第一章 開祖の誕生
はしがき
大本は、開口なおの”神”によって、明治二十五年の旧正月、京都府綾部で誕生した。火山の予兆なき大爆発にも似た、劇的な誕生であった。
それから九十年あまり、乱と曲折をかさねながら大本は生長した。明治、大正、昭和の三代にわたって、人類史上もっともはげしい変化をとげたといわれる近代日本の歩みのなかで、あるいはそれに先行するような、教団の歩みであった。
動する時代の波をもろにかぶり、かずかずの試練に耐えながら、その純粋性を貫いてきた。
大本では、開祖出口なおとその女婿である出口王仁三郎を共に教祖と仰いでいる。一つの教団で二人の教祖をもつのは、他に例をみないが、ここに大本の特徴がある。なお、神々のことばである筆先によって国の神の出現を告げ、王仁三郎は天啓によって教えを大成した。
大本では、開祖の本霊は、型師は霊とされている。霊は父神であり、至至直、タテ糸の働き、火の働きであり、瑞霊は母神にして、至仁愛系の働き、水の働きである。火と水の調和によってすべてが生かされるように、タテヨコ糸が揃って錦が織りなされる。
神の大目標たる理想社会――みろくの世がこうして実現する、と信奉されているのである。
いま一つの特質は、大本は人為的につくられた教団ではなく、神の経綸によって生まれ、神の手によって操作されて来た集団だということである。
経綸という言葉は一般にはなじみがうすいが、天下を治めるための方策、仕組という意味で、この世は神の経綸によって、仕組まれ、動かされ、完成に向かうと、大本では説かれている。大本自身、その発祥の経緯からみても、全く人間のはからいを越えたものである。
神の意志は、はげしく、急であった。大本のうごきは、なおのこころをうけ、王仁三郎に導かれて、人々をおどろかせ、時には社会を震撼させた。
大正十年には第一次大本事件が起こり、昭和十年には第二次大本事件が起こって、形の上では壊滅させられた。しかし、宗教史上類まれな大弾圧も神の意志をまげることはできず、大本はいま生き生きと生長をつづけている。
なおの生涯は、清貧洗うなかにあって、まことにすがすがしく、至厳にして至直であった。王仁三郎のそれは、波乱重量のなかで天衣無縫至仁至愛にして、一切を愛する以外に何ものもなかった。
信徒は、なお、救世の基をひらかれた開祖として慕い、王仁三郎を聖師とたたえて、万民の罪をあがなわれる、人類の救い主であると信奉する。
共に至純に神の心を宿し、それぞれ人間的魅力にあふれたなおと王仁三郎をできうるかぎり平明率直に、この小文で描いてみたい。
それは信徒としておそれ多く、ことに敬称敬語抜きの叙述は勇気の要ることであるが、求められて”内からみた教祖”を、史実にしたがって、飾ることなく、記述することに努めよう。
法難に傷つきながら、それを滋養としてたくましく生きる大本、人と世に深い示唆を与え、かぐわし文化を生み出してきた大本の二人の教祖の、人柄と思想と行動を素描したい。
混迷する現代社会に対し、この小文が一すじの光をもたらすことができればと思う。
三ぜん世界一同に開く梅の花の金神の世に成りたぞよ。梅で開いて松で治める、神国の世になりたぞよ。
日本は神道、神が構わな行けぬ国であるぞよ。がいこくはけものの世、強いもの勝ちの悪魔ばかりの国であるぞよ。
日本もけものの世になりて居るぞよ。
尻の毛まで抜かれ居ても、未だ眼が覚めん暗がりの世になりて居るぞよ。では国は、立ちては行かんから、神が表に現われて、三千世界の立替え立直しを致すぞよ。
用意を成されよ。この世は全然、新つの世に替えて了うぞよ。
三千世界の大洗濯、大掃除を致して、天下太平に世を治めて、万古末代続く神国の世に致すぞよ。神の申した事は、一分一厘違わんぞよ。毛筋の横幅ほども間違いは無いぞよ。これが違うたら、神は此の世に居らんぞよ。
