的活用方法も自ずから分かってきます。
そのポイントを勉強するために、いつも頭の中で、「要するに何なんだ」と考えているわけです。
「要するに何なんですか」と訊くと、専門家も、
「あ、要するにですね、こういうことなんです」とポイントを教えてくれます。
「あ、そういうことですか、分かりました」ということで、エッセンスが入るわけです。
エッセンスを勉強しようと思ったら、要するに何なんだといつも考えることです。松下幸之助さんもそうです。詳しい人に
「ねぇキミ、要するにどういうことなの?」
「あ、要するにですね、これはこういうことなんです」
「ああ、そういうことなのか。勉強になった。キミはすごいな」
音楽や絵や書を勉強するときも同じです。巨匠に、
「要するに、これはどういうことなのですか」
「要するにだね、キミ、音楽というものはこういうもんなんだよ」
「要するにだね、絵とはこういうもんなんだよ」
「あ、そういうことですか」
「要するに、これはどうすればいいのでしょうか」
「要するにだね、こうすることが人よりも秀でた作品を上げるポイントなんだ」
「あ、そうですか」
「要するに、私はどのようにすればいいでしょうか」
「生まれ変わってきなさい」と(笑)。
結局、要するにどうなんだということをいつも考えて、エッセンス、ポイントが頭に入るわけです。
エッセンスとポイントは実用的だし、応用できるし、身につく。そればかりでなく、自分の個性が引き伸ばされていきます。これが人に尋ねるときの一番大事なポイントです。
「それであのー、どうなんですか」などと、要領を得ない訊き方をすると、
「要するに何が訊きたいのか」と逆に言われて、そこで会話がストップしてしまいかねませんが、要するにどういうことなのか、ということをいつも頭の中に入れておけば会話が進んでいきます。
だから、いつも頭の中で、要するにどういうことなんだ、ということを考えていなければいけません。これが、ポイントを押さえ、エッセンスを身につけていく思考の経路です。だから、スーパー耳学問。
ウルトラスーパー耳学問の究極、霊界からの勉強法
実は、あの世からの勉強方法もこれなのです。この場合は、耳学問のスーパーの上にウルトラがついて「ウルトラスーパー耳学問」。
そのウルトラが、霊界、あの世からの勉強法です。どういうものかというと、要するに、詳しい人、専門家、巨匠、大家、大御所に会う前に、背後霊にお願いするのです。
「私はいま、こういう勉強をしているんですけれど、分からないことがあります。
そこで、あの方たちに訊こうと思っているのですが、どうぞ、あの方たちに喜んでいただけますように」と、こういうふうにお願いすると、背後霊が、専門家、巨匠、大家、大御所の口を通して答えてくれる。
背後霊は肉体がないから、誰かの口を通さなければならないわけで、詳しい人、専門家、巨匠、大家、大御所の口を通して教えてくれるわけです。
だから、その方にお会いする前によくお願いし、よくお祈りし、そのうえで訊くと、必要な事柄がその人の口からスラスラスラと出てきます。
そして、出てきた事柄は、するするすると入ってきて、私の場合はすぐに再現できるわけです。
そのためには、訊く前によく祈り込んでおかなければなりません。
毎朝、「今日もたくさんのことが勉強でき、吸収できますように」というふうに祈るのです。
成功するビジネスマンになるには勉強しなければなりません。それにはやはり、「終日乾乾、夕べに惕若」で、朝起きたらいつもそうやって発願し、神仏に向かっていく。
そうすると、「分かった」という
ことで動いてくださり、詳しい人、専門家、巨匠、大家、大御所の口を通して、自分の頭のなかにパッと入る。
そして、そういうふうにいつも向かっていると感性が鋭くなるから、なおのこと頭や体の中にシュパーンと入ってくる。一生懸命に向かえば向かうほど深く入ってくる。
真剣に祈れば祈るほど深く入ってきます。深く入ったものは忘れません。
逆に、一生懸命に向かわない事柄は、訊いても頭や体に残らない。
体に残して身につく勉強をしようと思ったら、一生懸命求めるほかはなく、だからこそ、好奇心、興味、情熱、意欲のある事柄を勉強するのが一番なわけです。
そこから、さらに祈り込んでいくと、背後霊とか守護霊、目に見えざる神なるものの応援が得られる。
ただし、相手にも魂があり背後霊がいるから、やはり称えなければいけません。それだけの魂と背後霊の活動があったからこそ、訊くことができるわけですから、心からの敬意を表していく。
そうすると、向こうも感じるから、ご褒美としていっぱいいいことを教えてくれるわけです。
松下幸之助さんの成功プロセスを、私も勉強していますけど、彼はやはり耳学問の天才だったんです。
