王仁三郎の蒙古入り
大本事件の勃発から三年目、大正十三年(一九二四)の二月、『霊界物語』口述の大半を終えた王仁三郎は、破天荒な蒙古入りの壮拳を決行する。
その目的はまことに気字洪大であった。「東亜の天地を精神的に統一し、次に世界を統一する心算なり、事の成否は天の時なり、煩慮を要せず、王仁三十年の夢今や正に醒めんとす……」との長文の手記を、後事を託した女婿・出口宇知麿にのこして旅立つのである。
最終の目的は精神的な世界統一にあったが、当面の目的としては、蒙古の原野を開拓して宗教王国を建設し、日本人、朝鮮人の人口食糧問題の解決を図り、もって東亜の動乱を未然に防ぐにあった。
邪教だ国賊だと誤り見ている日本の朝野に対して、愛国の至誠を叩きつけて見せる思いもあったであろう。彼の心境の一端はつぎの漢詩のなかにもうかがわれる。
全身の智勇を推倒して万里の荒野を開拓す
神竜淵に潜むと雖もいずくんぞ池中の物ならんや
天運ここに循環し来り天地に代り鴻業を樹立す
ああ北蒙の仙境
山河草木盛装をこらし
歓呼して我神軍の至るを待望す
英雄の心事々壮快に非ずや
(原文漢詩)
ところがこういう勇壮な気概の半面、彼は次のようなういういしい心情をもちあわせていた。出口直日の思い出である。
大正十年の大本事件で未決責付中のこと、父は満州にわたり、蒙古の地に理想国家を築こうとしました。
出発前夜、私が後継ぎの長女というので、ソッと知らせにきましたが、私の顔もよう見ず、そこにあったシデ紐をとって、指にまつわらしたり、手にまるめたりして、ヤットのこと『どうしても今ゆかねばならぬから、行ってくるで、心配せんと留守していてくれよ』といいました。
その少年のような態度が懐かしくて、父の去った後にのこっていたシデ紐のまるめたものを、私は大事にしまっておきました・・・・・・」
こうしたさまざまな顔をもつ王仁三郎ゆえに万民を魅きつけ、当時、悪宣伝に狂奔する新聞界にあって「信長と秀吉と家康の三人をあわせたような人物」との評価をするジャーナリストもあらわれたりするのである。
大正十三年二月十三日早朝、植芝盛平(のちの合気道創始者ら)三人の供を連れてひそかに綾部を脱出し、一路奉天に入った。蒙古の勇将盧占魁将軍を従え、日地月星の大本神旗を風に靡かせ、波瀾と奇跡と神秘に満ちた四ヵ月の大行進ののち、銃殺寸前の危機に立ち、危うく九死に一生を得るというところでこの大ロマンは終わる。
その劇的な蒙古での足跡については講談社発行の『巨人・出口王仁三郎』(出口京太郎著)のなかにいきいきと描かれているので、ここでは割愛する。
当時の満蒙・支(現在の中国)の政治状況は極めて複雑であった。初め王仁三郎、盧占魁らに好意を示した張作霖が情勢の変化と猜疑により、にわかに態度を変え、ついに討伐命令を下す。六月二十一日夜、パインタラの鴻賓館に宿泊中の王仁三郎一行は張作霖の官憲に捕えられて機関銃の前に並ばされた。
その時、王仁三郎はおもむろに辞世の歌を詠んだ。
身はたとへ蒙古の野辺にさらすとも
日本男子の品はおとさじ
いざさらば天津御国にかけ上り
日の本のみか世界まもらん
ところが危機一髪のところで突然銃殺の執行が中止になる。その理由は正確なところは分からないのであるが、のちに王仁三郎は、蒙古にて暗殺されんとする刹那吾身金色になりて輝くと詠んでいるところからみて射手は眼がくらんだのかも知れない。また射手が銃に手をかけた時、爆発してその反動で後ろへ倒れたともいわれる。ともかく銃殺は一時取りやめとなって、手かせ足かせをしたまま獄につながれた。
ちょうどその夜、鴻賓館には日本人が泊まり合わせており、翌朝、鄭家屯の日本領事館に急報してくれた。
土屋書記生がパインタラに急行して官憲にかけ合い、やがて日本側から公文書をもって「責付中の刑事被告人であるから」との理由で引き渡しを申し入れ、七月五日、鄭家屯領事館に引き渡され、直ちに内地へ護送されることになる。
さて銃手が倒れて銃殺中止になったことも奇跡であるが、鄭家の領事館に報らされて書記生が駆けつけたのも奇跡であった。というのは、治外法権の日本人を勝手に処分できないので、蒙古服を着、蒙古名の名刺などを持っているのを理由に、蒙古人として二、三日のうちにはあらためて銃殺刑を執行するつもりでいた。