ともしびの消ゆる世のなか今なるぞさしそえいたすたねぞ恋しき
寒世にあらしのひどき夜になりてひのでのもとを待ちかねるぞよ
明治二十五年旧正月
帰神
明治維新によってうまれた新政府は、日本の近代化にとりくみ、統一国家の樹立と日本資本主義への道をいそいでいた。それは排外的な国家主義、軍国主義ならびに国家神道に結びつくものであった。
明治二十五年(一八九二)はそういう日本資本主義の路線が、軍事力を背景として、国内的にも国際的にも本格的に踏みだした時期であった。
そして、丹波の小さな城下町である綾部にもその変革のながれは、とうとうとおしよせていた。
出口なおは明治二十五年旧正月元旦、五十七歳を迎えた。その日の夜、なおは突然かぐわしい香りにつつまれる。
そしてふしぎな夢幻の世界へいざなわれていった。たとえようもなくまばゆ荘厳美麗な宮殿になおはたたずみ、またその神々しい麗域を歩くうち、尊貴な神々と出会う。
そんな神夢が毎夜つづき、神霊の世界へとみちびかれていった。それは帰神にさきだつ前兆第のようなものであった。
五日の夜ふけ、新暦でいえばちょうど二月三日の節分に、なおの子で十二歳になったり、ふと4 十歳のすみ(のちの二代教主)は凍てつくような寒い夜空の下に、自分たちの母が、井戸ばたで一心に水をかぶっているところを目撃した。
なおは、たちすくんでいる二人をみとめると、いつもの鈴をふるような美しくやわらかい声で「はやく寝るように」とうながした。
出口なおの帰神は、この夜からはじまったのである。帰神の状態になると、なおは、自分の身体がひじょうに重くなり、力が満ちてくるように感じた。
なおの前額は温かくなり、姿勢が正しくなる。やがて身体がやや反りかげんにゆるゆると振動しはじめる。
ひざが交互に音をたてて上下する。あごはひきしまり、眼がかがやいてくる。そして、腹の底から威厳に満ちた大きな声がでる。
その声はなおの意識しないものであり、声を出すまいと歯を固くくいしばっても押さえることができなかった。しかも、その声はなんと男の声であった。
いっときの帰神がおわると、しばらくは魂がすっかり脱けだしてしまったような名状しがたい疲労を覚えた。
この帰神は昼夜の別なく断続しておこり、新暦の二月三日からの十三日間は、そのはげしさに食事もとれず、眠ることもならなかったという。
なお、突如として自分にかかった神について思いなやみ、ふり払おうとした。それがかなわないと分かると、あとはかかってきた神に直接談判するしかない。
なおはその不可思議な対象にむかって、こう問い質している。
「おん身はなに者でありますよな。こと細かに名のって下されよ」
その問いにたいし、かぐわしい霊気とともに下腹の底の方から重々しい、しかも玉のようなものが昇ってくる。
「この方は長の神であるぞよ」
やはり男の声である。玉は胸のあたりでふるえ、呼吸が止まるほどつよい衝動がおこるとともに、唇の周辺が自然にうごきだす。
同時に太い、しかしうつくしく妙なる声がなおの耳にひびくのである。なおの不安はつのる。
「この身体からひきとってもらいたい」とうったえる。その彼女の願いが聞こえたのか聞こえないのか神は、
「この方、これより、汝の身を守るぞよ」と、なおを励ましにかかった。神の方はもはや待ったなしの感じであった。
こうした問答は、はた目からは自問自答のようにみえた。しかし、よく注意してきくと、なおの言葉の時はふだんのつつしみ深い声で、神の声の時はまごうかたなく力づよい男の声であった。神は大声で叫んだ。
「……天理、金光、黒住、妙霊、先走り、とどめに長の金神が現われて、世の立替えを致すぞよ。世の立替えのあるという事は、何の神柱にも判りて居れど、何うしたら立替えが出来るという事は、判りて居らんぞよ。九分九厘までは知らしてあるが、モウ一厘の肝心の事は、判りて居らんぞよ。」