詳しい人、専門家にいっぱいついています。立花大亀という禅の僧侶とか、いろんな人に訊いています。しかし、耳学問だけではない。訊くだけではなく、興味を持ったものは本も読んでいます。
幸之助さんは「姿」という言葉が好きらしく、著作を見ると、「いまの姿が問題だ」とか「本来あるべき姿に戻すべきだ」とか「国の姿」だとか、「姿」という言葉がいっぱい出てきます。
それが松下幸之助さんの言葉の特色ですが、あれだけのものになった原点は耳学問。いまお話ししたような勉強方法だったわけです。
とにかく、分からないことがあったらすぐに訊く、人の話を聞く。そこにハッとひらめいたりすることがあったのですけれど、松下幸之助さんは弁天宗の宗祖に導かれていました。
さらには、産土の神社とか、ご先祖さんの霊だとか、いろんな目に見えざるものが松下幸之助翁の精進、努力、学んでいこうという気持ちに応えるために動かれたのでしょう。
いろいろと人の話を聞いているなかでハッとひらめくものがあったとか、胸に感じるものがあったというのは、霊界からのメッセージです。
これを間接内流と言いますけれど、耳学問にスーパーがついて、ウルトラが入ったらそうなるわけです。それが自分にとって一番身になる勉強だし、必要な勉強方法なのです。
人間は魂を進歩、向上するために生まれてきます。会社もビジネスもそのための一環です。
つまり、仕事に必要な事柄から勉強していくことで、いろいろなことが身について、やがて中身ができあがっていくわけです。
その意味で、勉強しなければならないことは山ほどあるのですけれども、勉強するときには今日お話ししたように、絞り込んでいくのが一番です。
やはり、いまが素晴らしくなり、いまやっている仕事が成功し、繁栄し、向上し、職能力が上がり、しかも、そこに幸せと喜びを感じる人生になったらいいわけです。
何か失敗があって不遇のときには読書のチャンスです。いっぱい本が読めます。人生を考え直したいときには哲学書が読めます。左遷されたり、不遇になったり、失恋したり、離婚したり、奥さんで苦しんだり、旦那で苦しんでいるときは人生の哲学書、普遍的な人間の本質を語っている古典が読めます。
そういう不遇なときでないと、絶対に読書は身になりません。
不遇のときは勉強するチャンス
結論はそういうことなんですけれども、ちょっとプラスアルファで言っておきますと、うちのスタッフでカメラの専門学校を出たあと、小さな喫茶店の店長をしたり、せんべい屋の配送をしたりして、私たちのスタッフになった者がいます。二十七歳から一生懸命、言われたとおり本を読んで勉強し、経理もできるようになってきた。
ところが、増長魔になったうえ、可愛い女の子が生まれたもんだから、わずかに残っていた彼の運気が、玉のような女の子のほうに行ってしまって、本人が運気的にスカスカになってしまった。
そしてまた、ドジとヘマがあって配送係として配送業務を担当することになったのですが、そうしたら配送先に迷惑をかけたりして、ドジばかりやっているのです。それで、私は言いました。
「いまはキミにとって人生のチャンスだ。いまが一番よく勉強できるときだ」
私は十数年間ずっと居候生活を送ってきました。いまもその状況に変わりありませんけれども、若いころは勉強する机もなく、本もなく、自分の部屋もなく、本を出していたら翌日みんな片づけられてしまう、というような生活を送っていました。
寝る場所もなく、応接間の飛騨の家具を横にした下で寝ていました。
ですから、いまでも机の下なんかが安住の地のように感じたり、犬のそばで寝たり、猫のそばで寝たりしています。何か落ちつくんです、そういうところって。
そんな日々を送っていたわけですけれど、そういうときは「無門関」も読めたし、「碧巌録」も読めた。「禅語録」の「七部集」も読めた。「正法眼蔵」も読めた。
『正法眼蔵随聞記」も読めた。「歎異抄」も読めた。たくさんの古典が読めたのは、仕事上で自己実現できていないときです。
思ったことが思ったように成就し、仕事が順風満帆に運んでいるときはそのことで夢中ですから、逆に本が読めないですね。
男はやはり社会での自己実現を求めます。だから、社会において、職場において、自己実現が十分にできてないときは物足りないから、一生懸命勉強できます。魂が求めているわけですけれど、そのときに読んだものが、いまの私の著作、あるいは講演をする糧になっています。
十年間はそういう生活でしたし、浪人のときもそうでした。そして社会的に、組織的に会社のなかで自己実現ができて、生き甲斐を持って一生懸命仕事をしているときに読んだものは、あまり身にならない。
生き甲斐がない、自己実現ができない、不遇だ、思いどおりにいかないというときは、むさぼるように本が読めます。
