はじめに
本書を手に取られた皆さまの大部分は、神仏の世界に少なからぬ関心をお持ちの方々に違いない。少なくとも、神仏の存在をインチキだと頭から否定するような方々ではないと思う。
けれども、神仏に興味を持ち、かつ信仰していらっしゃる方でも、その働きやご守護を実際に感じている方となると、どのくらいいらっしゃるだろうか。
人生の中では、ごくまれに、神仏のご守護を実感するような出来事が起こる場合があるかもしれない。しかし、そういう体験はそうそう多くはないだろう。日々の生活の中で、神仏を身近に感じている人は、やはり少数派であろう。
どちらかといえば、神仏を遠い存在、あるいは心の中だけの存在と思っている人がまだまだ多いのではないだろうか。
しかし、それではあまりにももったいない。神仏とは単なる概念や心の支えだけではないのだ。それは目には見えなくても、確かに実在し、その働きを実生活に活用することが可能なのだ。
では、いったいどうすれば、実在の神仏を身近に感じ、現実の生活に活用できるのか。
本書は、その方法を具体的に明かした書物である。読者の皆さまが、本書の内容を仕事や勉強、日々の生活に活かし、ますます幸せな人生を送られることを願ってやまない。
平成十四年九月吉日
深見東州
【第一章】実在の神を掌握するために
宗教団体に入っていた人の長所
どうすれば実在の神を実感することができるのか。
最初にお断りしておくが、宗教団体に入っていれば神様に近い、とは限らない。逆に、特定の宗教に入っていなくても、信仰心があって、神仏に愛されている人もいる。
しかし、宗教団体に入っている人、あるいは入っていた人にとって、その体験が全く無駄であったかというと、そうとも限らない。
実在の神を体験するためのお話に入る前に、まずは、宗教団体に入っていた人、入っ経験のない人のそれぞれの長所短所というところから話を始めたい。
戦後の宗教で大きな勢力を誇る宗教団体は、大きく分けて大本教系統の新興宗教か、日蓮宗系の新興宗教に分けられる。
大本教系といえば、○○の家、世界○○教、文明教団他の神道系。日蓮宗系といえば、△□学会、○正成会、○友会などの仏教系。
私は、後で詳述するように、「神人合一」の道を学ぶ、ワールドメイトという会を主宰している。ワールドメイトに入会される方々の中にも、右記のような宗教団体を経てきた方々が大勢いらっしゃる。
①感謝の心
私はいろいろな方々を見て思うのだが、宗教団体を経てきた人には、次に述べるような幾つかのいい所がある。
宗教団体に入っていた方のまず第一の長所は、感謝の心を持っていることだ。この感謝の心というものは、今の日本の社会ではなかなか持ちにくい。
昔は、修身の授業とか、あるいは家庭のしつけの中で感謝の大切さを教えられたものだ。
今でも、おじいさんおばあさんやご両親が、社会の恩に対する道徳心を持っていて、「人様のおかげで生きているのですよ、感謝しないといけませんよ」としつけられた人もいるかもしれないが、その数は少数だろう。
やはり、宗教団体に入って教えられた人が多い。感謝の心を持ってはいけないと教える宗教団体は皆無である。
②奉仕の精神
次に奉仕の精神、これも宗教団体を経てきた人が身につけている良い点である。
これもまた、昔は修身の授業、家庭のしつけ、また丁稚奉公などで教えられたことだが、今は、学校の先生が「社会にご奉仕しなさい」「人様にご奉仕しなさい」とはまず教えない。
クラブ活動でも「ご奉仕」とは言わない。やはり、どこかの宗教団体に入っていた人が身につけていることが多い。
多かれ少なかれ、宗教団体には「ご奉仕」の活動があったはず。ご奉仕するなという宗教団体はない。
奉仕とは、仕え奉ることであり、無償の行為であり、体施、物施、法施に分けられる。体施とは、体で行う施し。物施とは、お金や物品で行う施し。法施とは、口を使って人に教えを弘めていく施し。
さらに「施無畏」というものがあるが、これは、「畏れ無きを施す」、すなわち安心立命を与えるという観音様の施しである。この四つの施しはいずれも奉仕である。
ただし、慈善をしなければならない、だからする、というのは偽善行為である。先に述べた、感謝の心があって極まって、奉仕の心が芽生え、そして具体的な施しを行うというのが正しいあり方である。
③礼節
このことが、宗教団体に入ったことがない人にはなかなか理解しにくい。お金は出したくない、体は使いたくない、人に勧めるのは恥ずかしい、でも運は良くなりたい。それはムシがよすぎるというものだ。
運を左右する業とは、そんなに簡単に晴れるものではない。
私は、少しでも人々の苦しみを救うために、いろいろと神法を研究しているが、善因善果・悪因悪果の天地の法則は神様がお決めになったことである。
神様のご許可なしに、この法則から外れた救済はできない。大難を小難に、小難を無難にまつり変えるのが精一杯なのである。
前世の業や家代々のカルマは、神仏を拝んでいるだけでは決して晴れるものではない。やはり、何らかの奉仕が必要になってくる。
宗教団体に入って身につく第三の良い点は、礼節である。どこの宗教団体でも、教祖様をはじめ、支部長様、教会長様、先輩に対しての礼節をしつけられる。
神様に対してはもちろんである。「神様に無礼でありなさい」と教える宗教団体はない。
④神仏第一主義
この礼儀についても、最近の学校教育ではあまり言わなくなったが、目上に対して礼を尽くす、順序を守るということは決して間違っていない。
人が二名以上集まれば、そこに組織ができる。組織には必ず矛盾が起きるものである。問題点のない組織はない。
夫婦、親子関係でさえ矛盾がある。従業員が数名の会社でも派閥闘争がある。
