パリ・コレクション(Vol.4)

女性は性的好みを越えれば後天の結びが出来る

要するに、縁の結びというのは自分自身、まず己を知るということだ。

己の顔はどんな顔か。知ってから改善したらいい。どんなに神だのみで目に見えない縁を結んでも、それだけじゃダメ。

まず女性の場合は、目上の人と仲よく、叱られ上手になることを目指そう。まず「はいっ」と素直に言う。

腹の奥でこんちきしょうめと思っていても、「はい」と言って、目上の上司にアタックして、可愛がられる、気にいられる練習をすることが結婚で運を呼ぶまず第一である。

これが家系から、あるいは生まれ育った環境から来る因縁を越えられる方法である。因縁を越えるということは、対社会や家庭環境からできあがってきた自分の性格、物の考え方、性癖、性的な好みや傾向を越えていくことだ。その努力をしないと本人の持った業は晴れない。

だから、目上の、上司の男性とうまくやっていけるように、叱られ上手になるということ。それから、男性に対しては中身を見てなくて売れ残りがちな、肩幅が狭くて声の高い人と結婚する努力をすると、一流大学を出て、頭がよくて、運のいい人と結婚できる。

自分の性癖を優先するにしても、まあ、二十三、四なら希望を言っていいと思うけれど、二十八、九や三十一、二ではそんなに言えるものではないだろう。

江戸時代にタイムマシンで戻れば角隠しもあるからそれでも大丈夫だろうけれど、年齢は隠せない。

しかし、数年前よりも相対的に晩婚型になっているから、昔よりも二年ないし三年ぐらいプラスアルファして、スライドして考えてみるのがいい。

そういうところに気をつけて、努力の方向を一歩あるいは二歩踏み出すと、先天の世界を変える後天(努力)の効果がバーッと出てくる。

先天の結びと後天の結びの相互作用

この章で私が述べていることは、後天の結び、つまり自分で行う性格直しが大事だということだ。

これをきちんとやらないと、いくら私がお取次する「縁結び秘法」を受けて先天の結びを変えても、元にもどりやすい。

相手が出来たり、何誘いがあったり、電話が多くなったり、出会いがあっても、出会いが多くなっただけでまたさようならと帰っていくことをくり返すことになる。

神様は突然の出会いはいくらでもつくってくれる。ところが、やっぱりそれが結実するかどうかという場合の障害になるものは、自分自身の中にあるということに意外に気がつかない。

自分自身をまだよく知っていないからだ。

どういう傾向があって、その傾向がいいのか悪いのかを知らない。いいんだったらいいのだが、これは問題だなというときにはなるべく出さないように、少なくとも結婚後一年ぐらいまでは隠しておくようにしないといけない。これが己を知るということだ。

家族の環境、男性の好み、年齢、職業、まず己を知ることによって、一歩でも二歩でもいいから改善していくように、縁が結べるように努力するということが本当に大切だ。

その一歩二歩を踏み出すと、三歩四歩五歩は目に見えない世界にいらっしゃる神様や守護霊が応援してくれて、努力がドーッと実ることになる。

そうなると、ドドドッと結婚できてしまうのだ。

だから、先天の世界(神仏の助けよき異性と出会わせてくれる)と後天の世界(自分が努力-魅力的で異性に好かれる自分にする努力)の両方のアプローチをしないと、うまく結実しない。

この先天の世界を神様にご指導いただくと、こうしなきゃと思っていても、なかなかできなかったことが、意外にやれるようになる。後天の努力がやりやすくなるのだ。

具体的には、わかっちゃいるけれどもできなかったのが、何となくやれるような気持ちになってくる。

自然にそういうふうにやれるような環境が揃い、そういう気持ちになってくるのだ。これがやっぱり先天の世界の運気が変わった、神様が変えてくださったという一つの証だ。

それがない人は、わかっていても、しなきゃと思っていても出来ないとか、己をいくら知っていてもなかなかそれを直そうという気持ちにならないし、ある程度なっても環境が許さなかったりする。

ところが神仏の応援という、先天の働きにより、その環境が少しずつ変わっていく。しなきゃしなきゃと思ったことがやれるような自分になってくると、こういうように功徳が出てくるのである。

この法則は、結婚運の結びだけではなく、仕事の結びでも同じだ。

関西人は明治人か、大正人か?