さらに、こうも呼ぶ。
「水晶魂をよりぬいて霊魂のあらためいたすぞよ。ぜったいぜつめいの世になりたぞよ。世界のものよ改心をいたされよ。世がかわるぞよ。…………」
こうして三千世界―現界、幽界、神界一を立替え立直して、みろくの神世の実現を約束する神が、突如として丹波の綾部の地にあらわれたのである。
冒頭からいきなり神秘の世界にはいったため、読者はちょっととまどわれたかもしれない。
ここで右の”帰神”現象について、説明をすこしさせてもらいたいとおもう。
この小文の内容を理解していただくために、もっとも大切な要素となり、それがないと、とても前へ進めないからである。
帰神とは俗にいう”神がかり”の一種ではあるが、本来、帰神は神がかりという言葉のもつイメージとはおそろしくかけはなれたものである。
神がかり、というとみな同じように低俗なものと受け取られがちであるが、そのなかには非常な差異がある。のちに登場する大本の教祖出口王仁三郎は全八十一巻におよぶ大著『霊界物語』のなかで、次のようにのべる。
「……人間の精霊が直接、大元神すなわち主の神(または大神といふ)に向かつて神格の内流を受け、大神と和合する状態を帰神といふのである。帰神とは、わが精霊の本源なる大神のご神格に帰一和合するの謂である。ゆえに帰神は、大神の直接内流を受くるによって、予言者として、もっとも必要なる霊界真相の伝達者である……」(第4巻・第一章)
出口王仁三郎はさらに”帰神”の次の段階として〝神懸”があり、なおその下に”神憑”なるものが存在することを解明している。
そしてこの三つとも”神がかり”と俗称するが、その各々の間の程度の差は、比べものにならないほどの違いがあるのである。
神憑とは、いわゆる邪霊、悪霊、すなわち自愛と世間愛にみちた嘘いつわりをおこなう霊の悪ることをいう。
その憑霊自身も自分を貴い神だと信じ、かかられた人もそれを真の神と信じてしまうから始末が悪い。それゆえにこの憑霊者は、一般の人を大いに迷わせても、恬として平気なのである。
大本開祖の場合は、もっとも尊い帰神であることは言うまでもない。
従来から大本の開祖について、学者や評論家といった人々が、伝記や評論の形にまとめ、善意をもって世に紹介されているが、その著作を拝見するたびに、その表現方法や解釈に感心し、啓発されながらも、信徒の一人として気になる個所につねに一つでくわす。
それは一、二の例外を除いて、多くの評伝筆者の神がかりについての理解である。
さまざまな苦労を重ねた結果、逃げ場のなくなったなお女のやむにやまれぬ精神行動だといったり、悲惨な生涯のどん底からの必死の脱出口だとみたり、さらに、辛抱の限界がきてついに爆発したのだ、自己抑圧のはてに到達し自己表現の方法だともいう。ひどいのになると、精神病の一種とあっさりかたづける。
神霊の実在を信じない人々が、神がかり現象を心理学的考察によって解釈しようとすることはやむを得ないが、大本開祖の帰神は、単なる心理現象などとして把握できるものでなく、それらをはるかに超越した、次元のまったく異なった純粋に神意的なものであるということをあくまでも強調しておきたい。
たしかに、開祖なおはその半生の間に、世のなかの、ありとある辛酸を舐めつくした。背負い切れないほどの重荷を負い、耐えがたい苦難のながい道を歩んだ。
しかしそれは、大本開祖としての「御用に使うため」の必要な修行として神から課せられたものであった。「天の使命大なる者はその苦難また大なり」とは古今の鉄則である。
開祖は、明治二十五年から二十七年間にわたり、帰神の状態においてお筆先を書いた。半紙十万枚にのぼるこのお筆先(大本神諭)は、全人類に対する神の訓諭であり、予言警告の書であった。
講談社から昭和四十三年に発行された『こころの帖』のなかで、開祖なおの孫にあたる出口直日(現・大本三代教主)はお筆先について次のように述べている。