宗教団体においても、それは避けられぬ現象として存在する。だからこそ、礼節が必要になる。尊敬できるキャラクターであろうとなかろうと、お辞儀をきちんとするという礼節。
人が二名以上集まっているのが「仁」である。仁の中の礼、仁の中の義、すべて仁の中にある。仁とは何か、それは愛であり、思いやりであり、信頼である。
礼節によってこの仁が守られ、組織が維持できる。宗教団体では、礼節とかマナーを比較的身につけやすい。
神様や仏様を第一に考えて行動する。この神仏第一主義が、宗教団体を経験した人の第四の長所だ。もちろん、神様事だけでは世の中を生きていくことはできない。
仕事あり、デートあり、家庭サービスあり、なにかと忙しい。
「神仏第一主義」とは、こうした日々の営みをおろそかにすることではない。では、どういうことなのだろうか。
例えば、ご飯が炊けたら、まず仏壇に供える。家に帰ったら、まず最初に神前に挨拶をする。順序として、神様や仏様を第一にすること。
その次がお父さんやお母さん、家族なのだ。こういう習慣が、教えの云々にかかわらず、宗教団体に共通した良い点だ。
逆に、宗教に入っていなかった人はこういうところがなかなか極まっていない。しかし、皆さんが神様だったらどうだろう。
礼節を持って自分を第一に考えてくれている人と、そうでない人のどちらをより守護するだろうか。
「おお、よしよし。よくぞわしを二の次に扱ってくれた。うれしいぞ」とは決して言わないはず。
やはり神様は、神様第一主義で行動している人間をより愛しく思うのである。ゆえに、神様第一主義の人は業も早く晴れ、自然と生活面のあらゆることが整ってくる。
以上のように、感謝、奉仕の精神、礼節、神仏第一主義といった姿勢を、宗教団体で体得されたことは素晴らしいことだと思う。
宗教遍歴のある人の問題点
次に、宗教遍歴のある方の問題点についてお話ししたい。それは何か。固定的な宗教観念を身につけていることである。
これが実在の神を実感し、神人合一を目指す修業の妨げとなりやすい。
各団体それぞれに教えがあり個性がある。仏教系の団体ならば、何でも悪いのは、悪因縁のせいにする。人間には、確かにそういう要素もあるが、それがすべてではない。
本人の努力が足りない、頭が良くない、要領が悪いなど、常識的、客観的に見たらすぐ解決するのに、ありのままに考えることができない。
宗教的な教義の色のついたフィルターを通して見てしまうのである。
「先生、私って因縁が深いでしょう。子供の頃から苦労続きでして」
仏教系の団体にいた人は、必ずこう言ってくる。
私は正直に答えている。
「いや、大したことありませんよ。あなたは比較的軽いほうです。もっと大変な人がいっぱいいますよ」
「いや、そんなはずは因縁、深いですよ、うちは」
「いやいや、大したことありません」
「そうですか……」と、その人は不服そうな顔をする。こういう人は、因縁が深いと思い込み、悪因縁を解消するのを信仰の支えとしている。だから、軽いほうだと言われるとがっかりするのだ。
また、例えば、左のまぶたが二重だが右は一重、このバランスの悪さを嘆くなら、整形手術をするかどちらか片方にテープを貼れば簡単に解消できる。
それを、右が一重なのは先祖の戒告、霊障、因縁と考えてしまう。こういった思考習慣は社会性を大きく損なうものであり、正しい教えに出会っても、偏って吸収したり、受け入れられなかったりするものである。
そのため、私が講義で全く新しい(実は真実の正しい教えなのだが)ことを話したとしても、己の宗教観念によりねじ曲げた解釈をしてしまうのである。
こういう点では、宗教経験のない人のほうが素直に吸収できる。
だから、新たな道を求めて本書を購入なさったそう言ってそう方、また私の主宰するワールドメイトに入会されて、私のところで新たな道を学ぼうとされる方は、まずは過去の宗教観念を捨てよう。
そうでなければ、実在の神を掌握し、それを実践する「神人合一」の道にはほど遠い。
各団体には、そこ独特の用語がある。過去の宗教観念を捨てるためにも、今まで使っていた独特の用語を普通に使用している用語に改めることから始めるのも良いだろう。
実在の神を掌握する
ここで私の主宰するワールドメイトについて簡単に説明しておこう。
ワールドメイトは明るく伸びやかに神様の道を学び、人生で幸せを実現していこうという人たちの集まりである。
現代にマッチした新しいフィーリングで、神様の御心を広く世に知らせ、個人も社会もより良くしていこうというのが設立の主旨である。
その中心的なテーマは、
一、実在の神を掌握すること。
一、神を行ずること。
一、神人合一の道を極めること。
の三点である。
ワールドメイトの秘儀では、実際に神様や仏様を次々にお呼びし、その繊細微妙な「神気」の違いを学んでいる。
観世音菩薩様の「気」はこれ。蔵王権現様の「気」はこれ。箱根大神様の「気」はこれ……といった具合に、皆で体感するのだ。
実際にご神霊が降りてこられた時の、すずやかで、すがすがしく、何とも言えないほのぼのとした「神気」を感じれば、人の頭で「神様はこうあるべきだ」などと理屈をこねるのが、いかに観念に固められた信仰だったかすぐに分かる。教理教論を学ぶのが信 仰ではないのだ。
この実在の神を掌握し、掌握したら日常生活において実践する、これがワールドメイトに降ろされた道である。
すなわち、神人合一の道が私の師匠である植松愛子先生を通して降りているのである。
教えを通して道を学ぶ
ワールドメは教えを勉強するところではない。教えを通して道を勉強するのである。
「中庸」に次のような言葉がある。
「中は天下の大本にして和は天下の達道なり」(「中庸」では「和」は「わ」ではなく、「か」と読む。)
