大本 出口なお・出口王仁三郎の生涯(Vol.4)

お筆先

なおは、紙屑買いのついでにその家に上がって神床の掃除をする。もちろんたのまれるわけではない。

そんな敬虔ななおにたいし、病人のある家では、神さまにお願いして治してほしい、とたのんだ。なおが祈願すると、病人はあっさりと治った。そして、

「また悪くなったら綾部の方へ向いて拝んで下さい」と言いのこして帰る。いわれた通り、病状悪化した人が「綾部の金神さん」と唱えると、ほどなく平癒する。おいおい綾部を中心としてなおをあがめる人がふえた。なおは、これで良いのだろうか、と神に問うと、

「この神は病気治しの神ではない。しかし今のうちは病気も治してやらんと神をよう分けまい。病人は拝んでやれ、おかげはやる」と返ってきた。

あけて明治二十七年(一八九四)の夏、日本と清国の間で戦争が突発した。なおの予言が的中したのである。いよいよもって「ふしぎな婆さんだ」とのうわさが広がり、村人からはことあるごとに、

「おなおさんに拝んでもらえ」との声があがりだした。

金神は「病気治しの神ではない」。また天気予報や、時計なおしや二年三年さきの予告をするための神ではもちろんない。

顕、幽、神三界の立替え立直しのために出現したのである。それは世間でいうところの世直しとか変革といったものでもない。たんに政治、経済をかえるというような皮相なものではなく、もっと根源的な変革である。

なおは、神の命により筆をもって半紙にむかったのであるが、それが、明治二十六年に座敷牢から出てまもないころであろうことはまちがいない。神は、「なおよ、紙と墨を買うてくれい。お前の手を借りてわしが書く」と命じ、さらに「紙一折二銭、筆一本二銭、墨一本二銭……」とこまかく示された。

その通り買ってくると、「墨をすれ」「筆をもて」との声が聞こえる。やがて、座敷牢のときのように、紙の上に手がひとりでうごき、字が書かれていった。寺小屋にさえ行けなかったなおに、その字を読めるはずがない。

それでもなおは神の命じるままに書きつづけていった。筆先を書くようになってからは帰神の発動がおさまってゆく。

かわりに、神霊が感応すると、昼といわず夜といわず筆をもって机にむかった。

すこしのちに、信徒になった一人が、お筆先がでるってどんなんやろう……と、ふすまの隙間からなおの部屋をのぞいてみた。

そこで見えたのはやさしいなおの姿ではなく、男神の威厳に満ちた姿であった。その男神は、筆を直角にもって、どぶんと墨のなかにつけ、紙の上にそのまま書けなくなるまで書く。

そこでまたどぶん、と墨をつけて書いていたという。こののぞき見をなおは分かっていたらしく、見ていた人に、「この神さまは、邪魔になるとちょっと触わっただけでも、えらいもんやで、人間の身体が六間も飛ぶんやで」と、やんわりたしなめたそうである。

筆先を書く部屋は決まっていて、そこへは水行をし衣服をすべて着替えてはいり、小机の前に端座した。

筆先は、大正七年(一九一八)になおが八十三歳で昇天するまでの二十七年間にわたって書きつづけられた。

その量は、半紙十万枚におよんだ。すべてが自動書記的に書かれたものであるから、なお自身の我意はまったくまじっていない。

文字は全部ひらがなで、しかも独特の書体なので読みやすいものではない。しかしその書体ははじめのころと二十数年のちのものとまったく同じである。

そして一見して稚拙にみえる書体も、心をひそめてみると、凡人の筆蹟にはない風格をただよわせているのに気づくのである。書家の綾村坦園は筆先の印象を次のようにのべている。

「筆の最初のあたりから、おわりまで、ほとんど等しい筆圧で、等しいハバで、しかも等しい速さをもって書かれている。

これは終始変わらぬ精神状態をたもっていることをものがたり、それが五枚、十枚ならいざ知らず一万巻に及ぶというのであるから驚嘆の外はない。

これだけの太さをもつ文字は相当な力量がないと書きこなせるものではない。一字一字をとりあげても、おおらかで、ゆたかで、どこにもトゲのないヌクサにみちあふれており、書きなぐったのではなく、楽々としたためられ、その中に厳粛な格調の高さがうかがわれる」

筆先における書美の神髄をよく言い表した評であろう。

この開祖の筆先に王仁三郎聖師が漢字をあて、句読点をつけ、読みやすくして発表したのが『大本神諭』である。

したがって、この本に引用する”お筆先”は多くは大本神論なのである。その初発の神論がこの章の冒頭に掲げたもので、崇厳にして華麗な神のうぶ声であった。

さて、ぼう大な量の筆先の内容は、大本出現の由来と使命、神と人の関係、日本民族の使命、人類への予言・警告などに大別できる。

「ともしびの消ゆる世のなか今なるぞ・・・・・・」と筆先に示されるように、破滅に直面する終末の世を憂い、人類の覚醒をうながし、さらに先に記したように、顕、幽、神にわたる三千世界の立替え立直しをおこない、地の上に理想社会をうち建てるための神の訓えにほかならない。

