大本 出口なお・出口王仁三郎の生涯(Vol.7)

胎動のなか開祖昇天

近代日本の基礎をきずいた明治時代は、四十五年七月三十日をもって終わり、大正へとすすむ。

王仁三郎は教団にあっていよいよ重視され、同時に大本の道は拡まっていった。

大正三年(一九一四)七月二十八日、第一次世界大戦が勃発し、日本は八月二十三日、ドイツと国交断絶してこの大戦に参加した。

この年から大本では用地の買収も進み、いよいよ本格的に神苑が拡張される。かつて金光教の神とともに転々とした広前の跡も、苑内に取り入れられた。

この頃、王仁三郎の陣頭指揮によって神苑内の高台の屋敷地に池を掘ることとなったが、その完成までのいきさつは、まことにドラマチックであった。

八月八日に地鎮祭がおこなわれ、各地からは奉仕の人々が参集して、池の開掘がはじめられた。

朝早くから日暮れまで勇ましく作業は進められる。ところが石ばかりで水のでる気配が全くない。町の人も、大本さんは水のでない池など掘って、と笑って見ていた。王仁三郎に奉仕者が伺うと、

「かまわん、もっと掘れ」とだけ言う。そこでさらに掘っては行ったが、数日間、外出していた王仁三郎が帰ってみると、自分の言いつけておいただけの仕事ができていないので爆発した。

みながとびあがるほど大きな声で、「どいつもこいつも出てうせい!」

叫び声に驚いて、老人婦人まで集まって雪のふるなか、焚き火をしながら池掘りに従事した。二代教主となるすみまでも、作業に加わったが、「なんぼ神さまのお仕事というても、この真夜中にまで」と思ったという。

ところが、掘り上がったその十一月十六日、綾部の町会議員らがやって来て、質山の水を引い防火用水にする工事ができたのだが、その水路をどうしても大本の屋敷を通さないといけないので通させてくれ、と依頼した。

その依頼の日がちょうど池の掘り上がった日であった。その日のうちに質山の水が流入し、池は満々と水をたたえた。役員、信徒の感激はどんなであったろうか。

第二次大本事件の法廷で王仁三郎は、このような答弁をしている。

「…………神や精霊の言っていることが、みな聞こえてきますから、そのとおりに言ったり、したりすれば違わないのであります。

それをしなんだら、のどをつよくつめてきます。目をむくような目にあわされます。

ラムネ玉のような物が腹のなかからギューッと上がってきます。言うことを聞かなければ、また、その通りして違いはせんかと思うと、つよく責められます……」

この池のエピソードも、神が王仁三郎に「揺れ」と、強く命じたことなのであった。

王仁三郎は、このように神の命により、神の演出による舞台の名優として生涯演じつづけねばならないのである。

この池は金竜海と名づけられ、そのなかほどに長の金神の隠退していたという冠島、沓島に型どった小さい島が築かれ、別に神島がつくられた。この神島についても大事な神秘がある。

大正五年の五月、横になっていた王仁三郎の眼に、海に浮かぶ一つの島が映じた。そして、にわかに歯ぐきが痛みだした。

それから四十八日目に、その歯ぐきから一つのシャリがでてきた。それは霊眼にみえた鳥の形とまったく同じものであった。

そこで、この島をさがすようにと二人の信者につたえる。手がかりは、島の形と坤の方向にあるというだけであった。

まもなく、その島は播州高砂の沖にある上島であろうとの報告がはいった。高砂市の南西沖合約六浬半の瀬戸内海に浮かび、家島諸島の東端にあたる、岩の多い小さな無人島だ。

この島については古くからの信仰があり、竜神が住むとか、いやそれは大蛇だとか、種々の霊異の物語が地元で伝えられていた。

そして王仁三郎の霊覚によって、この島には坤の金神”がしずまり、守護されていることが明らかとなり、さっそく、その神霊をお迎えすべく、六月二十五日(旧五月二十五日)に王仁三郎、直日ら一行六十人が高砂から上島に向かう。王仁三郎は、その島で神事をおこない、持参した小さな祠に坤の金神を鎮祭し、綾部にもどった。

この神事の意義は、艮の金神にたいする坤の金神の奉迎ということで、開祖と王仁三郎の間でお祝いの盃が挙げられた。

大本ではその上島を”神島”とよぶようになり、さきの池(金竜海)につくられた神島に、その坤の金神は奉祀された。

九月八日(旧八月十一日)に二度目の神島参拝があり、十月四日(旧九月八日)には開祖をはじめ王仁三郎ら一行百数十人で第三回目の参拝が行われたが、この時、開祖自身もおどろくような内容の筆先がでた。

「みろく様の霊はみな神島へ落ちておられて、未申の金神どの、素盞嗚尊と小松林の霊が、みろくの神の御霊でけっこうな御用がさしてありたぞよ。

みろく様が根本の天の御先祖様であるぞよ。国常立尊(艮の金神)は地の先祖であるぞよ。 ……」

ミロクとは元来仏説から出た名称で、原語ではマイトレーヤといい、それを漢字で弥勒と書いたためミロクと発音されることになった。

「至仁至愛」の仏様、または神様の意である。仏滅後五十六億七千万歳にしてミロク菩薩下生し、一切を救うという信仰が俗間にも広まっていたが、『霊界物語』には「天地剖判の始めより五十六億七千万年の星霜を経て、いよいよ弥勒出現の暁となり、弥勒の神下生して三界の大革正を成就し・・・・・」と示されている。

