入門 先祖供養(Vol.4)

お供えの基本…五供

食べ物の話ばかりしましたが、お供え物というのは基本的に、家に親戚のお客様がいらっしゃったときのおもてなしと同じと考えてください。

部屋の掃除はもちろんのこと、花を活けたり、香を焚いて香りを楽しんでいただくことなども、すべて供養なのです。

宗派によって若干違いはありますが、一般的にお供えの基本は五供とされています。

五供とは、①香、②花、3灯燭、④浄水、⑤飲食の五つです。⑤については、これまで述べてきましたので、残りの①~④を順番に説明していきましょう。

①香…供養をするときに香を焚くことは誰でもご存じでしょう。法事のときは抹香と呼ばれ粉状の香を焚きます(いわゆるお焼香)が、ふだんは扱いやすくて長持ちする線香を用いるのが一般的です。

香を焚くことには二つの意味があります。一つは、ご先祖によい香りを楽しんでいただくこと。もう一つ、香の香りには、供養をする私たちを浄化し、邪気を寄せ付けないようにするという作用もあるのです。

ですから香を選ぶ際には、あまり安いものではなくて、ある程度のものを購入したほうがいいと思います。

ところで、線香は何本立てたらいいか。一本なのか、二本なのか、三本なのか、よく質問を受けますが、どれが正しいというものではありません。これも宗派によってある程度決まってはいますが、あまりこだわる必要はないでしょう。
ただ、気を付けていただきたいのは、線香が燃え上がっても慌てて口で息を吹きかけて消さないこと。手のひらであおぐかろうそく消しで消すようにしてください。

②花… これも飲食と同じで、基本的には故人が好きだった花、喜んでもらえると思う花をお供えする気持ちが大事です。枯れた花をいつまでも置きっぱなしにしておいてはいけないのは言うまでもないでしょう。

また、花には神霊的なエネルギーが宿っていますから、家運を良くするためには、ある程度その意味を知っておくことも大切なことです。『花の伝説」(深見東州著たちばな出版刊)を参照にされることをお勧めします。

③灯燭… 前章でも述べたように仏壇は明るくしたほうがいいというのが原則です。仏壇は薄暗いというイメージがありますが、昔は電気などありませんでしたから、灯明やろうそを灯した仏壇の周りは家の中でも明るい場所だったのです。

ですから、扉を開いたときにはともかく光があたるようにしてあげること。電気スタンドで照らしても構いません。ただし、おまいりをする際には原則としてろうそくを灯すべきです。ろうそくの火には線香をつける役目もあります。

おまいりがすんだらろうそくは必ず消しますが、この時も息は吹きかけずに、手のひであおぐか、ろうそく消しなどを使うようにしてください。

④浄水… 正式には閼伽といって清浄な水を供えるとされていますが、実際には水道などの飲料用の水を供えれば十分でしょう。また、朝起きて家族が飲む温かいお茶を供えるなどするのも良いことです。

以上、お供えの基本とされる五供について説明してきました。その他、細かいことをあげればキリがありませんが、日常的に供養を行う場合には、これだけで十分です。

般若心経の功罪

仏壇の前で毎日熱心にお経をあげていらっしゃる方がいます。これも仏教では供養の一つとされ、行供養と呼ばれているものです。中でも日本人に最も人気が高いのが般若心経でしょう。

非常にありがたがってこのお経を唱える人が多いのですが、神霊的な意味からは、仏壇の前で般若心経を唱えることはお勧めできません。

深見東州氏は「恐怖の般若心経」とまで言っています。薬も使い方を間違うと毒になるように、素晴らしいお経だけに一歩使い方を間違うと非常に危険なのです。

この話をすると反発を感じる方が多いのですが、決して、般若心経そのものを否定しているわけではありません。

般若心経はわずか二六六文字で森羅万象の本質を解き明かした深遠なる経典です。そして非常に霊力があります。実はここが問題なのです。

たとえば真言密教でも行の一つとして般若心経をあげますが、これは仏様、如来様、権現様の法力を授かるためにあげるものです。

正しく修業を積んだお坊さんが、法則を理解したうえで般若心経をあげると、そのまま法力になります。

問題は、一般の方が仏壇の前であげる般若心経です。霊的に見ると、般若心経をあげている人は、キラキラ光る金色の帯に包まれています。これが霊にとっては非常に気持ちがいいものなのだそうです。

あらゆる霊にとって気持ちがいい。中有霊界以下の先祖霊がどんどん出て来るだけでなく、そこらにいる関係のない浮遊霊まで集まってくる。なんともおぞましい光景です。

「ああ、気持ちがいい。なんていい気持ちなんだ」といった感じで、ほとんど恍惚状態になった霊がどんどん擦り寄ってくるのです。猫がゴロゴロ喉を鳴らすみたいに喜んでいます。