土屋が申し入れた時にも、日本人など捕えていないと突っばねた。
土屋が仕方なく獄舎の回りを「日本の出口さんおりませんか。大本教の王仁三郎さんはおりませんか」と大声で叫び歩いた。
そこへ「おります!!」との元気な返事があり、やっぱりおったじゃないか、ということで、銃殺刑をまぬがれることとなったのである。
これらの話については、筆者は何度も王仁三郎から直接聞かされたことで、まことに際どいことの連続であったようだ。
七月二十五日には下関に上陸、途中二ヵ所の警察で泊まり、二十七日大阪に着いたが、すでに責付は取り消されていたので、刑務所に再収監された。
パインタラの遭難により、入蒙のことがはっきり内地に報らされて来ると、全国の新聞雑誌が沸いた。
「日本人が大陸に理想的な新王国を建設しようとした大胆な試みであった。開闢以来初めての企である」(雑誌『太陽』)
「一般的に思惟と空想の世界のせせこましくなった現代の日本においては、たしかに痛快なる現代ばなれの試みであった」(『北国新聞』)など、驚嘆と快哉の声が飛び交い、船や汽車を降りる時にはまるで凱旋将軍を迎える趣であった。
大阪駅頭でも信徒はもとより、どうやって聞きつたえたか、群衆が押し寄せ、身動きならぬほどであった。
映画会社の撮影班が大阪刑務所へ向かう王仁三郎の乗った人力車を追っかけ、後にニュースとして上映された。ニュース映画の極めて珍しかった六十年前のことである。
さて、王仁三郎は大阪の刑務所で支所長にたいし、蒙古における奮戦苦闘の状況をおもしろおかしく聞かせて所長を喜ばせる。
そのおかげか彼は支所内第一の上等室に収容された。といって起きて半、寝て一畳といったせまい部屋で「悟った顔して言っておっても、実際、こんな所に突っ込まれたのはかなりつらかった。
として天につらなる蒙古の野辺に、ツッパリのない空を屋根となし、際限もない大地を褥となしてグウグウと寝ていた事を思えば、にわかに象がばい菌に変化したような気分になった」(『王仁入蒙記』より)
しかし事実は彼の魂はせまい牢獄を飛び出して世界中を駆けめぐっていた。また、綾部の海外宣伝部には歌など送ってしばしば激励している。
天の下四方の国々果てもなく生言霊のみいづ輝く
大神の依さしに酬ゆる時は来ぬエス語英語支那語宣伝
愛の善信の真をば真向にかざして進め海の外まで
十一月一日、保釈の決定があって王仁三郎は約百日間の獄中生活に別れを告げ、たくさんの信徒や新聞記者、見物人に迎えられて北区の刑務所をあとにした。
体重は入監中に二貫目も増えて蒙古での苦労と監獄生活の疲れで当分はおとなしくするかと思ったみなの予想は大きくはずれ、彼はますます軒昂たる意気をもって世界的経論を進める。
朝鮮の普天教と提携し、回教徒との交流を始め、さらに”世界宗教連合会の結成に乗り出す。
その発会式は翌十四年の五月二十日に、北京の悟善社において挙行されたが、参加した宗教団体は道教、救世新教、仏陀教、回教、仏教、キリスト教などであり、のちに普天教やドイツ白色旗団も加わる。その総本部を北京におき、東洋本部は亀岡に設置された。
こういうことが速く実現したのは、入蒙によって王仁三郎の実行力が北京における各宗教の領袖たちにも高く評価されていたからである。
王仁三郎はさらに、六月九日に「人類愛善会」を設立した。それは普遍愛と、人類同胞の思想にねざし、有形無形の障壁をとりのぞいて恒久平和の世界を実現しようとの趣旨である。
発会に際して発表された趣意書には大理想の決意がうたわれている。
「本会は人類愛善の大義を発揚し、全人類の親睦融和を来たし、永遠に幸福と歓喜とに充てる光明世界を実現するために、最善の力を尽さんことを期するものである。
そもそも人類は本来兄弟同胞であり、一心同体である。この本義に立帰らんとすることは、万人霊性深奥の要求であり、又人類最高の理想である。然るに近年世態急転して世道日に暗く……」
と、このままでは大変だという、世界情勢の危機感も切々として訴えられた。
かくて、第一次大本事件前にみられた一種の排外思想は、『霊界物語』の発表、エスペラントの採用、入蒙の壮海外宗教との提携交流、「人類愛善会」の発会と三、四年の間にたてつづけに進展した一連のうごきによって、あっという間に払拭され、ここに本来の大本の進路が確立された。