「祖母は、敏感な感受性をひめて、いつも、澄んだ、やさしい世界に生きていたので、祖母の手記した世の立替え立直しの筆先は、その根底に澄んだ温かいものがあります。
このことは、祖母の人格や人生経験を素地として、神の啓示が現われ、それらの啓示にたいして、祖母が、やさしい、あたたかい全人格をささげて厳しく受けとめていったからで、祖母の筆先を読むうえに、まことに大切なことであるとおもいます。
世界には、うんぶ(運不運)が無きことにいたさぬと、いままでは、あまり、うんぶがありたから、人民に改心をいたさして、世界を桝掛け引くのざぞよ。改心一つでよくなるぞよ
(明治三十一年、旧暦九月三十日の筆先)
この筆先が出た当時から今日までの歴史の流れを、じっと、ながめてみますと、たしかに運不運の差が一歩一歩とちぢめられつつあることを感じます。(中略)
歴史の、とくに近代の変革には、そのときどきの人間の叡智や情熱が、歯車となっているのでしょうが、その歯車だけで、歴史は動いているのではなく、もう一つの偉大な波動がこれに働きかけていると感じられます。(中略)それは、あるときは、もののはずみのような形で、突如として、歴史の上に現われることさえあると思います。そこに、私は不思議な摂理を感じます」
激動の時代といわれてすでに久しい。この一世紀だけを見ても、世界の情勢は大きく変わり、社会も国家も、また人心も、すべてがはげしくかわった。
なおを通して垂示された神の言葉は、次々に歴史的事実となって世にあらわれ、近代史を貫く新しい潮流となりつつあるように感じられる。なにが、なおをしてそう言わしめたのか。そこに偉大な意志の存在を思わずにはいられないのである。
ともかく、大本は”帰神”を抜きにして、なにごとも語ることができないということを了解していただきたいのである。
吾祖母の予言がはぬ世の相を思へば五六七の世は近からん(出口直日詠)
なおの誕生
丹波は京都府の中央に位置し、京都市、大阪府および兵庫県に隣接する。山陰方面や丹後地方また若狭へ抜けるには、この丹波を縦断しなくてはならない。
日本海に向かう由良川と大阪湾に注ぐ桂川の流れの源が、ともに丹波のなだらかな山脈にある。
そしてこの緑なす山々と清い流れは、盆地に住む人々にやすらぎと自然の恵みを与え、生命のよろこびとゆたかさをひしひしと感じさせてくれる。
丹波には、福知山と綾部、亀岡の三つの盆地がある。丹波はこの三つの盆地とこれをつなぐ山脈によって形成されているが、大本九十年の歴史も、この三つの盆地を土台にして織りなされてきた。
京都市からみて、いちばん近いのが亀岡、ついで綾部、さらに福知山となる。このなかで大本の根本聖地となる綾部と亀岡についてはのちにのべるとして、まず福知山から語らねばならないだろう。幕末の天保七年(一八三六)になおがその地で生誕したからである。
幕末当時の福知山は、石高三万一千石の朽木氏の城下町で、由良川と土師川が合流する地点の丘陵に福知山城があった。記録によれば、当時の福知山は町家数が約一千軒ほどで、他に藩士の家が三百軒ほどあったという。
人口は三千から四千といったところだったようだ。福知山に住む人の多くは商人で、由良川を利用して茶、綿、米などを上方に積みだし、酒、塩などを運び入れて、かなり繁栄していたらしい。
一方、この天保期の福知山藩は財政難にみまわれ、約十万両を大阪などの商人から借り入れていた。そのしわよせは当然民衆におしよせた。
こうした現象は福知山だけではなく全国的なものであった。おのずとあちらこちらで一揆がおこる。
なおの生まれた天保七年前後は国中で一揆が多発し、民衆のうごきが頂点に達した時期であった。