今日ではそのミロク薩が下生する「末法の世」「末の世」という認識において多くの先覚と一致するものがあり、今日はまさにその時代といえる。

筆先にある「みろく様」は最高神であり、地の先祖に対する「天の御先祖」とあるから、この筆先の信徒に与えた衝撃は大きかった。

以来、開祖の王仁三郎に対する尊敬は一層深まり、役員信徒の態度も改まって、王仁三郎の活動はよほどしやすくなる。それゆえ、この神島開きは大本の歴史の中において最も注目すべき一コマであった。

開祖は、大正六年ごろから、神苑から一歩もでることはなく、もっぱら神前に仕え、熱心に八畳の部屋で筆先を書いていたが、七年の五月にはいると筆先がぴたっととまった。その理由をたずねた人に開祖は、

「どういうわけか、このごろは神さまがお書かせになりません」と答えている。

そして終日、ご神体やお肌守りを謹書しつづけた。

王仁三郎は、益々やさしく心を尽して開祖に仕えたが、ある日、建設のすすむ神苑の状況をみていただきたいと、みずから開祖を背に負って歩いた。その時の憶い出を後に歌に詠んでいる。

背を出せば教御祖は子のごとく喜びてわれに負はれ給へり

わが御祖背なに負はれつ変りゆく世の有様を語りたまへり

銀髪を秋夜の月に照しつつわが背にいませし御祖をおもふ

ところが、あとで開祖は、しみじみと側近の者に言った。

「神苑が広くなって建物が増えてゆくことはまことにうれしいのですが、それより一人でもまことの人がでてきたら、なにかこの胸が楽になるのに」

その年の十月末のころ、大阪から参拝していた春子太夫という浄るりの名人がぜひ開祖に自分の語りを聞いてもらいたいと申しでた。

すみがそのことを取り次ぐと、あっさり「ああそうか、神さまが私に浄るりを聞かしなさるのか」と受け入れた。

春子太夫はよろこんで一生懸命に語ったが、襖のかげから聞いていた開祖は、居間にひきあげてから「よう分かった」と前おきして述懐した。

「神さまが明治二十五年から世界の人民に筆先でおさとしなさるのに、どうして人民に分からぬのかと思っていたが、浄るりでさえなかなか分からんのだからなあ」

神さまの教えが分からんのは無理がない、そのことが「よう分かった」と言ったのである。

それからまもない十一月にはいったころ、その夜は大へん冷えこんだので、すみは開祖の床に炬燵を入れ「早くおやすみなさい」と声をかけた。開祖は「はいはい」と返事をして、

「さあさあ、これで私のご用もすんだ。お前の言うようにするわ」と床についたのが印象的であった、とすみは後年のべている。

五日の夜、「今晩のお礼は誰かに代わってもらいます」と言った。これまで、どんなに疲れた時でも欠かさなかった礼拝である。

厳冬でも神前の板の間の円座にすわり、世界の大難を小難に、小難を無難にと世の平安と幸福を朝に夕に祈りつづけてきた開祖。この日開祖は、「神さまは、もうお前はお礼せずともよい。明日からは先生(王仁三郎)がお礼するとおっしゃる」と言って、しずかに就寝した。

翌六日(旧十月三日)の朝七時、手洗いにたった開祖は廊下で昏倒した。王仁三郎は枕もとにかけつけ、開祖の顔をのぞきこんだ。

開祖はうすく目をあけ、王仁三郎に何ごとか、二言三言話しかけた。それから昏睡状態がつづき、十時半、開祖は安らかに昇天した。大正七年十一月六日、出口なお、八十三歳(満八十一歳)であった。

昇天の瞬間、開祖の居間で祈願ののりとを奏上していた四方平蔵と稲次要蔵らは、天上から珠をつないだうつくしい五色の紐のような霊線の降りるのを見た。

そして開祖は、わしい姫神の姿となりその霊線にのって天に昇っていったという。

開祖の亡くなった瞬間、王仁三郎ははげしく泣いた。大声で号泣した。

そのありさまは「(素盞嗚尊が)青山を枯木の山にするほどはげしく泣き、川と海を泣く涙のため吸い取ってすっかり干してしまう」(古事記上巻)ほどのものであった。

さて、開祖の日常は、ひそやかでゆかしく、思いやりといたわりに満ちたものであった。開祖と接した人は信徒、未信徒を問わず、いちようにその神々しさと清純さにつよくうたれた。

古刹雲水にも似た立居のしずけさがあった。ある芝居好きの人が、開祖の立居をみて「あの品のよさは、どんな名優でもまねができん」と感嘆したという。

開祖は、肌のきれいな人であった。その銀髪は神々しく輝き、おかしがたい気品に満ちていた。いつも苔の上に打ち水をしたような風情をたたえ、茶の世界でいう”和敬清寂”そのものであり、茶を学ばずして類ない大人の趣があった。

そして質実剛健であった。こういう日常が、おのずから周辺の人々を感化し、無言のみちびきとなって、いつとはなく大本の教風がつくられていったのである。

孫の直日(現三代教主)は開祖の思い出を次のように記している。

「祖母は、夜な夜なむかしばなしをしてくれました。それで、夜がくるのを待ちかねて、祖母の部屋へ泊まりにゆきました。夜の灯影がもの静けさを深め、私にはピッタリとした、みちたりた時を過ごすことができました。

