昭和五十三年 神戸神業 (十二)

時をかまわず勉学に励め。
机がなくても、目があり、口があり、耳がある。
空気に字をかけば紙などいらぬ。
条件を創り変えてやる気を持続させる修練が
むら気の人を自在にさせる。
やり方一つでマイナスがプラスになり、
プラスがマイナスになる。
良き知恵こそ宝なり。

度を失うと全ての調和をなくすなり。
度と申すは、心の安定であり、
真理に基づいた精神と肉体の
バランスのことである。
正しい行いをすると、
正しい結果が出ずるなり。
不動の信念を持ちておれば、
いついかなる時も度を失うことなし。
強い弱いと言われる精神の働きも、
実はこの度の具合であり、
度胸、度量、みなこの語から来ている。
いつも度を胸中深く蔵し、
妙なる活動を行う人のことを
大用を得たる人というなり。

萬創主よろずつくりぬ


れいが気になるというのは、
自分の心が空虚だからである。
どんな人間も風呂に入らねばあかで汚れるように、
心が常に正しい思いや愛念に
満たされていなければ、
あかや汚れと同じく霊に悩まされるのである。

皆それぞれ御本霊があり、
その霊は只今に別次元に生きて、
全てを見て、知っているのである。
その御霊がその人の神である。

女性が最初の赤ちゃんを生んだ後に
最もすばらしくなるのは、
ただひたすら神を行じているからである。
赤ちゃんが飲み易いようにミルクを温め、国立文渉外感
風呂に入れ、
夜に起きてワンワン泣いても
健康な証拠だからかわいい。
おもらししたかなと気配りし、
発熱しているのかなと
心配したりする。
自分を忘れ、ただひたすら相手のことを思い、
愛念に満たされている。
他人に対しても、物に対しても、
かくの如くあれば即ち神人合一せる人である。

鋳型に流して出来上がるものなら、
神も苦労はない。
一人一人が生き物であり、
刻々と変わりゆく微妙の芸術であるからこそ、
どこまでも神が手をとり、
足をとり導くのであるぞ。
それが神の人を慈しむ証なり。 夢々人に相対しても、
物を取り扱うにしても、
その神心を忘れるでないぞ。

ニンセイ 国常立之尊代理


やっぱり自分の身の内から出た言葉でなくば、
神が入っている言葉とは言えない。
ただしい言葉は、
常に自分が経験し、
体得できている言葉である。

祝詞を奏上するのは、
神前において
万人の安穏や平和を祈る時でよい。
普段は、人間同志がお願いする如く、 神々に親しく言分けをすればいい。
昔の儀式にこだわるなかれ。

たかみくらたてるなり。
やすらかにゆけかみのみち。
ことばはするどからず。
やまびこなりことたまは。
ひとをたたえあいでつつむ。
かなえのうちにてひとのたま
みもあわれてまばゆきぞ。

正しきこと
温かきこと
すばらしきことのみ口にせよ。
沈黙の効用を再考すべし。

わらわれても、さげすまれても
真理をただ行ずる。
それが、あらゆる道の本なり。
しかしその本は、
真に美しい功徳となり、姿となり、
光りとなって輝いているのである。
それが、やがて人の心服するところとなるなり。
焦るなかれ。辛抱せよ。