しかしながら、気持ちが良くなるだけであって、いくらお経を唱えても霊が救済されるわけではありません。また、一般の人には寄ってきた霊を祓う力も説得する力もありません。

いくら「あっちへ行きなさい」と言っても、霊がまとわりついて離れない。それどころか霊が集まってきたことさえわからないことがほとんどでしょう。

自覚がないまま、霊にせがまれながら般若心経をあげ続けている本人は、一生懸命に供養をしているつもりなのですが、「あっちが痛い。こっちが痛い」と年中苦しんでいるわけで

お経は理解することが大事

一般の方は、仏壇の前で般若心経をあげるのは絶対にやめてください。もちろん、お墓であげるのも厳禁です。

以前、無縁仏の前で般若心経をあげていた方が救霊にいらっしゃいましたが、実に何千体もの浮遊霊を背負い込んでいました。まるで浮遊霊のデパートと言ってもいい状態でした。

ご本人は功徳を積むつもりでやっていたそうです。しかも、そうやって無縁仏をお祀りすることをある宗教団体に勧められたというから驚きです。

確かに、迷える霊を救済しようという気持ちは立派だと言えるかもしれません。

しかしながら、何のノウハウもなくそんなことをすればどうなるのか。生半可な知識や自分勝手な解釈で霊の問題にかかわるのは極めて危険なことなのです。

原則として霊のことなどに気を向けずに、現実界でやるべきことを一生懸命やればいいのです。ただ、先祖霊についてはその影響が自分に直接降りかかってきますから、ある程度のことはしなければなりません。

しかし、実はこれも防衛的な意味合いが大きいわけです。天国や中有霊界の上のランクに行ったご先祖は供養など必要としていないのですから。

般若心経に話を戻せば、写経というのも、あまりお勧めできません。特にお経の意味を考えず、ただありがたがって文字を書き写していると、やはり低級な霊がどんどん寄ってきて身動きできなくなるのです。

お経というのは、ただ音読するものでも書き写すものでもありません。ましてや拝むものではありません。大切なのは内容を理解し、よく咀嚼することなのです。お釈迦様がおっしゃった言葉を納得することが大事なのです。

お釈迦様ご自身は、自分の教えを何一つとして書き残すということはありませんでした。

お釈迦様が亡くなった後に、仏弟子たちが会合を持って、お釈迦様の教えを互いに学びあい、また後世に伝えるために編纂したのが仏教経典なのです。ですから、お経は「如是我聞」(私はこのように聞きました)という文言から始まっているわけです。

お経をあげること、写経をすること自体は悪いことではありませんが、本質を理解せず、それだけでよしとしてしまっているところに問題があります。

また、般若心経を万能のお経であるかのように信仰するのも正しい態度ではありません。

極楽浄土に行く条件

供養から少し横道にそれますが、大事なところですから、かいつまんで般若心経の意味を考えてみたいと思います。

「色即是空 空即是色」

というところが、誰でも知っているこのお経の一番有名なくだりですが、噛み砕いていえば、「現世で見たり聞いたりしたものは全て無い。無いということも無いぐらい何「も無いんだ」ということになります。

従って「一切の錯誤妄想から離れて軽やかな気持「ちになりなさい」ということを説いているわけです。すなわち、霊に対しては「この世の瑣末な事柄に執着せずに彼岸に渡りなさい」と言っているわけですが、普通は、音読したお経を聞いてもなかなかそこまでわからないでしょう。

般若心経に限らずお経というのは全文漢字で書かれていますから現代人には難しすぎるし、よほど学問の素養がある先祖でなければ理解できないのです。

最近では伝統的な仏教教団でも現代語訳の作業が行われ、現代の言葉で唱えることを勧めているところもありますが、それでも仏教の専門用語がたくさんあって、一読して理解できるものではありません。

この点はよく留意する必要があるのではないでしょうか。

ちなみに、深見東州氏は極楽浄土に行くための心のポイントとして、次の三点をあげています。

①温かい慈悲の心。

②執着を捨てた、軽やかな前向きの心。

③感謝の気持ちを持った明るい心。

つまり「温かく」「軽く」「明るく」という三拍子の心のあり様が大切なわけです。このうち「軽く」ということを実践する意味を説いているのが般若心経です。

執着を捨てて、明るく元気な気持ちでお亡くなりになれば、心が軽く浮かび上がっていきます。だからおのずといい霊界に行くことができる。また、現世を生きるうえにおいても、日頃そのような心がけで過ごしていくことが大切なわけです。

このような意味をよく理解したうえで、時おり般若心経をひもといて心の糧とすることはとても素晴らしいことです。般若心経に限らず、よく理解して読み下せば、お経というのは素晴らしい叡智の宝庫ということができるでしょう。