大正十四年の夏、ジュネーブで開かれる世界エスペラント大会に出席するために、王仁三郎の命により西村光月が派遣された。
西村は大会で副議長に選ばれ、各国のエスペランチストと友好を深めたが、引きつづきパリに「大本」と「人類愛善会」の欧州本部を設立した。これを根拠に西村は欧州各地に講演行脚をする。
ビクトル・シュワイツェル博士が主宰するドイツの新精神運動「白色旗団」や、ブルガリアのペトル・ダノフを首領とする「白色同胞団」等との提携も西村によって促進された。
欧州本部からは、エスペラントでの大型機関誌『国際大本』が刊行され、合わせてローマ字書きの機関誌『Nipponzin』も刊行される。エスペラントの採用につづいて王仁三郎は、日本式ローマ字運動も採り入れ、ローマ字普及会を設立してその普及にも尽くしたのである。
大正十四年六月三十日を機として、王仁三郎は神示により「瑞霊真如聖師」と呼ばれるようになり、同時に教団活動の中心舞台を亀岡に移す方針がうちだされ、そこは「天恩郷」と呼ばれるようになった。
大正八年に粗末な一棟の大道場が建っていらい、亀山城址は漸次整備されてはいたが、ここになって本格的な建設が始まる。
そして綾部は祭祀の中心聖地(梅松苑)とし、亀岡は宣教の中心聖地(天恩郷)とされ、二大教祖と二大聖地が実現する。
地の上に開祖は天国ひらきましわれ霊国をひらき道とく
鶴山と亀山二つの聖場に朝夕ひらく月日のをしへ(聖師詠)
聖師は亀岡天恩郷の建設にも陣頭指揮をとり、一木一草にいたるまでの配置に気を配った。
大正十五年。いよいよ教団は充実し、活動は急速にもりあがった。文書活動もめざましく、定期刊行物は七種にのぼり、他に単行本が相次ぎ、『霊界物語』は急ピッチで刊行された。
聖師を訪問する人士はひきもきらず、身辺はいちだんと多忙になる。
その来訪者のなかに内田良平や頭山満などもいた。内田良平は福岡の出身で、二十代にしてはやくも自剛流天真柔術の極意に達し、また軍略家国士として第一流の人物、当時の政界でも彼は一目も二目もおかれていた。
その内田がはじめて大本にやってきた時のことだ。まず風呂を、とすすめられるままに彼が湯につかっていると、焚き口で火の守りをしていた人が「かげんはどうです」と声をかけた。
しばらくしてその人は洗い場にあがってきて内田の背中を流す。ひと風呂あびた内田は座敷に通され、身づくろいをして待っていると、やがて聖師があらわれた。
内田はひと目見て「あっ!」と驚いた。それはさっき焚き口にいた、そして背中を流してくれた人であったからだ。内田は聖師に深く心服し、後日、なにかと聖師のために協力した。
彼の自宅に大本の神様を奉斎していたことはあまり知られていないかも知れない。
頭山満との間にもおもしろいエピソードがあるが、ここでは割愛して、前記の『巨人・出口王仁三郎』(講談社刊)にゆずる。頭山満は内田の先輩格の大国士であり、彼も王仁三郎と初見以来たちまち意気投合する。
作家の佐々木味津三は『右門捕物帖』の作者として知られ、今もそのテレビドラマが人気を博しているが、そのころ王仁三郎に面会した感想を次のようにのべている。
「……じつに大きな、ふしぎな人物だ。人の心を吸い寄せ、ひきつける力をもっている。真に強力な吸引力をもった人だ。自分はもう二度と彼に会うまいと決心した。なぜならもういっぺん王仁三郎に会えば、きっとおれは師弟の礼をとらねばすまなくなってしまいそうだからだ」
しかし、佐々木はそれ以後もいく度か聖師に会って教えを受けている。
聖師と交友関係のあった主な人物のなかに講談社の創業者である野間清治がある。
ほかに久原房之助、床次竹二郎、片岡直温など政界、財界の大物も聖師と接触するや、とたんに魅せられて傾倒する。
来訪した知名士の中に理学博士・田中館愛橋がある。彼は日本式ローマ字運動の先達で、ローマ字国字論者であったが、ローマ字会の斎藤強三と博士を天恩郷に迎えた聖師は、早速色紙に歌を書いて贈った。
言霊の花咲き実る時は来ぬわが教庭に君を迎へて
それに対して田中館はローマ字で返歌を贈った。
神業にたいしてはこの上なく真剣であるが、一面、ユーモアにあふれる聖師であった。