その表現は力強く、断定的で無限の権威と詩韻にあふれる。

大本開祖なおにかかった神は”の金神”であるというが、この神の名は古典のなかにみえない。しかし大本神論には、「艮の金神は、この世をはじめた神なれど、あまり我が強うて、良へ三千年と五十年、おしこめられておりてかげからかもう(守護)ており…」(明治三十三年旧四月七日)とある。

そしてこの艮の金神は国常立尊であると示されている。国常立尊は記紀の古典にみえる。大本では国常立尊を、この世の元をかためた大地の先祖と仰ぎ、”国祖”とも呼んでいる。

「良へおとされておりた元の国常立尊に、三千世界の世をかまへとの、天のご命令をいただいての、こんどのご用であるぞよ」(大正三年旧七月十四日)とあるが、これで”艮の金神の世に成りたぞよ” “神が表に現われて”の意味が説明されている。

この艮の金神・国常立尊・国祖が出口なおに帰神したのである。なぜ、国祖がなおに帰神しなければならなかったか。

それは、「むかし神の世は結構でありたなれど、途中から悪神の世になりて世界が悪くなりた」「世が行きつまりて末法の世のしまいで絶命の世」になった。

この「獣類の世」「暗がりの世」「われよしのやり方ばかりいたして強いものがちのちくしょう原」を「もう、このままにしておいては世界がつぶれて餓鬼と鬼との世になるから立替えをいたさなならんことに、世がせまりてきた」からである。

「世の立替えであるから、人民三分になるとこまでいくのであれども」「この世は一たん泥海になりてしまうところであれども…人民を改心さして世界を助けねばならん…」との神の人民を助けたい一心からであった。

かくして大本は、とほうもなく長い年月おしこめられながら練られていた艮の金神の経綸に奉仕するために出現したのである。

そしてその経綸は一分一厘のまちがいもないものであると神は宣言し、末法の世を立替え立直し、理想社会「みろくの世」の到来を予告する。そして、

「もとの神世にたちかえりて」「世界を桝掛け引いたごとく」「人民おだやかな世」「万古末代神国の世」の到来を約束する。

しかし、その前に神は、人間の改心、精神の入れ替えをつよく要求するのである。

「世界の人民よ、一日もはやく改心なされよ。それについては日本の人民の改心がだいであるぞよ」「もとの水晶魂に立ちかえりて、ご用をいたして下されよ」と、厳しく、しかしねんごろに諭される。この惑いなき断言、内に籠る無限の慈愛壮大なスケール。筆先こそは正に神直々の生の言葉そのものなのである。

転々とする神

筆先を書きはじめていた明治二十七年(一八九四)の十月、なおは山家村西原へ、商いにでかけた。その途中、うつ病で家にひきこもっていた西村文右衛門の妻女から、なんとか夫の状態が良くならないものかとの相談をうけた。なおは艮の金神に祈り、右手を病人の腹に、左手を背中においてさすった。