丹波縞の夜着の中で、(妹の梅野と)両方からせりあって、祖母によりそい、毎夜、同じ話を聞かされているにもかかわらず、なにかせつない、真実につつまれる思いであったのでしょう。

今にしておもうと、祖母の話しぶりは、甘い感傷が漂うて、祖母にも、うら若い乙女の日があったことを、ほほえましくしのばせるのでした。

祖母は、いつまでも清純な乙女のような、みずみずしいものを、もちつづけていました。

貧困の町家に生まれ、小さいうちから奉公に出なければならなかった祖母は、家庭をもってからも、ひとかたならぬ苦労をしたのに、そのような境遇の人にありがちな陰影がなく、私の少女のころ、もと武家の奥さんの中に気品の高い老婦人をみましたが、祖母は武家育ちのような気品のなかにやさしさがあって、やさしいわりにシャンとした感じをもっていました。

祖母は、手織木綿の着物を、いつもさっぱりと着ていました。(中略)

あのような人がらを、もうふたたび私の身近にみることはできないでしょう。

それにつけても、したわしく思いおこされるのは、明け方近く工場の汽笛が鳴りひびくとき、祖母が示した美しい陰影のある表情です。

音ながくひびく笛で、睡りを醒ましている私に、すでに起きていた祖母は近よって『いま”製糸”の女工さんがおこされていますのじゃ』といたわりのこもった声で、ささやきました。

祖母は、当時、新しく興ってきた工場で働いたことはなくとも、少女のころから、生糸の賃びきに出た経験があって、雇われ人の苦労を充分に味わってきたところから、女工の生活を思いやって、いつも涙ぐんでいました。

しっとりとした、山国の朝々を甍の波を越えてわたってくる汽笛の音にも、女工のあわれをしのび、胸がいたんだのでしょう。

幼い孫の私に、その胸の痛みをうちあけるように、女工のみじめな一日が始まろうとしていることを告げました。

祖母はまた、私に『兵隊さんは可哀そうや』と、これも、祖母が女工に示したと同じかなしみをこめて、いくたびも、いい聞かせてくれました。

祖母は次男(清吉)と日清戦争で別れ、戦争と人民の悲惨を、まのあたりにしたことから格別の気持ちをもっていました。(中略)

祖母は、いつも、夏はほの明るくなる頃には、冬は暗いうちに、もう起きていました。起床すると、洗顔の後、清水で頭髪をくしけずっていました。

お水のご恩をかたじけなく戴くようにして、いつも細いきれいな毛に水をつけては梳いていました。束髪にしっかりと結いあげると、神さまを礼拝されました。

祖母の祝詞の声は、透きとおって、なんともいえない鈴のような震いをおびていました。

お年を召されている方ともおもわれない澄んだお声で、聴くもののこころが清まって安らいでく独特のひびきをもっていられました。それは、雨の降った後の、木の滴が垂っている露の玉のようなかがやきのある声でした。

そういう声で、祖母が神さまにささげる祝詞をきいていると、涙が、ぼとぼとと、わたくしの目からこぼれました。

涙をぼとぼととこぼしながら、わたくしは魂をゆすぶられるおもいで、いつも祖母の祝詞を、じっと聞いていました。

朝夕にうかがった、祖母の祝詞は、祖母の魂の美しさを直接に、わたくしの胸に力強く伝え忘れ難いものとしてくれました。

祖母の食事は、きわめてしずかなものでした。朱塗りの膳にむかって、朱の三椀をつかって、音もかそかに箸をとっていました。

陶器は、膳をいためやすいためか、触れる音をさけたものか、漆器を好んでいました。椀に少しご飯をよそって、湯をかけてあがっている姿のしずかさはもっとも印象的です。

いただくものいっさいは、お土から上ったものとしてたいせつにし、厳格に一汁一菜をまもっていました。

野菜の煮もの、浸しが多く、豆腐を味噌汁に入れ、月に一度の生湯葉などは、ごちそうになっていました。

いまの人が想像もできない粗食ではありましたが、天地のご恩を感謝して、有難く美味しくいただいた点では、問題にならないひらきがあります。

祖母は、食事をあがっている時も、その姿は、まことにしずかな、清い、高いものを感じさせる空間の中にいました。

それでいて近よると、おだやかに、親しみふかいものが漂うていました。

神さまにたいしても、人にたいしても、わけへだてのない、敬けんなこころで、清潔そのものの日々を、つつましく歩まれていた祖母は、ほんとうの茶人であった、とおもっています」

開祖は生涯ただの一度もお腹一杯御飯を食べたことがなかった。若い頃は貧乏のために食べられなかったのであるが、晩年になってもそれはつづいた。

世の中にひもじい人がたくさんいるのに、自分だけ腹一杯食べてはもったいないという心からであり、今一つは、世の大難を小難にと、お祈りするために、自らに課した贖いの行でもあった。

着るものも一生木綿で通した。それは神様から命ぜられたことでもあった。高齢の開祖に着ていただきたいと、信徒が絹の着物や夜具を献上することがあると、その人が帰った後で、実に悲しい顔をした。せっかくの厚意を受けることのできないのが、その人に悪かったのである。

