第二章丹波から日本へ
大本は、独一真神の無限絶対にましまし、神徳の広大無辺なることを覚るため、次の三ヵ条を学則とする。
一、天地の真象を観察して、真神の体を思考すべし
一、万有の運化の亳差なきを視て、真神の力を思考すべし
一、活物の心性を覚悟して、真神の霊魂を思考すべし
これは、出口王仁三郎聖師が明治三十一年旧二月九日、高熊山修行の折に神示をえて案出したる教義の一部である。
少年喜三郎
出口なお大本開祖が帰神してから七年たった明治三十一年(一八九八)の十月八日、綾部の裏町に、しごくかわったいでたちの青年があらわれた。
その男は、陣羽織をはおり、手にはコウモリ傘とバスケットをもち、歯にはお歯黒をぬっていた。男は、当時六十一歳のなおを伊助の倉にたずねる。
出口なおに会った彼は、上田喜三郎と名のり、亀岡の穴太からきたと言う。そして、「八木の虎天で福島ひささんからたのまれました。長の金神と名のる神さんのかかられるお婆さんはあなたですか」と無造作にきく。なおは、
「艮の金神さまを世に出してもらいたいと思っているのですが、ところであなたは何神さんでござります」と、逆に尋ねる。
すると青年は、「私は駿河の稲荷講社でございます」と答えた。なおは顔をくもらせた。”稲荷”という名前から、綾部地方で広まっている稲荷下げを連想したからである。
なおは、「この神さまは、そんな方では世話になれんのでござります。私はもっと時節を待って開きます」と、すげなくしたようである。
上田喜三郎なる男は、「そんなことなら来るんでなかった。それでは宿へ行きます」と下がろうとした。
さすがに、これでは申しわけないと思ったのであろう、なおは喜三郎をひきとめ、この裏町の倉で泊まるようすすめた。
これが、大本開祖と聖師の初対面であった。
この日、二人の者が倉に参拝に来たので、なおは、喜三郎を紹介している。
「この方は神さんを判けに来た先生でござります」
それを聞いた二人はよろこびのあまり、足立正信のところまで知らせた。足立は、横柄に歌を一首したため、
「この返事をもろうてこい。それができん奴はよう会わんぜ」と豪語した。その歌とは、
もみぢする赤き心をうち明けて語り会ふべき時をこそ待て
というものであった。その歌をみせられた喜三郎は、なんの造作もなく
真心を暫しとどめて奥山のしかと語らむ八重の神垣
と返した。その返歌をとどけられた足立は、これは手ごわい、と直感する。そして、こんな者を部におくと自分の足元があぶない、と感じたのであろう、すぐさま人をよび「風来者に呆うけるな」「上田を追い返せ」とわめいた。
上田喜三郎は、二日間なおのところで泊まってから綾部を去った。
なおは、稲荷だという喜三郎にたいしてあまり好意的ではなかったが、足立らの彼にたいする仕打ちにも大きな不満を感じた。そのころ、こんな筆先がでた。
「おなおのそばへは正真の御方がお出で遊ばすから、来た人を粗末なあしらひを致すでないぞよ。なおは致されども、足立どのは男のことであるから我も出るし、・・・・不思議な人が見えたなれば我をださずと、ひそりとお話を聞くがよいぞよ」(明治三十一年八月二十七日)「………誠の御方がお出なさりたなれば、後へ寄りて頭をかいておる事が出来るぞよ…… 今までの事を申して張りておりても、何もならぬぞよ」
「まことの人を西と東に立てわけて、この艮の金神がうつりて御用がさしてありたぞよ」
これらの神示が上田喜三郎を暗示していることはまちがいない。
そしてこの人こそ、後年、出口王仁三郎と名をあらため、聖師と仰がれる人であった。時に喜三郎二十七歳。
そのころ喜三郎はさきに記したようにお歯黒姿の妙ちきりんないでたちで旅にでていたが、その理由をのちに彼はこうのべている。
「女子にもててしょうがないさかいに、神さんが虫よけのためおもろい格好しとれ、言わはるんや。それでな……」
丹波を形成する三つの盆地のうち、福知山、綾部についてはこれまでにのべた。のこる一つは京都市にもっとも近い亀岡である。
亀岡は古代にあって出雲系文化と、あとから流入して大和系文化が錯綜していた。
それは日本海と太平洋側の接点であったともいえる。今も、口丹波といわれるように、丹波の玄関に位置し、神社の祭神をみても、出雲大和、あるいは秦氏のそれぞれの系統が入りまじっているのが分かる。
ところで古代よりもっと前、いわゆる神代と呼ばれる時代に、丹波は一つの王国を築いていたという説がある。