十日ほどして見舞いにやってきた開祖に西村夫婦は頭を深く下げて感謝の意をあらわした。病気が治ったのである。

そして、「神さまにお礼参りがしたい」といいだした。しかし開祖は困った。自分の家すら無いありさまで、良の金神を祀るまでにはいたっていなかったからである。

開祖はしかたなく、

「金光教も、金神さん、と唱えておりましたから、そこへ二人でお参りしましょう」と、言う。

金光教は備中のつつしみ深く信仰心のあつい川手文治郎によって、幕末にひらかれた新興教団であった。

明治十年代には京都、大阪方面で現世利益や病気治し、人間中心の信仰を説いて大きな発展をみていた。

金光教が丹波にはいってきたのは明治二十年代の初頭で、その二十三年に亀岡で大橋亀次郎によって教会がつくられた。翌年には福知山と園部にも教会が設置された。

その頃、八木にも出来た。なおの三女ひさと夫の福島寅之助が金光教に入信し、熱心な信者となった。

それで、座敷牢からでて福島夫婦をたよったなおが、二人から金光教のことをあれこれ聞かされたことと思われる。

ところで、なおが西村とお礼参りするのに遠い亀岡の教会を選んだのは、その亀岡の王子に末子のすみが奉公していたからだろうか。

亀岡の西町へ夏蚕のころ、よく糸ひきに行ったのでなじみがあったためかもしれない。

ともかく、なおは西村と亀岡の金光教会を訪れ教会長大橋亀次郎に会う。西村からなおの霊力などについていろいろ聞かされた大橋は、なおを守り立てて教勢を伸ばそうと考え、

「綾部に役員を一人おくるから、その人と神さんのお道をひらいてもろうたら」ともちかけた。なおはよろこんで承知した。

金光教の布教師奥村定次郎が綾部へやってきたのは、なおが綾部へもどって十五日ほどしてからである。

奥村は、さっそく綾部新宮の大島景僕の家の裏座敷六畳一間を月一円で借りることを決めた。そこは大槻造によって売り払われたなおの家のすぐ東隣である。

奥村は地元の金光教信者である四方平蔵を呼んで布教についての相談をした。四方は、なおから神徳をもらった人々の名前をききだし、綾部周辺をかけまわった。

そのなかから役員として十一名がえらばれ、明治二十七年の十一月十一日(旧十月十四日)初の会合をひらいた。

その会合では”金光大神”となおの筆先からの”の金神”を併せて祀り、その裏座敷は“広前”とよぶことに決まった。

広前とは金光教で使う名称で、神を祀る布教所のこと、つまり教会のことである。

また祭典は毎月、三回おこなうこと、役員十一人は月々の経費を持つこと、さし当たりお宮その他当初の諸経費として十円を出しあうことを決め、翌日さっそく鎮祭した。

ちなみにこの当時、すでに黒谷のきずき大判の和紙に書かれた”お筆先”を、ご神体として、なおから授けられて鎮祭していた家もある。

そのご神体は宮に納めたり、軸物として礼拝されていたようだ。

かくて金光教のはからいと、なおをしたう人々に支えられて最初の広前ができ、合祀の形ではあったがなんとか長の金神を祀る教会が成立したのである。

そしてなおはそこに住むこととなった。

金光教側からいえば、なおのような地域の霊能者を掌握して教線を拡大してゆくことは有効な手段であった。

金光教に限らず既成の民衆宗教が日常的におこなう方法といってよい。ところが、なおの場合は単なる病気治しの霊能者で納まるはずはなかった。

そこで金光教側となおの神との間に、こうした行きちがいによる葛藤がこれからくりひろげられるのである。

信者はなおの病気治しを中心に、飛躍的にふえていった。ほとんど農業をいとなんでいる人た第ちで、供え物もふえ、おのずと経済的には役員の負担は軽くなっていった。

まもなく広前は手狭となり、翌二十八年の一月になると、隣の四方源之助の養蚕室、八畳二間を借りて広前を移した。

彼も役員の一人である。

はじめの広前からわずか一月半しかたっていなかった。さらに広前は転々とする。おおかたは現在の大本の聖地・神苑にふくまれる範囲内であるが。

その正月に、なおは参拝にきた四方平蔵に、「これ読めますか」と、筆先をみせた。

四方平蔵は当時二十四歳、初の広前開設のために走り回った人物である。そしてのちにいろい大事なはたらきをする人でもある。

開祖から筆先をみせられた平蔵は、けんめいに読み下そうとした。読めないところはなおと協力して読んだ。これが大本の筆先の読みはじめとされる。

四月になると、四方源之助の家が養蚕期にはいったので、またも広前を移動せねばならなかった。

そして、役員の一人西岡弥吉方に移る。この家もさきの広前からななめむかいであった。

西岡宅では祭典の時、三百六十名もの参拝者があつまって、とてもはいりきれないといううれしい悲鳴をあげる。さらに九月二十一日には新宮東四辻の黒住教会のあと家に移った。ここも前の広前から目と鼻のさきのところである。

なおは毎日、炊事、せんたく、掃除さらに使い走りにと忙しい日課を消化していた。参拝者の世話にも真心をつくし、彼らの汚れた足袋、きゃはんまで洗って干した。

このようななおのあたたかい心づかいと謙虚な態度はいよいよたくさんの人を引き寄せずにはおかなかった。

ところが、肝心の奥村はそんななおを使用人のようにあつかった。なおがそれをがまんしたのも、いつかは艮の金神を世に出してくれるだろうと期待していたからにほかならない。

しかし奥村は長の金神をぎゃくにおしこめるような態度をとった。なおが、
「筆先をみて信者にお話してほしい」と奥村に筆先をわたしても、彼はそれを無視した。

なおは、筆先を読み解いて、なおにかかる神をみわけ、その”身上”をあきらかにしてもらいたかったのである。しかし奥村は、

「私は神徳なきゆえ、ちっとも判りません」とすげなく答え、なんの関心も示さなかった。

それどころか、なおを厄介ものあつかいしはじめた。それは、なおが普通の霊能者の類とあまりに違うので、もて余したのかもしれない。奥村は三十九歳であった。

なおはとうとうたまりかねて役員のとめるのもきかずに、八木の方へ糸ひきにいってしまう。金光教に隷属することは、民の金神にとっても、またなおにとってもしのびないことであった。

