プロローグ 正しい心がけがあなたの夢をかなえる
チャンスは誰にでもある
「貧乏神」をつかまないために
誰も好きこのんで、貧乏になったり不幸に陥ったりするわけではないのだが、世の中には、いくら努力しても「貧乏神」との縁が切れずに、苦しんでいる人が大勢いる。
この世では、お金がなければ何もできない。
映画も観られないし、おいしい物も食べられない。服も一流は無理だし、デートだってできやしない。すべて、お金がないからである。
お金があれば、たいていの夢はかなう。ベンツに乗り、高級マンションに住み、さらには一流ブランド品の服を着こなし、高級レストランでおいしいフランス料理などを味わう……といった具合である。
しかし、お金さえもっていれば、それで幸せなのかといえば、必ずしもそうではない。何億という財産をもち、豪邸に住んでいても、心の寂しい人もいれば、自殺をする人もいる。
逆に、ボロアパートの四畳半一間の部屋に住んでいても、人生を精一杯幸せにすごしている人もいる。
だから、お金のあるなしが、そのまま幸と不幸を分ける壁であるとは決していえるものではない。
…と、一応は理屈の上では納得してみるのであるが、かといって「私はお金はいりません」と、人々に公言できるかと言えば、それもウソになる。
やはり、ないよりはあったほうが、少しよりは、多目にあったほうがいいのに決まっている。
そして、心の幸せや不幸とお金のあるなしの関係は、ダイレクトにはつながらないものの、間接的にはきわめて深い間柄なのである。
ことわざにも、「衣食足りて礼節を知る」とあるように、人間は貧乏になると、どうしても心まで貧しくなってしまいがちなのである。
「貧すれば鈍す」。まことに箴言ではあるが、この逆もありうる。
お金のある人ほどケチであり、心もせちがらい、ということだ。だからこそお金がたまったのだ、ともいえ理想は、心も豊かお金も豊か幸福な人生とは、ぜひこうであらねばならないと信じている。
そういう人は、死後霊界に帰っても豊かであるからだ。
ところで、努力をしてもなかなか酬われず、貧乏地獄から脱け出せない人がいる。
なぜか。その反面、世の中にはトントン拍子に出世をし、金運に恵まれる人がいる。不公平ではないか。神も仏もいないのか、といいたくなる人も多いことであろう。
世の中にお金より大切なものはいくらでもあるといいながら、やっぱり、お金は生命の次ぐらいに大切なものである。
その大切なものを手に入れるには、一体どうすればいいのだろうか。同じ苦労をして努力を積むのなら、できるだけ幸福に直結したものでありたい。
むろん、大金運もつかみたいものである。一生懸命努力して、汗を流して、やっとの思いでつかんだのが「黄金の実のないあだ花」だったでは、何のために生きているのかわからなくなってしまう。
一の努力をして一の金運をつかむのなら、当たり前。一の努力で一〇の金運をつかみ、自分を幸せにし、そして他の多くの人々も幸せにすることが、本物の正金運といえる。
本書の狙いも、実はそこにある。
私は神人合一の道研究家として活動をするかたわら、三つの会社の経営に携っている。
したがって、とにかく忙しい。身ひとつくらいではとても足りないのである。
だから、すべてを両立させていくには、無駄を省きながら、神助を得て一石三鳥の叡智を働かせるか、人材を育成して任せていくしかない。そこが、私の神人合一の修業のポイントだと思っている。
大金運というのも、この必要と責任ある立場から、いや応なく編み出された私のノウハウなのである。
しかし、私はこれらのことを、神人合一の道(神を覚し、神の如くなって、人としての使命を真にまっとうすること)の糧だと思って行なっている。
したがって、ノウハウというのも、神様や仏様と正しく一体となり、最小限の労力で最大限の効果を現実に表わすためのノウハウなのである。
ところで読者の皆様は、私が神霊家だから、さぞ「神だのみ」も上手だろうと考えておられるかもしれないが、企業経営や金運をつかむためには、神だのみだけではどうにもならないことを、この際だから、はっきりいっておきたい。
努力と真心、至誠の態度がなければ、どんな立派な神だのみも、神霊界に届くことはないのである。
ところで、本書では、私が経営に携っている者として今まで体験したことを踏まえながら、いかにすれば、少ない努力で大金運を射止め、正しく有効な神だのみによって、実力以上の能力と金運を発揮することができるかを説明したい。
もちろん、断るまでもないが、この本は単なる出世のためのハウツー書ではない。神人合一の道研究家・深見東州として、神霊的視点からの出世の仕方、お金の儲け方、そして、お金を使っていかにして現世と霊界と来世で幸せになるかを解説するつもりだ。
正しい心構えと努力で、守護霊と霊界の神々を動かし、より大きな金運と幸運を引き寄せ、そして、不幸の芽を未然に摘みとる。
本書をじっくり読んでいただき、かつ、実践していただけば、必ずそのようになることを私はここで保証する。
拙著『強運』(たちばな出版刊)でも述べたように、幸運とは、向こうから転がり込んでくるものではなく、こちら側から引き寄せ、
かつ、来ていただくように招くものなのである。本書のテーマである金運も、またしかり。ただ、じっと手を拱いていてはいけない。積極的に近づき、引き寄せねばならないのである。
だが――。やみくもに動きまわるのはかえって危険である。後でも詳しく説明するが、「魔界」(強いパワーをもつ地獄界)が人間の金銭欲を利用して地獄に引きずり落とそうと、狙っているからである。
だから、神霊的に見て、かつ、現実世界においても、正しい方法で金運を呼び寄せなければならない。
そうでないと、あなたが霊界に帰った時、大変なことになるし、周囲の人々や子、孫までも不幸にするからだ。
「魔界」の金運で苦しむ人々
一代で財を成す人は時々みかけるが、三代にわたって豊かな財に恵まれる家庭というのは稀である。
初代がたいへん苦労をして財を築いても、二代目はその財を維持するのがやっとで、三代目になると初代の苦労も知らずに散財してしまい、やがては没落してしまう、というのが一般的なパターンのようである。
「売り家と唐様で書く三代目」。普通はこういった現象を、ドラ息子や、ドラ孫のせいにしてしまうか、今日の税制では三代続かないようになっているからだと思いがちであるが、それは、神霊的に見ると違う。
初代の築いた財が三代続かないそもそもの原因(あるいは遠因)は、初代の財の作り方に”問題”があったからなのである。
正直にいってしまえば、人から怨みをかったり、他人を不幸に陥れて築いた財は、ほとんどといっていいくらい三代までに、雲散霧消してしまう運命にある。
その財産には、人々の怨みが浸み込んでいるからなのである。また、いくら金持ちになったとはいえ、本人の想念は決して明るくはない。
愛に満ちた充実感やほのぼのとした幸福感にいることはまれである。ましてや、無執着のすがすがしさに軽やかな幸せを感じていたはずもなかろう。
それゆえに、世に残した悪人を苦しめた客観的事実)と自らの想念の暗さ、重さ、冷たさによって、人は地獄ゆきが決定されるのである。
したがって、人の不幸を踏み台にして得られたような財産は本物ではないのである。