その時、綾部、亀岡はその中心となっていたであろう。さらに綾部の中心は、現在大本の神域となっている本宮山であり、亀岡にあっては、丹波一の宮・出雲大神宮や、高熊山がその中心になっていたと推察される。亀岡は古代神山”と呼ばれていた。
その亀岡に穴太村がある。盆地の中心、元の亀岡町から西へ約一里寄ったところである。その穴太で明治四年(一八七一)八月二十二日(旧七月十二日)の夜、上田喜三郎はいぶせき農家で産声をあげた。
明治四年といえば、廃藩置県の断行された年で、明治政府の発足からまだ間がなく、混乱をきわめていた時代。
そして山脈を一つ二つ越した綾部では、遊び好きの夫とたくさんの子供を抱え、なおが辛苦の生活を送っていた時代でもある。
喜三郎の父を上田吉松、母をよねといった。二人にとってはじめての子供であった。
喜三郎の誕生から数ヵ月のちに、祖父の吉松(父と同名)は五十八歳で帰幽する。彼は亡くなる前に、喜三郎の両親を枕辺に呼んで言いのこした。
「……この孫はかならず天下に名をあらわす者になる。充分に気をつけて育ててくれ・・・・・・」
こういう祖父のいまわのきわの言葉であったが、それが、まさかのちに世界各国から聖師とあがめられ、世界の民族融和のためにはたらくような人物になろうとは、だれ一人想像できなかったであろう。
ちなみに、喜三郎の七代前には上田家から画聖とうたわれる円山応挙(本名・上田主水=一七三三~一七九五)がでていることを付記しておこう。
その円山応挙の当時は上田家も富農であったが、喜三郎が物心ついたころには先祖伝来の良田もすっかり人手にわたり、六畳、四畳三畳二間のわらぶきの陋屋と、わずか三十三坪の水田がのこるだけであった。
そして喜三郎の誕生して三年のちに弟の由松が生まれたため、彼の養育はもっぱら祖母の宇能にまかされた。
宇能は、同じ丹波の船井郡の中村孝道言霊学の中興の祖の家に生まれ、田舎には稀な教養人であった。喜三郎はこの祖母の影響を大いに受けた。
彼は祖母から文字の読み方、書き方をはじめ、百人一首の歌まで教えられ、また十歳前後になると言霊の妙用をも学んだ。
言霊とは、万葉集など古典に出てくるが、言葉には霊威があり、その力がふしぎなはたらきをなすという信仰である。その効用と法則を勉強するのが言霊学である。
喜三郎は宇能から授けられた言霊学につよい興味をもった。人のいない山や野にいって大きな声で「アーオーゥーエーイ!」と叫び、それをみた村の者は、発狂したのではないかと思った。
喜三郎はおさない時から記憶力が抜群で、宇能の教えることはすべて覚えこんだ。さらに霊感霊能もすでにみるべきものを発揮していた。
人々が井戸を掘っていると、地面に耳を当て水脈を知り、「そんな所掘ってもあかん、ここを掘りな」と教えた。そこを掘ると果たして水が湧いた。村人からは、
「喜三やんは地獄耳だ、八つ耳だ」「神童だ」などとはやされる。一方では「喜三やんは八文や」と、からかわれもした。つまり、すこし足りないようなところも見えたのである。
小学校に入った時は、病が原因で同年の子供らより三年遅れていたが、実力があったから間もなく追い越して十二歳の時には偕行小学校上等四級になっていた。
学校は、穴太寺の念仏堂を改造し、大きな木製のついたてで仕切っただけで、校長をふくめて三人の先生が、いくつかのクラスをとりしきっていた。
その一人が、吉田有年という亀山(亀岡)旧藩士である。ある日、修身書を教えている時、その本にでてきた江戸中期の名奉行”大岡越前守忠相”を吉田先生は”タダアイ”と読んだ。
喜三郎は、そくざに立ちあがり、「それは”タダスケ”です」と訂正した。ところが先生は耳をかさない。正しいことはどこまでも通さねばすまない喜三郎は”タダスケ”を主張した。先生は怒りを爆発させ、
「貴様は生徒の分際で教師に反抗するとは不都合な奴だ。懲戒にする。ちょっと来い」と怒鳴っ喜三郎を無理やりひっぱった。
彼はおもわず大声で校長を呼んだ。隣で授業をしていた校長は、何事かとかけつけた。
そして事情をきいた校長はその場で、先生の方にむかって言った。「ここはタダスケが本当だ。君もすこし調べておきたまえ」
喜三郎の方は、これでよかったが、気持ちのおさまらないのは生徒の前で恥をかかされた先生である。
この事件以来、吉田先生は喜三郎を極度に憎んだ。喜三郎が、少しの読み違いでもしようものなら、すぐなぐった。
時には、太い麻縄で後ろ手にしばりあげたり、大きなそろばんの上に一時間あまりも坐らせた。