「中和致して天地位し、万物を育す」
「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。発して皆節に中る。これを和と謂う」「中」を「あたる」と読んでいるところが重要だ。
ふだんは道の状態に似て、教えも形もない、人間の喜怒哀楽が出てくる前の道という存在。それが一たび発すると、ピシッと中心に当たる。
激しくするときには激しく、やさしくするときにはやさしく、中は偏りなき道という存在。そして、機に触れて出てきた言葉が教えとなる。
これを理解できないと、矛盾に頭を悩ましてしまうのである。
それぞれ状況が違うのだから、状況に合わせた教えが出てくる。ある人には激しく、ある人にはやさしく、ある人にはもっとおおらかに、ある人にはもっと細やかに。
こうも言えばああも言う。それぞれ矛盾している。教えを信奉すれば、必ず矛盾にぶつかる。
しかし、そんなことはどうでもいい。道が本質なのである。道の中に、神の息吹があり、存在があり、功徳がある。
その法則性とポイントを踏まえれば、相手を生かさんがために、救わんがために、おのずから生きた教えが出せるのである。
皆さま方には、こういう賢人になって欲しいと願う。
宇宙創造神を心に置く
私が言う神とは、キリスト教的な神ではなく、仏教的な仏様の悟りというものでもない。
絶対の宇宙の主神(素神とか
神とも記される)。
姿なく形なく、始めなく終わりなく、無限絶対無始無終。この神様を心の中心に置いて神人合一の道を学んでいくのである。
絶対神道の中心に置いているがゆえに、儒教でも、キリスト教でも、仏教でも何でも勉強できる。非常に便利である。
仏教系の団体では、神道やキリスト教を学べるものではない。
キリスト教系では神道や仏教を学びにくい。ところが、ワールドメイトでは素の神を中心に置いているために、宗派を超えて、自由自在にいいものを吸収できるのだ。
キリスト教を勉強してきた人には、神様は非常に男性的で厳しいという観念がある。神様という存在は、言うことを聞かなければ徹底的に人間を戒める。
「旧約聖書」のエデンの園のあがないは、女は出産、男は労働という形で課せられた、というように、厳しい掟や摂理がある。
しかし、われわれが学ぶ惟神の道の神様は非常に明るく、発展的である。惟神の道が根づいている日本においては、出産というものにしても、確かにその作業は苦しいものであるが、あがないだとはしていない。
新しい生命が生まれるという喜びをかみしめ、苦しみを楽しんでいる。労働にしても、働くことを喜びとしている。だから日本人は働き者なのである。
それはさておき、神人合一の道を学ぶ上でまず大事なのは、キリスト教や仏教など特定の教えの観念を捨てること。
まずこれをしなければ、神様を体験できない。実在の神を掌握するといっても、体験しなければ掌握できるものではない。
神と神霊界の実体
それでは素(
)の大神様と神々の世界はどのような関係で成り立っているのだろうか。
無限絶対無始無終であられる宇宙の素神は、姿形はない。しかし、働きの次元になってきたら、姿、形、色、光がある。それら、働きの次元の神々が、後で詳述する産土神であり、仏様なのである。
仏教一本で来られた方には理解し難いかもしれないが、どうか観念を破ってお読みいただきたい。
有限なる人間が無限絶対の神様を理解するのは不可能である。そのため神様は人間に分かりやすいように、法則性とか理というものを極めて仏教教理を出し、仏様としての姿で出られるのである。
これをようやくこの時代に明かされたのが、植松先生である。つまり、仏様は神様の一部なのである。
仏様ばかりではない。地獄の鬼、あれらすべて、素の神直系の正神界の神々が姿を変えてやっているのである。
鬼の正体も神様とは信じ難いだろうが、これにも実は重要な理由がある。
皆さんならどうだろうか。ああいう汚れ仕事をやってみたいだろうか。血の池や針の山へ地獄囚を放り投げ、トゲトゲの金棒でバンバン叩くようなご用をしたいという人はいないだろう。
同じご用なら、小湊清澄寺で、日蓮が「日本第一の智恵者とならしめ
たまえ」と祈ったときに、「汝にこの珠を渡そう」と言って現れた虚空蔵菩薩の役目のほうをやりたいはずだ。
しかし、汚れ仕事とはいえ誰かがしなければならない。そこで最高神の直系の神々が、一番汚い仕事もなさっているのである。素神というのは、いかに愛が大きいかお分かりだろう。
神霊界は、親神なる素神を頂点に、一糸乱れぬピラミッド型になっていて、下の神々はみな、素の大神様に対する大御心と天の理に基づく生きざまに徹底しておられる。
そのご褒美として、素の大神様から愛をいただく。ゆえに地獄の鬼も感謝し喜びながらやっている。
決して恨みの心で地獄囚をいじめているのではなく、少しでも早く改心するよう、まさに心を鬼にして励んでおられるのである。
鬼たちばかりではない。守護霊、守護神、仏様、産土神。皆、素の大神様に対する奉仕の心で、人類のために働いてくださっているのだ。
その褒美として、素の大神様の愛の霊流を受けて歓喜をいただく。
これが神霊界の実像である。もうお気づきだろう。
そのとおり。素の大神様に対する姿勢という点からすれば、われわれ人間も神仏と同じ立場なのである。
神を行ずるということ
次に神を行ずるにあたっての姿勢を述べたい。
今の時代に神を行ずるためには、社会人として、常識人としての道を踏まえた上でなければ通用しない。
神様の世界とか霊界のことにはやたらに詳しくても、現実の社会性がなかったら、それは偏りである。
神様は、現実界もお創りになられたのだ。
