信念に生きず、信仰に生きよう
一般の人たち、信仰を持たない普通のみなさんは、信念に生きているわけです。頑張っていますよ、一般の人たちも。御魂が輝いておりますし、目標を持ち、神柱が立っています。
ワールドメイトの会員であろうと会員でなかろうと、神の道を信じようと信じまいと、どんな人間でも目標を持って頑張っていくときには、神柱が立っている。守護霊が応援しています。
ところが、信念に生きている人はどうなのかというと、自分が正しいと思うことを信じて、それを念じているのです。
「信じて念ずる。念じることを信じる」
これが信念なのですが、その信じて念じていたことがダメになったら、がっかりして絶望して御魂が傷つく。これは一般人でございます。
私たち神の道に生きる人間は、今申し上げたような法則がわかってまいりますと、信念には生きず、信仰に生きるわけです。
信念に生きた人間は絶望するとがっかりして、御魂が傷つく。そして、次に目標を立てようとしてもなかなか立たない。神柱が立たない。人を尺度に目標と神柱を立てているから、がっかりするわけです。
信仰に生きる人間はそうではありません。この世的な目標を立てたとしても、その奥に神様の目から見た究極の目標があります。
つまり、「神様のために」とか、「御魂の修業のために」という目標があるのです。
「この世の事柄すべてが遊びで、御魂の修業だけが仕事なんだ」という話を以前いたしましたが、
「御魂磨きのためにやっているんだ。だから、成功も失敗も全部、成功なんだ。御魂磨きができてよかった」と、いつも思っています。
「神様の試練だ。劫を祓うんだ。一生懸命努力した真心は、神様が見ておられる。神様が受けて聞いてくださっているんだ」と、信仰に生きているから、絶対に絶望したり、がっかりしない。一時はがっかりするけれども、
「いや待てよ。一生懸命したことは神様が受けてくださるから、真心で努力した分だけ徳分になっている。一生懸命に頑張った分だけ魂が喜んでいる。
この失敗してがっかりしたことが、もう一個、二個、三個の成功に結びつくんだ。これをバネにして頑張ったら、これが失敗ではなくなるんだ。成功のための糧になるんだ」と考える。
そして、「神様がそう考えておられるに違いない」と思って、再び立ち上がっていく。
神様の存在を信じているから、守護霊様の存在を信じているから、御魂磨きのために生まれてきたということを信じているから、普通の人なら傷ついてがっかりくるところを、不死鳥のようにピョコンと回復して、「さあ、頑張るぞ」と。
それを見ている人は、「あんなにがっかりしていたのに、どうして急に回復できるのですか」と言います。
明るくエネルギッシュなのには理由がある
私なんか、高校時代、そして大学時代から、それはもう不思議だと言われていました。
「なぜ、あの人はあんなに毎日毎日明るくて元気でエネルギッシュなんだ。なんと言われようと、ニコニコ頑張っている。普通の人ならもうペシャーンとなっているはずなのに」(笑)
どんなときでも明るく元気にやっておりましたから、「あのバイタリティと、不死鳥のように蘇ってくるあの活力の元は何なんだ、何なんだ」と、みんな言っておりました。一日も怠ることなく、毎日続くのですから。
それは神様の修業だと思っているからです。とくに大学四年生のときには、周りのみんなから言われました。まあ、興味があるんですよね。
先輩に何と言われようと、後輩に何と言われようと元気溌剌です。言われたときはペシャーンとなるけれども、翌日はもう、何ごともなかったかのように元気に頑張っている。
気にしないわけではないのです。回復するのです。御魂が蘇るのです。
「先輩なんかに負けるか。後輩なんかに負けるか」と思って克服する。またしてもペシャーンとなることがあっても、すぐ克服する。次々、次々克服していく。
「それは何なんだ。それは」とよく訊かれました。
私は大学四年生のころ、神様の道を信じて信仰に生きていたので、いかなるときでも頑張れたのです。それで、周りのみんなに言いました。
「信念に生きている人はみんな、ダメになったらがっかりするけれども、僕は何でも、「神様が貴重な体験をさせてくださっているのだ」と思うから、傷つかないんだよ。
で、次にどうしたらよいかを考える。それをバネにして次にステップしていくから必ず向上する。進歩するんだよ」と。
「へぇー!!!」
周りの人たちは四年間、不思議がっていました。クラブの友達とか、ゼミナールのお友達、みんな不思議に思っていました。
自分が変われば、他人も変わる
「お父さんが頑固者で、聞いてくれない。頑固で偏屈で、いくら言ってもわかりません。だからもう、他人は変わらないものだと思ってます」と、Bさんの質問用紙に書いてありました。