しかし、読者諸兄の中には、「それでもいい。とにかく金持ちになりたい!」と願っている人もあるだろうが、ちょっと待っていただきたい。
確かに現世では、金が入り、贅沢な生活を楽しむことができるかもしれないが、その期間はせいぜい五〇~六〇年である。現世での生活を終えたらどうなるのか?霊界での生活が待っている。
そこには、あなたに苦しめられた人々の怨みや呪いが象徴的にうず巻く地獄界がある。
「お前ばっかり、いい思いをしやがって。俺たちの苦労や悲しみも知らないで。呪ってやるぞ~、このやろう…」
「金だ、金だ。おれによこせ。わしにわたせ……」、という具合で、トカゲ、ヘビ、ゲジゲジなどがウヨウヨしている暗黒のドロ沼に、亡者がまっ黒な顔をして叫んでいる。
黒い岩や鉄のかたまりが、背中に重くのしかかって身を揉むような苦しみだ。そんな中に突き落とされてしまうのである。
生きている間はこういう生霊に悩まされ、死すれば、自分がやったようにやられる象徴的な刑罰が用意されているのが地獄界。
しかも、こういった地獄界での生活が少なくとも300~400年続くのだ。
こういう先祖霊を救済除霊するのは大変だ。しかし、神様にお許しを頂き、是非とも救済したいものである。この地獄界の苦しみの想念は現世の子孫にも感応するからだ。
霊界の苦しみを、子や孫が神霊的にキャッチして、その苦しみを晴らすために、本人も知らないうちに散財してしまうわけである。
そして、金持ちから貧乏へと転落し、金のない苦しみを味わうようになるのである。
これは、魔界の金運で財を成し、地獄で苦しんでいるご先祖様にとっては、一種の〝罪ほろぼし”ともなる。子孫が現世で苦しみを味わうことによって、地獄界のご先祖様は少しずつではあるが、救われているのである。
よく、資産家の二代目か三代目にバクチ好きな極道や極端な酒、女好きな人物があらわれたり、あるいはやたらと人がよくて、保証人の印鑑をついてしまい、そのために親の財産を失ってしまうことがある。
我々人間サイドの尺度からすれば、どうしようもな悪党に思えるのであるが、初代に財を成した先祖からすれば、大変な先祖孝行をしている場合もあるのである。
なぜなら、霊界では悪を為して稼いだ金は悪臭漂う汚物と化し、財産は黒い鉄の塊となって体にのしかかっているからである。
先祖はその苦しみから、なんとか逃れようとして、子孫に憑き散財をさせるのである。
そして、財産がすべてなくなった時点で、スッキリした安心感がもたらされるのである。これが、極道がどうしても止まらない人の霊的要因なのである。
だから、どんな人間も我々は裁くことはできない。本当の善悪の判断は、神のみぞ知るところなのである。
ところで、「三代前は資産家だったんだが」「昔は網元で、たいそう振りもよかったらしいが、今は見てのとおりの貧乏生活」という人も多かろう。
だが、嘆くなかれ。貧乏生活そのものが、先祖供養になっていると思えば、いく分、気も軽くなるというものである。
もちろん、そういう家に生まれてきた自分を嘆き、先祖を怨むことはない。自分が前世で行なった悪徳と善徳に相応したところにしか、人は生まれ変わらないからである。
環境を嘆かず、前向きに努力してこそ、前世の悪徳が減り、善徳が花開く。それが、来世への貯金にもなっているのだから。
本物の金運はどんどん成長する
とにもかくにも、お金が欲しい!!他人を不幸に陥れても豪邸に住みたい!と自己中心的な欲望から発せられる金運願望は、結果的に本人のみならず周囲の人々や自分の子孫をも不幸にしてしまうので避けるべきである。
では、どういう金運願望なら善となるのか。いうまでもなく、われもよし、他人もよしの心構えである。
少々、お説教臭くなるかもしれないが、本物の金運を呼び寄せるために、絶対に守らなければならない「神界の法則」なので聞いていただきたい。
もともと、本物の金運は神霊界にある。これを「福寿の徳」という。魔界にも金運はあるが、こちらは結果として金運と同時に不幸をももたらす。
したがって、魔界の金運は一時的であり、ニセ物、ということができよう。
神霊界の本物の金運を授かるためには、まず第一に、神霊界の願いに自己の希望が合しているかどうかが問題である。
神霊界の願いとは、いうまでもなく、あなた自身をも含んだ人類の幸福である。
自分だけ幸福であればいい、という考えは神霊界では通用しない。また同様に、極端な自己犠牲も神霊界の望むところではないのである。
神様は、世を救おうとする前に、まず、あなたを救おうとされるからである。自分自身も幸福にならねば話にならない。
それが神様の真意なのである。だからこそ、「われもよし、他人もよし」の精神が大切なのだ。
また、もうひとつ「われもよし、他人もよし」の重大なポイントがある。それは、金運は非常に具体的な形であらわれ、しかもその多くは、周囲の人々を通して実現するということである。
幸福感は、本人の心の持ち方である程度は変えることができるが、金運は、即数字になってあらわれるお金や、財物となって顕現しなければ意味がない。
財布の中身が空っぽなのに、「私は金運で満たされている」とひとり合点しても、むなしいだけである。財布に、〝福沢諭吉〟が大勢いらっしゃるようにならなければ、それは金運とはいえない。
だからこそ、空想ではなく、具体的に財布を豊かにするためには、周囲の人々がお金を運んでくれるように仕向けなければならないのである。
霊界が動き、人が動き、お金が動く。この法則をマスターしなければならない。
自分だけよくて、他人はどうでもいい、などと考えているところへ、誰が好き好んで金運をもたらすだろうか。
傍らで絶えず見ている守護霊達も、その気になって金運をもたらすはずもない。
「あの人のためなら、ひと肌脱いでもいいだろう」と、人にも守護霊にもいわれるぐらいになれば、金運は向こうから自動的に転がり込んでくるものである。
われもよし、他人もよし根本原理は、ここにもあるのである。
そして、神霊界が働き、周囲の人々が援助してくれるようになると、金運はどんどん膨らんでいき、成長していくものだ。もちろん、三代で財がつぶれるなどということは、よほどのことがない限りあり得ない。
福寿の徳が備わっているので、家運があり、福徳のある子孫が生まれて、それを善用し、拡張もしてゆくからである。
努力を結実させるための運
いくら努力をしても、なかなか実を結ばない、ということも多いことだろう。一生懸命、汗水たらして頑張ったのに、あと一歩のところで失敗してしまう。
あるいは、他人にいいところだけ奪われてしまう、と嘆く人をよく見かける。
努力した分は必ず酬われるこの原則は、心の成長や内面的世界においては、確かにそうなのであるが、ことお金に関する分野では、覆されるものだ。努力した分だけ、商売がうまくいき、売り上げも伸び、出世ができるかといえば、そんなことはない。
努力しても、失敗する人は多いのである。それは、商売上のライバルも多いし、皆、それぞれに必死の努力をしているからだが、もうひとつは、努力を結実させる決定的な運がなかったからに他ならない。
もちろん、先見の明や創意工夫、また、世の中に通用させ表現力が乏しい人も努力が実らない人である。