このように各藩が窮乏におちいり、同時に民衆の動乱がはげしくなった大きな原因の一つは、天明の大飢饉につづ天保の大飢饉にあった。奥羽諸国では数十万人が飢饉のために死んだと伝えられている。
福知山も例外ではなく、数年の不作がつづいたあと、この天保七年は連日の雨天と低温のため大凶年となった。
米、麦はおろかすべての食料は穫れず、人々は山野に自生する草木を口にした。とうとう畳表までも煮て食べたともいう。現在では想像もつかない悲惨な世情であったのである。
こうした飢饉の中で、福知山の上紺屋町に住むぞよは、生まれようとする児を間引く(堕胎)つもりでいた。
ところがそよの姑にあたるたけが間引きにつよく反対した。かくてなおはこの世に生まれることができたのである。
飢えと寒さにおののきながら、新年を迎えようとする旧十二月十六日のことであった。後年、なおは”筆先”のなかで自身のことをこうのべている。
「……因縁の身魂は生まるる年より、そういう不幸の年に生まれたのである…………」(明治三十五年九月二十六日)この生誕のいきさつは、なおの一生をつらぬくいばらの道を象徴するものであった。
なおの父は桐村五郎三郎といい、母そよは綾部上町の出口惣右衛門の子であった。
桐村家は数代前からの大工で代々腕がたち、藩の御上大工となり、苗字帯刀をゆるされ、郷宿をつとめていたという。
郷宿とは、近郷の村民が公用で城下あるいは陣所(代官所所在地)に出た時の定宿となる家のことである。
そよが綾部から嫁いできたころは、貸家を両隣にもち、表通りに面したかなり大きな家を構えていた。見習いの大工も三人ばかりおいていたという。
なおが間引かれようとしたのは、当時の飢饉が如何にひどかったかということを物語るとともに、今一つ、なおの誕生をおびやかした理由として家の没落がある。
すでに大吉と清兵衛という二人の兄がいたが、なおが産声をあげたころは、桐村家も昔日の勢いがなくなっていた。
それは大飢饉という外からの圧迫のせいだけではなく、なおの父の五郎三郎の性行によるところが大きかった。
前二代は実直でしっかり者の職人であったが、この五郎三郎はちがった。若いころから奔放ではなやかなところへ心のうごく性質であった。
それは時代のせいなのかもしれなかった。というのは、都会の町人文化が山陰の一城下町にも小さくはない影響を与えはじめていたからである。
藩主の朽木倫綱は、こうした退廃とおごりをおそれ、民衆教化の手をうっている。その一つに能楽があった。それは、城下の風紀が乱れはじめたことへの矯正の一策として考えられたのである。
五郎三郎にはそんな政策など眼中になく、退廃的な風潮が次第にひろがるにつれ、若いころから粋人をきどり、仕事をなまけるようになった。
そよと結婚してもその放蕩はやまなかった。長男、次男と子供が生まれてもとんちゃくせず、家財はどんどんなくなっていった。
なおが出生したころには、両隣の貸家も、自宅も売り払われ、小さな家に移ろうとするほどに窮していたのである。
なおが生まれてほどなく、祖父の五郎三郎(父と同名)が七十四歳で他界した。
つづいて長兄の大吉が疱瘡がもとで七つの時あっけなく夭死。その間に妹のりよが誕生した。ここで桐村家の家族はなおの祖母のたけ、父母の五郎三郎とそよ、兄の清兵衛、妹のりよとなった。
たけは五郎三郎の実母ではなく養母であったが、わがままで口やかましい老婆であった。くらしが苦しくなるにつれて、たけは荒れた。
それに比例して、五郎三郎はいよいよ遊びにうつつをぬかし、その分、そよが苦難を背負うはめとなった。そよは誠実、従順な女性で、わがままな姑によく仕え、くらしの苦労を一身にひきうけた。
そうこうするうち、さすがに近所でも評判であったたけの意地悪さが消えていった。
そよのけなげな心情に感化され、徐々に善良な人間にかわっていったのである。