どんな偉い人と会っても、青年と会っても態度は変わらず、平気で猥談も飛ばす。のちの第二次大本事件の法廷でも裁判長にお得意のそれを飛ばして、並みいる人々を煙にまいた。
滑稽諧謔は口を突いてあふれ、聖師の周辺には笑いが絶えなかった。この天衣無縫、自由奔放のために、誤解も生じやすく、デマもとびかったが、殺伐で凄惨なことはきらいであった。
『霊界物語』も惨劇や悲しい記述は極力さけている。小さな虫を殺すのも嫌であるし、魚の料理も姿のままで出されるのはかなわんという人であった。
庭の雑草を抜くときも、「すまんなあ」と謝って抜けよ、と若者に調えていた。
大本ののみなもとたづぬればただ愛善の光りなりけり(聖師 詠)
王仁三郎の超人的活躍
大正天皇の崩御があり、改元されて昭和となる。
やがて大赦令が発せられ、大審院において出口王仁三郎に対し、「原判決破毀シ免訴トス」との判決が出た。
これによって六年余にわたった第一次大本事件は解決したのである。信徒のよろこびは言うまでもない。聖師は直ちに郷里穴太の小幡神社と丹波一の宮・出雲大神宮に参拝し奉告をする。
しばらくすると、この吉報を知ったヨーロッパ各国の共鳴者から祝福の詩文がたくさん送られて来た。原文はエスペラントであるが、簡単に翻訳してご披露することとしよう。
≪宝冠なき王、出口聖師よ≫
聖師は東洋の光
精神生活の花にして
愛の種蒔人にます
われは聖師に祝福を寄す
そは聖師がこの地上の残骸たる最も残酷にして最も愚かなる妖怪の爪牙より勝鬨あげて脱れ出で給ひたればなり
(中略)
われは聖師を宝冠を戴けるいづれの王よりもいや尊き宝冠なき王として敬意を表明す
ドイツ・エスペラント連盟総裁エクリムケ博士
≪晴天白日を祝して≫
尊敬する聖師よ、大いなる喜びをもって吉報を拝見しました。師の晴天白日を喜ぶ同志たちと祝杯を挙げました。聖師は長き束縛の生活よりついに正義の凱歌をあげられました。真理は永遠に生き通しです。
(後略)
ハンガリー・ブダペスト市イムレ博士
昭和三年、聖師の長女の直日と高見元男の縁談がきまり、二月一日に式をあげた。聖師の命令により高見元男は出口日出麿となる。
その折、聖師は、「日出麿は日の出の神である。出口清吉さんの生まれかわりであるから、そう名づけたのである」と説明した。
日清の戦いが終結した直後に、開祖の次男清吉が台湾で戦死したという通知があった。
その時、神は「死んでいない「ぞよ」という謎の言葉をくり返したのであるが、ここでそ殿の霊魂は死んでいないという意味が判明したわけである。
暗雲晴れて晴天白日となった大本教団は、再び活気がみなぎり、ことに天恩郷の建設には全国から元気な奉仕者が集まり、毎日のように勇ましい地搗の歌声が流れ、槌音が谺した。
光照殿、高天閣、月宮殿、明光殿、春陽閣、秋月亭等等、次から次と大小の建物が並び、光秀の築城当時に勝る偉容が現出する。
ことに天守閣跡に建った月宮殿は、すべてが石材だけで築造された建築史にも珍しいもので、それが天恩郷での最高至聖所となる。
聖師は、建設指導の合い間を縫って、全国各地に巡教した。聖師を迎えた地方信徒の喜びはたとえようもなく、また重病が癒されたり、危ういところを助けられたりというような奇蹟霊験の例は数えきれない。
聖師の巡教に呼応して、各地での宣教活動も活発となり、「人類愛善会」も盛んに講演会を催す。旬刊の機関紙『人類愛善新聞』も漸次読者が増える。
聖師の東北巡教中に、たまたま汽車にのりあわした東京帝大教授で農学博士の那須皓は『経済往来』の三年十月号につぎのような一文をよせている。当時の情景がよく描けているのでここに拝借したい。
「ここ酒田から車中大いに異彩を加へるといふのは大本教主出口王仁三郎氏一行が乗込んだからだ。出口氏の名前は色々の機会に耳にしてみたが、親しく氏を見るのはこれが初めてである。
薄小豆色の派手縮緬紋付の羽織を着し、恵比寿様の如く結髪して太いヘアーネットでこれを押へ、手には大いなる金扇を携へ悠然と歩み来る。
奇抜な服装は舞台の上の人を見る如き感があるが、氏そのものは老農又は昔の庄屋さんなどを想起しめる典型だ。
プラットフォームには同じく長髪土耳古帽の人々二、三十名、赤く十曜の紋を染めだしたる紙の小旗を手にして、ズット立ち並んでゐる。