たしかに、他人は変わらないし、変えるのは難しい。けれど、自分自身が変わったら、他人も変わるのです。
「最近、ものすごく変わったな。なぜそんなにバイタリティが出てきたんだ?元気でエネルギッシュで賢くて、努力できるようになったんだ?」と、周りのみんなが不思議に思うくらい自分が変わったらいいのです。
並みのレベルを圧倒的に超えるような明るさと元気さと、不死鳥のようなバネと御魂の輝きがあって、いつもガンガンに輝いていて曇る日がない人を見て、「どうしたらああいうふうに生きられるんだろうか」と、みんなは思います。
誰だって幸せになりたいと思っていますし、誰だってよくなりたいと思っているわけです。
見事な変貌ぶりを見せれば、B君のお父さんも、「お前、最近変わったんじゃないか」
「いや、別に変わっていないけど」
私の父がそうでした。
「変わったよ、お前」
「いや、変わってない」
「いや、たしかに変わったよ」と言って、変わった理由を父が聞きたがるわけです。そして、その理由を言うと、「それはいいところだ」
と言って、入信してしまう。信仰を強要したり、入れ入れと勧めたことないです。人から見たから、圧倒的に普通ではないことがわかるわけです(笑)。
まあときどき、松葉を食べながら歩いているとか、プラットホームでは必ず能のすり足の練習をするとか(笑)、電車の中ではいつも発声練習をするとか、そういうことをしていましたから。
失敗を失敗と思うなかれ!
ESS(大学などの英会話クラブ)で英語のスピーチがあるので、電車に乗ったら必ず発声練習をしていました。大きい声でほかのお客さんに迷惑がかかるから、電車のジョイント部分の戸を閉めて、
「A、B、C、D……………あー、あー、あー」とやっておりました。人が通ったら黙って(笑)、通りすぎるとまた戸を閉めて、「あー、あー、おー」と。
「どうしてスピーチのとき、そんなにいい声なんだ」と、よく聞かれましたが、電車のジョイント部分でいつも練習していたからです。
通学距離が長ければ長いほど、人は神人合一するという論理を私は持っておりま 55 して、私の場合、一時間半かけて通っておりました。電車に乗っている時間の半分は能の謡の練習です。
ジョイント部分で。それからもう半分は発声練習だったり、あるいはそのスピーチを作っていました。一生懸命に作文して。それから「ジャパンタイムズ」なんかを音読していました。
Sさんという、慶応大学の友達がいまして、当時、スピーチコンテストが全国に八つあり、八つのうち六つまで優勝した。残りの二つは、二位と三位だった。
彼が三井物産に入り、英語の試験で三井物産全社員の中で、上位から〇二五パーセントに入る実力だったそうです。そのSさんに訊きました。
「どうしてそんなに英語が・・・・・・」
「毎日、英語をやっていますから」
「仕事が忙しいのに、よくできますね」
「通勤時間が長いですから。要するに、始発に乗ってたらですね、勝負のタイミングがあるんですよ」
「どんなタイミングですか」
「あーあーあー」
「ジャパンタイムズ」をいつも音読するんです。毎日通勤中に一ページ読むんです。で、大きな声で音読していると、ほかの乗客が「うるさいぞ!」と文句を言います。で、相手を見ると目が合います。
その瞬間、目を伏せたら負けるんです。もう再びできなくなってしまう。負け犬になってしまう。
だから、「うるさいぞ!」と文句を言われたとき、その瞬間見返す(笑)。
すると、向こうが目を伏せる。その瞬間、電車はライブラリーになるんですよ(笑)。
勉強部屋になるんですよ」と言いながら、Sさんは今朝も「ジャパンタイムズ』を開いて、大きな声で音読しながら通勤しているわけです。
「ほーII」と思いましてね。これは神の教えに違いないと私は思いました(笑)。なるべく混んでいるところへ行って、とやるわけです、私も。で、ほかの乗客が私の方を見たら、私も見返します(笑)。
しかし、なかなかそうはいかない場合もありまして、うるさいぞー!」と言われたとき、
「すみません」と言いますけど、その人がいなくなったらまた不死鳥のように蘇って(笑)、パッと読む。これが私の御魂のバネですね。まあそういうふうにして回復するわけです。
とにかく、人の目から見た圧倒的な変貌振り。素晴らしいと誰もがいうような根性とバイタリティと勉強力と気迫。御魂の輝きのレベルがすごいなーと思うと、誰でも秘密を知りたくなります。
どうしてそうなるんだろう。こんなにどうしていつも明るく元気で、いかなることがあっても不死鳥のように蘇るのだろう。しかも、それをバネとして次にステップアップする。