ところで、京都、滋賀、姫路、奈良、和歌山、九州もそうかもしれないが、関西の県の中部、田舎の方に住んでいる人は、悪く言えば主体性がない。

お父さんとお母さんがお見合いの相手の人と話し合って、両方が気に入って、本人がまだその人に会っていないのに結婚の日取りまで決めているということがある。関西の若者が、

「先生、どうしましょう、僕は・・・・・・」と相談に来たことが何度もある。

どうしましょうかって、嫌と言えばいいじゃないかと、私は答えるのだが。

そういう話を聞くと「えっと、今は平成だったっけ。明治だったっけ。大正だったつけ」と、年代を錯覚してしまう。東京、千葉、埼玉、神奈川、茨城でそんな人はいないだろう。考えられないことだ。本人が結婚するのか、家が結婚するのか。

関東圏で、お父さんが勝手に結納したらどうなる?

私は行かないからと言えば終わりだし、そうしなさいという両親もいないだろう。

ところが、和歌山、滋賀、京都といった関西の、とりわけ田舎の方では今なおそうだ。

親戚同士で大体決めたとか、親戚に言わなかったらえらくもめて、もう一度親戚と話して、話を通した人ともう一回やり直すとかごちゃごちゃだ。

「もうあんた年齢がこうなんだし、あの人がいいから」と親戚も言うし、親も言うと、本人もそうかなあと結婚してしまうところがある。

そういう人が悩みの相談に来ると、はっきりしたらどうだと思うのだが、そのエリアではそうなのだ。考えようによっては幸せなことだ。

だから結婚するなら和歌山に引っ越ししたらすぐいけるかもしれない。和歌山県人として生まれ変わってくるという手もある。

そこでは今でも、大体、二十三か四ぐらいで結婚する。二十六とか七といったらもうかなり大変で、「恋の守護霊」(深見東州著/たちばな出版刊)という本にあるように、東京に出て来るしかない。東京なら若いわね、まだまだねなんて言われて、三十四、五でも独身で堂々と生きていける。

仙台でもそうだ。それが、関西地方では今でもそうなので不思議な事だ。

ではここで、おめでたい話を一つ。

ある手相家さんが手相を見た人の話であるが、御魂同士の縁結びの後天的な一つの努力の証なので紹介しよう。

その手相家さんが手相を見た時に、大変喜んでいたこの人、私の行っている定例セミナーで、隣に座った人と婚約したというのである。

たまたま隣に座った人と、「どこからいらっしゃったんですか」と話をしたそうだが、次に会ったときに、

「いや、また会いましたね」と話がはずみ、それがもとで結婚したということだ。

ということは、後天的な努力の方向として、私の定例セミナーで、あなたの横に座った男性は神なる縁ありと考えていい。

なぜ横に座るか、千何人もいる中で自分の隣に座るにはきっと縁があるに違いないと、両方、初めからそう思ってていいのだ。左か、右か、よさそうなほうに縁があると思えばいいのだ。

男性は、隣に座った女性が、ちょっとよさそうだったら、きっと縁があると思う。お互いそう思ってるかもしれない。

少なくとも神様ごとの好きな人たちがたくさん来ているのだから、セミナーで左右にいても何の不思議もない。

だから、女同士座ることはやめたほうがいい。必ず男性の隣が女性になるように、男女、男女と座る努力をすることだ。

そしてパッと見て、隣の人が、「あ、もう結婚しておりまして、妻が」と言ったら、あ、きょうは外れと、また来月だというふうにすれば、セミナーは一年に十二回として、三年間に三十六回ある。

大体、ルーレットでもそれぐらいに一回当たりが出る。

だからなるべく、独身の方は、男同士女同士座らないで、異性の隣に座る。若そうでももう結婚している人はいるから、それは当たりもあれば外れもある。なにはともあれ、なるべく女性も名刺を用意しておく方がいい。

この章は、女性に的を絞って書いた感じがあるが、男性も女性も同じだ。声の高い男性は低音で、女性なら、いつも気難しい顔の人はにこやかにすることだ。よく、岡本綾子が二メートルのパットを逃がしたときには「チェッ」とする、

ああいう顔をずっとしている女性がいる。そうじゃなくてナイスショットの岡本綾子の笑顔。

この顔でずーっといけばいいのだ。

男性も女性もそれぐらいしていかないと、初めての出会いのチャンスをなかなか物にできない。そういう努力をするところに、神々様は微笑みかけてくれるの

自分を変える努力というのは、本当に大切なのだ。

第三章 究極の恋愛成就法-基礎編-

思いどおりに恋をかなえるには?