明治三十八年の戦争の時、神命により、ただ一人沓島に渡って三週間の祈願をすると言い出した。

末子のすみは、あまりの無謀に強く引き止めたが、どうしても聞かれない。

すみは声を励まして「お母さんは何でも神さん神さんというて、神さんが死ねというたら死になるのか」となじった。

すると「ええ死にますとも」と言って、何とも知れぬうれしげな顔をしたという。そういう開祖であった。

奥都城(墓)は綾部の神苑から南西半里の天王平に造られた。

ところがその後の大本事件によって、二度も改築や移転を強制された。墓を動かすなどはこれ以上ない無礼である。生涯一日とて安らかな思いを持てなかった開祖は、お墓すら安住のところでなく、死してまでこの屈辱を受けねばならなかった。

しかし幸い、事件も解決して奥都城はあるべき姿に戻り、今は、なお、王仁三郎、すみの三人の墓は、天王平に安らかに鎮まる。

王仁三郎は詠んだ。

三千世界一度に開く梅の花と宣らせたまひし開祖かしこし

何もかも一さい万事あらたまると宣らせたまひし開祖かしこし

筆先には、「出口直というひと、むかしからこの世のかわりめに、お役に立てる身魂であるから、苦労ばかりがさしてあるぞよ。この世になれば、神の力にいたす取次であるぞよ。この直は、むかしからの苦労というものは、この世には、まずない苦労いたした直であるぞよ。この世の苦労が、一ばんかるいのであるぞよ」(明治三十年旧一月十九日)

また「十三日のあいだ食物をとりあげ、七十五日も寝させずに、ご用をさしたこともありたぞよ。他人がわろうておるあいだに、大もうなご用がさしてありたぞよ」(明治三十二年旧三月)と示されている。

第三章丹波から世界へ

天衣無縫の超人~中外日報社主・真渓涙骨~

私は、直接間接に随分多くの人間を知ってきたが、未だかつて聖師のごとき、羽目のはずれた脱落超風の超人的野人に触れたことがない。

パアーとした大風に灰をまいたような、どこといってとらえどころのない、大賢か、大愚か、豪傑か、凡俗か、かつてこんな得体の判らぬ怪物に触れたことがない。

口を開けば、かいぎゃくとユーモアの濫発で、エロ、グロの明暗両相、どこがこの人の本質だか、真面目だか、サッパリ見当がつかない。それでいて汲めども尽きぬ愛情に、世の一切を包み、底知れぬ魅力に万人の心をつかんで離さない。まったく超人的の異彩を放っていると想う。今日の世、小智小才の寸尺の短い群族のウヨウヨしている図抜けた中大野人が一個ポツンと存在するのは驚くべき奇跡ともみられる。

今日の世間、とくに宗教界には、かかる一個の不得要領の大人物を要求しているのだ。

俗に浸って俗に溺れず、聖に入って聖に囚われず、無我にして大我であり、無慾にして大であり、毀誉は空吹く風、褒貶は脚下を流れる水、尻っぽを捉れば頭はココだと高く笑い、ムズと長髪をつかめばへそはドッコイここだと下腹からからかって出る。

地に影を踏まんとすれば天上に声あり、天馬空を征かと思えば奥さんの前にチョコナンと縮こまってござる。

面白いとも愉快とも、一たび高風に接するものは批評を超え、月旦を空じ、ただ舌を巻いて感嘆するだろう。混沌たる今日の世になくてはならぬオアシスだけだし新興宗教の礎石的人格だろう。

日地合せて作る串団子星の胡麻かけ喰らう王仁ロ
日地月星の団子もくいあきて今や宇宙の天海をのむ
(王仁三郎詠)

白熱化する宣教活動

開祖昇天のあとを継ぐ教主は、末子のすみと神定されており、王仁三郎は教主軸となる。”輔”は”補”ではなく、教祖である立場を考慮されたものである。そしてこの大正七年からは、大本の全国的宣教が一段とはげしく展開される。

まず、各種の大本機関誌上で、立替え立直しを具体的に期限を示して宣言したのが口火となる。当時の幹部の一人、友清天行はこの世界がみじんに打ちくだかれる時期が今から一千日ばかりの間におこる、と大胆な予言をする。

これは信徒はもとより社会一般に多大の影響を与え、また多くの人の入信の動機ともなった。

大本の全体が、そうした風潮になっていったが、王仁三郎はそれをきびしく否定し、苦々しく思いながらも渡るべき道程として見ていたようなところがある。

その風潮をさらに煽った一人に浅野和三郎がある。浅野は一高、東大というコースをたどり、海軍機関学校の教官となり英文学者としても名をなしていたインテリであった。

彼は王仁三郎と会見し、鎮魂帰神を体験し、また開祖の人柄にも強く引かれて、大正五年十二月に家族ともども横須賀から綾部へ移住していた。彼につづいて兄の海軍中将浅野正恭も移住して来る。

浅野らは筆先をあまりに浅く自己流に解釈し、そのため日本対世界の戦争や天変地異を強調し、その論調はきわめてはげしかった。

したがって宣伝の仕方も熱烈であった。第一次世界大戦は終わったものの、世界および日本が大きく動揺している時に、こうした危機意識を煽る言説は、とくに軍人や知識層の関心を引いた。