皆さんもご神業に励んで徳を積みたければ、驚くような御魂の輝きを発揮しなければいけません。そういう心構えでいると、いつも乗っている電車も電車ではない、勉強部屋だ、と。
そして、あらゆることが神様の教えと受け止められるようになります。
私も、「何でも神の教えだ」と、いつも思っておりました。今でもそうです。何でも神の教えだと思って、失敗したら何でも試練だ、と。そうやって頑張りつづけたらいいのです。
神様が嫌うもの、それは我と慢心
「神様は「我と慢心」を嫌がられます。我と慢心と増長魔と怠りを嫌がるから、いつもそれを反省します。
我はなかったか、慢心はなかったか、怠りはなかったか。気がついたら、「あれが怠り、これが慢心、これが増長魔でした。すみませんでした。これとこれとこれは我でした。すみませんでした。
これとこれとこれが増長魔でした。すみませんでした。これとこれが怠りでした。これからはこういたします」
そうお詫びしたら、許されます。
やっている最中はわかりませんから、あとで気がついたら反省すればいいのです。で、反省するポイントは「我と慢心」。「増長魔」も嫌います。
ですから、「増長魔になっていたな」と思ったら、人の意見をよく聞いて反省して謙虚になる。
「我が出て、慢心していたな」と思ったら、すみませんとお詫びする。お詫びすると許してくれますから、次に気をつければいいのです。
それから、「怠り」も嫌われます。だから、怠らない。階段を十歩で上れるところを三十歩で上るとか(笑)、電車の中では必ず英語を音読するとか、とにかく目標を立てて怠らない。
休み時間は、身体は休んでいるけれども、頭は休めない。
何暇があったら、短歌をつくるか、曲をつくるかやってますね、私は。「神様どうだ!一番嫌いな怠りがないだろう!」と私が言うと、神様はニコニコとして喜んでいます。
でも、そうすると、「無駄な努力ということもあるのだ」と言われますけれどね(笑)。
「それでも、怠ってはいないんだ。僕は怠ってはいないんだ!」と。
それだけです、注意して反省しなければならないところは。
妙の心を失うな
それだけを反省して、あとは、神様をどこまでも信仰して信じていますから、どんな失敗があっても、どんな困難があっても御魂は傷つきません。傷ついたら傷が回復するまでやります。
「神様、そういうふうにします」と言って、精進努力を続けていく。そう咀嚼しますから、シュッと回復します。
ですから、いつもこういうふうに、明るく元気でご神業ができるわけです。
「あんなに寝不足状態なのに、どうして連続して頑張れるのだろう。なぜいつも明るく元気でにこやかにやっていられるんだろう」などと言われますけれど、それは信仰心があるからです。
御魂の輝かせ方、つねに御魂を輝かすという方法を、十五歳のころから試行錯誤しながら探究しているからです。学生時代にはほとんど備わっていました。
若いときにそれを修得し、年をとってもそれを絶対に変えない。
それが、「妙」なんです。少年少女のような心。妙が絶えない。妙という字は「少女」と書くでしょう。少女のような純粋性を持ち、ハラハラドキドキしながら、興味を抱いたものをずっと追求していく。
子どものような少女のような初々しい心を持たないと御魂がだんだんだんだん枯れていく。
いろいろと失敗を経験し重ねていくにしたがいまして、「ああ、人生なんてこんなものさ。男性ってこんなものよ。恋ってこんなもんなんだ。女ってこんなもんだ。男ってこんなもんだ。仕事ってこんなもんだ。世の中ってこんなもんなんだ」というふうに考えるようになりますが、そうなったらもう、御魂が完全に傷ついてしまっています。
大学生ぐらいまでの人は夢とビジョンを持っています。世の中のために革命を起こすんだとか、民主化するんだとか、中国の民主化運動や昔の安保闘争を見れば、わかります。
自衛隊が掃海艇を中東に派遣するときも、反対したのは学生が中心でした。一般のビジネスマンは、そんなの面倒くさくてわざわざ佐世保まで行くか、と。行くのが面倒くさい。
まず経費を考えますし、それより何より無駄だと考えます。しかし、若い人は夢と希望のビジョンのために、金銭とか無駄とは関係なく行く。
それは、ご神業に生きていく人間も同じで、少女のような、少年のような夢と希望とビジョンを持っていないと、神霊界に感応できないのです。
年をとって失恋や仕事で傷ついてしまうと、「世の中なんてまあこんなもんなんだ。人生ってこんなもんなんだ。会社ってこういうもんだ。だから、適当にこうやるしかないんだ」と。
大学生のような夢と希望とロマンが、やはり消え失せてしまいます。がっかりして、傷ついて妙が弱くなってきます。