そればかりか、物もらいが通ると指さして、「あれ、喜三郎さまの「お父さまが通る」とあざけり、倒れかかった便所を指さしては「喜三郎さまの立派なお宅だ」などと笑った。
喜三郎のがまんは、もはや限界にきた。ある日、吉田先生の学校からの帰りを待ちうけ、先にクソをつけた竹を腰のあたりに突き当てて、逃げ帰った。
これが学校で問題となり、結局、吉田先生の免職、喜三郎の退校ということになったが、さらに皮肉な処置がとられた。
校長は、学務委員と協議し、生徒としては退校させた喜三郎を吉田先生のかわりに助教員に採用したのである。
喜三郎十二歳、月給二円。ちなみに、吉田先生は三円、校長は五円であった。事件の発端が大岡越前守であったが、校長と学務委員のあざやかな「大岡裁き」で落着した。
さて生徒からいっきょに先生になった十二歳の喜三郎は、黒板に字を書くにも踏み台が必要であった。教え方はざっくばらんで型やぶりであった。生徒がむつかしい質問をすると、
「そないなことわしは知らん。調べて来てあした教えてあげる」とあっけらかんに言う。そんな彼に生徒は非常な親しみをおぼえた。
こうして評判をとった代用教員であったが一年あまりの勤務で辞職している。僧侶出身の同僚教師と、神道について激論したのが直接の原因であった。
間もなく隣の豪農斎藤源治の家に奉公した。作男としての外に、文字の読める喜三郎は秘書として調法であった。源治も「上田君」と呼んで一目置いた。
ところが翌明治二十年の新春、深刻な事態が起こった。それは九兵衛池をめぐる上田家と村の豪農たちとの間のもつれである。
九兵衛池は上田の屋敷の西南の隅に、先々代上田九兵衛が掘った小さな池である。ところが池に落ちて死ぬ者が出た。
上田の家ではこの池水で養わねばならぬ田圃はとっくになくなっている。父の吉松はいっそ埋めてしまおうと考えた。この噂が伝わって、豪農たちが斎藤家に集まったのである。
喜三郎に聞こえるのも頓着なく、彼等は九兵衛池取り上げの相談をする。
「上田の屋敷を実測すればきっと台帳の面積より広いから、池は村のものだと言って取り上げたらよい。あの池を埋められたら下の田は困るんだ」
「ナニぐずぐずぬかしたら、みなで貸金を取り立ててやったら吉松の阿呆はへこむやろう」
地主をかさに着て貧農を踏みつける奸策、ことに父に対する侮蔑喜三郎は聞いていてくやしさと憤りに思わず指を噛んだ。
意を決して斎藤家から暇をとり、家に帰って、池の問題は自分にまかせてくれと頼む。登記所の台帳などを十分調べ、金剛寺での総寄合には吉松に代わって喜三郎が出席し、確かな根拠に基づいて、臆することなく堂々の論を展開した。
地主の論法を逆手に取って、彼等の急所に痛撃を喰わした。
ついに地主側が折れて、池は上田家の所有と認め、借入れを乞い、埋立ての代わりに村の費用で柵を設け、水の使用料として年々米一斗五升を上田家に納める契約書が出来た。
「『水や太陽は、全体のためのもので、私すべきではない。村のため埋めないでくれ』の一言でよいものを、権力をかさに着た理不尽は許せぬ。貧乏小作にも五分の魂がある。それをわしは見せたかったんや」と喜三郎は語った。
生涯を貫く反骨精神はその時最初の大きな花を咲かせたといえよう。
喜三郎は、父の農事を手伝い、夜は足ふみで米をつく、さらに山で柴を刈り、それを六里以上もある京都の伏見辺まで荷車で運んだ。
途中、老の坂峠を越えてゆく。その折、わずかな売り上げの中から桜の苗木を買い、一本二本と道の傍に植えていった。
現在も春になると並木の桜は爛漫と咲き、通る人の目を楽しませている。
ちょうどその頃、王子ですみが奉公していた時期なので峠の手前で因縁の二人は出会っていたかもしれない。
しかし、出会ったとしても彼の方は、脇見する暇がなかった。いつも本から眼を離さず、車を引いていたのである。
そのため、店先の品物を車にひっかけて、転がしてしまうこともあった。また、道中で首つりの老人を見つけ、その自殺を思いとどまらせ、その日の稼ぎを、全部はたいて与えたこともあるという。
彼は昼間の疲れを苦にせず、金剛寺でひらかれていた夜学に通い、漢籍や経文を習った。しかし、もっとも情熱をもやしたのは、日本古来の神道に関してであった。
明治二十六年(一八九三)、二十二歳になった喜三郎は、両親の承諾を得て、獣医学を勉強するために、船井郡園部で獣医をしている従兄のもとに書生として住みこんだ。
園部の南陽寺わきの牧畜場では、牧夫三人、乳牛七、八頭がいた。喜三郎は、牛の乳しぼりを教えられた。そのしぼった乳を園部やその周辺の村落へ、毎日かならず配達した。