「だからキミ、いまがチャンスだ。こういうときこそ、たっぷりと勉強できるんだよ」と言ったのですけれど、二十七歳から勉強したことによって、彼の顔も前とはずいぶんと違ってきました。
文字の霊というのがあるんです、本当に。「無門関」や「碧巌録」「論語」に書かれている一文字一文字に、霊が宿っているのです。
その限りではお経と同じで、ああいう古典を読むと顔が変わってきます。高貴な顔になり、頭と感性が変わってきます。
そういう素晴らしい古典はどんなときに読めるかというと、不遇なときなんです。そういうときにしか読めないんです。
人間は、浪人するか、牢屋に入るか、大きな病気をしなければ一人前にならない、と言われていますが、それはそういうことなのです。
「だから、いまはキミにとって本当の勉強、本当の学問をする黄金のときであり、チャンスなんだよ。
私も、そういうときに学んだものがみんな血となり肉となって、今の自分を支えているんだよ」と言いました。
仕事が順調にいっていて、自己実現できているときには、本当の意味で本が読めないんです。
読んだって浅い。心の奥の深い部分に入ってこないんです。だから人間は、幸運のときもあれば衰運のときもあり、調子のいいときがあれば調子の悪いときもあるわけですけれど、調子が悪いのは衰運だからではなく、内面を磨きなさい、内面の自己を立派にする勉強をしなさいという天のときなんです。
実際にそうなんですから。衰運期とか、調子の悪いときとか、左遷されるとか、思いどおりに自分の実力が発揮できないときは、勉強するチャンスなのです。
その勉強を黙々としていたならば、やがて天の時が到来して、運気が巡ってきたら、大きなチャンスになる。大きなチャンスが来ても、そのときに開花できる実力が備わっていなければ、みすみすチャンスを逃すことになる。
そうではなく、人間として磨かれ、人間として練れ、深い咀嚼力と読解力、表現力があればチャンスをしっかりつかみ、大きく飛躍することができる。そういう話をしてから、
「いまはそのために勉強するときだ。黄金のときだ。よかったね」と、彼に言ったのですけれど、感動して目を輝かせていました。
でもまだ、ちょっと変わったぐらいです。
もうしばらく勉強し、やがてそれが慎み深くおのれに向かっていったらまた蘇ってくるはずです。
いっときは素晴らしくなった子ですから、増長魔で調子悪くなっても、やがてまた復活すると私は信じているのです。
三回失脚しても復活した鄧小平の勉強法
鄧小平もそうでした。三回失脚したのです。三回目のとき、工場の工員になって、組み立て作業など、いろいろやらされていたそうです。
そのときに万巻の書を読んだ。古今東西の古典をむさぼり読んだ。確か八年だったと思います。
そして、毛沢東宛に手紙を書いて、「私はまだやります。昔、背いたことは悪かったと思って反省しております」と。
文学的な人だから、手紙一本で、毛沢東の心をつかみ、復活した。
三回失脚し、三回蘇ったわけですけれど、ものすごい実力と学問と勉強の厚みがあるから、天下の鄧小平たる実力と足跡が残せたのです。
その三回の失脚がなかったら、彼はそこまで勉強できなかったはずです。ただうつうつと無為に失脚していたわけではない。そのときに勉強したのです。
本当に魂の底から身になる勉強、興味、好奇心、情熱、深い部分で学びとる勉強ができるのは、失脚のときです。サラリーマンだったら左遷です、降格です、運が悪いときです。頭ごなしにやられ、クソーッと思うときに生霊を飛ばす代わりに勉強する。
「鄧小平だってそうだったんだ。だから、キミはいま最高のときにいるんだよ」と。
私も居候生活が長くて、いまなお、手相の運命線は細いですから、自己実現できていない。人は私が自己実現しているのではないかと思うかもしれません。
しかし、手相を見たら分かります。細いですから、運命線が。自分のやりたいこと、こうありたいなということの百分の一もできていません。
だから忍耐です。自己実現できない分、悶々としている。だから勉強し、励むわけです。
大学院にしても、飛行機で外国にまで行って音楽修士号を取ろうとしていますし、聴講生として勉強しているわけです。勉強に励めるのは、自分を満たされすぎないようにしているからであり、ハングリーにしているからです。
地位、名誉に恵まれ、お金に恵まれ、異性に恵まれ、家庭に恵まれ、かつまた、調子よく自己実現できている人間は、絶対に勉強できていません。
どこか物足りない、自己実現できないというのが肥やしになっているのです。
だから、もし皆さんが左遷させられるなど不遇をかこち、自己実現ができないとするなら、勉強をする最高の環境です。
ということで、本日の講義は終わります。どうもありがとうございました。(拍手)