ビジネスマンでも社長になっているとか、会長になっているとか、えらく出世した人はロマンティストで、ものすごいビジョンと夢を持って、生き生きとしている。
大会社でも中小企業でも社長はそうです。
そういう人だから社長になったのでしょうし、「妙力」があります。少年少女のような純粋性があり、まあ、おなかの奥には悪もあるでしょうけれども、悪だけではありません。
やはりそれだけの若々しい感性、少女のような純粋性があるから、どこか魅力があって人を惹きつけている。ビジネスに対するビジョンとか夢を輝かせています。
御魂が輝いて神柱が立って、少年少女のような妙があります。
大学生及び社会に出て一年ぐらいはそうですが、二年目ぐらいになってしまいますと、会社という枠にはまって、世俗に染まって、妙の心や感性の輝きが薄らいで大学を出たての一年生というのはフレッシュマンですが、それまでは大学四年生だった。
大学の運動クラブに入りますと、四年生は一年生から見たら天皇陛下のような存在です。「おお、君たち」なんて言っていた四年生が、社会に出て「おお、
「君たち」なんて言うと蹴っ飛ばされます(笑)。
その社会人一年生というのは、ちょっと前までは大学四年生で大先輩後輩たちから見たら天皇陛下みたいな存在だった。そのプライドを一年間でいかに壊すのか、というのが会社の人事課のテーマです。
住友商事でも、住友銀行でも物産でも、聞いてみたらだいたいそうです。一年間で壊されてしまうわけです、ガーンと。
「いかに会社の有力な戦士になるか。会社のよきビジネスマンになるか」ということをテーマにしていますから。
ですから、一年たって二年目くらいになりましたら、もう昔のように、「人類の救済のために生きるんだ」とか、「日本の国を僕が支えていくんだ」とか、「ミロクの世の実現のために頑張るんだ」といった心は薄らいでしまう。社会に出て二年たったら、
「とにかく、この部署のこの仕事だけは早く覚えたい」というふうに変わります。
「人類の救済?難しいんじゃないんですか・・・・・・」となってしまうわけです。
私なんか、これだけ現実的な細やかなことをしておりますが、人類の救済のことを忘れたことはありません。
「先生、おそば食べませんか」
「ちょっと忙しいから」
「おそばが伸びてしまいますけど…」
「ちょっと忙しいんだよ」
「何をやっていらっしゃるんですか」
「人類のことを考えているから忙しいんだよ」(笑)
「おそば、冷めてしまいますよ」
「冷めてもいい、今は人類のことを考えているんだから」
人類のことを思う心。この少年少女のような心をいつも輝かす努力をしている。年をとって肉体は老化していく。いろいろな経験を積んでいくと妙が衰えていく。
でも、神仙と神霊界に感応するにはこれしかない。
妙の心が神霊に感応する
神霊との感応力というのはそれなのです。
「その神霊との感応力を持ちながら、社会で雄々しく生きていくにはどうしたらいいんだ」といつも努力と工夫をしていました。
私はいつも御魂を輝かせていて、決して傷つかない。大学生のころもそうでしたが、四十を過ぎましても(註・平成三年当時)絶対にそれだけは変えない。
神霊との感応力を失ったら、神仙の道、神霊家としての生命が断たれてしまいますから。多かれ少なかれ、皆さんもそうなるはずです。
「じゃあ、会社に十年も勤めてる私はもうズタズタだから、どうしたらいいんだ」という人も、気がついたら回復できます。
そして、会社は会社、仕事は仕事として、もちろんやっていきますけれど、もっと大きなビジョンを持って、会社でも若々しい大学生のような精神性を崩さないことです。心の中は自由です。
どう考えようと、何を感じていようと自由ですから。
ただ、表現の仕方には注意が必要です。社会で熟達して熟練化してきたら、目上とか同僚とか後輩だとか、お客様に対する言葉遣いも熟達してくるはずですが、これは注意しなければいけません。
大学生が傷ついてしまうのは、モロに表現してしまうからで、社会における目上、同僚、目下、取り引き先への表現が下手なのです。
だから、あちこち叩かれてしまうわけで、「会社のために命をかけます」と、言っておけば角が立たない。
「どんなことがあっても、私はこの会社のために骨を埋めるつもりでございます」
私はいつも会社で、紙に「お墓」って書いていました(笑)。
「何だ、そのお墓というのは?」
「会社に骨を埋めるんです」
「お前、営業行かないで何やってんだ。そんなこと書いていないで、営業に行け」(笑)と言われましたけど、「ここで私は死ぬ気で頑張るんですよ。先輩」
「ほんとにやるのか」
「やります!」
本当に死ぬ気でやりました。上司、同僚、みんな驚きました。最初はバカにしていたけれど、「ほー」と、びっくりしますよ。会社の人たちが驚くようなことばかり、次々とやっていました。