自分なりの努力と世に活かされる努力の違いかもしれないが、そういう努力をどんなにしても、まったく芽の出ない人もいる。それは、一言でいうならば運のない人である。
では、運をつかむためにどうすればいいのだろうか。
ひとつには、タイミングをつかんでいるかどうかである。運とははこぶである。
チャンスが運ばれてきた時に、それを上手につかむことのできる人は、すなわち、運がいいのである。概していえることであるが、素直にものを見ることのできる人ほど、チャンスをつかみやすく、逆に、こねくりまわして考えたり、自分の観念に固執する人ほど、チャンスを逃しやすい。
禅とは、観念的な分別の知を捨てて、この素直にものをみる心〟を培う訓練であるといっていい。禅でいうところの「無念無想」と、ヨガのそれとはまったく違う。
禅は、あくまで生活に根ざしたものであり、素直にものをみられない原因となる邪念をなくすトレーニングでもあるのだ。
禅とヨガの違いについての詳しい説明は、本題から大きく外れるのでここでは避けるが、要は、そういうことなのである。
素直にものごとと自分と相手をみるそうすれば、善し悪しが、自ずから判明し、好機を逃すこともないのだ。
これは金運だけではない。仕事運や結婚運についてもいえることなのである。
人間には、絶えず守護している霊がいて、天地の意志を知らせているのだが(俗にいう、虫の知らせや胸さわぎ、正夢などがそうである)、素直な目と心をもたない人は、そうした天地の無形の声”や知らせに気がつかないのだ。
守護霊は、人の意見やアドバイスを通して、本人にチャンス到来を知らしめようとしているにもかかわらず、肝心の本人が素直でないため、意見やアドバイスが単なる余計なお世話としか思えないのである。そして、人に嫌われ、幸運の女神にも嫌われることとなる。
ところで、我をなくせだとか、迷いを断てとか、チャンスを逃すな、とよくいわれているが、では、どうしたら我がなくなり、迷いが消え、チャンスをとらえることができるのだろうか。
そのあたりは、頭では理解できても、今ひとつはっきりしないことが多い。
私は、「素直にものをみる訓練をしよう」「素直な気持ちを人に述べよう」「ありのままの自分を守護霊に申しあげて祈ろう」と皆様に申しあげたい。
こうすることで、我があれば自然に正され、迷いの答えが、自然にハッと知らされる。
また、素直になれば、人に好かれるので人々がチャンスを与えてくれるし、チャンスのつかまえ方も具体的に教えてくれる。
だから、チャンスをものにできるのである。また、「なくせ、断て、逃すな」という禅的な否定的忠告より、肯定的な積極姿勢のほうが、より日本の神様の道にかなっているからだ。
同じぐらい努力し、同じように行動していながら、かたやどんどん出世し、かたや、いつまでも平社員のまま、ということがある。
これは、はっきりいって、運をつかんでいるかどうかの差である。
金運の場合は、特にそれが顕著だ。運をつかんでいるかどうかは、タイミングの善し悪しで決定される。
運のよい人は、チャンス到来の時に、その場に居合わすことができ、しかも、その時にもてる実力を十二分に発揮できるのである。野球を見ていると、それが非常によくわかる。
九回裏、ツーアウト・フルベースで、一打逆転という場面でバッターボックスに立てる選手は、すでにそれだけで強い運勢をもっているといえる。
あとは、日頃の練習の成果を出せばいいのである。ここでヒットを打てば、必ず年俸も上がるだろう。
同じヒットでも、こういうチャンス到来の時と、試合の大勢が決まったあとのものとでは、その価値は月とスッポンほども違うのである。
そして、不思議なもので、そうしたチャンスの場面によく立つ選手と、そうでない選手とはだいたい決まっているようである。
他の選手に「あいつにまで打順を回せばなんとかなる」という意識が働き、それが想念のパワーとして現実界に反映するためかもしれない。
打率は他の選手とさほど変わらないのに「チャンスに強い選手」は、他からチャンスを回してもらっている、ともいえるのである。
金運も、だいたい似たようなものである。「ここでひと踏ん張りすれば、金運をものにできる」という時は、誰にでもある。
このチャンス到来の時に、もてる力をフルに出しきれば、金運をつかむことができるが、チャンスを見逃して、関係のない時期にいくら努力をしても、それは単なるシングル・ヒットにしかならず、得点や勝敗に無関係なものになってしまうのである。
そして、チャンスをものにし続けていけば、やがてはリーグ優勝やMVP (つまり、巨大な金運)へと発展するのである。
「この商売の話、あいつのところへ相談すればなんとかなるんじゃないか」「うまい話があるが、少し意見を聞かせてくれ」といった具合に、「金運チャンスに強い人物」のもとへは、次から次へと、得点圏にランナーを置いた場面で、打順が回ってくるようになるのだ。
では、いかにすればチャンス到来の時に、一二〇パーセントの力を発揮できるのか。また、チャンスを勝ちとり、それを維持するにはどうしたらいいのか。そのあたりを次に探ってみることにしよう。
第一章 幸せになれる儲け方と使い方
確実に金運へ変わる才能と適性
器用であることと才能があることとはまったく違う
手先が器用な人、なんでもかんでも上手にこなしてしまう人と、才能のある人は、表面だけ見るときわめてよく似ているが、中身はまったく違う。
いわゆる器用な人これは、単にのみ込みが早くて、人より指の関節が素早く動くだけであって、それがプロとして通用するかといえば、そんなこともなく、趣味や特技の域を抜けきれない。
ところが才能がある人というのは、プロとしての実力があり、その技術はなかなか真できない。当然、世間の人たちはお金を出しても、その才能を買おうとするのである。
つまり、器用はお金にはならぬが、才能はお金になるのである。
お金になるとは、いかなることであろうか。人々が生命の次に大切にしているお金を出して依頼するほど、社会はその能力を評価し、認めているということである。
私の救霊の弟子に七澤友一郎氏がいる(氏は、かの「与作」を作詞、作曲した人。作曲に関しては私の先生にあたる)。
彼は、慶応大学を卒業した後、音楽家の道を歩んだのであるが、その彼がいうには、「いろんな友人を見ていて思うことは、どんなに不器用な人でも、真剣にギターをコツコツと一〇年やっていたら、必ずプロのギタリストになっていますね。
LPを何枚出したとか、ヒットチャートにランクされた、と華々しい活躍はなかったとしても、少なくともギター一本で飯を食っていくことは可能ですね。しかし、その一〇年がなかなか続かないのです」
二~三年やったぐらいの実力なら、ちょっと器用な人ならすぐ真似できる。
しかし、一〇年一生懸命やった人の実力には、少々器用な人が逆立ちしてもかなわない、腕の差があるのである。
誰も簡単に真似できない、その人だけがもっている実力。だから、その人にお金を出してお願いするのである。
プロの道は厳しい。それは、お金を払うに価するかどうか、スポンサーの目が厳しいからである。