中に一人チョンマゲ老人のあったのを珍らしく眺めた。此の見送りの一行は汽車が動き出すと無言で旗を振った。
教主(注=聖師)は窓から顔を出し、かの金扇を開いて鷹揚に足を上下した。一町二町、人々は尚、旗をふる。教主は身をのり出して扇を動かすのを止めない。一種の劇的光景であった。
其の後暫くにして出口氏が頻りに万年筆を走らせつつあった時、車窓の外の畦道に数名の信者が大本教の旗を振って歓呼してゐる姿が見えた。
出口氏はいそいで窓をあけて、今度は手に万年筆を握ったまま、既に小さく遠ざかって仕舞った人々に目礼して居った。東北の山河の中に、純朴なる農民の間に大本教は根を張りつつあるのである。これは私を驚かした。
……(出口氏は)やがて羽織も脱ぎ浴衣一枚のくつろいだ姿となって安座し、煙草を吸ったり楽しげに物語ったり又はセッセと書きものをしてゐた」
右にでてくる”書きもの”とは”歌日記”のことであろう。それは、のちに『東北日記』全八巻として刊行される。
その前の四国旅行でも車や船の中で少ない暇をみつけて歌日記をつづけ、その二千首を『二名日記』として三年の八月に刊行している。
三代教主補となった出口日出麿も、執筆に講話に巡教にと、聖師におとらぬ激しい活躍を展開する。少年時代からも特異な霊能をそなえていたが、出口日出麿を名乗るようになってからは、一段と明らかにそれが発揮され、高い神的人格とあいまって、全信徒の景仰の的となった。
出口日出麿の存在が、大本の神業に果たした役割は測り知れぬものがある。
今回の企画は、新宗教の創始者伝ということであり、普通は一人の教祖の伝記であるところ大本の特異性により両教祖を紹介させていただいているが、さらに大本の特異性を許されるならば、二代教主出口すみ、三代教主出口直日、およびこの出口日出麿の五人を合わせて創始者と考えたいくらいである。
さて、聖師の巡教は年とともに遠くに伸び、北海道、沖縄、台湾のほか朝鮮、満州(現中国の東北)にもおよんだ。
そしてその巡教は霊地、霊山、霊場を定め、国魂を清め、万霊を救うとい霊的意義があり、また、
「私が日本国中を隅から隅まで旅行するのは、一つはこの国土を天柱につなぐためである」と言っていることでわかるように、信仰的にはそれは人智を越えた高い神的意義を持つことと思われるのである。
このような中で、大本の教勢は目覚ましく伸び、朝鮮、満州、台湾のみならず、華北、上海、ブラジル、メキシコ、ペルー、カナダ、フィリッピンにまでおよび、さらに南洋のボナペ島にも拠点が出来た。
宣教活動と並行して、聖師が意欲をそそいだのは芸術活動である。宗教と芸術については『霊界物語』六十五巻の総説でつぎのようにのべている。
「芸術と宗教とは兄弟姉妹のごとく、親子のごとく、夫婦のごときもので、二つながら、人心の至情に根底を固め、ともに霊最奥深の要求を充たしつつ、人をして神の温懐に立ちうつらし人生の大導師である。
地獄的苦悶の生活より、天国浄土の生活に旅立たしむる嚮導者である。故に吾々は左手を芸術にひかせ、右手を宗教にゆだねて、人生の逆旅を楽しく幸多く、たどり行かしめんと欲するのである…………」
このように、聖師の意図は、真の芸術と宗教とを一致せしめることであり、それは先ず自分自身において実践した。聖師が青年のころから文芸、書画に趣味をもっていたことは前に記したが、大正時代すでに相当数の揮毫をし、昭和に入るとその数は大となった。
そしてその書き方は書でも画でも非常に速い。短冊などは一時間に数百枚を軽くこなす。また、大きなフスマや額には竹箒のような筆をもって全身で絵や字を書く。
小さなものにでも聖師は手さきだけで書くのではなく、「ウンウン」と気をこめて揮毫した。
「人物画の時、いよいよ眼のひとみを入れる段になると、朝日ののぼる時刻にねらいを定めて、ただ一つき、とんと打つのである。
そうせねば生き生きとした眼にはならぬ」と言い、また「風を描かれば絵にはならぬものである」とか「天地はすべて一定のリズムによって躍動しておるのだから、そのことが分からねば、すぐれた作品は得られない」などと、生きた絵を画く秘訣を漏らしていた。七代前の祖父、画聖円山応挙の血が流れているのである。