人が取れないような仕事を奇跡的に取ってきましたから。直感力と努力と根性で。だから、人が何と言おうと妙を崩しません。今なおそれを崩さない。
まあ、そういうことで一区切りしたいと思います。
御魂を輝かすというテーマでお話ししましたが、少しくらい傷ついても、そう考えることによって回復して、なるべく曇りを少なく輝き大きくする努力をしていただきたいと思います。
ということで一区切りします。どうもありがとうございました。(拍手)
第二章 不可能を可能にする「御魂の力」
求道心と結婚問題
ほかの質問に答えようかと思ったのですが、「いかに御魂の輝きが大事か」ということで、御魂の輝きパート2のお話をします。
ある女性がおりまして、その人にとっては結婚がすべてで、結婚したくてしかたがなかった。
兄弟みんなが結婚をしておらず、お兄さんは四十何歳で独身。お姉さんも独身で、その人が三十七歳、一番下が三十三で、全部独身です。上の姉さんは感じがいい人なのですが。
その女性は三十八歳になってようやく結婚したわけです。それまで「結婚、結婚、結婚、結婚、結婚、結婚」と思っていた。もう三十数歳で追い詰められ、追い詰められた中に、さらに追い詰められた断崖絶壁という感じで、「結婚!」と。
それで、こういう話がありました。結婚するかしないかで喧嘩して、殴る蹴るで血がぽたぽた出て、翌日そこを見たら血痕(結婚)だらけ。はははー。
いやー、どうもどうも(笑)。御魂が輝いたら、もうギャグも冴えてきます(笑)。
そういうことで、結婚、結婚と思いつづけていたところ、結婚ができた。神様のお蔭だと喜んでね。「結婚」という大きな一つの目標があったわけです。
ということで、この目標のために何があったかというともう一つ大事な要素一目標に向ける情熱が出てくるわけです。ライトでも温度がありますが、ウワーと情熱が燃えてきたら、不可能を可能にする。
で、この結婚という目標をさらに映像化してみますと、まあ私が見るところ、キャンドルサービスです。
まず和装でお披露目をしたあと、次にお色直しがありまして、キャンドルサービス用の衣装に着替えるわけですが、一生に一度しか着られないあのドレス。ひらひらひらと長い裾を引きずり、髪をこういうふうにしながら(笑)。
生まれてはじめて着たような、馬子にも衣装といいますけれど、男性はタキシードを着て、キャンドルサービスでテーブルを回っていく。
友達がロウソクに水かけたりなんかして、なかなか火がつかない。それをまたはやし立てて、火がついたらパチパチパチと。あのキャンドルサービス、あの瞬間です。
あの瞬間が目標ですね、私が見るところ。あの瞬間に憧れているわけです。
それに向けて頑張るから、神社で祈願しよう、ワールドメイト(著者が主宰するグループ)で神様の勉強をしよう、と情熱が燃えていった。神に対する信仰が。
会社では、周りの女性たちがどんどんどんどん結婚していく。ほかの人たち、後輩も先輩もみんな結婚して、自分だけが残っている。それで、わけもなくやめてしまう。長くいすぎたから、と。
そういう人いませんか。私の聞いたところ、何人もいました。
この侘しさだとか寂しさ、そして、真剣さというのが、もうみなぎっているわけです。真剣さがキラキラキラとみなぎっております。
だから情熱を持っている。侘しさ、寂しさ、危機感、孤独感、これが情熱の栄養源で、これが栄養を与えるから、情熱が燃えてくるわけです。どこかそういうものがないと、人間というのは燃えないのです。
そういうふうにしているものだから、周りのみんなも何とかしてあげなきゃなあと、いい人を探して結婚したわけです。
そうすると、この結婚というのが成就されて、結婚式が「トターンタータタン……………、新郎新婦の最初の共同作業でございます。ただいまからケーキに入刀いたします」とか(笑)、これ、お花がパッパッパッパと咲きます。
「タンタタタンターン、やったぁ!」と、お花がパアーっと咲きます。
でも、いつまでもお花は咲いていないから、しばらくしたら徐々にこの花が散って、「落ち葉の舞い散る停車場で(笑)、ラララララ……(笑)、枯葉がまた一枚(笑)、ラララララ…………」と、枯葉が落ちていきます。
徐々にまたこう枯れていきますと内的な世界ですよボルテージが落ちていきます。
結婚という目標が成就されてしまったら、情熱のボルテージがスーと落ちてきます。ぶらぶらぶらぶらして、なかなか身が入らない心境になります。
情熱が徐々に小さくなって色あせて、真剣さも消えていきます。安心するから侘しさも消える。情熱を支えているものがないし、危機感も孤独感もない。ダレてきます。