八木で二十日ばかり滞在し、ついで馬路にいって糸ひきをした。この間、なおの評判をきいてハ木の天理教会、金光教会から「ぜひいっしょに神の道をひらきたい」と申し出があった。

しかしなおは耳をかさず、ほどなく綾部へ帰った。

綾部にもどったなおは、役員の一人西村忠兵衛の家に身をよせた。東四辻の広前では、まだ奥村ががんばっていた。

なお、このころ自分にかかってくる神はとてつもなく偉大で威力にみちた神であると確信するようになっていた。

それをまだ誰も理解してくれないのは残念であった。この神の神格や神がかりの意味について、筋道をたてて納得させてほしかった。

金光教や他の教会でもなんの説明も得られなかった。説明しようにもその実体が本当に分からなかったのであろう。

もし分かったとしても、自分たちの信奉する神より上位にたつということを告げることはできるものではない。

日本と清国との戦争は日本の勝利となって終結をみた。その結果、日本は台湾を植民地として領有することとなり、明治二十八年の五月に近衛師団がその鎮定におもむいた。

そしてその一団になおの次男、清吉がくわわっていた。ほどなく、なおのもとに清吉の戦死の知らせがとどいた。

なおは悲嘆にくれた。その通知はとても信じられず、すがるように神にうかがう。すると神は、

「死んでいないぞよ」と答えた。これは、まだ死んでいないのか、死んでしまってもうこの世にいないのか、どちらにもとれる。なおがそのことをさらに問うと、神からまったく同じ答えしか返ってこなかった。

なおが清吉の死を信じられなかった理由の一つとして、神から、清吉は「日の出の神」としてこのたびの神業に重要な役割を果たす旨をしきりに聞いていたからである。

さて、この謎のような話は、昭和の初めになってやっと解けるのである。

この日清戦争が終わるや、「こんどは露国からはじまりて大いくさがある」と、日露戦争を予言した筆先が出る。

あけて明治二十九年(一八九六)、なおは満六十歳の還暦をむかえる。

東四辻の広前は、なおがいないので、寄りつく人が少なくなっていった。同年六月、ついに奥村は夜逃げ同然の形で立ち去らねばならなかった。

その翌月、なおは東四辻の広前に帰った。ふたたび信者が集まりだす。ところがあらためて厄介な問題がもちあがる。

綾部の警察署から、「金光教の布教師がいなければ教会でなくなるから、人をあつめてはいけない」とやかましくいいにきたのである。

つまり認可をうけなくてはならないというのである。そこで世話人が相談し手続きをしたがどうしても許可されない。

ちなみに当時、綾部に教会を持った公認宗教は、金光教、天理教、黒住教、キリスト教で、すべて明治二十年代に綾部に進出していた。日本政府は、これ以上は公認しないという方針をとっていたようである。

そんな時、奥村にかわって、京都の金光教会から教師の足立正信一家がなおのもとにやってき警察からの干渉がきびしい時だけになおは足立をうけいれた。

あけて明治三十年になると、足立正信はやはりなおを女中あつかいしだした。なおを片隅の板の間に寝かせ、筆先ももちろん見ようとしない。なおは残念でならなかった。しかしなおは、表面上いやな顔をせず足立に仕えていた。足立はそれをいいことにますます図に乗った。

なおがもうこれまでと決心したのは四月四日(旧三月三日)であった。その日にいよいよ足立と別れ、すこしはなれた裏町(現・若松町)の梅原伊助の倉に移った。

ここで、はじめて厨子をこしらえ、八足台を置いて”艮の金神”を型の如く奉斎した。ささやかながらもやっと独立の教会をもてたわけである。

しかしやはり非公認であるというので信徒の集会については警察はひんぱんに干渉した。

こうした苦境のなかにあって、なおは、そして艮の金神の信徒たちは、金光教とはつながりのない有能な組織者、この金神さんの真の力になる人物の出現を渇望するのである。そんな折、こんな筆先がでた。

「綾部、大望が出来るによりて、まことの者を神が綱をかけておるから、魂をみがきて、神のご用を聞いて下されよ。今では何も分からぬが、もう一年いたしたら結構が分かるぞよ」

これは明治三十年旧六月二十七日の筆先である。そしてこういう神示もあった。「この神を判けるお方は東から来るぞよ」

なおは、裏町の倉のご神前に向かって、よくこんな風に言っていたという。

「神さま、あなたさまは私にその方の力になる者は、神が用意している”とおっしゃりますゆえ、そのかたがみえるまで、あなたさまと二人でここに、こうしておりましょう」

なおは神と問答をしたり、筆先を書いたりして、警察の圧迫に耐えながら、東から来る人を待った。

神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の主体なり、霊体合一して妓に無限の神徳を発揮す