会計も受けもされ、さらに牛の飼料となる草を刈ったり、わらを買いあつめたり、その上、一日に四、五回は牧場内外の掃除をさせられた。
つまり、獣医学の勉強とは名ばかりで牧場の雑役係でしかなかった。
彼は、昼の荒い仕事に疲れた身体をひきずって、毎夜南陽寺に通う。寺の境内に、国学者の岡惟平(一八二二~一九〇九)が住んでいたからである。
岡田には園部や大阪などにすでにたくさんの弟子がいた。喜三郎は惟平から『古事記』を教わるなどして国学の研究にいそしんだ。
この時期に、記紀や風土記などにでてくる”歌垣”についての詳細を学んだ。それは、彼がこれまで多くの人にたずねても、誰からも実のある答えが返らず長く懸案になっていた問題であった。
歌垣は、歌会ともいい、和歌を中心にして世の平安を祈る鎮魂の行事で、古代にあって各村村において、年に一度二度と聖なる山や海浜でおこなわれた。
それは、天地と人とのまつりあわ行事であった。惟平から、はじめてその意義をきいた喜三郎は、胸をおどらせた。そして、いつの日にかこの歌垣を復興しようと心に誓う。
明治二十七年、喜三郎はどうしても動物を殺さねばならない獣医学の勉強にいや気がさしたらしく、園部から穴太へ帰る。
岡田惟平が摂津へいったん帰ってしまったという事情もあったかもしれない。
この岡田との交流は、一年二ヵ月ほどのものであったが、喜三郎には少なからぬ影響を与えた。岡田は、明治四十二年に園部で帰幽したが、後年、王仁三郎は南陽寺をおとずれ、「敬老尊師」と染筆し、その書は南陽寺の客間に掛けられた。
また、南陽寺境内に惟平の歌碑を建立した。歌碑は、第二次大本事件で破壊されてしまったが、その後、昭和四十年、園部町の有志が敬老尊師の尊い模範として、再建を企画し、大本も協力して今は立派に再建されている。
二夜ともなき望月のかげきよみもりて更かさむ軒のさむしろ惟平
喜三郎は、園部の従兄のすすめによって、京都でおこなわれていた獣医試験を受ける。農商務省の第十九回獣医試験である。
同じく京都で、巡査採用試験、監獄署の看守試験をたてつづけに受け、すべて合格した。しかし、病気を理由に就職をことわっている。
喜三郎は、どん欲なまでに次々と新しいことに手を出す。ラムネの製造販売、マンガン鉱探索等々。
しかし、あまり成功はしていない。そんな彼に対し、村人たちは、「三日坊主」「なんでも屋」「やまこ張り」「マンさん」などと、からかった。
いろんな発明もした。その一つに”上田式米搗機”がある。夜なべの米つきの苦しさに、なんとか良い方法はないものかと考えて造ったものである。
他に農機具の改良もこころみたが、いずれも軌道には乗らない。「喜三やんらしいことをやる」と、ひとことでかたづけられた。
こうしたなかで、比較的成功をおさめたのは、明治二十九年一月一日を期してはじめた精乳館であろう。穴太の生家のすぐ近くに、牛乳販売と牧畜を兼ねて設立したものである。
これは園部での体験習得が元になっている。資金面で数人の協力者があったが、牛を飼うことから搾乳、配達、会計まで一人できり回した。
その毎日は、きわめて多忙であったが、努力が報われ、牛乳の需要もだんだんと増加していった。今も穴太に跡を受けた「上田の乳屋」がある。
喜三郎はこうした仕事の傍ら、文芸にも熱を入れる。和歌、狂歌、俳句、川柳、冠句と幅が広い。和歌は惟平の指導を受け、終生詠みつづけてその数、十万首を越えるが、この頃力を入れたのは冠句である。
冠句は非常に庶民的で誰にも作りやすく、大衆にとって、高尚な文芸への入口にもなる。幸い近くの村に度変窟烏峰(本名・八木清之助)という宗匠がおり、その人と相談して穴太に冠句会「偕行社」を結成して幹事役となる。
冠句の同人は、みなちょっと面白い号を用いるが、喜三郎は安閑坊喜楽と号し、「喜楽はん」とも愛称されることとなる。
同人としては安閑喜楽であるが、烏峰宗匠に代わって選者となる時は、朝寝坊閑楽宗匠の名を使った。閑楽宗匠が喜楽の投句も選をして、しばしば「天位」に選ぶのである。発表の機関誌は「あほら誌」といった。
冠句は、後に大本において奨励され、昔の下卑好みから気品の高いものへと脱皮している。文芸の外に浄るりにも熱中し、また、浄るりくずしと言われる盆踊りの音頭も上手であった。
とにかく、多芸で多趣味、勉学もするが遊びにも熱心。ハメを外したいたずらもすれば、恋に酔い、失恋に泣くこともあった。