情熱が熱さないという状態で、これはぬるま湯の状態。何となく安心。
御魂の輝き情熱
さっきパート1で話したように、御魂が輝くということが御魂の向上であって、向上というのは輝いている状態。御魂を向上させるためには、御魂を輝かせなければいけない。
そのとき味わう苦しみとか葛藤というものは、苦しいけれども喜びであり、輝きであるわけです。目標があるときの苦しみは輝きです。しかし、目標がないときはもう、真っ暗なままです。
目標を持って御魂が輝いているときでも、少々落ち込むことがあります。そのときに、落ち込んだ状態で霊界に行きましても、すぐに我に返れますから大丈夫です。
「俺は何だったんだろう」と、思い返しができる人は、霊界でも思い返しができるのです。
自分の目標が達成されたら、いかなるときでもボルテージが下がる。
こんなのは当たり前のことで、大きな目標を達成するまでは頑張るが、目標が達成できたら満足してしまって、色があせてきて、情熱のボルテージが落ちてくる。当然です。情熱が御魂の輝きです。だから、またもや新しい目標を立てなければいけない。そうすれば御魂が輝くし、輝いたら熱が出ます。輝かないと熱が出ないわけですから、情熱がない。物事に情熱を持たないときは、御魂が輝いていないのです。
このパート2の一つのポイントは、「御魂の輝き=情熱」である、ということです。「御魂が輝いているはずですが」と言っても、情熱がなければ輝きではない。
「輝き=情熱」です。
なるべく具体的なことでないと、情熱は燃やしにくいでしょうが、御魂の輝きとは情熱であり、輝いたら熱が出る。情熱がないのに輝くわけなどありません。
情熱を失っているときは御魂が輝いていない。何かに情熱を燃やしているということは、御魂が輝いている。ということで、私はその女性に言いました。
「あなたは、自分ではわからないかもしれないけれど、神柱が立っていないよ。人間というのは、目標を成就して満足したら神柱が立たなくなる。ボルテージも落ちるし、御魂が輝かなくなるんです。それはなぜかといえば、情熱が乏しくなるからだ。どうしたら情熱が燃えるか。それは目標だよ、目標。目標がなければ、燃やす対象がなければ情熱は燃やせない。その情熱を燃やす目標を立てなければいけない」
そう注意したわけですけれど、そのとき、私自身のことにハッと気づいたのです。
私も、自分でもおかしいなあ、と思ったことがありました。というのも四年間、一生懸命ピアノを習っておりまして、そのお蔭で、少々練習するチャンスがなくても、ピアノの前に向かえばスラスラスラスラ完全に暗譜している曲は、一、二回弾くと回復するくらいになりました。
ところが最近、バイオリンを一生懸命に習うようになってから、どうもおかしい。ピアノと並行してバイオリンを練習していますが、バイオリンは非常に難しい。
それでも一年、二年やって、三年目に入ってきましたら、階名を全部覚えて手も動くようになり、どこでも弾けるようになりました。慣れてきたわけです。
そうしたら、バイオリンの方がどんどんどんどん曲が覚えられて楽しいし、持ち運びも便利なので、バイオリンにばかり情熱が向かっていきました。
私が演奏した曲を、今度レコードにしようという企画も出てきて、「よーし、頑張ろう」と、さらに一生懸命にバイオリンを練習しました。
すると、バイオリンを手にしていないときでも勝手に手が動いている。
「これって、何なんだ?」と(笑)。
「あっ、手がバイオリンを弾きたがっているのか」
バイオリンを弾くと手が喜んでいます、嬉しい、と。道を歩いていても、手を動かして歩いている。
「札束を数えているのか」
「いやいや、バイオリンだ」と。手が欲するのです、バイオリンを。
そのように、情熱がバイオリンの方に移っていきまして、ピアノで作曲するときなど、ピアノの前に出ましても完璧に覚えていたはずの曲が弾けないのです。
四年間やって、何回か間が空いてもその都度すぐに回復したのに、今回ばかりは弾けないのです。
「あれ、どうやるんだろうかな?」
楽譜を見て、「こういうふうにやるんだな、よし」と思ってやったら手がバラバラで、勝手に動いて弾けないのです。
完全に覚えた曲が一曲も弾けなくなってしまって、どうなってしまったんだろうと思って、またもや練習をしますが、練習しても練習してもバラバラです。
「四年間努力したのは、どうなっちゃったんだろう」と、ピアノの前で頭を抱えました。できていたはずなのに、なぜ手が動かないのだろう。動いてもバラバラです。思い通りに動かない。