禁酒が続かなかった理由

最初に申し上げたように、誤った供養や供養のやりすぎは、かえって悪影響を及ぼすことがあります。

要は、先祖の気持ちや肉体を失った霊の特質を理解しながら、私たちの現実の生活との折り合いをつけていくことが一番のポイントです。

先祖を思い供養する気持ちは尊いものですが、人間としての日常の暮らしや市民生活を犠牲にしてまで仏壇を豪華に飾り立てたり、供養中心の生活を送る必要はありません。

私たちは決して先祖を供養するために生まれてきたわけではないのです。

優先すべきは生きている人間の現実の生活。ということで、今度はさらに一歩踏み込んで、生活に役立てる先祖供養というものを考えていきたいと思います。

先ほどからお話ししているように、位牌にかかる霊というのはご加護をお願いするような対象ではありませんが、生活の知恵で、それなりに使い道もあるわけです。

たとえば、お酒をやめたいと思っているのに、どうしてもやめられないという方。

よくお話をうかがうと、一年ぐらいは禁酒が続くのに、ある時期になるとどうしても我慢できなくなって、また飲み始めてしまうというケースがあるようです。

それもだいたい、お盆の頃か、あるいは、ある方の命日が近づくと決意が崩れてしまう。これは、まず霊が関係していると考えて間違いありません。

つまり、お酒の好きな先祖霊が、子孫に酒を飲ますことで、自分も一緒になっていい気分で酔っ払っていたわけです。

もちろん本人が鉄のような意志で、禁酒を貫けばこういう先祖は離れていくわけですが、そのあたり、血は争えないといいましょうか、因縁因果といいましょうか…………。そのまま放っておくと先祖の霊と合体して、アル中になってしまうこともあります。

そんな場合は、仏壇にお酒をお供えすることです。たとえばお祖父さんが結構な道楽者でお酒が大好きだったとしたら、命日が近づいてきたら、日頃好きだった大吟醸をお供えしてあげるのです。

愛用の湯飲みにでも注いであげれば大喜びでしょう。

この場合も、例の「海川山野のくさぐさものを横山のごとく」が応用できます。つまり、実際には一合の酒でも「どうぞ一升まるまるお飲みください」と言えば、霊界では一升になります。

こうすれば、酒飲みの先祖霊は子孫につくのはやめて、仏壇のほうに行くのです。霊が離れたら、後は本人の問題になりますが、お酒で苦しんでいる方は一度試してはいかがでしょうか。

仏壇ダイエットでスリムなバディになる!

この方法はいろいろ応用できると思います。禁煙をしたい人は、ヘビースモーカーだった先祖霊にタバコをお供えする。

この場合も、箱のまま置いても吸えませんから、ちゃんと箱から出して火を点けてあげてください。こうすれば、どうしてもやめられなかったタバコをやめることができるかもしれません。

あるいは、甘いものが大好きで、ついつい食べすぎて、最近お腹がたるみがちという方は「仏壇ダイエット」を試してみてはいかがでしょうか。

プチケーキ一切れでも、「海川山野のくさぐさものを横山のごとく」と言えば、カッティング前のケーキ丸ごと一台分になります。

甘いものが大好きでプクプク太っていたご先祖に心当たりがある方は、試してみる価値があるでしょう。

自分が大好きだった物を供えてもらえば、先祖は大喜びするわけですが、やはりこれは低いランクに行っている霊なのです。というのは、天国や中有霊界でも上のランクでは、欲しいと思ったものが何でもパッと手に入るからです。

甘いものが欲しいと思ったら、パッとケーキが出てくる。果物が欲しいなと思ったら、パッと果物が出てくる。専門的には表象能力といいますが、要するに思いが瞬時にして形になって現れる幸せな世界です。

逆に霊界もかなり下のランクになると、実はお供えを食べることも許されていない場合があります。たとえば餓鬼道にいる霊などは、目の前にお供え物があっても、食べようと思った瞬間にパッと消えてしまう。

「あっ、おにぎりだ」と思った瞬間にパッと消えてしまうのですから、最初からないよりもずっと苦しいですね。

ですから、これは一つの提案ですが、お盆のときなどは神仏に言別けて、次のようにお願いしてからお供えされるようにしたらいいと思います。

「神様、仏様、どうか霊界で苦しむ先祖霊や、食べたり飲んだりできない祖霊たちに、今回はお供え物を食べさせてあげてください、どうかお願いします」

このようにお願いすれば、ふだんはお供えを口にできずに苦しんでいる霊たちも、このときだけはお腹一杯ご馳走を食べることができるわけです。

先祖も家族の一員

ここまで本書をお読みいただいて、どのような感想をお持ちになったでしょうか。漠然とイメージしていた「ご先祖様」の概念が崩れて、戸惑っている方も多いかと思います。

「先祖っていうのは何てやっかいなものなんだろう」というのが正直なところかもしれません。

しかしながら、そういうご先祖があって今の自分がいるのです。生きている私たちだけが楽しくて、死んでしまった人や霊はどうでもいいというわけにはいきません。深見氏は次のように述べています。