喜三郎は多感な青春を存分に生き抜いた。それはすべて普通人の百倍以上ものスケールにおいてであった。
高熊山の修行
精乳館の事業が軌道に乗りかけた頃、父の吉松が亡くなった。五十三歳、明治三十年(一八九七)七月二十一日であった。彼は、悲嘆にくれた。後年、こんな詩を詠んでいる。
西は半国東は愛宕
南妙見北帝釈の
青山屏風を引き廻し
中の穴太で牛を飼う
父よ恋しと西山見れば
山はさ霧に包まれて
墓標の松も雲がくれ
はるる暇なき袖の雨
聖師直筆のこの歌碑が、いま穴太の瑞泉苑(元の上田家屋敷跡)に立っている。
ありし日の父をおもひて涙しぬ月に酒くむこの夕ぐれを
とも、後年詠んでいるが、父親の他界した時の喜三郎の落胆ぶりは、はた目にも痛ましかったという。貧苦のうちに人間らしい生活の体験もなく、一生泥まみれであがいてきた父が無性に不びんであったのだ。そして、限りなく彼を悲しく、むなしくさせた。
父の死を境にして感ずるところあり、近隣の妙霊教会や神籠教会、大元教会などをたずね歩く。
しかし、彼の心のむなしさをいやすどころか、教会の偽善的内幕をみせられて、煩悶がますだけであった。
彼は、ここで一時無神論にかたむいてゆく。そのかわり、いわゆる弱きを助け強きをくじくという任侠の世界が彼をひきずりこむ。
「よし、明治の幡随院長兵衛になろう」と思う。人に頼まれ、無頼漢を抑えようとして派手な喧嘩になったり、仲裁をかってでたりした。そのうち、
「仲裁は喜三やんに限る」などとおだてられ、いよいよ侠客を気どり、しまいにはどこかに喧嘩がおちていないか、と探すほどになった。
かくて、父の死後、短期間のうちに十回も悶着の中に飛び込み、助けた人からは喜ばれたが相手には恨まれた。
あけて明治三十一年(一八九八)。喜三郎二十七歳。この年は、彼の波瀾にとんだ一生のなかでも長い一年となる。
その夜、浄るりの温習会に彼が加わり、かみしもをつけて、高座で気持ちよく〝絵本太功記、尼崎の段〟を語っていた。
そこへ、喜三郎をかねて恨みにおもっていた宮相撲取りの若錦が四、五人の子分をひきつれておどりこんできた。
喜三郎は、高座からひきずりおろされ、近くの畑へ運ばれて袋叩きにあった。弟の由松が、こん棒をもって兄の敵だと若錦のところへなぐりこんだが、かえりうちにあう。
喜三郎は、家から百メートルほどはなれた、喜楽亭と名づけていた自分の小屋で、頭をかかえ布団をかぶっていた。翌朝、母のよねと祖母の宇能が相ついで姿をみせる。
八十四歳になっていた宇能は、喜三郎に諄々ととした。
「三十近くにもなって物の道理が分からぬはずはあるまい。侠客だとか人助けだとかいっても、助けたよりも十倍二十倍も人に恨まれてはなんにもなるまい。仁王のような体を持っているならばともかく、そんなやにこい体をして……」
神妙に耳をかたむける喜三郎に祖母はさらにせつせつとうったえる。
「この世に神はないとか、哲学がどうのとカラ理屈ばかり言って、そのむくいが今きたのだろう。昨晩のことはまったく神さまのお慈悲のムチじゃから若錦たちを恨んではなりませんぞ。一生の恩人と思って神さまにお礼を申しなさい……」
「お前の父は霊界からお前の行状をみて、行くところへもよう行けず、魂は宙に迷うていなさるにちがいない。どうか心を入れかえて誠の人間になっておくれ」
喜三郎は、腹にこたえた。彼は心のなかで詫びた。子供の時から神を信じていながら、ここしばらく神の道を忘れ、祖母や母に不孝を重ねていたことを自覚したのである。
「ああ、吾あやまてり」悔悟の念は腸をえぐり、身も世もあらず泣き入った。
この一瞬に、喜三郎の人生は大転換する。
翌朝は三月一日である。
彼は気がつくと高熊山の岩窟のなかに端座している自分をみた。神使に導かれて富士山へ登るように思った、と後に書かれている。
高熊山は、穴太の西南にあり、昔、高御座山といい、元出雲の裏山とともに神体山として、崇められていた。
喜三郎の修行の場となった岩窟は、切りたった崖の中腹にあって、そこは巨岩が露頭していた。現在は、もう人がはいれないほどに岩窟そのものは埋まっているが、かつては、その奥ゆきもかなり広かったのである。
喜三郎は、その岩窟に坐り、三月にはいったばかりのきびしい寒気のなか、襦袢一枚で七日間正座したまま過ごす。
彼は、その間、神人感合の境地に入り、その精霊は霊界をかけめぐり、宇宙の真相を悟り、ついに救世の使命と方策を自覚する。のちに著わされた『霊界物語』から、この修行の模様について引用しよう。