秋山真之(中将)に代表される海軍関係者やインテリ層があいついで綾部を訪れ、教説を研究し、鎮魂帰神を実した。

綾部神苑の拡張につづいて、大正八年(一九一九)十一月十八日に亀岡市の亀山城址一万三千五百坪が大本の手に入った。王仁三郎のふるさと穴太村から東北一里のところだ。

亀山城は約三百年前に”反逆者”の烙印をおされた明智光秀がロ丹波を治めるため築いた居城である。王仁三郎のまだおさないころには、遙かに天守閣がそびえ、白壁が空に映えていたが、十三、四歳のころになるともう天守閣はなくなっていた。

わずかに光秀の手植えといわれる銀杏の大木と、その一角の石垣がのこっているだけとなった。

少年時代の喜三郎にとって、この城は無言の励ましであったが、心ない人の手によってつぎつぎと破壊されてゆくのを惜しみながめていた。

大本が入手した時は、城の石垣まで売り払われて、狐狸が住むほどに雑木雑草が生い繁っていた。王仁三郎はすぐに一角を整備して大道場を建て、宣教の聖場とした。

亀岡明智の城跡皇神の珍の宮居となりにけるかも(王仁三郎詠)

逆賊・光秀との因縁を気にする人々もあったが、それに対し王仁三郎は道場での講演で彼の光秀観を開陳している。

光秀は勇、智、信、厳、仁の五徳を備えた名将で、優れた教養と立派な人間性をもち、織田信長を討ったのも浅はかな考えからではない、というものであった。

開祖の生まれた福知山も、光秀が築城した城下町として発達した所であり、大本の二大教祖と光秀は縁がふかい。

逆賊、謀反者と世間から誤解された点も同じである。もっとも、地元の福知山でも亀岡でも、光秀は名城主として今も人気が高く、毎年両市で光秀祭りが盛大に行われている。

丹波地方で盆踊りによく歌われる福知山音頭の一節に、

福知山出て長田野越えて
胸を速めて亀岡へ
トコドッコイドッコイショ
チョイチョイノチョイチョイノチョイ

とあるが、これは光秀の徳を慕ってのものである。

浅野和三郎らは「大正十年立替え説」を唱え「時は迫れり守護神も人民もすみやかに改心せよ」と大声で叫んで歩いた。

時節の切迫をうったえるため馬、自動車、太鼓などもかりだして、はげしい口調で街頭演説をし、また旅館、劇場、集会場で講演をした。

当時、開祖の生き方を鑑とした役員、奉仕者は謹厳、清楚を旨とし、早朝に起きて清掃し、むだ口をたたくことなく献労や業務に励み、粗衣粗食に甘んじ、身魂みがきに努め、そのため神苑内は一種の風格ができていた。

ところが、そういう風格の人がひとたび世間へ宣教にでると、人柄が一変したかと思われるほどのはげしい口調で叫んだのだから、不思議といえば不思議なものである。

次々と綾部へ移住して来るなかに谷口正治(雅春)がいた。のちの生長の家の主宰者である。彼は大正七年の入信で、翌八年の春に綾部へ移住している。

彼も鎮魂帰神にふかい関心をもって入信し、さらに立替え立直しの主張にひかれる。

当時、彼は「大本の聖フランシス」と自称して薄衣に荒縄というきわめて特異な生活を送りながら、浅野和三郎と並んでめざましい文筆活動を展開する。

また、世界救世教を創始した岡田茂吉はその当時大本に入信し、のち東京の大森支部長として活躍したが、この岡田と王仁三郎の間に、おもしろい逸話がのこっている。

大本では昔から”お守り”を出しているが、お守りを書くのは、教主かそれに準ずる特別の人に限られている。

ところがいつのころからか、岡田は自分でそのお守りを書きはじめ、支部の信徒に下付していた。

このうわさが大本の幹部の耳にはいり、けしからんふるまいだと激怒した幹部たちは、岡田を王仁三郎のもとへひっぱってゆく。

幹部の口々に告げるご注進をひととおり聞い王仁三郎は、やがて岡田を前の方へ手招きした。

岡田は百雷一時に落ちることと観念して、ひたすら平伏する。すると王仁三郎は岡田の耳もとに口を寄せ、他の者に聞きとれぬ低い声で「ああ言うて、みなが怒りよるからな、みなに分からんように内緒にやれよ」と言ったのである。