「家族の中に誰か一人でも落ち込んで、辛い思いをしている人がいれば、家全体が暗い雰囲気になってしまうのと理屈は同じ。ご先祖の霊も家族の一員と考えるべきなのだ」

また、ご先祖というのは封建時代や戦前に生きていた方々ですから、先祖供養をしないのは人間じゃない、とそういう考えの持ち主が多いのです。

ですから、ご先祖に納得していただけるような供養をしてあげることが大切です。そうして納得したご先祖様が安心して霊界で修業ができるようになりますと、家の中のいざこざは自然に解消し、家族みんなの運が上向いていきます。

家庭内でトラブルが続いたり、人間関係がしっくり行かないという方は、これまでどのような供養の仕方をしていたかチェックしてみる必要があるのではないでしょうか。

すべての原因がご先祖にあるわけではありませんが、実際に私たちがお勧めしている先祖供養をはじめて、家の中が明るくなった、家族全員が良くなったという方がたくさんいらっしゃいます。

第3章 死んだらみんなホトケサマ? ── 死後の霊界

因縁って何だろう

先祖供養をはじめてから体の調子が良くなった、開運したという方はたくさんいらっしゃいます。

端的に言ってしまえば、そういう方はご先祖の中に、中有霊界の真ん中以下、もっといえば地獄に落ちた霊が結構いらっしゃった…ということになるでしょう。「ああ、なんて私は因縁が深いんだろう」

とおっしゃる方がいますが、そんなことはありません。霊界の法則を勉強する機会を得て、正しい供養をはじめられたということは、それだけで、かなり神仏の縁に恵まれた方だということができます。

「それにしても、なぜ自分はそういう先祖のもとに生まれたのか」という疑問をお持ちの方もいるかもしれません。そこに気が付いた人はエライ!これは非常に大切な問題です。根本的な問題と言ってもいいでしょう。

法は縁に従って生じ、縁に従って滅す。

物事にはすべて原因があり、縁に従って、結果が生じる。釈尊が説きあかした因果律ですが、これが一般に因縁とか因果、あるいは縁起と言われていることの正しい理解です。

物事にはすべて原因があるというとあたり前のようですが、因縁因果というものは、現実界のみならず霊界をも貫く宇宙の根本法則であって、すべてはこの原理のもとに動いているのです。

私たちの生は一回限りのものではなく、生まれ変わり死に変わり(輪廻転生)を繰り返しています。ということは、誰もが前世過去世の営みを経てきているわけです。

当然ながら前世において、善いこともしたし、悪いこともしてきたでしょう。

いずれにしても、すべてそれは一回の人生で完結するものではなく、因となって生じ、今世において何らかの結果(果報)となって現れてくるわけです。これが、私たち一人ひとりが持つ個人の因縁です。

私たちは、皆それぞれ違う環境の中に生まれてきたわけですが、それも決して偶然ではありません。

日本人に生まれたことも、現在の両親のもとに生まれたことも、すべては前世からの因縁なのです。つまり、私たちは、自分のカルマにふさわしい環境、先祖のもとに生まれてくるわけです。
 
どんな家にも代々伝わる家の因縁というものがあります。その家系の因縁もまた、自分の前世の生き方に原因があるのです。

それにしてもなぜ私たちは、しち面倒くさい因縁を引き受けながら、生まれ変わり死に変わりを繰り返さなくてはならないのでしょうか。

いえ、まずその前に死んだらいったいどうなるのか。ご先祖がいる霊界というのは、いったいどんなところなのか見ておくことにしましょう。

いずれ私たちも供養される立場になるわけですから、できるだけ子孫の手をわずらわせないように、できればいい霊界に行きたいものです。

臨終…まずしなければならないこと

日本の場合はどなたかが亡くなると、普通は家の宗派に従って一連の法要が営まれます。霊界の話に行く前に、基本的な知識として、まずは現実界のこの流れから押さえておくことにしましょう。

あたり前のことですが、人は死んでしまえば一切この世の事柄に直接タッチすることはできません。したがって、実際に体を動かしてあれこれ段取りをつけるのは遺族ということになります。