そよは、没落にひんした婚家で、やりたい放題の夫や姑に仕え、愚痴もこぼさず、あらゆる面倒をひきうけて生きるという当時の日本における模範的な女性であった。
なおがそんな母親の影響をうけないはずはない。そよの考え方や生き方は、のちのなおの生活態度のなかにあらわれた。
古今を問わず、子供の人間形成にもっとも大きな影響を与えるのは母親である。
五郎三郎はとうとう大工仕事を廃業したが、その放蕩はやまなかった。酒を飲んでは妻子に手をあげた。まだおさない、なおにたいしても容赦はなく、しばしば手荒な仕打ちをした。
そんな五郎三郎がなにに感じて一念発起したのか、三十六歳の時、甘酒屋をひらいている。なおの六歳の時である。その商いは評判をとって、数年を待たずして町の人からは「甘酒屋五郎三」とはやされるようになる。
しかし好事魔多しというか、弘化三年(一八四六)の十月十五日、福知山で猖獗をきわめたコレラ(あるいはコレラに似た病気)に彼はつかまり、一日一夜苦しみつづけて急逝した。
五郎三郎、わずか四十一歳、甘酒屋をおこしてから五年目の秋のことであった。
そのころ、すでに兄の清兵衛は油屋に奉公にでており、そよは甘酒業のかたわら病身にもかかわらず、内職に糸紡ぎをしていた。
五郎三郎がいなくなってからはくらしがますます苦しくなり、十歳に達していたなおも、福知山の上柳町のかな屋新兵衛の宅へ奉公にでなければならなかった。
なおはその奉公先で骨身おしまず働いた。夜には糸紡ぎにも励んだ。さらに病身の母を気づかい、おいしい物が膳につくと、自分は食べずに一走りして母に届け、また半期に一度主人からの「粗物」としてもらう単衣や浴衣地も、そのまま母のもとへ届けた。
そよはそれを感謝し、金にかえてくらしの足しにした。なおは母の喜ぶ姿を唯一の楽しみとした。そんななおをそよは誇りに思い、
「これはなおのくれたものじゃ、これもそうじゃ」と会う人ごとに娘の孝行を喜んで告げたという。
やがてなおの孝行娘としての評判が高くなり、十二歳のころには福知山藩主から三孝女の一人として表彰された。
当然、近所の人の評判がよく、近所の人はみな自分たちの子供に「なおさ「んと遊べ」と言っていたという。
なおは十三歳から十四歳にかけて、呉服とその仕立をかねた港家重助の家に、また隣の泉屋清兵衛の家をも手伝った。泉屋は福知山でもっとも大きい饅頭屋であったらしく、昼は饅頭、夜はぜんざい餅”と”なんば餅”を売っていた。
なおは、この泉屋では、饅頭用の二升の小豆を近くの川岸で洗うのがいちばんの楽しみであったという。
彼女は深夜であろうと、どんな遠いところであろうと注文の品を届け、ここでも主人の信用を得た。そしてこの奉公で覚えた饅頭づくりが、後年のなおの危急をいく度か救うのに役立つのであった。
十五歳になったなおは、米久呉服店に奉公した。彼女は十数名の店員や使用人に混じって働いた。
ここでも主人にその気質やつとめぶりをほめられる。なおはどこにあっても実直に勤勉に主人に仕えた。
そして誰からも喜ばれた。米久呉服店に一年のあいだ居て、十六歳の九月に、なおは自宅に帰った。そのあとは母そよを助けて朝早くから夜おそくまで根をつめて働いた。
かくてなお寺小屋にも通わず、ついに読み書きを習得することもなく、年を重ねた。
しかしその間に身につけた体験は、そんな読み書き以上のものであったことはのべるまでもないだろう。
なおはすでに六、七歳のころから、のちに大本でいうところの”みろくの世”の到来を口にしていたという。また日常的なささやかな予言をして、ことごとく的中したとも伝わっている。
さらに衣川家に奉公していたころ、三日ぐらい姿を隠し、夕方にぼんやり帰ってきたこともあったらしい。
なおに事情をきくと、山のなかで修行してきた、と答えたという。なおはまだがんぜないころから信仰心があつかった。おそらく、もってうまれたものであろう。