後年、教団を率いた岡田は「同じことを自分の部下がやったらとても放っておけないだろう。おやじは大きかった。おやじがなつかしいなあ」と、つくづく述懐したという。

大正九年にはいると、宣教活動は更に白熱化する。一月二十五日には東京駿河台の明治大学大講堂で、浅野らによる大講演会がひらかれ、昼夜二回にわたって大盛況をみる。

一ヵ月のちには大阪の中之島公会堂でも浅野らによる講演会がもたれ、聴衆は五千人に達した。

さらに東京の専修大学、慶応大学の講堂や学士会館また有楽座などを会場として講演会が催された。

当時、貴族のなかにも入信する人があり、それらの人々が宮家のあたりまでも大本神論を持ち込み、大本の話題は上流階級へもしだいに浸透した。

こうして大正初年に信徒数千にみたなかった大本が、爆発的な成長をとげ、世間の目をみはらせた。

それにつれて当局は大本にたいする警戒をつよめ、いく度か王仁三郎や幹部を呼び出して警告を発し、圧迫を加えるようになる。

また新聞雑誌に大本を批判、攻撃する記事が急速にふえ、その中には興味本位にデッチあげた猟奇的なものも多く、当局をいっそう刺激した。

そうした中、さらに社会の注目を引くことが出て来た。『大正日日新聞』の大本による買収である。八月十四日のことである。

『大正日日新聞』は大阪の梅田にあった新聞社で、その規模と内容は『大阪朝日新聞』『大阪毎日新聞』と肩をならべ、編集陣も鳥居素川らの一流スタッフがそろっていた。

一宗教団体が日刊時事新聞を発行するということは世界的にもめずらしいことで、もちろん日本では前例がなかった。

社主は出口王仁三郎である。九月二十五日、復刊第一号がでた。

発行部数は四十八万で、朝日や毎日を凌駕し、ここでも世間は驚嘆の声をあげた。

もっとも一般の時事新聞とはその編集方針を大きく異にしていて、内容は大本の主張を宣布するものであった。

大本神諭に示されている予言と警告に時事問題をつきあわせて、立替え立直しの神意を宣伝し、社会の革正をうながそうとする烈々たる気迫が当初から紙面に反映した。

その編集態度は不正に対して、はげしく攻撃的であった。新聞社社長に命じられた浅野は大正十年立替え説をここでも大いに主張し、それにもとづいて筆陣が張られてゆく。

この頃、王仁三郎は、一貫して鎮魂帰神の法を禁止するよう何度となく告示し、また宣教のうえで予言はつつしむようにとの注意も与えた。

しかしその勢いはもうとどまることを知らぬ有様であった。

そして一部の信徒は、大正十年で世は終末になる、天変地異で世界は壊滅するのだと信じた。

第一次大本事件

大正十年(一九二一)二月十二日の未明。綾部と亀岡は検事総長・平沼騏一郎の指示をうけた京都府警察部長・藤沼庄平の動員した武装警官二百人におそわれる。第一次大本事件のはじまりである。

容疑は不敬罪および新聞紙法違反であった。神苑の各所、王仁三郎の部屋、幹部宅、信者宅が捜査をうけ、筆先の全部、掛軸や原稿、手紙類、日記、写真、帳簿、私物にいたるまで押収された。

二代教主のすみに捜査官は「錦の御旗はどこにある!」と質した。その時すみはあきれながらも

「それは実物の旗ではなく、筆先に示された譬で、大本の経緯の経綸の機をたとえたものです。そんな旗やのぼりがあるわけありません」と答えた。皇室を擬する錦の旗があると知らされていた捜査官たちは苦虫をかみつぶしたような顔でひきさがる。

王仁三郎は、大阪梅田の大正日日新聞の本社で執務中であった。彼はそこで検挙され、ただちに二条城北側にあった京都監獄の未決監に収容された。

王仁三郎は前々から、事件の勃発を予知していて、わざと聖地をはなれていた。その前夜、社内の青年を呼び集め、

「あのな、もうちょっとするとおもしろい芝居があるぞ。腹をきめて見とれよ」と言って遅くまご馳走を食べさせた。

この事件の突発は、社会全般に衝撃を与えた。敬神、尊皇報国を標榜する大本が、こともあろうに不敬罪で起訴されたことの驚きである。

この事件は、大正八年いらい調査が重ねられ、大本撲滅の準備が極秘裡にすすめられていたのである。

米騒動や労働運動に神経を悩ませていた当局は「立替え立直し」とか「大正維新」を旗印にする大本に、多くの有能人士が集まる事実を見て、これは容易ならぬ社会運動に発展するかも知れぬと恐れた。不穏なデマも聞こえて来た。

ところがいよいよ検挙してみると、敷石をおこし、畳をはがし、床をつついてすみずみまで点検しても「竹槍十万本」はもとより、当局の期待するものはなに一つ出なかった。

それでも、予審終結で記事解禁となると、新聞はいっせいに書きたてた。

「国体を危くする大本教の大陰謀」とか「謎の大本教」「淫祠邪教」「内乱の準備行為として武器弾薬を隠匿し竹槍十万本用意」、はては「悪魔の如き王仁三郎」など、あくどい記事を捏造して「邪教」の印象を一般にあたえることに骨を折った。

しかし、本部も地方信徒も平静であった。それは筆先でそれとなく予告され、覚悟が出来ていたからである。

「……三年さきになりたらよほど気をつけて下さらぬとドライ悪魔が魅を入れるぞよ。辛の酉(大正十年にあたる)は、変性女子(王仁三郎)に取りては、後にも前にもないような変りた事ができてくるから、前に気をつけておくぞよ」

これは大正七年の筆先であるが、八年一月号の機関誌に発表されていた。

また明治三十三年旧一月七日の筆先には、「艮の金神の教が拡まるだけ、世界は騒ぎ出すぞよ。何も訳も知らずに方々の新聞が悪く申して、体主霊従の行り方で邪魔を致すように成るから、其覚悟で胴を据えて居らんと、一寸の事に心配いたすと云ふ様な人民で在りたら、肝心のご用がつとめ上らんから、此の大本は世間から悪く言われて、後で良くなる神界の経綸であるぞよ」