特に一家の中心にある人は、数日の間に忙しく動き回らなければなりません。悲しみにひたってばかりはいられないのです。

①死亡の通知
臨終を看取ったら、離れて暮らしている家族はもとより、親戚や故人に縁の深かった人など多方面にわたって死去したことを取り急ぎ知らせなければなりません。

昔は電報が使われましたが、今は電話のほうが自然でしょう。ただし、要件のみを簡潔に伝え、通夜に来れるかどうかなど先方の都合は聞かない慣習になっています。

②<枕経/b>
その間、遺体は頭を北に向けて仏間か座敷に安置します。枕もとには小さな机を置いて、白い布をかけ、香炉、花瓶、燭台を置きます。花瓶には花色花は避ける)を飾り、線香とろうそくの灯は絶やさないように灯し続けてください。

家の中が片付いて枕飾りが出来たら、檀那寺または近くのお寺に連絡してお経をあげていただくのが一般的です。これを枕経といいます。

③喪主・世話人の決定
遺族の代表として葬儀を主催する喪主を決めます。配偶者がいる場合は、妻なり夫が喪主となるのが自然ですが、習わしとして長男が務める場合も多いようです。喪主は故人に代わって葬儀を受ける立場とされています。

これに対して世話人(葬儀委員長)は、喪主や遺族と相談しながら実務的な準備を進める役目です。

④葬儀社への連絡
喪主を中心に遺族と世話人が相談して、おおまかな予算を立てたうえで、葬儀社に連絡します。もちろん、親戚や近所の方々の手で葬儀を取り仕切ってもいいのですが、そういうケースは最近は少なくなっているようです。

⑤役所への届出
葬儀というのは何かと細かな手配がいろいろ必要なものです。

どの範囲まで自分たちで必要な物を準備したり実務を行ったりできるかということを頭に置いたうえで、日取り、式場、金額等の面を含めて葬儀社と相談しながら進めるのが一般的です。お寺の問題についても、わからない場合は葬儀社で仲介してくれます。

戸籍法によると死亡届は死後一週間以内に出すことになっていますが、この届けを出すまでは「火葬許可書」が下りませんので、臨終を確認したら、なるべくすみやかに手続きをする必要があります。

用紙は死亡診断書と一組になっていますから、医師に必要事項を記載してもらい捺印してもらってください。死亡届のほうは届出人が記入捺印します。

届出は役所の執務時間外、休日でも受け付けています。届出の際、捨印が必要ですから印鑑(認印でよい)を持参するのを忘れないように。

通夜~葬儀~火葬の心得

臨終から葬儀までの間に営まれるのが通夜です。二夜を送る場合は、内輪だけで仮通夜を行い、翌日に一般の弔問客を迎えて本通夜を営むこともあります。

通夜はお寺さんの読経にはじまり、その間、喪主から順に参列者すべてが焼香します。席次についてはそれほどこだわる必要はありません。

この後、参列者をお酒や軽い食事でもてなすことが習いとなっており、これを「通夜振る舞い」と言います。

葬儀は一般に通夜の翌日に営まれることが多いのですが、遠方の親類の都合に配慮したり、「友引」を避けるなどの理由で多少ズレ込む場合もあります。

厳密にいえば、「葬儀」を行ってから「告別式」という順序ですが、現在では一般的にほとんど混用されているようです。式次第は葬儀社のアドバイスに従えば問題ないでしょう。

ただし、一つだけ気を付けていただきたいのは、焼香の順番です。何でもないことのようですが、結構気にする方がいらっしゃいますので、後々問題が残らないように、家の事情を考慮し、長老方に相談して順番を決めることをお勧めします。

また、花輪)を置く位置についても、故人との関係を考えて喪主と世話人が相談し、葬儀社の方に伝えておいたほうがよいでしょう。基本的には、棺に近いところから故人と血のつながりが深い順に、また関係が深い順に並べていくという順序があります。

総じて葬儀というものは、故人と社会とのかかわりを重視して考えるようにします。

もちろん葬儀というのは本来、死者の霊を弔い、送り出すことが一番大切なわけですが、同時に、ある人間が欠けた後の秩序を平穏に引き継ぐという社会的な側面も大切なことなのです。

さて、告別式終了後、故人と最後の対面(お別れ)をします。この時、お供物の活け花からめいめいが花を取って、棺の中に遺体を飾るように納めます。

そして、棺に蓋がされて喪主から順に「釘うちの儀礼」が行われ、最後に完全に打ち付けて出棺となります。

火葬場へは、遺体を乗せた霊柩車を先頭に、遺族、親族、友人などが別の車で供をして行きます。

そして、遺体は荼毘にふされ骨つぼに納められることになるわけですが、この際、参列者が二人一組となって、用意された箸を一ぜんずつ使って一片の骨を二人ではさんで納め、二、三片拾ったら次の人に渡すというのが一般的です。

