自分のことを知ってもらいたいのは
人の常である。
しかしその気持ちを持っているうちは、
自分の納得行く人生を全うできるものではない。 奥深い境地は、
あくまで人知れずに行なう自分との闘いであり、
その時の神との語らいであり、
対象物とわれとのギリギリの闘いや、
調和なのである。
見知らぬ人の顔を見て吠えたり、
えさをくれる人には愛想良くし、
自分の主には忠義を通す。
犬のような人が多くいる。
隣で飢え死にしそうな人があっても顧みず、
自分のえさの元を
できるだけ楽をして取ろうとする。
自分の足でしっかり歩んで糧を得るのでなく、
あくまでご機嫌取りで申し訳なさそうに、
四つのうち三つしか取れない臆病な人が多い。
みんな人の目と自分の地位に
執着しているからである。
人として本来あるべき人生とは、
御魂の向上と完成をめざすことであり、
この世のことは、
全てその為の手段であることが
わかっていないのだ。
社会の目を大きく飛び越えて、
大業を成し遂げる人は、
天を想い、やりがいを
自分の魂の内なる納得にゆだねている。
故に、真の信心もつ者は、
生涯の生き様にこの勇躍の気概が
なくてはならない。
観念の信仰から、行動実践の中に、
御魂の勇躍する足跡を表わす、
真実の御魂の信仰を持たねばならない。
また、自己を創りあげて行く精神、知恵が
衰えているからなり。
少しずつ自分の欠点がわかってくると
大きい神の愛をしみじみと感ずるなり。
神のこころは
少しずつ明らかになるものなり。
けっして神はいじわるいことはせんぞ。
しんぱいは自分をいため、
神の宮を曇らすはじめとなれり。
前進より他に道はない。
後退は人慮なり。
神より見れば後退も進歩なり。
天の鏡はありやかなり。
気をたばねれば
鏡にはね返る光は大きく強くなる。
気を散らせば
鏡にはね返る光は弱く小さくなる。
*註:身の内にある神魂は、静にあっては天の鏡となっている。
精神統一は
瞑想にふけってなされるのではない。
生活を通し、芸術を通し、
真論に達するまでの
肝ねりでなされるものなり。