「四年間の努力、練習はどうなっちゃったんだろう…」と、頭を抱えまして、「神様、教えてくれ!!」と。そうしたら、「ああ、自分の楽器に対する情熱がバイオリンの方に向いて、ピアノに対する情熱が弱くなってしまった。バイオリンに没入しているから、ピアノに対する情熱が弱くなっちゃったんだ」と。
情熱が入らないと、要するに身が入らない。身が入らないから、身体とか霊体が動かない。動かないから、完全に覚えたはずのものが統率とれなくなった。手が動かなくなった。
情熱を向けなければ御魂は動かない
ピアノにしてもバイオリンにしても何にしても、間隔をおきながらでもトレーニングのつもり、修業のつもりでやっているわけです。時間を無駄に過ごしたくないから。
だから、手に言って聞かせました。
「お前、情熱がバイオリンにいってしまったからといって、なんで動かないんだ」「すみません」(笑)
情熱をそこに向けなければ、その事柄に対しては御魂が動かない。動かないから、意識というものが思いどおりに動かない。
何にしても、身体で覚えていますから。身体に覚え込ませています、スキーでも、ゴルフでも。身体で覚えるまで、何度でも何度でもやるわけです。
たとえば、スキーで、「思い知ったか。わかったか!」と言うと、「わかりました!」と、私の足が、大腿骨が言います。
これが、「まだまだです」(笑)と言ったりすると、「しっかりしろ、大腿骨め!」と叱りつけ、「わかりました!」となると、スキーがスーと滑れるようになります。
ようやく難しい技術がマスターできたら「嬉しい!」って言うんですよ、足が。
「嬉しい、嬉しい」と。
身体にも御魂があって意識がありますから、身体中から私の声がする。本当ですよ。身体中から声が聞こえる。グーッと辛抱している顔が浮かびます、私のちっちゃい顔が。
こういうふうに言うと、また質問が出てくる。
「なぜ、足に顔があるんですか」とかね。あまり深く考えないでください。
身体の中の各部所にも御魂があります。それを私は「体神通」といって、肝臓の病気は肝臓に聞こうということで、相手の肝臓の部分に手を当てると、
「こういう理由で苦しんでいます。ハア、ハア、ハア。今、だいぶ許容量をオーバしてます。
二年半くらい前から、ちょっとオーバーワーク気味です」と、肝臓が言うのです。で、それを相手に伝えると、「先生、まったくそのとおりです。二年半前から私は営業に異動しまして、接待、接待で忙しくなったんですよ」
「ああそうでしょう。触ってみたら肝臓が、「うーん、ちょっと飲み過ぎた」と言っていますよ」
本当に肝臓がそう言います。で、頭に手を当てたら、「うーん、使ってない(笑)。もっといろいろ使ってほしい」
頭に聞くと、どれくらい使っているかわかります。それぞれ意識があるわけです。
体神通で全部、各部位の意識を知るわけです。手には手、足には足の意識がありますから。
トレーニングというのは、足や手に思い込ませるわけです。
「このとおり動け!」と言うと、「いやあ、まだわからない。動けない」とか「うわー」とか言っています。
手も足も御魂の一部ですから、そうやって意識に語りかけ、全身をトレーニングさせています。私は器用な人間ですから、そうできるのですが、バイオリンもピアもみな同じです。
バイオリンの方に情熱が向かってしまったために、覚えていたはずのピアノが弾けなくなる。要するに、情熱を傾けて一生懸命やっていたら、どんな人間でもやがては壁を越えていくのです。遅い早いはあるけれど。
やめてしまって情熱が冷めた時点で、御魂の輝きがなくなる。御魂の輝きがなくなったら、頭脳や手足や神経が萎えてしまって動かなくなる。
若い間は身体がエネルギッシュですから、精神が少しばかり弛んだりモヤモヤしていても、身体を動かしたらスカッとします。
しかし、三十代とか四十代、年をとればとるほど、筋肉だとか内臓だとか神経だとか、頭脳だとか運動神経だとかに対する、精神的な情熱の影響力が大きくなるわけです。
男性の場合、三十五くらいから体力的に下降線をたどり、女性はもう二十七、八から下降線をたどります。身体は衰えていき、細胞はもう発育しません。
どんどん衰えていくばかりで、体力的に落ちていきます。その体力的に落ちるところを、精神性や内面性や意識を強化することで補う。
強い精神性を持つことで、体力だとか身体のバネだとか神経だとか頭脳だとか身体が、大いに動いてくれるわけです。
スポーツマンでも武術家でもそうです。とくに神霊家はそうです。意識や心という内的な世界をいかに強めて、身体の壁を越えていくか。それが、行者さんにとっても何にとっても、大きなポイントになってくるわけです。
スポーツマンでも、上のレベルに行けば行くほど、メンタリティーが重要になってきます。ゴルフでもテニスでも、野球でもラグビーでも、サッカーでも全部そうです。
