さだかなり神おろし。
つかまえては離し、離しては花が咲く。
ときどきのはからいが天意なり。
ときこそ神のくしびなる妙。
八千代に繁る老松に百千万の鳥の声
いずれを求めて啼きてある。
今は静けきひな鳥よ、その巣は神の台なり。
母のとりやる餌を食し、
やすきねむりにつく夜よ。
今は知りてはおらねども、
神をたずねていくおりに、
心魂疲れて至る野辺にあり、
その時待ちいる花の精、
汝に手向けるものある御神里
たかあまはらとはこの巣のことなり。
人が悪いのではなく、
人の魂がくもっているのが悪いのである。
人というのは本来神そのものであるべきものなり。
人の修業というのはその魂磨きのわざなり。
決して力を養い身をふとらせるものではない。
しかしその魂磨きというのは、
自分一人で生みつづける
生産活動によって行われる。
それが生活というものなり。
人づてによってでき得るものにはあらず、
時の神とらえて進む一人道なり。
魂磨きの一人道は、
日々の生活を行う時の想念の行である。
修業というのは、
想念のもち方を、
いかに感謝と進歩のみにしてしまうかである。
それより他に修業といえるものはない。
その他の苦労は
自分を広げるための焼き入れやかざりであり、
その苦労自体なんの誇るべきものを有していない。
ただ自分の我が他人の我とぶつかったか、
一人よがりで苦労だと思い込んでいるだけである。
修業とは、
業(なりわい、ごう)をおさめると書き、
苦労とは
労(今あることにつとめること)を
苦(惜)しむと書く。
その苦しさや辛さの正体は悪想念なり。
故に想念を工夫するよう改めつつ、
日々の生業に業を修めよ。
励んで励んで励み続け、
そうして今に生き続けるより他はない。
それが本来の魂磨きの人生である。
時々は憂鬱に沈む時があり
平和の心の弥栄ゆなり