すべて終了すると、係員が骨つぼを白木の箱に入れて、白い布に包んで渡してくれます。喪主は白木の位牌と骨つぼを持つのが一般的です。

この間、火葬場に同行しなかった人たちで、家の中を片付け、掃除をしてから遺骨を迎える祭壇(中陰壇)を用意します。枕飾りより一回り大きめの机を白い布で被って仏壇の前に置いてください。

この祭壇には、遺骨のほか、葬儀の際に使った白木の位牌、遺影を安置し、香やろうそく、花、供物などを供えます。

四十九日まで霊はこの世にとどまる

このように、臨終から通夜、葬儀・告別式と一連の儀式が行われますが、実はその一部始終を亡くなった方はしっかり見ています。

家族が悲しむ様子や生前親しかった人たちがお焼香をしているさまなどすべてを見ながら、「ああ、自分は死んだんだなあ」と自覚するわけです。

そこで、あっさりと納得して霊界へ行ってしまう方もいますが、現実界に未練がある場合は、しばらくの間、自分が死んだ後の家族の様子を気にして家の中をウロウロしたり、元の職場に近づいて得意先への引き継ぎがうまくいっているか確認したりしているわけです。

その間、一般に七日ごとに追善供養が行われます。日取りの数え方は地方によって違いがあり、関東では臨終の日から数えることが多く、関西では臨終の前日から数えはじめることが多いようです。

それぞれ七日目が初七日、次の日から七日目が二七日、以下一週間ごとに三七日、四七日、五七日と続き、七日×七の四十九日満中陰明け)には盛大に法要が営まれます。

これは仏説によると、七日ごとに七回、生前の功罪を問う審判があり、遺族が供養することで故人の罪が軽くなるという考え方があるからです。

おおむねその通りですが、先に述べたように自覚と悟りが早い方はこの限りではありません。つまりこれは、裁判所から「五十日以内に出頭せよ」という命令を受けたようなものだと理解すればいいでしょう。

霊界では書類審査が進められていますが、とりあえず四十九日までは、この世にとどまることが許されているわけです。四十九日までの七週間は中陰と呼ばれ、昔はこの期間、家族は喪に服していました。

現在はそこまでやる人は少ないと思います。むしろ、家族はそれぞれ、なるべく早く日常の生活に戻ったほうがいいのです。ただし、祭壇は四十九日までそこにそのまま設置しておきます。

納骨の時期は土地の風習によって違いますが、四十九日の法要後に埋葬する場合が多いようです。お墓がない場合でも、いつまでもお骨を手元に置かずに、お寺に預かってもらうことをお勧めします。

また、白木の位牌も四十九日が過ぎたらお寺に納めておきあげをしてもらいます。その間に本位牌を準備するのを忘れないようにしてください。

遺言の勧め

病気で長く思っていた場合等を除いて、人の死というのは思いがけず突然にやって来るものです。自分だけは例外ということはあり得ないことはおわかりでしょう。

けれども、たいていの人はまったく何の準備もないまま、あっけなく逝ってしまいます。死んでから慌てることが実際多いのです。

ひどい場合は、お迎えがきても気が付かなかったり、霊界に行く方法がわからずフラフラとこの世をさまよい続ける霊もいます。そうならないためには、死後行く霊界の実際の様子をある程度イメージできるようにしておくことです。

年中そんなことばかり考えている必要はありませんが、一通りのことは知っておくべきでしょう。

そしてもう一つには、自分が死んだ後で生じるであろう現実的な問題について、あらかじめ自分の意志を明確にしておくということも場合によっては必要になります。

家族や周囲の人に常々語っておけば一番いいのですが、「縁起でもないこと言わないで」と煙たがられることもありますので、書き残しておくほうが確実でしょう。それが遺言です。

遺言というと普通、遺産分割に関することを記すものという印象がありますが、形式も内容も基本的に自由です。子どもに人生の教訓を述べてもいいし、自分が死んだ後のペットや植木の世話のこと、葬儀の形式など、気になることは何でも書き残しておけばいいのです。

一〇〇パーセント必ずその通りに処理されるとは限りませんが、故人の残した言葉というのは重く受け止められるものです。

とにかく、死んだ後で「あっ、あれを言っておくんだった」という気持ちを残さないことが大切です。現実界に気がかりなことがあればあるほど、霊はあの世に旅立ちにくいものです。

遺言は、未成年でも十五歳以上なら誰でもすることができます(親の同意は必要ありません)。自分で書いて署名捺印すれば、それだけで法的にも効力を生じますが、財産問題などで懸案の事項がある場合は公正証書による方法でもできます。