とあって、この”悪く言われて、良くなる経綸”という訓えは信徒の腹に早くから叩き込まれていて、どんな悪罵にも驚かなかったのである。

王仁三郎は大正八年に「正月五日天」と染筆していた。何のことかと思っていたら、検挙の日の二月十二日は旧暦の正月五日であり、やっぱり決まっていたのだなと、みなが背いた。要するに、「神のお仕組み」とうけとめて、一般信徒には大きな動揺はなかった。

王仁三郎は六月十七日、百二十六日間の勾留のあと、責付出獄し、四ヵ月ぶりに綾部に帰った。

当局は判決も決まらぬうちに、大本に次々と無茶な要求をして来る。まず天王平にある出口なお墓を改修せよ、と言う。

理由は桃山御陵に似ているからという、理由にならないものであったが、なにがなんでもこわせと強制し、ついに六月二十八日から約一ヶ月かけて縮小改築された。

弁論、求刑などの公判はこうした間に行われていたが、十月五日、王仁三郎には不敬罪により懲役五年、浅野には懲役十ヵ月の判決が下った。

この判決を不満として大本側と検事と双方から控訴した。この裁判は昭和二年に大審院で免訴となるまで継続される。

第一審の判決があって一週間目の十月十一日に、追討ちをかけるように、完成したばかりの本宮山神殿の取りこわし命令が出た。

命令の根拠は、明治五年の社寺禁制に関する大蔵省達しという、あまりにもかびくさい法令であった。

警官と人夫五十余人が破却作業に当たり、同月二十日から一週間をついやして、信徒の真心になる荘厳な神殿はすっかりこわされてしまった。しかしこの時十九歳の三代直日は詠んだ。

よしやこの神の宮居をこはすとも胸にいつける宮はこれじ

この歌の通り、心の中の宮はこわれず、大本はこの破壊の中で、次の大発展への準備が着々と進められるのである。

霊界物語による出発

御開祖の清きみ旨にたがはじとつつしみかしこみ道に仕ふる

御開祖はたての道をとき吾は又よこの道とき大本を開く

厳御霊瑞の御霊も牢獄に身をつながれて道を開きし

(王仁三郎詠)

王仁三郎が懲役五年の一審の判決をうけてから三日目の十月八日(旧九月八日)に、「明治三十一年旧二月、神より(高熊山において)開示しおいた、霊界の消息を発表せよ」との神示があった。

さらに十月十六日には、水色の羽織を着た開祖の神霊が王仁三郎の前に坐り、その発表についてのきびしい督促があった。そして彼が、

「ご神勅にしたがい明後日から発表にとりかかります」と言うと、開祖はよろこばれ、十五、六の娘のようなうつくしい顔になられて姿をかくしたという。

こうして十八日から『霊界物語』の口述がはじまった。その日は直日が斎主となって「本宮山神殿告別式」と昇神祭が執行された日である。

大本が事件によって外面的には崩されようとする、悲惨な状況下で、神の命により“物語”の口述がはじまる。それは神殿破壊の音を耳にしながら続行された。

口述は日によって朝から夜におよび、時には言葉の句切りごとにイビキがはいるといったこともあった。

眠っている間も口述はつづいていたのである。王仁三郎がふと気づいて「眠ってしまっていたな」と言うと筆録者が「いえ、物語は出ていました」と答える。すると「そうか、終わりの方を二三句読んでくれ」と言い、さらに口述がつづいていった。それは人智を絶した霊感状態ということであろうか。

口述の場面が熱帯地方であると、冬でも汗をかき、寒帯の場面では夏でも布団を重ねさせる。

初めの頃、最も多く筆録にあたったのは松村真澄、北村隆光、加藤明子らであるが、その外にも大勢いた。谷口正治もその一人であった。

全七十二巻のうち六十九巻までは大正十三年一月末におわっている。その後『天祥地瑞』八巻と特別編を加えて、八十一巻(八十三冊)となった。この量といい、著述の速度といい古今東西に類例がないであろう。

その内容は、高熊山の修行で体得した霊界の消息をもとにして、宇宙の創造から神々の活動、大本出現の由来、神と人との関係、世界観、人生観、政治、経済、芸術、教育などあらゆる問題を説示し、理想社会たる「みろくの世」実現のための方策が懇切に示された。それはそのまま開祖の筆先の真解書でもある。

五十六億七千万の年を経て弥勒胎蔵
経を説くなり
この神書もし無かりせば地の上に弥勒の神世は開けざるべし
国々のひじりもかつて悟らざる誠を明かすこれの神書

(王仁三郎詠)

霊感のままの著述などというと、本人は何の苦労もないようだが、それは大きな誤りである。

血とあぶらしぼるが如き心地してわれは霊界物語あみぬ

とあるように、心血をしぼり、命をちちめんばかりの労作であった。

「霊界物語はわしの命であり魂である。わしに会いたいと思えば物語を読め」とよく言われた。

物語によってどんなに多くの人が光を得、力を授かったことであろうか。重病人の枕辺で拝読して聞かせ、それだけで癒ったというような例は枚挙にいとまがない。

物語の発表によって、大本信徒の信仰は急速に成長した。かつての信仰は素朴であり純真であった。

しかしそれは狭い渓川の激流に似ていた。物語によって洋々たる大河の流れに導かれたのである。

しかしいろんな事情で事件を契機に大本から離れた幹部も二、三にとどまらない。浅野和三郎は東京へ引き揚げ、やがて心霊科学研究会を起こした。友清天行は山口県で神道天行居をはじめ、谷口正治は東京で生長の家を創始する。