「高熊山の修行は、一時間神界の修行を命せられると、現界は二時間の比例で修行させられた。
(略)現界の修行といつては寒天にじゅばん一枚となって、前後一週間水一杯飲まず、一食もせず、岩の上に静坐して無言でをつたことである。
その間には降雨もあり、寒風も吹ききたり、夜中になっても狐狸の声も聞かず、虫の音も無く、ときどき山も崩れむばかりの怪音や、なんとも言へぬ厭らしい身の毛の震慄する怪声が耳朶を打つ。寂しいとも、恐ろしいとも、なんとも形容できぬ光景であった」
「たとへ狐でも狸でも、虎狼でもかまはぬ、生ある動物がでてきて生きた声を聞かして欲しい。
その姿なりと、生物であったら、一眼見たいものだと、憧憬れるやうになった。 7、生物ぐら人の力になるものはない。(略)
世界の人々を悪んだり、怒らしたり、侮ったり、苦しめたり、人を何とも思はず、日々を暮してきた自分は、何としたもったいない罰当りであったのか、たとへ仇敵悪人といへども、皆神様の霊が宿つてゐる。人は神である。
否、人ばかりではない。一切の動物も植物も、皆われわれのためには、必要な力であり、頼みの杖であり、神の断片である」
「これが自分の万有に対する、慈悲心の発芽であつて、有難き大神業に奉仕するの基礎的実習であった」
「つぎに自分の第一に有難く感じたのは水である。(略)とへ泥水でもいい、水気のあるものが欲しい。
木の葉でも噛んでみたら、少々くら水は含んでるであらうが、それも一週間は神界から飲食一切を禁止されてるので、手近にある木の葉一枚さへも、口に入れるといふわけにはゆかない。
その上時々刻々に空腹を感じ、気力は次第に衰へてくる。(略)自分がふと空を仰ぐ途端に、松の露がポトポトと雨後の風に揺られて、自分の唇辺に落ちかかった。
何心なくこれを嘗めた。ただ一滴の松葉の露のその味は、甘露とも何ともとへられぬ美味さであった。
それを考へてみても、結構な水を火にかけ湯に沸かして、いの熱いのと、小言を言つてゐるくら勿体ないことはない」
この現界の修行によって水の恩を知り、衣食住の大恩などを悟るわけである。
ところで、神示によるこのきびしい肉体的修行も、「二時間の現界の修行より、一時間の神界の修行の方が数十倍も苦しかった」と記されているから神霊界での苦葉は想像を絶するものであったであろう。
喜三郎はこの修行中に、天眼通、天耳通、自他心通、天言通、宿命通などの大要を体得する。少年時代から相当の霊能があったが、高熊山において急速に発達した。
「………汽車よりも飛行機よりも電光石火よりも、すみやかに霊的研究は進歩したやうに思うた。たとへば幼稚園の生徒が大学を卒業して博士の地位に瞬間に進んだやうな進歩であった」と記している。
また、ここで、鎮魂帰神の大要を教示される。鎮魂の法は、精神を静めて己が本霊の働きをさかんにする法で、帰神の法とは神に帰一する法、すなわち高級な神がかりの法である。
この章の冒頭に掲げた神訓も、高熊山で言霊彦命によって授けられたもので、大本教義の根幹である。
喜三郎の姿が見えなくなり、二日たっても三日たっても帰ってこないので、家族も親類も心配してあちこちをさがした。
それでもみつからないので、教会で祈祷を頼んだり、占師を訪ねたりするが、要領を得ない。
ようやく一週間目の三月七日(旧二月十五日)の昼前、ふらふらと喜三郎は宮垣内の家にもどった。「どこへ行っていた」と、みなのたずねるのに対して、
「神さまに連れられて、ちょっと修行に行ってきた」と、ぽつんと答え、麦飯を二、三杯かきこむと、横になって寝てしまった。
八日の午後、喜三郎は眼をさます。起き上がると産土の小幡神社と高熊山の麓にある、父吉松の墓に参った。
その日は元気であった。ところが明けて九日になると、朝から四肢が硬直して、身うごきできない。人の声や物音ははっきり聞こえるのだが、口はうごかず眼も開かない。つまり、他人からは昏睡しているようにみえた。
家族が医者を呼んだが、施す術なく帰ってしまう。彼には、この状態も、神界からの修行の一つであるということは分かっていたので「自分は病気ではない」と言ってやりたいが、どうにもできない。
祈祷師が来て頭の上で拍子木を打ち鳴らし、そのやかましいこと。法華の婆さんが数珠をもみながら「南無妙法蓮華経」を繰返していたが、やがて、その数珠で喜三郎の頭や腹や手や足を叩く。
しまいには「これ早くでて行きなさい」と憑きものを落とすつもりで脇の下へ数珠を入れ、肋骨をガリガリいわせる。太鼓と鉦を叩きまわる祈祷師もある。