いよいよ、ここから「パリ・コレクション」フランス流恋愛術に入りたい。

と言っても、読者のみなさんは大体日本にいるわけだから、パリのサントノーレ通りのロンシャンのブティックに行って、どうのこうのと言っても、ちっとも実践的でない。そういうことが知りたい人は「地球の歩き方、フランス編」とか、どこかの旅行会社にあたるといい。

私が見てきた多くの人間の姿の中で、恋愛の名人達人と、恋愛の凡人、そして恋愛すれば必ずフラれる人と、三タイプいる。そのあたりの仕分けからやっていこう。

食べ物、健康、生活パターンにとらわれない

話はいきなり横道にそれるが、私はお肉でも野菜でも何でも、有害食品でも自然食でも関係なく平気で食べる。

しかも、人の何倍の体力を誇っている。二日も三日も寝なくとも平気だ。よく規則正しい生活などと言うけれど、何で規則正しい生活をしなければいけないのだろうか?規則正しい生活をしていた結果ストレスをためて、多くの人々がガンになっている。

なるときはなるのだ。だったら、なる寸前までは好きなように生きた方がいい。

人間は御魂磨きのために生まれてきたのであって、健康になるために生まれてきたのではない。

不健康がいいという意味ではないが、健康管理、健康管理、健康管理とお念仏みたいに唱えていて、ちょっと胃がムカムカすると、「ガンじゃないだろうか」とか、ちょっと血の気が引くと「エイズかな」と思ったり、そういう医学の知識が発達すれば発達するほど何かの病気じゃないかと思って、ノイローゼになる。

健康管理をすればするほど気持ちが小さくなってきて、想念と思いが逼塞してくるのだ。それがわかったので、私は、不規則な日々を送っている。

だから、朝食からいきなりステーキを食べたり、寝る前にドッカリ四人前焼ソバを食べたりで、おかげで太った。確かに医学は正しいところもあるなあと思う。

しかし食べ物と霊能力は全く関係ない。食べ物で影響されるような霊格とか、霊力というのは低いものだ。

それから生活のパターン。これも全く関係ない。

人間は、食べ物とか生活のパターンだとか時間だとか、気にしないことだ。心を自由に持って、自在に持って、何であってもおいしい、最高の食べ物だと思うと、体の中にそれを消化していく成分が出てくる。

ほんとうにこのファンタ、果汁ゼロって体にいいなあ。本来無一物から出ているんだから、いいじゃないかと思って喜んで飲んだら、超えていくだけの成分が体から出てくる。

睡眠だって、昨夜何時に寝たと計算するから何時間しか寝てないと思う。

すると、しまった寝不足だ、と思ってしまう。人間には心、意識がある。だから、体力の強い人、弱い人の差が出てくるのだ。病は気からというけれど、気とは意識であり、思いであり、心だ。

その部分があるから、この健康食品はいいと思って食べていても、しばらくしたら体がそれになじんできて効かなくなってくる。

それで新しい健康食品に飛びついてこれがいいと思っていたら、またしばらくしたら体がなじんできて効かなくなる。

だから、健康食品産業は繁栄しているわけだ。ある程度は知識として、栄養についても知っておいた方がよいが、気にし過ぎることはもっと問題である。そんなアレコレこだわるようでは恋愛成就はおぼつかない。

モーツァルトのドン・ジョバンニにしても、光源氏とか在原業平にしても、恋にうつつを抜かして成功率抜群というような人で、健康管理とか、睡眠時間は最低六時間確保して…………なんて気にする人はいない。