その信仰心は成人してからも、結婚して居を転々としたときにも消えることはなかった。
また、この少女のころに祭礼のたびに胸をときめかせて見入ったものに能楽があった。これはさきに記したように藩主が乱れがちな風紀を正すために取り入れたもので、それがますます発展していったのである。
地元の神社で、祭礼時に能楽の催しがあり、なおはそれを毎年のように観賞したことであろう。
その能楽はなおの心に深く刻まれ、終生消えることはなかった。能楽には、長い伝統のなかで磨きあげられた奥深い美しさがある。
なおは少女ながらその深い美につよくひかれ、能楽の幽玄に感じ入っていたようである。後年、孫の直日に、神社で上演された曲目や演能の模様をくり返し語っていたという。
なおの観た能楽は、四十年のちの、なおの帰神後に再現され、また現在の大本能の隆盛の基となり、さらに遠くイギリスの聖公会カンタベリー大聖堂での大本の本部職員による能の奉納の原点ともなったのである。
なおの出口家入り
嘉永六年(一八五三)、ベリーが軍艦をひきいて浦賀に来航し、幕府に開港を迫ったが、その年、十七歳のなおは綾部の叔母にあたる出口ゆりの養女となった。
綾部は福知山に隣接する盆地にある。九鬼氏二万石のささやかな城下町で、繁栄の度あいは福知山にかなり後れをとっていた。
人口も少なかった。さらに出口家のあった坪の内村は、人口が六百五十余人という半農半商の小村にすぎなかった。
出口の家は、町なみをすこし離れた農家と職人の家がまじりあうなかにあった。
出口ゆりは、なおの母のそよの妹であった。同じ綾部の本宮村小字新宮坪の内に住む出口政五郎の養女となり、同じく養子に迎えられた出口政平(政五郎と襲名)と結婚した。
政平は病弱であったこともあり、出口家の少なくなかった財産を減らした。政平は、なおを迎える七年前に亡くなり、以後、出口家の生活は苦しくなる一方であった。
そんななかを暮らしてきたゆりであるが、さらに不幸なことに彼女には子供がなかった。
そこで、かねてから自分の姉の子であるなおに目をつけ、養女にむかえ入れたがっていた。
なおは、乞われるままに出口家の養女となったが、半年のちにいったん福知山の家へ一人帰ってしまっている。
なおがゆりをきらったということもあるが、出口家をとりまく縁者のごたごたの矢面にたたされ、それに耐えきれなかったからでもあった。ゆりはなおを福知山まで追いかけ、ぜひ出口家の跡を相続してもらいたいと姉のそよにもつよく訴えた。
ゆりはその晩、井戸に身を投げて最期をとげた。
それは、なおのせいではなく、亡き夫の兄などから財産がらみのひどい仕打ちをされたのをうらみ、またゆりの男関係が良からぬうわさをよび、その男と再婚できないのを苦にしての自決であった。ゆりは四十九歳であった。
それからまもなく、なおの夢まくらにゆりの霊があらわれ、はげしく出口家の再興をうながした。
その夢は幾晩かつづき、ゆりのさいそくはいっかなおさまらなかった。
ゆりの死んだ翌年の安政二年(一八五五)の春、なおはふたたび綾部の人となる。十九歳になっていた。
そして間をおかず、三月二十日(旧二月三日)になおは四方豊助と結婚した。豊助は二十八歳で大工職人であった。彼は出口家の婿養子となり、出口政五郎を襲名した。
なおは心にきめた人が福知山の庵我村の中村にいた。先方の男性も結婚してからの生活設計をなおに語っていた。
しかしその夢も出口家相続という現実のため、あきらめねばならなかった。それはなおにとって、かなりの精神的苦痛であった。
政五郎は上背はなかったが、ガッチリした体型で「何をしても一人前半の仕事をする」というほどの評判をとっていた。腕のたつ大工であったのはたしかで、結婚後もたくさんの大普請をうけおった。