一部の幹部が大本を去ったため王仁三郎の意図はより純粋に行われやすくなった。

王仁三郎は、いつの間にか出来てしまっていた教団の古い殻を打ち破ることに腐心し、それは物語の中で教えるだけでなく、折にふれての談話でも懇ろに諭した。

「・・・・・・愛国主義があやまって排他におちいり、自己愛になってしまってはよくない。世界同胞の考えを持たねばならぬ。排他は神意に反する。今後は世界を愛し、人類を愛し、万有を愛することを忘れてはならぬ。善言美詞をもって世界を言向和わすことがもっとも大切である。 …… 大本は大本の大本でもなく、また世界の大本でもなく、神さまの大本、三千世界の大本であることを取り違いしてはならない…」

大正十二年には国際語エスペラントが大本に採り入れられる。六月に、京大生、高見元男(現三代教主補、出口日出麿)から、同志社大学で開かれるエスペラント講習会を知らされた王仁三郎は、側近の加藤明子を講習会に出席させ、つづいて綾部に講師を招いて講習会を開く。役員や老若男女の信徒に混じって王仁三郎も受講し、さっそく大本の中にエスペラント研究会を設置し学習と普及に情熱を燃やした。

エスペラントとは、ポーランドの眼科医・ザメンホフ博士が人類愛の精神に根ざして一八八七年に大成した国際語である。

彼は民族の対立の原因として、言葉の違いを痛感し、民族間の憎しみや戦争をなくすには学びやすい共通語が必要であることに気づいた。

そして言語的天才と人類愛の情熱を合わせ持つザメンホフにより、完全無欠ともいうべき美しい国際語エスペラントが創始されたのである。

当時はエスペラントが発表されてまだ三十六年たっただけであったが、世界の各地に熱烈な運動が拡がり、日本でも黒板勝美博士らの先覚によって組織的普及活動が始まっていた。

王仁三郎は単語をはやく覚える方法として家の中の柱や壁や食堂の入口、便所の入口、あらゆる家具什器に、エスペラントの単語をべたべたはりつけた。まるで差し押さえに会ったようだなと自ら笑った。

しかしこれは単語を覚える妙案である。妙案の今一つは、単語の音と意味とを一つの和歌に詠み込んで連想を助ける方法であった。

彼は得意のユーモアと語呂合わせを駆使して、三千六百の公用単語(現在はもっと増えている)の一つ一つをあっという間に歌に詠んだ。

物語の口述などで忙しい合間を縫って、主に旅行の車中などでの仕事であるが、ものの三週間もかかってはいまい。

やがて「記憶便法、エス・和作歌辞典」として刊行される。類例のない型破りの辞書である。

王仁三郎は「エスペラントによって大本を世界に広め、大本によってエスペラントを日本に広めるばかりでなくヨーロッパまで逆輸出する」と宣言した。

当時、スイスのジュネーブに本部を持っていた世界エスペラント協会の機関誌に「日本における新精神運動」と題して、大本紹介の記事が載った。

もちろん全文エスペラントによるもので、筆者は京大学生、八木日出雄であっ(のちに八木は医学博士になり、岡山大学学長を勤めるとともに、世界エスペラント協会の会長にもなった)。

この紹介記事の反響は大きく、各国からもっと詳しく知りたいとの要望が殺到した。それに応えて大本からエスペラントの月刊誌を刊行し、世界の五十ヵ国ほどに頒布した。内容は筆先や霊界物語の翻訳が主であった。

一方、普及活動のためには、エスペラント普及会を設立、その支部がたちまち全国数十ヵ所に出来、普及のための機関誌も刊行された。

物語の刊行によって大本の信仰が渓川から洋々たる大河に導かれたと書いたが、さらにその大河の上に爽かな新風を吹き渡らせたのがエスペラントの採用であった。

大本事件による有形無形の抑圧のため、鬱屈しがちな教団に、海外宣教の大構想に奮い起しめたのもエスペラントである。

この頃関東大震災があったが、それが縁で新し動きが起こる。それは中国に出現していた新しい宗教団体、道院世界紅卍字会と大本との提携である。

道院では扶乱という自動書記的神示伝達の法が用いられているが、震災の救援物資を携えて見舞いにいく代表団に対して事前に挟んで次のような神示があった。

「今度日本に行ったらその機会に、道院と提携すべき団体が用意されているから、そこを訪れて手を結んで来い」ということであった。

一行はあちこち探した末、綾部の大本にたどり着き、大本では待っていたとばかり直ちに提携の契約が結ばれた。大本と道院とは、教義の上でも一致する節が多かったからである。

道院では宇宙の主宰神を至聖先天老祖と奉唱するが、それは大本でいう国祖国常立尊と同義であり、また道院では五教同源というのに対し、大本では神儒仏耶同根、または万教同根と教えている。

諸々の宗教は本来同根であるから、障壁を取り外して相協力すべきであるとの主旨も全く一つであった。

道院世界紅卍字会の前には、すでにバハイ教宣教師の来訪を受けて、大本は友好関係を結んでいた。