とくに、惟神の神道は現実界を尊重する。こう言うと現世利益に走りがちだが、現世利益だけというのが問題なのであって、神人合一しようと思ったら、素晴らしき感性プラス現実界がピシッとできていなければならない。
諸葛孔明、楠木正成、菅原道真らの人生の足跡を見ればお分かりのように、みんな素晴らしい芸術性と学問と生きざまが一貫して至誠を貫き通している。
神様は、この現実界が具体的に素晴らしくなるように願って仕組みを降ろされているのであり、神様事だけをやるようには望んではおられない。
本当の意味での神様事(神業)というのは、現実界の行いもすべて含んでのことである。すなわち、万能の人にな修業も大切なテーマだ。
だから、私はワールドメイトで神業を行うかたわら、現実界で事業に携わり、皆さんと同じように汗水流して仕事をしているので、とても頭が一つでは足りない。九つ頭の九頭龍神のようになって、人を育てざるを得ない。
ゆえにますます万能性に磨きがかかるのである。
一方で、現実界のみで生きている人は、世の中のことは詳しくとも、神様の世界の仕組みについては、あまり興味を持たない。これもまた片手落ちなのである。
万能性の奥にあるものは、「伊都能売の働き」である。神霊界のことが分かり、魂の錬磨に生きていることが縦にあり、それをこの社会の常識と礼節を踏まえた上で(横である)世の中に神を行じてゆく。
この縦と横がしっかり十字に組んで働くことを、専門的な言葉で「伊都能売の働き」というのである。その十字の中心にくるものが「中」。
中とは妙。妙を進めれば玄。玄々微妙の一厘が中心の留め金となって、縦横の働きが円滑に回転している。
これを表したのが、神霊集中マーク「○」であり、あの中心にある点が素の大神様である。
今の時代はこの働きを以って、神を行じていかなければ世の中に通用しないのである。宗教だけをやっていてもだめなのである。
世の中はこうして良くしていく
現実の世の中は、人間が動かなければならない。世の中はモチはモチ屋であり、それぞれの分野で、才能のある人間が良くしていけばいい。
例えば、弘法大師は宗教家であったが、芸術にも精通した天才であった。こういう万能の神人が政治の世界にも、科学の世界にも、芸術の世界にもいて、それぞれが良くしていけばいい。
ワールドメイトの会員は、弘法大師のような万能性を持った、社会的にも大いなる実力を発揮する人間になるための勉強をしているわけであるが、そうなるまでには時間がかかる。
もちろん、修業とは一生続くものであるが、その速度を速めることができる。
これが、「御魂返しの法」というものであり、禅宗でいうところの「見性成仏」の新しいパターンであり、眠っている才能や素質に一厘を足して開花させる秘儀である。
例えば、私が講演会や神業で行う「問答」は、この御魂返しの秘儀の一つであり、ま普通の会話の中でも行うことができる。
過去の定例講演でのゲスト対談を記録した「深見東州爆笑対談」(たちばな出版刊)という書物を見ればお分かりのように、相手の足りないところをスパッと返してあげると、誰でもあっと驚く。
そして観念が外れ、新しいものの考え方ができるようになる。
私の主宰するワールドメイトを一つのベースにして、社会の有用な方々に神様のお取次ぎをしていくのが私の使命である。
小乗仏教では、仏様イコールお釈迦様。大乗仏教では、完成された人格のことを仏様としている。
ゆえに大乗仏教は、生まれ変わり死に変わりして、より完成された仏様になるために修業しようという思想がある。
ところが、平安時代にわが国に伝えられた密教では、そんなに時間をかけずとも、密教をやれば簡単にできるとした。
これが弘法大師と真言密教のユニークで素晴らしかったところである。
しかし、密教は平安時代から全く変わっていない。そこで出口王仁三郎が新しい時代のものとして、神道霊学を体系づけて花を咲かせたように、また新しい時代の神法がワールドメイトに降ろされているのである。
松・竹・梅のレベル
さて、ワールドメイトで神人合一の道を学ぼうとして入会される方々にもいろいろなレベルがある。そのレベルを今から述べるように、松竹梅の三段階に分けて私は考えている。
■ 松のレベル
松のレベルとは、救いを待つ会員。混乱しているのを安定させて欲しい。常磐松のように安心立命が得たい。しかし、この苦しみを救って欲しいという願いは無理もない。
例えば、歯痛や頭痛で苦しんでいては人類救済どころではないだろう。そういうときに自分のことしか考えられなくても、神様はとがめたりはなさらない。救ってあげようと思っていらっしゃる。
そのためにさまざまな「祈祷会」(いろいろな神様に降臨していただくことによって、参加者がさまざまな奇跡や能力やお蔭を授かる秘儀の会)を開催している。大いに参加されればよいと思う。
■ 竹のレベル
竹のレベルとは、病気でもなく生活も困っていないが、神様や道のことに興味があり勉強したいという会員。青竹のようにすくすくと自分を伸ばして行きたいという方々だ。
■ 梅のレベル
この上にあるのが梅のレベル。これは、神様のご用にお仕えしたい、そして世のため人のために役立ちたいという会員である。
梅は、冬の寒い時期に花を咲かせる。すなわち、厳しい試練と己の錬磨の中で清らかに咲く。天界の花であり、神の教えという意味がある。
菅原道真公が梅をこよなく愛されたのは、この理由があるからだ。白梅は悟りの智恵、紅梅が現実界に表現できる智恵を表している。
このように、松竹梅の三つのレベルがあるわけだが、梅の気持ちでありながら竹を持って根強く松(待つ)という「松竹梅」の人もいれば、松竹、松と梅、竹と梅、あるいは松だけ、竹だけの人もいる。梅の中にも梅中の梅。
さらに梅中の梅中の梅・・・・・・会員さんにはいろいろなレベルがある。