書画とともに聖師が多忙のなか、時間をさいてんだものに楽焼づくりがある。初めは専門の職人に素焼を作らせ、それに絵つけをしたり字を書いたりしたが、後にはおいおい手ひねりのものも出来る。
書画、楽焼など、聖師の作品を中心にして大本展覧会が各地で開かれ、それが大本についての理解を深めた。画は神像、観音、だるま、山木、大本の歴史画、諷刺戯画等多彩である。
短歌づくりにもまた精力を注いだ。『霊界物語』の中にも短歌は多いが、ことに『天祥地瑞』になると、全巻が短歌と長歌で構成されている。
前記の『二名日記』にはじまる旅行記も全部、短歌である。また、大本の機関誌にも聖師の詩歌は、毎号掲載され、さらに全国の五十余の有名無名の歌壇に入社しては毎月、一社につき二十首から四十首の歌を投稿した。
当時(昭和六年)、すでに毒舌の評論家として名をなしていた大宅壮一が天恩郷に聖師を訪ねたが、その折、大宅の質問にたいし聖師は「作った歌の数は、すっかり計算すれば、五、六十万首になったろう」と答え、さらに「夕べも寝しなに二百首は詠んだつもりじゃが、今朝起きて速記をみると百ぐらいしか出ていない。
あとの百は夢のなかで詠んだらしい」。これにはさすがの大宅も毒気をぬかれ、のちのちまで”巨人”というならば王仁三郎と兜を脱いでいた。
当時の歌壇は、聖師のあまりの多作と流派に捉われぬスケールの大きさにびっくり仰天し、前田夕暮は「氏は現代のスフィンクスである」と評した。
大躍進
昭和六年(一九三)聖師満六十歳の更生祝いを期し、教団あげて躍進の態勢に入る。聖師はかねて「本年は一九三一年で〝いくさのはじめ”であり、紀元では二五九一年で”じごくのはじ”である」と怖い語呂合わせをしていたが、果たして九月には満州事変が突発し、国民を緊張させた。
その非常のとき”を背景として”昭和青年会”をあらたに全国組織に拡大し、その本部を天恩郷に置いた。それは、「人類愛善の大精神にもとづき、昭和の大神業のため献身的活動奉仕をなすを以って目的」とする活動団体である。信徒の男子は老幼すべて会員となり、会長には聖師みずからが立った。
十一月十一日の開祖大祭のあと、第一回の総会がひらかれ、聖師のあいさつのあと、会員代表昭和青年会旗に向かって「我等昭和青年会員は、会長の御神命一下如何なることも絶対服従即時実行する事を誓ふ」と一同とともに宣誓した。
国難に対応して、あらゆる大本の活動が活発になるが、それはおのずから愛国運動の様相を呈した。その第一線には、「人類愛善会」、「昭和青年会」がたち、婦人たちも「昭和坤生会」に結集して街頭に立つ。翌七年には、上海事件がおこり、いよいよ非常時意識が高まってゆく。
「非常時日本」「生命線を守れ」などのスローガンが喧伝され、国民精神の高揚が叫ばれる。
「昭和青年会」は、〝挙国制空”のパンフレットを発行し、”空を制するものは世界を制す”の標語を全国に配布して、防空思想の普及運動に立ち上がった。
防空展覧会をまず天恩郷で四開催し、それが昭和十年まで全国各地をまわり、その本格的で新鮮な内容は観覧者につよい印象を与える。
昭和八年に入ると、三月二十七日には国際連盟から脱退し、孤立する日本に、国民各層の不安は増していった。
そのような時に、日本および日本人の使命と神国日本の尊厳を皇道の精神から説きあかそうとする大本の主張は、民衆の心をつよくとらえた。
聖師のいう”皇道”は当時流行していた排外的皇道論とは根本的に異なり、天下統治の道をふくめた、人群万類に普遍する永遠の道であった。
皇道の本源は、生成化育する宇宙の根源でつまり真の神を意味する。
大正十年以前の大本の宣教は、戦争や天変地異などの大災害による世の立替えの予言警告に偏りがちであったが、この頃の宣教の主点は、神にかえれを第一とし、日本国の真のあり方、日本人の使命が強調された。そこには、大国難をまえにした緊迫感が底流にあったことはもとよりである。
昭和九年の三月に、人類愛善新聞はついに百万部発行を達成した。百万という数とともに、その皇道精神にもとづく内容、論旨が有力な政治家や憂国の士の間に浸透していった。
それらを糾合して、七月二十二日、いよいよ東京九段の軍人会館で、「昭和神聖会」が発会した。