しかも近隣の大工が嫉妬するほどの完ぺきな出来栄えをみせた。その仕事ぶりも、のべつまくなしに冗談をいいながら図面をひくのだが、それでいて同業者もほれぼれする家が建ったという。
仕事の腕はよかったが、性格がよわかった。政五郎は、貸した金はさいそくできず、借りた金はなんとしても返さねば気のすまない性質であった。
それはまだよいとしても、無類の酒好き、大の芝居好き、そして、稀にみる楽天家ときていた。腕にまかせて稼いだあとは、気楽に消費してしまった。旅興行の芝居が来ると、十日でも半月でもついて廻って家に帰るのを忘れてしまう。これではいくら腕がよくても貧乏するよりしようがないというものである。
かくてなおの前方には苦しい生活のたたかいが待ちうけていた。それは、これまでの非凡な勉や実直をもってしても払いのけることのできないものであった。
つぎつぎとおそいかかる困難と不幸は容赦なくなおを責めた。それはもう神の試練というほかにないきびしさであった。
なおは試練を背負って歩いた。その足跡をさらに追ってみよう。
幕府は、ベリーの来航を契機に鎖国政策の転換をよぎなくされ、時代は幕末の政治的、社会的動乱の時代に突入していた。
もっともそういうあわただしい動乱の波も、丹波の小さな藩には、直ぐにはおよぶわけではなかった。
なおと結婚した政五郎は、あたらしく新宮坪の内に家を建てた。そこは昔からなにかとたたりがあり、村の者がおそれて誰も家を建てようとしなかったところである。
そんなことにも政五郎はとんちゃくしない。そこは現在の大本のみろく殿の西北にある銀明水の井戸のあたりで”元屋”と称されているところである。
二十歳の夏に、なおはその家で、長女のよねを生んだ。結婚当初は家屋敷、田地、倉などものこっていて、政五郎も大工の腕をふるい、不自由はなかった。
それもわずか一、二年のあいだであった。政五郎の性格はあまりにのん気すぎた。気がむけば仕事に熱中するが気のりしないといつまでも手をつけない。
取り引きも下手で請負仕事も欠損をくり返した。そしてなおの知らないうちに出口家の財産を売っては酒代にかえていた。
さらに、政五郎の人のよさにつけこんだ親族たちが、「先代に金を用立してあった」とか、「田を一枚もらう約束があった」「品物を貸してあった」などと言ってたかりだす。
また二人の仲人であった辻村藤兵衛まで、政五郎の無欲につけこんで、高い利子で金を貸しつけた。
その辻村は、こともあろうに元旦にやってきて、なおに金を返すようさいそくした。なおは、なにも元旦にこなくてもいいのにと、かくれて涙したこともあるという。
こうして、少なくなかった出口家の田畑はつぎつぎと人の手にわたっていった。政五郎はあいかわらず酒をのみ歩き、村芝居の見物に精出した。
冗談を連発しながら金を浪費した。当然、仕事にはならず、収入はとだえ、なおは明日の米にもこと欠くようになった(政五郎の場合、楽天的というより、すこし異常であるといった方がいいのかもしれない)。
彼の性格は、短期間のうちに家を没落させてゆくのに、まことに適していた。この配偶者も、神が、なおの試練のために用意したのであろうか。
なおは黙って苦労に耐えつづけた。その口数の少なさが、また夫をいらだたせたようである。
なおは長女のよねを産んだあと三人の子を出産したが、三人とも生まれてすぐ死んでしまう。
ことが生まれて生きつづけ次女となったのはなおが二十六歳の時であった。その二年のちには長男の竹造を産んでいる。元治元年(一八六四)のことである。
一方、福知山のなおの生家桐村家では、妹のりよが文久元年(一八六一)に亡くなり、母のそよは、その四年後の慶応元年に帰幽している。なお二十九歳の折のことである。さらにそれからわずか十一日目に祖母のたけが後を追った。かくて、なおをこの世に生まれさせた人々はすべていなくなってしまい、時代はいよいよ幕末から明治維新へと移動を開始していた。