一週間たっても回復しないので、これは狸が憑いたにちがいないということになり、狸を追いだすため、唐辛子を松葉といっしょにくすべ、その煙を喜三郎の鼻の穴へうちわであおいで入れる準備をする。
逐一事情の分かる喜三郎は、さすがによわったが、どうにも出来ない。その時、母のよねが、それだけは止めてくれと、涙を流してうったえ、その瞬間、喜三郎の身体は自由になった。
「…………母の目からおちた涙が、自分の顔をうるほはしたその一刹那、どこともなく上の方から一筋の金色の綱が下がってきた。
それを手早く握りしめたとおもふとたんに、ふしぎにも自分の体は自由自在に活動することができるやうになった」(『霊界物語』第3巻)
この一週間の床縛りも、高熊山につづく、神より与えられた修行であり、彼の霊魂は、その間に、幽界・神界に遊び時空を超えた見聞を重ねたのであった。
開祖との出会い
喜三郎を、精乳館を人にゆだね、神より授けられた使命の遂行に専念することとなった。
幼年のころにも、たしかに霊感は発達していた。長ずるにつれ本を読んだり、各宗教の門をたたいたり、産土の小幡神社に夜な夜なこもったりして信仰という問題については人一倍興味をもっていた。
高熊山で会得した神秘としかいいようのない体験によって、今彼は人間ではなく、神の眼を授かったのである。
明治三十一年を期して、これまでの彼は消え、まさに突然に、すっくりと新しい世界にはいってしまったのである。
それは、家族や縁者に説明しようにもでき得ない、説明したところでとても信用してもらえるはずのない神秘の世界であった。
さて、当時の亀岡辺りは、大小、新旧の宗教勢力が入りまじり、そこへいかがわしい稲荷下げ、狐使い、狸使い、術者、巫女、祈$79B1者という単純な霊がかりが数しれず存在した。
そうしたなかで、自分はどう対処すべきか彼は考えた。天下に神の大道を説き弘めるについてもまず教会を設立する必要があろう。
彼は隣に住む、斎藤仲一にそのことを相談した。斎藤は乗気になったが、「一つの教派を開こうと思えば、まず、病気治しから始めるべきだ」と力説する。
喜三郎は、気は進まぬが、むげにしりぞけることもできない。やがて、斎藤は岩森八重という歯痛に悩む婦人を連れて来た。
喜三郎は、やむなく身心を清めて神に祈り、軽く相手の頬をなでる。とたんにその婦人の二年ごしの痛みが消えた。
これが、喜三郎の病気治しのはじめであった。以後、たのまれるままに神に祈って病を治し、その評判をきいて方々から、たくさんの人がたずねてくる。
「穴太の喜楽天狗」とか「金神さん」「稲荷さん」などと、かってな名前で呼ばれ、急速に有名になっていった。
病気治しの外に、斎藤の家で幽斎の指導をはじめる。幽斎とは、霊界に通ずる法、神人感合の術で、神がかりの法といってもよい。
喜三郎が審神者となり、人々にかかる神(霊)の正邪をみわける。神がかりになろうとする人を神主という。神主としての適格者も次々と現われ、幽斎修行は盛んになる。
一方、家業を棄てて、そんなことにふける喜三郎を責める人たちもいた。第一、家族や親戚がうるさい。やれ「狐使いだ」「山子だ」とののしるばかりで、その霊力をまともに認めようとしない。
ある時、親戚の一人が、湯のみに銅貨を入れて厚い紙に包み、「このなかに何がはいっているか当ててみろ」と迫った。
喜三郎は、はじめ「手品師でないから」とことわったが、あまりうるさく言うので「一銭銅貨が十五枚はいっている」とピタリいい当てた。しかし、彼はかえって、さてこそ狐使いにちがいないと、ふれまわった。
三月下旬に、喜三郎は、斎藤と連れだって妙霊教会などで演説をしている。
“惟神の徳性”と題して、「日本臣民として国家百年のため皇道を宣揚し……………この腐敗堕落した社会を洗濯して、惟神の徳性を宇内に発揮せねばならぬ」との主旨で、それぞれの会場ではかっさいを博し、喜楽天狗の評判は、いよいよ高まっていった。
四月三日、一人の男が喜三郎をたずねる。静岡県安倍郡富士見村、月見里神社に付属する稲荷講社総本部の三矢という配札係である。
彼は、喜三郎の評判を聞いて、講社の総理、長沢雄楯に伝えたところ、ぜひ会って来るようにとの命を受けて来たのである。
三矢から、長沢が霊学の大家で、過去、現在、未来を透察できることなどを聞かされて、喜三郎の心は大いに動いた。
そのころ評判の高い喜三郎を無視できなくなった村の駐在がやってきて、いろいろ尋問し、結社はならないぞと釘をさされていたからである。