ワールドメイトの活動内容は、この三つの段階が出されて成っているわけだが、やはりいつまでも松ではいけない。
いつまでも竹でもいけない。やはり梅のレベルにならなければ、神様はお喜びにならないのである。
松竹のレベルの人は、梅のレベルに向かって進歩向上していただきたい。
また、すでに梅のレベルに入っている会員さんも、ますます御魂の完成に精進し、梅中の梅になっていただきたいと思っている。
神人合一の道
ところで、神人合一というと、瞑想をしたり、滝に打たれたりして、霊能力を開いていくというイメージを持たれるかもしれないが、ワールドメイトではこのような修業法を一切行っていない。
あくまでも生活に根ざした修業を基本に据えているということをおことわりしておきたい。
「神人合一は生活に応用できなければ意味がない」というのが、植松先生の教えである。
例えば、神人合一している人とはどのような人か。芸術の世界では、ミケランジェロやダ・ヴィンチのような万能の天才。
宗教家では聖徳太子や弘法大師。超能力の世界では、モーゼが一番で、出口王仁三郎が二番だと神様はおっしゃっている。
説法ではお釈迦様が抜群で、妙と玄の体得では老子。現実界を踏まえた人の道のお手本では孔子。
生き死にを乗り越えた宗教的情熱を持った清らかな生き方としてはマホメットがあげられるだろう。
このように歴史上に名を残している人物は、単に素晴らしかったというレベルではない。人間の能力の限界を越え、神なるものと一体になったからこそ、それぞれの分野であれだけの偉業を成し遂げられたのである。
彼らは皆、神人合一の先達である。
しかし、逆に言えばすべて肉体を持つ人間がやったことなのである。ということは、私たちも努力次第で、彼らのレベルに近づくことができるのである。
昔は情報も少なかったし、学問も行き渡っていなかったので、彼らがどのようにして、そうしたレベルに到達したのか知ることは難しかった。
しかし、今は情報が発達しており、さまざまな分野で学問の蓄積もできている。
誰も登ったことのない山に初めて登るのは難しいが、誰かが登ってルートを開発した後は、比較的簡単に登ることができる。
私たちの大先輩が越えてきた山であるからこそ、二度目三度目の私たちは、その気になりさえすれば越えられないはずはない。
しかも簡単明瞭にポイントを押さえて、どのようにすれば大先輩のいいところを全部集めたような神人になれるのかということが出されているのが、ワールドメイトに降ろされた神人合一の道なのである。
だから、講義であろうが、神事であろうが、祈祷会であろうが、すべて実在の神を掌握し、その神を行じていくことなのである。
講義の受け方
この本を手に取って下さった皆さまもご神縁あれば、今後、私の話をお聴きになる機会があるかもしれない。
そこで、少し先取りして、同じ聴くなら得るところの多い、効果的な聴き方をしていただくために、私の講義をどのようにして聴いたらよいのか、講義の受け方と併せて私がどのような講義をするのかも説明しておこうと思う。
まず講義を受ける時は眠らないほうがいい。これは申し上げられる。それから、講義を受けている時は、隣の人とぺちゃくちゃ話さないほうがいい。
これも言えるだろう。しかし、講義を受けながら背中を掻いたり、足をもぞもぞさせたりするのは自由である。
隣の人が何かもぞもぞしていても、どこが痒いのだろうなどと気にしなくてよい。中には気にする人もいるだろうから、人に見えないように掻いていたらいいのである。
ここまでは当たり前のことで、どんなお話を聴くときも、学校の授業を受けるときも同じである。ところが私の講義は普通の講義ではない。
どこでもやっていないようなこと、誰も言っていないようなことをこっそりお教えするのだから、心して講義を受けていただきたい。
一、講義は集団問答
私は時々「神霊問答」というのを行うが、これは、何人もの人に片っ端から連発的に問答をしていき、その人が現在抱えている問題点、心の壁を瞬時に見抜き、解決策を与えていく。
なぜそんなことができるのかというと、私が頭で考えて答えているのではな
いからだ。つまり、神様、守護霊様と直結した状態で問答を行っているのである。だから全く無駄がないのだ。
講義はいわば集団問答のようなものである。その日会場に集まった方々全員の心の状態、問題点を瞬時に解し、どういう順番でどんなお話をすればいいのか、その場で組み立てていくのだ。
私の講義はいつもライブ演奏なのである。
したがって、あらかじめメモを見ることもないし、お話を始める一分前まで何を話すかも考えていない。
それでも瞬時に起承転結を組み立てて横道脱線も踏まえて話しているのである。
だからアンケートを見ても「日頃私が悩んでいた問題の答えが今日全部出ました」とか「今日は体の具合が悪くて行くのをやめようと思っていたのですが、先生の話を聞いて勇気づけられました」というのが大部分だ。
あるいは、「横道に脱線したところがすごく良くって感動しました」などというのもあるが、そうではなくて、その人が抱えている問題に答えるためにわざと脱線してそういう話を盛り込んでいるわけなのだ。
これが頭で組み立てた論理的な講義と徹底的に違うところである。
教材やテキストに沿った講義をする人は、顕在的な頭脳は発達しているかもしれないが、目に見えない叡智、霊覚が開いていないので、頭の講義しかできないのだ。
頭で考えて話すことを頭で考えて聞くだけなら、本を読んだほうがいい。
神人合一の道を唱える以上、私自身が神人合一していなければならないわけで、私の講義も神人合一した講義なのである。
二、魂振りをしながら講義を受けよう!