その目に立派に応えて、相手に「なるほど、素晴らしい」と感動させる実力を、常にここ一番という時に発揮できないといけないのである。まぐれ当たりは、本物ではない。
お金を出す人の価値観とニーズを知って、期限内に常に最高のデザインを提供できるプロのデザイナーと、単にデザインが好きで、美術学校にいっていたというデザイン好きな人とでは、心構えにおいても、日頃の努力においても大きな差がある。
それが、ますます実力、能力の違いとなってあらわれるのである。
前者は、常に顧客の厳しい目の中にあって、そこで勝負しなければならず、妥協は許されない。
もし顧客の目に応えられなければ、他の業者に仕事は発注されてしまう。
だから、強く研ぎすまされた精神力が必要となり、こうした鍛練が、才能をより一層伸ばし、それが金運につながっていくのである。
「器用貧乏」とはよくいったものである。だから器用だけが取り柄の人は十分に気をつけて頂きたい。
あれこれ移り気せず、ひとつのことに集中し、大成するまで頑張る(最低一〇年間は頑張ること)ということが大切である。
多才な人は、このように一〇年で一芸ずつ、着実にプロとしての道を完成させていくべきであろう。
その意味で、自分自身にどんな才能、能力があるのかをしっかり見きわめ、器用という次元にとどまらないように精進努力するべきである。
「芸は身を助く」ともいう。才能を磨いて、せめて芸を完成させるぐらいにまでしておけば、食いっぱぐれないということである。財力に代えることのできない能力というのは、つまりは本物ではないということなのだ。
能力だけで、金運をあえて無視する人生もまたよい
世の中には、人もうらやむような才能の持ち主がいるものである。文章はうまいし、英語もペラペラ、記憶力も抜群だし、人柄もよいところが、なぜか貧乏長屋に住んでいる、という人もいる。
先ほど説明した「財力につながらない能力は本物ではない」という内容と少々矛盾する話であるが、明らかにプロの才能と呼べるものをもっていながら、財に恵まれない人はいるものである。
理由はしごく簡単である。金持ちになりたい!という欲望がないからである。自分の才能を伸ばしたい、そして、芸に生きることそのものに幸せを感じるという意識が強くて、金運をことさら招こうとはしないのである。
したがって、こういう人は別段、金運に恵まれないからといって、不幸だと感じていない。自分の才能を磨き、そして伸ばすことが至上の幸福だと信じきっているのである。
金よりも、もっといいものが他にあるという人は、往々にしてこうだ。将棋の坂田三吉や関西落語の桂春団治などが、その部類に入るのではないだろうか。
金運があっても、こうしてあえて金に生きない人生もまたよい。本人がそれで幸せならばそれでいいのである。
お金とは、そもそも人が幸せになるための物質的手段に過ぎないからだ。
しかし、本当に能力のある人物は、たとえその本人が生きている間は裕福でなかったとしても、必ず子孫は富を得るようになる。
生涯、苦労を重ねて小説を書き続けたが、いっこうに世の人々に認められなかったものの、死後、作品が高い評価を受け、そのために子供や孫に印税が転がり込むことだってあるのである。
このように、ズバ抜けた能力をもつ人は必ずしも裕福とは限らないが、いつかはその才能が認められる時がくるものであり、その時に金運も開花するのである。
むしろ、生前、金儲けに走らずに、じっくりと才能を伸ばすことのみに全精力を注ぎ込んだからこそ、死後、人々に認められるような作品を残せたともいえるのである。
そう考えると、世の中は実にうまい組み合わせになっているものである。
また、せっかくの財産を、恵まれない人々に分け与えたりして、自分は貧乏暮らしに甘んじている人もいる。こういう人は、死後、第三天国へいける。
才能は前世の修業のたまものである
ところで、才能とはいったいどこからやってくるのであろうか。
たいていは、すでに生まれ落ちたときから、才能の芽は身に備わっているものであり、才能がなければ、いくら本人が好きな分野にあって努力したとしても、現世においては、さほどの実績を残せないのが常である。
たいていの男の子は小さい頃、将来は野球選手になりたい!と思っているが、せいぜい中学のクラブどまり。プロになれるのは、ほんの一握りである。野球はまだわかりやすいが、どうみてもその分野の才能がないのに、一生懸命に努力している人を時々見かける。
本人には大変失礼だが、もっと別の、才能に合った方面でカを発揮されればよいのに、などと思ってしまう。
「そういうことをいったら、努力する甲斐がないではないか」とお叱りを受けそうであるが、さにあらず。もう少し、私の話を聞いてほしい。
神霊界から見ると、才能とはその人物の前世の勉強や特技、あるいは努力といったものに大きく影響されている。
前世とは文字通り、その人物が生まれる前の人生であるが、前世と現世の人物が同一かといえば、そんなことはない。
前世の自分の要素が残っているのだ。拙著『強運』でも説明したが、前世の魂は、現世の人物の脳の奥底、一般にいわれるところの潜在意識の中に住んでいるのである。
たとえば、漫画家の松本零士氏は前世が中国の史家、司馬遷である。司馬遷と松本氏はまったくの別人であるが、歴史を発掘しようとする司馬遷の意識は今も松本氏の潜在意識の中にあって、松本氏が歴史に対して、強烈な興味をもつように仕向けているともいえるのである。
また、今までに私が前世を鑑定させていただいた人の中では、ファッションモデルの山口小夜子さん(前世は、かぶき踊りの創始者・出雲の阿国)や作家の林真理子さん(前世はフランス人で、弁護士で教育者、しかも文筆家でもあるラ・ブリュイエール)などは、現世で才能を伸ばして発揮している職業と、前世が非常に深く関わっていると言える。
もちろん、前世に名を残した人が今世にも名を残し、前世に無名だった人が今世も無名とは限らない。
むしろ、その逆の方が多いくらいである。神霊界の法則から言えば、一般に、無名の時に徳と精進を残した人は、それが積み重なった次の世では、よき名を残すことができる。
ところが、名を成した時に、徳分と精進を残さなかった人は、次の世では無名で過酷な生涯を送ることになるのである。
ところで、人は前世と共通する職業につき易いというのは、決して偶然ではない。というのは、前世の意識が、本人に「なんとなく、こういうことがやりたいなぁ」と思わせるのである。
この”なんとなく”というあたりが、実は前世の意識なのである。理論や理屈では割りきれない部分、ここが大切なのだ。
だから、あなた自身がなんとなく気が向く、興味が湧く、好きになる、勉強もしないのに結構成績のあがる課目があるというのは、前世にその分野で一生懸命努力して、才能を伸ばそうとしていたのだと考えられる。
だから、現世もその分野に全力投球すれば、前世でやり遂げられなかった、偉大な実績を残すことができるかもしれないのである。
つまり、才能の完成をマラソンレースにたとえるなら、すでに前世で二〇キロぐらいを走り終え、あなた自身は残りの二二キロを完走すればよい、というわけである。
来世に残す三つの徳分
これを逆に考えれば、来世のため今、預金(才能)を残しておくことも可能である。現世ではチャンスに恵まれなかったが、来世は必ず人々の頂点に立つような能力をもって、生まれようというわけである。