恋とは、非常識な努力、非日常を屁とも思わない境地の人こそ勝利しうるのだ。

偏屈・頑固が多い玄米食主義者

私は菜食主義もやめて、肉でも野菜でも何でも、目の前にあるものが最高だと思って食べる。

楽しんで充実して生きればいいのであって、要するに心で悩んだり、思い込んだりなど、想念をマイナス的に持たずに、明るく元気にエネルギッシュに、元気に思っているから、体力も精神力も気力も続く。自分が出している想念で、自分ががんじがらめになって病気になるという、その力のほうが体に強く影響する。

菜食、肉食、ビタミン、レシチンの働き、あれが体にいい、これが体にいいということは、確かに医学的根拠から見てあるのだろうが、一番大きい原因かと考えたら、そうではない。

複合汚染で、日本人がどんどん死ぬなんて言われても、日本はこんな世界一の長寿国なのである。

学説によって、昔は食べてよくないといわれたのが今はいいとか変わると、じゃあ、あのとき、コレステロールがたまるからよくないなんて真に受けて卵を食べなかった人は、人生どうなるんだ、ということになる。卵好きだったのに食べなかった人生はどう弁償してくれる、とそう思う。

少しは参考にしなきゃいけないかもしれないが、そんなに大げさに考えることはないのだ。

それよりも、偏屈で頑固な人が多いのが、玄米食をやっている人だ。さらに、菜食主義の人。大体、顔色がよくない。動物性たんぱくをとらないから、すごく平和な人が多いが、瞬発力がない。持続力はあるというのだが。

私は一時、片寄った菜食主義に凝った人間で、当時私の体温は低かった。 UFOも好きだったし、玄米も好きだった。

だが、そうやって玄米ばかり食べてたら顔がほんとに化け物の顔になってしまった。体温が低く、触ると、死人の様な感じだった。

それで、持続力はあると言ってもどんなものか?菜食主義者が言うには、必須アミノ酸のうちの、動物性は二種類だけで、その二種類の動物性というのは成長に必要な時期のアミノ酸である。

しかし成人になったら成長よりも維持する側に体は移行する。ゆえに必須アミノ酸のうち、肉以外から取れる(野菜から取れる)八つのもので充分だ。よって、お肉は要らないという理論を立てる。

ところがそれではやっぱり瞬発力がない私も肉を食べないと、極度の集中を必要とする救霊のとき、たたりの霊になかなか勝てない発がなければ、このせわしない世の中では勝てないし、お客様を相手に営業したり、接待しなきゃならない人間が、菜食を維持しながらというのはまず無理だ。

食べ物は、バランスがよかったらいいわけで、社会生活に支障を来してはどうしようもない。

果汁が入っていてもいなくても、色つきでも天然の色でも、もうそれぞれに楽しい。口の中は真っ赤とか紫にして、子供が食べて喜んでいるが、いいではないか。彼らは、人の何倍も元気だ。

このように、一つのことを固定的に思った人というのは、玄米食にしても、あんまり長生きしていない。

私は玄米食信奉者の共通項を発見したが、十人中十人まで頑固者だ。で、何で死ぬかというと、大体ガンで死んでいる。ガンは頑固(ガンコ)な人がなるものなのである。

やっぱり魂の柔軟さが必要で、魂を内にもった肉体はその媒体となる。健康のほうがもちろんいいが、その根源的な健康のもとは何なのか。

気だ。意識、心だ。

それをだめにするのは思い込み、頑固さだ。だから、健康管理もあんまりやり過ぎたら病気になる。

恋する人がいたとして、こういう人が病気になったらどうなるか?悲しい恋は実るか?実らないのだ!