では神人合一した講義を受けるにはどうしたらいいのか。結論から申し上げると、
「魂振り」をしながら講義を受けることである。「魂振り」とは、魂が揺り起きている状態、御魂が発動している状態にすることである。
この「魂振り」の具体例をあげよう。
ワールドメイトでは、毎年節分から二月末頃までの一番寒い時期に「冬神業」というのを行っている。
この冬神業とは、一年の活動期に入る前の冬の時期に、講義や問答を集中して行うことで、一年間のエネルギーと魂の栄養を受けようというものである。冬の寒い時期が、一番そうした一年分の養分が受け取れる時期だからだ。
かつて、この冬神業の時期に、植松先生のところにお弟子たちが三十日間も毎日集まって神業をした年があった。普通の感覚で言えば、いくら神業といっても、三十日も続けば途中でだれてくるものだ。
ところが、十年以上前から神業を行っている初期の頃からのお弟子は、全然途中でだれることがなく、毎日、目をギラギラさせながら神業を続けているのである。
一方、お弟子になって日の浅い人は、十幾日か過ぎた頃にはボーッとしてくる。目がとろんとして、どんな話をしても反応がない。
そのとき、植松先生が、「それじゃ神様もお喜びにならない。もうあなたたちにご神業するのはやめましょう。深見さん何とかしなさい」とおっしゃった。
そのときに、私はお弟子たちに魂振りの話をしたのである。
私はもとより、十年以上神業を続けているお弟子たちは、三十回神業したら三十回とも冴えている。
二十七、二十八、二十九回を追うにしたがって果てしなく盛り上がり冴え渡っていくのである。その違いは何かというと、本当の魂振りをしているかどうかということなのだ。
自分の感性を常に奮い立たせて、「さあ、今日も素晴らしいご神業をやるぞ!皆が感動し、神様にも喜んでいただき、魂も守護霊様も歓喜するようなご神業をするんだ!」という境地に自分を置くかどうかということなのだ。
寝不足で疲労も極地に達してきて、ご飯ものどに通らないし、霊障もきつい。そんな状態で、また何時間も神業をやるとき、「ああ、もうこんなのなんて…」と思ったら、魂が寝てしまうのだ。
それを無理矢理起こして奮い立たせるのが本当の魂振りである。
魂を奮い立たせるということは、シャンシャンシャンと神社の鈴を鳴らすのと同じことなのだ。
鈴というのは○に「・」が入っていて御魂を表している。これに対してお寺の鐘は、下に穴があいて底が抜けているので、いつも棒で叩かれている。外側からゴーンと鳴らすわけだ。
鈴は中心から音が鳴る。シャンシャンシャンと御魂の鈴を鳴らすことによって、神様がおいでになる。御魂が発動したときに、守護霊様が守り、産土様が守り、いろいろな神様が守って下さって神人合一するのである。
ご神霊のお力、叡智と気力、体力、精神力をいただいて立ち上がれるのである。
このことは、あらゆる神業にあてはまる。講義を受けるときも同じなのだ。だから定例講演に参加して席に座ったら、その時が勝負だ。
皆さんの御魂が奮い立っていれば、それに合った神様が出ていらっしゃるから、私の講義もそれに合ったものになる。
そうしたら、講義を聴いていて、体の奥、魂の奥底にピーンと響く感動が感じられるはずである。
ところが、魂振りをせずに講義を受けた人は、どこか一カ所か二カ所ピンと来るところはあっても、それは私が強引に魂に割って入っていったからである。
講義を聴いていて涙が止まらなくなったとか、感動で体がぶるぶる震えだしたというような体験は得られないだろう。
家庭の事情、経済の事情、仕事の都合、交通機関の難点を乗り越えて、魂を奮い立たせて講義に参加したときには、自分なりに葛藤して苦しんで煮詰めたテーマに対する答えが、必ず講義の中でバーンと示されて、魂の奥に響いていくはずである。
私の講義は耳や頭で聴くものではない。全身全霊、御魂で聴くものなのである。
そうして講義を受けた人は、魂がころりとひっくり返る。観念が破れ、因縁が解消され、運気が上がり、勇気と力が湧いてくる。これが神人合一した講義の神人合一した受け方なのである。
天に通じる祈り方
これは神様にお祈りをするときでも全く同じである。こんなお祈りをする人はいないだろうか。
「神様神様、三ヶ月以内に恋人ができますように。2月末までに五万円お金が都合つきますように。③今度の人事異動で出世か栄転ができますように。④来週の野球大会ではホームランかヒットを3本打てますように。以上四項目、よろしくお願いします」
これは知性で組み立てた頭の中だけのお祈りである。こんなレポート形式のお祈りでは神様が動くはずがない。
神様に通じるためには、御魂を奮い立たせて情感を高め、極めていくことである。情感を高めるためには、レポート形式ではなく、短歌を詠むようなつもりで祈るのがこつだ。