こういう発想方法を、日本人はあまりやらないが、中国人や韓国人は日常的に考えている。自分から後七代目に、国家的な人物を作るために、徳を積み重ねていこう、というわけである。
そのために、今から準備しようというのだから、気が遠くなるほど根気があってスケールが大きい。
私も、これに見習って、後の世に徳を残すだけでなく、人生二万年計画というものを打ち出している。
つまり、再生転生を二万年ぐらい繰り返して努力を続ければ、必ずやお釈迦様やイエス様を追い越し、ミケランジェロやダビンチをもしのぐことができるだろうという夢である。
根気が、長くかつ強い者が最後に勝つ、と信じているからである。
実は、これぐらい遠大な人生計画を立てると、臨終の日まで前向きの努力が可能であるし、この本に書いておいても、二万年も経てば、私がこんなことを宣言したなどとは、きっと誰もが忘れているだろうから、ま、安心である。
ともかく、この目標で日々精進努力しているのである。この点に関しては、中国人に勝っていると思うのだが・・・・・・。さて、本題に戻ろう。
現世の努力が来世、あるいは霊界で活かせるものは三つある。
★学問
★芸術
★信仰心
である。学問とは探究心であり、理解度であり、咀嚼力であり、努力する姿勢である。世にいわれる、「生まれながらにして頭のよい子」は、前世、かなりの勉強家であったと考えてよい。
次の芸術とは、俗に「センスがいい」ということになる。音感がいい、色彩感覚が鋭い、鑑賞眼がある、自然を限りなく美しいと感じる、などである。
最後の信仰心とは、仏様やお地蔵さんを見ると、思わず手を合わせてしまうといった意識である。
また、心がとても素直で、ストレートに神仏を感じられることも、やはり前世の信仰心のおかげだといえる。
以上の三つの要素は、きわめて感覚的な世界である。この感覚的な世界は、すなわち御魂の世界なのである。ここで会得したものは永遠であり、霊界にも、来世にももっていける、無形の宝物であるといえるのだ。
それだけに、なかなか結果や実績としてあらわれにくく、一概に努力といっても、一週間汗水たらして労働したら賃金はいくら、という具合にはいかない。
自分の感覚を研ぎすませながら、少しずつ世に通用するべく努力を積み重ねていかなければならないのである。
しかし、この三つを高めていくことは人生におけるところの「徳分」を積むことにもなる。むしろ、天国に宝を積むという視点からすれば、徳分はどんな黄金よりも価値があるといえよう。
はっきりいって、徳分は金運に勝るのである。が、見方を変えれば、徳分を積みさえすれば、金運はあとから自動的についてくるものだ、ともいえるのである。
徳を積むとは、自分を含めた世の中というものに、口と心と行ないで益することを為すことである。
だから、自分の心や体や感覚を豊かにすることも徳積みの一つであり、また始まりなのである。そうなれば当然、霊層もアップして、守護霊の働きもより一層強いものとなる。
また、死んで霊界に入ったのちも、相変わらず徳分を積むための修業は続く。要は生き死にに関係なく、いつでも、どこでも、どんな時でも、徳分は積み続けなければならないのである。
「嫌だな、面倒だな」と思っても、これが永続的に幸運と出会い続けるための神霊界の法則なのだからしかたがない。幸せのために、為し続けよう。
今からでも遅くはない、三つの徳分を伸ばす努力をしよう
与えられた仕事を嫌々やっていたのでは、いつまでたっても仕事を覚えないし、出世もしない。人間的な成長も望めないし、当然、金運もやってこない。
才能を伸ばし、金運に結びつけるための日常の心得は、先に述べた三つの徳を積む覚悟でいることだ。
仕事上で学ぶべきものは、すべて学問を磨くための糧とし、上司や同僚とうまくやっていこうとする心は、すなわち信仰心の糧であり、センスを高めていくのは、芸術の糧、という具合に考えるとよい。
家事でも同じように、三つの要素に分けるようにする。料理を作るのは、芸術のひとつ、夫や姑の小言を聞くのは信仰心の訓練のひとつ、家計をやりくりするのは学問のひとつ――こう考えれば、人生はすべて、徳を積むためにあるようなものではないだろうか。
常日頃から、こんな発想でいると、人生は楽しくてしようがなくなる。また、試練も進んで受けることができるようになり、物事をウジウジと後ろ向きに考えなくなる。
この態度は、実は守護霊が最も喜ぶところであり、金運はおろか、家庭運や健康運など、なんでもよき運を強力に引き寄せるようになる人生観なのである。
さらに、すべてを積極的に行なうようになるため、自らの内面に潜んでいた思わぬ才能が芽吹くこともあるのだ。
金運、金運と、目を皿のようにしてしまうと、どうしても形あるものに心を奪われがちになるが、一歩高所からものを見るようにすると、何が大切であり、何を為さなければならないのかが、自然とわかってくるものなのである。
才能がない、金運がないと不平不満をいう前に、もう一度、自分自身の日常生活をふり返り、どれくらい徳分を積むために努力をしているのか、を点検してみる必要があるだろう。
善事を始めるに遅い、ということはない。今から、さっそく、自身の内にある徳分を高めようではないか。
実をいえば、永遠の金運を作り出す秘訣は、ここにあるのである。
絶えず、学ぶ姿勢を崩さず、この世の学問はもちろん、深く神霊界の真理にも目醒めるようにしたい。
そして、芸術を愛して美しいものを心の底から求めるようにして、さらに辛い立場にあっても、苦労と思わず、これで信仰力が養われると感謝することである。
こうすれば、自分自身の人生で徳を積むことになり、かつ、霊界へも徳を積んでいることになる。
さらに、守護霊をも喜ばせ、運を向上させ、多くの人々も善の感化力のおかげで幸せになれる、という具合に、完全なる「善の循環パターン」に入っていくのである。
そして、早い話、徳はイコール得、ということになる。
これで、金運は汲めども汲めども尽きることがない神の泉のごとく、永遠にあなたとあなたの子孫を潤すことになるのである。
秀才型人間になれば出世は間違いなし
天才型は、どちらかといえば自己の殻の中で自分なりの世界を作ってしまい、対人関係やら対社会的なことについては無頓着な面が多々見うけられる。
それがもとで財運を成すことができない人が多いが、秀才型の人物には才能プラス気くばりがあり、才能がそのまま金運に結びつきやすい。
特に、現代社会のように協調性が第一と考えられている時代では、八方に人当たりの AB型人間(?)のほうが出世の確率は高くなるだろう。
公務員や大企業等は、この傾向が強い。大勢の足並みを乱すほどの才能の持ち主は、こういう会社では逆にけむたがられる存在でしかなくなる。
したがって、自分が天才型人物だと思ったら、迷わずベンチャー企業、これからどんどん伸びる将来性のありそうな中小企業、中堅企業へ就職するといいだろう。
あるいは、自分で資本金を貯めて会社を作り、そこで思う存分に才能を発揮するに限る。
天才型、秀才型の違いについて、弘法大師・空海の逸話の中におもしろいのがあるので、紹介してみよう。