聴覚または言語機能に障害のある方も、手話通訳や筆談によって公正証書遺言をすることが可能です。詳しくはもよりの公証役場にお問い合わせください。

三途の川の向こうには

さて、四十九日を過ぎて五十日目に、亡くなった方(以下、霊と呼びます)は、さまざまな思いを引きずりながらも、いよいよあの世(幽界=天の八衢)への旅立ちということになります。

戸惑うことも多いと思いますが、ガイド役の仏様がお迎えに来ますから、後はその指示に従えばよいのです。

天の八衢の入り口は野原になっており、そこをどんどん歩いていくと川にたどり着きます。これが有名な三途の川です。

ここで通常、霊は上・中・下の三段階に振り分けられますが、他に一途の川というのもあります。生前の行いがあまりに明白で、即天国あるいは即地獄に行く霊が渡る川で、普通の霊(普通に善いことも悪いこともした人)は三途の川に着きます。

川のほとりには”奪衣婆”といういかついオバサンがいて、白い着物に着替えさせられますので、素直に指示に従います(抵抗しても無理やり着替えさせられます)。

なぜ白い着物に着替えるのかというと、実は川を渡っていくうちに着物に色が付いてくるのです。生前善徳を積んだ人は紫色、罪深い人は赤黒い色、真心のあった人は紫や青、金銭欲の強かった人は黒やこげ茶・・・・・・。

ザブザブと歩いて川を渡っていくうちに、だんだん着物が染まっていきます。そして川を渡りきったところで、その色によっておおまかに振り分けられるわけです。

その後は、皆さんご存じのようにエンマ大王によるジャッジメントが待っています。

ここで、天国に行くか、地獄行きになるか、あるいはその中間の中有霊界に行くことになるか、生前の行いによって判定を受けるわけです。

基本的な判定方法は、生前積んできた徳分との集計によるものです。徳というのはプラスポイントで、善なる行いによって蓄積されます。

よく「天の蔵に徳を積む」と言いますが、世のため人のために一生懸命尽くした行為は、たとえ社会的な評価を受けなかったとしても、ちゃんとエンマ大王のコンピューターにデータが蓄積されているわけです。

逆に、自分勝手な振る舞いで人に迷惑を掛けたことは、劫というマイナス要因として記録されています。

ですから、一応申し開きの機会は与えられますが、嘘や黙秘は一切通用しません。この世ではうまく逃げ回っていた人も一喝されて地獄行きということになりますから、悪いことをすれば、結局は己の身に降り掛かってくるわけです。

幽界での修業のテーマ

このようにエンマ様の厳正な裁定によって、霊はそれぞれ行くべき霊界が決定します。ただし、判決はすぐに執行されるのではなく約三十年間の猶予期間があります。

その間は幽界にとどまり、ある程度現世との交流が認められるのは前章までにお話しした通りです。

そして、ここが大切なところですが、この期間中に生前の行いを反省し悔い改めれば、罪が軽減されるのです。

つまり地獄行きの判決を受けたとしても、この期間中に心から改心すれば、罪一等が減じられて中有霊界あたりに行くことが許される場合があるわけです。

地獄の刑罰というのは、決して生前の罪に対する報復的な措置ではありません。懲罰主義ではなく、あくまで自らの犯した罪の重さを認識させるために科せられる教育的な措置なのです。

因果の法則に則って、人を苦しめた報いは自分が苦しむことによってしかわれないとしても、それは必ずしも地獄の責め苦という形でなくてもいい。

たとえば、来世生まれ変わって、世のため人のために尽くす決意をする。自分を犠牲にして苦しみながら、そうした生き方を貫くことによって劫を清算するという方法もあるわけです。

そのような面からも幽界での修業の期間というのは重要な意味を持っています。人間、死んでからはじめて気が付くことも多いものです。自分がいなくなった後の評判や家族の暮らしぶりなどを見て感じるものもあるでしょう。

ところで、霊がかかる位牌には、一般に生前の名前ではなく戒名が刻まれています。仏門に帰依して新しい生活を送る人に与えられるのが戒名ですから、生きている間に決めてつけるのが本来の形です。

戒名とは、文字通り「戒める名前」で修業のテーマを表すものでした。現代では死んでからいただくことがほとんどですが、ならば当然、幽界での三十年間の修業のテーマがその名前に表されていなくてはなりません。

そういう深い意味があるわけですが、実際はお寺のお坊さんが「戒名のつけ方辞典」を片手に霊界での意味などまったく考えずにつけることが多くなっています。

しかも、本来の意味を離れて、お布施の多い少ないで死者の霊格を決めているのが嘆かわしい現状です。

お墓の問題

故人が幽界での修業に励み出したころ、現世では、そろそろ家族も悲しみから立ち直ってそれぞれの生活に戻っていることでしょう。四十九日あるいは百日の法要が済んだら、次に控えているのがお墓の問題です。