短歌は自分が感動したことや言いたいことを、感情をギュッと凝縮させて詠むものである。例えば、悲しみにもいろいろな悲しみがあって、ただ「悲しい」というだけでは分からない。
どのように悲しいのかということを情感を絞り出すようにして言葉の中に凝縮していく作業なのである。
言葉を煮詰めて煮詰めて、それでもまだ自分の感情を表現しきれないことに苦しみながら、御魂を奮い立たせていく、そんな気持ちで祈りこんでいくのだ。
「神様が弥栄えますように(ますます栄えますように)」「天命をまっとうできますように」「神様のお役に立てますように」
このようなことをお願いするのでも、一ヵ月間、朝一回夜一回お祈りするとして六十回同じセリフを繰り返しながら、どれだけ魂を奮い立たせて祈れるか。
一日目、二日目ぐらいはできるだろう。しかし、三日目、四日目になると同じ言葉を繰り返しても中身がだんだん奮い立たなくなってくる。
十日目くらいから、言葉だけになっていって、先のレポート形式に近づいていく。
けれども、毎日情感を極めて祈り続けなければ神様には通じない。
どうすれば魂が奮い立つようなお祈りを一カ月続けていくことができるのかというと、言葉を工夫しながら祈っていくのである。
魂を奮い立たせるための言葉は、修飾語を増やしていくのがコツである。動詞や形容詞にかかるのが副詞句。
形容詞は名詞を修飾する言葉だが、別にそんな文法にこだわることはない。要するに、どんどん大げさにしていけばいいのだ。
例えば、「良いご神業ができますように」ということを祈るとしよう。
「素の大神様、今回も素晴らしいご神業ができますように」というのが基本だが、これの情感を高めていきたいのである。
まず、「素の大神様」を修飾する言葉を考えてみよう。
「偉大なる素の大神様」とか「森羅万象をおつくりになった大いなる素の大神様」とか、「本日は雨がシトシト降っていて、失恋したばかりの私の心の中も雨がシトシト降っていますが、そんな気持ちを吹き飛ばしてくれるほど偉大な素の大神様」とか、どのような表現でもいいのだ。
次に、「素晴らしいご神業」を修飾してみよう。
例えば、「古今未曾有の」とか「いまだかつて経験したことがないような」とかを付け加えていく。
「涙、涙、涙でしか語ることができないような素晴らしいご神業」とか、工夫すればいろいろ考えられる。
「古今未曾有、歴史上いまだかつてなかった、天照大御神様が感動して真夜中に太陽が輝き出し、金星人や水星人が驚嘆するような素晴らしいご神業でありますように」という具合である。
そして、言葉と同時にイメージを最大限に膨らませていくことだ。金星人や水星人が驚嘆しているイメージ。
皆が喜び、私が喜び、神様が喜んでいるイメージを具体的な映像として浮かび上がらせていく。
これでもか、これでもか、と、無理矢理にでも、最大限、極限まで魂を奮い立たせていくのである。
そうして、どんどん盛り上げていって、最後の「ように」のところを「ようにい!」というように語尾に思いっきり力を入れて、絶叫するような感じで、絞り出す。すると、フワッと魂が浮かび上がってくる。
自分の魂が発動した分だけ、守護霊や守護神、神々様が発動なさる。身の内の神が発動してこそ外の神も動く。祈りの原点はこれなのだ。
正しい祈祷会の受け方
このお祈りの仕方は、すべてに共通する。祈祷会を受けるときでも、よく司会者が、「皆さん、今からお祈りをしてください。」と言うが、その時何を祈るかというと、
「今日も素晴らしいご神業でありますように」をどんどん高めて、魂を奮い立たせていくのだ。
祈祷会に参加するのも神業である。「神業とは何か」などとあまり深く考える必要はない。
私に厳しく言われるのが神業であったり、神霊を実感するのが神業であったり、楽器を奏でていい音だなあと感動するのが神業であったり、みんなで焼肉を食べるのが神業であったり、仕事を通して世の中に役立つことも神業であり、世に役立つ人になるための勉強をするのも神業である。
すなわち、実在の神を掌握し、神を行じて神人合一の人を目指す。そのために必要なあらゆることが神業なのだ。
だから、まずどんなときも、「今日も素晴らしいご神業ができますように」と祈ることから始めるとよいだろう。
どの神様に祈るかというと、素の大神様に祈るのである。「素の神様とは何か」と考えるとまた分からなくなるので、あらゆる次元の最高の神様と思えばよい。すべての神業を大元で司っているのが素の大神様。
だから、「素の大神様、今日も素晴らしいご神業ができますように」と祈る。
祈祷会でもまず最初にこのお祈りをする。その次にそれぞれの祈祷会への願いを祈る。
例えば、目が良くなる祈祷会を受けるときには、「目を治す神様、どうか目が良くなりますように」
やせる祈祷会を受ける場合だったら、「どうかやせますように」というように、そのときの神様のお働きについて具体的に祈ることである。
祈祷会というのは、素の大神様の命令を受けて、それぞれ違う働きの神様、つまり派生応用の神様が行うものなのである。