ある日、弘法大師は手紙をもらった。手紙の内容とはこうである。
「私の上司は、私のことをどうしても理解してくれない。私が諫言をしても、上司はそれに反発するだけで、聞く耳さえもとうとしないのです。
私は、いっそのこと、宮仕えをやめてこの上司のもとを去ろうと考えています」
まあ、今風に訳すと、こんな内容であった。手紙の主人公は非常に頭がよい、いわゆ天才タイプ。ところが上司はごくごく普通の凡人であって、天才の語る言葉は確かに正論であるが、かといって、上司という立場やプライドもあり、そう易々とは天才のい
う通りにはできないのである。弘法大師は、こんな返事をお書きになった。
「正しい諌めは、善の心の発揚であり、古えよりこれはもちろん善である。しかし、問題はその方法である。理論や理屈で勝っていても、人はそれだけでは屈服しない。
だから、ともかく、相手にわかるように、ゆっくり説明し、そして上司と同じことをすればよい。
一緒に行動して、間違いに気づけば、上司もきっと納得するだろう。
たとえばA案、B案があり、自分はどう考えてもB案がいいと思うのに、上司はA案がいいと信じて譲らない。
そんな時、B案がいいとディベート(議論)するのではなく、とりあえず上司と一緒にA案で動いてみる。そして『やっぱりダメでしたね」と納得してA案をあきらめさせる、というのが正しい態度だと思う」
これを仏教では「同事」といい、仏様も我々を導かれる時、事を同じくしながら善導されるのである。もうひとつは「和光同塵」という。
高すぎる神霊界の光を、低いレベルで生きている人々に当てても、その人々はただまぶしく感じるだけで、とうていそれが何であるのかを理解しえない。
だから塵の中に住む人を救うためには、自ら塵の中に入っていく必要があるというのである。相手の霊層にこちらが合わせることが重要であって、高邁な理屈をいくら並べ立てても、相手が理解し、納得しなければしょせんはむだなのだ。
このように、智恵の光と才能をすべて相手にぶつけるのではなく、相手のレベルに合わせて自在にコントロールすることができることを「和光同塵」の働きというのである。
「光を和らげて、塵と同じくす」ということであり、大日如来の光明はまぶしすぎるので、寂光の地蔵尊となって地獄界の諸々霊を導かれるのは、この働きによるものなのである。
こんな気持ちで上司に諫言をしてみたらどうか。そして、その努力の結果、どうしてもだめだったら、方向を改めればよい。
くれぐれもくれぐれも早まらないように――と、ていねいに手紙に返事を書いている。これは、少々原文とは離れた意訳ではある。しかし、こういう返事をしたという弘法大師が実在したことは事実なのだ。
この手紙から推察できることは、あれだけの大天才だった弘法大師・空海も相当な葛藤と試練の中で、真言密教を広めたということなのである。
三一歳で真言第八祖(七祖は恵果で、祖とは正統の伝承者というような意味)になって帰国したが、十数年以上経っても「ああ、こんなにすばらしい真言密教であるのに、世にはなかなか広まらない」とのため息が、その言行録にも見られる。手紙の差出人以上に、大師も苦しんでいたのである。
こうして、大天才であった弘法大師が、修業を積み重ねることによって、ようやく達し得た境地がすなわち「和光同塵」の世界であったはずだ。
あたら、自身の内の豊かな才能の芽を、つまらぬ人間関係のイザコザで摘みとってしまうのは、あまりにももったいない。
才能は伸ばすためにあるのだ。そのあたりをじっくり考えて、大組織の中にいる天才型は、一見秀才型として、今の世の中(昔もそうであったが)を生き抜くべきだろう。
弘法大師と伝教大師の違い
「和光同塵」の精神に対して〝潔癖”であろうとしたのが伝教大師最澄である。“正しいものは正しい”として、あくまでも貫き通す、という精神と態度である。
これも、ある一面では正しいし、また、人間はそういう一面、つまり、絶対に譲れない世界をもたなければいけないことも確かである。これも、いうならば、天才タイプともいえるだろう。
同じ仏に仕える身でありながら、弘法大師と伝教大師、どうして二タイプの考え方が出てきたのだろう。
それは、それぞれがたどってきた人生のプロセスの相違が原因である。
伝教大師最澄が、すでに当時十指に入る程の身分ある僧であったのに対し、弘法大師空海は、一介の私度僧から、身を興して道を弘めねばならなかったのである。
だから、非常なる苦労を強いられた訳である。しかも、その苦労は極めて現世的であり、寺を開くために人々に何度も何度も頭を下げ、ゴマをすらねばならなかったのである。
仏へ頭を下げるだけではなく、南都六宗の僧全てにも頭を下げることができた弘法大師は、おそらく死ぬほどの屈辱を味わった末に、この境地へ達したのであろう。
死ぬほどの苦しみとは、すなわち「私よりも、頭のレベル、知識のレベル、霊力や霊層のレベルが低い相手に対しても、最高の仏に仕える身でありながら、なぜ、こうも忍耐忍耐で頭を低くしなければならないのか」――と。
また、歴史をみれば、スイスイと嵯峨天皇様に引き立てを受け、天才ぶりを発揮して、すばらしい業績を打ち立てた如くであるが、身分もバックアップもなかった空海にとっては、本当にゼロから築き上げた地位と名誉であったに違いない。
弘法大師は、「欲望こそ宇宙の生命力である」と説いたが、この欲望を真摯に見つめることによって、初めて、人間というものの本質がわかったのである。
真の天才とは、ここまで見通した者であろう。また、私としては神に対する姿勢は伝教大師を見習い、世に処するあり方は、弘法大師を見習うべきだと思っている。
しかし、残念ながら死後の世界においては伝教大師最澄のほうが上なのであった。
南都六宗すべてを敵にまわして戦い、志半ばで没した最澄であるが、心は純一無垢であり、国家の国宝たる真の人材を育てようとした大御心を常に抱いていたのである。
これに対して弘法大師は、なんとか真言密教を広めようと努力し、苦心していたのである。
慈悲は両者共に深かったが、純一さと心の広さで最澄は勝り、天台の教えのほうがより神ながらの神霊界の道にかなっていたのである。
肉体を脱いで霊界へ入った直後は、伝教大師のほうが七ランク上であったが、以後、最澄は法然、親鸞、日蓮、道元、栄西、一遍上人と次々に英傑を比叡山に案内し、霊的教育を霊界から行なったのである。
そして、聖徳太子の霊とともに、時代時代に合った国風の仏教を興し、国家の興隆に尽力したのである。
そのために、霊層が急激にアップし、弘法大師と二四ランク以上も差をつけたのである。
一方、幽界修業に明けくれた弘法大師の霊は、死後千年目の入定記念の年から、新しい活動を始める。
そして、拙著「神霊界」(たちばな出版刊)でも詳細したが、大きな時代の変動期に際し、大本教の出口王仁三郎と合体して生まれ変わったのである。
王仁三郎=弘法大師の生涯は成功も失敗もあったが、霊的革命の地ならしの役を終えた大師の霊は、これで霊層をアップさせることができ、最澄との差をようやく二ランクにまで縮めることに成功したのだ。
王仁三郎の七八歳の生涯を導くのは、彼でなくては務まらなかったであろう、実際大変な苦労と同時に功でもあったのだ。