かりごもの乱れたる世を正さむと神聖会を開きけり
皇神のみたてと四方をかけめぐり神聖会を創立なしたり
(聖師詠)
というように、聖師は綾部、亀岡にも帰らず東京、横浜を中心に発会のために鋭意努力を重ねたのである。
発会式は、三千余人があつまって空席がなくなり、会館前にも人々があふれた。壇上には、出口王仁三郎の外、頭山満、内田良平らの来賓、有志がならんだ。
内務大臣後藤文夫、衆議院議長秋田清、津村貴族院議員、頭山満らが祝辞を述べる。祝電の数千五百。
神聖会の統管は出口王仁三郎で、副統管に内田良平と出口宇知麿が就任、その総本部は東京四谷区愛住町におかれた。
賛同者は、各界の代表が名を連ね、日本におけるもっとも有力な愛国団体としての形を成した。
それは、大本の昭和青年会を中核としたものであるが、政治でもなければ宗教でもなく、それらを超えて協力して国難を打開し、争いのない理想社会を建設するのが目的であった。発会にあたって発表された代表、出口王仁三郎の名による「声明」には静たる愛国の至情があふれていた。
聖師は創立後四ヵ月の間に、全国五十九個所の発会式に精力的にのぞむ。
神聖会国の彼方此方に創立し非常時日本の警鐘たらんとす(聖師詠)
あまりに激しく東奔西走する聖師の身を案じて、亀岡や綾部の本部では聖師に忠言する者もあったが、
「わしはやるといったら、やりぬくのだ」と聞き入れなかった。
また、別の意味での忠言もないではなかった。それは神聖会の活動がどうしても政治運動的様相をおびて来ることにたいする懸念からであった。
その忠言者の一人に長女の三代直日があったことが伝えられている。聖師の決意が堅いので、それではせめて、夫の日出麿は神聖会運動の中に巻き込まぬようにと訴え、それによって日出麿は神聖会の何の役にも就いていない。
彼はもっばら純然たる大本宣教の線で活躍し、殊に朝鮮、満州では道院や普天教との提携の実を深めた。
さらに在理会や万国道徳会との提携を開始し、現地の人々から、生き神さまとして、内地における以上に崇敬の的となっていた。満州国皇帝の侍従武官長、張海鵬将軍は道院の満州での最高責任者であったが、日出麿に対して特別の尊敬を払い、公邸の食事に招いては親しく語りあった。
さて、聖師の東奔西走ははげしく続き、神聖会の賛同者は数百万人に達する。その間、聖師のみ歌碑が全国三十二ヵ所に建ち、除幕式はすべて聖師の臨席の下に盛大に行われた。
月をほめ花を愛づらむ暇もなく布教の道にさびにけり
昭和十年の節分大祭の終わった二月七日、穴太の瑞泉苑(聖師の生誕地)に建立された神聖神社の鎮座祭が挙行されたが、その祭典中に、にわかに大吹雪となった。祭典のあと、聖師は参拝者たちに訓話して、
「神聖神社の建設のことは明治三十一年に御神命をうけていた。なお私は四十年来、旅行あるいは祭典臨席の日など絶対に雨、風、雪というものがなかったので、今日の大吹雪は、神聖運動に従事する者にとって一つの暗示と警戒である」とのべた。
しかし、参拝者たちにはなんの暗示かは分からなかった。拡大する大本の勢のなか、関係諸団体の動きはますます活発となり、そのゆく手に、けわしい危機が待ちうけているとは、誰も予想しなかったのである。
第一次大本事件は、昭和二年の五月十七日に免訴となった。しかし、これによって不敬という当局の疑惑が一掃されたわけではない。
京都府警察部は、依然として大本に対する監視の目をゆるめてはいなかった。治安維持法が制定され、特高警察による思想運動の取り締まりが一段ときびしくなっていた。
満州事変の勃発を契機として、にわかに大本および人類愛善会の運動が活発になり、さらに昭和青年会が皇道精神に立つ愛国団体として全国的に組織され、軍隊式の団体訓練などをはじめた。
当局の目が大本に向けられ、行動調査の命令が特高に下った。
さらに、昭和神聖会へと発展すると、「昭和維新」をかかげる軍部の革新派や右翼団体と協力するもっとも力のある団体とみなされるようになった。
当局が極度におそれたのは聖師と革新的思想をもつ軍人との結びつきで、その資金ルートが大本、つまり聖師にあるとみたのである。そこで、資金源を絶つべく大本検挙の大方針が政府の中で固まった。