第1章で触れたように、人は死んで墓に入るわけではありませんが、お墓のことを気にして様子を見に行く霊も結構多いので、一応安心させてあげる必要があります。

第1章では、とりあえず檀那寺にお骨を預けておくことができると述べましたが、しかし、あまりにいつまでもお骨を寺に預けっぱなしにしていると、ご先祖の戒告を受ける場合もあるのです。

すでにお墓を所有しているご家庭、また本家があってそのお墓に埋葬できることになっている場合は問題ありません。

しかし、新たに購入しなければならない場合、お墓というのは仏壇とは違って、思い立ったらすぐ購入できるというものではありません。費用もかなりの額が必要です。

永代使用料や墓石のほかに、お墓の周りを固める巻石の工事代も必要ですし、人気が高い都市周辺部の霊園は抽選になっていることも多いようです。

こうした事情は、これも言別けて、仏壇に向かってちゃんと説明しておくべきでしょう。

「お父さんのお墓を立ててあげたいんだけど、こういう家の事情で来年の秋ぐらいになりそうだから、それまで我慢してください」と言っておけば、霊もひとまず安心します。

遺骨を埋葬するにあたって、正式な墓石ができあがるまで木標(木製の墓標)を立てることもありますが、その場合も一応お断りしておくべきでしょう。

お墓についての基本的な考え方は第1章で述べた通りですが、人には人相、家には家相があるように、墓には墓相というものがあって、確かにこれは子孫に影響を及ぼすことがあります。

代々女の子しか生まれない、男の子しか生まれない、親戚縁者の中で同じ病気を患うことが多いというような場合はお墓に問題のあるケースが少なくありません。

気にすればするほど大きく影響が出ますから、心当たりのある方は専門家に相談されたほうがいいでしょう。一説によると、龍穴にお墓をつくると子孫が栄えていくと言われています。

原則としてごくオーソドックスでシンプルなお墓ならば、それほど大きな問題はないはずです。小さすぎる墓、自然石を使った墓、奇をてらった形の墓などは凶相とされています。

また、立派すぎる墓も実はよくないのです。もともと名のある家で先祖代々の墓が立派なものならいいのですが、たいした家柄でもないのに(失礼!)

子孫が成功して、ゆくゆく自分が入る時のことを考えて灯籠を置いたり五輪塔を建てたりすると、とたんに家の中にトラブルが起こるケースがあります。

理由は第1章の仏壇のところで述べたのと同じことで、つまり先祖が霊界で恥をかいているわけです。

最後に、お墓について大事なことは、お亡くなりになった人はお骨はお墓にあっても霊魂は霊界に旅立って、普段は霊界で修業をしているということを認識していなければならないということです。

というのも、「死んだらお墓に入る」という意識でいますと、お墓の浮遊霊になるからです。とくに、「わしが死んだらお墓を守ってくれよ」と言い残してお亡くなりになった方などの場合は要注意です。

だから、子孫は、お亡くなりになった方に次のように言って聞かせることが必要です。「おばあちゃんは、死んでお墓にいるわけではないのですよ。

私たちがお墓まいりに行ったときだけお墓に来るのであって、普段は霊界で修業していらっしゃるのですよ」と。

地獄に映し出される心の闇

さて、幽界での修業の様子も考慮されながら、おおむね三十年の期間を過ぎると、霊はそれぞれの霊界に行くことになります。いよいよこれから、本格的な霊界修業がはじまるわけです。

先に述べたように、霊界は天国と地獄、その中間の中有霊界の三つに分かれますが、さらにそれぞれが三段階に分かれ、細かく見ればもっといろんなランクがあります。

地獄を例にとれば、第一地獄、第二地獄、第三地獄とあって、さらにそれぞれが十六ランクぐらいに分かれているのです。”釜茹で地獄””針山地獄””血の池地獄”などの様子は聞いたことがあると思いますが、だいたいそのイメージで考えていただけばいいでしょう。

ただ、現世が時代につれて様変わりしていくように、霊界も刻一刻と変化しているので、地獄の責め苦も古典的なものにとどまらず、いろいろ新しいバリエーションが生まれています。

逆にいえば、こうした地獄のあり様というのは、天地創造以来もともとあったものではなく、人間が長い間にわたって、自らの悪しき想念と行いで形成してきたものなのです。

確かに裁きはありますが、別の角度からいえば、それぞれ自分の心のあり様を映し出した世界の中でもがき苦しんでいるのだということを知っておいていただきたいと思います。

原則として霊界というのは、下に行けば行くほど寒くなり、また暗くなります。温かい空気が自然に上にあがっていくのと同じことで、心が明るく温かい人は上に行き、暗く冷たい人は下に行く。

そういう原理が働いているのです。