伝教大師が比叡山に千年間かけて人材を集め、育てた霊界の功を、弘法大師は王仁三郎として七八年で追いつくだけの苦労と功徳を積んだのである。
しかし、弘法大師は、幽界修業中、高野山で人が育たないことを、七〇〇年以上も嘆き続けておられた。
「頑固を張らずに、もう少し簡略化して日本風にすればよかった」と語っておられた。
だが、弘法大師が世に残し、庶民の心の救い主となり、また、高野山の日本国に果し役割は絶大なものがある。
伝教大師、弘法大師の霊層について論じてしまったが、私自身正直、両者に対して批判するつもりなど毛頭ないこと、また、批判する立場にないことははっきり断っておきたい。
ただ、日本神霊界より見た、両者の霊的使命の相違であって、一時期、現世と霊界で優劣がつき、神(宇宙創造とあらゆる次元界を統括する主神)の尊い任務を果たしておられるのだが、本来、弘法大師は父親的役割で神人合一の型を示し、伝教大師は母親的役割で神人合一の人材を育くんでいく母体作りを為したのである。
日本仏教の歴代の宗祖は、比叡山で学び、高野山で仕上げをして、一厘の妙を神様から直伝されている。
聖徳太子が植えた仏教の種は、この二人によって陰と陽で開いたのである。その意味からすれば、何人もこの二人の優劣を語ることなどできないのである。
なぜなら、霊層は上下したとしても、最終的には同一レベルに帰す(両者とも最高レベルを目指している)からである。
美しい花を支えている汚れた根を知ればものの本質が見えてくる
すでに「強運」や「恋の守護霊』、それに「神界からの神通力」(共にたちばな出版刊)等で説明したが、たいていの人には、多かれ少なかれ霊障というものがついている。
霊障とは、先祖の悪因縁や自身の悪劫が原因で、怨みの霊にとりつかれたり、大蛇の霊がまとわりついたりしていることで、病気になったり、事業が失敗したりする。これをきれいに取り除けば、もちろん、あっという間に幸運がやってくる。
それが私が行なう救済除霊というものだ。これをすると、少なくとも、大金運や幸運の結実成就率は、無形のうちに妨げるものがなくなるので、数倍早くまた確実なものとなる。
しかし、霊障の原因となっている因縁が最も端的な形としてあらわれるのは、その人の発想、ものの見方なのである。どういうことかといえば、想念のゆがみは霊界のゆがみ。
霊界のゆがみは霊障によるゆがみ、となるからである。そして、因縁の強い人は「ねばならない」とか「であるべきだ」と、考え方がことごとく極端なのである。
また「私はこう思「う」と決め込んだら、テコでも動かなくなる。それが、信念とか愛情という次元ではなく、単にマイナス的に「わがまま」で「頑固」であるところが、因縁が強いという特徴なのである。
それを修養で改めることができれば、自分で霊障解決がある程度できたことになるが、往々にして発想が暗めに偏り、しかもそれに固執する。
こうなると、すべ自己中心に考え始め、他人の意見に耳をかさなくなる。潔癖すぎる人というのは、たいていこのパターンに陥っている。
花は、あくまでも美しくなければならない、との考えに固執すると、地下にある根の部分はどうしても意識の中から消える。
しかし、美しい花を支えているのは、地中の根なのである。
客観的に花と根を比べれば、確かに根のほうが醜い。が、この部分を無視することはできない。より美しく、より丈夫な花を咲かせようと思うのなら、それに見合うだけの強い根が必要なのである。これは人間と同じである。
人間にたとえれば、根は欲望、本能ということになろうか。弘法大師は、人間にとっての欲望の大切さ、花における根の重要さをしっかり見きわめ、欲望と人間、根と花、これをひとつの「美」としてとらえたのである。
少々理屈っぽい話になったが、要するに我々人間は、自分自身も相手も、美しい面ばかりではない、ということなのである。
さらに、表面には出ない根の部分を知ることによって、本質がわかってくるのである。
美しさや潔いものばかり求めている宗教家や慈善家は往々にして、醜悪な面を見ようとしないが、これは間違いである。
この世で出世をし、人望厚き人というのは、例外なく花も根もしっかり見ることができる。
そうでなければ、人々は誰も彼を慕ったりはしないだろう、汚い部分も見て、それを許してあげることができる、そんな人は寛容性と包容力が備わり、必ず出世をし、大きな金運をつかむことができるのである。
どうして悪人ばかりが金儲けがうまいのか
「悪銭身につかず」というが、どういうわけか、今の世の中、悪人ばかりが金儲けが上手なようである。
有名な「豊田商事」や「投資ジャーナル」事件など、口八丁手八丁で、巨大なお金を手にした人物もいる。
この二つは、ご存じのように、因果応報という結果で幕を閉じたが、これなどはほんの氷山の一角、本物の悪は、なかなか表面には出てこないものなのである。
「悪い方法でお金儲けをしても、死んでから地獄で苦しむだけ。しかも、三代は続かない」などと、つぶやいてみても、悪人のほうばかりに、お金が流れていくのは、なんとしてもくやしいではないか。
たいていの人々は、善人に多くのお金が集まり、悪い心の人には、その酬いがくる、というのを自然の法則”だと信じているし、私もそう思う。神霊界とて同じ考えであろう。
ところが、現実界はまったくの逆。「正直者がバカを見る」ことも少なくはない。
いったい神の御威光はどこへいったのか!などと、愚痴のひとつもいいたくなる心境である。
善人には善人の金儲けのルールがあり、悪人には悪人のルールがあるのだろうか。それが違うために、悪人のほうに金がいってしまうのかと、私も一時は深刻に悩んだこともある。
だが、ある時はっきりとわかったのである。どうして善人は損をし、悪人が得をするのかが。
この違いは、念力、執念の差なのである。
「なんとしても金を儲けたい。他人を押しのけ、踏みつぶしても、俺は金持ちに絶対になるんだ!」
これは、悪いほうの考え方である。だが、その執念はすさまじく、寝ても醒めても、金、金、金である。
なにしろ、極端な場合は、人を殺してその保険金を狙うというぐらい、強烈な金に対する想念を作り出している。生半可な思考回路ではないのである。
強い想念は霊界を動かす。時には、想念自体が霊(これを生霊という)となり、人にとり憑くことがあるくらいだ。想念と霊界は、ある意味では同次元の存在ともいえるのである。
したがって、金、金、金と四六時中、想念を出し続けると、その霊界がやってきて、強い金運をもたらすのである。
ところが、善人と呼ばれる人たちはどうか。
「お金なんて、自分たち家族が幸せに暮らせるだけあればいい。子供が病気になった時、医者にみせられないのは困るが、特に贅沢はしなくてもいい。
他人を押しのけてまで金を儲けようとは思わない。金儲けより大切なことは、他にもまだたくさんあるのだから」という具合で、トンと金儲けに意識が向かない。
無欲で意識がないというのは、想念もないわけで、したがって、金運霊界が大きく働くこともない。
霊界も働かず、強い想念もなく、意識も執着心もない善人と、目的はともかく、想念金運霊界へ向けて発し、意識も執着心も脂ぎっているような悪人とが、金儲け競争をしたところで、しょせん勝敗ははっきりしている。