直接には昭和神聖会を危険視したのであるが、神聖会を潰滅させるには、その母体である大本を抹殺せねばならぬと考えた。
ことに神聖会そのものは、立派な主旨綱領を掲げ多くの軍人や知名士が参加しており、正面からこれを叩くことは到底できない。
幸い(当局から見て)大本には不敬罪で検挙された前歴がある。その点を突いてゆけば、右翼や軍人たちを刺激せずに、大本の息の根を止めることが出来るであろうというわけで、大本を洗いざらい調べ、大本抹殺の理由を探そうということになる。
これは、右翼や軍人のほこ先をかわす巧妙な方策であった。かくてスパイを送って様々な情報を集め、大本関係の文献も悉く収集した。
『霊界物語』はじめ『出口王仁三郎全集』など三百冊におよぶ単行本、『真如の光』『神の国』『瑞祥新聞』『人類愛善新聞』『神霊界』などの機関誌を対象に、大がかりかつ精密な調査をつづけた
そしてついに、王仁三郎が皇室の統治を否認し、かわって統治者となろうとする大陰謀団体であるとの検挙理由を大本教義や言説の断片を拾い集めて組み立て、創作したのである。驚くべきこじつけであり、捏造であった。
そんな昭和十年の九月下旬、聖師は幹部職員に対して、長髪は切り、口髭は剃りおとすよう言いわたした。
一同はすなおに命に服した。ちょうどそのころ内務省関係検察当局、京都府警察部などが琵琶湖畔の大津市膳所のアジトで三週間におよぶ会議をもち、不敬罪およびそれより重罪となる治安維持法違反という罪状の適用が確定していた。
十月六日。神島の開鳥二十年記念参拝があったが、この時、聖師は「神島参拝は今年で最後かもしれない」ともらしたという。
しかしその時点では信徒がそれが何を意味するのか知るはずはなかった。
十月中旬、突然、聖師から「亀岡在住信徒は一世帯のこらずかならず一人以上、大祥殿の朝夕の礼拝にでるように」との通達がでた。
そして、この礼拝には聖師自ら先達をつとめた。これまで、そうした慣例がなかっただけに、在住信徒は不審を抱き、いろいろと憶測を生んだ。
こういう緊張した空気のなかで、亀岡での秋の大祭が執り行われた翌十月三十一日、”第一回歌祭り”が盛大に催された。聖師が二十三歳(満二十二歳)の時、園部で岡田惟平に歌垣のつくり方、歌祭りの仕方などを教えられ、以来、いつかは復興したいと胸に秘めていた神事である。
いそのかみ古き昔の御手振りを清くうつせる歌まつりかな
すたれたる歌のまつりを起したる今日の生日は目出度かりけり(聖師詠)
八雲琴の妙なる調べの中、三人の巫女が鈴を鳴らして舞う。そして弓太鼓の伴奏にあわせて夷振調で献詠歌が朗詠される。
四光明の歌は聖師自ら朗詠した。見台をしっかりつかまえ、肩を振りつつ一心不乱に詠う状は、どこか浄るりを語るにも似て、ややかん高く、それでいて何とも言えぬ円く清らかな声調は、聴く人々をたちまち神仙の世界に引き入れるのであった。
この”歌祭り”は昭和二十五年に復活し、以来大本になくてはならぬ年中行事として、五十六年で三十五回を数える。
十二月八日の三日前、聖師は綾部にいた。その五日、聖師は天王平の開祖の奥都城に参拝した。その夜、綾部在住の信徒の子供を鶴山山上の穹天閣に招き、
「今晩は無礼講だ。みんな喰うて歌って騒いでくれ。しばらくお別れになるかも知れんから」と、無気味なひと言があったが、子供たちが気付くはずはなく、聖師自身も童心にかえってたわむれた。
翌六日に松江市の島根別院の大祭にのぞむため綾部を出発。七日の夕方、抹茶をのみながら聖師は別院苑内の名残りの紅葉を観賞した。
そして、「誰かの句だったな、裏を見せ表を見せて散る紅葉、というのがあったな」とポツリもらした。さらに「明日は大雨だな」とつけ加えた。この日、ある警察の幹部はこのような日記をしたためている。
「なにぶんにも極秘裡にこの大仕事の計画をやったので大変だった。十時ごろ帰って一寸でも眠ろうとあせったが、とうとう一睡もしなかった」
大本の大検挙を計画した警察の上層部は、大変な緊張と覚悟をもってのぞんだのである。
なお、この時、大本の教主は出口すみ、そして教主軸である聖師は昭和神聖会の統管、昭和青年会の総裁、昭和坤生会、更始会、明光社、人類愛善会、大日本武道宣揚会、エスペラント普及会、ローマ字普及会の、それぞれの総裁であった。