こういう頑固な人は入院したとしたら、わがままで手に負えない。せっかくお見舞いに来てくれたその相手がファンタやコーラを持って来ているのに、「俺を殺す気か?」とか言って説教したりする。

要するに可愛くない。だから「勝手にすれば!」ということになって、悲しい一生を閉じるのである。つまり究極の恋愛破滅法というわけだ。

くたびれもうけのボディービル

私の経験を少し話そう。私のくやしい体験だ。

私はある時から玄米食、菜食主義の人間になったのだが、ボディービルをして筋肉隆々になろうと決めた。太陽よりも早く起きて体をきたえた。

おかげで、それまでは冷え症で月ぐらいから下着、パッチをはかなきゃいけなかったのが平気になって、そのときから、今でも一年中春夏秋冬、ランニングとパンツ一丁でオーケーだ(とは言ってもそんな姿でいつもいる訳ではないが…)

それまでは冷え症で、長そでを着て縮み上がっていた。皮膚を鍛えたらいいんだとか、男らしさの追求もテーマにしていた。

それでトレパン、トレシャツで、冬の寒い四時、五時に起きて、ランニングをした。こうして私は冬に勝った。太陽に勝った。おのれに勝ったと言って喜んでいたのだ。そこまではいい。

ところが菜食主義だったから、筋骨隆々となっても、二日か三日するとすぐ筋肉が消えてしまうのだ。

「あら~?あんなに筋肉がついたのに、四日たったらまた筋肉がなくなっちゃった」

くそーっと思って、また一生懸命やる。ベンチプレスだとか、せっせとやる。そうするとまた筋骨隆々になる。

こうやって、また鏡を見て、「また男らしくなった、筋肉ムキムキ」と自己陶酔にひたる。

ところが五日たったら、またペシャンとなっているのだ。ほんとに矛盾した話だ。今から思えばもう少し肉を食べておけば、筋肉がもっとできたのに、くたびれもうけだったのだ。そういうふうな学生時代を私は送っていた。

今の女性が筋肉マンが好きかどうか知らないが、たくましい肉体で女性を惹きつけたいのなら、玄米菜食ではダメだということもつけ加えておこう。

悪い霊を寄せつけない体質改善

肉体の話だけでなく、霊的な体質についてはどうか。

便秘とか、子供が「怖い、怖い」と言うのは、大体ご先祖さんの系統の霊障が多い。

それから、よく霊に憑かれやすいという体質の人は、筋肉を鍛えて、おのれに対して勝っていくんだというふうな日々を送ると、その意志の力が剣になるから、あまり霊がやってこなくなる。

また、来ても気にならなくなる。

あっ霊が来るな、霊が来るな。霊じゃないかな、霊じゃないかな。ほら、やっぱり来た~と恐がっている人。そんな人は、あっち行ってくれ、あっち行ってくれと言いながら、気にすれば気にするほど霊が追ってくるから、自分に勝っていく強い意志力を持つことが一番大切だ。

そうすれば寄せ付けない。それから筋肉を鍛えていく運動力が、物事を気にしないという大らかな霊界を広くするので、さらに霊に憑かれたりしなくなる。これが霊に憑かれやすい体質を改善する方法だ。

大体、悪い霊に憑かれやすい人は、見てくれからして邪霊みたいになっているから、魅力的で普通以上の異性が寄ってくるわけがない。

それと、簡単な方法として「強運』(深見東州著/たちばな出版刊)に書いてある悪霊を祓う咒を唱える方法がある。

しかしこれも、「霊よ来るなよ、来るなよ」、「来たのか、来たな」と思いながらその咒を唱えてももう霊に負けてしまっているからだめだ。

ところが、「霊なんかに負けはせん、絶対負けるもんか」と言って、悪霊を祓う咒を唱えると、霊のほうも、咒の言葉の奥の霊界が強くて大きいから逃げていく。悪霊を追い払うだけの力になるのである。

揺れる恋心、どうすれば結婚に?

恋愛というのは、心の働きであり、想いだ。その想いを絶対的に遂げるということはどういうことか。想いというのは、心中の座、「心座」に発する。この仕組みは、知らない人が多いと思うから説明しよう。

恋愛をすれば誰でもわかるが、心、想いはグラグラに揺れる。

「あの人が私をチラッと見た。もしかしたら……」

「すれ違った時に肩が触れた。そしたら表情が変わった……」

とにかく大変。うれしいこともあるが、苦しい方がよほど多い。人の心はコロコロ変わるけれど、恋ほど良く変わる働きもない。

こういう心の働きを何とかしないと、しまいには、仕事も学業も何も手につかなくなるということも良くある。

そこで、中には座禅をしたりする人もあるけれ大体十五分も座っていられない。それは心座というものがグラグラしていて、その上にのっかっている御魂もグラグラしているからだ。