どうして、悪人ばかりが金儲けがうまいのか。その理由がこれだったのである。
正しい欲望を強くもつ善人となることが一番よい
では、善人はいつまでも、悪人たちの風下に立たなければならないのかといえば、決してそんなことはない。
善人は概して無欲であり、悪人は強欲である。この欲望の差が霊的パワーと念力の差にあらわれ、あるいは迫力の差となってあらわれるだけで、善人も正しい欲望を強くもちさえすれば、悪の力に屈することは断じてないのである。
生きている現実社会では負けても、死んで霊界にいったら悪人に勝つ―などという発想はもたないほうがよい。現実界で悪に勝ち、死んでもまた悪に勝つ、という大義をもつことが望ましい。
特に、信念や念力の差が直接、具体的な量や数値となってあらわれる金運においては、なおのことである。
悪を打ち砕いて善は勝つ!という強い信念があれば、自然と集中力が増し、粘りも出てくる。また、意識も高まってくるので、守護霊等、神霊界パワーも全面的バックアップ態勢に入ることができるのである。
これが金運霊力を構成するのである。
こういう、正しい欲望をもつ、という発想が、どうも宗教人を初めとして、一般的な日本人はニガ手のようである。
だが、正しい欲望なくして、強力な悪のパワーに打ち勝つことはできないのだ。このあたりを詳しく説き、欲望を肯定してそれを正しく運用することを薦めたのが、他ならぬ弘法大師である。
また、日本の歴史上、霊的、社会的、政治的悪に絶対に屈することなく、抜群の善人パワーを発揮したのが、ご存じ日蓮上人であり、近年では大本教の出口王仁三郎だったのである。
しかし、ここで注意しなければならないのは、欲望といっても、自己を中心としたものは絶対に避けなければならない点だ。
欲望イコール自己中心であってはならない。「自分が金をもつことは、より多くの人々の幸せに役立つことであり、それこそ神霊界の望むところである」と、強く信じながら、大きな善の夢をかなえるんだ、という欲望をもって励むべきであろう。
だが、これも「金、金、金」の想いが先に立つと、執着心にかられてしまう。
あくまで、「人もよかれ、会社もよかれ、取引先もよかれ」の想いが七割以上先行し、三割ぐらいが、「ちゃんとお金もまわってきますように。いや、必ずまわってくるのだ」と強く信ずることである。
後述する土光敏夫氏の如くである。「もっと大きな善を、もっと物事をよくし、人間を幸せに導く強いパワーを」と念じつつ、これから説明する金運三神や七福神へ願いをかければ、必ずや巨大な金運があなたの頭上にうず巻くはずである。
自己本位の金運願望をもつ人は多いが、神霊界本位、皆の幸せ願望本位の人は、本当に少ない。だからこそ、今、神霊界パワーを使って金運を動かす、大きな人材が必要だともいえるのである。
また、大きい望みを抱けば、自分だけの金儲けなどとるに足らない小さな願望であることに気がつくだろう。
目標を大きく設定すれば、小さなお金など、吸い寄せられるようにどんどん集まってくるものである。
魔王の支配する金は魅力的だが危険がいっぱい
ここで、しばらく、お金、というものについて考えてみたい。
「なぜ、この世の中にお金が存在するのだろうか」と、疑問に思われる方も多いだろう。
特に、お金が一銭もない時は、金が欲しいと思う前に、きっと、「世の中に金などなければいいのに」と感じるのではないだろうか。
お金とは、物、つまり、物質世界での頂点にあるものと考えていただければよいかもしれない。
お金の金はキンとも読む。キン、つまりゴールドは何万年間も錆びることなくその光沢を保ち続け、物質の価値を計るバロメーター的存在でもある。
誰がそのように決めたわけでもないのに、人類の長い間の知恵が、自然とそうさせたのである。
ところで、人間は形の上では物質的存在だが、無形の世界からいえば、気や霊のかたまりである。だが、その霊(一霊という)が活動する時は、四つの魂として機能する。
四つの魂とは奇魂、和魂、幸魂、荒魂、といわれるものなのである。
奇魂は智や直観、和魂は親しさと調和、幸魂は愛や情、荒魂は勇気や忍耐力のことである。
これらを総称して一霊四魂というのである。本来的な価値からいえば、肉体はいつか土へ還っていくが、人間の霊は永遠であるところから、物質ではない霊的存在だといえる。
つまり、肉体をもった人間は物質界と精神界の両方に存在しているわけだが、人生の本義から考えれば、神霊的生物だといえるのである。
そして、この精神界を善でコントロールしているのが、実は「神」(むずかしい定義はべつの機会で説明するとして)なのであり、物質界を支配しているのが、「魔王」なのである。
そして、この神と魔王を包含し、善も悪も超越しているところに、本当の絶対的主神がいらっしゃるのである。
中国思想でいうならば、悪と善は陰と陽であり、鬼と神である。そして、太極とはこの陰と陽が未発(まだ陰陽に分かれていない)の世界をいうのである。これと同じことだと思えばよい。
かところで肉体的欲望にばかり浸っている人間は、すなわち魔王に支配された存在といえ、肉体を通して精神世界を高めていこうとしている人間は、神の支配下にあるといえる。
少々、短絡的な発想だな、と考えておられる読者も多いのではないかと思うが、神霊世界を自由に見聞できる私からすると、これは間違いではない。
物質世界は悪である、といっているわけではない。物質世界を支配しようとする心、あるいは、それのみに心を奪われてしまうことが、すなわち魔王の狙い目であり、その心に悪が住むのである。そのあたりを混同しないでいただきたい。
そこで、再び金の話にもどるが、金に心を奪われ、金を儲けることのみに全神経を集中し、心の鍛練や内面的向上を忘れてしまうと、これが魔王の支配するところの金運となる。
確かに、金は集まるだろうが、人々の幸福や自己の精神がそれによって神霊界の上部に近づくことはない。むしろ、心はすさび、贅沢な生活に浸っても何かむなしさと不安が残るものなのだ。
魔王の発想というのはこうである。
「ただ、金さえあればいい。肉体がある間、自由で楽しく、酒池肉林の生活をおくれればよい。そのためには金だ、金を儲けることが一番なのだ」
ともすれば、我々はこの発想に陥りやすい。人間の欲望が、そのように仕向けるではなく、発心、つまり、幸せの判断基準を肉欲のみにおいているから、魔王のトリコになってしまうのである。
この逆にキリスト教的な純粋な心のみが、神の世界であり、精神世界だと思い込む傾向もある。
皮肉なことに、神に近づいたつもりが実際は潔癖性を前に出した魔王のほうだった、ということもある。
本当の神霊界は、もっと”玉虫色”である。自分の満足や充実をも含んでおり、また、物質界の喜びも決して否定はしていないのである。
精神を主とし、物質を従とする正しいバランスを尊重しているものなのである。
神霊世界の幸せのため、自分と多くの人々の幸せのためというところに幸せの基準をおき、ここから金運をつけたいと発心すれば、それはすなわち、神がコントロールする金運となるのである。
同じ金運でも発する心が違えば、魔王のそれと神のそれとに分かれて、まったく異なるものとなる。