精神的にハイな状態にしたら、奇跡のショット、奇跡のキック、奇跡のヒットが出る。長嶋茂雄さんみたいに、ここ一番というときにホームランが打てるわけです。
スポーツに限らず、すべての勝負ごとはその内面性をいかに充実させ、運動神経から何から、あらゆるものをプラスの方にウワーッと全開させるかにかかっている。
勝負になったときは、頭が普通の頭ではない動き、神経が神経でない動き、内臓が内臓ではない動きになっていく。
年をとればとるほどそうだと私は思っていますから、四十歳から運動神経を磨く練習をしているのです。
魂を若くする
普通は若いころにスポーツをしますが、私の場合はまったく逆です。若いころにはお年寄りが好むような能楽だとか、古典だとか、茶道だとか、俳句だとか、短歌だとか、とにかくお爺さんお婆さんがやりそうなのが好きでした。
三十七から突然、私もスポーツマンということで、運動をやり始めました。
それまでは、運動神経が発達していないと思っていましたが、そうではないということがわかってきまして、いろいろやっていたら、「運動神経が発達していますね」と、最近言われるようになりました。もちろん、お世辞でしょう(笑)。
若いころは、スポーツにあまり興味がありませんでしたから、発達しているとは思っていませんでした。今は運動神経をますます発達させようと思っております。
普通の人とはまったく逆です。
しかし、そうすることで御魂全体を輝かし、情熱をいつも燃やすことができ、結果的に、年をとればとるほど御魂が輝く人間になる。年をとればとるほど頭脳がよく動く。
柔軟なバネ。さっきいった妙。神仙人。
「意識の力によって、頭脳の限界を越えていくことがどこまでできるのだろうか。意識が体力に、体力が意識に」ということで自分なりの課題を持って修業しているわけです。
若いころは、身体も若々しく元気だから、何でもすぐに情熱的に取り組めます。一般的に、若者が一番情熱を燃やすのは恋愛ですが、成就できればすぐにボルテージは下がります。
そして、またしても女性に向かっていく、ということをやっているわけです。でも、何も残りません。不毛です。小説を書くとか、そういう商売をするんだったら別ですが。
いずれにしても、若い間は身体が元気だからすぐに情熱は燃えますが、年をとって体力が低下してきたら、信仰心というか、己の内的なメンタリティーの修養で情熱を燃やしていく。
御魂の輝きで情熱を燃やしていく。
いつも危機感というものに身を置いて、もしも満足したら、自分なりに目標をいつも作って、いつも作って、いつも作って情熱を燃やしていく努力をしないと、体力はどんどん落ちてくるし、体力を磨こうという気力も湧いてこないですから。
身体も老化するし、御魂も老化します。
これが本当の意味で年をとったということです。肉体は老化します。だから、魂をしてちょうどいいくらいです。
魂を若くするとは何か。
つねに新しい目標を作って、つねに新しい神柱を立てて、情熱をいつも燃やす自分をつくる。そうすると、できないことができるようになっていく。
不可能が可能になっていく。神経と体力と頭脳のバランスをとり、できないことがやれた、と。
そういうふうな、壁を越えていく己が回復するわけです。
恐ろしいものです。情熱がバイオリンの方へ向いてしまったために、四年間ずーっと続けて少しずつ上手になってきたピアノが、突如として全然できなくなってしまった。
年をとればとるほど、目標をいつもいつも定めて情熱を燃やす努力をしないと、このようになってしまう。自分がよくミスをするところばかりが目立って、長所が出てこなくなる。情熱を燃やして頑張っていたら、長所がまとまりまして、よいところが前に出てくる。
御魂が燃えておらず、御魂が輝かず、情熱がないときには、短所ばかりが前に出てきます。本当に不思議なものです。
ですから、年をとればとるほどそういう努力をしていかなければいけない。その努力を怠ると魂は老化する。情熱がなくなる。御魂の輝きが衰えてくる。目標も神柱も立てにくくなる。
年をとったら、目標、神柱、御魂の輝き、情熱、若々しい魂でやっていかなければいけない。年をとってもいつも壁を越えていく人というのは、少なくともそういう人です。
昨日、今日と私はそのように痛感しておりました。
だから、ピアノに関しては、また新しい目標を設定して情熱を燃やしていこうと考えています。別な目標を作って情熱を燃やすと、以前覚えたものがパパッとまとまってやれるようになります。
やれるんです、不思議です。だからまた、新しく情熱を、目標を定めていく。その目標の作り方が上手に熟練しているから、どんなことでもいつも技術が超えていくわけです。