こういうふうに恋に苦しんでいる人というのは、ハタから見ていて相当にみっともない。可愛くはあるけれど。

そこで、心の安定は、どうしたら得られるかということになる。異性から見て、なんといっても安定している人の方が安心もでき、頼もしくもあるからだ。

魂を「静」に保つ方法

そこで御魂の中に、台をどうつくるのかということになる。それが心中の座、心座だ。白隠禅師は、山の中で座禅し、瞑想することによって得られる境地を「静中の静」と言った。

ところが山の中ではよかったのだが、いざ社会におり、現実におりてきて仕事をする、月末のやりくりをする、嫁さんと葛藤する、魅力的な異性が現われる、そうするとたちまちのうちに、山の中で座禅した、その清浄なる心は、がちゃがちゃに揺れ動く。

それでも揺れ動かないのを「動中の静」と言ったわけだ。静中の静に対し、これは動中の静。両方が備わらなければいけないことを悟ったのである。

目に見えない自分の台というのは、静と動の二極がある。静中の静も、動中の静も、それを体得するには修業が必要となるが、その根本は以下のようなことだ。

「静」は心がざわめく時に、呼吸をまず整えて、ゆっくり吐いてゆっくり吸って、ゆっくり吐いてゆっくり吸って、呼吸をまず整える。

そういう神霊界のお城(心座)というのは、作るというよりも、実はもともとあるものである。

それを観念とか欲望とか、特に年齢が雲になって、霊界で隠してしまっているのだ。それを表面上の呼吸から整えていくと、魂の奥にある、ほんとうの呼吸が動き出す。これを胎息という。

赤ちゃんの呼吸が胎息と言われる。赤ちゃんは母の胎内では酸素を吸わない。

だけど生きている。これを先天の世界という。

どうして生きていられるかと言うと、先天の気を吸収して呼吸をしているのだ。羊水が割れて外へ出てきて、オギャーと言って、はーっと初めて息をする。

それから後天が始まるのだ。お腹の中の赤ちゃんがフーフー、フーフー呼吸したらお母さんのお腹がブクブクで、バブルスターみたいになってしまうであろう。

そういう胎息になるまで息をゆっくり整えていけばいい。外の呼吸を整えて体の中の胎息が始まると、今度は、足の裏が呼吸を始める。

修験者の祖といわれる役小角の霊などは、鉄腕アトムが空を飛ぶみたいに、足の裏から火が出ているみたいな感じだ。そういう足の裏の呼吸になる。

こういうふうになってきたら、もともと持っている力が出てくる。自分の心の座が自然と感じられてくる。胸のチャクラの中の、水晶の玉の中に自分がいると思ったらいい。

水晶の玉に自分がいて、その自分が拝んでいるというつもりで拝んでいたら、この中でも拝んでいる。

これが自分の心の中の座心座、心中の座だ。静の場合はそういうふうになる。本来あるべきものなのだが、それを人は隠しているのだ。

そして、そういうふうにあるんだというつもりで祈ると、心、胸が安定する。

恋心で千々に乱れていても、スッとおだやかになるのだ。私が行う「チャクラを開ける秘法」を受けたら、みんな胸に風穴が開いたようになり、心の中の自分が出てくる。

自分でする努力としては、いつも、胸で「ありがとうございます」と言って、胸で感謝するようにすることだ。

そうすると、心の中の、心座の中の自分がそう言っている状態を作り出すことができる。こうして得られるのが、静中の静の境地である。

感性というのは、おでこの奥に奇魂があってパッと直感するものだ。おでこの奥の奇魂によるパッというヒラメキは、文字を超えた直感だが、私のおでこがあなたを恋して、熱くて熱くてもう、頭の恋を理解してくださいというようにはならない。

また、腹霊というのはお腹にあるが、大体、恋というのはお腹でしない。私の大腸はあなたのことを思って……となると、おならになってしまう。おでこでも腹でもなく、やっぱり恋は胸なのだ。

