昭和五十二年 御神示(六)

どこにいても自分を見つめ
だれといても自分を忘れ
苦しいときはわらい
楽しいときは喜び
つつしむときは自分をみはる番犬を
自分の中で飼えばいい。

気がゆるむ最大の原因は、
長い間心にとめていたことが解決したり、
慣れが起きてきたときに、
天性の霊神が時の神をのがしたる故なり。

どうしても神と話しがしたいのなら、
さえずっている鳥にされよ。
神の姿がどうしても見たくば、
山の姿、海の姿、花々の笑顔を見られよ。
それでもなお神のことがわからねば、
思い切って人を信じ愛してみられよ。
その気持ちが神心に等しい。
神は知るものではない。
ただ恋してさえいればいいものなり。
それが神と人との本来の姿なり。
恋愛も親子の愛も、
この一端を告げるものである。
恋しい、なつかしい、親しい、

ふるさとを求めるかなしみ、
全ては神と人との間ができて以来、
人に残った魂のなごりの感覚なり。
人の心にいつも宿っている
古代のなごりであり、
六次元神界を今一度もとめる
人の本能である。

つかさ


全ての現象を霊界より見れば、
幻であり影である。
たとえすばらしいことであっても、 霊界に想念を向けて行なうときは、
神の御目より見給えば、
実りあることとして受け取られることはない。

人の生が三次元をその足場とする。
三次元はそのままが神の世界なり。
神心の現世なり。宝の実の花園なり。

全て愛より発して神に想念が行き、
あらためてこの世で目に映るもの、
耳に聞こゆるもの、
肌で感ずるものが
神のお姿であることを自覚し、
天地を楽しみつつ、
日々暮らすのが人の本分である。

霊象霊的能力ことごとく神
ただ人が、あまりに神なり仏なりを
不可思議なものとしてとらえるこころあり、
その因を結びつける方便として
使っているだけなり。
神は仏教で言うようなむつかしいものでも、
厳しいものでもない。
ただ楽しく、面白く、美しく
輝いている天の楽の元だと思われよ。

中心というのは
すみきった無心のものでなくば、
高厳、崇貴、深遠なる神の働きや、
姿をうかがえるものではない。

スカ


神はただ今に生き、
ただ今に暮らす人を喜ぶなり。
人はその想念によりて物を生かし、
また殺すものなり。
霊界というものの正体は、
その念のもやであり、その跡なり。
今という時はそのもやの中にはなく、
ただその念の発する前の瞬間にある。
よりて、霊界を思念するのは、
人の本分をわき道へ
そらせるものであると断言できる。

萬創主

*注:深見先生が霊界に興味を持ちすぎていた時の神様からの 戒めであり、これの実践ができて初めて、霊界を扱って それを神と真へ即もどせるようになったのである。 含意 と背景を知らないと、誤解する恐れがあるので要注意。


人には尽せ、神には祈れ。
愛ある人には神、笑顔をむけ、
愛なき人には神、道をさずく。