喜三郎は、三矢の話をきき、その講社の主旨には賛成するが、稲荷という名にちょっとひっかかりを感じた。
稲荷というと、すぐ狐や狸の類と一般では軽蔑する傾向にあったためである。
事実、すぐのちに対面する、出口なおも、それを聞いて難色を示している。
しかし、山子だ、野天だ狐だと嘲笑されている彼は、長沢雄楯という人物が、過去、現在、未来を透察する霊学の大家であると聞いては、じっとしておられなかった。静岡のその総本部をたずねてみることにした。
四月十三日穴太を発って、三矢の案内で駿河に旅立つ。当時は、まだ山陰線が開通しておらず、京都までは徒歩。京都からは生まれて初めて汽車に乗り、無事長沢の宅に着いた。
さて、講社の総理、長沢雄楯は国学者、霊学者、また言霊学者として知られる本田親徳(一八二三~一八八九)の教えを受けた人で、副島種臣とは、兄弟弟子の間柄である。
長沢は、喜三郎に霊学のことや、本田の来歴などくわしく語ってくれた。長沢の母豊子は、
「本田さまの仰有るには、十年後に丹波から一人の青年がたずねてくるが、その者が来ると、丹波からこの道が開けるとのことでした。お前さまのことに違いないと思いますから、お預かりしている鎮魂の玉や天然笛をお渡ししましょう」と言って、二つの神器と更に神伝秘書の巻物を添えて渡された。
長沢が、一度喜三郎を審神してみようということになり、喜三郎が神主の座につい幽斎が行われた。
その結果、まごう方なき高級神霊の神がかりなることが認められ、「鎮魂帰神の二科高等得業を証す」という免状まで渡された。
狐つきだ、山子だと多くの者からののしられていた喜三郎にとって、これは天にも昇る喜びであった。
彼は長沢に入門し、三日後、希望に燃えて、稲荷講社を辞する。入門と言っても、彼は長沢から新たに学ばなければならぬものはほとんどない。
ただ自分の霊能力を正しく評価された感激からのことであったが、彼は終生長沢を師として敬事した。ずっと後年、長沢を大本本部に賓客として迎えたが、聖師は長沢を風呂場に招じる前には、自ら手を入れて湯加減を見た。師を敬う心の現われである。
駿河から戻ってしばらく経ったある日、彼は産土の小幡神社に参拝した。その時、小松林命(素盞鳴尊の分霊)の神がかりがあり、次のように示される。
「一日も早く、西北の方をさして行け。神界のしぐみがしてある。お前のくるのを待っている人がいる。何事にもとんちゃくすることなく、すみやかにここを発って園部の方へ行け!」
神示にしたがって、旧六月、老祖母や幽斎修行に集まっていた彼の信奉者たちに別れを告げ、穴太をあとにした。
山陰道を二里ばかり歩くと船井郡の入口にあたる八木の虎天堰というところにさしかかる。そのかたわらの茶店で一休みしていると、
「あなたは何をなさる人ですか」と茶店の女主人がたずねた。喜三郎の異様な風体が眼についたのであろう。
陣羽織を着て口にはお歯黒をつけ、そして、コウモリ傘とバスケット…。「私は神さまを見分けるのが仕事です」と喜三郎はとっさに答えた。
それをきいた女主人は、「それでは、おりいってたのみがあります。実は、綾部にいる私の母に神憑きがおこりまして、もう六年にもなりますのに、いっこうおさまりません。どんな神さんやら、いっぺん行って調べてやってくれませんか」
と真剣に頼む。そして奥から、母が書いたという平がな書きの一枚の半紙をもってきて見せた。開祖の筆先である。おかしがたい気品をそなえた文字。内容には高熊山の体験と共通したものがある。
「近いうちに行ってみましょう」と彼は約束して茶店をたった。
この女主人は、大本開祖の三女で八木の福島寅之助に嫁いでいたひさである。ひさは京都市で開催されていた内国勧業博覧会を観に行く人をあてこんで、この虎天堰で茶店を開き、合わせて母の神がかりの正体を見分けてくれる人をさがしていたのである。
さて、喜三郎は、八木からさらに西北に向かって、まもなく園部につく。そこは五年前に獣医学や牧畜を学び、岡田惟平について勉学に励んだところだ。
もちろん南陽寺もたずね、友人知人を歴訪部を中心に付近一帯に神教の普及につとめ、たちまち沢山の共鳴者、信者ができる。
偶然に出合った福島寅之助に催促されて、いよいよ綾部の裏町(現・若松町)の伊助の倉に出口なおを訪問する。
ところが、機熟さず、滞在わずか三日で綾部をひきあげたことはすでに記した。
しかし、その頃から、この神を表に出すのは上田であることを示す筆先が、しきりにではじめていた。