中心があっての派生。だから、初めにすべての基本となる素の大神様にお祈りをして、次に具体的に動いて下さる神様にお祈りをするのである。
それぞれの神様には、それぞれの働き(担当分野)がある。
例えば、三宝荒神様に、世界平和を祈っても荒神様は頭を抱えてしまう。そういう大きな問題は伊勢の神様や素の大神様に祈るべき問題である。
三宝荒神様はお台所(経済のやりくり)の神様であるが、その働きについては後で詳しく説明する。
派生応用の神様にはそれぞれの得意分野について、なるべく噛み砕いて具体的にお祈りしたらよいだろう。
虚心坦懐の真心を持て
このように祈祷会を一つ受けるにおいても、まずはすべてのことが神業だという原点があって、素の大神様にお願いをする。
そして、個々の具体的な神様にお祈りをするというのが、正しいお祈りの仕方である。
そして、両方のお祈りを通じてどんどん自分の御魂を高揚させていく。
皆の心が極まり、私の心が極まると、神様も極まる。皆さんと私が一つになって、その神霊磁場に、第神霊界から神様の功徳を降ろすというのが祈祷会なのである。
ただし、このとき問題となるのが安念妄執だ。例えば、やせる祈祷会だったら、「やせたい、やせたい。今度こそやせるぞ。絶対にやせてやるんだ」という具合につい気合が入り過ぎてしまう。
目的意識を持つのはいいのだが、それが執念になると欲望の黒雲が心にかかってしまうのだ。いくら魂振りをしても、それ以上に執着の黒雲に覆われていると、どうしても祈祷が効きにくくなる。
そういった受ける側の想念の状態によって、秘儀の結果にも差が出てくるのである。
実際、やせる祈祷会を行ったとき、「やせるぞ、やせるぞ」という妄執が、ぬめぬめとした油のように私の体にまとわりついてきた。
やせる祈祷会とは、ホルモンのバランスと自律神経の働きを調整する神様をお呼びして、何ヶ月か人間の体に宿っていただくとやせる、というメカニズムになっている。
ところが、御魂の周辺に黒雲が漂っていると、せっかく神様に来ていただいても、跳ね返されてしまうのである。神様としても非常に難行苦行を強いられるわけだ。
また、妄念、妄執を持っている人の数が多くなると、大勢の人たちの心の状態が霊界を作ってしまうので、黒雲が立ち込めて神様が降りてこれない場合もある。
その黒雲を消すには「虚心坦懐の真心」が必要になる。つまり、「この祈祷会を受けさせていただくことを感謝いたします。どうかよろしくお願いします」というわだかまりのない素直な心の状態である。
この状態になると、スーッと執着の黒雲が消えていくのだ。虚心坦懐に、「神様の功徳をおしいただく」という気持ちになった時に祈祷会を受けると、魂の奥まで神様が入っていくので、一〇〇%に近い効果が現れる。
私の御魂はいつも奮い立っていて、私の身の内の神はもちろん動いているのだが、私はお取次ぎをさせていただいているだけで、実際に秘儀を行うのはその時おでましいただくご神霊なのである。
秘儀を行う神様、その神様に許可を与える素の大神様を奮い立たせるのは、私にとっても参加なさっている皆さまにとっても共通のテーマであり、神業の一環としてやっているのだということをよく認識していただきたい。
そして、虚心坦懐の心で魂を奮い立たせるということを互いの約束事としていきたいと思う。
あらゆることが神業
すでに何度もお話ししているように、講義を受けるのもお祈りをするのも祈祷会を受けるのも同じことなのである。
虚心坦懐の真心とは、言葉を変えれば、欲得のない奉仕の精神、仕え奉ることに他ならない。
祈祷会を受けて自分の状態が良くなるというのも、神様の御心に合っていてはじめて許されることなのだ。
つまり、素の大神様は、私たちの幸せを真に願ってくださっているのである。
だから、私たちが努力して幸せになっていくことも、神業に他ならない。
私たちの魂は生まれ変わり死に変わりを繰り返しているのだが、それは神様が、私たちに御魂を磨いて向上させていくための機会を与えてくださっているからである。
御魂を向上させて、自分の能力も高め、善なる影響を社会に与えること、それが私たちがこの世に生まれてきた目標なのだ。
何事にあたっても一生懸命努力して御魂を発動させていけば、守護霊様、守護神様をはじめ、さまざまな神霊が動いて私たちを応援してくださる。
お祈りや講義や祈祷会がそうであるように、仕事も学業もすべて同じ原理なのだ。神業とは神様の御心に添う行いのすべてであり、日常のすべてを神様の御心に添うように暮らしていくならば、生きること即ち神業ということになる。
神業奉仕の精神で何でもやっていく、その心がぴたっと決まれば、これは立派なものである。守護霊様や神々様と同じ生き様をする基礎ができたということである。
私も死ぬまでそれを忘れないように生きていきたいと思っている。