ああ、あの恋しいヨシオさんは今ごろどうしているかしら。どうしているかしら。

たこ焼き食べてる。おひつまぶしを食べているかしらと胸で思う。要するに想念とか思いというのは胸の働きなのだ。

「この私の思いを知ってください。この私の思いを知ってください。この私の思いを知ってください」というのは胸で思うのである。

恋をするのは思い。自分の思いとは、心座、胸、心のチャクラだ。ここにお城(迷いのない状態)をつくらなきゃいけない。この静である。

没入、忘我で顕現する動中の静

「忙中閑あり」という言葉があるが、動中の静はそれに少し似ている。

この動とは何なのか。動の中に不動のお城をつくろうと思ったら、他のことを一切忘れて、とにかく夢中で情熱を持って、何事かに打ち込むことだ。

例えば、押し花パウチ作りに命をかける。祝詞を何万回もあげる。一心不乱に祈るか一心不乱に絵を描くか、一心不乱に書を書くか。

一心不乱にパチンコで7 77をねらうか。何でもいいが、ともかく打ち込む。白隠さんは言っている。

「とろとろとろとろ眠るような禅をするぐらいなら、ねじり鉢巻きをして朝までばくちをやれ。よほどそのほうが禅の道にかなっている」と。

一つの物事に没入、徹底して、我を忘れた状態というのは、動中の静の中で目に見えざる自分の台が開いている時なのだ。

ああだろうか、こうだろうかなんて念が頭にあるうちはまだだめだ。とにかく目の前のことに意識を向けて、明日のことも昨日のことも考えない。

自分の顔の悪いことも、失恋のことも全部忘れてグワーッと集中しているとき、それが台が輝いているとき、御魂が発動しているときなのだ。

いかなるときにもそれができるような人間が、動中の静をきわめた人間であるといえる。会社が潰れようと、大丈夫。また再建したらいいんだと動じない。

失恋しても、また次を見つければいい。こんな顔なら、あっ、手術したらいいんだと結論が早い。両親が亡くなったら供養すればいいんだ、ということだ。

もちろん、悲しくて一時は泣くかもしれない。しかし、一時泣いたらもういい。いかなる人生のドラマがあったとしても、すぐもとへパッと返って、目の前のことに没入できる。これは、動中の静を体得している人ならできるのだ。

こうなっていない人は、動中の動。要するに状況にふり回されっぱなしだ。

今日は気持ちがいいわなんて言うんだけれども、月末の支払いどうなりますかと電話がかかってくると、途端にもうノイローゼ。子供が死んだ。親が死んだ。

恋人と別れた。会社が潰れそうになっている。ボーナスがない。上司に「バカモン!」と言われた。

薄くなったのを気にしているときに、ご近所のいいなあと思ってる女の人が来て、「はげ」って言って、道を通り過ぎていった。その度にだめだと、たちまちのうちに動中の静が壊れてしまう。

気にしなければいいのだ。ああ、そうだ、私ははげている。

そうとも私の目標はユル・ブリンナーの全盛期、顔のつくりは少し違うけど、でも、まあユル・ブリンナーのここだけはまねできる!とか。

そう、開き直ったらいいのだ。はげははげらしく自信を持ったらいい。「でぶ」って言われてもいいじゃないか。悔しかったら太ってみろと、八十歳のおじいさんで、七十キロ、八十キロって人は見たことないだろう。みんなそのうちやせるのだ。古稀のお祝いに体重を減らそうかななんて人はいない。

何もしなくても、七十過ぎたらやせるのに、何も若いうちにやせなければ、と焦ることはない。八十、七十まで生きたらどのみちやせるんだから、若い間は少し太っていたほうが、太いのと細いのと両方人生が経験できていいじゃないか。

ずっと細いと、太さを知らないまま死んでいくので、実に残念というものだ。こう開き直って、自らの境地をこわさないようにすればいい。

動中の静。何があってもパッともとへ戻って、目の前の事柄に没入できるという人が、これが最高の境地だ。

静中の静と動中の静、これを完璧にマスターする人は、多くはない。

かなり神人合一した人だ。これは原理論なのだが、そこまで達することができれば、究極の恋愛成就法の基礎編は終了となる。